第一章「死神の館」
第一話『星々の旅人』
水平線に澄み渡る空が溶けている。青に囲まれた世界で、ぽつりと浮かぶ帆船が白く道を描いた。波がゆるやかに宙を舞い、飛沫が無邪気に飛んできたのを金を束ねて揺らす青年は愛おしげに受け止める。潮風を目一杯吸い込み、再び海面を見つめた。
「可愛い奴め」
機嫌の良い口笛を鳴らすと、青年はまるで恋人に触れるよう優しく海に手を差し伸べ、船縁に体重を預けようとした。
「船長!」
船底部屋の扉からひょっこりと顔を覗かせる少女が甲高い声を響かせる。その声に反応して視線を変えると、よいしょと落ちないように体を上げ、短い足を動かして全力疾走でこちらに駆け寄る姿があった。少女はばふっと青年に抱きつくと、むすっと頬を膨らませた。
「もーまた落っこちちゃったら危ないでしょ!」
片手に携える大きい本を青年の背中にガシガシとぶつける。おい普通に痛いな。角はやめて角は。
「落ちないってば。てか僕が落ちたことなんてないじゃん」
「ついこの前落ちたでしょ! もう忘れたの?」
「あれは珍しいイルカがいたから背中に乗せてもらおうとしただけだよ。鈍臭い言い方しないで」
「だからって飛び降りたりしないでよぉ!」
キャンキャンと泣き喚く少女を、青年は鬱陶しそうに頭を撫でくりまわした。案の定大人しくなった少女はさながら子犬だ。やれやれ。僕は動物だとメガネザルが一番好きなんだけど。ため息を吐く青年は少女のまあるいほっぺをもちもちこねる。
「で、なんか用?」
「あ、えっと……」
今の時間なら船底部屋で船員が子供達を寝かしつけているはずなのだが。青年からぱっと距離を置いた少女はもじもじと言葉を詰まらせる。小さな両手が大切に古びた本を抱きしめる姿を、青年はアプリコットの瞳を向けてただ静かに待っていた。
言いたいことは自分から伝える、そして自分が辛くなる隠し事はしないこと。青年は皆に口酸っぱく言い聞かせている。青年の真摯な姿勢に、きゅっと結ばれていた口元がじんわりと解かれて、少女のか細い音が零れていく。
「あのね、みんなが言うの。魔法なんて存在しないって」
――魔法。戦争も飢餓も、不条理な死もない平和なこの世界には存在しないもの。それは宇宙に浮かぶ無数の煌めく子供を生み出したり、箒なんかに跨いで遍く大空を舞ったり、本の中でしかあり得ないような夢物語だ。人間が星なんか作れないし、身一つで空を飛べるわけがない。そう、そんなつまらない世界。
「でもわたしは、そんなことないって思う。だって、この本にも魔法はあったんだって、そう書いてあるもん」
少女は「シュテルンクロス」と記された本をぎゅっと抱える。ぽろり。ぽろり。水面の揺らぎを閉じ込める瞳から雫が自然と落ちていく。一度雨が降ってしまえば、止むことは出来なかった。少女は大粒の涙が本につかないように、ごしごしと手で目を擦る。青年は少女の手をそっと掴んで、ポッケからマリンの刺繍が施されたハンカチを当ててやった。苦しそうにしゃっくりを出す少女の背を摩りながら、青年は年季を感じる本をすらりと手に取る。まるで懐かしい旧友と再会したみたいな、そんな慈しみのある表情をした。
「周りの子供たちと自分が違うのは嫌?」
「……いや、ってわけじゃないよ。変って思われちゃうのは少し寂しいけど……」
「そう。ま、変なのは変だからなぁ」
「えぇ⁉︎」
分かりやすく少女は落ち込んだ。やっぱり変なんだ。知っていたけど心がモヤモヤしてしまう。頭上に闇を渦巻かせる少女に、青年はカラッとした笑い声をあげる。
「僕も君と同じでさ、魔法大好きだったんだ。てか使えるって思ってたから練習もしてたし。おかげで変だ変だーっていじられまくったね。どうでもよかったけど。ほら、変なとこが僕とお揃いだ。喜んでもいいよ」
「そんなお揃いやだよ!」
完全に遊ばれていることを理解した少女はぷんぷんと怒りを露わに動き回る。これまた驚くほど怖くない。青年は顔が真っ赤な少女を見て金魚みたいだなーなど呑気なことしか考えていなかった。子供をあしらうのはお手の物のようで、またまた笑うだけだった。
「いいじゃん、それが君なんだし。僕は好き。それに……」
ぶわり、生暖かい潮の空気が二人を包み込む。大きめのマリン帽を押さえながら、青年は母なる海の描く先をまっすぐに見つめた。彼のアプリコットに反射してほんのり映ったマリンブルーが清らかで、船長である青年はこの世界を本当に愛しているのだと、幼い少女にも分かる。自然の美しさを余すことなく受け取り感傷に浸る青年は、少女に目線を移すと、にかっとあどけなさの残る笑顔を輝かせた。
「魔法はあったんだよ」
嘘じゃないさ。
嬉しそうに語る青年の言葉には濁りが微塵も感じられなかった。どきり。心臓が段々と騒ぎ出すのを、少女は鼓動の速さから伝わってくる。
あぁ、こんな奇跡があってもいいのだろうか!
少女の心の声を拾ったように、青年は大きな瞳を細める。
「なんで知ってるの? 船長も魔法が使えたの? それとも見たことあるの?」
怒涛の質問ラッシュが青年を襲う。耳は二つしかないし脳みそだって一つしかないのだからご容赦願いたい。だが、こうやって好きなものに好奇心を踊らせる子供が、青年は大好きだ。かつての自分がそうであったからか、なんて。
「僕の……そうだな、友人が教えてくれたんだ。この世界とは、また別の世界の話を」
「……え」
ぽかんと呆気に取られる少女に、青年はどうしたんだ、とはてなを浮かべた。あわあわと焦る少女は言葉が詰まっているようで、唾をごくりと飲み込む。何故か緊迫感の流れる空気に青年も飲み込まれ、少女の口が開くのをドキドキしながら見守った。
「……だ」
「……なんて?」
「船長ってお友達いたんだ⁉︎」
「はいぃ?」
開いた口が塞がらない青年と少女。間抜けな反応を隠せない青年は、純粋に驚いている少女の言葉が刃物のように突き刺さって抜けなかった。
「なんでそうなんの? おかしくない?」
「だって船長ってすなおじゃないし性格に難のある変人ぼっちだって、船員のお兄さんが言ってたもん」
「あーあーあいつだなうん分かった流刑決定」
なんてこと吹き込んでんだよ。青年は幼めの顔を歪める。大人って子供にろくなこと教えないじゃないか、これだから大人は嫌いだ。こうして子供の無邪気さも失われてくのか……と一人さめざめと肩を落とす青年だが、彼も少女から見れば立派な大人であることには触れないことにする。
「……いたよ。一人だけ」
静かにさざめく大洋を眺めながら記憶を辿る。こんな僕にも、友人がいた。
素直さ皆無難あり変人ぼっちである自分の手を繋いで、知らない世界を教えてくれた、大切な友達。
「他の子供たちを起こしてきて」
――御伽噺を教えてあげる。
この世界には魔法もファンタジーもない、だなんて思ってる? なら大間違いさ。
魔法はいつだってそばにいるのだから。
「さぁ静粛に、静粛に」
「これは僕の世界でたった一人の友人から受け継いだ、本物の御伽噺だ」
「語り部はこの僕、オスカーが務める!」
オスカーの声明と共に、海鳥が高らかに青空を駆け抜ける。ずっとずっと、遥か遠い水平線のその先へ。
◆◆◆
晴れやかな空を鏡にして、海原が純美に踊る。波の流れに身を任せて進む小舟に一人、大きなサファイアを持つ少女は瞳を更に輝かせた。ふと、海鳥の羽ばたきが聞こえて、少女は顔をあげる。
あぁ、なんて美しいのだろう。
朝日が水平線からこちらを見つめてきて、じっと目を離せない少女は感嘆を漏らす。どこからかやってきた海鳥が、自分を歓迎するみたいにくるりと弧を描く。少女はつい嬉しくなって、手を振りながら感謝を伝えた。
はじめまして、世界。
広くて、未知で、美しい、母なる海を渡り世界に辿り着いた星の子よ。
あなたはこの世界を愛し愛されるために生まれた、いちばん貴い子。
星々が交差したとき、全ては一つになる。
負の連鎖を断ち切り、己を認め、汝の隣人を愛せよ。
古びたページを破り捨て、自らの選んだ魂でこの空を飛び立て。
私たちの願いは、祈りは、たった一つ。
あなたに、心からの幸福を。
◆◆◆
ロングブーツを軽快に鳴らし、少女は小舟からひょいと身を乗り出す。二つ結びの桃色はふわりと靡き、頭に器用に乗せられた小さなコック帽を、慣れた手つきで落とさないように押さえる。旅の記念だと新調した革製のトランクケースを片手のお供にして小舟に別れを告げると、用が済んだことを理解したのか、舟は波の赴くままに船場へと戻っていくようだった。それを見送り、改めて陸の地を踏みしめる。初めての場所に胸の高鳴りが止まらず、ワクワクは肥大化するばかりであった。よーし! と元気いっぱいに拳を振り上げ、少女は波止場を後にした。
「あ、きたきた。カロンちゃん、こっちだよー!」
小走りで街を駆け抜けていた少女 カロン は、己を呼びかける声に気づく。視線の先には、おーいと分かりやすく手を振る女性が見える。いけない、待たせてしまった。カロンはさらに足を早めて、女性に突進するかのような勢いで、待ち合わせ場所にゴールインした。
「わっそんなに急がなくてもいいのに!」
おっとっと、と前のめりになったカロンを女性は慌てて受け止める。この調子だと波止場から長いこと走っていただろうに、少女は息が上がる様子もなく鮮やかな笑顔を向けた。
「遅れてごめんなさい、お待たせ!」
「いえいえ、無事にここまで来れたみたいでよかった。さ、乗って乗って!」
親指で自慢の愛車こと馬車を指す女性は、お姫様を舞踏会に連れ出すかのようにカロンを招き入れた。
ガタンゴトンと車輪がカロンたちを乗せて回っていく。旅人の自分が座るには幾分上質な生地の椅子に荷物を積んで、カロンは運転手である女性と会話を弾ませていた。
「いやはや、まさかあのカリスマパティシエで有名なクラウンベリーさんのお弟子さんだったとは。連絡貰ったときはびっくりしたよ」
クラウンベリー。艶やかな甘美を感じさせる名を持つ人物は、カロンの師匠であり、この街にカロンを呼んだ張本人だ。
「師匠ってば心配性なんだから。わざわざ馬車を予約して、しかもこんなに立派で素敵な……」
クラウンベリーは、料理人を目指すカロンを厳しく指導してくれている。彼の甘いお手製スイーツとは相反して、舌が痺れるような辛口を常に浴びる修行の日々だった。
周りから見れば、クラウンベリーは少し近寄りがたいかもしれない。だけれど、毎日のように日替わりスイーツをご褒美として振る舞ってくれたり、ファッションに頓着のないカロンを連れてショッピングに出かけたり、このトランクケースだって彼がくれたものだ。クラウンベリーの元を離れて旅立つ日には、彼は優しく頭を撫でてくれた。カロンにとっては最高の師匠なのだ。
「でも本当はクラウンベリーさんがここまでお迎えしてくれる予定だったんだよね? 断ってよかったの?」
「ふふっ師匠はね、ものすごーく方向音痴なのよ!」
「えーっそうなの⁉︎」
初めての土地なのだからと、当然のように赴こうとしたクラウンベリーを、カロンは子供を叱るようにめっ! とお断りした。彼が街でも出歩いたが最後、夜までは帰って来られないだろう。大人しく待っていてと言われて、クラウンベリーは少しショックを受けていたようだったが、仕方がないと飲み込んでくれたのだ。カリスマパティシエが行方不明にでもなったらそれこそ大事件である。カロンはひっそりと街の安寧を守った。
「それに、お姉さんともこうして出会うことができたもの!」
にかっと口を大きく開けて笑うカロンに、運転手は「天使か?」と天を仰いだ。厳密には運転中によそ見など出来ないので、心の中でだが。
「も〜っカロンちゃんのためならどこでも走らせちゃうよ!」
「あらいいの? 嬉しいわ!」
出会って僅か数時間の二人であったが、バッチリ意気投合。気前のいい運転手と明るいカロンの波長はよく合っていたらしい。
会話に一息ついて、カロンはちらりと窓から景色を覗く。視界に映る全てがカロンの知らないことだらけで、宝箱の中身を一つ一つ大切に眺めていたいような、そんな気持ちだった。
こぢんまりとした手芸店、混み合いがあたたかい郵便局、華やかなカフェテリア。揃ったレンガ道を早送りで追いかけるたびに、訪れたい場所が増えてゆく。時間が全く足りないだろうなとうずうずした。
ふと、一瞬のうちに通りかかったある店に、カロンはうっかりと視線を奪われる。
まるで、運命に導かれた一目惚れのようだった。きらりと輝くそれに、触れてみたい。そう思ってしまった。
「運転手さん! ここでいいわ」
「あれれ、まだクラウンベリーさんのお店までかかるよ?」
仕事のパートナーである馬たちにもまだだよね? と問いかけてみる。何も言わなかったので、つまり肯定だと運転手は都合よく解釈した。念の為時計を確認するが、やはりもう暫く運転は長引きそうだ。けれどカロンは、いそいそと慌てながら荷物を整理している。よほど寄りたいところでもあったのかと思って、運転手は無理に引き止めなかった。
「突然でごめんなさい、ここまでありがとう」
「いーよいーよ。旅なんて行き当たりばったりが醍醐味だし、楽しんでおいでよ。でも遅刻しちゃ駄目だぞ〜」
「えぇ、肝に銘じるわ」
ガチャリと自然に開いたドアを通り抜けて、軽い段差を飛び降りる。くるりと振り返ると、カロンは運転手に満開の笑みを咲かせた。
「運転手さん、楽しい運転をありがとう!」
その笑顔は、優しい陽だまりで溢れていた。ひたすら眩しくて、だけど目が痛くならない。カロンにそういう印象を抱いた。
「こちらこそ、カロンちゃんのおかげで私も楽しかったよ。いつでもご利用待ってますっ」
ご機嫌な主に共鳴して、馬たちもヒヒーンと声をあげる。彼らのお墨付きなら間違いないみたいだ。
「それじゃあさようなら! またよろしくね」
「もちろん。さようなら、良い旅を」
カロンは笑顔で手を振りながら、街の中へと紛れ込んでいった。その表情に釣られてか、運転手の口角も上がったままだ。
「そいじゃもう一仕事頑張りますかぁ!」
運転手はぐうっと背伸びをして、ついでに欠伸もする。あ、馬たちにも移った。ブサカワ〜とケラケラ肩を揺らす運転手のことなど、彼らは気にしていない。
「すみません、よければ運転お願いできるかな」
「はーい! お任せくださいな」
小柄な少年が声をかけてきて、新たなお客様に運転手はカロンと同じように満点の笑顔を向ける。その笑みに、少年はカロンと運転手にそっくりな微笑みを返した。
きらきらぱちぱち。空色の瞳を開いては閉じる。
カロンは運転手と別れた後、相変わらずの全力ダッシュで目当ての店にまでやってきた。ガラス越しに置かれるそれに、カロンは釘付けだ。
「わぁ、とっても綺麗……」
アンティークな宝石店に宣伝用として飾られる典麗な商品からカロンの心を射止めたのは、昼間にもかかわらず光が輝き渡る、ルビーで出来た林檎だった。カロンの二つのサファイアと林檎は交互に煌めきを照らし合わせる。
やっぱり、見に来てよかった。
馬車で見つけたときに感じた高鳴りは未だ止まない。触れることは叶わないが、その果実に焦がれるよう、遮る透明の壁に手を合わせて気持ちを乗せる。
ぼんやりとした空気の中で、カロンはガラス越しに映る大きな時計塔が目に入ると、ハッとツインテールを逆立てた。
「いけない、もうこんな時間!」
先ほど運転手が見せてくれた時計と比べて、半分は針が進んでいる。まさかそこまでここにいたとは。カロンは紅玉の林檎との別れを惜しみながらも、足音のリズムをばたばたと響かせた。
街ゆく人々にそれぞれ謝りながら、カロンは人混みを走り抜ける。クラウンベリーから貰った地図を凝視しながら足を急がせるが、店はなかなか発見出来ない。クラウンベリーは時間にも厳しいため、カロンは余計に焦っていた。運転手の言っていたことが今になって沁みる。肝に銘じるだなんて大嘘だ。
「方向音痴まで師匠から受け継ぎたくないわね……わっ!」
風を切る体に衝撃が走る。誰かにぶつかってしまった、そう理解した時には遅くて、カロンの重心は後ろへと向かっていく。頭をぶつけては危ないと、咄嗟に受け身の姿勢を取ろうとした。
だが、突然の浮遊感。ぐいっと柔らかく、手を引かれた。
「申し訳ありません、お怪我はございませんか?」
不安そうに伺う声が、少し上から聞こえた。地面に視線を落としていたカロンは、その爽やかでほんのりハスキーな音の持ち主を探して、顔をまっすぐ上に向けた。
「あ」
また、見つけた。
私の心を離さない、艶やかに微笑む赤の果実。
長いまつ毛を重ねる青年を、カロンはただ見つめた。美しい風貌の青年は、松葉色の切り揃えられた髪を帽子に収めており、林檎色の瞳をゆったりと瞬かせては、停止するカロンへ不思議そうに首を傾げた。引いてくれた手を離して、カロンの目の前で小さく手のひらを振っている。
「あの……大丈夫ですか?」
「……はっ! だ、大丈夫よ! 貴方こそ怪我はないかしら、えぇと」
「問題ありません。お嬢さんがご無事なら安心です」
にこ、と上品に笑う青年に、カロンはそっと胸を撫で下ろす。それにしても、彼の綻んだ表情はお世辞抜きに美しかった。ぱっちりした目には曲線を描く重みのあるまつ毛。さらりと流れる松葉色の前下がり。自分とは明らかに差のある脚の割合。そして少女のように可愛らしい容姿。こんなモデルのように美人な男の子が街にはいるのか、と田舎出身であるカロンは感動した。
「貴方、とっても綺麗で可愛らしいわ! 私、こんな美人さんを見たのは初めて!」
「ありがとうございます。けれど、貴方のほうが可愛らしいですよ」
言われ慣れているのであろう青年は、分かりきったような態度で返答する。これが本物の美人の余裕……! カロンはまたしても感動が溢れた。そのせいで青年の口説き文句には気づかなかったのだが。
「それは……地図ですか?」
青年はカロンが握りしめていた地図に気づいて問いかける。無我夢中で走っていたので少々しわがつき見にくくなったそれを、カロンはばっと青年の目の前に広げる。
「そう! 探しているお店が見つからなくて……」
「そうだったのですね。なら丁度良かった」
「?」
疑問を浮かべるカロンに、青年は先程のように物柔らかに微笑んだ。片足を少し後ろに下げ、芯の通った背筋を崩さずに腰を曲げる。右手を胸に、左手を真横に伸ばして、青年は僅かな角度で落とされていた頭を上げてこちらを見た。
「ようこそ、シュテルンタウンへ。私はこの街の案内人 テオフィール と申します」
すらりとしなやかに伸ばされた手には、彼の名前が記された名刺がご丁寧にあった。カロンはそれを嬉しそうに受け取って、スカートのポケットに入れると、空いたテオフィールの手を強く掴んだ。
「頼もしいのね! それじゃあお願いね、案内人さん!」
明るく笑みを輝かせたカロンに応えるように、テオフィールはカロンの手を引いて優しく握り返した。
新たな旅の一ページは、ここから刻まれる。
水平線に澄み渡る空が溶けている。青に囲まれた世界で、ぽつりと浮かぶ帆船が白く道を描いた。波がゆるやかに宙を舞い、飛沫が無邪気に飛んできたのを金を束ねて揺らす青年は愛おしげに受け止める。潮風を目一杯吸い込み、再び海面を見つめた。
「可愛い奴め」
機嫌の良い口笛を鳴らすと、青年はまるで恋人に触れるよう優しく海に手を差し伸べ、船縁に体重を預けようとした。
「船長!」
船底部屋の扉からひょっこりと顔を覗かせる少女が甲高い声を響かせる。その声に反応して視線を変えると、よいしょと落ちないように体を上げ、短い足を動かして全力疾走でこちらに駆け寄る姿があった。少女はばふっと青年に抱きつくと、むすっと頬を膨らませた。
「もーまた落っこちちゃったら危ないでしょ!」
片手に携える大きい本を青年の背中にガシガシとぶつける。おい普通に痛いな。角はやめて角は。
「落ちないってば。てか僕が落ちたことなんてないじゃん」
「ついこの前落ちたでしょ! もう忘れたの?」
「あれは珍しいイルカがいたから背中に乗せてもらおうとしただけだよ。鈍臭い言い方しないで」
「だからって飛び降りたりしないでよぉ!」
キャンキャンと泣き喚く少女を、青年は鬱陶しそうに頭を撫でくりまわした。案の定大人しくなった少女はさながら子犬だ。やれやれ。僕は動物だとメガネザルが一番好きなんだけど。ため息を吐く青年は少女のまあるいほっぺをもちもちこねる。
「で、なんか用?」
「あ、えっと……」
今の時間なら船底部屋で船員が子供達を寝かしつけているはずなのだが。青年からぱっと距離を置いた少女はもじもじと言葉を詰まらせる。小さな両手が大切に古びた本を抱きしめる姿を、青年はアプリコットの瞳を向けてただ静かに待っていた。
言いたいことは自分から伝える、そして自分が辛くなる隠し事はしないこと。青年は皆に口酸っぱく言い聞かせている。青年の真摯な姿勢に、きゅっと結ばれていた口元がじんわりと解かれて、少女のか細い音が零れていく。
「あのね、みんなが言うの。魔法なんて存在しないって」
――魔法。戦争も飢餓も、不条理な死もない平和なこの世界には存在しないもの。それは宇宙に浮かぶ無数の煌めく子供を生み出したり、箒なんかに跨いで遍く大空を舞ったり、本の中でしかあり得ないような夢物語だ。人間が星なんか作れないし、身一つで空を飛べるわけがない。そう、そんなつまらない世界。
「でもわたしは、そんなことないって思う。だって、この本にも魔法はあったんだって、そう書いてあるもん」
少女は「シュテルンクロス」と記された本をぎゅっと抱える。ぽろり。ぽろり。水面の揺らぎを閉じ込める瞳から雫が自然と落ちていく。一度雨が降ってしまえば、止むことは出来なかった。少女は大粒の涙が本につかないように、ごしごしと手で目を擦る。青年は少女の手をそっと掴んで、ポッケからマリンの刺繍が施されたハンカチを当ててやった。苦しそうにしゃっくりを出す少女の背を摩りながら、青年は年季を感じる本をすらりと手に取る。まるで懐かしい旧友と再会したみたいな、そんな慈しみのある表情をした。
「周りの子供たちと自分が違うのは嫌?」
「……いや、ってわけじゃないよ。変って思われちゃうのは少し寂しいけど……」
「そう。ま、変なのは変だからなぁ」
「えぇ⁉︎」
分かりやすく少女は落ち込んだ。やっぱり変なんだ。知っていたけど心がモヤモヤしてしまう。頭上に闇を渦巻かせる少女に、青年はカラッとした笑い声をあげる。
「僕も君と同じでさ、魔法大好きだったんだ。てか使えるって思ってたから練習もしてたし。おかげで変だ変だーっていじられまくったね。どうでもよかったけど。ほら、変なとこが僕とお揃いだ。喜んでもいいよ」
「そんなお揃いやだよ!」
完全に遊ばれていることを理解した少女はぷんぷんと怒りを露わに動き回る。これまた驚くほど怖くない。青年は顔が真っ赤な少女を見て金魚みたいだなーなど呑気なことしか考えていなかった。子供をあしらうのはお手の物のようで、またまた笑うだけだった。
「いいじゃん、それが君なんだし。僕は好き。それに……」
ぶわり、生暖かい潮の空気が二人を包み込む。大きめのマリン帽を押さえながら、青年は母なる海の描く先をまっすぐに見つめた。彼のアプリコットに反射してほんのり映ったマリンブルーが清らかで、船長である青年はこの世界を本当に愛しているのだと、幼い少女にも分かる。自然の美しさを余すことなく受け取り感傷に浸る青年は、少女に目線を移すと、にかっとあどけなさの残る笑顔を輝かせた。
「魔法はあったんだよ」
嘘じゃないさ。
嬉しそうに語る青年の言葉には濁りが微塵も感じられなかった。どきり。心臓が段々と騒ぎ出すのを、少女は鼓動の速さから伝わってくる。
あぁ、こんな奇跡があってもいいのだろうか!
少女の心の声を拾ったように、青年は大きな瞳を細める。
「なんで知ってるの? 船長も魔法が使えたの? それとも見たことあるの?」
怒涛の質問ラッシュが青年を襲う。耳は二つしかないし脳みそだって一つしかないのだからご容赦願いたい。だが、こうやって好きなものに好奇心を踊らせる子供が、青年は大好きだ。かつての自分がそうであったからか、なんて。
「僕の……そうだな、友人が教えてくれたんだ。この世界とは、また別の世界の話を」
「……え」
ぽかんと呆気に取られる少女に、青年はどうしたんだ、とはてなを浮かべた。あわあわと焦る少女は言葉が詰まっているようで、唾をごくりと飲み込む。何故か緊迫感の流れる空気に青年も飲み込まれ、少女の口が開くのをドキドキしながら見守った。
「……だ」
「……なんて?」
「船長ってお友達いたんだ⁉︎」
「はいぃ?」
開いた口が塞がらない青年と少女。間抜けな反応を隠せない青年は、純粋に驚いている少女の言葉が刃物のように突き刺さって抜けなかった。
「なんでそうなんの? おかしくない?」
「だって船長ってすなおじゃないし性格に難のある変人ぼっちだって、船員のお兄さんが言ってたもん」
「あーあーあいつだなうん分かった流刑決定」
なんてこと吹き込んでんだよ。青年は幼めの顔を歪める。大人って子供にろくなこと教えないじゃないか、これだから大人は嫌いだ。こうして子供の無邪気さも失われてくのか……と一人さめざめと肩を落とす青年だが、彼も少女から見れば立派な大人であることには触れないことにする。
「……いたよ。一人だけ」
静かにさざめく大洋を眺めながら記憶を辿る。こんな僕にも、友人がいた。
素直さ皆無難あり変人ぼっちである自分の手を繋いで、知らない世界を教えてくれた、大切な友達。
「他の子供たちを起こしてきて」
――御伽噺を教えてあげる。
この世界には魔法もファンタジーもない、だなんて思ってる? なら大間違いさ。
魔法はいつだってそばにいるのだから。
「さぁ静粛に、静粛に」
「これは僕の世界でたった一人の友人から受け継いだ、本物の御伽噺だ」
「語り部はこの僕、オスカーが務める!」
オスカーの声明と共に、海鳥が高らかに青空を駆け抜ける。ずっとずっと、遥か遠い水平線のその先へ。
◆◆◆
晴れやかな空を鏡にして、海原が純美に踊る。波の流れに身を任せて進む小舟に一人、大きなサファイアを持つ少女は瞳を更に輝かせた。ふと、海鳥の羽ばたきが聞こえて、少女は顔をあげる。
あぁ、なんて美しいのだろう。
朝日が水平線からこちらを見つめてきて、じっと目を離せない少女は感嘆を漏らす。どこからかやってきた海鳥が、自分を歓迎するみたいにくるりと弧を描く。少女はつい嬉しくなって、手を振りながら感謝を伝えた。
はじめまして、世界。
広くて、未知で、美しい、母なる海を渡り世界に辿り着いた星の子よ。
あなたはこの世界を愛し愛されるために生まれた、いちばん貴い子。
星々が交差したとき、全ては一つになる。
負の連鎖を断ち切り、己を認め、汝の隣人を愛せよ。
古びたページを破り捨て、自らの選んだ魂でこの空を飛び立て。
私たちの願いは、祈りは、たった一つ。
あなたに、心からの幸福を。
◆◆◆
ロングブーツを軽快に鳴らし、少女は小舟からひょいと身を乗り出す。二つ結びの桃色はふわりと靡き、頭に器用に乗せられた小さなコック帽を、慣れた手つきで落とさないように押さえる。旅の記念だと新調した革製のトランクケースを片手のお供にして小舟に別れを告げると、用が済んだことを理解したのか、舟は波の赴くままに船場へと戻っていくようだった。それを見送り、改めて陸の地を踏みしめる。初めての場所に胸の高鳴りが止まらず、ワクワクは肥大化するばかりであった。よーし! と元気いっぱいに拳を振り上げ、少女は波止場を後にした。
「あ、きたきた。カロンちゃん、こっちだよー!」
小走りで街を駆け抜けていた少女 カロン は、己を呼びかける声に気づく。視線の先には、おーいと分かりやすく手を振る女性が見える。いけない、待たせてしまった。カロンはさらに足を早めて、女性に突進するかのような勢いで、待ち合わせ場所にゴールインした。
「わっそんなに急がなくてもいいのに!」
おっとっと、と前のめりになったカロンを女性は慌てて受け止める。この調子だと波止場から長いこと走っていただろうに、少女は息が上がる様子もなく鮮やかな笑顔を向けた。
「遅れてごめんなさい、お待たせ!」
「いえいえ、無事にここまで来れたみたいでよかった。さ、乗って乗って!」
親指で自慢の愛車こと馬車を指す女性は、お姫様を舞踏会に連れ出すかのようにカロンを招き入れた。
ガタンゴトンと車輪がカロンたちを乗せて回っていく。旅人の自分が座るには幾分上質な生地の椅子に荷物を積んで、カロンは運転手である女性と会話を弾ませていた。
「いやはや、まさかあのカリスマパティシエで有名なクラウンベリーさんのお弟子さんだったとは。連絡貰ったときはびっくりしたよ」
クラウンベリー。艶やかな甘美を感じさせる名を持つ人物は、カロンの師匠であり、この街にカロンを呼んだ張本人だ。
「師匠ってば心配性なんだから。わざわざ馬車を予約して、しかもこんなに立派で素敵な……」
クラウンベリーは、料理人を目指すカロンを厳しく指導してくれている。彼の甘いお手製スイーツとは相反して、舌が痺れるような辛口を常に浴びる修行の日々だった。
周りから見れば、クラウンベリーは少し近寄りがたいかもしれない。だけれど、毎日のように日替わりスイーツをご褒美として振る舞ってくれたり、ファッションに頓着のないカロンを連れてショッピングに出かけたり、このトランクケースだって彼がくれたものだ。クラウンベリーの元を離れて旅立つ日には、彼は優しく頭を撫でてくれた。カロンにとっては最高の師匠なのだ。
「でも本当はクラウンベリーさんがここまでお迎えしてくれる予定だったんだよね? 断ってよかったの?」
「ふふっ師匠はね、ものすごーく方向音痴なのよ!」
「えーっそうなの⁉︎」
初めての土地なのだからと、当然のように赴こうとしたクラウンベリーを、カロンは子供を叱るようにめっ! とお断りした。彼が街でも出歩いたが最後、夜までは帰って来られないだろう。大人しく待っていてと言われて、クラウンベリーは少しショックを受けていたようだったが、仕方がないと飲み込んでくれたのだ。カリスマパティシエが行方不明にでもなったらそれこそ大事件である。カロンはひっそりと街の安寧を守った。
「それに、お姉さんともこうして出会うことができたもの!」
にかっと口を大きく開けて笑うカロンに、運転手は「天使か?」と天を仰いだ。厳密には運転中によそ見など出来ないので、心の中でだが。
「も〜っカロンちゃんのためならどこでも走らせちゃうよ!」
「あらいいの? 嬉しいわ!」
出会って僅か数時間の二人であったが、バッチリ意気投合。気前のいい運転手と明るいカロンの波長はよく合っていたらしい。
会話に一息ついて、カロンはちらりと窓から景色を覗く。視界に映る全てがカロンの知らないことだらけで、宝箱の中身を一つ一つ大切に眺めていたいような、そんな気持ちだった。
こぢんまりとした手芸店、混み合いがあたたかい郵便局、華やかなカフェテリア。揃ったレンガ道を早送りで追いかけるたびに、訪れたい場所が増えてゆく。時間が全く足りないだろうなとうずうずした。
ふと、一瞬のうちに通りかかったある店に、カロンはうっかりと視線を奪われる。
まるで、運命に導かれた一目惚れのようだった。きらりと輝くそれに、触れてみたい。そう思ってしまった。
「運転手さん! ここでいいわ」
「あれれ、まだクラウンベリーさんのお店までかかるよ?」
仕事のパートナーである馬たちにもまだだよね? と問いかけてみる。何も言わなかったので、つまり肯定だと運転手は都合よく解釈した。念の為時計を確認するが、やはりもう暫く運転は長引きそうだ。けれどカロンは、いそいそと慌てながら荷物を整理している。よほど寄りたいところでもあったのかと思って、運転手は無理に引き止めなかった。
「突然でごめんなさい、ここまでありがとう」
「いーよいーよ。旅なんて行き当たりばったりが醍醐味だし、楽しんでおいでよ。でも遅刻しちゃ駄目だぞ〜」
「えぇ、肝に銘じるわ」
ガチャリと自然に開いたドアを通り抜けて、軽い段差を飛び降りる。くるりと振り返ると、カロンは運転手に満開の笑みを咲かせた。
「運転手さん、楽しい運転をありがとう!」
その笑顔は、優しい陽だまりで溢れていた。ひたすら眩しくて、だけど目が痛くならない。カロンにそういう印象を抱いた。
「こちらこそ、カロンちゃんのおかげで私も楽しかったよ。いつでもご利用待ってますっ」
ご機嫌な主に共鳴して、馬たちもヒヒーンと声をあげる。彼らのお墨付きなら間違いないみたいだ。
「それじゃあさようなら! またよろしくね」
「もちろん。さようなら、良い旅を」
カロンは笑顔で手を振りながら、街の中へと紛れ込んでいった。その表情に釣られてか、運転手の口角も上がったままだ。
「そいじゃもう一仕事頑張りますかぁ!」
運転手はぐうっと背伸びをして、ついでに欠伸もする。あ、馬たちにも移った。ブサカワ〜とケラケラ肩を揺らす運転手のことなど、彼らは気にしていない。
「すみません、よければ運転お願いできるかな」
「はーい! お任せくださいな」
小柄な少年が声をかけてきて、新たなお客様に運転手はカロンと同じように満点の笑顔を向ける。その笑みに、少年はカロンと運転手にそっくりな微笑みを返した。
きらきらぱちぱち。空色の瞳を開いては閉じる。
カロンは運転手と別れた後、相変わらずの全力ダッシュで目当ての店にまでやってきた。ガラス越しに置かれるそれに、カロンは釘付けだ。
「わぁ、とっても綺麗……」
アンティークな宝石店に宣伝用として飾られる典麗な商品からカロンの心を射止めたのは、昼間にもかかわらず光が輝き渡る、ルビーで出来た林檎だった。カロンの二つのサファイアと林檎は交互に煌めきを照らし合わせる。
やっぱり、見に来てよかった。
馬車で見つけたときに感じた高鳴りは未だ止まない。触れることは叶わないが、その果実に焦がれるよう、遮る透明の壁に手を合わせて気持ちを乗せる。
ぼんやりとした空気の中で、カロンはガラス越しに映る大きな時計塔が目に入ると、ハッとツインテールを逆立てた。
「いけない、もうこんな時間!」
先ほど運転手が見せてくれた時計と比べて、半分は針が進んでいる。まさかそこまでここにいたとは。カロンは紅玉の林檎との別れを惜しみながらも、足音のリズムをばたばたと響かせた。
街ゆく人々にそれぞれ謝りながら、カロンは人混みを走り抜ける。クラウンベリーから貰った地図を凝視しながら足を急がせるが、店はなかなか発見出来ない。クラウンベリーは時間にも厳しいため、カロンは余計に焦っていた。運転手の言っていたことが今になって沁みる。肝に銘じるだなんて大嘘だ。
「方向音痴まで師匠から受け継ぎたくないわね……わっ!」
風を切る体に衝撃が走る。誰かにぶつかってしまった、そう理解した時には遅くて、カロンの重心は後ろへと向かっていく。頭をぶつけては危ないと、咄嗟に受け身の姿勢を取ろうとした。
だが、突然の浮遊感。ぐいっと柔らかく、手を引かれた。
「申し訳ありません、お怪我はございませんか?」
不安そうに伺う声が、少し上から聞こえた。地面に視線を落としていたカロンは、その爽やかでほんのりハスキーな音の持ち主を探して、顔をまっすぐ上に向けた。
「あ」
また、見つけた。
私の心を離さない、艶やかに微笑む赤の果実。
長いまつ毛を重ねる青年を、カロンはただ見つめた。美しい風貌の青年は、松葉色の切り揃えられた髪を帽子に収めており、林檎色の瞳をゆったりと瞬かせては、停止するカロンへ不思議そうに首を傾げた。引いてくれた手を離して、カロンの目の前で小さく手のひらを振っている。
「あの……大丈夫ですか?」
「……はっ! だ、大丈夫よ! 貴方こそ怪我はないかしら、えぇと」
「問題ありません。お嬢さんがご無事なら安心です」
にこ、と上品に笑う青年に、カロンはそっと胸を撫で下ろす。それにしても、彼の綻んだ表情はお世辞抜きに美しかった。ぱっちりした目には曲線を描く重みのあるまつ毛。さらりと流れる松葉色の前下がり。自分とは明らかに差のある脚の割合。そして少女のように可愛らしい容姿。こんなモデルのように美人な男の子が街にはいるのか、と田舎出身であるカロンは感動した。
「貴方、とっても綺麗で可愛らしいわ! 私、こんな美人さんを見たのは初めて!」
「ありがとうございます。けれど、貴方のほうが可愛らしいですよ」
言われ慣れているのであろう青年は、分かりきったような態度で返答する。これが本物の美人の余裕……! カロンはまたしても感動が溢れた。そのせいで青年の口説き文句には気づかなかったのだが。
「それは……地図ですか?」
青年はカロンが握りしめていた地図に気づいて問いかける。無我夢中で走っていたので少々しわがつき見にくくなったそれを、カロンはばっと青年の目の前に広げる。
「そう! 探しているお店が見つからなくて……」
「そうだったのですね。なら丁度良かった」
「?」
疑問を浮かべるカロンに、青年は先程のように物柔らかに微笑んだ。片足を少し後ろに下げ、芯の通った背筋を崩さずに腰を曲げる。右手を胸に、左手を真横に伸ばして、青年は僅かな角度で落とされていた頭を上げてこちらを見た。
「ようこそ、シュテルンタウンへ。私はこの街の案内人 テオフィール と申します」
すらりとしなやかに伸ばされた手には、彼の名前が記された名刺がご丁寧にあった。カロンはそれを嬉しそうに受け取って、スカートのポケットに入れると、空いたテオフィールの手を強く掴んだ。
「頼もしいのね! それじゃあお願いね、案内人さん!」
明るく笑みを輝かせたカロンに応えるように、テオフィールはカロンの手を引いて優しく握り返した。
新たな旅の一ページは、ここから刻まれる。