おとなりの波佐間さん

 ここ数日、波佐間さんの姿を見ないなあと気持ちの端に引っ掛かりながらなんとなく過ごしていたある日。
 ふとカレーが食べたくなって、明日のぶんもたっぷりと、なんて大鍋で煮込んで、もうあとは食べるのを待つだけになった時のことだった。

(うん、いい感じの中辛。トマトがきいてて割と美味しくできたぞ)

 食欲をそそる香りが漂う中、お玉から小皿に掬って味見をしていると、ピンポンとインターホンが鳴る。

「はい……って、波佐間さん?」
「陽太朗くーん……」

 ひょっこり顔を出したのは、ちょうど気にしていた波佐間さん。
 顔色は青白く、眼の下にはハッキリとした隈……いつもより華奢に見える体はふらつくのかドアにしがみついて支えていて。

「もしかして、修羅場ってやつでした?」
「ぴんぽーん……うぅ、さっきようやくひと区切りついたところでぇ……」

 言葉が終わる前に、せっかちなお腹がぐうぅと鳴き、波佐間さんが慌ててそっぽを向いた。

「…………もしかして、執筆中ろくに食べてない、とか?」
「あはは……えぇと、合間に最低限の食事はしたけど、ぱぱっと食べられるインスタントとかパンとかで……」

 波佐間さんは気まずそうに引き攣った笑みでそう言いながら、時々横目でちらりとこちらを窺っている。
 なんて極端なひとなんだ……俺の口から盛大な溜息が漏れた。

「カレーのニオイに誘われて来ちゃったってことなんですね?」
「恥ずかしながら……うん、ごめん。だいぶ正気に戻ったから俺帰るね。お騒がせしましたぁ」
「なんで帰るんですか? せっかく来てくれたのに」
「はぇ?」

 ドアを閉めようとした波佐間さんの腕を掴み、ぐいっと部屋の中へ引き入れる。
 なんの抵抗もなく俺の腕の中に収まった体はやっぱり細くて、薄い。

「うわわわ!? よ、陽太朗くん?」
「そんなふらふらで今からご飯の支度もしんどいでしょう。今日のところはうちで食べてってください!」

 鳩が豆鉄砲を食らったような、ってこんな顔なのかもしれないな。
 ぽかんと驚く波佐間さんの両肩に手を置いて、俺はめいっぱい悪どく笑って見せた。

「ふふふ、うちに来たのが運のツキですよ波佐間さん。犬尾家の家訓は“はらぺこの子にはお腹いっぱい食べさせろ”ですからね!」
「なにその家訓!? っていうか、俺子供じゃないし!」
「そういうことは自己管理がちゃんとできてから言ってくださいね」
「うっ……」

 悪いけど、自己管理に関しては一家言ある身だ。そうでなくてもこの人よりはできていると言っていいだろう。
 波佐間さんは観念したのかがっくり項垂れると靴を脱いで「おじゃまします……」と部屋にあがった。

「ホントにいいの? 突然おじゃましちゃって」
「たくさん作りましたし、誰かと食べるとまた美味しくなりますからね」
「陽太朗くんってびっくりするくらい良い子だよねぇ……」

 ちょこん、と座布団の上にばつが悪そうに座る波佐間さんが妙に可愛らしくて、思わず吹き出す。

「なんで笑うの」
「いやぁ、なんだか俺の部屋に波佐間さんがいるの面白くて」
「なんだよそれ……」

 背中に浴びせられた視線がちくちくと刺さるけど、それすらも笑えてしまうな。
 こっそりそんなことを考えながら、俺は食器棚から大皿を二枚取り出した。
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