泡沫に恋をする
「……あぁ、また榊さんがうるさそうだ」
読んでいた本を閉じて、持っていた時計で時間を確認した男は独り言を呟いた。
何度も読み返しているのに男――隼は読む度にその本の世界に引き込まれる。そして気づけば長く時間が経ってしまっているのだ。
隼が本を読み始めたのはまだ太陽が高く昇っていた頃だったが、読み終わった今太陽はその姿を隠そうとしている。
本をカバンに仕舞い、隼はベンチから立ち上がって家を目指す。
隼の家は街はずれの海の近くにある。
潮風を感じながら隼は鼻歌を奏でて歩く。防波堤に守られた向こう側を見たことに理由は無かった。ただ気まぐれに視線を移したに過ぎない。
穏やかな波、美しい砂浜は人があまり寄らないが故の自然の美しさだ。その景色に見惚れていると、まるで物語のような非日常的な物を見つけてしまった。
「……人?」
うつ伏せで裸で倒れている人。何故こんな所で倒れているのか、何故裸なのか、たくさんの疑問が隼の頭に浮かぶが、何よりもまず救命が先決だと隼は防波堤を超えて砂浜へと足を踏み入れた。
隼が子供の頃から繰り返し読んでいた物語に少しだけ似た状況だ。主人公が王子様を助けるあのシーン。
だが、あいにく隼は主人公とは性別も種族も違うし、おそらく倒れているこの男は王子様などではないだろう。身に着けているものが何もないため絶対にとは言い切れないが。
「ねぇ、君。大丈夫?」
声をかけて体を軽く叩く。男からの反応が返ってこないので、呼吸の確認をすれば息の音が聞こえた。
何らかの事情で気絶しているだけだと冷静に状況を分析した隼は着ていた上着を男の腰に巻き付け、ゆっくりと男の体を起こした。そして自分の肩に持たれかけさせて、そのまま男ごと立ち上がる。
病院に連れて行くより自分の家の方が近い。それにこの男に少しばかり尋ねてみたいことがあった隼は気絶したままの男を連れてあともう少しの家までの距離を歩いた。
街はずれにある白く大きな屋敷、それが隼の住む家だ。
立派な門を通り抜けて玄関まで辿り着くと、隼の執事が主の大きな拾い物に目を丸くしていた。
「隼様、一体何が」
「後で説明するから、とりあえず彼に合いそうな服を調達しておいて。あと、目が覚めた時用に軽食も」
「かしこまりました」
必要以上に訊かないのが執事の嗜みだと榊は昔隼に語っていた。きっと尋ねたいことは色々あっただろうに隼の命令を優先してくれる榊に感謝しつつ、隼は自分の部屋へ男を連れて行く。
階段をのぼって、長い廊下を抜けて、もう体力も限界に近付いていた頃ようやく隼は自分の部屋に辿り着いた。
自分の部屋、といってもこの屋敷自体が丸ごと隼のものだ。隼が男を連れ込んだのは普段寝室として使っている部屋で、入ってすぐに大きなベッドが出迎えてくれる。
おそらく榊がベッドメイクしてくれたのであろう綺麗なベッドに隼は男を寝かせた。自分は隣に置いてあるソファへと身体を沈める。ちょうどその時、扉がノックされた。
「失礼します。隼様、着替えをお持ちしました」
「ありがとう」
「食事の方はいかがいたしましょうか?」
「彼が目を覚ましたら呼ぶよ」
隼の言葉に恭しく頭を下げた榊はそのまま扉を閉める。これで隼が呼ばない限り、榊はこの部屋に入ってこないだろう。
ソファから体を起こした隼は改めて気絶したままの男を頭から爪先までじっくりと眺める。
均整の取れた綺麗な体だ。よく見れば顔も整っていてかっこいい部類に入るのではないかと隼は思う。しかし今は全裸なので、女性の前に出れば変質者扱いされるのは間違いない。
くすりと笑った隼は丁寧に榊の持ってきた服を着させることにした。まずは上着を着せ、そして布団をめくり男に下着を履かせようとした隼の視線は、足に集中する。
「……やっぱり、気のせいじゃない、か」
隼が男を見かけた時、足に何か光るものが見えた。それが何なのか男に直接尋ねるために家まで連れてきたのだが、その光るものは範囲を増している。もうすぐで足全体を覆ってしまいそうだ。
例えて言うなら、それは、
「鱗、みたいだね」
固い感触は男を守るように張り付いていて、魚の鱗のようだ。色は青にも見えるし緑にも見える。赤色も見えるし黄色も見えて、何色と言葉で表現するのは難しい。
足に鱗のようなもの、そしてその色は見る度に表情を変えこの色であると確定できない色合い。見かけた時は二本の足が生えていたのに、今は一本、いやもう足と呼べるものにはなっていない。
――間違いない。彼は人魚だ。
「ん、っ」
男の口から息が漏れて、隼はそっと布団をかけなおした。
上半身だけ見れば普通の人間と何も変わらない。男はゆっくりと瞼を開ける。
「ん……あ、れ」
「目を覚ましたかな?」
サファイアのような美しい瞳が隼の姿を捉える。透き通っていたのは一瞬で、すぐにその目は困惑の色へと変わった。
「だ、だれ」
「初めまして。僕は隼だよ」
「しゅ、ん……?」
「そう。君が浜辺で倒れていたから僕の家まで運んだんだ」
「ぼくの、いえ」
隼の言葉をいちいちオウム返しする男はどうにかこのよく分からない現状を理解しようとしているらしい。自分の手を見つめながらぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「えっと、俺を助けてくれたって事か?」
「そういう事になるかな」
「そうか……。ありがとう」
男の笑顔は屈託なく、命の恩人である隼を全く疑っていない笑顔だ。
信頼されているのはありがたいが、果たしてそんな様子で大丈夫なのかと隼は心配になってくる。人魚に関しては隼は他人より詳しい、だからこその心配である。
「ところで、今何時か分かるか?」
「今? そうだね、もう日が沈んでいるし大体18時くらいかな」
「18時?!」
正確な時間は時計を確認しないと、という隼の言葉は驚く男の声にすべて掻き消された。
どうしてと隼が問う前に男は素早く布団の中を確認する。
「っ、」
「どうかしたの?」
男は顔面蒼白で布団の端をぎゅっと掴む。先程の信頼から一転、警戒されているのは間違いない。
「み、見たのか」
男の言葉には『何を』が無い。それでも隼はすぐにその意味を理解した。
さて、どう答えるべきか。とぼけてもいいが下着は履かせたし、全身見られていることぐらい男も予想がついているからこんな態度を取っているのだろう。隼は小さく息を吐いて両手を上げた。何もするつもりはないと意思表示として。
「ごめんね。君が人魚だって知らなかったんだ」
隼は少しだけ嘘をついた。足に見えた光からもしかしたら人魚かもしれないという気持ちはあった。
しかしそれを伝えれば目の前の男はますます警戒するだろう。隼は男の返答を待つ。
男は布団を掴む力を緩めて、ゆるりと首を横に振った。
「……いや、貴方が悪いんじゃない。俺の不注意だ」
今度はずいぶんと力の無い笑顔だ。先程の笑顔の方がずっと彼らしいと、会って数時間も経っていないのに隼は思う。
なんとか先程のような笑顔が見たい。隼は男に警戒されないように少し離れたところに座って微笑む。
「ねぇ、君の名前は?」
「え?」
「名前。君って呼ぶの好きじゃないんだ。差支えなければ教えてほしいな」
「かい……うみって漢字で海だ」
「へぇ、人魚も漢字とか使うんだ。僕ははやぶさで隼だよ」
海、と隼は声に出さず男の名前を呼ぶ。海からやってきた人魚の名前としてはこれ以上ないくらいぴったりな名前だ。
そこまで考えたところで、隼の頭には純粋な疑問が浮かんだ。
「海はどうして言葉が話せるの?」
隼の知る限り人魚と会話が出来たという文献は見たことが無い。それなのに海は隼と何の不都合もなく会話することが出来ている。
海は隼の疑問に至極不思議そうな顔で返事をした。
「そりゃ、勉強してるからに決まってるだろ」
「勉強? 人間の言葉を?」
「うん。え、人間もそうなんだろ?」
「確かに……うん、僕たちも言葉を勉強するよ。人魚も同じように学んでいるんだね」
人魚だからと特別視していた自分の思考を隼は改めた。どうやら歴史上の、ほぼ想像上の生き物とされている人魚は過去のものになっているようだ。
「なぁ、今度は俺から質問してもいいか?」
考え込む隼に、海は手を挙げて問う。「もちろん」と隼は頷く。
「隼、は俺をどうするつもりなんだ? 人魚だって分かってるし、まさかそのまま何事もなく海に返してくれるわけないよな」
強がってるような口ぶりで海の声は震えている。その理由は人魚が貴重な存在であり、過去に人間から酷い目に遭わされている人魚が何人もいたからだろう。
隼は顔を顰めて、首を横に振った。
「僕は君を傷つけるつもりなんてないよ。人間僕たちが起こした過ちは消えないけど、それを繰り返す必要も無いからね」
遠い昔、人魚は人間の奴隷のように扱われていた。愛玩動物として飼われているのはまだましな方で、気に入らなければすぐに殺してしまうような人間が大半だった。人魚は死ぬ時に泡になる、だから殺したという罪悪感も薄いのだろう。
隼が人魚の歴史に興味を持ったのは幼い頃母が読んでくれた物語がきっかけだ。今でも何度も読み返すその物語に魅了され人魚という存在を知りたくなった。
知れば知るほど人間と人魚の歴史は血生臭く、醜いものだった。一時自身が人間であることが疎ましくなったほどである。だからと言うべきか、隼は人魚を追い求め続けた。そんな隼を周りは『変人』と呼ぶようになった。それでも、両親がいなくなってからも、ずっと、隼はこの世のどこかにいるかもしれない人魚を探し続けて。
――やっと、見つけた。そんな人魚海を手酷く扱うわけがない。
「……あぁ、そうだ。お腹空いてない? 軽食を用意するから食べてほしいな」
「そこまでしてもらうのは、」
悪いと海が言うと同時に海の腹の虫も同じように鳴く。
隼はくすり笑って椅子から立ち上がった。
「一応しっかり布団をかぶっておいてね。すぐ戻ってくるけど」
返事を待たずに隼は部屋を出る。鍵は閉めなかったからもしかしたら海は部屋を出て行くかもしれない。どうするかは海の自由だ。隼に止める権利は無い。でももし、海が残るという選択をしてくれるのならば。
隼は階段を下りて厨房へ向かう。滅多に足を踏み入れない場所だからか、突然現れた隼に榊は目を丸くした。
「隼様。わざわざこちらにいらしたんですね」
「うん。軽食だけど、僕が持って行くよ。部屋に人を入れられる状況じゃなくなってね」
「それは……お連れの方は大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。明日改めて紹介するから今日の所は何も訊かないで」
隼の言葉に榊は頷く。そして本当にそれ以上何も尋ねずに、隼にサンドイッチと紅茶の乗ったトレーを手渡した。
「ありがとう」
「夕食の方はいかがなさいますか?」
「あぁ……勉強部屋の方に置いといて。僕も軽食でいいから」
恭しく頭を下げる榊を見て隼は微笑む。そしてトレーを持ったまま元来た道を戻る。長い長い廊下を手元に気を付けながら早足で歩き、トレーを傾けないようにして扉を開けた。
さて、海はいるのか、それともいないのか。
「ただいま」
「っあ、おかえり」
寝ていた体を起こして海は笑顔を見せる。どうやら隼の事を信用してくれたようだ。その信頼を失くさないように隼は人の好い笑みで海に近づく。
「これ、サンドイッチと紅茶用意したから食べて」
「サンドイッチと紅茶……写真で見たことあったけど、実物は初めてだ……」
「初めて? 普段は何を食べてるの?」
「ん? 普通に海藻とか海にあるものを食べてるぞ」
陸にあるものを食べるのは初めてなのだと目をキラキラさせて海はサンドイッチを手に取る。
榊が用意したサンドイッチはハムとレタスが挟まれているものと卵が挟まれているものがあり、ハムサンドの方を海は先にパクリと噛みついた。
もぐもぐと咀嚼する海の表情は嬉しそうに輝いている。未だ感想を喋っていないのにその表情だけで美味しいのははっきり伝わってくる。
「美味い! これすごく美味い!」
「それはよかった。紅茶も一緒にどうぞ。榊さんが淹れてくれたから美味しいよ」
海は食べかけのハムサンドをお皿の上に置いて、ティーカップをまじまじと見つめた後、口の中に注ぎこむ。今度は味わったことの無い風味に驚いたように目を丸くして、そしてまた笑う。
人魚は常に無表情なのだと文献には多く書かれていた。これも正さなければならないなと隼は頭の中にメモをする。
「これも美味いなぁ」
「おかわりも言えば作ってくれるから気にしないで食べてね」
「おう!……あ、えっと、ありがとう、隼」
はにかむ海に、隼は無意識に心臓のある部分を押さえていた。どくんどくんと常より鼓動が早まっている。
隼が何度も読み返す物語は人魚が人間に恋する話だ。ならばその反対は、ハッピーエンドになり得るのだろうか。泡にならず、人間と人魚が幸せに暮らせる世界に、なれるのだろうか。
ハムサンドを食べ終わり卵サンドを咀嚼する海に隼は微笑みかける。頷いてもらえる可能性は低いが、1%でも可能性があるならそれに賭けたかった。
「ねぇ、海。僕と一緒に暮らさない?」
読んでいた本を閉じて、持っていた時計で時間を確認した男は独り言を呟いた。
何度も読み返しているのに男――隼は読む度にその本の世界に引き込まれる。そして気づけば長く時間が経ってしまっているのだ。
隼が本を読み始めたのはまだ太陽が高く昇っていた頃だったが、読み終わった今太陽はその姿を隠そうとしている。
本をカバンに仕舞い、隼はベンチから立ち上がって家を目指す。
隼の家は街はずれの海の近くにある。
潮風を感じながら隼は鼻歌を奏でて歩く。防波堤に守られた向こう側を見たことに理由は無かった。ただ気まぐれに視線を移したに過ぎない。
穏やかな波、美しい砂浜は人があまり寄らないが故の自然の美しさだ。その景色に見惚れていると、まるで物語のような非日常的な物を見つけてしまった。
「……人?」
うつ伏せで裸で倒れている人。何故こんな所で倒れているのか、何故裸なのか、たくさんの疑問が隼の頭に浮かぶが、何よりもまず救命が先決だと隼は防波堤を超えて砂浜へと足を踏み入れた。
隼が子供の頃から繰り返し読んでいた物語に少しだけ似た状況だ。主人公が王子様を助けるあのシーン。
だが、あいにく隼は主人公とは性別も種族も違うし、おそらく倒れているこの男は王子様などではないだろう。身に着けているものが何もないため絶対にとは言い切れないが。
「ねぇ、君。大丈夫?」
声をかけて体を軽く叩く。男からの反応が返ってこないので、呼吸の確認をすれば息の音が聞こえた。
何らかの事情で気絶しているだけだと冷静に状況を分析した隼は着ていた上着を男の腰に巻き付け、ゆっくりと男の体を起こした。そして自分の肩に持たれかけさせて、そのまま男ごと立ち上がる。
病院に連れて行くより自分の家の方が近い。それにこの男に少しばかり尋ねてみたいことがあった隼は気絶したままの男を連れてあともう少しの家までの距離を歩いた。
街はずれにある白く大きな屋敷、それが隼の住む家だ。
立派な門を通り抜けて玄関まで辿り着くと、隼の執事が主の大きな拾い物に目を丸くしていた。
「隼様、一体何が」
「後で説明するから、とりあえず彼に合いそうな服を調達しておいて。あと、目が覚めた時用に軽食も」
「かしこまりました」
必要以上に訊かないのが執事の嗜みだと榊は昔隼に語っていた。きっと尋ねたいことは色々あっただろうに隼の命令を優先してくれる榊に感謝しつつ、隼は自分の部屋へ男を連れて行く。
階段をのぼって、長い廊下を抜けて、もう体力も限界に近付いていた頃ようやく隼は自分の部屋に辿り着いた。
自分の部屋、といってもこの屋敷自体が丸ごと隼のものだ。隼が男を連れ込んだのは普段寝室として使っている部屋で、入ってすぐに大きなベッドが出迎えてくれる。
おそらく榊がベッドメイクしてくれたのであろう綺麗なベッドに隼は男を寝かせた。自分は隣に置いてあるソファへと身体を沈める。ちょうどその時、扉がノックされた。
「失礼します。隼様、着替えをお持ちしました」
「ありがとう」
「食事の方はいかがいたしましょうか?」
「彼が目を覚ましたら呼ぶよ」
隼の言葉に恭しく頭を下げた榊はそのまま扉を閉める。これで隼が呼ばない限り、榊はこの部屋に入ってこないだろう。
ソファから体を起こした隼は改めて気絶したままの男を頭から爪先までじっくりと眺める。
均整の取れた綺麗な体だ。よく見れば顔も整っていてかっこいい部類に入るのではないかと隼は思う。しかし今は全裸なので、女性の前に出れば変質者扱いされるのは間違いない。
くすりと笑った隼は丁寧に榊の持ってきた服を着させることにした。まずは上着を着せ、そして布団をめくり男に下着を履かせようとした隼の視線は、足に集中する。
「……やっぱり、気のせいじゃない、か」
隼が男を見かけた時、足に何か光るものが見えた。それが何なのか男に直接尋ねるために家まで連れてきたのだが、その光るものは範囲を増している。もうすぐで足全体を覆ってしまいそうだ。
例えて言うなら、それは、
「鱗、みたいだね」
固い感触は男を守るように張り付いていて、魚の鱗のようだ。色は青にも見えるし緑にも見える。赤色も見えるし黄色も見えて、何色と言葉で表現するのは難しい。
足に鱗のようなもの、そしてその色は見る度に表情を変えこの色であると確定できない色合い。見かけた時は二本の足が生えていたのに、今は一本、いやもう足と呼べるものにはなっていない。
――間違いない。彼は人魚だ。
「ん、っ」
男の口から息が漏れて、隼はそっと布団をかけなおした。
上半身だけ見れば普通の人間と何も変わらない。男はゆっくりと瞼を開ける。
「ん……あ、れ」
「目を覚ましたかな?」
サファイアのような美しい瞳が隼の姿を捉える。透き通っていたのは一瞬で、すぐにその目は困惑の色へと変わった。
「だ、だれ」
「初めまして。僕は隼だよ」
「しゅ、ん……?」
「そう。君が浜辺で倒れていたから僕の家まで運んだんだ」
「ぼくの、いえ」
隼の言葉をいちいちオウム返しする男はどうにかこのよく分からない現状を理解しようとしているらしい。自分の手を見つめながらぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「えっと、俺を助けてくれたって事か?」
「そういう事になるかな」
「そうか……。ありがとう」
男の笑顔は屈託なく、命の恩人である隼を全く疑っていない笑顔だ。
信頼されているのはありがたいが、果たしてそんな様子で大丈夫なのかと隼は心配になってくる。人魚に関しては隼は他人より詳しい、だからこその心配である。
「ところで、今何時か分かるか?」
「今? そうだね、もう日が沈んでいるし大体18時くらいかな」
「18時?!」
正確な時間は時計を確認しないと、という隼の言葉は驚く男の声にすべて掻き消された。
どうしてと隼が問う前に男は素早く布団の中を確認する。
「っ、」
「どうかしたの?」
男は顔面蒼白で布団の端をぎゅっと掴む。先程の信頼から一転、警戒されているのは間違いない。
「み、見たのか」
男の言葉には『何を』が無い。それでも隼はすぐにその意味を理解した。
さて、どう答えるべきか。とぼけてもいいが下着は履かせたし、全身見られていることぐらい男も予想がついているからこんな態度を取っているのだろう。隼は小さく息を吐いて両手を上げた。何もするつもりはないと意思表示として。
「ごめんね。君が人魚だって知らなかったんだ」
隼は少しだけ嘘をついた。足に見えた光からもしかしたら人魚かもしれないという気持ちはあった。
しかしそれを伝えれば目の前の男はますます警戒するだろう。隼は男の返答を待つ。
男は布団を掴む力を緩めて、ゆるりと首を横に振った。
「……いや、貴方が悪いんじゃない。俺の不注意だ」
今度はずいぶんと力の無い笑顔だ。先程の笑顔の方がずっと彼らしいと、会って数時間も経っていないのに隼は思う。
なんとか先程のような笑顔が見たい。隼は男に警戒されないように少し離れたところに座って微笑む。
「ねぇ、君の名前は?」
「え?」
「名前。君って呼ぶの好きじゃないんだ。差支えなければ教えてほしいな」
「かい……うみって漢字で海だ」
「へぇ、人魚も漢字とか使うんだ。僕ははやぶさで隼だよ」
海、と隼は声に出さず男の名前を呼ぶ。海からやってきた人魚の名前としてはこれ以上ないくらいぴったりな名前だ。
そこまで考えたところで、隼の頭には純粋な疑問が浮かんだ。
「海はどうして言葉が話せるの?」
隼の知る限り人魚と会話が出来たという文献は見たことが無い。それなのに海は隼と何の不都合もなく会話することが出来ている。
海は隼の疑問に至極不思議そうな顔で返事をした。
「そりゃ、勉強してるからに決まってるだろ」
「勉強? 人間の言葉を?」
「うん。え、人間もそうなんだろ?」
「確かに……うん、僕たちも言葉を勉強するよ。人魚も同じように学んでいるんだね」
人魚だからと特別視していた自分の思考を隼は改めた。どうやら歴史上の、ほぼ想像上の生き物とされている人魚は過去のものになっているようだ。
「なぁ、今度は俺から質問してもいいか?」
考え込む隼に、海は手を挙げて問う。「もちろん」と隼は頷く。
「隼、は俺をどうするつもりなんだ? 人魚だって分かってるし、まさかそのまま何事もなく海に返してくれるわけないよな」
強がってるような口ぶりで海の声は震えている。その理由は人魚が貴重な存在であり、過去に人間から酷い目に遭わされている人魚が何人もいたからだろう。
隼は顔を顰めて、首を横に振った。
「僕は君を傷つけるつもりなんてないよ。人間僕たちが起こした過ちは消えないけど、それを繰り返す必要も無いからね」
遠い昔、人魚は人間の奴隷のように扱われていた。愛玩動物として飼われているのはまだましな方で、気に入らなければすぐに殺してしまうような人間が大半だった。人魚は死ぬ時に泡になる、だから殺したという罪悪感も薄いのだろう。
隼が人魚の歴史に興味を持ったのは幼い頃母が読んでくれた物語がきっかけだ。今でも何度も読み返すその物語に魅了され人魚という存在を知りたくなった。
知れば知るほど人間と人魚の歴史は血生臭く、醜いものだった。一時自身が人間であることが疎ましくなったほどである。だからと言うべきか、隼は人魚を追い求め続けた。そんな隼を周りは『変人』と呼ぶようになった。それでも、両親がいなくなってからも、ずっと、隼はこの世のどこかにいるかもしれない人魚を探し続けて。
――やっと、見つけた。そんな人魚海を手酷く扱うわけがない。
「……あぁ、そうだ。お腹空いてない? 軽食を用意するから食べてほしいな」
「そこまでしてもらうのは、」
悪いと海が言うと同時に海の腹の虫も同じように鳴く。
隼はくすり笑って椅子から立ち上がった。
「一応しっかり布団をかぶっておいてね。すぐ戻ってくるけど」
返事を待たずに隼は部屋を出る。鍵は閉めなかったからもしかしたら海は部屋を出て行くかもしれない。どうするかは海の自由だ。隼に止める権利は無い。でももし、海が残るという選択をしてくれるのならば。
隼は階段を下りて厨房へ向かう。滅多に足を踏み入れない場所だからか、突然現れた隼に榊は目を丸くした。
「隼様。わざわざこちらにいらしたんですね」
「うん。軽食だけど、僕が持って行くよ。部屋に人を入れられる状況じゃなくなってね」
「それは……お連れの方は大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。明日改めて紹介するから今日の所は何も訊かないで」
隼の言葉に榊は頷く。そして本当にそれ以上何も尋ねずに、隼にサンドイッチと紅茶の乗ったトレーを手渡した。
「ありがとう」
「夕食の方はいかがなさいますか?」
「あぁ……勉強部屋の方に置いといて。僕も軽食でいいから」
恭しく頭を下げる榊を見て隼は微笑む。そしてトレーを持ったまま元来た道を戻る。長い長い廊下を手元に気を付けながら早足で歩き、トレーを傾けないようにして扉を開けた。
さて、海はいるのか、それともいないのか。
「ただいま」
「っあ、おかえり」
寝ていた体を起こして海は笑顔を見せる。どうやら隼の事を信用してくれたようだ。その信頼を失くさないように隼は人の好い笑みで海に近づく。
「これ、サンドイッチと紅茶用意したから食べて」
「サンドイッチと紅茶……写真で見たことあったけど、実物は初めてだ……」
「初めて? 普段は何を食べてるの?」
「ん? 普通に海藻とか海にあるものを食べてるぞ」
陸にあるものを食べるのは初めてなのだと目をキラキラさせて海はサンドイッチを手に取る。
榊が用意したサンドイッチはハムとレタスが挟まれているものと卵が挟まれているものがあり、ハムサンドの方を海は先にパクリと噛みついた。
もぐもぐと咀嚼する海の表情は嬉しそうに輝いている。未だ感想を喋っていないのにその表情だけで美味しいのははっきり伝わってくる。
「美味い! これすごく美味い!」
「それはよかった。紅茶も一緒にどうぞ。榊さんが淹れてくれたから美味しいよ」
海は食べかけのハムサンドをお皿の上に置いて、ティーカップをまじまじと見つめた後、口の中に注ぎこむ。今度は味わったことの無い風味に驚いたように目を丸くして、そしてまた笑う。
人魚は常に無表情なのだと文献には多く書かれていた。これも正さなければならないなと隼は頭の中にメモをする。
「これも美味いなぁ」
「おかわりも言えば作ってくれるから気にしないで食べてね」
「おう!……あ、えっと、ありがとう、隼」
はにかむ海に、隼は無意識に心臓のある部分を押さえていた。どくんどくんと常より鼓動が早まっている。
隼が何度も読み返す物語は人魚が人間に恋する話だ。ならばその反対は、ハッピーエンドになり得るのだろうか。泡にならず、人間と人魚が幸せに暮らせる世界に、なれるのだろうか。
ハムサンドを食べ終わり卵サンドを咀嚼する海に隼は微笑みかける。頷いてもらえる可能性は低いが、1%でも可能性があるならそれに賭けたかった。
「ねぇ、海。僕と一緒に暮らさない?」