第一章「死神の館」

第十話『地獄まであと何歩』


 麗らかな春光が囁く。木陰で身を縮こませて寝息を立てる少年は、地に広がる草原と似た松葉色の髪をさらりと靡かせる。穏やかな空の光が瞼の奥にまで届いて、もぞ、と寝返りを打った。
 ぱちりと視界を広げると、己の鼻に小さな蝶々が鮮やかな羽をひらりと瞬かせていた。眠りこけていた自分を起こしに来てくれたのか、と少年は蝶々を指に乗せると感謝を述べる。面倒見の良いこの子は、ついこの前までは赤ん坊であった。全身を使って懸命に動く姿に、少年は誰にも邪魔されないように、食われてしまわないように、と四六時中見守っていたのだ。蛹となって顔を合わせられない時間は耐え難いものだったけれど、この子が美しい羽を伸ばして、まるで花のように咲き誇ったあの瞬間にはつい感動して、村中の知り合いに朗報だと走り回ったものだ。

「綺麗だね」

 少年は林檎色の瞳を細めて、蝶に笑いかける。この子の努力をずっと見守ってきた。だからこそ、生命力に溢れて輝く美しさに感極まる。ふわりと翼を広げて喜ぶ姿に、同じように反応を返した。

「‪✕‬‪✕‬」

 名を呼ばれて、少年は体を起こす。蝶々は風の流れに寄り添って指から旅立っていく。それを優しく見送って、少年は立ち上がると声の主の元へと走った。

「ママ、パパ!」
「こら、走らないの」

 元気よく駆け寄る少年に、母親は朗らかに同じ色の瞳を艶めかせた。大きくずっしりとした鍬を悠々と片手で担ぐ父親は、もう片方の手で少年を抱き上げて肩に乗せてやる。揃いの松葉色を少年の頬にぐりぐりと押し付けて、皮の厚い手で少年の頭を撫でくりまわした。凡そ二メートルは越しているであろう男は、その巨体から音を立てないよう和やかに大地を踏みしめた。
 春の都「シェーンハイト」の小さな農村で生まれた少年は、幼ながら土作りや肥料撒きなど両親を真似して手伝っていた。父親の鍬を片手で石ころを拾うように持ち上げたときには、この子は将来有望だと歓喜を浴びたりもした。おまけに少年は母親に似て少女らしい可愛らしさを兼ね備えた容姿を持ち合わせており、美少女ゴリラだなんて近所の友人たちにあだ名を付けられては蹴りをお見舞してやったのだ。失礼な、好物は肉ですけれども。なら怪力暴食美少女ゴリラ? あー待って蹴る構えを見せないで!

「おいひい」
「本当にお肉が好きなのね」
「肉は食べれば食べるほど力がつくからね。きっと‪✕‬‪✕‬も僕くらい大きくなるよ」
「えぇ? ‪✕‬‪✕‬まで大きくならなくて良いわよ。変なところ遺伝しないよう祈るしかないわね」

 母親はもぐもぐと肉串を頬張る息子を見て苦笑する。一生このままでもいいけれど、と過ぎったりもしたが、彼の成長を見届けられることを嬉しく思う気持ちの方が膨らんでいた。流石に二メートルの男二人に挟まれるのはごめんだが。
 生暖かい気流と共に帰路を渡る三人は、家の前にまで辿り着いた。こじんまりと目立たない、木組みで出来たごく普通のそこが見えて少年はひょいと父親の肩から飛び降りる。綺麗さっぱり肉付きを失った串を物惜しそうに見つめながらたかたかと駆けていると、黒い棒のようなものが顔面に衝突して、ころりと二度回転して赤めた鼻を押さえた。

「ちょっと、大丈夫……」

 母親は少年の元に急いで足を動かして背中を摩ってやろうとしたが、ふと頭上を仰ぐと、目を見張って言葉を詰まらせた。涙目になりながらも不思議に思った少年は、母親が向けていた目線の先に顔を移す。

「……なんだこの小僧は」

 体の芯まで響き渡るような低音が降ってくる。とろりと、舌がもつれるくらいどろどろと甘ったるい顔立ちに二つのベビーピンクが揃う。恐ろしさと奇妙な柔らかさが合わさって気持ちが悪い。少年がカタカタと歯が並べて音を鳴らしてしまうくらいに威圧感を放つ男は、胃がもたれるように甘美な風貌で少年を睨んだ。

「っ申し訳ございません! 息子が無礼を……!」

 母親は即座に少年を胸に抱き、地面に頭を垂れた。どくどくと母親の鼓動を直に感じながら、少年はつい呼吸を止めた。

「……この汚れが見えるか?」

 すらりと長い脚から片方を前に出して、丁度少年がぶつかったであろうところを見せつける。ばさりと真っ黒に色付いたマントを揺らめかせる男は、軍帽から母親を大きく見下した。その瞳に口を無理矢理塞がれているような感覚に陥る母親は、声を震わせる。

「見たな」

 その様子をじっとりと見つめると、男は母親の返答など聞く余地もなく、母親の顔を俊敏に力強く蹴り上げた。

「ママ!!!」
「ッお前!!」

 勢いよく倒れ込んだ母親の胸から手放された少年は泣き喚きながら母親に抱きついた。父親が鍬を男に目掛けて振りかざそうと腕に力を込めるが、男はギロリと大きな瞳孔で射抜いて、命令するように声を告げる。

「動くな。息子諸共殺してやろうか」
「……っ!!」

 ぴくりと、父親はその場から動くことを許されなかった。男は周りにある全てに対してゴミを見るかのようにため息を捨てる。

「女は駄目だ、なんせ汚らわしく愚かだ。そして男も駄目だ。無骨で煩わしい」

 光沢の入ったミリタリーブーツに付着した母親の血を眺めて、これはもう使えないなと鬱陶しく垂れる。後始末を終えたように、男は少年たちを通り過ぎようとした。
 ぐいっと、足に重みを感じる。動きの鈍った要因を探して男は瞳を下に流した。男の足に、少年が離すまいと小さな体でしがみつく。潤んだ瞳の奥底に、男のよく知った色がふつふつと滲み出ていた。骨をも震えるくらいに怯えているというのに、この少年は男に明らかな敵対心を露わにしている。火傷してしまうくらいにぐつぐつと煮込まれたその『殺気』に、男は深みを含んで口角をあげた。

「ほう、この私にそのような目を向けるか。生意気な小僧だ。だが……」

 上質な黒の革手袋で、少年の穢れの始まりも打たれないように白い頬に指を滑らした。

「気に入った。私と共に来るがいい」

 ――父母を守りたいならな。
 甘ったるい顔で、悪魔のように囁いた。この男は選択肢なんて与える気もさらさら無いのだろう。紅炎と血液が入り交じったように鮮明な髪の色が、今にもこの場を焼き付くしてしまいそうだった。

「貴様、名は?」
「……‪✕‬‪✕‬。僕が貴方について行けば、ママとパパに酷いことしない?」
「あぁ、約束しよう。‪✕‬‪✕‬」
「僕は何処に行くの」
「この国を救う、正義の味方になれる場所だ」

 少年はふらりと後ろを振り返る。美しい顔をぐちゃぐちゃに乱して、こちらに向かおうとする母親を父親が苦汁を噛み締めながら抱きしめて押さえつけていた。少しでも動けば、この男は二人をいとも容易く殺してしまうだろう。それを分かっていて、父親は母親を止めている。でも母親にはそんなこと関係なかったのだ。息子が、悪魔の手に渡ってしまうのを黙って見てなんていられない。少年の名を懸命に涙で浸して叫ぶ母親に、少年は唇を少し噛んで、耐えるように、大好きなママにそんな顔して欲しくなくて、ふんわりと笑みを広げた。

「ママ、大丈夫だよ。僕は大丈夫。だから泣かないで」

 どうにか安心させたくて、少年はただ笑った。家族を守ってあげなければというまっすぐな子供心を抱いて、少年は男の手を選び取る。幼い少年の聡明な判断に、男は満足げに握り返す。
 ふと、少年は最後に、母親の叫び声にそっと独りよがりな願いを呟いた。

 「ママ、パパ! 帰ってきたら、いつもみたいにおかえりって、ぎゅーってしてね」

 無邪気に、手を振った。
 夕焼けにじんわりと溶かされていく家族を、今でも忘れられない。


◆◆◆


 荒廃して砂埃の舞う場に佇む基地に、若い青年たちが同じ服を纏って集まっている。豊かな自然は失われて、乾燥して煙たい空気に喉が痒くてつい咳き込む。
 男に手を引かれて少年は此処に連れて来られた。道中で少年は男に名を聞くと、元帥と呼ぶことを命令された。聞き馴染みのない単語であったが、理由を聞けるような相手でないことは明白だ。げんすい、と小声で繰り返して、それからは何も話さなかった。ただ大きな手に包まれた自分の手の行先をぼんやりと考えるだけであった。
 そして辿り着いたこの基地に、少年はぽつんと立っている。元帥である男が選んだ少年を、周りの青年たちは物珍しそうに注目した。その視線が怖くて、少年はばっと俯く。興味はあるものの、話しかけようとはしない連中にほっと息を吹いた。

「新入りの方、ですね」

 落ち着いた声色だった。背後から話しかけられて、少年ははっと首を回す。甘酸っぱい桜桃の香りが鼻腔に届いて、きゅんと喉を鳴らした。さらりと肩まで伸びた、蒲公英のような髪の青年が声をかける。皆が揃って着こなす服を抱えて、少年に視線を合わせるように長身を屈めた。

「元帥に貴方の教育係を頼まれたジョジュアです。分からないことだらけでしょうし、あちらでご説明致しますよ」

 手に持っていた服を渡して、ジョジュアは控えめに微笑む。春の草木みたいに優しい黄緑色の瞳が、廃れたこの場に不釣り合いなくらい美しい。

「お名前を聞いてもよろしいですか」
「……‪✕‬‪✕、です‬」
「ありがとうございます。こちらにどうぞ、‪✕‬‪✕‬さん」

 白の手袋でそっと頭を撫でられる。
 少年はなんだか胸がどっとあたたかく満ちていった。


「よくお似合いですよ。少し大きめですが……すぐに慣れると思います」

 少年はジョジュアに服を着せてもらった。軍服、というらしい。黒で染められたこれを、ジョジュアも身につけている。少々袖の余った部分を眺めながら、軍服の重みを感じた。綿のように軽くて肌触りの良い、寝巻きが恋しくなったが、きゅっと袖を握りしめる。その少年を、ジョジュアはただ見守っていた。

「あ"ー!! 邪魔ウザい離れろ触んな!!」
「まぁまぁ! そう照れないでくださいよ~」
「恥じらいもクソもあるかクソッ!! おいジョジュア、こいつどうにかしろ!!」

 賑やかに掛け合う声が近くに聞こえる。むかっと眉を顰めて暴れる青年に、楽しそうに音符を浮かべて抱きつく青年の二人組がこちらに駆け寄った。青筋を立てて舌を打つ抱きつかれた側の青年はジョジュアに助けを求めて低い声を荒らげる。

「‪そのくらいにしてあげてくださいね。彼はストレスに弱いので、下手に刺激しては可哀想ですよ」
「あら! それはいけない。ごめんね、胃の具合は大丈夫でしょうか? 摩ってあげるからね」
「だ"ーッ!! だから触るなって言ってんだろ気持ち悪ぃ!!」

 わちゃわちゃと異なった三人の金色の髪が騒ぐ。ぽかんと空気に置いていかれた少年に、ガミガミとかけられている眼鏡が割れそうなくらいに怒気を放つ青年は気がつく。三白眼気味の瞳をじっと掠めた。

「あ? 元帥が連れて来たって話題の餓鬼ってこいつか?」
「! あ、えっと」
「はい、‪✕‬‪✕‬さんです」

 鋭い眼光にぴくりと背筋を固まらせた少年に、ジョジュアは緊張を解すように背を擦りながら名を代わりに紹介する。

「‪こんな二桁もいってるか分かんねぇ餓鬼を連れて来て何になんだよ」
「もーっチクチク言葉ばかりで怖いですよ! ふわふわ言葉でお喋りしてくださいっ」

 二人の絡みを横目で流しながら、ジョジュアは少年にこそっと付け加えた。

「言い方が厳しいだけで、貴方を心配しているんです。悪く思わないであげてくださいね」

 くすりと笑って、ジョジュアは二人の仲睦まじい喧嘩に手馴れたよう仲裁に入った。
 眼鏡をかけた怒りん坊の青年は△△、穏やかでふわふわした青年は○○だと教えて貰い、握手を交わす。二人は少年を歓迎して、犬のように頭を撫で回した。ジョジュアの優しいのとは違ったぬくもりがたんまりと伝わった。


 少年は三人から色々なことを説明して貰った。
 此処は元帥の率いる軍という団体が生活する基地であること。この軍は自分の住む国、そして家族を守るために悪い敵と戦っていて、その為に皆訓練に勤しんでいるということ。理解に苦しむ内容であったものの、少年がなるべく簡単に処理できるようにと三人は伝えてくれた。

「俺は元々医療班希望だったんだ。人手不足がなんやらってこっちに入らされたけど」
「でもそのおかげで私たち出会えましたから、これもご縁ですねぇ」

 のほほん、とただの水をまるで淹れたてのお茶でも啜るように飲む○○を△△はジト目で見つめる。

「あの、○○さんはどうして軍に?」
「あら! 私ですか? そうですねぇ……」

 柔らかく流した目尻を下げて、○○はにっこりと笑みを向けた。

「少し人探しをしてるんです。期待したような逞しい志も無くてごめんね。完全に私情です!」

 目を瞑ってぱあっと花を散らばらせる。ばっさりと兵士らしくない理由を述べる彼はむしろ潔い。そんな○○に特に突っ込むつもりもないのか、△△は呆れてため息を吐いた。人探しだけで戦地に足を運ばせられる胆力こそ、彼の武器なのだろうと感じる。

「ジョジュアさんは……」

 ちらりと、視線をジョジュアに移す。控えめに問いかけた少年に、ジョジュアはにこりと唇を端正に描いた。

「特にといった理由はありませんよ」

 さらりと上品に髪を揺らす。それ以上、ジョジュアからは続きを発さなかった。少年の空になったコップに目線を注ぎ、ついでだから自分の分と一緒に入れてくるとジョジュアは席を立った。なんだか申し訳なくて、少年は慌てたように声を漏らすが、△△がそれを止めた。

「いーよ。あいつ、いつもあんなんだから」

 唇を尖らせて、寂しそうに△△はジョジュアの背中を目でなぞった。

「ジョジュアくんは本当にお綺麗で、まさに高嶺の花! って感じなんですよぉ」
「こんな軍にあんなボンボンがいるだなんて気持ち悪ぃ話だけどな」
「ボンボン?」
「金持ちって意味。立ち振る舞いとか見てたら分かんだろ」

 金持ち。少年のイメージ像とジョジュアは確かに一致する。品性があって、美しくて、所作に間違いがない。周りの人間と比べても、彼は一際浮いた存在であることは一目瞭然だ。

「ま、誰も本当のことなんて知らねぇけど」

 それでも、と△△は大切に付け加える。

「仲間だよ」

 にし、と子供みたく無邪気に歯を見せる。△△の表情に、少年もつい頬が緩んだ。

「えぇ! 私たち、金髪トリオで名を馳せてますから!」
「マジダセー解散解散」

 げんなりと嫌味を垂れる△△に、○○はご機嫌に笑い声をあげた。そんな二人を見て、少年はほんのりと安息を得る。
 初めての場所、初めて出会う人々。色んなことが、小さな体に襲いかかってきて、本当はどうにかなりそうだった。でも、家族を守れるなら、なんだって良かった。どんな場所に連れてこられたとしても、耐えようと夕焼けの中で意志を固めた。けれど、そうだとしても。

「……うぅ……」

 ほろりと林檎から水滴が零れ落ちる。怖かった。恐ろしかった。遅くなった感情を取り戻すように、溢れる涙が止まれなかった。だぼついた袖でごしごしと瞳を擦る少年を、△△と○○はそっと撫でてやる。それくらいしか出来ることが無かったから、せめてもの慰めだった。そっと、大きな手が頭に乗って、少年は顔を上げる。黄緑色を潜めて、ジョジュアがこちらを見つめてくれていた。

「今日はもう遅いですから、お休みにしましょうか」

 手袋で涙を拭ってくれる彼の手が優しくて、少年はこれが好きになった。肯定を示すように頷くと、ジョジュアは少年を軽く抱き上げて、寝床までおぶってくれるようだった。おやすみ、と手を振る△△と○○に手を振り返して、少年はそのまま瞳を閉じた。ぽんぽん、とまるで経験があるかのように少年をあやすジョジュアは、寝息が聞こえると静かに微笑んだ。


◆◆◆


 狙いを定めて、銃声を響かせる。バン、と見事脳天に命中させて、敵は呆気なく崩れ落ちていく。二十代にも満たないであろう青年を、少年は正確に撃ち抜いていった。
 軍での訓練は過酷なものだった。少年の幼い身体に見合わないようなものばかりで、ジョジュアたちもこんなことはさせたくなかったのだろう。だが、それは杞憂に終わることであった。少年は、この軍で誰よりも試練をこなし、誰よりも順応していったのだ。銃の扱い方も体術も申し分なく、それを見学していた元帥は見越したように拍手を捧げる。元帥が直々に連れて来たのは、少年の才能を見抜いていたからか、と周りの皆が納得した。この少年は軍にとってより良い戦力になるのだろう。期待の目を浴びる中、ジョジュアだけは何故だか切ない表情を少年に向けていた。

 少年は今日も今日とて戦場に駆り出される。最初は抵抗のあった人殺しも、今となっては作業に近いものだった。急所を探して、外さないように弾を当てるだけ。単純で簡単だ。楽しくもなければ、つまらないことでもあったが。最後のターゲットに銃口を投げて、心の臓目掛けて発砲しようとした。

「わーん!!!」

 耳に甲高い泣き声がぶつかってきた。はっとして少年はその音を探してふらふらと視線を泳がせる。瓦礫を盾にして、誰かを抱え込むようにして泣き喚く小太りな少年がしゃがみこんでいた。同じ軍服であることから、味方であると認識する。

「誰か、助けてっ誰かぁ!」

 悲痛な叫び声が、どうしてか心に針を引っかかるようにして離れなかった。少年は銃口を下ろして、そちらに足を走らせた。

「……っ何してるの、早く立って戻らないと……!」
「!! ‪✕‬‪✕‬くん……!? お、お願い‼︎ この子を助けて!!」

 涙をぼろぼろと流して鼻水を啜る少年は、赤茶色の丸い瞳で必死に少年に乞う。この子、と示した人物に目をやると、少年はぎょっと目を見開く。小太りな少年に守られるよう抱きしめられている、綺麗な少年がいた。彼の背中には三発ほど銃弾で撃たれた跡があり、酷い出血量だった。細切れになった呼吸で、薄い黒髪を震わせる少年はいつ死んでもおかしくない。急いでポッケから包帯を取り出して、傷口を圧迫して血の流れを止めようと奮闘する。手際良く済ましていく少年に、重症を負う少年がか細い声で何かを囁いていた。

「……もう、いい……どうせ死ぬ、だから包帯、無駄にしないでよ……」

 微かに開かれた瞳の、ターコイズ色がこちらに訴えかけてくる。もう、死にたい。言葉に出さずとも、伝わってきた。この少年は、同じように小太りの少年にもそう言って止血などの施しを拒否したのだろう。
 少年は彼を、気力のない奴だと思った。この赤茶色の瞳の少年だって、戦場で怖気付いて腰が抜けているではないか。なんだか、腹立たしかった。

「貴方たちは、なんの為にここにやってきたの。生きる気も戦う気もないなんて、ふざけてるんじゃないの」

 ぎり、と歯を食いしばって、処置に手を回しながら少年は二人に言い放つ。悪い奴を殺して、殺して、殺して。それが出来ないなら、なんの役にも立たないというのに。林檎色の瞳に一滴、墨を落とす少年に、小太りの少年は傷ついたように息を呑んで、けれども言葉を返した。

「何言ってるの!? ぼくは死にたくないし、戦いたくなんてない!!」
「え、」
「そんなのみんな思ってて当然でしょっ?! 君は違うの……?!」

 まっすぐな質問に、少年は体が動かなかった。茶髪を震わせながら、小太りの少年は大切に黒髪の少年を抱きしめる。

「この子、ぼくを庇って怪我を負ったんだ……こんな戦場で、誰かを助けようとする、優しい子……」
「そんな子でさえ、戦わなくちゃいけないだなんて、おかしいよ。それとも、ぼくらがおかしいの?」

 ぎゅ、と一方的に抱きしめる少年は、濁りもない澄んだ涙を垂らす。それが雨のように弾けて、鬱陶しそうにターコイズの瞳を開けた少年が口を動かした。

「……アンタと同じにしないで」
「え……?」
「俺は、本当に死ねば、いいと思って、ここに来た。アンタを助けたかったわけ、じゃない、死ぬ理由が欲し、かっただけ」

 はぁ、と息も絶え絶えに一言を呟いていく少年は、落とされた涙がつぅ、と頬を伝って、まるで彼までもが泣いているみたいだった。

「そんなこと言わないでよっ君みたいに優しい人が死んでいいわけ……っ!」
「優しくなんてないっ、もしアンタのその言葉が正しいならっ……」

 ボロボロになった指先で、ガッと胸ぐらを弱い力で掴む。今にも消え入りそうな声色で、苦しそうに綺麗な顔を歪めた。

「兄ちゃんは、ノーマン兄ちゃんは、死んでなかった。そうでしょ……?」

 そうじゃなきゃ、おかしいじゃんか。

 ぷつりと、糸が解けるように少年は掴んでいた手を落とした。小太りの少年はその手が届かなくなる前に、慌てて握りしめる。名前も知らない少年に何度も呼びかけるが、返事は無い。絶望に染まって、少年を抱きしめてまたも泣き声を渡らせる彼を、ただ見つめていた。

 死にたくない? 戦いたくない? 自分は一体、なんの為に此処へ? 敵を殺す為? 国を守る為? 全て正しいはずなのに、どうしてそうだと、断言できないのだろう。ふと、少年のターコイズの瞳を思い出す。兄ちゃん、と縋るように訴えかけた彼に、もやついた気持ちがあるのを感じている。兄ちゃん。お兄さん、か。つまり、彼には家族がいて、そのお兄さんは、死んでしまった、ということだ。

「……家族?」

 ぽつりと、懐かしい単語が漏れ出る。あたたかくて、大好きな、その言葉。ふと辺りを見渡すと、炎の海で埋まった橙色が、嫌に脳を刺激した。ぶわりと、この色に似た夕焼けに溶かされていく、誰かが過ぎる。

「あ……」

 そうだった。なんで、忘れていたのだろう。

「ママ、パパ……」

 自分は、人を殺すためでも、国を守るためでもない。大好きで愛おしい、家族を守るために此処へやってきたのだ。力が抜けて、その場に座り込む。もう、動けなかった。動きたくなんてなかった。だって、自分は人間なのだから。きらりと視線の先に、銃口を向ける影が見えて、それでももういいかだなんて、諦めたみたいに笑う。あの時、この二人を見捨てていれば逃さなかったターゲットだ。自業自得の過ちに、不思議と恐怖は感じなかった。そっと瞳を閉じる。
 

「‪✕‬‪✕‬さん」

 ふわりと、優しい香りで満ちて、少年は視界を開ける。満開の桃色が、少年たちを守るように壁となって広がっていた。――桜吹雪。少年の故郷に降り注ぐ、美しい花々。桜で少年たちを包み隠したジョジュアは、遠くにいた最後の一人を躊躇なく撃ち抜いた。はらりと血で染まる桜に、誰にも見えないよう苦笑する。

「さぁ、急いで戻りましょう。△△さんは手当てを、○○さんは連絡を」

 そばに屈んで、△△は力を込めて少年の怪我に治癒魔法を注いでいる。少し痛みが和らいでふぅ、と息をつき瞳を開けた少年を見て、受信機に伝達する○○がどこか驚いたような素振りを見せたが、何事も無かったかのように本部への連絡を続けた。
 くるりと踵を返して、ジョジュアは桜の魔法を解く。少年の松葉色の汚れた髪を包むように撫でて、痛ましく瞳を細めた。

「よく頑張りましたね」

 ぐいっと引き寄せられて、少年はジョジュアの胸に収まった。優しい桜桃の香りが肺に満ちていって、不思議と涙が溢れていった。止まらない嗚咽を、ジョジュアは全部受け止めて、ただ抱きしめて離さなかった。


◆◆◆


 あれから、二年が経った。
 少年は十二歳になり、仲間が増えた。小太りの少年こと**に、怪我の完治した美少年こと□□だ。三人は行動をよく共にするようになり、軍でもセット扱いされることが当たり前になっていた。**がマブダチトリオ、と命名していたが、□□が却下と常に解散希望を物申しているのが日常茶飯事である。**と□□は、少年を間に挟むなりサンドウィッチごっこ、などとケラケラふざけては笑い合った。**のマブダウィッチという自慢げなネーミングに□□はジト目を更に下げていたが。そんな三人の様子を、ジョジュアたちは微笑ましく見守っていた。

「長かった任務も、明日の戦いで終わりかぁ」

 あむ、とキャンディを口に放り込む**が感傷に浸るように会話を紡ぐ。
 数年に及んだ過酷な任務にも、ついに終わりが告げられた。元帥は滅多に顔を出さなかったが、立派に育った己の軍兵を眺めては満足そうに褒め称える。今宵は前夜祭だと、大人たちは酒を嗜んでは歌を歌い、子供たちは幼稚じみた菓子を頬張った。普段は顰めっ面の△△は笑い上戸なのか機嫌良く声を響かせては、○○に絡みついている。○○もいつも以上にほわほわと顔を赤らめては△△に抱きつく。ふざけあってキスをする二人に、周りは爆笑の嵐を騒がせてはアンコールを求めた。これは明日の△△が怖いな、と少年はその光景に顔を引きつらせる。
 少年の隣で、自分と同じジュース片手に皆を眺めるジョジュアが居座っていた。酒は飲まないのか、と問えば雅に笑みを浮かべる。苦手ではないが、滅多に飲まないらしく、こうして仲間を見ている方が楽しいのだと言った。確かに彼らしいな、と少年は納得して、そっとジョジュアに寄りかかった。こうして甘えられるのは、少年が彼に懐いている良い証拠だ。あーずるい、と**もジョジュアに寄って集り、□□は眠そうにその後を着いてくる。

「ぼくさぁ、家に帰ったらダイエット始めようと思ってるんだよね」

 **が意を決したように握りこぶしを作る。

「え、なんで?」
「いや分かるでしょ! 三人に囲まれると居た堪れないの! 美人VS子豚の構図なの!」

 気だるげに質問した□□に**はカッと目を開眼させて覇気のある声を出した。少年にジョジュアに□□、三人揃えばその場が一瞬で花園かと錯覚してしまうくらい見目麗しい空間なのだ。そんな禁断の花園に一匹子豚が交わればあら不思議。とっても惨め。**は頭を抱えた。

「ぼくだって本気出せばやれる子だから! まぁ見てて、返り咲いて綺麗になるぼくを」
「別にどうでもよくない? アンタがデブでもなんでも、俺はなんとも思わない」
「なんっでそんなこと言うし!? □□くんたちの隣にいても恥ずかしくない姿でありたいの分かるかなぁ!?」

 □□の遠回しすぎる素直な気遣いに**は気づけるほどの理解力を持ち合わせておらず、むきーっと□□の肩を叩く。不機嫌そうに長い睫毛を束ねる□□がなんとも羨ましい。漫才劇を繰り広げる二人に、少年はふんわりと郎笑する。
 そうか、自分はやっと、家に帰れる。家族に会える。待ち望んだ願いが叶うのだ。その為に、沢山努力してきた。二年間培ったこの努力は、きっと誇らしいものになるのだろう。欲張りかもしれないが、家に帰ったらこれでもかというくらいに褒めて欲しいな、だなんて考える。

「また集まったりしてさ、遊びに行こうよ!」
「うん。行きたい」

 ワイワイと既に計画を立て始める**と□□は楽しそうに意見を飛び交わせる。紙を用意して、書き物がないことに気づいた**に、ジョジュアは胸元のポッケから桜の飾りのついたボールペンを手渡した。感謝を伝えて書き進める二人を、ジョジュアはあたたかく見つめている。

「ジョジュアさん、桜が好きなんですね」

 彼の扱った魔法や、肌身離さず身につけているボールペンの飾りが桜であったことが、こう述べる確証に至った。数年間己を育ててくれたジョジュアのことを、少年は何も知らない。けれど、これだけは自信があった。少年にも、故郷に舞い散る花の美しさがよく分かったから、単純に嬉しくて笑いかける。ジョジュアは少年の笑顔に、少し困ったように微笑みを返した。

「僕も桜好きです。あと、ジョジュアさんも大好き」

 手袋を外すことはないけれど、彼の優しさは布越しでもたんと伝わってくる。ジョジュアに撫でられると、少年はまだ子供でいてもいいのだと思えた。お兄さん、だなんて身近な存在ではなくとも、辛い環境を一緒に乗り越えてくれた大切な人だ。純粋な好意と感謝を少年は贈る。ジョジュアはやっぱり何も言わなかったけれど、寄りかかる少年の頭にこてんと首を傾ける。彼のさらさらと伸びた蒲公英色が少年の松葉色に合わさって、菜の花みたいに揺らめいた。

「あ~っジョジュアくんが‪✕‬‪✕‬くんといちゃいちゃしてますよぉ!」
「あ"~ん? おいそこどけや‪✕‬‪✕‬」
「負けていられませんねぇ、△△くん! 私たちも混ぜてくださぁい~」

 よろよろと酔っ払いが此方にきらりとハンターのように瞳を光らせた。ひ、と小さく悲鳴をあげた少年に、△△と○○は勢いよく覆い被さってくる。本来ならジョジュアに抱きついているはずなのだが、アルコールで支配された脳では人の区別なんてついていないのか、二人は少年をジョジュアだと勘違いして絡んできた。止まない口付けの嵐に少年は熱心に助けを求めるが、ジョジュアにも手をつけられないと判断されたのか申し訳なさそうに太い眉を下げるだけであった。少年は消沈した。この様子をツマミのように笑い転げるマブダチたちに憎たらしく視線を投げて、少年は抗う気も失せてされるがままだった。
 ふと、自分の手元に目をやる。余っていた袖は手首にまで下がり、曝け出された丈夫な手が努力の証だった。明日で、己の努力は全て報われる。
 
 大好きな家族の、おかえりが聞ける。
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