夜空の下、君と笑おう

 海が仕事に復帰してから二週間ほどはマスコミへの対応や出演番組の調整など、忙しい日々が続いた。
 海本人は勿論の事、同じユニットであるプロセラメンバー、とりわけリーダーで相方でもある隼は行く先々で海の事を尋ねられることも多かった。
 ただし元より怪我は完治しており、記憶喪失の件は秘密にしていたため、一ヶ月も経つ頃には仕事も随分と落ち着いてきていた。

 海が記憶を失くしてから、隼と二人での仕事はほとんど無かった。珍しく同じ仕事になっても、隼はどこか余所余所しい。
 海はそれが自分が隼のことを忘れているからだということは分かっていた。

「隼」
「なに?」

 意味深に微笑む隼は海の疑問に答えてくれそうにない。海は「何でも無い」と言って携帯電話の画面に目を落とした。

 海が隼の方に視線を向けていないのを確認し、隼は静かに顔を歪める。
 平常心を保つには海と深く関わらない方がいいというのが、この一ヶ月ほどで隼が出した答えだ。距離が近ければ近いほど、海を求めてしまう自分に気づいてしまう。
 今のところ、何とか問題は起きていない。しかし、そろそろ隼の精神状態は限界に近かった。

「早く思い出して、海」

 呟いた声は無情にも、スタッフがドアをノックする音にかき消された。


*****


「大丈夫か? 隼」

 そう言ったのは海ではなく、隼を起こしに来た陽だった。海が記憶喪失になってからは、朝隼を起こす役目は海以外のメンバーが担っている。

「何の事かな」
「……吐きそうな顔してんぞ。白い顔がさらに白くなってる」

 陽の指摘は的を射ていた。ここ最近隼は眠れない日々を過ごしている。
 原因は、目を閉じるとその日の海の表情が浮かび上がることにあった。
 本来なら喜ばしいことのはずだが、海の隼を気遣う目や態度はメンバーの域を決して越えない。そのことが少しずつ隼を追い詰めている。

「大学休めば? 単位足りてるんだろ?」
「う~ん……そうだね、そうしようかな」
「朝飯は夜が作ってくれてるから、起きたらちゃんと食えよ」

 陽はそう言い残して、忙しそうに隼の部屋を出て行った。
 隼は陽の背中を見送った後で、布団を剥がしベッドから降りる。陽の指摘にされた顔色を確認するため洗面所へと直行してみれば、確かに鏡に映る男は顔面蒼白という表現が正しい。
 講義をサボると決心した隼は、寝間着から私服へ着替えたところで自室を出た。

 プロセラ共有ルームには人の姿が見えなかった。おそらく、全員仕事か学校に出かけたのだろう。
 一人で朝食を取った隼は何をするでもなく、共有ルームのソファに寝転びぼんやり天井を眺める。
 いつも一人のオフは、白田と遊んだり録画した始の映像を見たり、それなりに充実して楽しく過ごしていた。たまにではあるが外に出かけることもある。なのに今日は何もやる気が起きなかった。

「これは、陽にも心配されるわけだ……」

 陽だけではない。朝ごはんが用意された机の上には夜の文字で『体調には気を付けてください』とメモが残されていた。
 冷蔵庫には涙から差し入れされたプリンが、冷凍庫には郁から差し入れされたアイスクリームがあり、そのどちらにも付箋紙で隼へのコメントが書かれてあった。それぞれに隼が元気の無いことに気付き、考えてくれた故の結果だろう。
 皆の優しさが身に沁みて、けれど隼の気は晴れない。

「本当、僕らしくないな」

 どんなことが起きても動じない、皆を振り回す側の人間だったはずなのに、隼は今たった一人の言動に大きく左右されている。
 病気の類ではないことは分かっているが、言い表せられない気持ち悪さに支配された隼はそのままソファの上で眠りの世界へと身を委ねた。

 夢を見た。一つの物語というよりは走馬灯に近い夢だ。
 隼が海と出会って、それから過ごしてきた日々が断片的に流れて行く。隼も海もキラキラした笑顔で、幸せな日々を過ごしていた。あたたかくて幸福に満ちた記憶。
 その映像を見つめる今の隼の瞳から涙が一筋零れる。あの日以来一度も流していない涙だった。

「……ん」

 夢から現実へ、意識が浮上する。隼がゆっくりと目を開けると、心配そうな表情を浮かべた海が隼の額に手を当てていた。

「あ、起きたか?」
「っ、海? 何で……」
「仕事終わったからそのまま帰ってきたんだ。皆が隼が調子悪そうだって言ってて気になってたし」

 「熱はなさそうだな」と言って海は隼の額から手を離す。
 隼は現状を理解しながらも信じられずに自分の頬を触った。濡れた跡があり、夢の中の涙がそのまま現実にリンクしていたことを知る。
 起き上がりながら濡れた跡をこすって泣いていたことを隠す。そして隼はいつものような微笑みを作った。

「大丈夫だよ。僕は元気だから」
「つってもなぁ……血色悪いし」

 そう言って海は隼の頬をすっと撫でた。大きく温かな手が冷たい隼の頬に触れる。

「俺のせいで迷惑かけちまってるし、無理すんなよ」

 海の手は隼の頬から髪へと移動し、くしゃりと隼の髪を撫でまわす。
 記憶を失くす前と同じ。それなのに海の隼を見る目に恋人を思う姿は無い。

「……やめて」

 小さく低い拒絶の言葉が隼の口から漏れる。そして言葉と共に海の手を振り払い掴んだ。
 突然手を掴まれた海は驚きで固まっている。しかし今この状況を冗談だと笑い飛ばす余裕は隼には無かった。

「隼? どうしたんだ?」

 隼を気に掛ける海の姿は嬉しいはずなのに、先程の夢を見てしまった以上それを喜ぶことは出来ない。隼は海の手を掴んだまま、勢いよく自分の方へ引っ張る。
 油断していた海の体は、よろけてソファへと倒れこむ。その隙に隼は海の上に乗り、押し倒すような姿勢に持っていく。
 隼の下では、はてな顔の海が真っすぐに隼を見つめていた。

「隼?」

 海の表情からは恐れや危機感は読み取れない。隼を信頼しているのだろう、ただしメンバーとして。

「ねぇ、海。今自分がどんな状況に置かれてるか分かってる?」
「えっと……隼に押し倒されてるな」
「そうだね。じゃあ次に起きることは?」
「次? えぇっと……」

 全く想像がつかないらしい海はうんうんと悩んでいる。顔を赤くさせながらキスをねだる海はもう隼の記憶の中にしかいない。
 ならば、今キスをしてしまったら、海はどんな反応を見せるのだろう。そんな考えが頭によぎったところで、隼は自分がもうとっくに限界を迎えていることに気付いた。
 このままでは近いうちに海を傷つけてしまう。そう思った隼は海の腕を掴む力を緩めた。

「……ごめん」

 小さな声で謝罪を告げ、隼は海の上から立ち退く。そして振り返らないまま共有ルームを出て行った。
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