34~想い、彼方に~

 貴族街に着いたホイップが見たのは、地獄のような光景だった。
 安全が約束されていたはずの王都を襲う、黒くいびつな……長年騎士団に所属し、数多の魔物と戦った彼女ですら見たことがないような化物。
 若い騎士達が出動してあちこちで戦闘を繰り広げているが、その数を減らす気配はない。

「一体どうなっているのだ……」

 ぐ、と杖を握る手に力が入る。
 ブオルが後から駆けつけたのは、魔物がそんなホイップの背後に迫っていた時だった。

「危な……」
「!」

 ホイップは振り向きざまに杖に仕込まれた剣を抜き、襲い掛かろうとした魔物に鋭い突きをお見舞いする。
 その一撃は魔物の胴を抉り、遠くに吹っ飛ばすことには成功するが、やはり息の根を止めるまでには到らない。

「……くそ、やはり若い時のようにはいかんな……」

 剣筋は鋭くとも現役を退いて八十を目前にした体力ではここまで駆けつけるのが精一杯で。
 我が身の衰えを痛感しながらがくりと膝をつくホイップの視界に、ふいに大きな影が落ちる。

「下がってください、ご婦人!」
「な……」

 マフラーと頭巾で極力顔を隠しながら、ブオルがホイップの前に躍り出た。

「この魔物には通常の攻撃が効きません! ですから、私にお任せください!」

 よそよそしさに我ながら苦笑しそうになりながら、愛用の斧を構える。
 そう、今の自分は通りすがりの旅人……助けようとしている婦人とは初対面、そういう設定だと自分に言い聞かせながら。

「うおりゃあっ!」

 ブオルの斧が魔物を両断する。
 名工の腕輪により浄化の力を得た一撃は、化物を跡形もなく消滅させた。

「……その、動きは……」
「ち、違います! 私は通りすがりの旅人!」
「まだ何も言っておりませんよ、旅のひと」

 妻の危機は救えたものの、正体がバレたような気がして声が裏返る。
 そんな状況でも、くす、と柔らかい笑みを零すホイップはやはり綺麗だとブオルは思った。

「……どういった事情で通りすがったかは存じませんが、お陰で助かりました。ありがとうございます」
「い、いえ! では私はこれでっ!」

 やっぱりこれ、ちょっとバレかけてないか?

 深々と頭を下げるホイップに、これ以上ボロが出てはならないと短く言葉を済ませると、逃げるようにその場を去る。
 彼女の視界から消えるため、路地裏に入り込んだブオルは盛大に溜息を吐き、肩を落とした。

「あっ、危なかったぁー……けど、ホイップが無事で良かったあ……」

 ひとまず胸を撫で下ろすが、そういえば他で交戦中の騎士や街は大丈夫なのだろうか、とこっそり顔を出そうとしたところで、

『ありがとう。あとはもう大丈夫よ』
「え?」

 先程ブオルをこの時代に連れてきた女性の声と、ぐい、と後ろに引っ張られる感覚。

「んなぁっ!?」

 バランスを崩した巨体は呆気なく背後に開いた時空の裂け目に呑み込まれた。

……その、直後。

「いない……」

 ブオルが消えた路地裏に入れ違いに現れたホイップは、辺りを見回し考え込む。
 しかしすぐさま聴こえた魔物達の雄叫びに、思考は中断された。

「……今はティシエール家の者として果たすべき使命がある。浸っている場合ではないか」

 まずは民の避難を急がねば……彼女の目は、すっと前を見据えていた。



――――


「うわわ!?」
「ブオル殿!」

 どすん、と床に尻餅をついたブオルは、驚くオグマの顔を見て、元の時代と場所に帰されたのだと理解した。

「オグマ……俺、どのくらいいなかった?」
「ええと……それほど長い時間ではありませんでしたが、何があったのですか? お怪我は?」
「んぁ、大丈夫だ」

 そう言って手を動かした拍子に上着の内ポケットに布とは違う、薄い紙の感触。
 彼が今身につけている衣装を自分の屋敷で見つけた時、一緒に添えられていた手紙だ。

(ホイップ……)

 天寿を全うしたという妻が何を思って、もう着る人がいないはずのこの服を用意していたのかはわからない。

 手紙を開くと、余白の多い紙の隅に一言だけ書かれた文字に彼女を感じた。
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