第一章「死神の館」
第七話『零時の鐘の音』
ゆらりゆらり。
虚ろとした意識の中、春風みたいに軽快なリズムが身体を乗せる。それはまるでゆりかごのよう。安らぐはずの気持ちに、何故か寒気がした。不安定に揺れ動いて、何かがこぼれ落ちるような、何かを思い出してしまうような。自分が自分でなくなってしまうような。そんな気がして、震えて出ない声を振り絞って助けを求めた。
誰か、誰か……
「カロン」
ぎゅっと、強く、優しく、独りぼっちだった己の手が包み込まれる。大きくて骨張ったそれは、生きていて初めて感じたあたたかさだった。大切で、大好きだった気がした。竦み上がって言葉を上手く発することのできない自分に、声の主は握る手を離して、そっと頬に触れた。やっぱり、あったかい。
ベッドに横たわる己のそばに、腰をかける男がいた。見上げれば窓があって、日を落とした空にはひらひらと流れ星が舞っている。妙に安心感のある此処に、感じるはずのない懐かしさを覚えた。
とろとろした視界をゆっくり動かしながら身体を起こして、優しい手の先にいる人物を映す。彼は青色の大きなニットコートを羽織って、首元には自分の瞳によく似た宝石を彩ったペンダントをかけている。恐る恐る視線を上にやると、紺色に潜む赤がこちらを愛しそうに、柔らかく見つめていた。男は前髪が長くて読みにくい表情ではあったが、落ち着いた雰囲気とこの温もりで十分だ。紺色の瞳に浮かぶ林檎のような赤が純良で、つい息を呑む。男は己の頬を撫でながらゆるりと微笑む。
ひやり、と頬に固いものが当たって、不思議に思いながら確認する。控えめに光るそれは、男の左手の薬指からであった。はっとして問いかけようとするが、またもや声は泡のように消えていく。男はそんな己の様子に気がつくと、活力のない瞳を伏せて指輪を凝視しながら呟いた。
「ふふ。なんだか照れちゃうね」
こちらを見つめて、心底幸福だと少し照れたように笑みを向けた。
その表情の訳が理解出来なくて、でも男の幸せそうな笑顔が堪らなく嬉しくて、瞼が微かに揺れているのが分かった。こんな顔を見られたくなくて、ばっと急いで頭を下げる。男はこてんと首を傾げるが、自分には状況を説明する余裕がなくて、ただだんまりと口を閉ざした。
そんな情けない様子の中、男は己の左手をさらりと選び取る。傷つかないように、汚れないようにと触れられた温度が、嫌でも分かってしまうくらいに愛情を告げていた。そっと男が身につけていた指輪と同じものが薬指を潜る。どきりと胸が刺されて、目を見張った。指輪をなぞって、彼の指先が一本一本と己の手に絡む。男の大きな手が、全てを包むかのようだった。言葉にならず狼狽するカロンに、男は静かに口元を綻ばせた。
「あぁ、やっぱり。君に似合うと思ったんだ」
なんて愛おしそうに、自分を見つめるのだろう。
どうして、どうしてこんなに、心が割れてしまうくらい苦しいのだろう。
こちらを射止めるように、愛を惜しみなく注いで、幸せを噛み締める男の気持ちがなにも分からなかった。分かりたくなんてなかった。
微睡んだ空気の中、熱を帯びた身体の感覚が気持ち悪くて、ぐらりと意識がおぼつく。男の優しい声も美しく実った赤の果実も、段々と遠のいていって、つい涙が差し含んだ。
――待って、行かないで。
そう伝えたいのに、きっと伝わらないだなんて無力感が襲う。それでも己が瞳の雫を滴らせなかったのは、彼がこの手をずっと握っていてくれたから。男は切れ長のジト目を朗らかに細めて、小鳥の囀りのような声で囁いた。
「行ってらっしゃい。どうか気をつけて」
◆◆◆
「待って!」
眩しい朝日の映った天井に手を差し伸べる。先ほどまで確かにあった誰かの温もりは、どこにもなかった。カロンは汗でぐっしょりと滲んだ背中で、浅い呼吸を繰り返す。
懐かしい夢を見た。けれど、何も思い出せない。ふと左手の薬指に目がいって、うら寂しく触ってみる。良い夢ではなかったことだけは、十分に理解出来た。左手を額に乗せて、己のサファイアを隠す。こんな憂鬱な朝は初めてだ。少し重たい身を起こして、窓から笑いかけてくれる光を見つめる。
「カロン様、おはようございます」
ノック音が二回鳴り、ノエルの声が扉の向こうから聞こえた。はっとしてカロンはノエルに挨拶を返す。
「朝食の準備が出来ましたので、ゆっくりいらして下さい」
お召し物はクローゼットの中にございます、とノエルは言い残して足音を遠ざけていった。なんとハイスペック。クローゼットを開けると、仄かにフローラルな香りが眠気を一気に飛ばす。ふかふかと肌触りの良い衣服を纏って、カロンは大広間へ駆け出した。
「ふぅ、美味しかった! ありがとうノエル、ご馳走様」
ぱん! と両手を合わせてカロンは満面の笑みをノエルに向ける。今朝のメニューはエッグベネディクトにコーンスープにオレンジジュースと、余すことなく胃袋へと旅立っていった。ありがとうご飯たち、とカロンは元気の源たちに感謝を込める。
テオフィールとジェシーはぺろりと完食していたが、ライムントにルシアスは少食なのか時間がかかっていた。食べ切れないことを申し訳なさそうに謝るライムントから残りを頂戴したカロンは満腹である。
「ねね、ちょっといいかな」
皿が片付けられて、皆が席を立とうとしていたところでジェシーが声をあげる。一口程度残ったオレンジジュースをゆらゆら傾けながら、ジェシーは目線をゆっくりとこちらに移動させた。
「私さ、正直夜道が不安だとかいう優しい理由で、きみたちをここに留まらせたんじゃないんだよね」
「ふぅん。悪意があってのこと、ということかい?」
丁寧に口元の汚れを拭き取りながら問いかけるルシアスに、にこっと瞳を瞑るジェシーは地に付かない足を揺らしながら返答する。
「そうだね。部屋に引きこもってばっかのお兄ちゃんに、なんでもいいから少しでも変われるキッカケが欲しかったんだ」
そしたら運よくきみたちと出会えちゃった! ジェシーは明るくおどけてみせる。やけに寂しげな顔を隠しているようにも思える仕草だった。不思議に見つめるカロンに、ジェシーは変わらぬ様子で朱色を細める。
「あんなに楽しそうなお兄ちゃんは久々に見たんだ。ありがとう」
こちらにあざとくウインクを送るジェシーであったが、カロンは疑問を浮かべる。うーんと人差し指を唇に当てて悩むカロンの隣で、ライムントがため息をついていた。
「お前なぁ……また盗み聞きかよ」
「え〜聞こえなぁい〜なんのことかな〜?」
横髪で隠れた耳に手を被せて首を振るジェシーに、ライムントは呆れて肩を落とす。どうやらカロンの知らない間に、二人には交流があったらしい。普段は気さくな彼がジェシーに振り回されて、慣れない対応を見せるのは少し新鮮だ。
「……えーっとね、まぁなにが言いたいのかって話なんだけど」
耳から手を離して、もこもこと柔らかい前下がりの髪を小さな手できゅっと掴む。視線を床に落とすジェシーは、言いづらそうに口を開いた。
「みんなに、まだここにいて欲しいんだ」
髪を掴む力をほんの少し強めて、ジェシーはぽつりと言葉を零す。
「迷惑なのは百も承知なんだけどさ。でも、もうこんなことってないと思うの」
間延びした話し方が次第に早くなって、ジェシーは焦るように続きを急がせていた。あやふやに聞こえる彼女の声色が、はっきりと不安定な音を鳴らしている。
カロンは即座にジェシーに近寄ると、優しく手を包んだ。小さくて、ひんやりと心細いそれは微かに震えていて。皆に見えないように、カロンはジェシーを宿木みたいに大きく囲む。
「しっかり伝わっているわ、大丈夫よ」
安心が全面に染み渡るように、小声で穏やかに笑いかける。ジェシーは丸い瞳を幼く広げて、小恥ずかしそうに首を傾けた。その様子が可愛らしくって、カロンはツインテールを楽しく揺らす。
「それに、元々そのつもりだったの!」
ジェシーから手を解くと、カロンは手のひらにふわりと息を吹きかける。和やかな気流から形が作られて、カロンの手のひらにはちょこんと青い鳥が止まっていた。ちゅん、とご機嫌に囀る空気で出来た鳥は、カロンの肩に乗っかると小さな体で小刻みにステップを踏む。
「昨日、到着が遅れるって師匠に手紙を出したわ。私もまだこの館でやれることがある気がして」
昨夜のぶっきらぼうな彼の、誰よりも優しい表情を思い出しながら、カロンは意思を伝える。
「手紙はこの子たちが届けてくれたのよ!」
えい、と青い鳥の頬を突く。現在手紙を配達中の小鳥と肩に乗っている小鳥は違う個体のようだ。元気にジェシーへと了承を伝えるカロンを見て、ライムントも手を挙げる。
「オレもいいぜ。てか、宿泊費とか浮くからこっちとしては有難い話なんだよな……」
「そういえば、ライムは用事があってご実家からシュテルンタウンまで来たものね」
「あぁ。金も無駄に使いたくなかったし、助かるぜ」
「カロンちゃん、ライムントくん……!」
なはは、と頭を掻くライムントもにこやかに返事をする。ジェシーは胸が空くような気持ちで息を漏らした。
「ルシアスとテオはどうかしら?」
「僕の行動を邪魔しないのなら構わない」
「私も問題ありませんよ」
腕を組んでふん、とつんけんしながら顎を上げるルシアスに、にこやかに綻ぶテオフィール。この場にいる全員がジェシーの頼みを快く受け取った。デザートを用意しに来たノエルは、その様子を自分のことのように嬉しいとジェシーに含み笑う。
「あ、んじゃオレらからも提案いいか?」
アホ毛を動かして、ライムントはノエルに目を転じる。ほら、と八重歯を見せて誘導するライムントに合わせて、ノエルは控えめに話し出す。
「え、えっと! レドナー様に、僕の料理を食べていただきたいんです……」
ノエルはそそ、とデザートを並べながら、しどろもどろと声を潜ませる。
「でも、ここにいる皆様と一緒に作ればもっと美味しくなると思っていて」
きっとレドナー様も喜んで下さるんじゃないかって。
そう語るノエルの表情には不安が少し、けれど確信を持つ微笑みを湛えていた。ライムントはそんな彼女を優しく見守る。
「ふふ、えぇ勿論! 私に出来ることなら、沢山ありそうね!」
「言っておくが、僕は簡単なものしか作れないぞ……」
「そうですね……私も料理には馴染みがないので、ご指導頂けますと助かります」
「はい、全然大丈夫です! 本当にありがとうございます……!」
深々と一人一人に腰を曲げて、ノエルは精一杯の感謝を伝える。こんな奇跡みたいなことがあっても良いのかな、だなんてロイヤルブルーの瞳がほんのり滲んでいくのを、なんだか嬉しく思った。
「買い出しは僕とライムント様で向かいますので、その間はご自由にくつろいで下さいね」
そう伝えて、二人は街まで買い出しへと赴いた。自室で休むとテオフィールとジェシーが去って、大広間にはカロンとルシアスの二人きり。
そろりと冷や汗を感じたルシアスは足早に部屋を出ようとするが、ぎゅっとカロンが手を握って引き止めてきた。うわっと後ろに倒れ込みそうになるのを持ち直して、ルシアスはジト目でカロンを見やる。
「おい、離せよ……僕は暇じゃないんだ、お分かりだろう」
「でも、少しはお休みの時間も必要でしょう?」
カロンは相変わらず空色を満点に煌めかせて、ルシアスにぐいっと近づく。ちょっと、と頬を赤らめるルシアスだが、お構いなしにカロンはにぱっとはにかんだ。
「なら私とデート、しましょう!」
「……ハァ⁉︎」
この女といるとやっぱりろくでもないことに巻き込まれる、そう分かっていたのに。強引にでも部屋を出なかった時点でルシアスの勝敗は決まっていたのだ。彼女のお日様みたいにあたたかいこの手だって、離せそうにはないのだから。
◆◆◆
「おいちゃんと掴まっておくれよお分かりかい⁉︎」
「わーっ! 見て見て飛んでるわ! 心臓が飛び出ちゃいそう!」
ふわりとくすぐったい浮遊感を味わいながら、カロンとルシアスは箒に二人乗りで宙を仰いでいた。澄んだ碧空を小魚のように泳ぐルシアスの操縦はカロンの子供心を更に掻き立てる。両手を離して気流に身を任せるこのスリルがなんとも堪らない。
「だから‼︎ 僕にしがみついておけと︎‼︎ 言っているだろう‼︎ 僕を犯罪者にしたいのか⁉︎」
箒から少女を落として殺人罪! だなんて、栄光ある天才魔法使いへの道が絶たれてしまう。そんなの絶対にごめんだ。ころんと後ろにひっくり返りそうなカロンを、ルシアスは冷汗三斗の思いをしながら横目で注意する。安全運転が第一なので振り返ったりする余裕はないのだ。こちとら木の棒に二つの命を背負っている。これだから二人乗りは嫌なのに、とぶつくさ愚痴を垂れた。
「ふふ。私、ルシアスの魔法が好き!」
「……そうかい」
一通り満足したのか、カロンはよいしょとルシアスの背に体重を預けた。しがみついた魔法使い(になる予定)の腰は、小柄な見た目だが存外硬くしっかりしている。視線を街の方に落とすと、住民がぽつぽつと色とりどりな飴玉のように転がっていた。
「げ…今日はやけに案内人が多いな」
ちらりとオッドアイを見下ろして、ルシアスは多数の青色の帽子を発見すると厭わしそうにぼやいた。
「あら本当ね。どうしてそんなに嫌そうなの?」
「だってあいつら、妙に話しかけてくるじゃないか。店でしつこく接客してくる店員みたいで、鬱陶しいったらありゃしないね」
おまけに顔も良いし、無駄に。とルシアスは最後に付言して、うげぇと苦虫を噛み潰したように舌を出す。
「そうかしら? 私はいっぱい話しかけてくれて嬉しいわ!」
「ま、君とは相性良さそうだね。残念ながら僕とは最悪だから、こうして箒でちゃっちゃと飛ぶのが効率もいいんだ」
普通の人間が箒を使って飛ぶ、というのは簡単なことではなく、それなりの練習が必要だ。現に周りを見渡しても、ルシアスのように箒で移動している者も僅からしい。勿論移動手段には便利だけれど、わざわざ取得しようとすることも多くはないため、空を飛んだことのない人もそこそこいる。カロンもそのうちの一人だったので、このデートは絶対に逃せないとチャンスを伺っていたのだった。
「で、どっか行く当てはあるのかい?」
「えぇ! 昨日からずっと気になっていた場所があるの」
ぐっと腕を伸ばして、目線の先へと人差し指を向ける。シュテルンタウンに大きく、けれどもひっそりと建つそれはチクタクと秒針を刻んでいる。
「時計塔?」
「そうそう!」
それぞれ昼と夜の零時を知らせる時の塔、と変哲もない建物に興味が湧くのは、カロンがこの街に初めて訪れたからか。ルシアスにとっては何度も目にしたものだが、彼女はきっと違うのだろう。カロンはこの街の店や人々、道端に生きる密かな植物たちにだって、初めて出会ったようにはしゃいでいた。
「旅の記念くらいにはなるか」
そう呟くと、ルシアスは箒を羽ばたかせるスピードをほんの少し早めた。
「ほら、ついたよ」
「ありがとう、ルシアス!」
「別に礼なんていらない」
高い空間を飛行していたので、風が強く当たってくる。二人は片手で帽子を押さえながら、秒針の音に耳を傾ける。重く進む音色が静かな天空によく響く。時計よりも少し上を見ると、どうやらくつろげる場所がありそうだ。懐に忍ばせたキャラメルに笑いかけて、ルシアスに声を掛けようとした。
その時、空から何かがこちらに落ちてくるのが見えた気がした。昼間の燦々とした日の照りに瞳を狭めながら観察していると、カロンの横をまっすぐに落下していきそうになっているのが分かって、反射的に箒から身を乗り出した。
「カ、カロン‼︎」
瞬時に腰へしがみついたルシアスのファインプレーのおかげで、カロンはなんとか安全を確保した。そしてルシアスは殺人罪を免れた。大きな瞳をじわじわ潤わせて、ルシアスは色をなしてカロンに詰め寄った。馬鹿! 考えなし! あんぽんたん! とぷんぷん息を巻くルシアスに、カロンは慌てて謝罪を挟みながら、両手でキャッチしたものを改めて見てみる。
「靴……?」
落っこちてきたのは、片足のスニーカーだった。カロンの足を比べても随分と小柄なもので、恐らく子供用だろう。
「なんだいそのボロッボロの靴は……」
「多分、時計塔の上から落としてしまったのだと思うの。持ち主さんも困っているかもだし、返しに行ってきても良いかしら?」
黄ばんだ汚れの目立つ靴を見せると、呆れたようにため息をついてルシアスは箒を上昇させた。カロンがうっかり落ちてしまわないよう、慎重に柵の向こう側へと降ろしてやる。その先には扉があり、靴の持ち主はそこにいるのだろう。
「少し待たせてしまうけれど、すぐに戻ってくるわね」
「どうせ君のことだから三十分は待たせるだろう。僕には分かるね」
さっさとお行きよ、と箒の上で胡座をかいてしっしと先を急がせるルシアスに甘えて、カロンは軋んだ扉に力を込めた。
ギィ、と積年の重みが籠った扉を押すと、荒波のような逆風がカロンを迎えた。反射的に腕で顔を庇ったカロンは、そっと瞳を開ける。
「……カロン?」
己の名前を呼ばれて、カロンはサファイアをぱちくりと動かす。
切り揃った茶髪のボブヘアに長い触角を結び、柔らかい黄緑色の瞳に不思議な四角の光を浮かべている少年が、鐘に垂らされた紐を引っ張っていた。彼はカロンを見るなり酷く驚いて、二の句も継げないようだった。少年はカロンに、何かを言いかける。
ゴーンゴーン
零時を伝える鐘の音が鳴り響く。あっけに取られていたカロンとは違って、少年ははっと意識を戻す。スタスタと早歩きでこちらに寄ると、カロンの手から靴を奪い取った。
「あ、貴方のものだったのね。良かったわ!」
「……どうも」
「けれど、随分汚れているみたいだから、洗ってあげた方が良いんじゃないかしら?」
「どうでもいいでしょ。赤の他人の靴のことなんて」
キッとツリ目を尖らせて、少年は腹の底から不愉快だとカロンを睨んだ。すぐにカロンから視線を外すと、古びた塔の壁に背を預けて座り込む。煤けたスニーカーを裸足に嵌めて、ダボダボのルーズソックスで靴が見えないよう無理矢理覆った。肝心のルーズソックスですら薄汚れていて、彼をよく観察してみると異様に痩せ細っているように思える。
少年はポケットから袋を取り出すと、中から適当にカットされた食パンの耳を短く齧った。街を見下ろす彼の瞳は朧げだ。
「ちょっと待って!」
艶の灯ったロングブーツに傷がついてしまうことなんて厭わず、カロンは地面に膝をつけて少年の目の前にしゃがみ込む。質素な昼食を取る少年の手をそっと掴んだ。カロンはパンの耳が無造作に詰められた袋に手のひらを翳しながら深呼吸を繰り返す。すると、ほわほわとあたたかい空気が場を輝かせた。
「な、なに……?」
「はい、食べてみて」
「え、」
「あーん!」
ぱくり。少年のおぼこい口にカロンはパン耳を入れてやる。少年はぎょっと目を丸くしてぶわりと頬を染めた。カロンに文句の一つや二つ言いたげな様子であったが、咀嚼していくうちに表情の刺々しさが落ちていく。
「……味が違う」
「ふふ、私の魔法よ!」
「! 魔法……!」
カロンの言葉を聞くと、少年は微かに声を裏返して素早い反応を見せる。色褪せていた黄緑をキラキラと華やがせて、カロンの魔法がかけられた袋をふんわりと包み込む。慈しみを紡ぐ眼差しだった。
「貴方があまりにも美味しくなさそうに食べるから、私の気持ちを込めたのよ」
貴方のほっぺたが落ちちゃうくらい、美味しくなりますようにってね!
カロンは自分の両頬に手を当てて、もちっと持ち上げる。それに釣られて少年も己の衰えた頬を触ってみた。
「落ちる頬もないよ」
「なら、いーっぱい食べましょ! 何度落ちたって困らないくらい、たんまりとね!」
ほらほら、とカロンは少年に食べさせてあげようと誘引するが、自分で食べられるとお断りされてしまった。むすっと不機嫌そうだが、食事を進める手はよく動いていて、カロンはほっと息を吐く。
「私はカロンよ。貴方のお名前は?」
「……本当にカロンなんだ」
少年はパンの耳を齧りながら、カロンをひっそりと見つめて声を零した。
「レイ」
俺の名前、と少年ことレイはカロンの質問に答えた。その声色はどこか誇らしげに感じられる。
「レイ! 綺麗なお名前!」
「まぁ、ね」
さらりと髪を揺らがせて、ちょっぴり口角に笑みを浮かべる。彼はきっと、自分の名前が好きなのだろう。カロンにもその気持ちは弾むように通ずるものだ。
「ねぇレイ、なぜ私の名前を知っていたの?」
「……知るわけないでしょ。さっき大声で君の名前を叫ぶ声が聞こえただけ」
あぁなるほど、カロンは合点がゆく。恐らくルシアスのことだろう。あんなに必死に声を張らせたことが今更申し訳なくなってくる。後でもう一度しっかり謝ろうとカロンは反省した。
そんなカロンの目の前で、レイは撫でるように流るる風に心を置く。少し視線を上げて、黄金に際立たせる鐘を眺めては安心したように力を抜いた。
「君もこの鐘の音が好きでここに?」
「えっ?」
「なんだ、違うんだ」
口惜しそうに言い捨てる。食べ終えて軽くなった袋を綺麗に折り畳んで、レイはまったりと瞳を閉じた。
「鐘の音を聞くと、嫌なことが一瞬だけ忘れられる気がする」
だから好き。
大人に甘えるみたいな声で、レイはきゅっと三角座りで曲げられた膝を胸元に近づけた。
「俺の救いなんだ」
顔を埋めて言葉を籠らせる。骨張った幼い手が組んだ腕を縋るように掴んで離さなかった。でも、不思議とそこにあるのは寂しさだけでは無い。彼の手を、この時計塔が握っていてくれていたからだ。
救い、レイが告げたそれにカロンは胸を突かれる。
初めて鐘の音を聞いて、カロンはまるでこの街の人々の悲鳴のようだと傷心を抱いた。けれども、レイにとっては己を掬い上げてくれる存在だったのだ。
カロンは改めて、時計塔からシュテルンタウンを見晴らす。忙しない住民の様子は変わらない。だけど、少しずつでも変わっていけたら。この鐘の音が、皆にとって救いの一つになる音色になれば、そう思った。
「えぇ、そうね。貴方と時計塔は、相思相愛に違いないわ!」
「なにそれ。変な言い回し」
街の大観を目一杯に映して、カロンはレイに振り返ると太陽にそっくりな笑顔を贈った。もう何度も渡されたそれに、レイは飽き飽きしながらも突っぱねることはしなかった。カロンにバレないよう、粛々と受け取る。
「この時間は毎日ここに来てる」
「そうなのね!」
「そ、そう。だから、暇な時もあるでしょ」
「ならお友達を呼びましょ! きっと賑やかで楽しくなるわ」
「う、だ、だから……」
むぐぐ、と薄い唇を噛んで言い淀むレイは、眉を顰めてカロンからプイッと目線を変えた。
「君が来てくれればいいじゃんかっ、君一人でうるささは事足りてるし……!」
またも裏返った声に、レイは身の置き所が無いと再び顔を埋めた。蝶々みたいに可愛らしい彼女の返答が気になって、心許無く暗闇から世界を覗くと、カロンがこちらをじっと伺っていてレイはどきりと面を食らう。レイの不安なんて飛んでいってしまうくらいに、カロンは大口を広げて微笑んだ。
「やった! なら明日もお邪魔させてもらおうかしら!」
桜色がご機嫌に踊って、彼女の笑みはまるで御伽噺の魔法みたいだった。
唖然とするレイの手を取って、カロンはくるりと回り下手くそなダンスに誘い込む。ギクシャクと不協和音を奏でるみたいなステップが可笑しくて、レイはころりと微笑を落とした。
あぁ、どうかこの魔法が解けませんように、だなんて子供みたいな願いをささやかに祈りながら。
◆◆◆
「わわっこれ凄く美味しいです!」
「こっちもうまぁ……⁉︎ ちょっと一口食べてくれよ⁉︎」
「頂きます! 僕のもどうぞ」
はむっとお互いにアイスを分け合っては、染み渡る冷たさが口内に響く。痛気持ち良い。
買い物を終えたライムントとノエルは、水飛沫の跳ね返る大きな噴水に腰をかけて、シュテルンタウン中央広場でゆったりとくつろいでいた。街の方に行く機会の少ないノエルのおすすめアイスクリーム店があると聞いて、ライムントは居ても立っても居られなかったのだ。値段を見てライムントは稲妻を脳天に喰らったが、どうやらジェシーが多めにおつかい代をくれたらしく、晴れてライムントは葡萄味のアイスを食べることが出来た。幸せすぎてアイスどころか己も溶けてしまいそうだ。ノエルは微笑ましくライムントの隣でチョコミントを頬張る。
「ノエルさん?」
爽やかで気だるい声が耳に届いて、ノエルはぱっと顔を上げる。
少し薄みのかかった黒髪が靡いて、それと一緒に長いまつ毛がターコイズの瞳の上で揺らされた。深く被った青い帽子のつばをゆっくり反らすと、青年の﨟たけた面差しがよく目立った。テオフィールと同じ服装を身につけており、恐らく案内人なのだろうとライムントは理解する。青年は水飛沫を鬱陶しそうに避けて、ノエルの元へと遅い足取りで歩み寄った。
「ソソくん! こんにちは」
「こんちは。横の人はどちら様で?」
ソソ、とノエルが親しげに名を呼んだ美青年は、ライムントを見るとどこか怪訝そうに目を細める。アイスを堪能しながら、ライムントはソソにぺこりと頭を下げた。
「ソソさん、初めまして」
「僕のお友達のライムント様です。今日は買い物に付き合っていただいて、そのお礼にアイスを」
「あ、そうなんすね。邪魔してすみません」
ぺこ、とソソはライムントにお辞儀を返す。先程までの謎の敵対心のようなオーラは感じられなかった。知らない間に恨まれるようなことしたかな、とライムントはアホ毛を垂れ下げる。
「今日はお仕事ですか?」
「あー……まぁそう言われればそうだと思います」
ふにゃふにゃとはっきりしない返答を述べるソソは、視線をずらして少々悩む素振りを見せたが、それ以上言葉を続けようとはしなかった。
「それじゃ仕事に戻ります。帰り道は気をつけて」
「あっはい! また今度!」
ふらりと踵を返してあっさりと立ち去るソソに、ノエルは慌てて手を振った。見えるわけでもないのに、それを分かっているのかソソも後ろ姿越しで適当に手を振り返す。
「あいつも友達か?」
「はい! ソソくんはレドナー様の話をよく聞いて下さるんです……!」
「おお……! それは凄えや……」
彼の不機嫌そうな表情からは、ノエルのあのマシンガントークを受け止める器は無いように思えたが。案外良い奴なのかも……とライムントは戦友との奇跡的な出会いに心の中で感激する。いつかもっと話してみたいな、と彼の瞳によく似たチョコミントを眺めながら、ソソの美麗で無愛想な顔を浮かべた。
「ソソくーん!」
おーい! とこちらに駆け出す青年に気がつく。青年はソソの目の前まで辿り着くと、長い茶髪の三つ編みをふわりと流した。ソソとお揃いの青い帽子をぽんっと押さえながら、大きく息を吐く。
「テオぴ見つかったぁ? 通りかかる人に沢山聞いたけど、料理人の女の子と魔法使いですら収穫なしだよ~」
「こっちも全然。仕事が嫌になったんじゃないの」
実際面倒臭いし、とソソは素っ気なく呟く。それに対して青年はもうっと少女のように愛らしい顔を膨らませて、三つ編みを結うリボンと同じ赤茶色の瞳を丸く転がせる。
「んなこと言わないの! おれらは仕事貰えただけ有難いことなの!」
「俺もやめようかな。女の人相手にするの疲れる」
「えぇ!? 置いてかないでよぉ!? テオぴ、ソソくん、そしておれアンリーはマブダチトリオでしょ!」
「ダサいから解散」
「ウソぉ⁉︎ おれら方向性が違えど協力し合ってきたよねぇ⁉︎」
ヤダー‼︎ と泣きついてくるアンリーを無視して歩く。ありえないくらい冷たいソソから、アンリーは意地でも離れようとしなかった。
「……ほんとにどこ行っちゃったのかな、テオぴ」
「さぁ。テオフィールの考えてることなんて、俺らに分かったことないじゃん」
「た、確かにそうかもだけど! でも、でも……」
ソソをきゅ、と抱きしめながらアンリーは声色を暗くする。
いつもならソソと自分の間にテオフィールを挟んで、マブダウィッチなどとふざけあっていた。主役の具材である彼がいなきゃ、ソソとアンリーはただのパン二切れなのに。ソソの辛辣な物言いを穏やかにフォローしてくれて、アンリーのおちゃらけたボケに微笑んでくれる彼が何処にもいない。
確かにテオフィールは、自分のことを語ったことなんて無かったけれど、それでも構わなかった。だって、秘密を教え合わなければ友達でいられないなんて、思っていなかったから。知っている部分も、知らない部分も含めて三人は友達だった。
ただいつの日か、話したいと心に決めてくれた時には、彼が不安にならないように寄り添ってあげるだけ。そうなれば良いと願っていた。
「大切な友達だもん。やっぱり、寂しいよ……」
ぐりぐりとソソの背中に顔を押し付けて、言葉を震わせた。ソソはそれを咎める真似はしなかった。自分の腰に組まれたアンリーの手に、そっと触れる。
「もう少し、探してみよう。ジョジュアさんたちもいるんだし、きっと大丈夫だよ」
「……うん、そうだね」
ありがと、とくしゃくしゃはにかむアンリーを見て、ソソは長いまつ毛を伏せた。
「テオフィール、さっさと帰ってきてよ」
アンタを恋しく思う奴らがどれだけいるのか、まるで分かってないんだね。
アンリーに聞こえないよう、ソソは退屈に空を見上げた。
ゆらりゆらり。
虚ろとした意識の中、春風みたいに軽快なリズムが身体を乗せる。それはまるでゆりかごのよう。安らぐはずの気持ちに、何故か寒気がした。不安定に揺れ動いて、何かがこぼれ落ちるような、何かを思い出してしまうような。自分が自分でなくなってしまうような。そんな気がして、震えて出ない声を振り絞って助けを求めた。
誰か、誰か……
「カロン」
ぎゅっと、強く、優しく、独りぼっちだった己の手が包み込まれる。大きくて骨張ったそれは、生きていて初めて感じたあたたかさだった。大切で、大好きだった気がした。竦み上がって言葉を上手く発することのできない自分に、声の主は握る手を離して、そっと頬に触れた。やっぱり、あったかい。
ベッドに横たわる己のそばに、腰をかける男がいた。見上げれば窓があって、日を落とした空にはひらひらと流れ星が舞っている。妙に安心感のある此処に、感じるはずのない懐かしさを覚えた。
とろとろした視界をゆっくり動かしながら身体を起こして、優しい手の先にいる人物を映す。彼は青色の大きなニットコートを羽織って、首元には自分の瞳によく似た宝石を彩ったペンダントをかけている。恐る恐る視線を上にやると、紺色に潜む赤がこちらを愛しそうに、柔らかく見つめていた。男は前髪が長くて読みにくい表情ではあったが、落ち着いた雰囲気とこの温もりで十分だ。紺色の瞳に浮かぶ林檎のような赤が純良で、つい息を呑む。男は己の頬を撫でながらゆるりと微笑む。
ひやり、と頬に固いものが当たって、不思議に思いながら確認する。控えめに光るそれは、男の左手の薬指からであった。はっとして問いかけようとするが、またもや声は泡のように消えていく。男はそんな己の様子に気がつくと、活力のない瞳を伏せて指輪を凝視しながら呟いた。
「ふふ。なんだか照れちゃうね」
こちらを見つめて、心底幸福だと少し照れたように笑みを向けた。
その表情の訳が理解出来なくて、でも男の幸せそうな笑顔が堪らなく嬉しくて、瞼が微かに揺れているのが分かった。こんな顔を見られたくなくて、ばっと急いで頭を下げる。男はこてんと首を傾げるが、自分には状況を説明する余裕がなくて、ただだんまりと口を閉ざした。
そんな情けない様子の中、男は己の左手をさらりと選び取る。傷つかないように、汚れないようにと触れられた温度が、嫌でも分かってしまうくらいに愛情を告げていた。そっと男が身につけていた指輪と同じものが薬指を潜る。どきりと胸が刺されて、目を見張った。指輪をなぞって、彼の指先が一本一本と己の手に絡む。男の大きな手が、全てを包むかのようだった。言葉にならず狼狽するカロンに、男は静かに口元を綻ばせた。
「あぁ、やっぱり。君に似合うと思ったんだ」
なんて愛おしそうに、自分を見つめるのだろう。
どうして、どうしてこんなに、心が割れてしまうくらい苦しいのだろう。
こちらを射止めるように、愛を惜しみなく注いで、幸せを噛み締める男の気持ちがなにも分からなかった。分かりたくなんてなかった。
微睡んだ空気の中、熱を帯びた身体の感覚が気持ち悪くて、ぐらりと意識がおぼつく。男の優しい声も美しく実った赤の果実も、段々と遠のいていって、つい涙が差し含んだ。
――待って、行かないで。
そう伝えたいのに、きっと伝わらないだなんて無力感が襲う。それでも己が瞳の雫を滴らせなかったのは、彼がこの手をずっと握っていてくれたから。男は切れ長のジト目を朗らかに細めて、小鳥の囀りのような声で囁いた。
「行ってらっしゃい。どうか気をつけて」
◆◆◆
「待って!」
眩しい朝日の映った天井に手を差し伸べる。先ほどまで確かにあった誰かの温もりは、どこにもなかった。カロンは汗でぐっしょりと滲んだ背中で、浅い呼吸を繰り返す。
懐かしい夢を見た。けれど、何も思い出せない。ふと左手の薬指に目がいって、うら寂しく触ってみる。良い夢ではなかったことだけは、十分に理解出来た。左手を額に乗せて、己のサファイアを隠す。こんな憂鬱な朝は初めてだ。少し重たい身を起こして、窓から笑いかけてくれる光を見つめる。
「カロン様、おはようございます」
ノック音が二回鳴り、ノエルの声が扉の向こうから聞こえた。はっとしてカロンはノエルに挨拶を返す。
「朝食の準備が出来ましたので、ゆっくりいらして下さい」
お召し物はクローゼットの中にございます、とノエルは言い残して足音を遠ざけていった。なんとハイスペック。クローゼットを開けると、仄かにフローラルな香りが眠気を一気に飛ばす。ふかふかと肌触りの良い衣服を纏って、カロンは大広間へ駆け出した。
「ふぅ、美味しかった! ありがとうノエル、ご馳走様」
ぱん! と両手を合わせてカロンは満面の笑みをノエルに向ける。今朝のメニューはエッグベネディクトにコーンスープにオレンジジュースと、余すことなく胃袋へと旅立っていった。ありがとうご飯たち、とカロンは元気の源たちに感謝を込める。
テオフィールとジェシーはぺろりと完食していたが、ライムントにルシアスは少食なのか時間がかかっていた。食べ切れないことを申し訳なさそうに謝るライムントから残りを頂戴したカロンは満腹である。
「ねね、ちょっといいかな」
皿が片付けられて、皆が席を立とうとしていたところでジェシーが声をあげる。一口程度残ったオレンジジュースをゆらゆら傾けながら、ジェシーは目線をゆっくりとこちらに移動させた。
「私さ、正直夜道が不安だとかいう優しい理由で、きみたちをここに留まらせたんじゃないんだよね」
「ふぅん。悪意があってのこと、ということかい?」
丁寧に口元の汚れを拭き取りながら問いかけるルシアスに、にこっと瞳を瞑るジェシーは地に付かない足を揺らしながら返答する。
「そうだね。部屋に引きこもってばっかのお兄ちゃんに、なんでもいいから少しでも変われるキッカケが欲しかったんだ」
そしたら運よくきみたちと出会えちゃった! ジェシーは明るくおどけてみせる。やけに寂しげな顔を隠しているようにも思える仕草だった。不思議に見つめるカロンに、ジェシーは変わらぬ様子で朱色を細める。
「あんなに楽しそうなお兄ちゃんは久々に見たんだ。ありがとう」
こちらにあざとくウインクを送るジェシーであったが、カロンは疑問を浮かべる。うーんと人差し指を唇に当てて悩むカロンの隣で、ライムントがため息をついていた。
「お前なぁ……また盗み聞きかよ」
「え〜聞こえなぁい〜なんのことかな〜?」
横髪で隠れた耳に手を被せて首を振るジェシーに、ライムントは呆れて肩を落とす。どうやらカロンの知らない間に、二人には交流があったらしい。普段は気さくな彼がジェシーに振り回されて、慣れない対応を見せるのは少し新鮮だ。
「……えーっとね、まぁなにが言いたいのかって話なんだけど」
耳から手を離して、もこもこと柔らかい前下がりの髪を小さな手できゅっと掴む。視線を床に落とすジェシーは、言いづらそうに口を開いた。
「みんなに、まだここにいて欲しいんだ」
髪を掴む力をほんの少し強めて、ジェシーはぽつりと言葉を零す。
「迷惑なのは百も承知なんだけどさ。でも、もうこんなことってないと思うの」
間延びした話し方が次第に早くなって、ジェシーは焦るように続きを急がせていた。あやふやに聞こえる彼女の声色が、はっきりと不安定な音を鳴らしている。
カロンは即座にジェシーに近寄ると、優しく手を包んだ。小さくて、ひんやりと心細いそれは微かに震えていて。皆に見えないように、カロンはジェシーを宿木みたいに大きく囲む。
「しっかり伝わっているわ、大丈夫よ」
安心が全面に染み渡るように、小声で穏やかに笑いかける。ジェシーは丸い瞳を幼く広げて、小恥ずかしそうに首を傾けた。その様子が可愛らしくって、カロンはツインテールを楽しく揺らす。
「それに、元々そのつもりだったの!」
ジェシーから手を解くと、カロンは手のひらにふわりと息を吹きかける。和やかな気流から形が作られて、カロンの手のひらにはちょこんと青い鳥が止まっていた。ちゅん、とご機嫌に囀る空気で出来た鳥は、カロンの肩に乗っかると小さな体で小刻みにステップを踏む。
「昨日、到着が遅れるって師匠に手紙を出したわ。私もまだこの館でやれることがある気がして」
昨夜のぶっきらぼうな彼の、誰よりも優しい表情を思い出しながら、カロンは意思を伝える。
「手紙はこの子たちが届けてくれたのよ!」
えい、と青い鳥の頬を突く。現在手紙を配達中の小鳥と肩に乗っている小鳥は違う個体のようだ。元気にジェシーへと了承を伝えるカロンを見て、ライムントも手を挙げる。
「オレもいいぜ。てか、宿泊費とか浮くからこっちとしては有難い話なんだよな……」
「そういえば、ライムは用事があってご実家からシュテルンタウンまで来たものね」
「あぁ。金も無駄に使いたくなかったし、助かるぜ」
「カロンちゃん、ライムントくん……!」
なはは、と頭を掻くライムントもにこやかに返事をする。ジェシーは胸が空くような気持ちで息を漏らした。
「ルシアスとテオはどうかしら?」
「僕の行動を邪魔しないのなら構わない」
「私も問題ありませんよ」
腕を組んでふん、とつんけんしながら顎を上げるルシアスに、にこやかに綻ぶテオフィール。この場にいる全員がジェシーの頼みを快く受け取った。デザートを用意しに来たノエルは、その様子を自分のことのように嬉しいとジェシーに含み笑う。
「あ、んじゃオレらからも提案いいか?」
アホ毛を動かして、ライムントはノエルに目を転じる。ほら、と八重歯を見せて誘導するライムントに合わせて、ノエルは控えめに話し出す。
「え、えっと! レドナー様に、僕の料理を食べていただきたいんです……」
ノエルはそそ、とデザートを並べながら、しどろもどろと声を潜ませる。
「でも、ここにいる皆様と一緒に作ればもっと美味しくなると思っていて」
きっとレドナー様も喜んで下さるんじゃないかって。
そう語るノエルの表情には不安が少し、けれど確信を持つ微笑みを湛えていた。ライムントはそんな彼女を優しく見守る。
「ふふ、えぇ勿論! 私に出来ることなら、沢山ありそうね!」
「言っておくが、僕は簡単なものしか作れないぞ……」
「そうですね……私も料理には馴染みがないので、ご指導頂けますと助かります」
「はい、全然大丈夫です! 本当にありがとうございます……!」
深々と一人一人に腰を曲げて、ノエルは精一杯の感謝を伝える。こんな奇跡みたいなことがあっても良いのかな、だなんてロイヤルブルーの瞳がほんのり滲んでいくのを、なんだか嬉しく思った。
「買い出しは僕とライムント様で向かいますので、その間はご自由にくつろいで下さいね」
そう伝えて、二人は街まで買い出しへと赴いた。自室で休むとテオフィールとジェシーが去って、大広間にはカロンとルシアスの二人きり。
そろりと冷や汗を感じたルシアスは足早に部屋を出ようとするが、ぎゅっとカロンが手を握って引き止めてきた。うわっと後ろに倒れ込みそうになるのを持ち直して、ルシアスはジト目でカロンを見やる。
「おい、離せよ……僕は暇じゃないんだ、お分かりだろう」
「でも、少しはお休みの時間も必要でしょう?」
カロンは相変わらず空色を満点に煌めかせて、ルシアスにぐいっと近づく。ちょっと、と頬を赤らめるルシアスだが、お構いなしにカロンはにぱっとはにかんだ。
「なら私とデート、しましょう!」
「……ハァ⁉︎」
この女といるとやっぱりろくでもないことに巻き込まれる、そう分かっていたのに。強引にでも部屋を出なかった時点でルシアスの勝敗は決まっていたのだ。彼女のお日様みたいにあたたかいこの手だって、離せそうにはないのだから。
◆◆◆
「おいちゃんと掴まっておくれよお分かりかい⁉︎」
「わーっ! 見て見て飛んでるわ! 心臓が飛び出ちゃいそう!」
ふわりとくすぐったい浮遊感を味わいながら、カロンとルシアスは箒に二人乗りで宙を仰いでいた。澄んだ碧空を小魚のように泳ぐルシアスの操縦はカロンの子供心を更に掻き立てる。両手を離して気流に身を任せるこのスリルがなんとも堪らない。
「だから‼︎ 僕にしがみついておけと︎‼︎ 言っているだろう‼︎ 僕を犯罪者にしたいのか⁉︎」
箒から少女を落として殺人罪! だなんて、栄光ある天才魔法使いへの道が絶たれてしまう。そんなの絶対にごめんだ。ころんと後ろにひっくり返りそうなカロンを、ルシアスは冷汗三斗の思いをしながら横目で注意する。安全運転が第一なので振り返ったりする余裕はないのだ。こちとら木の棒に二つの命を背負っている。これだから二人乗りは嫌なのに、とぶつくさ愚痴を垂れた。
「ふふ。私、ルシアスの魔法が好き!」
「……そうかい」
一通り満足したのか、カロンはよいしょとルシアスの背に体重を預けた。しがみついた魔法使い(になる予定)の腰は、小柄な見た目だが存外硬くしっかりしている。視線を街の方に落とすと、住民がぽつぽつと色とりどりな飴玉のように転がっていた。
「げ…今日はやけに案内人が多いな」
ちらりとオッドアイを見下ろして、ルシアスは多数の青色の帽子を発見すると厭わしそうにぼやいた。
「あら本当ね。どうしてそんなに嫌そうなの?」
「だってあいつら、妙に話しかけてくるじゃないか。店でしつこく接客してくる店員みたいで、鬱陶しいったらありゃしないね」
おまけに顔も良いし、無駄に。とルシアスは最後に付言して、うげぇと苦虫を噛み潰したように舌を出す。
「そうかしら? 私はいっぱい話しかけてくれて嬉しいわ!」
「ま、君とは相性良さそうだね。残念ながら僕とは最悪だから、こうして箒でちゃっちゃと飛ぶのが効率もいいんだ」
普通の人間が箒を使って飛ぶ、というのは簡単なことではなく、それなりの練習が必要だ。現に周りを見渡しても、ルシアスのように箒で移動している者も僅からしい。勿論移動手段には便利だけれど、わざわざ取得しようとすることも多くはないため、空を飛んだことのない人もそこそこいる。カロンもそのうちの一人だったので、このデートは絶対に逃せないとチャンスを伺っていたのだった。
「で、どっか行く当てはあるのかい?」
「えぇ! 昨日からずっと気になっていた場所があるの」
ぐっと腕を伸ばして、目線の先へと人差し指を向ける。シュテルンタウンに大きく、けれどもひっそりと建つそれはチクタクと秒針を刻んでいる。
「時計塔?」
「そうそう!」
それぞれ昼と夜の零時を知らせる時の塔、と変哲もない建物に興味が湧くのは、カロンがこの街に初めて訪れたからか。ルシアスにとっては何度も目にしたものだが、彼女はきっと違うのだろう。カロンはこの街の店や人々、道端に生きる密かな植物たちにだって、初めて出会ったようにはしゃいでいた。
「旅の記念くらいにはなるか」
そう呟くと、ルシアスは箒を羽ばたかせるスピードをほんの少し早めた。
「ほら、ついたよ」
「ありがとう、ルシアス!」
「別に礼なんていらない」
高い空間を飛行していたので、風が強く当たってくる。二人は片手で帽子を押さえながら、秒針の音に耳を傾ける。重く進む音色が静かな天空によく響く。時計よりも少し上を見ると、どうやらくつろげる場所がありそうだ。懐に忍ばせたキャラメルに笑いかけて、ルシアスに声を掛けようとした。
その時、空から何かがこちらに落ちてくるのが見えた気がした。昼間の燦々とした日の照りに瞳を狭めながら観察していると、カロンの横をまっすぐに落下していきそうになっているのが分かって、反射的に箒から身を乗り出した。
「カ、カロン‼︎」
瞬時に腰へしがみついたルシアスのファインプレーのおかげで、カロンはなんとか安全を確保した。そしてルシアスは殺人罪を免れた。大きな瞳をじわじわ潤わせて、ルシアスは色をなしてカロンに詰め寄った。馬鹿! 考えなし! あんぽんたん! とぷんぷん息を巻くルシアスに、カロンは慌てて謝罪を挟みながら、両手でキャッチしたものを改めて見てみる。
「靴……?」
落っこちてきたのは、片足のスニーカーだった。カロンの足を比べても随分と小柄なもので、恐らく子供用だろう。
「なんだいそのボロッボロの靴は……」
「多分、時計塔の上から落としてしまったのだと思うの。持ち主さんも困っているかもだし、返しに行ってきても良いかしら?」
黄ばんだ汚れの目立つ靴を見せると、呆れたようにため息をついてルシアスは箒を上昇させた。カロンがうっかり落ちてしまわないよう、慎重に柵の向こう側へと降ろしてやる。その先には扉があり、靴の持ち主はそこにいるのだろう。
「少し待たせてしまうけれど、すぐに戻ってくるわね」
「どうせ君のことだから三十分は待たせるだろう。僕には分かるね」
さっさとお行きよ、と箒の上で胡座をかいてしっしと先を急がせるルシアスに甘えて、カロンは軋んだ扉に力を込めた。
ギィ、と積年の重みが籠った扉を押すと、荒波のような逆風がカロンを迎えた。反射的に腕で顔を庇ったカロンは、そっと瞳を開ける。
「……カロン?」
己の名前を呼ばれて、カロンはサファイアをぱちくりと動かす。
切り揃った茶髪のボブヘアに長い触角を結び、柔らかい黄緑色の瞳に不思議な四角の光を浮かべている少年が、鐘に垂らされた紐を引っ張っていた。彼はカロンを見るなり酷く驚いて、二の句も継げないようだった。少年はカロンに、何かを言いかける。
ゴーンゴーン
零時を伝える鐘の音が鳴り響く。あっけに取られていたカロンとは違って、少年ははっと意識を戻す。スタスタと早歩きでこちらに寄ると、カロンの手から靴を奪い取った。
「あ、貴方のものだったのね。良かったわ!」
「……どうも」
「けれど、随分汚れているみたいだから、洗ってあげた方が良いんじゃないかしら?」
「どうでもいいでしょ。赤の他人の靴のことなんて」
キッとツリ目を尖らせて、少年は腹の底から不愉快だとカロンを睨んだ。すぐにカロンから視線を外すと、古びた塔の壁に背を預けて座り込む。煤けたスニーカーを裸足に嵌めて、ダボダボのルーズソックスで靴が見えないよう無理矢理覆った。肝心のルーズソックスですら薄汚れていて、彼をよく観察してみると異様に痩せ細っているように思える。
少年はポケットから袋を取り出すと、中から適当にカットされた食パンの耳を短く齧った。街を見下ろす彼の瞳は朧げだ。
「ちょっと待って!」
艶の灯ったロングブーツに傷がついてしまうことなんて厭わず、カロンは地面に膝をつけて少年の目の前にしゃがみ込む。質素な昼食を取る少年の手をそっと掴んだ。カロンはパンの耳が無造作に詰められた袋に手のひらを翳しながら深呼吸を繰り返す。すると、ほわほわとあたたかい空気が場を輝かせた。
「な、なに……?」
「はい、食べてみて」
「え、」
「あーん!」
ぱくり。少年のおぼこい口にカロンはパン耳を入れてやる。少年はぎょっと目を丸くしてぶわりと頬を染めた。カロンに文句の一つや二つ言いたげな様子であったが、咀嚼していくうちに表情の刺々しさが落ちていく。
「……味が違う」
「ふふ、私の魔法よ!」
「! 魔法……!」
カロンの言葉を聞くと、少年は微かに声を裏返して素早い反応を見せる。色褪せていた黄緑をキラキラと華やがせて、カロンの魔法がかけられた袋をふんわりと包み込む。慈しみを紡ぐ眼差しだった。
「貴方があまりにも美味しくなさそうに食べるから、私の気持ちを込めたのよ」
貴方のほっぺたが落ちちゃうくらい、美味しくなりますようにってね!
カロンは自分の両頬に手を当てて、もちっと持ち上げる。それに釣られて少年も己の衰えた頬を触ってみた。
「落ちる頬もないよ」
「なら、いーっぱい食べましょ! 何度落ちたって困らないくらい、たんまりとね!」
ほらほら、とカロンは少年に食べさせてあげようと誘引するが、自分で食べられるとお断りされてしまった。むすっと不機嫌そうだが、食事を進める手はよく動いていて、カロンはほっと息を吐く。
「私はカロンよ。貴方のお名前は?」
「……本当にカロンなんだ」
少年はパンの耳を齧りながら、カロンをひっそりと見つめて声を零した。
「レイ」
俺の名前、と少年ことレイはカロンの質問に答えた。その声色はどこか誇らしげに感じられる。
「レイ! 綺麗なお名前!」
「まぁ、ね」
さらりと髪を揺らがせて、ちょっぴり口角に笑みを浮かべる。彼はきっと、自分の名前が好きなのだろう。カロンにもその気持ちは弾むように通ずるものだ。
「ねぇレイ、なぜ私の名前を知っていたの?」
「……知るわけないでしょ。さっき大声で君の名前を叫ぶ声が聞こえただけ」
あぁなるほど、カロンは合点がゆく。恐らくルシアスのことだろう。あんなに必死に声を張らせたことが今更申し訳なくなってくる。後でもう一度しっかり謝ろうとカロンは反省した。
そんなカロンの目の前で、レイは撫でるように流るる風に心を置く。少し視線を上げて、黄金に際立たせる鐘を眺めては安心したように力を抜いた。
「君もこの鐘の音が好きでここに?」
「えっ?」
「なんだ、違うんだ」
口惜しそうに言い捨てる。食べ終えて軽くなった袋を綺麗に折り畳んで、レイはまったりと瞳を閉じた。
「鐘の音を聞くと、嫌なことが一瞬だけ忘れられる気がする」
だから好き。
大人に甘えるみたいな声で、レイはきゅっと三角座りで曲げられた膝を胸元に近づけた。
「俺の救いなんだ」
顔を埋めて言葉を籠らせる。骨張った幼い手が組んだ腕を縋るように掴んで離さなかった。でも、不思議とそこにあるのは寂しさだけでは無い。彼の手を、この時計塔が握っていてくれていたからだ。
救い、レイが告げたそれにカロンは胸を突かれる。
初めて鐘の音を聞いて、カロンはまるでこの街の人々の悲鳴のようだと傷心を抱いた。けれども、レイにとっては己を掬い上げてくれる存在だったのだ。
カロンは改めて、時計塔からシュテルンタウンを見晴らす。忙しない住民の様子は変わらない。だけど、少しずつでも変わっていけたら。この鐘の音が、皆にとって救いの一つになる音色になれば、そう思った。
「えぇ、そうね。貴方と時計塔は、相思相愛に違いないわ!」
「なにそれ。変な言い回し」
街の大観を目一杯に映して、カロンはレイに振り返ると太陽にそっくりな笑顔を贈った。もう何度も渡されたそれに、レイは飽き飽きしながらも突っぱねることはしなかった。カロンにバレないよう、粛々と受け取る。
「この時間は毎日ここに来てる」
「そうなのね!」
「そ、そう。だから、暇な時もあるでしょ」
「ならお友達を呼びましょ! きっと賑やかで楽しくなるわ」
「う、だ、だから……」
むぐぐ、と薄い唇を噛んで言い淀むレイは、眉を顰めてカロンからプイッと目線を変えた。
「君が来てくれればいいじゃんかっ、君一人でうるささは事足りてるし……!」
またも裏返った声に、レイは身の置き所が無いと再び顔を埋めた。蝶々みたいに可愛らしい彼女の返答が気になって、心許無く暗闇から世界を覗くと、カロンがこちらをじっと伺っていてレイはどきりと面を食らう。レイの不安なんて飛んでいってしまうくらいに、カロンは大口を広げて微笑んだ。
「やった! なら明日もお邪魔させてもらおうかしら!」
桜色がご機嫌に踊って、彼女の笑みはまるで御伽噺の魔法みたいだった。
唖然とするレイの手を取って、カロンはくるりと回り下手くそなダンスに誘い込む。ギクシャクと不協和音を奏でるみたいなステップが可笑しくて、レイはころりと微笑を落とした。
あぁ、どうかこの魔法が解けませんように、だなんて子供みたいな願いをささやかに祈りながら。
◆◆◆
「わわっこれ凄く美味しいです!」
「こっちもうまぁ……⁉︎ ちょっと一口食べてくれよ⁉︎」
「頂きます! 僕のもどうぞ」
はむっとお互いにアイスを分け合っては、染み渡る冷たさが口内に響く。痛気持ち良い。
買い物を終えたライムントとノエルは、水飛沫の跳ね返る大きな噴水に腰をかけて、シュテルンタウン中央広場でゆったりとくつろいでいた。街の方に行く機会の少ないノエルのおすすめアイスクリーム店があると聞いて、ライムントは居ても立っても居られなかったのだ。値段を見てライムントは稲妻を脳天に喰らったが、どうやらジェシーが多めにおつかい代をくれたらしく、晴れてライムントは葡萄味のアイスを食べることが出来た。幸せすぎてアイスどころか己も溶けてしまいそうだ。ノエルは微笑ましくライムントの隣でチョコミントを頬張る。
「ノエルさん?」
爽やかで気だるい声が耳に届いて、ノエルはぱっと顔を上げる。
少し薄みのかかった黒髪が靡いて、それと一緒に長いまつ毛がターコイズの瞳の上で揺らされた。深く被った青い帽子のつばをゆっくり反らすと、青年の﨟たけた面差しがよく目立った。テオフィールと同じ服装を身につけており、恐らく案内人なのだろうとライムントは理解する。青年は水飛沫を鬱陶しそうに避けて、ノエルの元へと遅い足取りで歩み寄った。
「ソソくん! こんにちは」
「こんちは。横の人はどちら様で?」
ソソ、とノエルが親しげに名を呼んだ美青年は、ライムントを見るとどこか怪訝そうに目を細める。アイスを堪能しながら、ライムントはソソにぺこりと頭を下げた。
「ソソさん、初めまして」
「僕のお友達のライムント様です。今日は買い物に付き合っていただいて、そのお礼にアイスを」
「あ、そうなんすね。邪魔してすみません」
ぺこ、とソソはライムントにお辞儀を返す。先程までの謎の敵対心のようなオーラは感じられなかった。知らない間に恨まれるようなことしたかな、とライムントはアホ毛を垂れ下げる。
「今日はお仕事ですか?」
「あー……まぁそう言われればそうだと思います」
ふにゃふにゃとはっきりしない返答を述べるソソは、視線をずらして少々悩む素振りを見せたが、それ以上言葉を続けようとはしなかった。
「それじゃ仕事に戻ります。帰り道は気をつけて」
「あっはい! また今度!」
ふらりと踵を返してあっさりと立ち去るソソに、ノエルは慌てて手を振った。見えるわけでもないのに、それを分かっているのかソソも後ろ姿越しで適当に手を振り返す。
「あいつも友達か?」
「はい! ソソくんはレドナー様の話をよく聞いて下さるんです……!」
「おお……! それは凄えや……」
彼の不機嫌そうな表情からは、ノエルのあのマシンガントークを受け止める器は無いように思えたが。案外良い奴なのかも……とライムントは戦友との奇跡的な出会いに心の中で感激する。いつかもっと話してみたいな、と彼の瞳によく似たチョコミントを眺めながら、ソソの美麗で無愛想な顔を浮かべた。
「ソソくーん!」
おーい! とこちらに駆け出す青年に気がつく。青年はソソの目の前まで辿り着くと、長い茶髪の三つ編みをふわりと流した。ソソとお揃いの青い帽子をぽんっと押さえながら、大きく息を吐く。
「テオぴ見つかったぁ? 通りかかる人に沢山聞いたけど、料理人の女の子と魔法使いですら収穫なしだよ~」
「こっちも全然。仕事が嫌になったんじゃないの」
実際面倒臭いし、とソソは素っ気なく呟く。それに対して青年はもうっと少女のように愛らしい顔を膨らませて、三つ編みを結うリボンと同じ赤茶色の瞳を丸く転がせる。
「んなこと言わないの! おれらは仕事貰えただけ有難いことなの!」
「俺もやめようかな。女の人相手にするの疲れる」
「えぇ!? 置いてかないでよぉ!? テオぴ、ソソくん、そしておれアンリーはマブダチトリオでしょ!」
「ダサいから解散」
「ウソぉ⁉︎ おれら方向性が違えど協力し合ってきたよねぇ⁉︎」
ヤダー‼︎ と泣きついてくるアンリーを無視して歩く。ありえないくらい冷たいソソから、アンリーは意地でも離れようとしなかった。
「……ほんとにどこ行っちゃったのかな、テオぴ」
「さぁ。テオフィールの考えてることなんて、俺らに分かったことないじゃん」
「た、確かにそうかもだけど! でも、でも……」
ソソをきゅ、と抱きしめながらアンリーは声色を暗くする。
いつもならソソと自分の間にテオフィールを挟んで、マブダウィッチなどとふざけあっていた。主役の具材である彼がいなきゃ、ソソとアンリーはただのパン二切れなのに。ソソの辛辣な物言いを穏やかにフォローしてくれて、アンリーのおちゃらけたボケに微笑んでくれる彼が何処にもいない。
確かにテオフィールは、自分のことを語ったことなんて無かったけれど、それでも構わなかった。だって、秘密を教え合わなければ友達でいられないなんて、思っていなかったから。知っている部分も、知らない部分も含めて三人は友達だった。
ただいつの日か、話したいと心に決めてくれた時には、彼が不安にならないように寄り添ってあげるだけ。そうなれば良いと願っていた。
「大切な友達だもん。やっぱり、寂しいよ……」
ぐりぐりとソソの背中に顔を押し付けて、言葉を震わせた。ソソはそれを咎める真似はしなかった。自分の腰に組まれたアンリーの手に、そっと触れる。
「もう少し、探してみよう。ジョジュアさんたちもいるんだし、きっと大丈夫だよ」
「……うん、そうだね」
ありがと、とくしゃくしゃはにかむアンリーを見て、ソソは長いまつ毛を伏せた。
「テオフィール、さっさと帰ってきてよ」
アンタを恋しく思う奴らがどれだけいるのか、まるで分かってないんだね。
アンリーに聞こえないよう、ソソは退屈に空を見上げた。