第一章「死神の館」


 素早くボタンに手をかけて軍服を引き締める。拳銃や手榴弾などを収めた重みにも、今では勇気づけられるものとなった。ポッケに包帯と、予備用の包帯が入っていることを確認する。攻撃が襲いかかってきたときのために、瞬時に防御魔法を繰り出せるかを試して、万全な体調に一つ深呼吸を落とす。まだサイズの合わない軍帽をきっちりと被って、少年は先方で待つ仲間たちに汚れた靴を鳴らした。

「この戦いで終止符は打たれる」

 威厳を広げて元帥は声明を出す。最初の頃とは比べ物にならない勇ましい顔つきの兵士たちに、男はベビーピンクの瞳を細めた。

「派手に暴れて来い。貴様らの目の前に生きる者は、全て敵であることを忘れるな。恐れず躊躇わず、私を、そして己を信じろ」

 以上だ、と男は長く重量のあるマントをばさりと翻し、足を踏み出した。それに続いて、皆が列を揃えて進む。少年は胸をきゅっと掴んで、林檎色の目を煌めかせた。


◆◆◆

 
 最後の戦地は、なんの変哲も無い穏やかな村のようなところだった。元帥が大剣を振るい、村一帯を業火の魔法で埋めつくしたのを合図に、兵は突撃していく。先陣を切るジョジュアの背が頼もしく、少年はそれについて行きたい気持ちを少し抱えながら、別方向へと駆け抜けた。この軍でツートップとして役割を果たしているジョジュアと少年は、作戦通りに任務をこなしていく。泣き虫だった**も、生きる希望を失っていた□□も、もういない。この戦いに全てを懸けている。そんな二人の様子を横目で流して、少年は着々とターゲットたちを正確に撃ち抜いていった。

「‪✕‬‪✕‬!」

 掠れた低い声が耳に届いて、少年は振り返る。△△だ。

「ここらは俺らで済ませる、お前は先に奥を頼んだ!」

 △△は華奢な体で攻撃をしかけながら、背中合わせに○○との完璧なコンビネーションを見せる。朗らかなウインクを左目で送る○○と、右手を心臓にとんと当てる△△の信頼の視線を受け取って、少年は防御魔法を纏いながらその場を去った。


 体に、羽が生えたような心地だった。荒れ果てた地をまるで草原のように、軽快な足取りでスキップを踊るみたいに進む。視界に入った生き物が何者かだなんて興味もなく、ただ銃弾をひたすら当てていく。少年は戦場で初めての高揚感に心を酔わされるような感覚を味わう。今の自分に出来ないことはないだなんて思えるくらいに、調子が良かった。だって、この戦いが終われば、家族に会えるのだから!
 ふと、じんわりとあたたかく満ちた橙色が映った。火炎に包まれた大地とは違った、なんだか見知った色だった。その熱に吸い込まれるように、少年はふらりと進む。眩しい光に瞳を重く開けてみた。
 空高く身長を伸ばした大樹からは、新緑の子供たちが生気を無くしてはらはらと焔の海へと落ちていく。ぬるりと生暖かい気流が、見知らぬ道を恰も帰り道のように少年の背を押す。かさついた道に足が達者に浮き上がって、自然と辿り着いたそこは、こじんまりと地味な一軒家だ。ぶわりと煙が覆ってよく見えなかったが、何故だか少年はそこに懐かしさを覚えた。木組みの扉がギィ、と急ぐように開かれて、少年は身構える。こんな所にもまだ生き残りがいたようだ。利き手の右側に銃を寄越して弾を放とうとする。
 はらりと、翼を閃かせて羽ばたく何かが目の前を通る。狙撃の妨げだと少年はそれの翼を木っ端微塵に叩き落とした。地面に散った羽根が、どうしてか悲しいくらいに美しい。はっとして、少年はドアから飛び出してきた敵に銃を向けた。一切合切逃さないように、的確に心の臓を目掛けて。

 バン。バン。

 二つの影がばたりと、己の目の前で崩れ落ちた。あともう少しでも気を取られていれば、殺されていたかもしれない。いつもならしないヘマに、少年は汗を拭った。

「‪✕‬、‪✕‬」

 ぴくりと、小柄な方の生き物が蚊の鳴くような声で名を呼んだ。‪
 ✕‬‪✕‬。人名を愛おしげに呼びかける生き物に、少年は耳を疑った。‪✕‬‪✕‬? 誰のことを、探しているのだろう。


『‪✕‬‪✕‬。貴方の名前はね、ママとパパからの贈り物よ。林檎みたいに愛らしい貴方に、ぴったりだと思ったの』

『おいで‪✕‬‪✕‬。パパがギターの弾き方を教えてあげるよ。お前の為に歌を作ったから、それに合わせてみて』

『あーっこら‪✕‬‪✕‬! 今つまみ食いしたでしょ、食いしん坊め~っ! 本当にゴリラになっちゃっても知らないわよ!』

『‪✕‬‪✕‬が大人になったらどんな子になるのかな。この村を出ても良いし、勿論家業を継いでくれても構わない。お前の好きなことを思う存分楽しんでくれたら、パパたちは幸せだからね』

『‪✕‬‪✕‬』
『‪✕‬‪✕‬』

 私たちの、大切な‪✕‬‪✕‬。


「……あ、あぁ……」

 混濁した記憶が、少年の意識を呼び戻すように、時を遡るように巡っていく。あまりにも詰め込まれた情報量に、頭が壊れそうだった。ぬくもりと慈しみと愛情が、少年に蘇る。
 ‪✕‬‪✕‬。それは、自分の名前だ。初めて貰った、プレゼントだ。それじゃあ、この名を呼んでくれた、目の前の人たちは? 恐る恐る視線を落として、少年は真っ赤に広がった光景を目の当たりにする。
 べちゃりとブーツに血液が染み渡って、小さな蝶々を踏み潰していることに今になって気がつく。いつもなら気にならない感触に、吐き気がした。さらりと己と同じ松葉色を薄汚れさせて力無く倒れ込む男と、潤んだ林檎色の瞳に光を失った女がこちらに手を伸ばそうとして這いつくばっている。

 からん。

 拳銃が、手から滑り落ちた。
 そんな、そんな馬鹿な。呼吸を止めるように口を押さえつけて、整わない息を更に乱した。震える足取りで後退りする少年は、動かない二人の人間から目を離せずに、途切れた言葉を漏らす。

「何をしている?」

 ぶわりと全身に悪寒が走る。がくがくと足を揺らす少年の背後に、赤髪を靡かせてこちらを上から覗く男がいた。

「げ、げんすい」
「ふむ、まだ敵が残っているではないか」
「え、え?」
「ほら、早く銃を構えろ」

 転がっていた銃を拾い、男は少年に手渡す。あ、あ、と慌てふためいて正常に対応できない少年に、男はニヒルに笑った。ふんわりと、少年を後ろから抱きしめるように包む。少年の両手に銃を差し込んで、男は上から大きな手を被せて固定する。

「目の前の生き物は全て敵だと教えただろう?」
「っち、ちがっ、だって、あの人たちは……っ!」

 少年は精一杯抵抗しようとするが、男はその様子を高みの見物かのように傍観している。かちゃり、と銃口が標的を確定させて、少年は我武者羅に体を動かしてどうにか逃れようとした。

「よく見ろ、‪✕‬‪✕‬」

 でろりと甘くて堪らない音が耳に注がれて、少年は命令のままに目線を指令された方角へと向ける。もぞ、と倒れていた内の一人の女がうつ伏せていた顔をこちらに起こす。

 美しい容姿が、紅く汚れて恐ろしい。
 女はぼそぼそと、何かをこちらに呟いていた。

「……に」
「……え?」
 

 ――貴方なんて、帰ってこなければよかったのに。


 ぎろりと、林檎色の瞳が少年を突き刺した。丸く、黒く色付いたそれには、濃く刻まれた怨念がこれでもかと込められている。少年はただ、同じ色の瞳を丸くして立ちすくむしかなかった。ぎりぎりとこちらに傷だらけの体を引きずってやって来る女に、少年はヒュっと喉が裂けるように鳴いた。

「敵が来るぞ、‪✕‬‪✕‬」

 ぎゅっと、手元に力を込められる。わなわなと喚く少年の手を、男は封じ込めるようにして押さえつけた。黒の手袋になぞられる感覚に、背筋が固まる。恐怖と混乱で崩れ落ちそうになる少年を、男は離そうとしない。少年の脳みそに、一つ一つ丁寧に刷り込むように、男は甘く、甘く囁いた。

「撃て、‪✕‬‪✕‬」

 バン。

 まっさらに放り出された思考の中、空っぽな銃声が鳴り響いた。目の前にまで辿りつこうとしてきた女は、こちらに手を伸ばしかけて、その場に生臭い飛沫をあげてゴミのように呆気なく散らばった。その赤が少年の顔に、手に、身体に跳ね返ってこべりつく。苦くて、鉄の味のするそれに、少年は嘔吐を催して嗚咽を出した。へにゃりと腰が抜けて地面に膝をつける少年は、血で埋め尽くされた己の手を見つめる。その背後にぼやけるように、ぐちゃぐちゃと人の形も無くした母親が、段々はっきりと輪郭を描いて視界に映りこんだ。この穢れた手で、自分は、母を、父を。

「‪✕‬‪✕‬」

 ぐいっと、強引に少年の顎を掴んで、男は視線を合わせさせる。少年の実った赤の果実に、絶望色の墨が満遍なく広がっていくのを見て、男はとろけるように口角をニィ、と釣り上げた。

「クク……無様だな。そうだ、私は貴様の瞳がそのように穢れて、歪んでいく様をずっと見たかった」

 口付けでもするかのように、男は自身の瞳を少年の瞳に照らし合わせる。

「初めて出会ったときのあの眼差し……勇気と正義感に溢れた瞳を陥れるのは、さぞかし愉悦だろうと思ったのだ」

 見事、と称賛を唱えて、妖艶な顔を崩さずに、男はバケモノのように微笑んだ。

「だが……貴様の思考に完璧に刷り込ませるには少々時間を食ったがな。まぁ良いだろう、この戦争だって暇潰しに過ぎない」
「……暇つぶしって、どういう……」
「直に分かることだろう。貴様たちの起こした罪は、簡単に赦されるものではないからな」

 理解も追いつかず、ただ呆然と男に語り続けられる少年は、一生懸命に言い渡された数々の言葉を咀嚼しようと試みるが、首根っこを掴むようにこちらを射止める男があまりにもおぞましくて、動くことが出来なかった。いつ殺されても、おかしくない。片手に握られる拳銃にさえ、力が籠らなかった。

「っ‪✕‬‪✕‬さん!!」

 火の粉が舞う中に、盛大な桜吹雪が咲き誇る。桃色の花々を連れて現れたジョジュアが、剣幕を見せて桜の隙間から男に銃口を突きつけた。

「……ジョジュアか」
「今すぐその子を離しなさい」

 これまで見せたこともない、ぎらぎらと差し迫ったように鋭い眼差しを投げつけるジョジュアに、男は少年をその辺に投げ捨てて向き合った。

「貴様は用心深い男だったな。まずこの私を信用していなかった。そして、周りを誰一人として信じようとしなかったな」

 いや、と男は指先を顎に当てて悩む素振りを見せる。ジョジュアを見つめてから、男ははっと鼻で笑い、納得したように頷いた。

「自分を知られて、信頼されるのを恐れていたな」

 くつくつと、男はジョジュアに刃を突き刺した。男の告げたそれに、ジョジュアは微かに黄緑色の瞳を揺らがせる。そんなジョジュアに、男は笑顔を深めた。

「だが、私は貴様のそんなところを好ましく思っていた」

 ふわりと、音もなく男はジョジュアのすぐ側にまで近寄った。一瞬の出来事にジョジュアは動揺したが、すぐさま切り替えて拳銃を握りしめる。だが男もそれを逃すことなく、美しい唇を小さく動かした。

 ――動くな。

 どろりと蜂蜜が溢れるみたいに囁かれて、ジョジュアの手からするりと銃が抜け落ちた。どれだけ動けと身体に伝えてもぴくりともしない。ジョジュアはキッと男を睨みつける。相反して男は、機嫌を良さそうにジョジュアの頬を撫でた。

「高尚で滑稽で愚かな男よ。貴様の名を知れなかったことだけが心残りだ」

 哀れみと蔑みを浮かべて、男はジョジュアの顔をなぞった。するりと、キツく釣った眼球に指が止まる。

「代わりにこれを頂こう」

 春を象徴するかのように、美しく彩られた瞳を。


「……ッッ!!」

 瞼を押さえて、ジョジュアはぐらりとその場にしゃがみ込んだ。目元から流れる血涙は止むことを知らず、ぼとぼとと土に染み込んでいく。瞼の裏にあるはずの、黄緑色がどこにもなかった。空になったそこは、ただただ真っ暗な闇で飲み込まれる。死に物狂いでジョジュアは男を探そうとするが、色も形も分からない視界では無駄なことだった。男はジョジュアの双眼を片手に乗せて、満足げに眺めた。

「さて……貴様らは用済みだな。そこで野垂れ死ぬのを待っているが良い」

 あぁ、それとも……と男は蛇足を付け加えるように提案する。

「逃げ惑うのも選択肢の一つか?」

 ――帰る場所など、何処にもないがな。

 怖気付いて倒れ込む少年に、男は今一度と歩み寄って、血の滲んだ橙色を背負い、大きな瞳孔を広げて見下した。

「罪のない者を皆殺しにした事実が消える日も来なければ、地獄行きも免れない。皆が貴様を、一生呪い続けるだろう」

 少年の心に、どす黒く、穢れきった呪いを埋め込んだ。

「後世に解けない呪いを残していく……私は戦争の本質をこのように解釈している。どうだ、素晴らしいことだろう」

 めらめらと男に纏う炎がこちらを嘲笑うかのように踊った。次第に火は男を包み込み、ぶわりと煙を立てて粛々と消え去る。

「‪✕‬‪✕‬。確かに、頂いたぞ」

 男が去り際にそっと囁いた。煙が薄まってそこを見ても、男の姿は無かった。ただ、悪魔のように高らかな笑い声が、響いて止まなかっただけだった。


「ジョジュアくん、‪✕‬‪✕‬くん!!」

 呼びかけるように叫ぶ声が聞こえて、少年は視線を変えると、掠れた瞳をぎょっと凝らした。ぐったりとして動かず、右腕を失って血を垂れ流す△△の肩をなんとか組みながら、○○が此方へ駆けつけようとしていたのだ。よく○○を見てみると、彼も顔の左半分が剥がれ落ちている。ぐらぐらと重い足を前へ前へと伸ばして、○○は二人のそばまでやってきた。

「!! ジョジュアくん、その目は……」
「平気です、それよりも現状を」

 ジョジュアの具合を察知して心配した○○であったが、ジョジュアはそれを構わずに情報を求めた。○○は静かに頷き、横たわる△△に簡単な治癒魔法を唱えながら、息を浅くして話す。

「敵の増援が多すぎます。それに、見たこともない兵器や魔法をあちらは所持している」

 つまり、此方が圧倒的に劣勢ということだ。○○は爛れた顔を触りながら、痛ましそうに思い出す。

「到底私たちが適う相手でないことは明らかだ……」

 ○○は此処へ来る最中に、他の仲間も引き連れようとしたらしい。だが、出会った仲間の殆どが死体となって周辺に散らばっていたという。もしかしたら今生き残っているのは、自分たちくらいかもしれない、と苦しげに○○は告げた。

「……!! □□くんは、あのお二人は!?」

 はっと○○は慌てたように、少年の友人である二人を探してキョロキョロと首を回す。ごうごうと、元帥である男が盛らせた炎たちがざわめいて、その音だけで皆の心が凍えるようだった。二人は諦めるべきなのか、嫌な考えが過った。

「っ誰かっ誰か助けて!!!」

 悲痛な叫び声が三人に届いた。聞き覚えのあるそれに、少年は無意識に体を飛び起こしていた。声の主の元へ全速力で走り、少年は座り込んで背中を揺らす少年を呼んだ。

「□□!!」
「っ‪✕‬‪✕‬……!!」

 ターコイズブルーの瞳からぼろぼろと海を溢れさせる□□は、少年がやってきたことを把握した途端に、がばっと体を前のめりにして助けを求めた。

「お願い、**を助けて、お願いっ!!」

 □□は、何にも傷つけられないようにと**を抱きしめていた。**に目線を移すと、あまりにも残酷な様に少年は顔を引き攣らせる。ばっさりと、足の付け根から先が欠損していたのだ。**に意識はなく、僅かにしか聞こえない呼吸音に焦りが込み上げる。
 これはもう、駄目かもしれない。
 出血量が比でなかったからだ。両足の全体を失ったとなれば、彼は歩くことも出来ない。この場所から生還するための、脚が無いのだ。意識のない人間を抱えて移動するなんて、自分たちにはきっと不可能だろう。魔力だって残されていない。少年はぐ、と唇を噛み締めた。□□にだって手の施しようのないことは分かっているのだろう。縋り付くように**を抱きしめて、彼の顔を大粒の涙で濡らした。

「コイツ、俺を庇って、こんなことになったんだ」

 突然、見たこともない魔法が二人に襲いかかった。瞬時に防御魔法を出せなかった□□を、**は自分の身も厭わず庇ったという。

「あの時の恩返しが出来たかな、だなんて、コイツ笑ってたんだよ……」

 優しく丸い頬が綻んで、するりと色を無くしていった瞬間を何度も脳内で繰り返す。□□は肩を震わして、声にならない声を出し続けた。

「アンタみたいに優しい奴が死ぬのは、もう嫌だよ……」

 行かないで。逝かないで。もう、俺を置いていかないで。

「俺も一緒に連れてってよ、**……」

 ぎゅっと、**を更に抱きしめて、□□は届かぬ想いをか細く祈る。いつもみたいに、おちゃらけながらも愛嬌の込められた返事が返ってこなくて、□□はひ弱い泣き声を立てるしかなかった。

 世界の、終わりみたいだった。
 痛嘆と、戦慄と、絶望が吹き荒れるこの場所で、少年は生きる気力も何もかも、無惨に打ちのめされて消え去っていた。どうにもならない。夕焼けに描かれた空を隠すように、灰色の煙が雲みたいに泳ぐ。その景色を、濁った林檎色で見つめた。

「‪✕‬‪✕‬さん」

 ぐいっと肩を引き寄せられて、少年は感情を落とした顔つきで振り返った。目元に血で滲んだ包帯を巻いているジョジュアが、少年に話しかける。

「ここから逃げましょう」
「……逃げるって、何処へ?」
「何処までも、です」

 そこが地獄の果てだとしても、逃げ続ける。ジョジュアは男の提示した二つの選択肢のうちの一つを選び取った。共に行こう、と差し伸べられた手を、少年は直ぐに握れない。
 ジョジュアの後ろから、○○が△△を担ぎながら早足で□□たちの元へ駆けて来た。はぁ、と重苦しく呼吸を吐き出すことで手一杯なはずの△△は、○○から離れて**によろよろと近づくと、残った左手に魔力を込めて治癒魔法を発動させる。○○は□□の安否を確認すると、泣き出しそうなのを堪えて優しく抱きしめていた。
 彼らを見て、少年は生き胆を抜かれる。誰も彼も、此処で死ぬ気なんてない。生きて帰ろうと、ただそれだけを考えているのだ。
 少年は再度ジョジュアと向き合う。ジョジュアは少年のことが見えないはずなのに、わざわざ視線を合わせるように腰を曲げて、地面に膝をついて、手を伸ばす。元帥が彼に向けた言葉の意味も、暴かれることなく包まれた彼の両手も、何も分からない。でも、それでも。

「貴方を、信じています、ジョジュアさん」

 彼の春光みたいにあたたかい手が、大好きだった。少年は、ジョジュアの手を強く選び取る。ジョジュアは少年の行動に言葉を呑んで、柔らかく、苦く、微笑んだ。
 少年たちをジョジュアの魔法である桜吹雪がぐん、と包んで、体を浮かせた。皆が花弁たちに囲まれたことを認知すると、ジョジュアは桜を素早く移動させて、そのまま少年たちを連れ出した。所々に広がる血を吸い込んだ桜は、桜桃のように赤く実っている。甘酸っぱい香りが充満して、ジョジュアの背中がより大きなものに感じた。


◆◆◆


 どれだけ、自分たちは逃げて回ったのだろう。何も無い、廃れて乾燥しきった土地を踏みしめる。あれから何日、経ったのか。日付感覚を忘れてはならないとなんとか記憶を掘り起こすが、ぼんやりと揺らぐ意識に掻き消されてしまう。
 ジョジュアの魔法で、遠くまでやって来た。けれど、終着点が見つからない。ただ同じような道を、進んでいる。じゃり、と土踏まずに小石が当たっただけで、ぐわんと足の動きが鈍くなる。水が欲しい、食べ物が欲しい、そんなことを片隅に置きながら、少年たちは痩けた身体で歩いていた。全盲であるジョジュアの手を少年が握り、右腕を失った△△を○○が背負い、両足を無くした**を□□が抱き上げて、一人も欠けないようにと祈るばかりだった。

「……っ! 意識を落とさないで、起きなさい!」

 焦燥を放って、○○が声を上げる。△△から奏でられていた、呼吸音が微かなものになっていた。ひんやりと芯まで冷えるような温度に、○○は臍を噛む思いでどうにかと呼びかけ続ける。△△は、まるで死体のように力無くぶらりと左腕を垂れ下げているというのに、**にかけた治癒魔法を意地でも解こうとしなかった。魔法を使っているだけで、彼は自身の命を削っているというのに。

「もう、もういい。少しだけでも、貴方自身に魔法を……」
「……ざけんな……」

 息も絶え絶えに、△△は○○に反論する。

「俺ら大人が、餓鬼を守れないで、どうすん、だ……」

 がくりと、△△は体重を○○に預けないようにと、踏ん張っていた力が抜けて頭を落とす。完全に、意識を失ってしまった。○○は倉皇として△△の名を叫ぼうとした。
 だが、○○はぴたりと、声を出すことが叶わなかった。愕然と瞳を固めて、○○はこちらにばっと顔を向ける。

「っ名前、彼の名前は……!?」

 どうにかしてしまったのか、と○○は必死に△△を呼ぶための名前を思い出そうとする。だが、彼の顔を見ても、何も浮かび上がらなかった。そしてそれは、周りにいた少年たちも同じことだった。少年は、一人一人の姿を凝視しながら、思考を巡らす。

「……僕は、誰だっけ」

 黒く塗りつぶされていく頭に、少年はだらだらと汗が吹き出る。仲間どころか、己の名前が、分からなかった。


『‪✕‬‪✕‬。確かに、頂いたぞ』


 ふと、元帥である男が発した言葉が、少年を劈く。あの時は理解できなかったその意味に、ようやく気付かされた。

 あの男は、去り際に少年たちの名を奪っていったのだ。

 皆が困惑して顔を青ざめさせる中、ジョジュアだけはどこか唖然として静まっている。少年は、恐る恐る彼の名を呼んだ。

「……ジョジュア、さん」

 すらりと、普段と変わらない、彼の名が口から流れ出る。え、と少年は目を見開いた。どうして、彼の名前だけ、覚えているのだろう。はっとして、少年はまた元帥がジョジュアに差し出した発言を思い返した。名を知れなかったことだけが心残り、確かに男はそう言っていた。視線の合わさることの無いジョジュアを少年は見つめて、ぼそりと声を漏らした。

「偽名だったんですか」

 少年の問いかけに、ジョジュアはまた、何も言えなかった。


「っ誰かがこっちに馬を走らせて来てる!」

 カンっと頭を打たれるように、□□の声が響いた。□□は**を死力を尽くして守ろうと、抱きしめる力を弱めない。

「どの国の奴だ、春、それとも秋?」

 悶々と小言を呟く□□に、少年とジョジュアと○○は目を疑った。

「何を、言ってるの。この軍は、シェーンハイトの人間で構成されてるでしょ」

 春の都生まれの少年は、当然だろうと□□に述べる。元帥は、この国を守るためと言って少年を軍へと引き連れた。つまり、少年が所属していたこの軍は、シェーンハイトの人間のみで組織しているはずなのだ。それなのに、□□は遠方にいる敵に、何故か春をあげた。は、と時が止まったかのように喋る口を鈍らせた□□より先に、○○が口を動かした。

「……私の祖国は秋の都、チェルクバルトです」

 どっと、穏やかな風貌を曇らせて○○は申し出た。

「何故、気づかなかったのでしょう。私たちは、皆それぞれ違った国で生まれていた……」

 まるで洗脳にでもかかったように、軍にいた全員が仲間を同郷だと思い込んでいた。いや、思い込まされていた。話しているうちに、文化の些細な違いなどで気づけたはずの不自然な点に、少年たちは一切、触れることもなかった。ぱちんと魔法が解けたかのように、少年は顔を俯かせた。だって、それはつまり。

「私たちは、国が正式に定めた軍なんかじゃなかったんです」

 無差別に、人々を殺していただけ。

 飲み込むべき事実を言葉にしながら、○○は目元を歪ませた。どっと心臓が、張り裂けるように貫く。ばくばくばくばくと鼓動が身体を痛めつけるみたいに叩いて、少年はばたりとその場に蹲る。するりと離したジョジュアの手は、酷く冷たかった。ジョジュアは離れた少年の手を、再び掴むことは出来ない。その横で、□□は**を抱えながら、口を抑えては嘔吐く。それを宥めるように○○は背を摩り、ほんの少し背中から振動を感じて、瞳を伏せる。△△が楽な体勢になれるようにと、膝枕をしてやりながら会話を続けた。

「本当に、洗脳にでも侵されていたような感覚だった。都合の良い話のように聞こえるかもしれませんが……私は、この感覚が現実逃避だとは思えません」

 そっと、△△の頭を撫でる。

「数年かけて、私たちは自分自身を奪われていったのでしょう」

 戦っている最中に、何度か身に覚えがあった。人を殺して、自然を絶やして、世界を汚していく。そんな残虐非道な行いを善だと信じて、銃を放ち爆薬を投げる己が、どんどん自分で無くなっていく感覚を。

「私たちは、自分という存在を失ったも同然だ」

 切なく、諦めたように○○は笑った。
 罪のない人々を無差別に殺めて、自分の名を失って、帰る場所も無い。少年は、身に染みて知らしめられた。
 自分たちの行き着く先は、途方のない『地獄』しか残されていないのだと。
 ここにいる皆が、それを悟っていた。パタパタと遠くから接近していた馬の足音にも、抵抗する気はない。誰もが、自分は生きていてはならないと、強く思ったからだ。パタリと、馬が目の前にやってきて、少年は諦観したように瞳を閉じた。

 これは罰だ。罪を償うための、裁き。


「おや……なんて酷い怪我なんだ」

 はらりと、白の羽が舞い散るような、そんな空気が肌に伝わる。少年は眩く、瞳を開けた。
 天の羽衣を思わせるアイボリーの髪色がふわりと流れて、幼い顔に飾られたサファイアがきらりと輝いた。立派な白い馬に身を乗せる少年は、空から眺めるようにしてこちらを見つめる。背負っていた弓矢を馬に預けて、ひらりと地面に足を落とした。
 星空のように濃紺のポンチョが優雅に靡いて、まるで天使が世界に舞い降りたみたいだった。耽美な少年が枯れた地につま先を立てた途端、湖に波紋が広がるようにして、その場にふわりと花畑が咲き誇った。真っ白なユリや柊の花が嫋やかに揺れて、少年はそれらを踏まないようにと細い脚をすらりと進める。

「坊やたち、さぞ怖かったろう」

 美しい少年は、座り込む‪✕‬‪‪✕‬の元へ近寄り、膝を曲げて彼を覗き込んだ。濁りを許さないほどに澄んだ空色の瞳があまりにも純粋で、‪✕‬‪✕‬は何故かほろりと両目から雫が漏れ出た。そろそろと降り止まないそれを、少年はこぼれ落ちないように、丸ごと掬ってみせる。

「もう大丈夫だよ、安心おし。よく頑張ったね」

 天使のように優しく微笑んだ彼を見て、‪✕‬‪✕‬は忽ちに体から毒気が抜けていくよう。ぱたり、と瞬く間に意識を失った‪✕‬‪✕‬を、少年は円やかに、ふんわりと包み込んだ。


◆◆◆


 ゆったりと、瞼を起こす。薄汚れて悴んだ己の体に、濃紺のポンチョがふわりと重ねられている。頭にふか、と柔らかな質感を覚えて、‪✕‬‪✕‬は顔を上へと仰いだ。

「おや、起こしてしまったかな」

 低く調子の良い声が降ってきて、‪✕‬‪✕‬はびくっと肩を跳ねさせた。こちらを慈しみの詰まった瞳で覗き込む少年が目に映る。少年は‪✕‬‪✕‬の背をぽんぽんと叩きながら膝枕をしてやっていたようだ。なんだか唐突に羞恥心に駆られた‪✕‬‪✕‬は、大慌てにポンチョを彼に返してはぴょんと兎のように飛び退く。頬をあどけなく染める‪✕‬‪✕‬に、少年は不思議そうに首を傾げた。

「うん、体調も問題無さそうだね」

 良かった、と破顔する少年に、‪✕‬‪✕‬は先程までのしかかっていた身体の痛みや重みがすっかり癒えていることに気がつく。むしろパワーが漲ってくるような、そんな気分だった。周りを見渡すと、仄かに焚き火がそよいでいる。その明かりのそばで、仲間たちが‪横たわっては、安らかに寝息を立てていた。重症を負っていた△△に**も無事だ。‪✕‬‪✕‬は愁眉を開く。

「ご無事、ですか」

 静謐とした声色が‪✕‬‪✕‬によく溶けた。丁寧に処置を施されたように、目元を包帯で覆ったジョジュアが‪✕‬‪✕‬の居場所を探るように手をあちらこちらへと動かす。‪✕‬‪✕‬は彼のそばにまでそそくさと駆けつけて、きゅっと手を握った。

「僕はここです。無事ですよ、ジョジュアさん」

 ‪✕‬‪✕‬の返答を聞いて、ジョジュアは漫ろとしていた様子を落ち着かせた。握り返せない指先を苦慮するように眺めるジョジュアを、‪✕‬‪✕‬は彼の分まで小さな手を広げて包む。そんな二人を、少年は見守っていた。

「! あ、あの! 助けていただいて、本当にありがとうございました」
「そんなに畏まらないでおくれ。えぇと……」

 ‪✕‬‪✕‬の名を聞こうと、少年は問いかける。はっと、‪✕‬‪✕‬は瞳を白黒とさせた。

「え、えっと……その……」

 少年の期待に添えない回答しか出来ずに、‪✕‬‪✕‬はぐっと手で片腕を組むように掴んだ。奪われてしまった名前は、未だ思い出せないままだ。

「……いいや、こちらこそ悪いことをしたね」

 哀傷を向けた‪✕‬‪✕‬に、少年は無理に詮索しようとはしなかった。

「あ、貴方は……」

 もじもじと、‪✕‬‪‪‪✕‬は同じ問答を少年に返した。おっと、と存外大きめな瞳を丸めて、少年は白く清らかな髪を流した。

「これは失礼、自己紹介が遅れてしまったね。僕はトウカ」

 垂れ下がったアホ毛をみょこ、と動かして、少年ことトウカは爽やかに名前を明かす。暗く日を落としたこの夜でさえ敵わないくらい、燦々と輝く彼によく似合う名だと思った。

「ト、トウカさんは、お医者さんなんですか?」

 ジョジュアの目、○○の左顔、△△の右腕、**の両足。それらは全て完璧に止血されて、傷口も綺麗に塞がっている。治癒魔法を得意とする△△が行動できない今、彼らの怪我を治せるのはきっとトウカくらいだろう。控えめに聞く‪✕‬‪✕‬に、トウカはゆるりと首を左右に動かした。こんな人数を一気に、万全に治癒魔法をかけられるというのに違うのか、と‪✕‬‪✕‬は頭を傾ける。見たところ、トウカと‪✕‬‪✕‬に大した年齢差は伺えない。そのくらいに幼いトウカは、こんな戦地で一人馬を走らせていた。一体、何のためにだろうか、と‪✕‬‪✕‬は思索にふける。

「そんなに僕のことが気になるのかい?」

 トウカは‪✕‬‪✕‬の考えを見抜いたように笑うと、ロングブーツを鳴らして隣に腰を下ろした。ジョジュアとトウカに挟まれた‪✕‬‪✕‬は、なんだか落ち着かない気持ちで体を縮こませる。そんな‪✕‬‪✕‬に、トウカは鼻先が当たってしまうくらいの距離で、妖精のように神秘的な顔を近づけた。

「ふふ、愛らしい子」

 ‪✕‬‪✕‬の林檎色に瞳を細めて、我が子を愛でるように頬を包んで囁いた。ぼっ! と‪✕‬‪✕‬は顔面までも林檎のように真っ赤っかと熱に犯される。隣で会話を傾聴していたジョジュアでさえ、少しどきりと胸が波立った。初々しい‪✕‬‪✕‬の反応に、トウカはまたしてもきょとんと目をぱちくりさせる。よしよし、とお構いなく‪✕‬‪‪‪✕‬の松葉色を撫でながら、トウカは暗闇に光る星々を見渡して、言葉を続けた。

「国を作ろうと思って」
「国……?」
「あぁ。中央に余った土地があるだろう?」

 春、夏、秋、冬とそれぞれ四カ国に囲まれるようにして存在する、どの国にも属さない余った領地。数多な国々が、その土地を自分のものにしようと争いを繰り返していた。政治的な話題に深くは詳しくない‪✕‬‪✕‬にも知識があるくらい、中央強奪戦は有名だ。けれども、トウカはまるで容易い事柄のように国を作ると言ってみせる。

「明日、此処へ四季の王たちが集まるだろう。そして、大戦を起こす」

 トウカは神妙な面持ちで語った。予言のようなそれに、‪✕‬‪✕‬は衝撃が走る。また、いや、更に戦争が激化してしまうというのか。わなわなと恐慌を来たして震える‪✕‬‪✕‬に、ジョジュアはそっと手探りで体に手を乗せては‪✕‬‪✕‬を摩る。

「怖がらせるつもりではなかったんだ、すまない」

 トウカは申し訳ないと、凛々しく上がった眉を下げる。

「僕はそれを止めるためにやってきたんだ。ついでに、国を作ることも言っておかなければと思ってね」

 無断は流石にね、と茶目っ気を加えて明るく話すトウカに、‪✕‬‪✕‬とジョジュアはころっと口を開く。シンクロ度合いはまるで兄弟のようだ。争いを止めて、おまけのように国作りを報告? 難題なことをすらすらと紡ぐトウカに、‪✕‬‪✕‬とジョジュアは疑問しか浮かばなかった。

「さて、それでは明日に備えて食事を頂こうか」

 二人のことを置いてけぼりにして、トウカはにこやかに夕食の準備を始めていた。ごそごそと荷物から何かを取り出すと、じゃーん、と二人に披露する。

「パンに魚にアップルパイさ!」

 きらきら~と規則性のないそれらを掲げた。トウカははい、とパンを二人に与えてやる。ぽやんと力の抜けた空気に気圧されていた二人は、されるがままにそれを受け取った。手際よく魚を串に刺して焚き火に立てかけながら、トウカはもきゅもきゅと手作り感溢れるアップルパイに齧り付いている。ぽかんとトウカの食事風景を眺める‪✕‬‪✕‬とジョジュアに、トウカは手を差し出した。

「どうしたんだい、早くお食べ。腹が空いているのだろう?」

 ぐう。きゅう。トウカに返事でもするかのように、‪✕‬‪✕‬とジョジュアの腹の虫が声を出す。ぶわりと恥ずかしさを隠すみたいに、‪✕‬‪✕‬は慌てて手を合わせるとパンを口に突っ込んだ。もっちりと弾力のある食感に、小麦の香ばしい風味とバターのまろやかさが口内に染み込んでいく。

「……美味しい……」

 ぽつりと感動を零す。横でぱくりと、小さな一口で咀嚼するジョジュアも、‪✕‬‪✕‬と同じように頬を緩ませる。

「腹を満たして、しっかり睡眠を取る。お前たちのような幼子には特に必要なことだ」

 ぺろりとアップルパイを完食したトウカは、夢中でパンを食べる二人を見てあたたかく微笑んだ。さも父親のような視線で見守られて、‪✕‬‪✕‬とジョジュアはなんとも言えない気持ちに襲われる。先程からのトウカの接し方は、どこか羞恥を滾らせられるのだ。

「ほら、まだまだあるから沢山お食べ!」

 ほれほれと良い焼き目のついた魚に、追加のパンを渡されて、‪✕‬‪✕‬とジョジュアは苦笑するが、有難く頂戴することにした。食べ盛りな二人に、トウカは満足げな笑みを広げた。

「このパンたちはトウカさんが作ったんですか?」
「いいや? 僕の友人が拵えてくれたものさ」

 ちなみに魚は僕が釣ったよ、と釣竿を引くジェスチャーを見せるトウカに、‪✕‬‪✕‬は脳内を巡らす。彼が魚釣り? 全く想像がつかない。‪✕‬‪✕‬は冷や汗を流す。何せ彼はどちらかと言えば、湖の主のように尊大な人間であったからだ。また釣りたいなぁと魚をほくほく嗜むトウカは、暴食とあだ名につけられるほどの胃袋を持つ‪✕‬‪✕‬に負けず劣らずよく食べた。これも付けてみなさい、と塩を差し出すトウカに、‪✕‬‪✕‬は困ったように瞼を瞑った。


 天に熱いオレンジ色が澄み渡る。美しいその景色に触れようと、そっと足を踏み出した。
 べちゃり。
 濃厚な音がこびりついて、足元に視線を落とす。赤く紅く滴るそれが、足の指のつま先から順を追って、ミミズのように体へと登ってくる。恐怖で竦んで、水音を鳴らして尻もちをついてしまう。どろどろと、マグマのように手の甲を焼き尽くす血液を、精一杯落とそうと皮がめくれてしまうくらい、何度も何度も擦っては拭った。落ちることのないその穢れの背後に、艶の輝く林檎色が見えて、ぞっと己の果実を震わせる。ぐちゃりと崩れた頭と顔をこちらに向けて、女がこう囁くのだ。

『貴方なんて、帰ってこなければよかったのに』

 ごめんなさい。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 無心に、ただひたすらに、言葉を、懺悔を繰り返した。あの憎悪の溜まった瞳が、忘れられない。
 あぁ、ごめんなさい。
 ごめんなさい。

 ごめんなさい、ママ。


「……っ!!」

 反射的に飛び起きた。‪✕‬‪✕‬はパニックに陥りながら挙動不審に辺りにきょろきょろと目を配らせる。すぅ、と心地の良いリズムで息を吐くジョジュアが隣にいるのを理解すると、どっと垂れる汗が更に流れていく。荒い呼吸を鎮めようと、下手くそな深呼吸をした。

「おや……眠れないのかい?」

 ごそ、の衣服の擦れる音がして、其方に体を向けると、トウカが己を心配するように顔色を伺っていた。片手に開かれていた本を閉じて、トウカは‪✕‬‪✕‬に手招きをする。‪✕‬‪✕‬はゆらゆらと彼の隣に向かった。すっぽりと、トウカの片腕の中に収まった‪✕‬‪✕‬は、ぶるぶると身震いするのを堪えるように、きゅっと三角座りをして顔を埋めた。

「……可哀想に。悪い夢を、見てしまったんだね」

 怯えて色を失う‪✕‬‪✕‬に、トウカは身を寄せて体温を分けてやる。けれど‪✕‬‪✕‬は、トウカの慰めを否定した。

「夢、じゃないです」

 あれは夢なんかじゃない。
 現実なのだ。自分が犯した、罪なのだ。
 ‪✕‬‪✕‬は血管が凍るような思いで、ぼそぼそと独白を呟く。

「僕は、無差別に人を、殺して、それで、」

 ママとパパを、この手で。

「あぁ……あああぁ……」

 とめどなく‪✕‬‪✕‬の脳内に、あの光景がフラッシュバックのように突き刺した。わなわなと縮み上がって、‪✕‬‪✕‬は意識を混迷とさせる。頭を抱えて、錯綜とする記憶がどうか止みますようにと、唇を噛み締めて髪をくしゃっと握り乱した。

「大丈夫だよ」

 柔らかい声色が、‪✕‬‪✕‬の言葉を否定するように、断言する。‪✕‬‪✕‬の汚れで塗りたくられた身体を、花のように純朴な身体でトウカは包み込んだ。

「そんなわけないです、だって、僕は何人もの命を……!」

 男を、女を、老母を、老父を、子供を、ただの生き物だと、淡々と撃ち抜いていった己が怖くて仕方がない。
 自分自身を失っていたとしても、彼らを殺したのは『僕』だ。
 ママもパパも友達も、間違いなく僕が殺めたんだ。

「恐れることはないよ、坊や」

 どれだけ‪✕‬‪✕‬が躍起になって否定を試みても、トウカは動じることなく、ぬくもりを捧げるだけだった。なぜこの少年は、そう言い切れるのだろう。暗く深い、血溜まりの底に溺れる‪✕‬‪✕‬に、トウカは清い手を差し伸べて、ふわりと救いあげるように、碧の宝石を照らした。

「お前たちの罪は赦される。僕はこの世界に堕ちた罪を、全て贖うために生まれたのだから」

 神々しく後光を差して、トウカはまるで神様みたいに微笑んだ。彼の笑みが、彼の言葉が、彼という存在が、彼こそが正しいのだと、‪✕‬‪✕‬は知らしめられた。この少年がそう仰るのなら、それが真実で、間違いなんて一つもない。‪✕‬‪✕‬は濁っていた瞳に光を宿して、艶を描くようにほろりと、穢れを落とすように涙を流す。彼の言葉だけで、‪✕‬‪✕‬は何もかもが救われるようだった。

 あぁ、母なる大地よ、父なる神よ、感謝します。
 彼はこの世界の救世主だ。
 彼が、‪✕‬‪✕‬の、我々人類の救いだ。
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