教会の鐘が聞こえる

 海がロケに行って二日目、短い眠りを繰り返して朝を迎えてしまった。はぁ、と息を吐いて携帯電話の画面を見つめる。

「何も無い、か」

 海がロケに行ったのは国内の離島で、時差は無いから深夜に連絡が来るとは思っていなかったけれど、さすがにあれから何の連絡も無いと不安になる。
 昨日の春の言葉が何度も頭の中で再生されては、僕の思考回路を埋めていく。

「海……かぁい」

 何の通知も無い画面に名前を呼んで、携帯電話を持ったまま大きく伸びをする。
 暗い気持ちをずっと引きずっているわけにはいかない。昨日始と下の子たちに心配をかけないと約束したのだから。
 僕は心の中で大丈夫と呟いて、支度を済ませてから共有ルームに向かった。

 仕事は極めて順調だった。海がいないからユニットでの仕事は無い分、ソロの仕事が多めに入っていた。
 それらを何事もなくこなし、寮に戻ってからはプロセラの皆と一緒に夕食を食べた。
 朝は心配そうに僕を見ていた皆も夕食の時は安心したようでいつもと変わらず楽しそうに笑っていた。
 始との約束は守った。夜が淹れてくれた紅茶を飲み干した僕は部屋に戻ると声をかけて共有ルームを出た。
 長く感じる廊下を歩いて自分の部屋に入ると、一気に力が抜けてふらふらとソファに倒れこんだ。

「かぁい……」

 口を開けば海の名前が出てくる自分に呆れる。依存していると言われても否定できないレベルだ。
 でも好き。どうしようもないくらい。
 溜め込んだ想いを指先に込めて携帯電話で海の番号を表示する。連絡が無いならこちらから連絡するしかない。出なかったらその時はその時だ。
 ワンコール、ツーコールとコールが聞こえる度に心臓が痛いほどに鼓動を鳴らす。

『……隼?』

 5回目のコールの途中で、海の声が聞こえた。

『電話なんて珍しいな。何かあったのか?』

 海の声の調子はいつもと変わらない。それが酷く嬉しくて、そして少しだけ怖い。
 何と言うべきか一瞬の間に様々な考えを浮かべて、そのうちの一つを声に出した。

「うん。今、僕が死のうとしてる」
『……は?』

 冗談だよといつもの僕ならすぐにそう返していた。でも今日は何も言わずに海の返事を待つ。

『嘘、だよな?』
「さぁ……どうだろうね」
『隼。嘘でも言っていいことと悪いことがあるんだからな。……嘘だろ?』

 責めるような口ぶりなのに海の声は少し震えている。それは言葉の裏に嘘だと言って欲しいという気持ちが透けて見えた。
 海は幼い頃大切な人を失った経験がある。僕を彼女のように亡くしたくないと思っているから、こんな風に怯えたような声になっているのだろうか。

「嘘だよ」

 これ以上海を苦しませるのは本意では無かった。出来る限り明るい声でそう返す。

『やっぱり。冗談でもあんまりそういうこと言うなよ』
「ごめんね。ちょっとでも海と喋っていたくて」
『俺と? 何で?』
「あれから、海と会話して無かったから」

 あれが何を指しているのか電話越しでも海はきちんと理解したらしく、何を言うべきか迷っているようだ。気まずい間が通話時間を奪っていく。
 刻々と流れる時間に、僕が先に口を開いた。

「海。一つ聞きたいことがあるんだ」
『……なんだ?』
「海は僕の事嫌いになった?」

 ついに言ってしまった。どうか肯定の返事がきませんようにと電話したまま神に祈る。

『どうしてだ?』

 考え得る最悪の答えでは無かったものの、思っていた通りでは無い海の返しに戸惑いながら返事をする。

「僕のプロポーズを断ったじゃない。だからもう僕と別れたいのかなって」
『それは違う』

 食い気味の答えの後、海はきっと電話の向こうで頭をかきながら、自分の気持ちを話し始めた。

『……俺は、怖かったんだ。隼の未来を縛るのが』

 春の話に出てきたのと同じ台詞が海の声で再生された。
 僕はただ静かに海の話を聞く。

『両思いになった時から、いつか離れる日が来ることを想像してた。隼には家のこともあるし、興味本位で付き合ってるんだろうなって思ってた』
「……ひどいね」

 思わず口をついて出た本音に海は申し訳なさそうな声で謝った。

『でも、付き合っていくうちに隼が本気なんだってことはよく分かった。だから、もし離れなきゃいけない日が来たら俺はちゃんと離れられるのか怖くなったんだ』
「……ねぇ、海。僕には熱烈な愛の告白に聞こえるよ」
『そうかもな。俺はもう隼でいっぱいにされてるから、別れたら空っぽになっちまう』

 あははと電話の向こうの海はこの空気に似合わない笑い声を聞かせた。明るくて優しい、僕の大好きな海の笑い声。
 あんな言葉を聞かされてしまっては暗い気持ちになってるのもおかしい気がする。僕も気持ちを伝えなくては。

「じゃあ簡単な事じゃない。僕と海はずっと隣に居ればいい」
『そう言うけどなぁ、俺は兄弟がいっぱいいるし実家も普通の家だけど、お前は霜月家の一人息子だぞ? ずっとなんて無理だろ』
「無理じゃないよ。君がそう望めば、僕はただの霜月隼として海の隣に居続ける」
『……』
「僕には海を失うことの方がずっと怖い。だから離れるなんて言わないで」

 もしかしたら引かれるかもしれないと、言ってしまってから少しばかり後悔した。
 僕のこの思いが、僕に纏わりつくものを排除してでも海と一緒に居たいという気持ちが、海の肩に重くのしかかっているのだろうか。海が苦しむ必要は無いとどうすれば伝えることが出来るのだろうか。
 机の上には閉じられたままの指輪の箱が、寂しそうに開けられる時を待っている。その時が来るかどうかは、海の返事にかかっている。

『……隼って』

 長い沈黙の後にしては、海の声はいつも通りの調子だった。

「なに?」
『思っている以上に俺のこと好きだったんだな』

 言葉の終わりには微かに笑い声も聞こえて来て、呆気にとられるとはこのことを言うのかと冷静な自分が自身の現状を理解する。
 先程までどこかずっと欝々とした感情を体に閉じ込めていたというのに、海の言葉一つで晴れやかな青空に変わる。

「そうだよ。僕は海を愛しているからね」
『そういうの、さらっと言わないでくれませんかねぇ。魔王様?』
「ふふふ。海にはもっと言葉にしていかないとダメだって分かったから」

 もう短くない付き合いなのに、まだ知らない海の姿があった。それを知れたのは、今回のプロポーズのおかげだ。
 指輪の箱に向かって手を伸ばしていると、電話の向こうの海が僕の名前を呼んだ。

『あのさ、この間のプロポーズの返事取り消してもいいか?』
「いいよ」
『代わりの返事は明日、会った時に直接伝えるから』
「うん。楽しみにしてる」

 それから二、三言会話を交わして明日があるからと電話を切った。
 僕の手の中には箱から取り出した指輪が、明日を待ちわびるようにキラキラと輝いていた。
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