満月には程遠い
「隼~起きろ~」
いつの間にか眠りについていた隼を起こしたのは、海の見舞いに来た黒月だった。病室で眠りこけていた隼を特に注意することもなく、隼に寮へ帰るよう促す。
本当はいつまでも海が目を覚ますまで傍についていてあげたい。けれども、海が休んでいる分の仕事は隼や他のメンバーに回ってきていて、我儘を言えるような空気でないことはよく分かっていた。隼は黒月に「任せたよ」と言って笑った。
黒月に見送られ、隼は一度寮に戻った後仕事に向かう。
すれ違う人々は口々に隼に海の容態を尋ねて来て、隼はその度笑顔を作って大丈夫と答えた。隼の答えに安堵の表情を浮かべる人たちを見ては、隼の中に苛立ちが募っていく。知らないって、なんて幸せなことなのだろう。
「隼」
聞き慣れた声に顔を向ければ、始が隼の方へ向かって歩いていた。
そういえば今日は始と一緒の仕事だった。普段なら喜ばしいのにあまり気分が上がらないのは、未だ目を覚まさない眠り姫のせいだ。
「始。今日はよろしくね」
「ああ。……隼、お前少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「え?」
「隈、出来てるぞ」
始に指摘されて、そう言えば海が入院してから眠りが浅かったなと思いだした。眠ってしまうと隼の夢の中に海が出て来て、何度も何度も誰かをかばっては死のうとする。毎回守る相手や方法が違っていて、隼は冷や汗をかきながら目を覚ます。夢でよかったと安堵する一方で、海が本当に死んでしまうような気がして隼は夢を見た後上手く寝付けることが出来なかった。
黒月には隈を指摘されなかったものの、始が気づいているのだから恐らくプロのメイクアップアーティストも気づくことだろう。上手く隠してもらって、写真に写る時にはかっこいい隼で居なくてはならない。
「……今日はこれだけだから、終わったら休ませてもらうよ」
眠れるかどうかは分からないけど、と隼は心の中で付け足す。声に出せば始にもっと心配させてしまうことは容易に想像がつくから。
隼の思惑通り、少し安堵の表情を浮かべた始は隼の横に並んで控室までの道のりを一緒に歩いた。
*****
海の意識が戻ったと黒月から連絡を受けたのは、隼が始との仕事をちょうど終えた頃だった。
仕事を終えたら寮に帰ってすぐに休むという始との約束を破り、隼はスタジオから直接病院へと舞い戻る。
タクシーを降りて通い慣れつつある病室までの道のりを早足で急ぐ。
やっとたどり着いた個室の扉を隼が勢いよく開ければ、中ではベッドから上半身だけを起こした海が隼の方に向いていた。
「あ、隼」
拍子抜けするほどいつもの調子で海は隼を呼んだ。この三日間一度も目を覚まさなかったなんてまるで嘘のようだ。
隼の頭の中には海に伝えたい言葉が崩壊したダムのように溢れ出して、けれども口から出たのは安堵の息だけだった。
「……よかった……」
ベッドに駆け寄って隼は海の温もりを確かめるように手を握った。昨日とは違って海の指は自分の方から隼に絡んでくる。
「……そういえば、大は?」
「あぁ、黒月さんなら俺が目を覚ましたから仕事に戻ったぞ。隼は、仕事は?」
「始との撮影だったけど、終わってすぐこっちに来たんだ」
「そうだったのか。それは悪いことしたな」
「……どうして?」
海の言う“悪いこと”の意味が理解できず、隼は聞き返す。
「だって、」と続いた海の言葉は隼にとって衝撃的なものだった。
「俺がもっと目を覚ますのが遅かったら、始と一緒に帰れたかもしれないのに」
隼は自分の耳を疑った。今の海の言葉は本気で言っているのかと。
しかし何度確認しても海は平常通りの表情で、冗談を言ったわけではなさそうだ。
何故そんなことを言うのか、隼が海の安否より始との他愛無い話を優先させるとでも思っているのか、そんな風に詰め寄ろうとして、やめた。隼はその答えを知っている。
要は、海の優しすぎるが故の短所の一つだ。海は自分のせいで誰かが悲しむのを極端に嫌がる。悲しみの度合いは些細なことだっていい。誰かが少しため息をつくようなら自分が身代わりになればいいと、海は本気でそう思っているのだ。だから恋人である隼に対しても、先程のような発言が出来てしまう。
思わず出そうになるため息を飲み込んで隼はわざと微笑みを浮かべた。
「海はひどいこと言うね」
「え?」
「僕がどれだけ海を心配してたか、知らないでしょ?」
はてな顔の海は隼の言っている意味をいまいち理解できていないようだ。それでも隼が傷ついていることだけは理解したらしく、「ごめん」と素直に謝る。
「謝らなくていいよ。それが海らしさだから」
「俺、らしさ?」
「そう。まぁ、出来れば少し直してほしいとも思うけれど」
海を安心させるようににっこり笑って、隼は海の髪に優しく触れた。
シャンプーをしていない髪は少しごわついている。それでも不思議そうに隼を見つめる海が見れることが隼には嬉しかった。
――あのまま、一生目を覚まさないかもしれない。そんな不安がずっと隼に付きまとっていた。でも今、海はその目に隼の姿を映している。
「あ、そういやさ」
髪を触られたまま、海はいつもの調子で口を開く。
「仕事、代わってもらったやつもあるって黒月さんから聞いた。ありがとな」
「大したことはしてないよ。たまたま海じゃなくても大丈夫っていう仕事しかなかったから」
隼の言葉に海は安堵の表情を見せる。迷惑をかけていると気に病んでいたのだろう。隼もそれはよく分かっていたから海を安心させられるような言葉を選んだ。
海の髪から手を離し、隼は行き先の失った手をそのまま自分の太ももの上に置いた。もう一度手を握ろうかとも思ったが、躊躇い退いてしまった。手を握ったらそのぬくもりを通じて、隼の本音が海に通じてしまいそうな気がした。
「隼」
そんな隼の心を見透かしたのか、今度は海の方から隼の手を取って握った。
「何か隠してないか?」
海の力強い視線がまっすぐ隼を射抜く。
気づいてほしくない時に限って海は鋭い。隼は恨み節を心の中で呟きながら、それでも素直に自分の気持ちを吐いた。
「……海は」
隼の頭の中に浮かぶ言葉はたった一言で、それを一文字も変えずに声にする。
「どうしてもっと自分を大切にしないの?」
隼からすればずっと前から思っていたことだが、海には予想外の言葉だったらしく驚いた様子で固まっている。
それから海は何か考え込むように隼から視線をそらし、やがてゆっくりと口を開いた。
「……大事にしてないわけじゃないんだけど」
「うん」
「でも、隼がそう思うのは多分、俺が皆を信じているからなんだ」
かちりと隼と海の視線が噛み合う。隼が相づちを打つ前に海は話を進める。
「俺は皆の笑顔が見たいし、笑顔にさせたい。だから多少無理してるって思われる時があるかもしれない。
けど、それは全部無理じゃないんだ。本当に無理してるならプロセラが俺を止めてくれるから」
にっこりと笑う海に隼はまた心の中でため息をついた。
さらりと言うわりに、海の言葉には重みがある。言葉を言い換えれば海は自分の信じる者たちが止めなければどこまでも一人で進んでいくということだ。
きっと海の異質性はどこまでいっても変わらない。隼はそのことを改めて感じた。
「……それなら僕は、ずっと海を見ておかなくちゃね」
隼は微笑んで海の左手の薬指に口づけた。それは歪で、決して綺麗とは言えない愛を誓う印だ。
海は口づけの意味に気づいているのかいないのか、満面の笑みで「ありがとう」と答えたのだった。
いつの間にか眠りについていた隼を起こしたのは、海の見舞いに来た黒月だった。病室で眠りこけていた隼を特に注意することもなく、隼に寮へ帰るよう促す。
本当はいつまでも海が目を覚ますまで傍についていてあげたい。けれども、海が休んでいる分の仕事は隼や他のメンバーに回ってきていて、我儘を言えるような空気でないことはよく分かっていた。隼は黒月に「任せたよ」と言って笑った。
黒月に見送られ、隼は一度寮に戻った後仕事に向かう。
すれ違う人々は口々に隼に海の容態を尋ねて来て、隼はその度笑顔を作って大丈夫と答えた。隼の答えに安堵の表情を浮かべる人たちを見ては、隼の中に苛立ちが募っていく。知らないって、なんて幸せなことなのだろう。
「隼」
聞き慣れた声に顔を向ければ、始が隼の方へ向かって歩いていた。
そういえば今日は始と一緒の仕事だった。普段なら喜ばしいのにあまり気分が上がらないのは、未だ目を覚まさない眠り姫のせいだ。
「始。今日はよろしくね」
「ああ。……隼、お前少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「え?」
「隈、出来てるぞ」
始に指摘されて、そう言えば海が入院してから眠りが浅かったなと思いだした。眠ってしまうと隼の夢の中に海が出て来て、何度も何度も誰かをかばっては死のうとする。毎回守る相手や方法が違っていて、隼は冷や汗をかきながら目を覚ます。夢でよかったと安堵する一方で、海が本当に死んでしまうような気がして隼は夢を見た後上手く寝付けることが出来なかった。
黒月には隈を指摘されなかったものの、始が気づいているのだから恐らくプロのメイクアップアーティストも気づくことだろう。上手く隠してもらって、写真に写る時にはかっこいい隼で居なくてはならない。
「……今日はこれだけだから、終わったら休ませてもらうよ」
眠れるかどうかは分からないけど、と隼は心の中で付け足す。声に出せば始にもっと心配させてしまうことは容易に想像がつくから。
隼の思惑通り、少し安堵の表情を浮かべた始は隼の横に並んで控室までの道のりを一緒に歩いた。
*****
海の意識が戻ったと黒月から連絡を受けたのは、隼が始との仕事をちょうど終えた頃だった。
仕事を終えたら寮に帰ってすぐに休むという始との約束を破り、隼はスタジオから直接病院へと舞い戻る。
タクシーを降りて通い慣れつつある病室までの道のりを早足で急ぐ。
やっとたどり着いた個室の扉を隼が勢いよく開ければ、中ではベッドから上半身だけを起こした海が隼の方に向いていた。
「あ、隼」
拍子抜けするほどいつもの調子で海は隼を呼んだ。この三日間一度も目を覚まさなかったなんてまるで嘘のようだ。
隼の頭の中には海に伝えたい言葉が崩壊したダムのように溢れ出して、けれども口から出たのは安堵の息だけだった。
「……よかった……」
ベッドに駆け寄って隼は海の温もりを確かめるように手を握った。昨日とは違って海の指は自分の方から隼に絡んでくる。
「……そういえば、大は?」
「あぁ、黒月さんなら俺が目を覚ましたから仕事に戻ったぞ。隼は、仕事は?」
「始との撮影だったけど、終わってすぐこっちに来たんだ」
「そうだったのか。それは悪いことしたな」
「……どうして?」
海の言う“悪いこと”の意味が理解できず、隼は聞き返す。
「だって、」と続いた海の言葉は隼にとって衝撃的なものだった。
「俺がもっと目を覚ますのが遅かったら、始と一緒に帰れたかもしれないのに」
隼は自分の耳を疑った。今の海の言葉は本気で言っているのかと。
しかし何度確認しても海は平常通りの表情で、冗談を言ったわけではなさそうだ。
何故そんなことを言うのか、隼が海の安否より始との他愛無い話を優先させるとでも思っているのか、そんな風に詰め寄ろうとして、やめた。隼はその答えを知っている。
要は、海の優しすぎるが故の短所の一つだ。海は自分のせいで誰かが悲しむのを極端に嫌がる。悲しみの度合いは些細なことだっていい。誰かが少しため息をつくようなら自分が身代わりになればいいと、海は本気でそう思っているのだ。だから恋人である隼に対しても、先程のような発言が出来てしまう。
思わず出そうになるため息を飲み込んで隼はわざと微笑みを浮かべた。
「海はひどいこと言うね」
「え?」
「僕がどれだけ海を心配してたか、知らないでしょ?」
はてな顔の海は隼の言っている意味をいまいち理解できていないようだ。それでも隼が傷ついていることだけは理解したらしく、「ごめん」と素直に謝る。
「謝らなくていいよ。それが海らしさだから」
「俺、らしさ?」
「そう。まぁ、出来れば少し直してほしいとも思うけれど」
海を安心させるようににっこり笑って、隼は海の髪に優しく触れた。
シャンプーをしていない髪は少しごわついている。それでも不思議そうに隼を見つめる海が見れることが隼には嬉しかった。
――あのまま、一生目を覚まさないかもしれない。そんな不安がずっと隼に付きまとっていた。でも今、海はその目に隼の姿を映している。
「あ、そういやさ」
髪を触られたまま、海はいつもの調子で口を開く。
「仕事、代わってもらったやつもあるって黒月さんから聞いた。ありがとな」
「大したことはしてないよ。たまたま海じゃなくても大丈夫っていう仕事しかなかったから」
隼の言葉に海は安堵の表情を見せる。迷惑をかけていると気に病んでいたのだろう。隼もそれはよく分かっていたから海を安心させられるような言葉を選んだ。
海の髪から手を離し、隼は行き先の失った手をそのまま自分の太ももの上に置いた。もう一度手を握ろうかとも思ったが、躊躇い退いてしまった。手を握ったらそのぬくもりを通じて、隼の本音が海に通じてしまいそうな気がした。
「隼」
そんな隼の心を見透かしたのか、今度は海の方から隼の手を取って握った。
「何か隠してないか?」
海の力強い視線がまっすぐ隼を射抜く。
気づいてほしくない時に限って海は鋭い。隼は恨み節を心の中で呟きながら、それでも素直に自分の気持ちを吐いた。
「……海は」
隼の頭の中に浮かぶ言葉はたった一言で、それを一文字も変えずに声にする。
「どうしてもっと自分を大切にしないの?」
隼からすればずっと前から思っていたことだが、海には予想外の言葉だったらしく驚いた様子で固まっている。
それから海は何か考え込むように隼から視線をそらし、やがてゆっくりと口を開いた。
「……大事にしてないわけじゃないんだけど」
「うん」
「でも、隼がそう思うのは多分、俺が皆を信じているからなんだ」
かちりと隼と海の視線が噛み合う。隼が相づちを打つ前に海は話を進める。
「俺は皆の笑顔が見たいし、笑顔にさせたい。だから多少無理してるって思われる時があるかもしれない。
けど、それは全部無理じゃないんだ。本当に無理してるならプロセラが俺を止めてくれるから」
にっこりと笑う海に隼はまた心の中でため息をついた。
さらりと言うわりに、海の言葉には重みがある。言葉を言い換えれば海は自分の信じる者たちが止めなければどこまでも一人で進んでいくということだ。
きっと海の異質性はどこまでいっても変わらない。隼はそのことを改めて感じた。
「……それなら僕は、ずっと海を見ておかなくちゃね」
隼は微笑んで海の左手の薬指に口づけた。それは歪で、決して綺麗とは言えない愛を誓う印だ。
海は口づけの意味に気づいているのかいないのか、満面の笑みで「ありがとう」と答えたのだった。
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