drunkard


 ――どうしてこうなったのだろう。
 隣ですよすよと気持ちよさそうに眠る隼の寝息を聞きながら海は思う。ベッドから離れようとしても、どこから出ているのか強い力で後ろから隼に抱きしめられており、海は起き上がることが出来ない。
 海は一つため息をついて、寝起きのぼんやりした頭で昨晩の事を思い出し始めた。

 昨日は事務所の先輩に飲みに行こうと誘われた。たまたま一緒に事務所に来ていた隼と海がその対象となり、二人は誘いに応じて先輩の行きつけのお店に向かった。
 彼が行きつけとしている居酒屋は個室が多く落ち着いた雰囲気だった。お酒の種類が豊富であれもこれも美味しそうだと海は喜んでいた。
 色々なお酒を頼んで、つまみを食べながらお酒を楽しむ。
 それだけでも十分満たされていたが、ほろ酔いの先輩は海たちに様々な話をしてくれた。先輩は俳優業を主軸に他のジャンルにも積極的に挑戦している人だ。経験談や仕事への思いを二人に熱く語ってくれた。
 美味しいお酒に勉強になる話、飲み会自体はとても素晴らしいものだった。
 ただ、あまりに素晴らしすぎて海はあまり隼の方に意識を向けていなかった。だから隼がどれだけ酒を飲んでいたか把握できていなかったのだ。
 隼は決して酒に弱い方では無い。むしろどちらかと言えば強い方だし、酔ったところでいつもと様子が変わらない。その時の隼もいつも通りで、受け答えもしっかりしていて、つまり大丈夫だろうと油断していた。

 店を出て、先輩と別れ、二人で寮までの道を酔い覚ましに歩く。一駅分、大した距離では無いし、二人とも足取りはしっかりとしていた。
 大した会話も無く、ネオンが煌めく街を二人で歩く。
 あともうすぐで寮に着くといった所で、突然隼が足を止めた。ちょうどそこは近所の公園の前で夜だからか人は一人もいなかった。

「……ねぇ、海」
「ん? どうかしたか?」

 海は隼の方に顔を向ける。満月の明かりに照らされた隼は恐ろしく美しかった。

「僕とキスしようよ」

 微笑む隼にしばらく海は呆気に取られていた。隼の放った言葉が理解できずにただひたすら隼を見つめ返すことしか出来ない。

「あれ、海聞こえなかった? 僕とキスしようって言ったんだけど」
「や、聞こえてる、けど……いや、いやいやいや……えっ?」

 隼はあまりにも自然で、混乱している海の方が不自然なように思えた。しかし、実際おかしいのは隼の方である。
 キスにもいろいろな種類があるが、真っ先に思い浮かぶのは唇を合わせるものだ。もし隼の言うキスがそれだとして、唇同士のキスは普通恋人か家族にしかやらない。海と隼は恋人ではないし、ましてや家族でもない。
 未だ脳内は混乱状態にあった海は、それでも一つ自分を納得させられる答えが思い浮かんでいた。

「あれか、隼、お前酔ってるだろ」

 海は隼の酒量を把握していない。いつもより飲み過ぎたせいの奇行なら納得できる。
 うんうんと頷く海に、隼は微笑みから一転不機嫌そうな表情に変わった。

「……海って、本当鈍いよね」

 隼の呟きは小さく、海の耳には途切れ途切れにしか聞こえなかった。名前を呼ばれた気はするが、内容までは分からない。
 何を言ったのか聞き返そうと海が言葉を発する前に、隼は何も言わずに海の腕を引っ張った。
 いきなりの衝撃に海の体はぐらつく。その隙を逃すことなく隼は強い力で寮まで海を先導していった。

 時間はちょうど日付が変わったぐらいで、まだ起きている者もいるだろうが、全員自分の部屋に戻っているようで共有ルームの明かりは2階も3階も消えていた。
 この異様な状況を誰かに止めてほしいという海の淡い期待は粉々に打ち砕かれた。
 海の部屋の前を通り過ぎ、最奥の隼の部屋の前で止まる。

「海」

 海の方に振り向いた隼は満面の笑みだ。まさかの表情に拍子抜けした海は、逃げ出す隙を逃して隼の部屋に連れ込まれる。

「わ、っと、隼っ」
「ふふふ、僕と“いいこと”しようよ」

 結局引っ張られるまま寝室まで連れてこられ、二人して勢いよくベッドの上に倒れこんだ。
 布団から隼の匂いがする。そこまで酔ってないはずの海の心臓が大きく高鳴った。
 隼と海は恋人では無い。だが、海の気持ちが全く恋愛の方向に向いてないかと問われればそうでは無かった。海は隣で同じように倒れている男に報われない片想いをしている。

「海~寝ちゃった?」
「寝てない」
「よかった。まだ夜はこれからだからね」

 くるりと海の体が反転する。仰向けになれば目の前に隼の顔が近くにあって、にこにこと楽しげにしている。

「あのさ、隼」
「なぁに?」
「これ、どういう状況なんだ……?」
「ふふ、海はどう思う?」

 質問に質問で返されてしまった。いつも通りと言えばいつも通りだ。
 海の頭に先程の隼の言葉が思い浮かぶ。

「キスする、とか?」

 なんてな、と海の言葉は続くはずだった。しかし海の口からその言葉が紡がれることは無く、自分で発した言葉通りの状況に陥っていた。

「っ」
「正解だよ、海」

 ただ海は呆けた顔で隼を見つめることしか出来なかった。この状況を冷静にツッコもうとする海と、片思いの相手とキス出来たことに喜ぶ海が頭の中でわあわあと騒ぎ立てる。アルコールが入ってることもあり、上手く処理できそうにない。
 そんな海を隼は優しく甘い表情で見つめ返していた。それは海が今まで見たことの無い隼の表情だった。

「隼」

 海は咄嗟に名前を呼んだ。しかしその言葉の続きを全く考えておらず、言葉にならない息が口から漏れる。

「なぁに? どうしたの?」

 対して隼は余裕そうに笑っている。やはりこの場でも不自然なのは海の方に見えた。

「どうしたの、ってこっちの台詞だからな?! お前の目の前にいるのは可愛い女の子でも始でもないぞ?!」
「知ってるよ。勘違いするわけないでしょ?」

 それもそうかと納得する海はまたすぐに唇を奪われた。先程とは違い、今度は隼の舌が海の唇をこじ開ける。
 一瞬の隙を突かれ侵入を許してしまえばもう隼の独壇場だ。隼に主導権を握られ、海はされるがまま受け入れている。
 濃厚なキスにだんだんと思考回路が停止し始める。海は目を閉じて意識を手放した。


*****


「あ~……」

 海はため息にも似た声を出した。ようやく昨日、正確には今日自分の身に起きたことを思い出したからだ。
 記憶があるのは隼にキスされている所までで、今の状況を見るとあのまま眠りに落ちてしまったのだろう。
 ふと、海は指を唇に当てる。ここに数時間前隼の唇が当たっていたわけで。

(うわ、何思い出してるんだ、俺……)

 体全体が火照り始めて、抱きしめられている腕が当たっている部分は殊更熱を発しているようだ。

「ん~……」
「ひあっ」

 隼の寝息が首に当たり、海の口から変な声が漏れる。慌てて両手で口を塞ぐが、隼の髪が海の首に当たり、くぐもった叫びが出てしまう。
 もしかして起きているのではないかと海の中で疑念が出始めた頃、海の耳に息が吹きかけられた。

「ひぅっ」
「かぁい、おはよう」
「おまっ、隼何やってるんだっ」
「ふふ、海が朝からいい声で啼くから意地悪したくなっちゃった」

 後ろから隼に抱きしめられているため、海に隼の表情は見えない。ただ海の耳元で囁く隼の声は艶っぽく、キスの映像が何度も海の頭の中を繰り返し再生する。否が応にも意識させられてしまう。

「何やってるんだ、隼。あと、これ離して」

 何とか取り繕った海は、これと言いながら隼の袖を引っ張る。
 「はぁい」なんて隼にしては珍しく素直な返事と共に、拘束が解かれた。隼の熱が海の体から離れて、海が寂しさを感じたのは束の間だった。
 腕を引っ張られ、くるりと海の体は逆向きに回転する。後ろ側で見えなかった隼の顔が、海の視界いっぱいに映る。

「ねぇ、海」
「……何だ」
「顔、赤いよ」

 隼に指摘され、海の顔にはさらに熱が集まる。至近距離で隼の顔が近くにあって、しかも昨日はキスまでされて、さすがの海も恥ずかしさで隼の顔を真っすぐ見れない。
 隼はくすりと笑って、海の輪郭を指でなぞる。

「海、そんな顔されたら期待しちゃうんだけど。
 ……僕の事、好きでしょ?」

 美しい唇から発せられた言葉は、海を暴走させるには十分すぎた。
 バレてしまったという焦燥感、そう思うということは少しは脈があるのかという期待感がぐちゃぐちゃに混ざり、沸騰した鍋の中のように海の頭はぐらぐらに茹っている。
 そんな状態で冷静な対応など、出来るはずもない。

「……あ」
「あ?」
「あ、アホか、っ!」

 気づけば海はそう口走って、勢いよく隼の体を突き飛ばした。そして転がるようにベッドから降りる。
 布団から出てしまえば体と同時に頭も冷えて、自分がやってしまった事の重大さに気付く。

「海」
「お、お世話に、なりましたっ」

 何がだと冷静にツッコむ頭の中の自分を無視して、海は走って部屋から出て行く。
 背後からは「またキスしようね」と隼の声が聞こえたが、きっと幻聴だろう。

 ――あぁ、きっと全部悪い夢だったのだ。
 そう自分に言い聞かせた海は数時間後、逃げ出した自分に後悔する羽目になるのだが今の海はまだそれを知らない。
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