あまくてしょっぱい
自分の部屋から共有ルームへ向かう途中、良い匂いに惹かれて、三階へと足を進める。
階段を上って匂いを辿った先は、プロセラ共有ルームのキッチンだった。
「あれ、新だ」
「どーも」
キッチンに居たのは海さん一人で、他のメンバーの姿は見当たらない。海さんだけがオフなんて珍しいと思いながらも、俺の頭の大部分は甘い匂いに支配されていた。
「何か作ってるんすか?」
「紅茶をな。月野亭で売ってるやつ、事務所の人に貰って来たんだ」
「あぁ……なるほど。じゃあこの匂いは紅茶か」
そう言われてみれば確かに紅茶の香りだ。けれどフレーバーのせいか、ベリーが強く主張している。前に春さんが淹れてくれた三月の紅茶に比べればスイーツ的要素が大きい気がする。
何月の紅茶なのか尋ねてみれば、海さんは笑って自分を指さした。
「ベリールージュって言うんだって」
ベリールージュと海さんの薄い唇が紡ぐのを直視してしまい、その反動で目をそらしてしまった。
ベリーにルージュ、どちらもイメージは赤い色だ。海さんのイメージと言えば青色で、なんだかそぐわないようにも思える。でもさっきの海さんの艶めいた唇はまさにベリールージュだった。誰が選んだのか知らないが、選んだ人は天才に違いない。
ようやく落ち着いてきた心臓に海さんの方へ視線を戻せば、海さんはいつの間にかティーカップを二つ並べて紅茶を注いでいた。
「新も飲むか?」
「いいんですか?」
「ついでだし。あ、ミルク入れたらイチゴオレっぽくなるかなぁ」
そう言って海さんは冷蔵庫から生クリームを取り出して、片方のティーカップにクリームを注ぐ。穏やかな色のそれはいちご牛乳とは違うけれど、とてもいい香りがした。
ミルクティーの方を俺に差し出し、海さんはストレートティーの方に口付けた。薄い唇に紅茶が吸い込まれていく。
少しの間見惚れてしまったが、俺もティーカップを受け取ってミルクティーを口にした。甘酸っぱいベリーとそれをやわらかくしてくれるミルク、相性はいいに決まっている。海さんが淹れてくれたものだから大事に飲みたいけれど、気づけばティーカップの半分ほどが体の中に入って行った。
心地よい甘さを堪能したところで、ふと海さんが少し寂しそうな表情をしているのに気が付いた。
「海さん?」
俺の呼びかけに海さんは慌てて反応する。どうやら本人も無意識だったようだ。
ここで寂しそうだったと指摘するだけでは海さんに上手くはぐらかされてしまう。その原因を突き止めて追究する必要がある。賭けではあるが、何となく俺の中ではこれかもしれないという予想はたっていた。
「あの、海さん。違ってたらすみません」
「なに?」
「何か悩んでますよね? ……たとえば、隼さんの事とか」
海さんの手からティーカップが滑り落ちる。中身がもう入っていなかったこととキッチンマットの上に落ちたことで大事には至らなかったが、図星だと海さんの表情が物語っていた。
「あ、えっと」
「海さん。立ち話疲れますし、椅子に座って話しません?」
「あ、あぁ、そうだな」
「紅茶、飲んだら落ち着くかも」
海さんは落としたティーカップを拾ってシンクに置き、代わりのティーカップを用意する。そこにポットから紅茶を注いだところで、ようやく平常心に戻ったようだった。
予想で言ってしまったからあまりに驚かせてしまった事に申し訳ないと思いつつ、やはりと心は落ち込んでいた。さっきまで甘く感じていたミルクティーもどこかしょっぱく感じる。
海さんが無事におかわりを淹れ終わったところで、プロセラ共有ルームの椅子に向かい合って座った。
座ってすぐ、海さんがおそるおそるといった様子で口を開く。
「その、新は何で……」
言葉は最後まで続けられなかったがその続きは分かる。『何故隼の事で悩んでいると分かったのか』と。
さて、どう返すべきだろうか。興味本位で首を突っ込んでしまったが、本来ならあまり聞きたくないタイプの話だ。けれど、海さんが悩んでいるのを知ってしまった手前、引き返すこともしたくない。
「勘です」
悩んだ挙句、そのままを伝えることにした。
「勘?」
「はい。二人が付き合っているのかと思って、それで」
「ちょっと待て。……俺と隼が付き合ってる?」
「はい。あれ、違いました?」
俺の問いかけに海さんは困ったように、顎に手を当て唸っている。その行為がもうすでに正解を告げていると、おそらくこのしっかり者なのにどこか抜けている年長さんは気づいていないだろう。そういうところが海さんの可愛さでもあるのだが。
何も言わず俺はミルクティーを飲み干す。おかわりは欲しかったが、今立ち上がると会話が途切れてしまいそうで座ったまま海さんからの言葉を待つ。
「新は……いつから気づいてたんだ?」
「それも勘です。何となく、一週間前ぐらいに」
嘘だ。これは勘ではない。
一週間ほど前、グラビとプロセラ合同での仕事で見かけた海さんの表情は明るくなっていた。いつも明るいが、片思いから両思いへと昇華したからこその表情だとすぐに気づいた。だって、俺も海さんが好きだから。
ただ、意気地なしの俺と違って海さんは勇気を出して両思いになった。ならば応援するべきだと恋心を閉じ込めて楽しそうな海さんを見つめていた。
その時、隼さんが俺の元へ近づき耳打ちをした。『海は僕のものだから』低くて意志の強い声が俺に最後通告をする。
隼さんは気づいていたのだ。だから俺に牽制をした。
俺は何も聞かなかったフリをして近くにいた葵へ話を振った。それであの場は終わったけれど、隼さんの声は今でも強く耳に残っている。
「付き合ってるんですよね?」
ダメ押しにもう一度問えば、海さんはゆっくりと首を縦に動かした。
「けど、」と言葉を続ける海さんの表情は暗い。
「本当に付き合ってんのかな……」
海さんらしくない、弱音を吐きだしている。
チャンスじゃないかと俺の中の悪魔が耳元で囁く。それを何とか振り払って俺は海さんの名前を呼んだ。
「海さん。俺に話してみませんか? 俺結構口固いし、秘密は守りますよ」
「……そうだな。つまんない話だけど聞いてくれるか?」
「もちろんです、っとその前におかわり貰ってもいいですか?」
「あはは。オッケー、淹れてきてやるよ」
立ち上がった海さんは俺の分のティーカップを持ってキッチンへと向かう。いつでもおかわりできるようにと、戻ってきたときにはポットも一緒にテーブルへと運んできた。
海さんからティーカップを受け取ると、さっきと同じ淡い色がカップの中に広がっていた。
「じゃあ、」
海さんは少し寂しそうな表情で話を始める。
「そうだな、まず俺の悩みについて話そうか」
「はい」
「新が言った通り、俺から隼に告白して、オッケーしてもらった。だからまぁ、付き合ってる……んだと思う。
でも、もしかしたら隼がオッケーしたのは俺を憐れんだからなのかなって最近思い始めて来てさ」
「どうして、そう思うんですか?」
「それは……」
海さんは苦しそうな表情で言いよどむ。こんな風に海さんを苦しめる隼さんに怒りを覚えたけれど、俺が怒ったところで海さんが喜ぶわけでもない。
こんな時、自分が感情を顔に出さないタイプでよかったと安堵しながら、静かに紅茶を口に含んだ。
「……隼は、始が好きなんだ」
「知ってますよ」
「あぁ、うん。俺も分かってた。けど、ダメ元で告白してオッケーしてくれたから、隼が始に抱く『好き』は恋愛じゃないと思ってたんだ」
「……違ったんですか?」
「うん。付き合い始めてから、隼は俺に一度も『好き』って言ってないんだよ。……始にはすぐに言うのに、な」
今度は自嘲的な笑みを浮かべて、海さんはティーカップに口付けた。
海さんの言ったことを整理すれば、付き合い始めてから愛の言葉すら囁かない隼さんは同情で海さんに付き合っているのだと、そして海さんの考えでは隼さんが本当に好きなのは始さんということだ。
そんな訳はないことを俺はよく知っている。だってあの時、確かに隼さんは俺を牽制した。
誰にも言っていない俺の恋心に気付いて牽制した隼さんが、海さんを好きじゃないはずがない。
でもそれを海さんに言うことは出来ない。言ってしまえば俺が海さんを好きだってこともバラさなきゃいけないから。海さんにこんな醜い恋心を見せたくはなかった。
「同情するくらいなら、フッてくれればよかったのに」
考え事をする俺の耳に、ぽつり、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな呟きが聞こえる。
「あの、海さん」
「……ん?」
これ以上つらそうな海さんを見るのは嫌だった。見切り発車で声をかけてしまったけれど、俺は海さんにいつも笑顔で居てほしい。
「俺は、隼さんは同情で付き合ったんじゃないと思います」
「何でそう思うんだ?」
不安そうに海さんの瞳が揺らぐ。
「本気で始さんを好きなら、きっと海さんの告白を受け入れたりしないです。隼さんはそういうの、きちんと線引きするタイプの人だと思いますし」
自分の恋心を隠すためにずいぶんと抽象的な物言いになってしまった。それに、お前が何を知っているのだと指摘されてもおかしくない。
きっと始さんや春さんならそんな風に俺の矛盾に気付くだろう。けれど、海さんは全く気付いていないようで、なるほどと大きく頷いた。
「確かに、新の言う通りだな」
納得されると、それはそれで苦しい感情が渦巻く。この後の海さんのリアクションは容易に想像できた。
「ありがとう、新。元気出た」
「……よかったです」
にかっと笑う笑顔が眩しい。
その笑顔が見たかったはずなのに、やっぱり俺の心は晴れないままだった。これでいいのだと俺を慰める天使と、何で告白しなかったのかと俺を叱る悪魔が頭の中で同時に俺にうるさく語りかける。
俺にしか聞こえない雑音を掻き消すように、おかわり分のミルクティーを飲み干す。これ以上ここに居たら、醜い自分が現れそうだ。
「俺、そろそろ自分の部屋戻りますね。紅茶ありがとうございました」
「もういいのか? もっとゆっくりしていっていいんだぞ?」
「いいんです。……海さん、隼さんとお幸せに」
立ち上がって、振り返らずにプロセラ共有ルームを後にする。最後の言葉は笑って言えていただろうか。
「っ、はぁ」
二階まで降りて、グラビ共有ルームの方に行けば黒田がソファで眠っていた。人は誰もいない。
一目散にソファに向かい、黒田を抱きしめるようにソファに横になる。
「俺、頑張ったよな……」
夢の世界にいる黒田にそう話しかけて、俺もゆっくりと目を閉じた。
視界が真っ暗になれば、先程の海さんの笑顔が鮮明に映る。まだ残る口の中の甘さに、どうしようもなく泣きたくなった。
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