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 出会ったのは確か六、七年ほど前の真夜中だった。一方は月明かりに照らされた姿が大層美しく見え、またもう一方は突如眼前に現れた大男に警戒心を抱いていた。
「……」
 道端に座る少年は、正面に立つ人物──マスターを静かに睨んでいた。纏っている衣服に多少の乱れが見える。少し前まで襲われていたのだろう、ここは暴力の罷り通る場所だから。
「そんな警戒しなくていいのよ」
 と声を掛けるが、変わらず。
「こんな寒い所にいても風邪惹くだけよ」
 沈黙。心なしか殺気を感じる。このくらいのもの、自分からしたら可愛いものだが。
「……あのね。こんなところにいてもまた碌でもない目に遭うの。嫌ならさっさとどこかに行くべきよ」
 文句ありげな目。言いたいことがあるなら言いなさいよ、といつものマスターなら言うところではあるが、この日に限っては何故か言えなかった。
「宛が無いならいらっしゃい……いや、その前に立てるかしら?」
 このくらい、と絞り出た声は掠れていた。寄りかかっていた壁を頼りに立ち上がる。
「おぶっていくわ」
 手を差し伸べる。すぐさまその手は強く叩かれ、拒まれた。触らないで、と微かな声は震えていた。少しして嗚咽が聞こえた。母親とはぐれて途方に暮れる子供のように、少年は泣いていた。
「……怖かったのね」
 そっと抱き締めた。拒まれることはなかった。しゃくり上げる声はずっと続いた。この子は本当は怖くて仕方がなかったんだ。マスターはそのまま抱き上げ、職場兼自宅へと戻った。

□□□

「あんなところに居て寒かったでしょう? ホットミルクは平気かしら」
 こくりと少年は頷く。自分に対しての警戒心は解いてくれたらしい。牛乳で満たした鍋に火をかける。次第に優しい匂いがふわりと香ってきた。
「蜂蜜は入れる? 好みでなければやめとくけど」
「…………入れて。多めに」
「ふふ、かしこまりました。ちょっと時間かかるかもしれないわ、部屋の奥に浴室あるから借りていいわよ。タオルとかは脱衣所にあるの適当に使って」
 借りる、と一言告げて少年はよたよたと出て行った。子供相手に暴力なんて、と内心憤る。そのような輩を相手にバーの店主をしているが、全てに納得しているわけでは無かった。ただ此処で生きて死ぬ。そういう運命で此処に居た。この地域の人間は揃って似たような考えを持っている。どうしてかは知らないが、物心ついた頃から自分はここで一生を終えるのだとあらゆる手段で生き抜く輩ばかりなのである。そのあらゆる手段のうちに「此処から抜け出す」という選択肢がないのも不思議なものだが、結局自分たちにはこの場所しかないのだろう。
 牛乳が温まってきた頃、少年が浴室から戻ってきた。色白の肌に薄ら紅が差していた。
「あら、早いわね。もう少しゆっくりしてよかったのに」
「着る物これで合ってる」
 抑揚のない声。口数が少なかったので先程は気付かなかったが、発音が少しおかしい。この子はもしかすると、他所の国から来たのかもしれない。見ればバスローブを着物のように着ていた。
「あら。そういう着方も出来るのね、あんた」
「見様見真似」
「ちょっと違うけど……まあ、問題なく着れてるならいいわ」
 そう、と少年はテーブル席のソファに寝そべった。火を止め、マスターはまだ使っていないタオルを手に少年に近寄った。
「……何」
「頭。拭かないと風邪惹くわ」
「……」
「余計な世話だとか思わないの」
「何も言ってない」
「何となくわかるわよ」
「意味分かんない……あいつらも、あんたも」
「分かろうとしないでいいわ、そんなこと」
「……兄弟か子供でも居るの?」
「どうして?」
「世話焼きだなと思って」
「アタシが好きでやってるだけよ」
「ふぅん」
 わしわしと少年の髪を拭く。実の弟のようだ。マスターにとって家族なんてもうないようなもので、年子の兄弟が居たことは遠い過去の話であった。
拭き終えた髪を整える。柔らかい、綺麗な色の髪だ。この国では滅多に見ることがない。この子はきっと他所の国から来たのだろう。
「……まあこんなところかしら」
「わざわざどうも」
「……ほんとあんた、可愛げないわね」
「無くて結構」
 つんと澄まし、綺麗な顔は人形のように無表情を貫く。これが普段の彼なのだろう。
「ああ、ホットミルク出すわね。……ちょっと冷めちゃったかもしれないわね」
「温め直さなくていいよ、熱いの苦手だし」
「少しだけ温めるわ。少し待ってなさい」
 中途半端に温まった牛乳を温め直す。マグカップに移し替え、注文通り蜂蜜を多めに入れた。
「はい。出来たわよ」
 細い手がマグカップを受け取る。可愛げは無いが、確かに庇護欲を掻き立てられるようなものをこの少年は持っている。
「……いただきます」
 ずず、とそっと啜り、少年は小さくおいしいと零した。
「そう言えばあんた、名前はなんて言うの」
「……カゲツ」
 聞き慣れない発音だった。やはりこの少年はここの国の者ではないようだ。
「そう。カゲツ、ね。どう書くの?」
「……書くものある?」
「あるわ。これでいいかしら」
 筆記用具を渡すと、カゲツはさらさらと紙に名前を記した。榎月、と書くらしい。
「綺麗な字ね」
「まあね」
「ねえ榎月。行く宛てが無いなら、暫くアタシのところで働かない?」
「……あんたのところで?」
「ええ。安全な生活は保証するわ」
 榎月は暫く考え込むように黙ってしまった。手中のマグカップは次第に熱を失っていく。答えを出す頃にはもう、冷めてしまっていた。
「……あんたは世話になったし、いいよ。店の手伝いもやる」
「あらあら。それは嬉しい答えね」
「借りを返すだけだから」
「はいはい。そういうことにしておくわ」
 榎月は冷めきったホットミルクを呷り、空になったマグカップをマスターに押し付けた。
「疲れたから寝る。おやすみ」
「あっこら、ソファで寝ないの……ってもう寝ちゃったの?」
 倒れ込むと同時に意識を手放したようだ。寝ている顔はあどけなさを感じる。風邪を惹くといけないと思い、マスターは榎月を抱え上げた。思いの外軽い身体だった。どうしてこんな子供がひとりでこんなところに来ているのだろう。疑問は尽きることはないが、自分のもとに居てくれるのだから、彼を守ってやらねばならない。そう決意し、マスターは榎月を自宅の階のベッドまで運んだ。
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