君がいつか遠くへ行ってしまうと分かっていて僕は手を伸ばしたのです(7月)

 ベッドからゆっくりと降りる。体重をかけたせいで少し沈んだスプリングは、しかし隣で眠る男を起こすことは無かった。
 足音を立てないように気を付けながら、窓を開けバルコニーに出る。もうずいぶんと昼間の気温は高かったが、夜中は少し空気がひんやりとしていた。

「きれい」

 呟いた声はすぐに空気になって消えた。
 空には無数の星たちが光り輝いている。一つ一つが小さいながらも懸命に光っていて、きっとあの星のどれかにあの子もいるのだろう。

「一年ぶりだな」

 一年に一度、彦星と織姫が再会することを許される日。その日は俺から彼女への報告の日でもあった。
 七夕飾りを小さな笹に括り付け、一年の内に起きた色々な話を彼女にする。ロケに行った時の話、ライブの時の話、何気ない日常の話。
 去年の七月から順を追って話し始めると、その膨大な量に思わず笑ってしまった。あの子も、笑っているだろうか。
 ふと、小さな星が目についた。きっと誰も気に留め無いような小さな小さな星。

「……あぁ、やっと見つけた」

 その輝きには見覚えがあった。あの子の笑顔と同じだ。
 今度はその星に向かって話をする。俺が笑う度、その星もきらりと輝く気がした。



 突然背後に気配を感じる。振り向くと、先程まで眠っていたはずの男が微笑みを浮かべながら立っていた。

「あ、隼。……悪い、起こしちまったか?」

 バルコニーと部屋を隔てる窓は開け放ったままだった。もしかしたら俺の話し声がうるさかったのかもしれない。
 俺の問いに対し、隼は首を横に振り何も言わないまま俺の隣にやってくる。

「お星さまへの報告会をしてたのかい?」
「ああ。今日は七夕だからな」
「ふふふ。やっぱり海はロマンチストだね」

 なんて笑う隼の顔は、暗い夜の中でも星のように輝いている。

「ま、もう終わったけどな」
「そうなの?」
「ん。あとはまた来年だ」

 見つけた小さな星を見つめながらそう呟いた。明日からの一年間、きっと沢山の経験をして七夕の日に報告するのだろう。
 おもむろに、隣に居た隼が俺の後ろに立ちそして後ろから俺を抱きしめた。

「隼?」

 座って、と小さく呟く隼に従い、部屋とバルコニーの間にある段差に腰掛ける。密着したままの隼も同じように腰掛けた。
 隼の体温はあまり高くない。だから、もう季節は夏で普通なら暑いはずなのに、隼に抱きしめられるのは不快じゃなかった。
 無言のまま、抱きしめられている心地よさに身を任せる。隼に寄りかかって目を閉じると、先ほどまでは感じていなかった眠気が襲ってきた。

「かぁい」

 まどろみの中で隼の甘い声が聞こえる。でもどこか悲しげでもあった。

「ん……なんだ?」

 うっすらと目を開くと、月明かりに照らされた隼の顔が視界を支配した。まるでこの世のものとは思えない美しさだ。
 その輪郭に触れたいと伸ばした手は、微笑む隼に捕まってしまった。

「海、僕が何を言いたいかわかるかい?」
「へ? いや、全然わかんないけど……」

 俺がそう答えるのを予想していたのか、隼は掴んだままの手首に軽くキスをして「そうだろうね」と笑った。

「君が、とても純粋な人間なのは知っている。それに彼女は、海の人生になくてはならない存在なのもわかっているよ」
「え、と、隼……?」
「けどね、海。僕は怒っているんだ」

 怒っている、という隼の言葉と表情がまるで一致しない。そもそも隼が怒るなんて滅多にないし、現状においてはその理由もわからなかった。
 俺がその理由を考えていると、隼は悲しそうに眉尻を下げて掴んでいた俺の手を放した。

「去年も、その前も。海は一人で報告会してたよね」
「ああ。毎年のことだし」
「うん。それはいいんだ。けれどね、海、
 どうして僕をその報告会に誘ってくれないの?」

 今度は隼の手が俺のほうに伸びてくる。輪郭をなぞる指先は少し震えていた。
 どうしてなんて俺に問いかけてはいるが、きっと隼の中ではすでに答えが出ているのだろう。そしてそれはおそらく当たっている。

 隼と恋人という関係になってから数年が過ぎた。初めはぎこちなかった恋人という関係も一年経てばすっかり慣れてしまって、今ではメンバーに突っ込まれても照れるようなことはなくなった。
 だけども、俺は心のどこかでずっと不安を抱いていた。好きな人が自分から離れていく不安だ。もう二度と海の中で溺れているような、あんな苦しい思いはしたくない。
 だから、隼との間に薄く透明な壁を作った。言ってしまえば、自分が傷つかないようにするための予防だ。そしてその壁が、隼に内緒の報告会ということだ。

 何も答えない俺に、隼は悲しそうな顔で笑った。何かフォローしようにも言葉が全く出てこない。
 はくはくと金魚の様に口だけが動いて、俺の口から息だけが漏れていく。

「海、そんな顔しないで」

 隼の方が傷ついているだろうにそう言って俺の唇に人差し指を当てた。もう先程の様に震えてはいなかった。

「ごめん。僕の言い方が少し意地悪だった」
「っ、いや、隼は悪くない。俺が、「海。それ以上言わなくていいよ」

 俺の言葉を遮り、隼は空を見上げた。その視線の先には、あの子の星がいた。

「初恋の姫君、僕はきっと一生をかけても君には勝てないんだと思う」

 何も話していないのに、会ったことも無いのに、まるでその星があの子だとすぐにわかったかのように、まっすぐにそちらだけを見て隼は喋る。
 俺は口を挟まず、黙って隼の言葉を聞いた。

「でもね、海は僕が幸せにするから。君は空から、見守っていてほしいんだ。僕は、この手を離したりしないから」
「隼……」

 再び掴まれた手に、隼の指が絡む。ぎゅっと握った手は、思っていたよりもずっとあたたかった。

「隼、あのさ」
「ん?」
「……遠くに、行かないで」

 あの子が見ているかもしれないのに、今の自分は何てかっこ悪いのだろう。それでも、言わずにはいられなかった。
 ぎゅっと握る手に力がこもる。隼は空いている方の手で、さらに俺の手を包み込んだ。

「大丈夫だよ、海。僕はちゃんと生きてる。ほら、こんなに近くにいるよ」

 言葉も表情も手のぬくもりも、何もかもが優しかった。
 俺は、今目の前にいるこの男を好きになってよかったと心の底からそう思った。薄い壁は粉々になって、風に飛ばされ消えていく。
 体を起こして前から隼を抱きしめる。生きている音が、はっきりと聞こえた。

「ありがとう」
「なにが?」
「俺を好きになってくれて」
「ふふふ。それはこっちの台詞だよ。ありがとう、海」

 隼の腕が俺の背中に回る。さっきよりもずっと全身で隼を感じた。
 いつまでそうしていただろうか。さすがに恥ずかしくなってきて、中に入ろうと言うと、隼はいつもの微笑みを浮かべて頷いた。

 来年の七夕は、二人であの子に話をしよう。一人増える分、時間は長くなるけどきっとあの子も楽しんでくれるだろう。
 そんな風に考えてベッドに飛び込むと、すぐに睡魔に襲われて夢の世界へ意識を飛ばした。
 意識を飛ばす直前、手の甲にぽたりと雫が落ちたような気がした。

「おやすみ」

 でも、たぶん、気のせいだったんだと思う。


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