第一章「死神の館」

第八話『革命前夜』


 ぱちぱちと胸の中に火花が散らし合う。それを消すよう緩やかに息を吐いて、ネームプレートに刻まれた文字を目に映す。コンコン、といつもより強めた力でノックをした。

「レドナー様、お夕食をご用意しました」

 きゅっと瞼を瞑って返答を待つが、沈黙が辺りを占める。指にノックをした感触だけが侘しく響いて、ノエルにはもう一度扉を叩く勇気なんて無かった。ロイヤルブルーの瞳をそっと開いて、盆に乗せられた料理たちを見つめる。
 具沢山のシチューにふかふかのパン。大好きな彼の好物だ。カロンとノエルが手際よく作業しながら、ライムントが具材を切って、ルシアスが鍋を回し、テオフィールが盛り付けて、ジェシーが味見をしてくれた、みんなの気持ちがたんと重ねられた最高の一品。ぽうっと湯気が顔を包み込んで、背中を押してくれているような気がした。
 ここで踏み止まってなんていたくない。彼のいただきますとご馳走様が、もう一度聞きたいから。決然としてノエルは取っ手を掴んだ。

「無礼をお許しくださいっ……」

 扉を押し開いて、ノエルは目の前の光景に白皙の顔を青く染めた。

「レドナー様……!?」

 地べたに蹲り、胸を押さえては呻吟するレドナーがいた。壁には痛ましく爪で引っ掻いた痕があり、床には血が滴り広がっている。
 血相を変えてレドナーの元へ向かおうとしたノエルだったが、レドナーは呼吸が乱れる中がなり声を立てた。

「入るな……!」

 咳払いが聞こえて、床に染みる赤が増えていく。助けなければ、そう思っているのに、レドナーが発した言葉に臆して足を進めることが出来ない。あんなに声を荒げて、拒絶されたのは初めてだった。今自分が選ぶべき正しい行動が、分からなかった。
 レドナーは重たい体をなんとか起こして、壁にもたれながらぐらつく足取りでノエルを横切り部屋を出ようとする。僅かな迷いを捨てたノエルは、レドナーの袖に触れようとした。

「……ッ触るな!」

 ぱしん。がしゃん。べちゃり。
 盆がどこかに転がって、下を見ると無造作に人参やじゃがいもが四散していた。ひりつく手の甲を押さえながら、ノエルは俯いたまま夕食たちから目を離せなかった。

「あ、も、申し訳ございませ……」
「ノエル! お兄ちゃん!」
「ちょ、待てってばジェシー!」

 物陰からふわりとジェシーが駆けつけて、その後を追いかけるようにしてライムントがやってくる。ライムントは呆然と立ち尽くすノエルの背に触れて、ジェシーは二人とレドナーの前に挟まると、カッと己の兄を真っ向から睨んだ。

「今っ自分が何をしてしまったのか分かってるの⁉︎」
「……」
「黙ってないでなんとか言えよ‼︎」

 ジェシーは黙りこくる兄に沸々と憤りをぶつけるが、レドナーはよろりと横目に流す。ぜぇぜぇと酸素の行き届かない肺が疼くのを堪えながら、喉まで出かけた言葉を無理矢理飲み干す。ノエルたちを視界に入れないようにして、即座にその場から立ち去ろうと反対方向へと足を踏み込んだ。

「ちょっとお兄ちゃ」
「すまない」
「は」

 掠れた声でたった一つの謝罪だけを残して、レドナーはもう振り向かなかった。酷くやつれて隈を濃く刻んだあの顔が静かに歪んでいたことを初めて知って、吐き出せたはずの怒罵は兄が角を曲がるまで塞がってしまった。

「理由の分かんない謝罪なんていらないよ……」

 ぎゅっとスカートの裾を掴み殺して、ジェシーは歯を食いしばった。
 こうなってしまうのが恐ろしいから、嫌だったのに。歩み寄って、その手を握れなくて、取り残されて。そうなるくらいなら、キッカケなんて作らなければ良かった? ずっと彼をあの部屋に閉じ込めて、お互いに鍵を掛け合った扉に安心していれば幸せだった? 鍵穴からそっと覗き込んでいたままの方が、自分と兄のためだった?

「本当に、そうなの?」

 きっといつだって開けられた扉を叩けなかった自分が、独りよがりで臆病で、小心者だったと理解していたのに。何百年も隠していた鍵に灰を被せたのだって、紛れもない自分なのに。脆く小さな己の手を見つめて、意味のない自問自答を繰り返した。

「ジェシー!」

 鮮烈で輝く声が自分の名前を呼んで、ジェシーははっとそちらへと体を向ける。心の内を必ず明かさないように、ジェシーはライムントに柔らさを貼り付けて微笑んだ。

「へへ、ごめんね? 他人の兄妹喧嘩なんて目も当てられないよねぇ〜お兄ちゃんには私からお説教しておくからさ、」
「……ジェシー」
「せっかくお料理も手伝ってくれたのにごめんね。残念だけど、片付けよっか」
「ジェシー、もういい」

 膝を曲げて転がる夕食たちを処分しようと差し伸べたジェシーの手を、ライムントは止めるように掴んだ。カロンのと違ってひんやりと冷えたそれは、ジェシーの空っぽの手を離さなかった。

「お前、下手なら嘘なんてつくなよ」
「……え〜? 私はいつだって正直者だぜ?」
「はーっ……良い加減にしろ」

 ぱちん。
 弾んだ音がジェシーの額に響く。極めて力を入れずに、ライムントは指を跳ね当てた。呆れて大口を開けては八重歯を見せるライムントに、ジェシーは「は?」と丸い瞳をより丸める。

「ノエル、お前の姉ちゃんって結構な天邪鬼だよな。んな兄妹に囲まれて大変だっただろ」
「い、いえ、大変だなんてそんな!」

 偉いなぁとしみじみノエルを褒め称えるライムントに、ジェシーは少し赤くなった額を押さえながら、今まで彼に感じたことのない気持ちが込み上げてきているのを段々理解した。

「何が言いたいのかな? 一丁前にお兄ちゃん面しちゃって、まだ十数年ぽっちしか生きてないくせにさぁ?」

 にこ、と柔らかさを破り剥がした微笑で、ジェシーはライムントに詰め寄る。普段なら上手く躱せるはずなのに、今の自分にそんな余裕は無かった。
 さほど年齢差もないだろ、とライムントはジェシーにそこまで動じる様子もなく、淡々と口を開く。

「お前だって小さいくせに強がんなって言ってんだよ」

 葡萄色の瞳が、ジェシーの頭から足の指先まで丸ごと飲み込んだ。全く、とまたしても飽きたみたいに溜めた息を出すライムントに、ジェシーはどっと小腹が立つ。そしてそれと同じくらい、晴れがましく頬に朱が注がれていった。

「き、きみに何が分かるの‼︎ 人の真意を探るようなことしてさ、性格悪いって言われるでしょ⁉︎」
「別に探ってねぇよ……てか、お前だけには言われたくねーな、天邪鬼の姉ちゃん」
「!! もうっイチイチ腹立たしいなぁ‼︎ なんなのっほんとに……」
「……ふ、ははっ‼︎」

 わーわーと騒ぎ立てては怒りを隠さないジェシーに、ライムントは砕けた笑みを零す。そんな彼の反応が気に食わなくて、ジェシーは兄そっくりに眉を顰めた。彼女とは対照的に、ライムントは頬を膨らませるジェシーが随分気に入ったようだった。
 昨夜ジェシーと話した時に感じたもやつきがさらさらと溶けていく。彼女は嘘が下手なくせに意地っ張りなのだ。ただの少女のくせに大人ぶって、弱いところをおくびにも出さない。そんなジェシーに、ライムントはどこか懐かしむように話しかける。

「んじゃ、素直なままで答えろよ」
「……なにを?」
「お前はどうしたいんだ?」

 レドナーを追いかける? このまま無かったことにする?
 ライムントは、ただひたすら真っ直ぐな眼差しでジェシーに問いかけた。自分のありのままの本音を、待っている。直線を描いて炯眼を突き刺す彼に言葉が詰まった。
 答えなんて決まってる。踏み出す勇気が足りない、ただそれだけ。情けなくてつい目線を落としそうになった。

「ジェシー様!」

 大きく発音することに慣れていないノエルが、震わせながら声を張った。ジェシーが俯かないように、彼女の手をきゅっと包む。

「僕もジェシー様も、そしてレドナー様も……本当に伝えたいことを、伝えられていないと思うんです」

 だから、だから。

「もう一度、話しに行きましょう! 僕、こんなところで諦めるつもりなんてありません!」

 きらきらと光を宿したノエルの瞳は、希望で満ち溢れていた。臆病な自分とは違って勇敢な妹の成長を心から嬉しく思って、ジェシーは歯を見せて無邪気に笑って見せた。そんな姉妹二人に、ライムントはそっとツリ目を細める。
 本心を全て明かす必要なんてないけれど、それを伝えたい相手がいるのなら話は別だ。伝えられなかった者も、知ることが出来なかった者も、この先ずっと後悔してしまうだろうから。

「よしっ行くか」

 俊敏に立ち上がって、ほら、と二人に手を伸ばす。ジェシーとノエルはくすりと綻んで、ライムントの冷たくて、けれども頼もしい手を選び取った。


◆◆◆


 窓辺に肘をかけて、ルシアスは星屑と一緒に、煌めく佳月を仰ぎ見ていた。己の魔法で生み出された流れ星もこの眺めを好んでいるのか、周りをくるりくるりと舞っては楽しそうだ。
 星の子と戯れながら、ルシアスは今日のデート……否、カロンとの外出について思いを巡らす。デートだなんてしたことがないから、彼女の無茶振りには困らされたものだ。いや、デートなんかじゃ決してないのだが。箒から落っこちそうになるわ、結局三十分以上待たされるわ、キャラメルを貰わなければルシアスの機嫌は暫く戻らなかったに違いない。
 手の掛かる奴だ、とルシアスは満更でもなさそうに肩を竦めた。ここまでルシアスが妥協してカロンのお転婆を許してしまえるのは、彼女の何気ない一言のせいだ。

「僕の魔法が好き、ね」

 ふ、と口元を上げて、ルシアスは流れ星をうりうり撫でてやる。
 悪い気はしなかった。自分の誇りは自分だけが分かっていればいい、だが素直な好意を不躾にするのは失礼だ。それに、好きなものを共に好きだと笑ってくれることを嫌に思う奴なんていないだろう。
 本人を目の前にして感謝できるほど器用なんかじゃないから、夜空にこうして聞いてもらっている。

「……あれ、でもなんか既視感あるな」

 ほわほわと気を良くしていたルシアスだったが、ふとこの高揚感にデジャヴを覚えた。己の魔法を好きだと笑ってくれた人が、他にもいたような。もしそうなら忘れたくなんてない、一生を懸けて大事にしたい。
 うんうんと腕を組みながら頭上にはてなを出現させまくるルシアスを見かねたのか、流れ星はこてん! とまたもや治りかけのたんこぶに突撃した。

「うおいばかっ‼︎ いったいだろ‼︎」

 誰に似たのか、やんちゃで餓鬼臭い星を叱りつける。知らんぷりする我が子に青筋を立てかけたが、大人気ない人間にはなりたくないな、とどこぞの案内人を思い浮かべてはため息を大袈裟に吐き出した。

「……っいたっ……!」

 夜空へ視線を変えようと瞳を動かすと、柘榴色を飾った右目がずきりと痛んで、反射的に手で押さえた。
 時々この痛みがルシアスを襲うのだが、細かい原因などはさっぱり分からない。この世界でも珍しい色鮮やかな二色を窓に映す。

『お、おれ、俺はっ、ルシ、ル、ルシアスの瞳っも、魔法も、す、好き……好きだ……っ!』

 小さく一生懸命に叫ぶような声が脳内に聞こえて、ルシアスははっと目を見開く。
 力一杯に、純乎たる想いを自分にプレゼントしてくれた、彼の黄土色の癖毛に隠された深緑色の瞳を思い出して、ルシアスはその名を叫んだ。

「タルファー!!」

 そうだ、タルファーだ。自分の魔法が好きだと言ってくれた、たった一人のパートナー。
 ライムントに昼食を奪われたルシアスは、そのまま彼を追いかけてカロンたちと出会った。だがそれ以前に、ルシアスはタルファーと共に行動していたのだ。カッとなってライムントを追跡したルシアスは、すっかりタルファーを街の真ん中に置いてきてしまったということになる。唐突な別れ際に涙目を浮かべて己の名を呼んでいた相棒を今になって思い出す。

「アーッ‼︎ なんで忘れんだよッ馬鹿か僕は‼︎」

 いや誰が馬鹿だ‼︎ だなんて自身に罵倒する様子はなんとも愚かなことか。昔から何故か忘れっぽい自分の脳が本当に憎たらしかった。だが、毎日開催される反省会を催す暇はない、一刻も早くタルファーの元へ戻らなければ。
 彼は極度の人見知りどころか対人恐怖症に近い性質で、人混みにいるだけで気分を悪くして胃痛を加速させてしまうような子だ。自分がそばにいてやらなければ、自分が守ってやらなければ。
 短い脚を走らせながら星を連れて、扉に手を掛けようとした。けれど、ルシアスによってそれが開かれることは無かった。

「また練習にでも向かわれるんですか?」
「どけ案内人‼︎ 今君に構ってあげらんないんだよっ‼︎」

 部屋に入ってきたのはテオフィールだった。この男が一体自分に何の用だと気になりはしたが、生憎それを聞く時間は残されていない。せかせかと慌ただしく彼を追い抜こうとしたが、ふと上から音が降り注いだ。

「常々疑問に思っていたのですが」
「だから今急いでるって言って――」
「貴方は何故、無駄な努力をするのでしょう」

 さらりと、テオフィールは爽やかな声色で質問を尋ねた。ぴくりとルシアスの体が跳ねて、頭一つ分は身長差のある彼を見上げた。いつもと変わらない、癪に触る澄まし顔がこちらをただ見下していた。

「君、それはこの僕を侮辱しているのか」
「侮辱? 単なる問いかけですよ」

 長く束ねたまつ毛を瞬かせて、テオフィールは不思議がる。悪意があってもなくても、その言葉はルシアスにとって見過ごせないものだった。腹の内が読めない男にルシアスは躊躇わず、正々堂々と小さい体で向き合う。

「天才になるためだ。後は……」

 ――自分のため。
 そう。ルシアスが絶え間なく積む努力は、誰のためでもない、かけがえのない己のためだ。
 頑張る自分のおかげで、ルシアスはルシアスのことを更に大好きになっていく。そんな己を愛している。

「この努力は僕の誇りだ。無駄なことなんて何一つない!」

 だから、テオフィールが付け加えた「無駄」の二文字を、ルシアスは絶対に許せなかった。

「……あぁ、なるほど」

 ルシアスの答えを聞いて、帽子を少し下げながらテオフィールはぼそっと呟く。

「なけなしの自己肯定が消えないようにと、必死なんですね」

 鮮やかに口角に弧を描いて、松葉色の髪を揺らす。テオフィールの発したことが、ルシアスは一瞬理解出来なかった。誰もの視線を奪い取ってしまうような微笑みで、この青年は、この男は。

「ッッお前!!」

 言葉を咀嚼し切ったルシアスは、ガッとテオフィールの胸ぐらを掴んだ。

「僕を憐れみたいのかッ⁉︎」

 テオフィールが己を見つめるその目が、訴えかけていた。
 お前は可哀想で、どうしようもなく憐れだと。

「ふざけるなよッよくも僕を馬鹿にしたな‼︎ 僕の誇りを、無駄や憐れだと一括りにしやがって‼︎」

 ルシアスは熱り立って、テオフィールに怒鳴り上げる。そんなルシアスに対しても、平然と表情を崩さない男が腹立たしくて仕方がなかった。
 ルシアスがこうなると分かっていて、彼はあの表現を選んだ。確実に悪意のある行動を取った。
 視界を真っ赤に滲ませて憤るルシアスに、テオフィールは林檎色を細める。ルシアスの華奢に見えて硬い手首を、彼は思いの外強い力で掴んでは胸ぐらから引っ剥がす。一度瞳を閉じて、テオフィールはルシアスを見つめては、ゆっくりと笑った。

「じゃあ、なれたんですか?」
「はぁ!?」
「その努力が実って、天才になれましたか?」
「……‼︎ そ、それは」
「望んだものが手に入って、貴方の誇りは報われたのですか?」

 ルシアスは怒声をひゅっと喉に押し込められて、反対にテオフィールがルシアスに詰め寄っていく。彼の紡ぐ言葉の一つ一つが、ルシアスにじわじわと染み渡って、体がびくりと凍りついた。

 
『ルシアス、お前には向いてねぇんだよ。とっとと諦めな』
『な、なんでだよっ師匠、僕はまだ……!』
『がむしゃらに頑張って、百点満点中半分も取れないお前に何が残ってんだ?』
『……っ‼︎』
『試験は終わりだ。帰っておねんねしな』
『待ってよ、僕、僕は……‼︎』


 冷ややかに向けられた紅玉色の瞳から己が消えて、遠のいて行く背中をただ眺めていることしか出来なかった。
 容量が悪くて、物覚えも悪くて、視野が狭くて、才能がない。鋭く言い渡された師範の酷評に、ぽろりと目玉が潤んだ。泣くな泣くな泣くな。ここで涙を一粒でも落としてしまえば、認めたも同然になるから。
 だから、鼻を力強く啜って、あの時自分はこう叫んだんだ。

「っ僕は僕のなりたい僕になるために努力するんだ!! どんな困難が立ちはだかってきたって、諦めてやるもんか!!」

 瑠璃と柘榴をぱちぱちと星々のように輝かせて、世界中の人に届くように声を高らかにして宣言する。目の前の青年にも満遍なく広がるように、はっきりと、ひたすらまっすぐに。

「そうですか」

 あっさりとした応答を返して、テオフィールはルシアスの手首を離した。いきなりだったがため、少々バランスを崩してぐらついたルシアスは重心を前に戻そうとする。
 だが、ぱっと、テオフィールがルシアスの肩を押して、空白の時間が生まれた。腹部にのめり込むような、強力な痛みがルシアスを貫いて、勢いよく窓辺近くの壁に投げ飛ばされる。息を吸い込もうとするが、圧迫された肺が上手く機能しなくて、臓器を抱え込むように倒れ込んだ。静かに歩み寄ってくるテオフィールが己の腹を思い切り蹴り上げたことを、ルシアスは苦しみ悶えながら理解させられた。こちらを見つめる彼の顔には、爽やかさも笑顔もなかったのだから。
 ルシアスをどうにか助けようと、テオフィールの脚に小さい体をぶつける流れ星を、テオフィールは片手間に作業を済ますように握り潰した。ぱらぱらと容易に散っていく星の子に、ルシアスは悲鳴をあげた。

「……ッお、前……!」
「今日で、全部終わるんです」
「は、終わるっ、て、」
「だから貴方の努力も、誇りも、貴方自身も、私も」

 綺麗さっぱり、終わらせられる。もう苦しい思いなんて、しなくて済む。
 テオフィールは死体みたいに、安らかに表情を和らげた。左手を横に伸ばすと、ふんわりと包まれた光が弓に変わる。それには平行に張られた弦があり、ハープのような形状をしていた。
 細い指先がたおやかに弦に触れ、美しい音色が奏でられる。テオフィールの魔法から生まれた楽音が脳に焼き付いて、ルシアスは咄嗟に耳を塞ごうとしたが、それよりも先にテオフィールに叫び声を渡らせた。

「‼︎ テオフィールっやめろ‼︎ それは……っ‼︎」

 ――呪術だ。

 ぴきり。
 己の右目に割れるような痛みが走って、テオフィールに伸ばした手が地面へと這いつくばる。ぐにゃりと歪んだ視界が真っ赤な血で滲んで、ルシアスは立ち上がることが出来なかった。砕ける意識の中で、テオフィールが扉を閉めた音がして、力無く流れる血に塩が混じった。

「助けて、師匠……」

 届くはずのない救済を求めた。
 

◆◆◆


「マナ、もっと速度を上げられないの?」
「これでもアゲアゲだっつーの! 風とかの魔法はニティちゃん担当! 俺の専門じゃねぇから大目に見てくれ」

 日が眠りについた黒の空に、クラウンベリーはマナロイヤの箒に乗せられて移動していた。クラウンベリーの急かすような発言に、マナロイヤは頑張っていますと懸命にアピールする。
 ジョジュアから連絡があり、二人はお騒がせな弟子の元へ箒を走らせ向かっていた。予想以上に早いジョジュアの仕事ぶりにクラウンベリーは驚かされたが、マナロイヤはそれを分かっていたかのようだった。
 案内人に総動員で街中を探させたらしく、目撃情報はころりと発見された。そんなことをしれっとやってのけるジョジュアの持ちうる権能が気になりながらも、クラウンベリーはまた改めてお礼に赴こうと決めた。
 万が一カロンたちと入れ違いになった場合を考慮して、店はタルファーに任せてある。店にあるものは好きに食べていいと言っても頑なに頷かなかった彼は、なかなか謙虚な性格だった。

「……それにしても、まさかあの森にいるなんて」

 ジョジュアから預かった情報を振り返りながら、クラウンベリーは進む方角へと視線を移す。
 商店街で料理人の少女と話したと八百屋の店主が名乗りあげて、案内人は話を聞いた。少女と案内人の青年が商店街で起こった小規模な暴動について謝罪を詫びに来たこと、青年の両脇にライムイエローの髪の青年と水色の髪の魔法使いが抱えられていたこと。
 そして、彼らの行き先があの森の方向であったこと。クラウンベリーは額に指を当てて焦燥に陥る。

「死神の住む森……あそこは立ち入り禁止区域のはずなのに」

 シュテルンタウンで暮らす者なら、誰もが知る恐れられた場所。そんなところに、愛弟子は足を踏み入れてしまったらしい。自分が地図をしっかりと送れていたらこうはならなかったはずだ。世間知らずな彼女のことをもっと考えてあげるべきだったのに。

「カロンも、貴方のお弟子さんも、どうか無事であってと祈るしかないわ……」

 マナロイヤの少し低い背丈にもたれながら、きゅっとバイオレットのケープに縋る。マナロイヤは横目でクラウンベリーを見ると、明るい声を弾ませた。

「弟子ちゃんに会って、ちゃーんと説教してやらなきゃだな」

 師匠の仕事だろ?
 赤みのかかった茶色の髪を優雅に靡かせて、紅玉に照らされる瞳を細めては整いすぎた顔を月に輝かせた。この世の自然物なんかよりずっと純粋で美しい彼の言葉が、クラウンベリーをいつだって支えてくれる。
 魔法使いに身を預けながら、クラウンベリーは感謝を漏らす。マナロイヤは満足そうに笑い声を響かせた。

「ったく、ルシアスの奴も世話掛けさせやがって」

 マナロイヤはルシアスのことを弟子とは一度も呼ばなかった。それでも、保護者のように小さな魔法使いの名を呼ぶ。

「やれやれだぜ。おい、いるか精霊ちゃん」

 透明な空気に問いかけて、マナロイヤは誰かと話している。楽しそうにケラケラ肩を揺らす彼は、こう見えて純魔法使いの一人である。詳しいことはクラウンベリーもよく知らないが、マナロイヤは鉱物を自由自在に操れて、動植物や精霊に好かれやすい体質をしているらしく、クラウンベリーには見えない存在にもこうして会話をすることが可能だ。
 おっしゃ、と何やら交渉に成功したのか、マナロイヤはクラウンベリーにウインクを投げかける。

「褒美に後でキスでもしてやるよ。そんじゃ頼むぜ」

 精霊に愛らしくそう告げて、マナロイヤは箒をガシッと掴んだ。

「ベリーも俺の腰に掴まれよ!」
「えっちょっと、マナ」
「時速アゲアゲのアゲアゲだー!」
「きゃーっ! 早すぎるでしょうマナっ! 髪が乱れちゃったらどうするの!」
「ぼさぼさのお前もきっと可愛いよ! そしてぼさぼさの俺もきっと最高にかっこいい!」

 精霊に力を貸してもらったマナロイヤは、箒の速度をぐんとあげて暗闇を突っ切っていく。クラウンベリーの悲鳴に腹の底から爆笑を転がして、へんてこりんなヘアアレンジのカリスマパティシエにイケメンお兄さんな自分を待ち遠しく思った。
 

◆◆◆


 ガラガラと馬車が車輪を回して、狭く薄暗い森の中を進んでいる。運転手である女性はちらりと後ろを見やって声をかけた。

「ねぇお客さん。結構日も沈んじゃったけど、本当に此処で大丈夫?」

 夜の森は思っている以上に危険だ。それなのにこの場所を頼んだ客に、運転手は心配そうに問いかけた。

「あぁ、大丈夫だよ。ちょっと買い物に時間を取られすぎちゃったけど」

 乗客である少年は、声変わりの始まっていない高い声で人当たりの良い返答をした。席の両サイドに置かれた山盛りのプレゼントたちは、見事なバランスで積まれている。
 少年は部下たちへの土産を見て回りたいのだと、運転手と共に何件も店を回ったのだ。そこそこ値段のしそうなチーズの食べ比べセットに、多彩な布や刺繍糸、名前が無駄に長い薬草などなど、規則性のないものを少年は買い漁っていた。中でも目が血走ったパンダの人形は印象的で、今夜の夢にでも出てきそうだと運転手は汗を垂らす。少年もその人形を見つめてはどこかげんなりとした様子であった。

「こんな森に、一体どんなご用事があるの?」

 単純に気になった疑問を運転手は少年に向けた。見たところ少年は十代後半くらいだろう。もし森の奥にまで行こうとしているのならば、止めてやらなければならない。
 なんたって、この先はあの恐ろしい死神が住まう館があるとの噂が昔から吹き通っているのだから。そもそも立ち入り禁止であるから、少年もまさか立ち寄ろうとは思わないはずだ。館だってあるとは言われているものの、実際のところ辿り着いた者はおらず、本当の話かは定かでないのだが。
 少年は運転手の質問を聞くと、深く被ったフードの中でひっそりと微笑んだ。きらりと何かが輝いて、少年の顔が分かりやすく映る。運転手は目を凝らして、少年を見つめた。
 少しくすんだ桃色の髪が右に跳ねて、控えめに右耳のピアスを目立たせている。穢れのないサファイアの瞳は、こちらを見抜くようにきらきらと光った。
 この煌めきをつい先日も目にしたことは、運転手の記憶にも新しい。眩しい笑顔を贈ってくれた少女、カロンを連想させる、瓜二つの顔だった。少年は宝石を瞼に潜めて、笑顔を彩る。

「今日は面白いことが起きるよ」

 それを見にやってきたんだ。
 おもちゃ箱を眺めるみたいに、少年はあどけなく言葉を踊らせた。

「あ、そういえば名前を言ってなかったっけ」

 うっかりしてた、と意外にも大きな瞳を丸めて、少年は運転手に破顔してみせる。

「俺はケイン。せっかくなら覚えてくれると嬉しいな。名前は自分の存在証明になるからね」

 穏やかに自己紹介をして、ケインはサファイアを不穏に閃かせた。
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