Give me a kiss

「隼ー起きろー」
「ん~……かぁい」

 いつもの朝、いつものように隼は海に起こされ、寝ぼけ眼のまま隼は海にキスをする。いつもの習慣で、今更どちらかが恥ずかしがるようなことは無い。
 そのはずだったのだが。

「……ん?」

 隼の唇が触れたのは海の唇……ではなく、大きな海の掌だった。
 今までとは違う突然の出来事に、隼の頭の中はクエスチョンマークが並んでいる。
 隼が唇を離すと、海の唇を覆っていた掌もそっと外されていく。そこには気まずそうな表情をした海がいた。

「えっと、海? これは一体、どういうことなのかな?」
「……え? 何の話だ? ほら、早く起きろよ」
「かぁい。誤魔化しても無駄だよ」

 理由を話さずに話を切ろうとする海に隼は食い下がる。
 隼がそう簡単に退かないことを知っている海は、それ以上うやむやにすることなくきちんと理由を話し始めた。

「実はな、口内炎ができたんだ」

 隼が言葉を繰り返すと、海は大きく首を縦に振った。

「なんで口内炎ができたらキスを拒むの?」
「いやだって、隼にうつったら困るだろ」

 海の表情は真剣そのもので、自分の考えを全く疑っていない。
 確かに海の言う通り、口内炎はキスや同じカトラリーを使うことでうつる場合がある。ただし、それはウイルスが原因の場合のみだ。間違って噛んだりしてできた口内炎には全くその問題は起きない。
 隼は少し考え、自分の手を海の唇へと伸ばす。

「ここ、開けて?」

 素直に開いた唇に、隼は顔を覗き込ませる。
 左の頬に出来ていた赤い痕はちょうど上と下の歯がぶつかるぐらいのところにあった。

「……海」
「はぇ?」
「昨日の夜、ご飯食べてるときに間違って噛んだでしょ」

 隼が手を離すと、海は口を閉じてうんと頷く。

「それ、うつらない口内炎だよ」

 唇が触れ合っても何の問題も起きない方の口内炎だ。そう隼が海の間違いを正すが、海は唸りながら首を傾げる。

「けど、万が一ってこともあるし……」
「海、だからうつらないんだって」
「いや、治るまでキスはしない」

 何故か頑なな海は、そのまま隼の部屋を後にする。
 一人取り残された隼はどうやって今日海にキスをするか考えながら、大きく伸びをした。

 隼が着替えを終え共有ルームに向かうと、先ほどキスを拒んだ海がコンソメスープを飲んでいた。恐る恐る口にしているところを見ると、口内炎は想像以上に痛いらしい。
 共有ルームでは他に郁と涙がヤマトや白田と遊んでいる。隼は気にすることなく一直線に海の方へ向かった。

「ねぇ、海」

 後ろから声をかければ、海は振り向く。それを予測して隼はわざと海との距離を詰めて声をかけた。不意打ちでキスするためにだ。
 隼の思い通りに海は振り向く。すぐに触れられそうな距離だった。

「っ、と」

 しかし、隼の唇が海に触れることは無かった。咄嗟の反応で海が顔を背けたからである。

「か~い~」
「だからキスは治るまでしないって!」

 避けた時に口内炎に歯が当たってしまったのか、痛そうに顔を顰めながら海はそう答える。
 隼は不満そうに口をとがらせて、海の向かい側の席につく。朝食の準備を何一つしない隼に、海は何も言わず立ち上がって代わりに準備をする。
 こんなにも隼を甘やかす海なのにどうしてキスを拒むのだろうと、隼の不満は心の中で募っていく。
 そんな二人の姿を、年少組は心配そうに見ていた。二人は顔を見合わせ、揃って隼の方に近寄った。

「あの、隼さん。海さんと喧嘩したんですか……?」

 郁が小さな声で不安そうに尋ねる。その横では涙がうんうんと頷いていた。
 隼は拗ねる気持ちを抑え込んで、口角を緩やかに上げた。

「ごめんね、心配かけて。喧嘩はしてないよ。ただ、海がキスさせてくれないだけ」
「…………え?」

 隼からの言葉に、郁は思考を停止させる。そんな郁をよそに、涙はいつも通りのテンションで隼に問いかけた。

「なんで、海はキスさせてくれないの?」
「涙、聞いてくれる?」
「うん」
「ちょっと待ってください! 涙もわざわざ聞こうとしないで!」

 興味津々の涙の腕をとって、郁は隼と涙の会話を制止する。その姿はまるで姫を護る騎士のようだ。
 今ここにはいない幼馴染の二人の姿とどこか重なるところがあり、隼はくすりと笑みを浮かべた。
 そうしている間にも海によって朝食の準備が進められていく。いつの間にやら隼の目の前には海が用意してくれた朝食が揃っていた。

「ほら、隼。冷める前に食べろよ」

 海に促され隼はスプーンを手に、コンソメスープをすくって口に運ぶ。口内炎の無い隼では、コンソメスープはすぐに喉へと通って行った。

「で、何の話してたんだ?」
「海がキスさせてくれないって話」
「……お前なぁ」

 しつこいと言わんばかりに海がため息をつく。
 それから何かを察したのか、郁は隼と海の顔を交互に見て最後に隣の涙へ視線を動かした。

「涙、レッスン室行こう! 新曲の振りで合わせたいところあって」
「え、いっくん、今から……?」
「そう! ほら、早く!」
「わ、いっくん早いっ」

 郁が涙を連れて共有ルームを出て行く。残ったのは完食手前の海と食べ始めたばかりの隼だ。
 隼は噛んでいたパンを飲み込んで、軽く立ち上がり海のほうへと手を伸ばした。

「隼?」

 何も答えず隼は海の髪に触れる。机を挟んでいるため本当に指に触れる程度だったが、簡単に触ることができた。

「かぁい」

 甘ったるい声で隼は海の名前を呼ぶ。
 海はこの声に弱い。いつもならとっくに唇を差し出しているところだが、海は耐えるようにヨーグルトの最後の一口をとってスプーンごと口にはさんだ。
 どうあっても治るまでキスはしないらしい。毎日キスをしたいと思う隼には拷問以外の何物でもなかった。

「……明日には治してね」

 神様にお願いしようかと思いながら、隼は海の髪から手を放してまたパンを口の中に押し込んだ。


*****


 翌日の朝、隼はいつもよりもずっと早くに目を覚ました。しかし体は布団の中でじっと海が起こしに来るのを待つ。
 隼が目を閉じたままその時を待っていると、ノック音のあと扉が開く音がして、海がいつものように隼の名前を呼んだ。
 隼の体から布団が剥がされる。それと同時に隼は振り返って、勢いよく海の腕を引っ張った。
 顔が近づき、開いた目と目が合う。

「っ、」
「……ねぇ、海」
「どうした?」
「なぁんで、マスクしてるの?」

 海の口元には昨日まではなかったマスクがある。白く薄い壁に隼の唇は阻まれてしまう。

「まだ口内炎治ってないから、キス防止にな」
「え~」

 隼は不服そうな声を上げるが、海はそれを意に介さず隼の布団をすべて剥がした。

「ほら、早く準備しろよ~」

 隼に一言声をかけて海はすぐ部屋を出て行った。
 しばらくぼんやりと扉を見つめていた隼は、大きく息を吐いてゆっくりと立ち上がった。

 隼は昨日と同じように共有ルームに向かう。扉を開けると味噌汁のいい香りがふわりと鼻をくすぐった。

「あ、隼さん、おはようございます」

 エプロン姿の夜が隼に声をかける。どうやら今日の朝食は夜のお手製のようだ。
 くるりと見渡すと、ソファの方で陽がファッション雑誌を眺めていた。
 陽を一瞥した隼は、いつも通り海の向かい側に座る。昨日とは違い、今日は夜が隼の朝食を運んできてくれた。

「ありがとう、夜。今日は夜が作ったの?」
「はい。時間があったので」
「ふふふ、夜のごはんは大好きだから嬉しいな」

 隼の言葉に夜は顔を赤くさせながら、「おかわりもありますから!」と言って台所のほうに消えていく。
 さて、隼が海のほうに視線をやると、先ほど隼を拒んだ壁、もといマスクは外され食器の横に置かれていた。キスをするなら間違いなく今がチャンスである。
 どうしようかと隼が様子をうかがっていると、視線に気づいたのか海も隼の方を見た。

「……また、変なこと考えてるんだろ」

 そう言ってご飯を口に運ぶ海は、隼がどんなことをしてもキスさせるつもりはないらしい。
 ただ隼とてそれは同じだ。毎日していたキスを昨日一日は我慢したのだから、今日くらいは許してほしい。そもそも海が思い込んでいる≪口内炎がうつる≫というのは、この場合絶対にありえない。
 隼が見つめていると、海は味噌汁が入っていたお椀をもっておもむろに立ち上がった。ご丁寧にマスクをつけて。

「な、何かあったんですか?」

 マスクをつけておかわりの味噌汁を注ぐ海に、夜が心配そうな声をかける。
 海はそれに笑って何でもないと返したが、その会話が聞こえてきた隼は昨日涙に出来なかった話をしようと大きな声で夜の名前を呼んだ。

「ねぇ、夜。僕の話を聞いてよ」
「え、隼さん?」
「あ~夜。聞かなくて大丈夫だから」

 味噌汁を注いだ海は席に戻り、またマスクを外して味噌汁をすする。
 昨日コンソメスープを恐る恐る口にしていたのに比べれば、口内炎には響いていないらしい。ならばキスくらいさせてくれてもいいのにと隼は思う。

「……夜」
「はい?」

 夜が台所から小走りで隼に駆け寄ってくる。
 隼の心の中で湧き上がっていたのは、不満と少しのいたずら心だった。

「ご飯、美味しいよ」

 隼は夜の腕を引っ張り、その勢いで夜の右頬に軽くキスをする。わざとらしくリップ音をつけたからか、ソファでくつろいでいた陽が隼と夜に視線を向けていた。

「しゅ、隼さんっ」
「ふふふ、ありがとうの気持ちだよ」
「おい隼! お前夜に何してんだよ!」
「いつもの幼馴染ガードだ」

 敵を威嚇する狼のように素早く走ってきた陽は、夜を自分の後ろに匿い、元凶の隼をにらみつける。
 「そんなに怒らないでよ」と笑って、隼は海を見たが別段嫉妬している様子は見られない。陽と夜を巻き込んでもキスをさせてくれない海に、隼は心の中で大きくため息をついた。
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