第一章「死神の館」

第九話『馬鹿な女』


 カツカツとハイヒールを床に打ち付けて、風を切るように早く、早く、と歩を進める。もう何百年も使っておらず、錆を纏った扉たちには目もくれないで、慣れたように一つの部屋の前に辿り着く。扉に残されている釘の刺さったような形跡を眺めながら取っ手に触れようとすると、扉が少し開いていることに気づいた。そっと、軽い力でドアを押す。
 その先で、月夜に愛されたみたいに照らされる彼女が、窓辺で桃色の髪を咲かせる。ふわりと靡いたその色は、ずっとずっと、己が触れたかったものだった。ふざけたように、鈴を転がすみたいに、あどけなく笑うあの子。

「シーニャ……?」

 大切な名前を囁きながらも、言葉を失ってしまう。うろうろと螺の緩んだ人形みたいな体で彼女の元へゆっくりと近づいて、段々と歩くスピードを早めて駆け寄る。目に優しい桃色が己のおぞましい朱色に蕩けて、ふんわりと彼女の柔らかい頬を撫でた。あたたかくそこに存在することを教えてくれる温度が嬉しくて、隈の酷い顔から力が抜ける。今にも泣きそうな自分を見て、彼女が何かを言う。

「レドナー……? どうしたの?」

 こてん、と首を傾げてサファイアを瞬かせる少女がそこにいた。レドナーの痩せ細った手に触れながら、心配そうに声をかける。

「‼︎ す、すまない」

 パッとカロンの頬から手を離す。まるで夢から覚めたように、レドナーは意識を戻した。

「何故、この部屋にいるんだ」
「貴方たちの様子が気になって来てみたら、誰もいなくて。ここが貴方の部屋だと思ったのだけれど」

 カロンとレドナーは昨夜この部屋で会話を交わした。埃の一つもない、質素でどこか物寂しさを感じさせる此処に、レドナーはよく居座っている。カロンは月明かりのよく輝くこの場がレドナーの部屋だと思い込んでいたが、ノエルたちの向かった先とは異なっていたらしい。

「夜ご飯は美味しかったかしら?」

 笑顔で問いかけるカロンに、レドナーは自ら押し除け壊したシチューやパンを思い出す。
 無気力に転げ落ちた夕食たちに呆然と立ち尽くしたノエル、怒り心頭にこちらを睨んだジェシーの顔が、脳内に過ぎっては刻まれていく。首を小さく振って、忘れようとした。返事のないレドナーを不審に思ったのか、カロンはレドナーを覗き込む。

「貴方……なんだか顔色が悪いわ。体調が優れないの?」

 子供に接するみたいに、カロンはレドナーの額に手のひらを添える。

「……! や、めろ、触るな」

 ずきりと心臓に突き刺さる感触を堪えながら、レドナーはカロンから距離を取った。細く途切れた声で、レドナーはカロンを拒否する。それがカロンの不安を煽ったのか、彼女がこちらから目を外さなかった。

 ――あぁ、なんて美味そうなのだろう。

 ふわりと、真っ白で清らかな彼女の揺らぎが、飢えた胃袋を刺激した。決して喰らってはならない、純白な灯火。込み上げてくる唾液を必死に飲み込んで、レドナーは口を押さえた。

 駄目だ駄目だ駄目だ、耐えなければ、耐えなければ。

 息を浅くしてよろりと後退り、今すぐにとここから抜け出そうとした。

「苦しそうですね」

 ぽす、とレドナーの肩に手が置かれて、爽やかな声が落ちてくる。ぎょっとして振り返ると、麗しい顔を帽子の影で潜めたテオフィールがこちらを見下ろしていた。テオ、と驚いて名を呼ぶカロンにすらりと頬を綻ばせる。レドナーは何かを抑えるように唇を噛み殺して血を垂らすが、テオフィールは飄々と微笑んだ。

「我慢なんてしなくてもいいのに」
「……何が言いたい」

 レドナーは生気の無い瞳をギッと鋭くしてテオフィールを睨みつけるが、その視線を真っ向面から受け取ってテオフィールは瞼を細めた。

「その目! 私と同じじゃないですか」

 ぱぁっと表情を明るくして、テオフィールは更にレドナーに近づく。出会ってから見たこともない彼の嬉しそうな笑顔はこんなにも美しいのに、如何にも不自然で不気味で、ぞわりと悪寒が走る。テオフィールはレドナーの耳元に整った唇を寄せて、丁寧に溢れないよう、言葉を注ぎ込んだ。

「壊したくて仕方がないのでしょう」

 ――この世界を。

 淡々と、けれどじっくりと熟れているテオフィールの発したそれに、レドナーは息を呑んだ。そんな彼に喜悦を含んだ笑みを向けて、テオフィールはすらすらと語る口を広げていく。

「だから終わらせてしまいましょう。死神の貴方になら、成し遂げられる。それに……」

 ふ、と瞳を伏せて、テオフィールは諦観したように呟いた。

「トウカ様も、きっとそれを望んでいらっしゃるに違いないですから」

 さっぱりと空虚な声で、テオフィールが呼んだ名前が、何故か引っかかった。
 どきどき、ざわざわ、ずきずき。
 可笑しいくらいに鼓動が心臓を叩いて騒いでいる。その理由が知りたくて、カロンは胸をきゅっと掴んだ。

「トウカって……」
「……トウカ・ホーリー。この街、シュテルンタウンを一から作り上げ、民から「幸福な王子」と呼ばれ愛された御方です」

 焦る気持ちで勢い任せにその名を零したカロンに、テオフィールは平静と紡ぐ。だが、その声色にはほんのり冷めたものを感じさせた。

「世界中の人々を愛し、そして愛されるべき御方でした」

 でも。そう付け加えて、テオフィールは薄らと朧気に笑う。


「暗殺されたんです」


 もう、この世界にはいない。


 トウカの名前に敬愛を詰めて話していたテオフィールの顔色が暗く色付いた。
 
「そして相次いで、他国の王族も皆殺し。残されたのはまだ幼い、次世代を担う子供たちのみ。今や情勢は不安定で、いつ争い事が起きたって、崩壊したっておかしくない。これが三年前に起こった「国滅事件」の始まりです」

 テオフィールの告げた事実を聞いて、カロンは煌めくサファイアが落ちてしまうくらいに目を見開いた。まるで、初めて知ったような反応で。そんなカロンの様子に、レドナーは怪訝に視線を投げるが、テオフィールは笑みを崩さなかった。

「やっぱり知らないんですね」

 そう言って松葉色を傾ける。無垢な少女みたいに綺麗な彼の微笑みが、なんだか危うく見えた。テオフィールはカロンに歩み寄って、すっかり目の前まで佇む。目線を合わせるように、端麗な彼の顔が至近距離にあった。カロンの瞳を逃さないように、テオフィールは林檎色を艶めかせる。そしてそっと、唇を解いた。

 あぁ、本当に――

「腸が煮えくり返りそうだ」

 どろり。
 圧殺されていたどす黒い墨が垂れて、テオフィールの朗らかな笑みが流れ落ちる。綻びを失った彼を見て、カロンは呆気にとられた。
 初めて、彼を、テオフィールを見た。腐敗してしまった、真っ赤で真っ黒な林檎。今まで向けてくれていた笑顔が偽りだったのだと、その果実を映して知らしめられた。

「ねぇ。私が本当に道に迷って、この館に来たと思いますか」
「え……?」

 テオフィールの問答に、カロンは戸惑いを露わにした。だって、彼は案内人で、何度も地図を凝視しては申し訳ないと頭を下げて、共に道を歩いてくれたのだ。テオフィールの質問の意図が読めない。
 カロンを見定めるように問いかけたテオフィールは、おたおたとまごつくカロンを確認すると、実に痛快だとでも言うように笑い声を漏らした。

「あははっ! 出会って間もない、ただの他人を信頼してたっていうんですか!」

 テオフィールは肩を揺らして無邪気に笑い転げる。

「私はね、わざと道を間違えたんです。貴方を最初から騙してたんだよ」
「……! 案内人、お前……っ!」

 目を吊り上げてレドナーが口を出そうとするが、テオフィールは悠長に、落ち着いた心地で一息をつく。
 そして、にこりとカロンを嘲笑って、願ってもいなかったと興奮したように、両手で顔を覆いながら紅潮させた。

「カロンさん。貴方って人は、どうしようもなく、笑ってしまうくらいに……」
 
 馬鹿な女。

 ボロボロの世界に現れた、御伽噺の主人公みたいに純粋無垢な女の子。彼女の澄んだ瞳が輝く度に、忌々しい泥が心を埋めつくしていた。
 そう、その顔が見たかった。
 己に失望して、サファイアが濁っていくザマを。穢れた世界に貴方は相応しくないから、自分の手で分からせてやればいい。少しくすんで汚れたくらいが、きっと丁度良いはずだから。
 用は済んだと、興味を失ったようにカロンから視線を外して、テオフィールはレドナーに向き合った。

「さぁ、始めましょうか。そろそろ限界も近いはずです」

 ぎり、と敵対心を撃ち抜くレドナーのことなんてお構い無しに、テオフィールはしなやかな体からは想像も出来ないくらい強引にレドナーの腕を引っ張る。抵抗することも出来ずにぐらつくレドナーに、蜂蜜みたいにじっとりと甘く囁いた。

「お腹が空いて堪らないのでしょう」
「は、」

 ほら。
 ぼとりと、唾液が小さな口から滴った。はっとしてそれを押さえようとするが、テオフィールはそれを制止した。

「っ離せ……!」
「貴方の為に、沢山用意したんです。清らかで美味しそうな「魂」を」

 呼吸を荒くして瞳を渦巻かせるレドナーは懸命に逃れようとするが、テオフィールはそんな彼の腕を掴みながら、己の首へとぎゅっと、約束みたいに締めさせる。わだかまりから解放されて、報われたように、テオフィールは密かに破顔した。

「手始めに、私からどうぞ」
「い、や、嫌、嫌だ……! 俺はもう、誰かを……!」
「勿体ぶらないで。こっちを見て」

 ほら、早く。
 
「私を殺して」

 きらりと、左指に纏う指輪が光った。透明に己を映す宝石と目が合って、忽ちに意識が痺れてばくんと動悸が激しくなる。早くこの青年の首から手を離さなければならないのに、身体が言うことを聞いてくれない。しとしとと全身から枯れてしまうくらいに汗を流して、小刻みに震える手に力が強まっていくのを見ているしかなかった。
 
 飢えたこの腹を満たしたい。
 殺したくない。

 もう良いじゃないか、我慢してきたのだから。
 もう自分は、誰一人も傷つけたくない。

 煩い。
 うるさいうるさいうるさい。
 うるさい?
 うるさい。
 うるさい。

 うるさい‼︎


「お兄ちゃん!!」
「レドナー様!!」

 扉からこちらに向かって必死に叫ぶ声が聞こえた。ゆらりとそちらに首を動かして、その声に耳を傾ける。ぼやけた景色の中で、手を伸ばして自分の元に走り寄ってこようとするジェシーにノエル、ライムントがいた。
 ぐわんと散りかけていた意識が唐突に戻って、レドナーは首から手を離すと、テオフィールとカロンを乱雑にドアの方へと放り投げる。二人が倒れないようにと受け止めるジェシーたちは、レドナーに話しかけようとしたが、その口は開かなかった。
 それは、レドナーの朱色の瞳がぐらりと、業火の如く燃え盛って、まるで本物の怪物みたいに悍ましかったから。悪霊にでも取り憑かれているみたいに、彼自体がいないようだった。

「ジェシー、ノエル」

 愛しい妹と娘の名を、誰にも壊されないようにと正気と狂気の狭間で呼ぶ。歪んだ顔を蒼白に戻すと、レドナーは簡単に折れてしまうくらい、細く窶れた指先を指して言い渡した。

「この家から出ていけ」

 恫喝を告げているというのに、彼の表情は何故か安らかにも見えた。まって、と声をあげようとした瞬間、ジェシーたちの身体が突然風のようなもので引っ張られて強制的に部屋から追い出される。ジェシーとノエルの浮いた体はそのまま自然と開いていた窓を通り抜けていき、館中からはみ出ていった。
 その最中、ギィと閉じかかる扉の向こうでレドナーがこちらを見つめている。仁愛で満ちた、優しい眼差しで、囁いていた。
 
 ――大好きだよ。

 ガチャリ。

「っお兄ちゃん!!」

 ジェシーの声は届かず、二人は窓から落下していく。追い出された衝撃で壁に背を叩きつけられて丸まっていたライムントは力を振り絞って手を差し伸べたが、彼女たちの手を掴むことは出来なかった。けれど、ジェシーはライムントに向かって言葉を叫ぶ。

「ライムントくんっお兄ちゃんを!!」
「!!」

 ジェシーの確固たる意思を汲み取り、ライムントは腕を引いてくるりと振り返った。だが、閉じられた扉の前には、背筋の通った彼が立ちはだかる。

「テオフィール……!?」
「邪魔をしないでください」

 冷酷な視線でライムントを警告する。邪魔の意味も分からないライムントであったが、ジェシーからの頼みを果たすために、テオフィールを押しのけようと肩に触れた。
 その途端、みし、と骨が軋むような音が響いて、ライムントは掴まれた腕への痛みに瞠目する。ライムントの作ったほんの少しの隙を逃さずに、テオフィールは腕を横へと振り動かして、ライムントを廊下の端まで瞬く間に投げ飛ばした。

「カハッ……!」

 勢いよく頭部を強打したライムントは、ぐったりと垂れて気を失ってしまった。それを横目で流して、テオフィールは目当ての人物に笑いかける。

「貴方が最後ですね、カロンさん」
「テオ……!」

 ジェシーたちが窓から落とされて、ライムントが投げ飛ばされて、今に至るまでの流れはまるで一瞬であった。
 何も出来ずに取り残されたカロンは望まずともテオフィールと対立する。テオ、と親しみと信頼を込めた呼び方に、本人は仄かに眉を顰めた。

「……この状況下でよくそんな呼び方出来ますね」
「状況なんて関係ないわ。貴方はテオだもの……!」

 まっすぐにサファイアを煌めかせるカロンに、テオフィールは今にも舌を鳴らしそうに勃然と瞳を歪めた。

「そういうところだ」
「……?」

 能天気に、この世界を汚さなんて何も知らないみたいに、桜を咲き誇らせては太陽みたいな笑顔を照らす貴方が。
 あの御方と同じ瞳の色で私を見つめて、同じ愛称で楽しそうに私を呼ぶ貴方が、心から、心底。

「本当に、大嫌いだ」

 ずっとずっと、大嫌いだった。
 憎たらしくて堪らなかった。
 だから、貴方は私がこの手で、汚してやりたかったんだ。

 ふわりと片手に弓を携えて、弦に指先を滑らせた。心が浄化されるような、穏やかで優しい音色が辺りに舞って、身体が溶けてしまいそうな感覚を染み渡らせる。
 天の楽園から奏でられるように清いそれは、魔法なんかじゃない。魔法を反転させ、呪いへと変換させた「呪術」だ。

「この音色を聞けば、貴方は思い出す。己の心に深く刻まれた、大きな後悔を、絶望を」

 月影が差し込んで、瞳を三日月みたいに細めた。今頃鍵の掛けられた一室でルシアスが苦しんでいるように、彼女もきっと心の傷の痛みに悶えるだろう。宝石を眩しく飾るこの少女にだって、必ず後悔や絶望があるはずなのだ。

 早く見せてみろ。
 花畑で踊るように、可憐で、純朴な、美しいお前の流す涙を、弱さを。
 さぁ、さぁ!

「……テオ、泣いているの?」
「……え?」

 ぽつり。
 頬に小雨が伝っていく。なぜ、彼女ではなく、自分が。
 そっと、柔らかく白い手がテオフィールの頬に触れる。涙だけではなく、まるで自分ごと掬ってくれるような、そんな温もりだった。己はこの感覚を、知っている。はっとして顔をあげた。
 白雪のようなアイボリーの髪に、優しく瞼を重くして本物のサファイアを宿した瞳が、この世の何よりも尊かった。天使のように微笑む彼が、濃紺のマントを羽ばたかせてこちらを見つめる。
 神様なんて見たことないけれど、本能的に思い込まされる。彼こそが「神様」なのだと。あぁ、どうして、貴方が――

「トウカ、様……」

 伝えたいことなんていっぱいあるのに、喉がまるでつっかえて出てこなかった。ぽろぽろと落ちていく雫を、彼は包むように受け止めて、ただ笑みを湛える。言葉を探しあぐねる己の震えた唇に、彼のすらりと小さな人差し指が当てられた。

 しー。
 
 これ以上、彼女のその先を覗いてはならない。そう伝えるように、トウカは晴れた空色の瞳を輝かした。疑問を残すテオフィールであったが、トウカはふわりと側から遠ざかっていく。
 そんな、待って。
 まだ貴方に話したいことが、謝りたいことが数えきれないくらいあるんだ。その瞳で笑いかけて、また自分のことをテオって呼んでほしいのに。
 必死に伸ばした手で触れようとしたが、魔法が解けたみたいに、はらはらと星が散っていくように、彼は消えていってしまった。
 
 その刹那、テオフィールの頭にぐわりとよろめくような眩暈が走った。青年は聡明であったから、すぐに理解する。何らかの方法で、己の呪術が跳ね返って自分にかかってしまったのだと。
 ぐちゃぐちゃと哀感で濡れた林檎の中で、少女の声が聞こえるような気がした。こんな男をまだ心配しているのか、と手放しかけた意識の中でも彼女を思った。

 本当に、馬鹿な女。
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