38.7℃

「……あれ、」

 海が目を開くと見慣れた風景が視界に映る。
 海の記憶が正しければまだ写真の確認が残っていたはずだ。控室で隼と待っていて、それで……。

「海、起きたんだね」

 声のする方に顔を向ければ、優雅に微笑む魔王様、もとい隼の姿があった。

「隼……撮影は?」
「写真の確認だけだったから、僕一人でやっておいたよ。まぁ、大もいたしね」

 隼の発言から察するに、海は仕事の途中で倒れてしまったようだ。いくら熱があったとはいえ、仕事を完全に終わらせられなかった自分に対して、ふがいなさを感じる。
 無意識に唇を噛む海に、隼はくすっと笑って手を海の頬に当てた。

「かぁい。君はむしろ無理しすぎだからね?」
「……悪いな、隼。迷惑かけちまって。……黒月さんにも、謝らなきゃ」
「迷惑なんて何もないよ。大は『もっと早く気づけば』って自分を責めてたけどね」

 隼の手は海の熱を確かめるように右頬、左頬と移り、最後は額に貼ってあるシートを剥がして直に触れた。
 冷たくて気持ちいい。そういえば眠ってしまう前にも同じことを思ったような気がする。
 隼はまたくすりと笑い、剥がしたシートの代わりに新しいシートを海の額に貼った。

「海は我慢しすぎだよ。もっと僕に甘えていいのに」
「甘えて、って」

 そう言われても、海は甘えるよりは甘やかす側だと自負している。それは幼き頃からの習慣で今更どうにか変えられるようなものでもない。
 熱に浮かされた頭は上手く隼に返す言葉を見つけようとしない。仕方なく、思いついた言葉を海はそのまま口にした。

「あ~……まぁ、頑張る」
「ふふふ、海らしい返しだね。シートも変えたし、もう少し寝てていいよ」
「ん……」

 シートの上から隼の手に撫でられ、またすぐ海は目を閉じた。

 まだ小学生の頃、珍しく高熱を出した海は学校を早退し一人で家で寝ていたことがある。迎えに来てくれた母はパートの休憩の合間に抜け出してきたようで、海を寝かすとすぐに仕事場に戻って行った。
 起きた時には誰も居なくて、弟たちも保育所にいるような時間だった。いつも賑やかな家は嫌になるほど静かで、いっそう孤独感を増幅させる。
 「寂しい……」そう呟いた声も空気に溶けて、誰も返してくれることは無い。自然とこぼれる涙を拭って、眠くも無いのに目を閉じた。

 懐かしい記憶。頬に伝う滴を感じて海はゆっくりと目を開けた。
 夢だった。けれどその内容は海の記憶の奥底にあった、懐かしい物だった。
 滴を手で拭った海はキョロキョロと辺りを見渡す。どれくらい寝ていたのかはわからないが、カーテンの隙間から見える景色は暗い色に染まっていて、もう夜なのだと知らされる。

「隼、は」

 かすれた声で名前を呼ぶが、その姿は見当たらない。さすがに自分の部屋に帰ったか、それとも共有ルームにいるのだろうか。
 あの記憶にはもう少し続きがある。海が次に目を覚ました時、自分の部屋から出ると居間に母や弟たちの姿を見つけた。
 夕飯の準備をする家族は海が起きていることには気づいていなくて、疎外感を感じ取った海は居間には入らず部屋に戻って布団の中に潜りこんだ。
 あの頃の寂しさが今の寂しさとリンクする。隼は、下のやつらは、今頃楽しそうに共有ルームで食卓を囲んでいるのだろうか。

「寂しい……」

 呟いた声は空気に溶けた、はずだった。

「海、そういうのは僕の目を見て言ってくれないかな」
「っ、隼っ」

 扉の向こうから現れた隼に、海はかすれた声で名前を呼ぶ。
 名前を呼ばれた隼は嬉しそうに笑って、ペットボトルのスポーツドリンクを海に手渡した。

「そろそろ起きた頃だと思って持ってきたんだよ」
「何で分かったんだ……?」
「ふふふ、それは内緒だよ。ほら、飲んで?」

 疑問は残るものの、海はスポーツドリンクを受け取って口の中に含んだ。砂漠のように渇いた口内を優しい甘さが潤していく。
 身体が潤っていくのと同時に、心の中に渦巻いていた寂しさもどこかへと消えていた。

「調子はどう? まだ熱っぽい?」
「いや、だいぶ楽になってきてる」

 海の答えがいまいち信用できないのか、隼はまた海の顔をぺたりと手で触る。

「ん~……でもまだ熱いね。ご飯は食べられそう? 夜がおかゆを作ってくれたんだけど」
「マジ? 食べたい」
「うん、食欲があるのはいい事だね。薬も用意してあるから、食べたら飲んでね」
「おう、サンキュ」

 お椀と薬、水の入ったコップが載ったトレーを受け取った海は、夜お手製のおかゆを口に入れたところで、はてと首を傾げた。
 海の様子を見た隼も、不思議そうに海を見つめる。

「どうかした? 味がしないとか?」
「いや、おかゆはすげえ美味い。さすが夜。……じゃなくてさ」

 おかゆを食べ進めながら、海は隼の方に向く。

「お前、本当に隼か……?」

 確実に目の前にいるのは隼なのに、海は真面目な顔で問いかけた。
 さすがに海とて、幻覚を見ているとは思っていない。目の前にいる男が隼本人であることも分かっている。
 ただ、甲斐甲斐しく海の看病をする隼がいつもの姿とかけ離れているのだ。常より『働きたくない』と連呼し、面倒事は海が肩代わりする。それがいつもの隼の姿で、世話は焼くより焼かれる方。それが、どうだ、完璧な看病をこなしているではないか。
 いつもこれぐらい、せめてこの半分くらいの優しさを持ってくれればいいのにと、じとっとした視線を送る海に対し、隼は声をあげて笑った。

「さすがに病人相手に世話を焼いてっていうほど傲慢な人間じゃないよ、僕は」
「隼ならやりかねないと思ってた」
「ひどいなぁ」
「あと、隼が看病の方法を知ってると思ってなかった」
「あぁ、それは榊さんに聞いたんだよ」

 突然の名前に海は目を丸くしたが、隼は話を続けた。
 海が眠った後、隼は黒月に頼みこの部屋まで運んでもらった。しかし黒月はこの後年中組や年少組につかないといけなく、看病は隼に任せると言って寮を後にした。
 と言っても、隼は今まで看病などしたことが無い。誰かに方法を尋ねるべきだと考え、真っ先に名前が思い浮かんだのが執事の榊だった。善は急げと隼が電話をして事情を話すと、榊は事細かにリストを作りメールを送ってくれた。

「というわけで、僕はそのメールに従って動いてました」
「なるほどな。それは榊さんにも迷惑かけたな」
「迷惑ではないと思うよ。むしろ『隼様が人の世話を焼くほど立派になられるなんて』って泣いてた。大げさだよね」
「……あぁ、なるほど……」

 今までの榊の苦労を思い、海は深く頷く。五年間一緒に過ごしてきた海も苦労しているのだから、その何倍もの年月お世話してきた榊の苦労は相当なものだろう。隼の成長に涙するのも当然なのかもしれない。
 色々と自分が倒れていた間の事を理解した海は、安堵の表情を浮かべておかゆを食べる。鼻詰まりの症状が無いおかげで、おかゆの入ったお椀はすぐに空っぽになった。
 作ってくれた夜に、きっと心配をかけているであろう会えていない三人に、感謝の意を伝えるように海は「ごちそうさま」と手を合わせた。
 海が薬を飲み、何も入っていない食器が載ったトレーを海の手から自然に隼は受け取る。

「僕が片付けておくよ」

 どうやら海が本調子に戻るまで、隼は海の世話を焼くつもりのようだ。

「ありがとな、隼」

 海の口から本音の言葉が漏れ出る。隼はトレーを持ったまま、ふふっと嬉しそうに微笑んだ。

「看病はお任せあれ。早くよくなってもらって、海といちゃいちゃしたいからね」
「おい」
「ふふ。大丈夫、治るまでは手を出さないから」
「その言葉信じていいんだよな……?」
「もちろん」

 意味深に笑う隼を信用して良かった例はほぼ無いけれども、まぁいいかと海はいつもながらの大雑把さで受け入れた。
 なにより乾きと空腹を満たし、薬を飲んだ海にもう難しいことを考える力は残っていない。ふわぁとあくびをした海は、そのままベッドに倒れた。

「眠い……」
「寝たらいいよ。きっと、起きたら治ってるから」
「ん……」

 瞼が段々と重くなる。海の理性はもう仕事を休んでいて、本能の部分で海は隼の方へ手を伸ばした。

「海?」
「て、にぎって……おれが、ねる、まで……」

 海の言葉に他意は無い。いつもなら恥ずかしがって隠れる本心が現れた結果だ。
 言われた通り、トレーを机に置いて隼が海の手を握ると、既に目を閉じた海がふにゃりと幸せそうに笑った。

「あったかい……」

 舌足らずな喋り方に、愛おしすぎる微笑み。隼はすぐにでもキスをしてぐずぐずに甘やかしてやりたいと思ったが、聞こえてくる寝息に寸でのところで思いとどまった。
 安心した表情で海は眠っている。少し前、寂しいと呟いた姿はもう無い。

「……起きたら恩返ししてもらうから、覚悟してね。かぁい」

 早くも夢の中の世界に旅立っている海にそう声をかけて、隼は海の頬に軽くキスを落とした。
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