おとなりの波佐間さん

 カンカンと音をさせてアパートの階段を上がっていくと、共用廊下の手すりに身を預けるおとなりの小説家……波佐間さんの姿が。
 ごそごそとズボンのポケットをまさぐり、取り出した細く白い棒を口に咥える、そんなところを見て……

「あっ波佐間さんタバコ……じゃなかった」
「ん?」

 きょとん、とまばたきをする大きな目。今日はそこまで隈がひどくないみたいだ。

「飴だったんですね。失礼しました」
「棒の太さが全然違うでしょ。そそっかしいなあ、陽太朗くん」
「はは。でも懐かしいなぁ。棒付きキャンディなんて子供のとき以来で」

 そう。波佐間さんが咥えたのは棒付きの飴。話の流れでなんとなく隣に立ち、彼の口許から覗く棒に視線を落とした。

(でも、この人が食べてると子供っぽいというよりも……)

 俺の視線に気づいたのか、波佐間さんはにこりと笑ってみせる。

「これはね、俺の相棒」
「相棒、ですか?」

 棒付きなだけに?
 なんてくだらないことは言わないでおこう。

「ガーッと小説書いてると、脳に糖分欲しくなってくるの」
「なるほど。なんだかカッコいいですね!」

 このまえ歳を聞いたら波佐間さんは俺のいっこ上。早生まれなので学年的にはふたつ上らしいんだけど、俺とは違って落ち着いてて力の抜けた感じがスマートな大人っぽくて、そこに小説家として仕事をこなす姿なんて見せられたら、ちょっと憧れちゃうなぁ……

「君はあんまりこういうの食べないの?」
「そうですね、大人になってからはそれほど……ああ、でも、缶に入ったドロップってあるじゃないですか。これくらいの」

 これくらい、で俺は両手の指を使って四角形を作り出した。たぶん、たぶんこれくらい……?

「ああ、あれね。綺麗だよね」
「そうそう。綺麗で、宝石みたいで、缶に入ってるのもなんかちょっと特別感あって、わくわくしますよね」
「うんうん、わかる」

 共感して貰えた嬉しさで、自然と頬が緩む。
 波佐間さんの目尻もふにゃりと下がっていた。

「子供の頃あれを貰ったことがあって、それはもうすごく特別な宝物みたいに見えちゃって……」

 俺は目を閉じて当時を思い出しながら、缶を持った手を耳元で振るジェスチャーをしてみせる。

「すぐ食べちゃうのも勿体ないなって、時々振ってカラカラ鳴らすだけでも幸せだったんですけど、そうやって大事にしすぎて、暑い日に中で全部くっついちゃって……」
「あちゃー……」

 赤も黄色も緑も、全てが溶けてひとつになってしまった。
 蓋を開ければ変わり果てた姿。あの悲しみは、遠い夏の終わりの思い出だ。

「で、今も時々見かけたら買っちゃうんですよ。今度はくっつかないようにちゃんと保管して、落ち込んだり元気が出ない時に一粒ずつ、大事に食べてます」

 今も部屋に置いてある、甘くてカラフルな宝物。
 一粒食べるたびに、俺に元気をくれる。

「そっかあ、いいねぇ。燃料みたいに放り込まないで、今度から俺ももうちょい大事に食べようかなぁ」
「燃料って……それはちょっと食べ過ぎちゃいそうですもんね」
「ね?」

 言いながら波佐間さんは一度キャンディを口から出し、ぺろ、と舐めた。
 そのまま再び口の中に戻すと、上目遣いで微笑む。

「……ん。おいひい。よーはろーふんのおはえらね」

 たぶん、陽太朗くんのおかげだね、みたいなことを言っているんだろう。
 それだけなのに……

(あれ、なんか、なんだか……)

 赤い舌が、ちらりと見上げる目が、笑顔が。
 なんでか妙にドキッとしてしまい、俺は慌てて顔を隠すのだった。
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