第一章「死神の館」
第二話『焼け落ちた一ページ』
忘れるはずが無い。
赤子のお前を抱きしめた愛しさ。喧嘩をしてしまって悶々とした長い夜。初めて一緒に作った歪なバウムクーヘンの甘ったるい香り。
忘れられない。
病に伏して倒れ込むお前のか細い手。どこかに行ってしまうのではないかと、恐ろしくて眠りにつけない長い夜。
初めて嗅いだ、肉の焼けた匂い。
子供扱いしないでと年相応に拗ねる姿も、オレの菓子を嬉しそうに食べる笑顔も、周りより少し低いからと気にしていた可愛い声も、全部覚えてる。
でも、思い出せない。
初めてお前を抱きしめたあの日の、愛しくあたたかな温度が分からない。どんなにお前の面影を辿っても、触れられるのは虚しい灰色の冷たさだけ。
忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない。
お前の存在証明を、そこに確かにいた温度を。
――オレは忘れてしまったんだ。
あの日から上手く肉が食べられない。
あの焦げ臭く苦い匂いを、オレは今日も誤魔化す。
崩れのひとつもなく形の揃ったバウムクーヘンに生クリーム、チョコレート、キャラメル、蜂蜜、マーガリン。嫌になるほどに甘ったるい魔法をかけて、ぐちゃぐちゃに塗りつぶす。
後悔なんてなかったんだって。平凡な自分にはこんなことしか出来ないんだって。
逃避に溶けきった視界がひとつまみの塩で濁っていくような、そんな日々だ。
◆◆◆
「あれは?」
「あちらは雑貨屋です。店主の寝起きが悪いらしく、開店時間で賭けをすることが流行っていますよ」
「あそこは?」
「そちらは文具店ですね。かの有名な画家のキールも通い詰めているとの噂ですが、まだ誰も出会ったことが無いんです」
「あれは⁉︎」
「あれはですね……」
揃った歩幅でカロンとテオフィールは街を歩く。クラウンベリーの店に向かいながら、二人は世間話から脱線して、街に並ぶ様々な店の話に花を咲かせていた。
「あっそういえば自己紹介が遅れちゃったわね、私はカロンよ!」
はっと思い出したように、カロンは遅れた自己紹介を披露する。そんなカロンにもテオフィールは優しく微笑んで、カロンの名前を大切に繰り返してくれた。
「カロンさん、ですね。お菓子みたいで何度でも呼びたくなってしまうお名前だ。素敵です」
カロンが自己紹介を遅れてしまった理由の一つでもあるが、テオフィールは職柄もあってか会話が流暢だった。カロンの何気ない一言に、綺麗な花束をお返ししてくれるような、そんな会話をしてくれる。そのお陰か、おしゃべり好きなカロンはますます口が回ってしまうのだ。
「ねぇねぇ、貴方のこと テオ って呼んでもいいかしら?」
名案じゃない? とにっこり笑顔なカロンの突飛推しもない提案であるが、テオフィールは動じる様子もなくふわりと大きな瞳を細めた。
「はい、お好きに呼んでください」
「まぁ嬉しい! ありがとう、テオ!」
フレンドリーなカロンに柔軟なテオフィール。どうやら相性はばっちりのようだった。
「シュテルンタウンには沢山お店があるし、色んな人がいてとっても楽しいわね!」
「そうですね。幾多の国の文化を取り揃えているところが、この街の美点なんです」
テオフィールはポケットから、丁寧に折り畳まれた紙を片手で器用に開けた。ちなみにもう一方の手には、カロンのトランクケースが握られている。重いだろうから、と声を掛けてくれた彼の紳士的な対応に、さほど遠慮のないカロンは喜んでお任せした。
テオフィールはカロンに見えやすいよう中央に寄せると、二人は世界地図と記されたそれを覗いた。
「ここ シュテルンタウン は他の四つの国に囲まれた、中央に位置する国です。星の都とも呼ばれますね」
長くしなやかな指先がこの国「シュテルンタウン」を指す。星のエンブレムが描かれているのを見て、店や家のそこかしこに星のマークがあったなぁとカロンは思い出す。そういえばテオフィールから貰った名刺にも全く同じものが記されていた。
「そしてシュテルンタウンから見て東にあるのは、春の都こと「シェーンハイト」です。穏やかなところで、桜という花をエンブレムに持ちます」
「桜?」
またまた初めての単語にカロンは言葉を聞き返す。テオフィールは静かに思索にふけていたが、カロンに目が留まると何か得心がいったようにゆるりと微笑んだ。
「カロンさんの髪色とよく似た、綺麗な色の花ですよ」
「私の髪とそっくり……!」
毛先が内巻きになっている自分の髪先をくるくると遊ばせながら、まだ見ぬ桜に想いを馳せた。見目麗しい彼が綺麗という言葉を選んで形容した花なら、想像を絶する美しさなのだろう。
「機会があれば見に行きたいわ。欲を言えば貴方と!」
「私はこの国の案内人ですので、残念ながら難しいお話になりますね……」
「ならお仕事としてじゃなくて、お休みの日にでも一緒に遊びに行きましょ!」
いつ空いてる? とあまりの行動力を見せつけるカロン。今日が初対面とは思えない彼女のコミュニケーション能力に、案内人のテオフィールも驚かせられる。ひとまず上司に話を聞いてから、ということで話は収まった。
「お話を戻しますが……西には秋の都「チェルクバルト」、南には夏の都「レイベクト」、北には冬の都「ハリシュクロート」とこの世界は五つの国に分かれていますね」
ご存知でしょうけれど、と付け加える。だが、カロンは然も知らない話を聞くかのように「うんうん」と頷きながら瞳を輝かせていた。どこか子供らしい彼女の反応を見て、テオフィールはそのまま会話を続けることにした。
「爽やかな気候に紅葉のエンブレムを持つ秋には多くの芸術家が集っています。画家のキールもここ出身なんです」
ガイド用のパンフレットを広げてカロンに見せる。秋のコーナーには、キールの絵画がいくつか載っていた。
「まぁ素敵! 自信と愛に満ち溢れていて……キールさんはきっと、自分の生み出す作品も、自分のことも大好きなのね」
キールの絵を見てカロンは口元を綻ばせる。ぐちゃぐちゃでなにを描いているのかよく分からないものや、洗練された線取りと色使いで構成された背景画など、キールの絵には一貫性がまるで感じられない。テオフィールにとっては、こういう画家が秋の国にはいる、ただそれだけの認識であった。けれど、カロンはキールの絵を見るなり食い気味に眺めている。酷く気に入ったようだった。
「よろしければ、どうぞ」
テオフィールは控えめになにかを渡す。カロンは首を傾けながらそれを受け取り確認すると、どうやらポストカードのようだ。パンフレットに載っていた絵画が綺麗に印刷されており、カロンはわぁっと声をあげる。
「同僚がくれたのですが、被っているものもあったので……お荷物にならなければ、旅の記念のプレゼントとして受け取っていただけますか?」
「えぇ、えぇ! ぜひ頂くわ! ポストカードになるとこんな感じなのね、間近で細かいところも見られてより絵のことが分かるわ。とっても嬉しい! ありがとう、テオ」
いつだってカロンは笑顔だが、今日一と言っても過言ではないくらいの満点スマイルをテオフィールに贈った。ほっとしたようにテオフィールも小さな笑顔を返す。
「これってお揃い……?」
「そうなりますね。そちらの絵は私も手帳に挟んでいます」
「まぁ! 私ね、お揃いって大好きなの。このポストカードを見るたびに、貴方と過ごしたこの時間を思い出せるもの」
テオフィールからのささやかなプレゼントを、カロンは大事に見つめる。クラウンベリーの店に着いたら自分も日記帳に挟んでおこうと、楽しみがまた一つ増えた。
その後もテオフィールは各国について分かりやすく説明してくれた。
太陽をシンボルに持つ夏の都「レイベクト」では毎夜開催される盛大なお祭りがあって、大きな闘技場では格闘家たちのバトルロワイヤルが行われているとか、反対に聳え立つ雪の結晶をシンボルに持つ冬の都「ハリシュクロート」には大人気アイドルがいて、チケットの狭奪戦は波乱を巻き起こしているなど、旅人であるカロンの好奇心を沸き立たせるような話題ばかりだった。
「そういえば、カロンさんはどこからお越しになさったのですか?」
地図をさらりと確認しながら、テオフィールはカロンに問いかけた。カロンは自分の瞳とよく似た淡い空を映して、何かを思い出すようにご機嫌な声を弾ませる。
「シェーンハイトのずっと田舎の方よ。師匠の家に住まわせてもらっていたの」
「春の都ですか。田舎となると、遠いところから遥々大変だったでしょう」
「そんなことなかったわよ。舟でずーっとワクワクしてたもの! シュテルンタウンに来るのは初めてだったから」
カロンはシュテルンタウンへ着くまでに感じたあの高揚感を振り返る。荷造りをしていた時から既に興奮が覚めなかった。いざ舟に乗ってしまえばあっという間で、カロンにとって全てが夢のような時間だったけれど。
「初めてのこの街を案内できるお役目を頂けた私は幸せ者ですね。ここだけではなく、他の国にも是非訪れて欲しかったです」
「えぇ! 色んなところを巡りたいと思っているのだけれど..……」
訪れて欲しかった。
言い回しに疑問を感じたカロンは、テオフィールの表情を窺う。こちらと視線の合わない彼の美しい林檎の瞳に、傷がついているような、そんな気がした。鮮やかで爽やかな果実は今にも腐ってしまいそうで。ふとカロンは周囲の人々に視線を向ける。
「……あれ……」
華やかに色付いた街の景色が、ゆっくりとモノクロに染まっていく。街ゆく人々は皆どこか疲弊しているようで、先程のテオフィールと同じように表情を曇らせる者ばかりだった。おぼつく足取りで道を歩く男性、小さな我が子の手を痛ましく引っ張る母親、ぼそぼそと聞こえない独り言を呟く老爺。
夢でも、見ていたのだろうか。カロンは目の前の景色を疑う。いや、違う。カロンは気づかなかっただけだ。それは彼女が初めてこの街に訪れたからであった。
「ねぇテオ、みんなとても苦しそう……一体どうしてなのかしら」
自分を横切っていく住民の一人一人に目を走らせながら、カロンは純粋な疑問を零す。だってこんなに綺麗で楽しい街なのに、相反して皆の空気はどんよりと暗い。
「なにかあったの……?」
先程から口を閉ざしているテオフィールに、カロンは答えを求めるように質問する。カロンの声に反応したようで、テオフィールはこちらと目を合わせる。だが、彼の瞳はぐらりと何故か動揺しているようにも思えた。静かに息を飲み込んで、テオフィールは小さな口を重苦しく開く。
「なにも、知らないんですか」
ゴーンゴーン
時が止まったかのような世界に、時計塔から午前十二時を知らせる鐘声が響き渡る。この音はきっと、街の人々の悲鳴となんら変わりなかった。
「それってどういう……」
悲鳴の理由を知りたくて、知らなければならなくて、カロンは尋ねようとした。
「おいそこのピンクのコック! どけ!」
近くから誰かの焦ったような叫び声が聞こえて、カロンは海に沈んだ意識を現実に引き戻す。その声が自分に向けられたものだと気づいて振り返ると、全速力で街中を駆け抜ける青年がまっすぐとこちらに近づいてきていた。ほんのりと香る火の気に、もしかしたら火事でも起きているのか、とカロンは不安が徐々に広がって、走ってくる青年の方へと近づいていく。
「なっ! だからどけって……っ!」
「ねぇ! 火事でも起きているの? もしそうなら早く助けに行かないと……!」
「何言ってんだおま……っ危ない!」
青年は後ろを横目で確認すると、急ぐようにしてカロンのところまでやってきているようだった。ライムイエローの髪が風で揺れて、つり上がった瞳は葡萄色だったのだなと近くにいる彼を見て認識する。青年は息をあがらせながら、カロンを何かから守るように大きく抱えしゃがみ込んだ。
「……?」
だが青年の予期していたことは起こらず、ぎゅっと瞑っていた目を訝しげに開けると、カロンを抱きしめる力を少々緩めた。青年とカロンは目の前に立つ人物の後ろ姿をあんぐりと見上げる。
「こんな街中で攻撃魔法を使うなんて、信じられませんね」
爽やかな音が普段より低い。掠れた声をより深めて防衛魔法を解くと、テオフィールは帽子のツバをあげて敵対心を視線の先に突き刺した。
「フン、なんてお粗末な防衛魔法なんだ。ほら! まるで意味を成していないじゃないか」
白煙の中から空中に浮かぶ影が姿を現す。綿毛のようにふんわりした水色の髪に、左右異なった瑠璃と柘榴の瞳。少女のように小柄だが、少年のように若く低い声。カラフルな箒に仁王立ちで浮かぶ人物の頭には小さな魔女帽が乗っかっている。恐らく魔法使いだろうか。
テオフィールに生意気な物言いで煽りながら、ツンと己の左頬を指す。それに釣られてテオフィールは左頬にそっと手を添える。ちくりとした痛みを感じて手元を見ると、鮮明な赤が見えた。
「女みたいに綺麗な顔が台無しだね、良い気味だ」
頬に傷のついたテオフィールをニヤリと見下す。どこまでも態度の大きい子供のような人物に、テオフィールは落ち着いてただ一つ、消えそうなため息を零すだけだった。そのテオフィールの言動が癪に触ったのか、魔法使いは小杖をピシッと向ける。
「馬鹿はさっさとお退き。用があるのは後ろの金髪小僧だ」
「……はぁ」
また一つため息。どこかうんざりしたようにテオフィールは頬の血を拭って、けれどその場を退かなかった。見下しているのは魔法使いのはずなのに、まるでテオフィールが魔法使いを見下しているようで。
「案内人がただのガイドだと思っていらっしゃるのなら大間違いです」
「へぇ、魔法も拙い馬鹿な君に何が出来るっていうんだい?」
「今に分かるでしょう。馬鹿は貴方です、魔法使い」
「……ハァ⁉︎」
「……おい、これ止めるべきじゃね……?」
あわあわと大口を開けて八重歯を目立たせる青年は、カロンの隣で一人静かに焦っていた。
◆◆◆
甘ったるい香りが部屋を支配している。香ばしいバタークッキー、オレンジピールのパウンドケーキ、とろけるカラメルプリン。色とりどりの砂糖たちはただ一人、目の前の人物を見つめている。それらに愛情深い視線を送り返す人物は、うっとりするような甘酸っぱいクランベリーを纏わせて、若紫色の三つ編みを優雅に揺らした。フィナーレに小さなさくらんぼをそっとプリンに乗せてやると、完成した可愛らしい姿にジト目を細める。
「よっ! ただいまベリー、頼まれたの買ってきたぜ」
「ありがとうマナ。助かったわ」
CLOSEと書かれた看板の吊りかかる扉が開かれ、外の澄んだ空気が甘い香りを中和する。
マナと呼ばれた男 マナロイヤ は、袋をこのスイーツ店の主であるベリーこと クラウンベリー にほらよと差し出す。丁寧に感謝を欠かさないクラウンベリーの姿勢がお気に入りで、魔女帽に飾られる宝石たちに劣らない整いすぎた顔に、無邪気な笑みを浮かべる。
「ガーランドにクラッカーって、ベリーが絶対買わなさそうなのに。弟子ちゃんにはとことん甘いよな」
俺にはこういうのやってくんねぇんだ〜と冗談まじりにいじけるマナロイヤに、クラウンベリーはハイハイと適当に促して着々と用意を進める。
なんてったって、今日は可愛い可愛い一番弟子がこの国にやってくるのだから、彼女が喜びそうなことはなんだって用意してやりたいのだ。机に並んだお手製のスイーツたちの行き先も、弟子の胃袋行きだと既に決まっている。一口駄目? と強請る親友にも、ただにこりと圧を添えて上品に微笑むだけだ。
「弟子ちゃんと会うのは何年振りなんだっけ?」
「三年振りよ。本当に久々……あの子大丈夫かしら。明るいのは良いことだけれど、計画性がなかったり楽観的すぎるところもあるし……」
「おーい戻ってこーい。そんな心配すんなって、お前の自慢の弟子なんだろ?」
な? と心配そうなクラウンベリーを覗き込んで、マナロイヤは綺麗に切り揃えられた前下がりの茶髪をさらりと傾ける。妙に安心感のある彼の紅玉色の瞳を見つめて、クラウンベリーは納得したように一息をつく。
「そうね、過保護なんて以ての外だもの」
「そうだぜ。かわいい子には旅をさせよ! ってやつだ」
くるりと楽しそうにバイオレットのケープコートを踊らせながら、マナロイヤは部屋の装飾に取り掛かる。彼の芯のある気楽さがクラウンベリーには丁度良くて、先ほどの杞憂も忘れてスイーツたちを運び出すことにした。ゆらゆらと嬉しそうに動くプリンとクラウンベリーは、きっと同じ気持ちに違いない。
「可愛い僕のカロン。急がなくて構わないけれど、出来るだけ早くいらっしゃい」
スイーツが冷めてしまう前にね。そう小さく愛を囁いて、クラウンベリーは愛しい弟子を思い浮かべた。
忘れるはずが無い。
赤子のお前を抱きしめた愛しさ。喧嘩をしてしまって悶々とした長い夜。初めて一緒に作った歪なバウムクーヘンの甘ったるい香り。
忘れられない。
病に伏して倒れ込むお前のか細い手。どこかに行ってしまうのではないかと、恐ろしくて眠りにつけない長い夜。
初めて嗅いだ、肉の焼けた匂い。
子供扱いしないでと年相応に拗ねる姿も、オレの菓子を嬉しそうに食べる笑顔も、周りより少し低いからと気にしていた可愛い声も、全部覚えてる。
でも、思い出せない。
初めてお前を抱きしめたあの日の、愛しくあたたかな温度が分からない。どんなにお前の面影を辿っても、触れられるのは虚しい灰色の冷たさだけ。
忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない。
お前の存在証明を、そこに確かにいた温度を。
――オレは忘れてしまったんだ。
あの日から上手く肉が食べられない。
あの焦げ臭く苦い匂いを、オレは今日も誤魔化す。
崩れのひとつもなく形の揃ったバウムクーヘンに生クリーム、チョコレート、キャラメル、蜂蜜、マーガリン。嫌になるほどに甘ったるい魔法をかけて、ぐちゃぐちゃに塗りつぶす。
後悔なんてなかったんだって。平凡な自分にはこんなことしか出来ないんだって。
逃避に溶けきった視界がひとつまみの塩で濁っていくような、そんな日々だ。
◆◆◆
「あれは?」
「あちらは雑貨屋です。店主の寝起きが悪いらしく、開店時間で賭けをすることが流行っていますよ」
「あそこは?」
「そちらは文具店ですね。かの有名な画家のキールも通い詰めているとの噂ですが、まだ誰も出会ったことが無いんです」
「あれは⁉︎」
「あれはですね……」
揃った歩幅でカロンとテオフィールは街を歩く。クラウンベリーの店に向かいながら、二人は世間話から脱線して、街に並ぶ様々な店の話に花を咲かせていた。
「あっそういえば自己紹介が遅れちゃったわね、私はカロンよ!」
はっと思い出したように、カロンは遅れた自己紹介を披露する。そんなカロンにもテオフィールは優しく微笑んで、カロンの名前を大切に繰り返してくれた。
「カロンさん、ですね。お菓子みたいで何度でも呼びたくなってしまうお名前だ。素敵です」
カロンが自己紹介を遅れてしまった理由の一つでもあるが、テオフィールは職柄もあってか会話が流暢だった。カロンの何気ない一言に、綺麗な花束をお返ししてくれるような、そんな会話をしてくれる。そのお陰か、おしゃべり好きなカロンはますます口が回ってしまうのだ。
「ねぇねぇ、貴方のこと テオ って呼んでもいいかしら?」
名案じゃない? とにっこり笑顔なカロンの突飛推しもない提案であるが、テオフィールは動じる様子もなくふわりと大きな瞳を細めた。
「はい、お好きに呼んでください」
「まぁ嬉しい! ありがとう、テオ!」
フレンドリーなカロンに柔軟なテオフィール。どうやら相性はばっちりのようだった。
「シュテルンタウンには沢山お店があるし、色んな人がいてとっても楽しいわね!」
「そうですね。幾多の国の文化を取り揃えているところが、この街の美点なんです」
テオフィールはポケットから、丁寧に折り畳まれた紙を片手で器用に開けた。ちなみにもう一方の手には、カロンのトランクケースが握られている。重いだろうから、と声を掛けてくれた彼の紳士的な対応に、さほど遠慮のないカロンは喜んでお任せした。
テオフィールはカロンに見えやすいよう中央に寄せると、二人は世界地図と記されたそれを覗いた。
「ここ シュテルンタウン は他の四つの国に囲まれた、中央に位置する国です。星の都とも呼ばれますね」
長くしなやかな指先がこの国「シュテルンタウン」を指す。星のエンブレムが描かれているのを見て、店や家のそこかしこに星のマークがあったなぁとカロンは思い出す。そういえばテオフィールから貰った名刺にも全く同じものが記されていた。
「そしてシュテルンタウンから見て東にあるのは、春の都こと「シェーンハイト」です。穏やかなところで、桜という花をエンブレムに持ちます」
「桜?」
またまた初めての単語にカロンは言葉を聞き返す。テオフィールは静かに思索にふけていたが、カロンに目が留まると何か得心がいったようにゆるりと微笑んだ。
「カロンさんの髪色とよく似た、綺麗な色の花ですよ」
「私の髪とそっくり……!」
毛先が内巻きになっている自分の髪先をくるくると遊ばせながら、まだ見ぬ桜に想いを馳せた。見目麗しい彼が綺麗という言葉を選んで形容した花なら、想像を絶する美しさなのだろう。
「機会があれば見に行きたいわ。欲を言えば貴方と!」
「私はこの国の案内人ですので、残念ながら難しいお話になりますね……」
「ならお仕事としてじゃなくて、お休みの日にでも一緒に遊びに行きましょ!」
いつ空いてる? とあまりの行動力を見せつけるカロン。今日が初対面とは思えない彼女のコミュニケーション能力に、案内人のテオフィールも驚かせられる。ひとまず上司に話を聞いてから、ということで話は収まった。
「お話を戻しますが……西には秋の都「チェルクバルト」、南には夏の都「レイベクト」、北には冬の都「ハリシュクロート」とこの世界は五つの国に分かれていますね」
ご存知でしょうけれど、と付け加える。だが、カロンは然も知らない話を聞くかのように「うんうん」と頷きながら瞳を輝かせていた。どこか子供らしい彼女の反応を見て、テオフィールはそのまま会話を続けることにした。
「爽やかな気候に紅葉のエンブレムを持つ秋には多くの芸術家が集っています。画家のキールもここ出身なんです」
ガイド用のパンフレットを広げてカロンに見せる。秋のコーナーには、キールの絵画がいくつか載っていた。
「まぁ素敵! 自信と愛に満ち溢れていて……キールさんはきっと、自分の生み出す作品も、自分のことも大好きなのね」
キールの絵を見てカロンは口元を綻ばせる。ぐちゃぐちゃでなにを描いているのかよく分からないものや、洗練された線取りと色使いで構成された背景画など、キールの絵には一貫性がまるで感じられない。テオフィールにとっては、こういう画家が秋の国にはいる、ただそれだけの認識であった。けれど、カロンはキールの絵を見るなり食い気味に眺めている。酷く気に入ったようだった。
「よろしければ、どうぞ」
テオフィールは控えめになにかを渡す。カロンは首を傾けながらそれを受け取り確認すると、どうやらポストカードのようだ。パンフレットに載っていた絵画が綺麗に印刷されており、カロンはわぁっと声をあげる。
「同僚がくれたのですが、被っているものもあったので……お荷物にならなければ、旅の記念のプレゼントとして受け取っていただけますか?」
「えぇ、えぇ! ぜひ頂くわ! ポストカードになるとこんな感じなのね、間近で細かいところも見られてより絵のことが分かるわ。とっても嬉しい! ありがとう、テオ」
いつだってカロンは笑顔だが、今日一と言っても過言ではないくらいの満点スマイルをテオフィールに贈った。ほっとしたようにテオフィールも小さな笑顔を返す。
「これってお揃い……?」
「そうなりますね。そちらの絵は私も手帳に挟んでいます」
「まぁ! 私ね、お揃いって大好きなの。このポストカードを見るたびに、貴方と過ごしたこの時間を思い出せるもの」
テオフィールからのささやかなプレゼントを、カロンは大事に見つめる。クラウンベリーの店に着いたら自分も日記帳に挟んでおこうと、楽しみがまた一つ増えた。
その後もテオフィールは各国について分かりやすく説明してくれた。
太陽をシンボルに持つ夏の都「レイベクト」では毎夜開催される盛大なお祭りがあって、大きな闘技場では格闘家たちのバトルロワイヤルが行われているとか、反対に聳え立つ雪の結晶をシンボルに持つ冬の都「ハリシュクロート」には大人気アイドルがいて、チケットの狭奪戦は波乱を巻き起こしているなど、旅人であるカロンの好奇心を沸き立たせるような話題ばかりだった。
「そういえば、カロンさんはどこからお越しになさったのですか?」
地図をさらりと確認しながら、テオフィールはカロンに問いかけた。カロンは自分の瞳とよく似た淡い空を映して、何かを思い出すようにご機嫌な声を弾ませる。
「シェーンハイトのずっと田舎の方よ。師匠の家に住まわせてもらっていたの」
「春の都ですか。田舎となると、遠いところから遥々大変だったでしょう」
「そんなことなかったわよ。舟でずーっとワクワクしてたもの! シュテルンタウンに来るのは初めてだったから」
カロンはシュテルンタウンへ着くまでに感じたあの高揚感を振り返る。荷造りをしていた時から既に興奮が覚めなかった。いざ舟に乗ってしまえばあっという間で、カロンにとって全てが夢のような時間だったけれど。
「初めてのこの街を案内できるお役目を頂けた私は幸せ者ですね。ここだけではなく、他の国にも是非訪れて欲しかったです」
「えぇ! 色んなところを巡りたいと思っているのだけれど..……」
訪れて欲しかった。
言い回しに疑問を感じたカロンは、テオフィールの表情を窺う。こちらと視線の合わない彼の美しい林檎の瞳に、傷がついているような、そんな気がした。鮮やかで爽やかな果実は今にも腐ってしまいそうで。ふとカロンは周囲の人々に視線を向ける。
「……あれ……」
華やかに色付いた街の景色が、ゆっくりとモノクロに染まっていく。街ゆく人々は皆どこか疲弊しているようで、先程のテオフィールと同じように表情を曇らせる者ばかりだった。おぼつく足取りで道を歩く男性、小さな我が子の手を痛ましく引っ張る母親、ぼそぼそと聞こえない独り言を呟く老爺。
夢でも、見ていたのだろうか。カロンは目の前の景色を疑う。いや、違う。カロンは気づかなかっただけだ。それは彼女が初めてこの街に訪れたからであった。
「ねぇテオ、みんなとても苦しそう……一体どうしてなのかしら」
自分を横切っていく住民の一人一人に目を走らせながら、カロンは純粋な疑問を零す。だってこんなに綺麗で楽しい街なのに、相反して皆の空気はどんよりと暗い。
「なにかあったの……?」
先程から口を閉ざしているテオフィールに、カロンは答えを求めるように質問する。カロンの声に反応したようで、テオフィールはこちらと目を合わせる。だが、彼の瞳はぐらりと何故か動揺しているようにも思えた。静かに息を飲み込んで、テオフィールは小さな口を重苦しく開く。
「なにも、知らないんですか」
ゴーンゴーン
時が止まったかのような世界に、時計塔から午前十二時を知らせる鐘声が響き渡る。この音はきっと、街の人々の悲鳴となんら変わりなかった。
「それってどういう……」
悲鳴の理由を知りたくて、知らなければならなくて、カロンは尋ねようとした。
「おいそこのピンクのコック! どけ!」
近くから誰かの焦ったような叫び声が聞こえて、カロンは海に沈んだ意識を現実に引き戻す。その声が自分に向けられたものだと気づいて振り返ると、全速力で街中を駆け抜ける青年がまっすぐとこちらに近づいてきていた。ほんのりと香る火の気に、もしかしたら火事でも起きているのか、とカロンは不安が徐々に広がって、走ってくる青年の方へと近づいていく。
「なっ! だからどけって……っ!」
「ねぇ! 火事でも起きているの? もしそうなら早く助けに行かないと……!」
「何言ってんだおま……っ危ない!」
青年は後ろを横目で確認すると、急ぐようにしてカロンのところまでやってきているようだった。ライムイエローの髪が風で揺れて、つり上がった瞳は葡萄色だったのだなと近くにいる彼を見て認識する。青年は息をあがらせながら、カロンを何かから守るように大きく抱えしゃがみ込んだ。
「……?」
だが青年の予期していたことは起こらず、ぎゅっと瞑っていた目を訝しげに開けると、カロンを抱きしめる力を少々緩めた。青年とカロンは目の前に立つ人物の後ろ姿をあんぐりと見上げる。
「こんな街中で攻撃魔法を使うなんて、信じられませんね」
爽やかな音が普段より低い。掠れた声をより深めて防衛魔法を解くと、テオフィールは帽子のツバをあげて敵対心を視線の先に突き刺した。
「フン、なんてお粗末な防衛魔法なんだ。ほら! まるで意味を成していないじゃないか」
白煙の中から空中に浮かぶ影が姿を現す。綿毛のようにふんわりした水色の髪に、左右異なった瑠璃と柘榴の瞳。少女のように小柄だが、少年のように若く低い声。カラフルな箒に仁王立ちで浮かぶ人物の頭には小さな魔女帽が乗っかっている。恐らく魔法使いだろうか。
テオフィールに生意気な物言いで煽りながら、ツンと己の左頬を指す。それに釣られてテオフィールは左頬にそっと手を添える。ちくりとした痛みを感じて手元を見ると、鮮明な赤が見えた。
「女みたいに綺麗な顔が台無しだね、良い気味だ」
頬に傷のついたテオフィールをニヤリと見下す。どこまでも態度の大きい子供のような人物に、テオフィールは落ち着いてただ一つ、消えそうなため息を零すだけだった。そのテオフィールの言動が癪に触ったのか、魔法使いは小杖をピシッと向ける。
「馬鹿はさっさとお退き。用があるのは後ろの金髪小僧だ」
「……はぁ」
また一つため息。どこかうんざりしたようにテオフィールは頬の血を拭って、けれどその場を退かなかった。見下しているのは魔法使いのはずなのに、まるでテオフィールが魔法使いを見下しているようで。
「案内人がただのガイドだと思っていらっしゃるのなら大間違いです」
「へぇ、魔法も拙い馬鹿な君に何が出来るっていうんだい?」
「今に分かるでしょう。馬鹿は貴方です、魔法使い」
「……ハァ⁉︎」
「……おい、これ止めるべきじゃね……?」
あわあわと大口を開けて八重歯を目立たせる青年は、カロンの隣で一人静かに焦っていた。
◆◆◆
甘ったるい香りが部屋を支配している。香ばしいバタークッキー、オレンジピールのパウンドケーキ、とろけるカラメルプリン。色とりどりの砂糖たちはただ一人、目の前の人物を見つめている。それらに愛情深い視線を送り返す人物は、うっとりするような甘酸っぱいクランベリーを纏わせて、若紫色の三つ編みを優雅に揺らした。フィナーレに小さなさくらんぼをそっとプリンに乗せてやると、完成した可愛らしい姿にジト目を細める。
「よっ! ただいまベリー、頼まれたの買ってきたぜ」
「ありがとうマナ。助かったわ」
CLOSEと書かれた看板の吊りかかる扉が開かれ、外の澄んだ空気が甘い香りを中和する。
マナと呼ばれた男 マナロイヤ は、袋をこのスイーツ店の主であるベリーこと クラウンベリー にほらよと差し出す。丁寧に感謝を欠かさないクラウンベリーの姿勢がお気に入りで、魔女帽に飾られる宝石たちに劣らない整いすぎた顔に、無邪気な笑みを浮かべる。
「ガーランドにクラッカーって、ベリーが絶対買わなさそうなのに。弟子ちゃんにはとことん甘いよな」
俺にはこういうのやってくんねぇんだ〜と冗談まじりにいじけるマナロイヤに、クラウンベリーはハイハイと適当に促して着々と用意を進める。
なんてったって、今日は可愛い可愛い一番弟子がこの国にやってくるのだから、彼女が喜びそうなことはなんだって用意してやりたいのだ。机に並んだお手製のスイーツたちの行き先も、弟子の胃袋行きだと既に決まっている。一口駄目? と強請る親友にも、ただにこりと圧を添えて上品に微笑むだけだ。
「弟子ちゃんと会うのは何年振りなんだっけ?」
「三年振りよ。本当に久々……あの子大丈夫かしら。明るいのは良いことだけれど、計画性がなかったり楽観的すぎるところもあるし……」
「おーい戻ってこーい。そんな心配すんなって、お前の自慢の弟子なんだろ?」
な? と心配そうなクラウンベリーを覗き込んで、マナロイヤは綺麗に切り揃えられた前下がりの茶髪をさらりと傾ける。妙に安心感のある彼の紅玉色の瞳を見つめて、クラウンベリーは納得したように一息をつく。
「そうね、過保護なんて以ての外だもの」
「そうだぜ。かわいい子には旅をさせよ! ってやつだ」
くるりと楽しそうにバイオレットのケープコートを踊らせながら、マナロイヤは部屋の装飾に取り掛かる。彼の芯のある気楽さがクラウンベリーには丁度良くて、先ほどの杞憂も忘れてスイーツたちを運び出すことにした。ゆらゆらと嬉しそうに動くプリンとクラウンベリーは、きっと同じ気持ちに違いない。
「可愛い僕のカロン。急がなくて構わないけれど、出来るだけ早くいらっしゃい」
スイーツが冷めてしまう前にね。そう小さく愛を囁いて、クラウンベリーは愛しい弟子を思い浮かべた。