五、王子サマとお姫サマ
今さら改めて言うまでもないが、ユウは生粋のトラブルメーカーである。
たとえば学生時代。持ち前の極度の方向音痴のせいで、しょっちゅう迷子になって捜索されていたし。良くも悪くも目立つせいか、誰かに絡まれることはしょっちゅうだったし。異世界からやって来た魔法の使えない少女ということもあってか、怪しい人たちに目を付けられて連れ去られそうになることも時たまあったし。どうしてだか訳が分からないけれど、気が付いたら滅多に起きることのないと言われているオーバーブロットに半年ほどで片手では数えられないほど遭遇したし——等々。
控えめに言ってもトラブルに巻き込まれやすい少女だった。なんせナイトレイブンカレッジ内で何か事件があるとき、その現場にかなりの確率で居合わせるのだ。どこぞの小学生探偵も驚きの遭遇率である。
『あ。ねーねーホタルイカ先輩』
『ミ゜ッ』
そんなある日のことだった。その日、たまたま四年次の学外研修から数日間学園に帰ってきていたイデア・シュラウドはフリーズした。
珍しく——本当に珍しく、引き篭もりを脱して欲しいアニメの限定グッズを求めて外出した帰り道。戦利品を抱えイグニハイドに戻ろうとほくほくしていたところ、一番会いたくなかった男に突然遭遇し、ニコーッと笑いながらその長駆で道を塞がれたからだ。
『せ、拙者に何か用……?』
『そー、用あんの。オレ最近ホタルイカ先輩に話したいな〜って思ってたことがあってさァ』
『話したいこと……いや気のせいでは……』
『ア゛? な訳ねーだろ』
『ヒイッ。な、なに?』
『あは。あのさ、ホタルイカ先輩ならさあ、小エビちゃんのスマホのセキュリティをもっとどうにか出来たりしない?』
『……ど、どうにかとは何ぞ……君の話ざっくりしすぎ……』
『えー、どうにかはどうにかだよ。小エビちゃんってさ、いっつもふらふらふにゃふにゃしてて危なっかしいじゃん?』
『ふらふらふにゃふにゃ……まあ、言いたいことは分からなくもないけど……』
『デショ? だからなんかこう、スマホどっかに落としたり盗まれたり無理矢理スマホ見られたりしても情報抜かれないように対策出来たりしないのかなーって』
いや拙者早く帰りたいんだが? とイデアは本気で思ったが、かと言ってこのトンデモ男から逃げ切れる自信は無かった。ので、取り敢えず詳しく話を聞いてみることにした。
するとどうやら、こういうことらしい。
曰く、小エビはよくトラブルに巻き込まれる。何かあったときのために一応スマホを持ち歩くようにはしているが、有事の際スマホを取られでもして中身を見られたら、助ける前後で色々と厄介なことになりかねない。実際に先日もそういうことが起こりかけたのだそうだ。だから、小エビの安全のために協力して欲しい——と。
『あー……要は君、監督生氏のスマホをもっとツヨツヨデバイスにしたいってこと?』
『そ』
『……いや、何でフロイド氏がわざわざ?』
『えー、別に良いじゃん』
『それはそうなんすが……何? 陽キャって男女でもこの距離感が普通なの??』
『え、なに? なにブツブツ言ってんの?』
『ア、ッス……ナンデモナイ……キモオタが詮索してスイマセンシタ……』イデアはそうブツブツ早口で言ってから、改めて言った。『ま、まあ、実際に監督生氏のスマホ見てみないことには分からないけど、まあ拙者に出来ないことは無いと思うよ。やるかやらないかは別として』
『ふーん? そっかあ』
『ウン。じゃ、じゃあ、拙者はこれで……』
『えー、ちょっと待ってよ。センパイ♡』
『何……早く部屋戻って戦利品開けたいんだが……』
面倒そうな顔をしながら逃げ腰のイデアを覗き込むように見て、フロイドは笑顔で言った。
『あは。ここまで話聞いたんだからさあ、やってくれるよねえ?』
『ヱ。ァ……』
『もちろん、報酬は弾むよぉ』
『や、あの、』
『ねー、どお?』
『……いやそんな笑顔でどお? って聞かれましても——ちょ、力強すぎんか……た、助けてオルトぉ!!』
結局イデアは逃げることができなかった。何せ頼みの綱だったはずのオルトには「わあ! 普段の監督生さんの行動パターンから考えても、すごく良い案だね! 兄さん凄いや!」と、助けてもらうどころか目をキラキラさせて応援されてしまったのだ。弟にめっぽう弱い彼は違うと言い出すことができず、おまけにまるでそれを見計らったかのように、その間にフロイドがさっさとユウをイデアの元に連れて来てしまった。
『ねえ小エビちゃん、あのさあ。小エビちゃんってスゲーヨワヨワでおっちょこちょいじゃん?』
『へ。な、なんか急にイグニハイドに連れたかと思ったら急に喧嘩売られてます……??』
『んふ。違くてさあ——』
フロイドは機械音痴の彼女にも分かるように、かなり噛み砕いた説明をした。そして、ユウからの承諾をあっさりと取り付け。イデアが気付いたときには、彼は『よろしくお願いします』と差し出された端末を受け取っていたのだ。
「——ってワケで、僕がユウ氏のスマホ魔改造して強力セキュリティ搭載したわけ」
「無茶苦茶だなあのウツボ……」
「そう、無茶苦茶なんだよ。キミんとこの従業員どうなってんの? お陰で散々な目に遭いましたわ」
「僕に言わないでください。オクタヴィネルのモットーは自己責任ですから」
学生時代のあれこれを思い出しつつ軽く説明しながら、イデアは手に持っているラップトップパソコンを操作した。彼は先程まで別の部屋で作業していたところを、今しがたアズールに呼び出されて連れて出されたところだった。ので、現在は髪を後ろで一纏めにして、頭部には洗顔用のヘアバンドをつけた完全オフモードの作業スタイルである。
イデアは相変わらず猫背のまま、アズールの隣をのそのそ歩いた。光る青い髪が揺れて、火の粉のように時折空中で爆ぜる。
「で、実際セキュリティ精度は上がったんです?」
アズールが問うた。それに対しイデアは、当然と言わんばかりに得意気に返す。
「フヒッ。君さあ、誰に言ってると思ってるの? そりゃあもちろんっすわ。簡単に言うと、あー……、ユウ氏以外の人間がロックを外そうとすると、自動的に警戒用画面に切り替わって個人情報の閲覧に制限が掛かるようになる的なギミックを付けたって感じ」
「なるほど」
「制限が掛かると、ユウ氏と仲の良い数人——エース氏とかデュース氏とか、あとは当時他にも許可取った、ユウ氏と仲良かった同じ学年の生徒何人か——との、魔導AIによって生成された偽の無難な会話の履歴だけ表示される仕組みになってるんですわ。ユウ氏の持つ個人情報は、それでほぼ閲覧される可能性が消えて無事ってわけ」
「……イデアさん貴方、無理矢理やらされたと言っていた割にノリノリじゃありません?」
「いやぁ、好きにやって良いって言うから、当時やりたかったこと思いっ切りやらせてもらったんだよね。それにまあ、拙者の個人情報を見知らぬ輩に盗まれても困るんで」
と、アズールが歩みを止めた。イデアもそれに続いて立ち止まると、目の前には一つの扉。
アズールはノックをするなり扉を開いた。「イデアさんを連れてきました」よく通る声を発した彼に続いてイデアが足を踏み入れると、魔法石に向かって話し掛けていたフロイドが振り返る。
「あ。アズール、ホタルイカ先輩」
「ド、ドモ……」
「ねー小エビちゃんのスマホさあ、電源点いたって」
「! 本当ですか」
「ウン。ただ今見た感じ、アザラシちゃんからの新しいメッセは無かったって」
「……あー、ほんとだ」フロイドの言葉にイデアが頷く。「グリム氏からユウ氏にメール来たの、三か月くらい前が最後だね」
「? 何故分かるんですか」
訝しげにイデアを見たアズールは、けれど直後イデアの抱えていたラップトップを見て、驚いたように目を見開いた。フロイドはその様子に怪訝そうな顔をする。僅かに眉をしかめると、次いで同様にイデアのラップトップを覗き込んだ。イデアはフロイドの瞳が同じように見開かれたのをちらりと見てから、淡々と言う。
「ユウ氏のスマホのデータを、魔改造したときの情報を使ってパソコンで画面共有できるようにしたんだよ。多少タイムラグはあるけど、ここはフロイド氏の簡易魔法石の通信圏内ってくらいだし、屋敷からそこまで離れてる訳じゃない。なら電波もいけるかなって思ったら、ビンゴっすわ」
「……ホタルイカ先輩さあ、まさか今までもそうやって小エビちゃんのスマホ覗き見してた訳じゃねーよなぁ?」
「は? してないよする訳ないだろ」
「なら良いけどォ……」
フロイドは魔法石に向き直ると、「小エビちゃん」と口を開いた。明らかに今しがたとは異なる優しい声である。
「ね。小エビちゃんの見てる画面、こっちでも見れるようになったよ」
『え。そ、そんなこと出来るんですか』
「そうみたい。ホタルイカ先輩スゲーよねえ」
『凄いです……』
ロマンの部屋で、ユウはきっと一人スマートフォンを握り締めたまま顔を上げ、目を丸めているのだろう。フロイドは容易にそんな姿が想像できて、少しだけ目尻を緩めた。
何にせよ、声で説明するのみではなく実際に同じ画面を見ることができるというのはやりやすいものである。フロイドたちとユウは改めて、端末内のメールや電話の履歴を当たってみることにした。
が、残念ながらやはりめぼしい手掛かりのようなものは何もありそうになかった。グリムとのメッセージはユウの記憶にある通り、グリムが旅立ってすぐの異国での体験についての内容で止まっているし、その後ユウがスマートフォンを没収されてから不在着信や留守電が入っていた形跡もない。改めてその事実が一通り分かったあと、ユウは小さな声で『……わざわざ集まって頂いたのに、何もなくてすみません』と言った。
「……んーん」
フロイドはイデアのラップトップを見た。静かに画面が動いている。どうやらユウが操作をしているらしかった。慣れないようなぎこちない動きで、一つの画面がタップされる。フロイドはそれを目で追ってから、僅かに目を伏せた。
そこに映っていたのは、先程も何度か見たグリムの連絡先だった。記載されている数字の羅列をユウが押せば、今すぐにでもグリムのスマートフォンに電話をかけることが出来る。そしてそのすぐ上に表示されているのは、連絡先のアイコンとして使っていたらしい、ユウとグリムの二人で映っているツーショット。確かこれはユウが卒業してすぐ、アパートに引っ越したばかりの頃に撮った写真だと言っていたはずだ。
『……グリム』
微かに呟く声が聞こえた。ややあって、『……あの、』と次の言葉が発せられる。
『私、もう少しこの部屋を探してみます。また何も見つからないまま終わっちゃうかも、しれないけ、ど——、』
けれど不自然に会話が止まったのはその時だった。
「……?」
フロイドは数秒固まってから、「……小エビちゃん?」と問う。返事はない。どうしたのだろうか。眉をしかめてアズールやイデアのほうを見やると、アズールも分からないといったふうに首を傾げた。するとようやく魔法石の向こうから、『……な、んで、?』と掠れた声が響く。
「小エビちゃん。どしたの」
嫌な予感がした。フロイドは身を乗り出して、真剣な口調で問う。
『ぁ……廊下から物音が、して』
「え」
『ど、どうしよ、っは、……こっち、来る、……わ、私……ッ』
「ッ、小エビちゃん!」
小エビの言葉尻は完全に震えていた。明らかに呼吸が浅くなっているのが、魔法石越しにも伝わってくる。不審者が屋敷内にいるという説も無くはないが、あれだけ完全警備がなされている屋敷でその可能性は薄い。ならばまさか、ロマンが帰ってきたのか。とにかくフロイドは声を掛けようとして——けれど直後、反射的に口を噤んだ。
ガチャリと扉の開く重たい音がしたのだ。その瞬間、通信の音が乱れる。ユウが魔法石を咄嗟に握り締めて隠したせいで、ノイズが入っているようだった。
『…………やあ、ユウ。こんなところで何をしているのかな』
『! だん、な……さま、』
『ここは私の部屋だよ。許可なく入ることを許した覚えはないんだが』
『——ッ』
バンッと扉が思い切り閉まるような音がしたのと同時、ユウの声にならない小さな悲鳴が聞こえた。直後段々足音が近付いてきたかと思えば、ドンッと鈍く響くテーブルを叩く音。それは何度も何度も繰り返され、魔法石越しに聞いているフロイドたちにも圧迫感を与えた。イデアが心底嫌そうな顔をして、それからパソコンで何かを操作し始める。その間にも、聞こえてくるのはロマンの苛立った声だ。
『全く、少し目を離すとすぐこれだ。油断したよ。君に求婚していた頃のことを思い出した』
『も、……も、うしわけ、ございませ……』
『妻はもっと従順であるべきだと、何度言えば分かるのかな?』
『っ……ぁ、……』
『ユウ。こっちを見なさい』
『……は、い』
『ここに立ち入ってはいけないと、前に言わなかったかい?』
『……おっしゃる、とおりで……』
『何で入ったのかな』
『そ、れは……、…………もうし、わけ——』
『ふざけるのも大概にしろ!』
『ッ』
聞くに耐えない詰問だった。何度も何度も罵声と物に当たる音が聞こえて、聞こえてくる音声の節々から小エビが本気で怯えているのが痛いほど伝わってくる。フロイドは血がにじみそうになるほどグッと拳を握り込んだ。「絶対に喋るなよ」——隣でアズールがそんなジェスチャーをしたのを見て、音もなく舌打ちをしてから脳内で悪態をつく。
……分かっている。
ほんとうは、今すぐにでもロマンに食って掛かりたかった。けれど今ここで声を上げても、それは悪手でしかないことは明白なのだ。だって仮に今から屋敷に向かったとて、相当時間が掛かってしまい今はユウを直接守ってやれる手立てがないから。それにそもそも、ただでさえユウは今ロマンの部屋に不法侵入しているのに、さらに外部と連絡までもを取っているなんてそんなこと、知られたら本当にどうなってしまうか分かったものではないから。
「——ふ、フロイド氏。アズール氏」
と、ラップトップを見ていたイデアが小声で二人に呼び掛けた。二人がイデアを見ると、彼はラップトップを指差す。その横に差し出されたのはタブレットだ。あらかじめ打ち込まれていたらしいテキストメッセージが、端末に表示されている。
【ユウ氏のスマホの内カメラ、ハッキングして映像見れるようにしたよ】
「!」
しれっととんでもないことを言い出した。フロイドはアズールと顔を見合わせてから、ラップトップを見る。するとそこには、ユウのスマートフォンの画面を映したものとは別に小さなウィンドウが表示されていた。あまり画質が良くはないが、画面いっぱいに映し出されたのはちょうどユウからスマートフォンを奪い取ったらしいロマンの顔。
『はっ。ああ、なるほど。あの魔獣に連絡でもするつもりだったのかな?』
ようやく怒鳴るのを止めたらしいロマンが馬鹿にしたような声で言ったところだった。瞬間、ラップトップに映るスマートフォンの画面が少しだけ動く。どうやらロマンが操作しているようだ。
『君はよっぽどあの魔獣に会いたいらしい』
『……ぐ、グリムが、しんぱいで』
『心配? 彼は無事だと伝えたはずだよ』
『ぁ。そ、の……、ですが、』
『君はそれでも私の言葉を信じなかったと。そういう訳か』
『っそれは、……』
『君は私を疑ったわけだ』
『……、……』
と、ロマンの空気が変わった。どう答えるべきか分からず固まったユウを睨み付けたかと思えば、ややあって肩を竦める。
『……まあ良い。そんなに知りたいのなら見せてあげよう』
『……。……え、』
『あの魔獣が見たいんだろう? 当初の予定とは違うが——まあ良い。これ以上私に逆らわれるよりもマシだ』
『……』
戸惑うユウを横目に、ロマンはおもむろに自分のスマートフォンを取り出しどこかに電話をかけた。数コールののち、繋がったらしい電話先に向かって言う。
『ああ、私だ。グリムくんからこちらに電話を掛けて欲しいんだが。——ああ、ああ。そうだ。ユウのスマートフォンに。少々事情が変わってね、予定を変更することにした』
ちらりとユウを見ながら電話を切ったロマンの手元で、今度はユウのスマートフォンが振動した。ロマンはそれを一瞥して鼻を鳴らしてから、液晶をタップする。そして片眉を上げると、ユウに端末を手渡した。『ほら。そんなに気になるのなら、自分の目で見てみると良い』
『……』ユウは困ったような顔でロマンを見上げながら、恐る恐る端末を受け取った。それから視線をスマートフォンに向けると——大きく目を見開いてぽつりと呟く。『……えっ』
フロイドも画面の映像を見る。
そこに映っていたのは、殺風景なとある部屋にいるグリムだった。まるで安ホテルの一室のような、あまり生活感のない部屋。そこに置かれた簡易的なベッドの上で、眠そうに目をグシグシと擦っている。
『ふなぁ……急に叩き起こして何なんだゾ……』
はたして、彼は寝起きのようだった。ぺたりと座り込んでいるその懐かしい光景を見て、ユウは恐る恐る端末に顔を近付ける。そして泣きそうな顔で呟いた。
『グ、リム……?』
直後、目を擦っていたグリムの動きが止まり、大きな耳がぴくりと音のしたほうを向いた。ゆっくりと顔が上がり、そこに映ったのはシアン色の大きな瞳。
『ふな、……?』グリムはぽかんとしながら、キョロキョロと辺りを見渡すと。ややあってロマンの部下から向けられているらしい端末に気が付き、そちらに視線を向けた。そしてユウの姿を見つけると、勢い良く立ち上がる。『! 子分ッ!』
『グリム! 良かった、無事なの——』
しかしユウが言い終える前に、スマートフォンはユウの手から離れていた。ロマンが再び奪い取ったかと思えば、『会話をすることを許した覚えはないよ』と言い放ったからだ。
『さて、これで彼が無事なことは分かっただろう。異存はないね?』
『お、お待ちください。どうかもう少しだけ、話をさせて頂けませ、』
『……』
スマートフォン越しに映るロマンの表情が、スッと冷酷なものに変わった。彼は画面を一瞥すると、容赦なく通話終了ボタンを押す。瞬間、ぶちりという無機質な音とともにグリムの声が聞こえなくなり、にわかに騒がしさに包まれていたロマンの部屋には再び、一気に静寂が戻った。
『ぁ……』
切なげなユウの言葉の数秒後、ロマンはおもむろにスマートフォンを置く。それからユウのほうへとゆっくり歩いていくと、しばらくしてフロイドたちの画角からは何も映らなくなった。
『……さて』
聞こえるのはユウの手中にある魔法石からだけだ。ロマンの声が、唐突に響く。
『ユウ、君は賢い。グリムくんは今見てもらった通り、実はここしばらく彼は私の部下たちと一緒にいるんだ。君がこれ以上何か粗相をしたら彼がどうなるか——もちろん分かるね ?』
『!』
ユウがひゅっと息を呑むのが分かった。
明確な脅しだ。そこからの暫しの沈黙ののち、ロマンは鼻で笑った。靴音が聞こえたかと思うと、ザザッと魔法石に大きなノイズが入る。どうやら腕を掴まれたユウが魔法石を落としたらしかった。ロマンに気付かれていなさそうなことだけが幸いだが、とはいえ思わぬ衝撃音の大きさに、アズールは思わず顔を顰める。
『——さて。何はともあれ、ひとまず君には少々躾直しが必要だね』
ややあって少し遠くなったところから聞こえたのはそんな声だった。
『……ぁ、や……っ、お許しくださ、』
『嫌だ? 誰が嫌だと言って良いなんて言った? ほら、分かっているだろう。ユウの部屋に行くよ。さっさと来なさい』
『っ……、……ごめんな、さ……』
『はは、謝るくらいなら最初からやらなければ良いものを——ほら、来なさい。来いと言ってるんだ! いい加減にしろ!』
『痛 ッ……ぁ、ぅ、……』
スマートフォンのカメラの端に一瞬だけ映ったのは、腕を掴まれてズルズルと無理矢理部屋の外へ引っ張られていくユウの姿だった。恐怖に怯えきった顔で連れて行かれるその姿はとにかく痛々しくて、見るに耐えなくて。しかしそれが見られたのは一瞬のこと。部屋から出て行きバタンと扉が閉まった瞬間、ひとけは消えて室内はすっかり静寂に包まれる。
「……。……な、何なの、あのクソみたいな男……」最初に声を発したのはイデアだった。「こんなに胸糞悪いのは久々っすわ。センスの無い制作陣が作ったクソゲーか?? 拙者みたいな恋人いない歴=年齢みたいな奴でも、あれがアウトなのは分かるんだが?」
「…………ええ。——正直、控えめに言って反吐が出ます。心底軽蔑する」アズールが静かに言う。それからフロイドを一瞥した。
「………………」
フロイドは黙っていた。ただただ画面を睨み付けたまま、無言で立っている。しかしそのオーラはとてつもなかった。怒りからか、ブルブルと握った拳が震えている。
「……フロイド」
アズールはいちど目を瞑って息を吐いてから静かに言った。振り向くこともしないフロイドを見て、勝手に言葉を続ける。
「心苦しいですが、今はまだ屋敷に無理に助けに向かう訳にはいきません。グリムさんの件も調べなければならないことが色々ありますし、何よりここで失敗したら、今週末の結婚式に潜入できる可能性も助けるチャンスも全て棒に振ることになる」
「……分かってる」
「……なら良い」
「あ」イデアが言った。「し、式場周辺まで偵察に行っているチャド氏とジェイド氏、もうすぐ帰ってくるって。チャット来た」
「そうですか。分かりました」
フロイドはそのやり取りを横目に、ふらりと踵を返した。首をさすりながら、もったりとした動きで部屋の扉に手を掛ける。誰も近付けないようなオーラがあった。そのまま出て行ったかと思えばしばらくして、ドォンと遠くで重たい振動音が響く。
「……なっ、なな何!? この音」
「大水槽のほうですね。フロイドが中で暴れているんでしょう」
「ひえ。一人怪獣大戦争ってワケ……」
「ここで暴れられるよりはマシです」
「そ、それはそう。確かに……」
コーヒーを淹れに行ったアズールを横目にイデアは椅子に凭れた。天井を見上げて、いま見た一連の展開を思い返す。
「……——」
オルトを連れて来なくて良かった、と思った。ここに弟がいたら、怒りのあまり今すぐあの屋敷に風穴を開け、屋敷ごとロマンを消し炭にしかねないので。
陽キャは嫌いだ。大嫌いだ。でもユウはオルトにとってそのくらい大切な友達で、——きっとフロイドにとっては言わずもがな。何よりイデアにとっても可愛い後輩だった。そんなに大切な子があんな仕打ちを受けているなんて、到底許せる筈がない。
「こんなクソゲー解釈違いっすわ。ユウ氏にはもっと違うシナリオがお似合いだろ」
イデアはブツブツ呟いた。一昔前のRPGゲームのように、ドット絵のユウ姫が城から勇者フロイドに助けられるところをなんとなく想像してみる。そちらのほうが断然良い。そりゃあリア充爆発しろとは思うけれど、それでもやっぱりユウには笑顔が似合うのだ。大切な人たちに囲まれて、幸せそうに笑っていて欲しいのだ。
「……こりゃあ、このクソ社長にはさっさと退場してもろて、グリム氏とユウ氏は無事に解放されて再会するエンド一択っすな」
イデアはパチンと指を鳴らした。そして花吹雪の舞う中、勇者と姫が共に帰るゲームクリア画面を想像して、口角を上げて。ギザ歯を見せながら一人笑う。
「フヒッ。それで踊ってキスして、みんなハッピーに解散ってことで。それが良いよ。ついでに拙者はグリム氏を心ゆくまでモフモフさせて貰えれば大満足」
可愛い後輩の悲痛な泣き顔を見るより、リア充のイチャイチャを見るほうが百億倍マシだ。オタクは解釈違いにうるさいので。
「アイツのシナリオ、拙者たちが全部書き換えてやる」
イデアはラップトップに向き直った。チリチリと揺れる美しい毛先は、いつからか少し赤に染まっていた。
❖ ❖ ❖
問題児が多く在籍するナイトレイブンカレッジ。無法地帯であるその場所において今までとんでもない事件はいくつもあったものだが、その中の一つに〝監督生身投げ騒動〟と呼ばれた事件がある。
やたら物騒な名前のその騒動の顛末について当時三年生だったフロイドが知ったのは、その日の放課後、部活が始まる前のことだった。部室にて、着替え途中のチャドが『そういえば』と思い出したように口を開いたことに端を発する。
『なあエース。そういや今日ユウちゃん怪我したってホント? なんか窓から飛び降りた? とかって聞いたんだけど。どういう状況?』
『げっ。もう先輩たちにも広まってるんすか?』
『いやー、なんか女子会してた壁の絵画たちが教えてくれたんだよねえ。ほら、ロザリアちゃんと猫のパンタシアちゃん。おしゃべり好きな東棟のマダムが学校中に触れ回ってるーって教えてくれたんよ』
『まだ半日も経ってないっすよ? ゴシップ好きの絵画たちの情報網、コワ〜……』
『は? 待ってトビウオちゃん。飛び降りた? 何それオレ知らねーんだけど。どゆこと』
『や、俺もついさっき聞いたんだよね。ロザリアちゃんたちも噂でしか聞いてないって言ってたから、詳しくはエースに聞こって思って』
『……』
フロイドは眉根を寄せながら、既に着替えを終えているエースを見た。当然である。好きな子がどこからか飛び降りて怪我をしたなんてそんなこと、看過できる訳がない。本音を言えば今すぐここを飛び出して小エビの安否を確認しに行きたかったが、とはいえ最も親しい友人の一人であるエースがここにいるということは、恐らく彼女は無事なのだろう。ならば小エビに会いに行く前に事情を把握するのが先決だ。彼はコンマ数秒でそう判断すると、早く説明しろと言わんばかりの気迫でエースを見た。『あは。さっさと教えろよカニちゃん』そして笑っていない目で脅迫——もとい発言を促す。
当のエースはというと、苦虫を噛み潰したような顔をして、それまで手持ち無沙汰にコロコロと手の上で転がしていたバスケットボールを何度かバウンドさせた。それから『いや、』とか『アー……』とかブツブツ言ってから、猫っ毛の跳ねた後頭部をガシガシと掻くと。明らかに覇気のありすぎる一九一センチを引き攣った顔で見上げ、事情を説明すべく口を開いた。
『……知っての通り、アイツってトラブルメーカーじゃないっすか。簡単に言えば、今回も見事にトラブルに巻き込まれたんすよ』
エースは言った。
なんでも数時間前、廊下を歩いていたグリムがとある上級生グループの一人にぶつかり、監督生が慌てて謝罪をするもここぞとばかりにイチャモンを付けられ絡まれたそうだ。そのうちの一人が監督生の胸ぐらを掴みかかったものだから、グリムが炎の魔法を浴びせようとして。けれど揉み合った末に男子生徒がグリムの首根っこを掴んで、開いていた近くの窓から思いっ切り投げ飛ばしたらしい。
——っグリム!
突然のことに反応が一瞬遅れたエースとデュースの横で、誰よりも早く動いたのは監督生で。彼女は躊躇いもなくグリムを追い掛け窓に向かうと、エースの静止も聞かずに飛び出し、グリムの頭を守るようにして抱きかかえて一緒に落ちていったのだ。
『そこ二階だったからそこまで高くはなかったし、ラッキーなことに下に植えられていた低木の茂みがクッションになって大怪我は免れたんすけど——まあ多少の打ち身はしてたんで、そのまま保健室連れて行きました。今はフツーに元気なんで安心してください』
『えーやっっっば……それ、ユウちゃん下手したら骨折してたくない?』
『いや有り得ましたよ普通に。まじビビりましたもん。デュースもそうだけど、監督生もああ見えて相当頑固で無鉄砲なとこあるからさあ。別にそれ自体は悪いことじゃないんすけど、普通に危ねーし見てるこっちの肝が冷えるから程々にして欲しいっつーか……』
『……カニちゃんさあ』
と、げっそりするエースにフロイドがおもむろに話し掛けた。『小エビちゃんたちに絡んだそいつらの名前、覚えてねーの』
『え? ……あー、先輩たちと同じ三年生ですよ。B組のシェーマスってヤツと、A組の——』
エースが挙げた数名の名前を聞きながら、フロイドは緩く瞬きをした。
『……ふーん、分かった。ありがとねえ』
そうしてふらりと、おもむろに部室の出口に向かって歩いていく。
『……』
そんな彼の行動を見てから、エースとチャドは互いを見た。ややあって、エースが『フロイド先輩?』と声を掛ける。
『なに』
『……や、なにじゃなくて。どこ行くんすか? 部活は?』
フロイドは静かに振り返った。一拍置いて、面倒そうに後頭部を掻くと。緩やかに目を瞬いてから言った。
『別に。気分変わったから帰るだけ』
『…………アー、ハイ……』
翌日、B組のシェーマスその他エースが名前を挙げた者たちは、登校時には既に大怪我をしていたらしい。いったい何があったのかと周囲に問われても、彼らは全員揃いも揃って自分で転んだのだと、どこか引き攣った顔で言うだけだった。
❖
「フロイド。おーい、起きろー」
「……」
「あ、起きた」
「……なあにトビウオちゃん」
「なあにじゃねーよ。さっき話し合いのあと、お前が仮眠するから一時間経ったら起こせって言ったんじゃん」
「アー……」
そういえばそうだった気がする。
フロイドは呟きながらのそのそ起き上がった。横になっていたカウチがギシリと音を立てているのを無視して後頭部を掻くと、半目で周囲を見渡す。
寝泊まりを繰り返しすぎて、すっかり第二の居住地となりつつあるこの役員部屋には相変わらず、あちらこちらに資料や書籍が山のように積まれていた。このフロアは元々、基本的にフロイドたち上層部しか立ち入らないエリア。最近あまりにフロイドが会社に残って調べものをするので、アズールが仕方なく突貫でこの部屋を使うようにと指示したのである。社長室を一日中占拠されては堪らないので。
「はいこれ、頼まれてた資料と——あとそっちは次の会議の資料ね」鼻で溜息を吐いてから、チャドは資料を手渡していく。「あとこれ、目を通してここにサインしといてって。この案件は俺じゃ対処できねーから」
「……ン。そこ置いといて」
「……」
鈍い返事をしながらテーブルに置かれた仕事やらユウ関連やらの資料を横目で一瞥したフロイドを見て、こりゃあ相当キてんな、とチャドは心の中で思った。目つきも酷いが、それに加えてクマも酷い。最近は暇さえあれば調べものをしているし、そもそもあまり眠れていないのだろう。今だって眠りながら魘されていたし。
まあ当然といえば当然である。本人は学生時代から隠していたつもりのようだし、小エビも現在に至るまで全く気付いている気配がなかったが——この男の小エビに向けていた矢印の大きさは、そりゃあもう昔から特大で分かりやすかったのだ。そんな大事な子があんな状況になっているなんて、フロイドの立場ならば気が気でないに決まっている。仲の良かった後輩がこんな仕打ちを受けていると知って、ついでに先ほどあった出来事を聞いて、チャドですら現在進行形で割とかなり怒り心頭なのだから。
「さっきの話聞いたとき、お前が頭に血上って屋敷に突っ込んで行かなかったの正直意外だったわ」
「……別に。状況から考えたらこれが最善だっただけ」
「案外現実的な」
「当たり前じゃん。今この状態でオレが現実見なくなったら色々終わりじゃね」
「……まあ、確かに」
フロイドは資料をあれこれ流し見しながら返した。それからややあって、「今さあ」と唐突に口を開く。
「夢見たんだよね」
「え。夢?」
「学生ン頃小エビちゃんがさあ、アザラシちゃん守るために窓から飛び降りたときの夢」
「あー……そういやそんな事件あったね」
「ウン」
フロイドは置かれていた資料を手に取った。笑顔で映るロマンの写真を一瞥すると、放り投げるようにしてテーブルに戻す。
「オレ、小エビちゃんが予測出来ない行動すんの大好きなんだあ。おもしれーし、見てて飽きないんだもん。……でも、危ない目に遭うのはヤだ。泣いてんの見んのも」
昔からそうだ、とフロイドは夢を思い返して改めて思う。あの小エビはいつも、こうと決めたらとにかく無鉄砲で頑固で、周りが止めても聞きやしない。挙句誰かを頼ることが苦手で、大事な何かを守るためなら自分を顧みずに無茶ばかりするのだ。自分だって物凄く怖いくせに。
「本当は今すぐあの屋敷から攫っちゃいたいの。放っといたらすぐ無茶すんだもん。今だって——アイツに何されてんのか、考えただけで暴れたくなるし」
躾直しが必要だね——ねっとりした声を思い返して、フロイドは歯軋りをしながらフーッと息を吐いた。やめろ、その子に手を出すな。これ以上傷付けるな。握られた拳が明確に震える。
「……だけどさあ、今のままじゃ小エビちゃん、多分それやっても喜ばないじゃん。それどころか下手したら自分だけ助かったコト責めて、アザラシちゃん守るために、また自分からアイツのトコ戻っちゃうかもしんねーし」
「……」
チャドは冷蔵庫から勝手にプリンを取り出して、それをフロイドの横に置いた。ジェイドが昨日意気揚々と仕舞っていた気がするが——名前を書いていないのが悪い。そう思いながらよっこいせと隣に腰掛けると、「……だからグリム探すんでしょ」と言う。
「……ウン」
「乗りかかった船だし? ていうか調べれば調べるほど俺もその社長に反吐が出るし? 最後まで見届けてやるからさ、さっさと俺らでグリム見つけて、ユウちゃんのこと攫ってよ」
べりべりとプリンの蓋を剥がしていく。それをテーブルに置きながら、チャドは続けた。
「んで全部上手くいった暁には、ハッピーエンドに貢献した俺に浴びるほど高級スイーツ奢って」
「……いーけど」
「やった。俺、ユウちゃんと昔大人になったら行きたいねーって話してたスイーツの店があんだよね」
「は? 待って何それデートじゃん。やっぱナシ、オレが行くし」
「日和って未だに告白も出来てねー奴が何か言ってる〜」
「うっせ。絞められてーの」
フロイドは隣でプリンを食べる男を、睨 め付けるようにして見た。チャドはそれをちらりと横目に見て、僅かに口角を上げる。少し調子が戻ってきたな。そんなことを思ってから、「——あ、ねえ」とふと口を開く。
「今思ったけどさあ。ムカつくポイントしか無いと思ってたけど、あのロマンにもひとつだけ感謝できるとこあるわ」
「ア? 無いだろ」
「えー? あるって。ほら、」
チャドはスプーンを宙で揺らめかせながら、悪い顔で笑った。
「フロイドのこと、ヴィランからお姫様 救う王子様にしてくれるじゃん。捕らえられてるお姫様には悪役と王子が必要——これ定石でしょ?」
「…………、」
フロイドはぽかんとして目を瞬いた。それからしばらくして、顔を逸らして肩を竦める。おもむろにポケットの中の魔法石を取り出すと、じっと眺め。ややあって「……あは。そうかもねえ」と静かに嗤った。
「マア、おとぎばなしに出てくる王子サマみたいにお行儀良くするつもりなんて微塵もねーけど」
フロイドはスマートフォンをタップして、一枚の写真を表示した。学生時代、二人でマレルナの花畑を見に行ったときの写真だ。光る花々に囲まれて笑顔で映る、笑顔のユウの写真。フロイドは感情の削ぎ落ちた顔をして、低い声で言った。
「——どこまでだって追い回して、生きてるコト後悔させてやるよ」
❖ ❖ ❖
たとえば学生時代。持ち前の極度の方向音痴のせいで、しょっちゅう迷子になって捜索されていたし。良くも悪くも目立つせいか、誰かに絡まれることはしょっちゅうだったし。異世界からやって来た魔法の使えない少女ということもあってか、怪しい人たちに目を付けられて連れ去られそうになることも時たまあったし。どうしてだか訳が分からないけれど、気が付いたら滅多に起きることのないと言われているオーバーブロットに半年ほどで片手では数えられないほど遭遇したし——等々。
控えめに言ってもトラブルに巻き込まれやすい少女だった。なんせナイトレイブンカレッジ内で何か事件があるとき、その現場にかなりの確率で居合わせるのだ。どこぞの小学生探偵も驚きの遭遇率である。
『あ。ねーねーホタルイカ先輩』
『ミ゜ッ』
そんなある日のことだった。その日、たまたま四年次の学外研修から数日間学園に帰ってきていたイデア・シュラウドはフリーズした。
珍しく——本当に珍しく、引き篭もりを脱して欲しいアニメの限定グッズを求めて外出した帰り道。戦利品を抱えイグニハイドに戻ろうとほくほくしていたところ、一番会いたくなかった男に突然遭遇し、ニコーッと笑いながらその長駆で道を塞がれたからだ。
『せ、拙者に何か用……?』
『そー、用あんの。オレ最近ホタルイカ先輩に話したいな〜って思ってたことがあってさァ』
『話したいこと……いや気のせいでは……』
『ア゛? な訳ねーだろ』
『ヒイッ。な、なに?』
『あは。あのさ、ホタルイカ先輩ならさあ、小エビちゃんのスマホのセキュリティをもっとどうにか出来たりしない?』
『……ど、どうにかとは何ぞ……君の話ざっくりしすぎ……』
『えー、どうにかはどうにかだよ。小エビちゃんってさ、いっつもふらふらふにゃふにゃしてて危なっかしいじゃん?』
『ふらふらふにゃふにゃ……まあ、言いたいことは分からなくもないけど……』
『デショ? だからなんかこう、スマホどっかに落としたり盗まれたり無理矢理スマホ見られたりしても情報抜かれないように対策出来たりしないのかなーって』
いや拙者早く帰りたいんだが? とイデアは本気で思ったが、かと言ってこのトンデモ男から逃げ切れる自信は無かった。ので、取り敢えず詳しく話を聞いてみることにした。
するとどうやら、こういうことらしい。
曰く、小エビはよくトラブルに巻き込まれる。何かあったときのために一応スマホを持ち歩くようにはしているが、有事の際スマホを取られでもして中身を見られたら、助ける前後で色々と厄介なことになりかねない。実際に先日もそういうことが起こりかけたのだそうだ。だから、小エビの安全のために協力して欲しい——と。
『あー……要は君、監督生氏のスマホをもっとツヨツヨデバイスにしたいってこと?』
『そ』
『……いや、何でフロイド氏がわざわざ?』
『えー、別に良いじゃん』
『それはそうなんすが……何? 陽キャって男女でもこの距離感が普通なの??』
『え、なに? なにブツブツ言ってんの?』
『ア、ッス……ナンデモナイ……キモオタが詮索してスイマセンシタ……』イデアはそうブツブツ早口で言ってから、改めて言った。『ま、まあ、実際に監督生氏のスマホ見てみないことには分からないけど、まあ拙者に出来ないことは無いと思うよ。やるかやらないかは別として』
『ふーん? そっかあ』
『ウン。じゃ、じゃあ、拙者はこれで……』
『えー、ちょっと待ってよ。センパイ♡』
『何……早く部屋戻って戦利品開けたいんだが……』
面倒そうな顔をしながら逃げ腰のイデアを覗き込むように見て、フロイドは笑顔で言った。
『あは。ここまで話聞いたんだからさあ、やってくれるよねえ?』
『ヱ。ァ……』
『もちろん、報酬は弾むよぉ』
『や、あの、』
『ねー、どお?』
『……いやそんな笑顔でどお? って聞かれましても——ちょ、力強すぎんか……た、助けてオルトぉ!!』
結局イデアは逃げることができなかった。何せ頼みの綱だったはずのオルトには「わあ! 普段の監督生さんの行動パターンから考えても、すごく良い案だね! 兄さん凄いや!」と、助けてもらうどころか目をキラキラさせて応援されてしまったのだ。弟にめっぽう弱い彼は違うと言い出すことができず、おまけにまるでそれを見計らったかのように、その間にフロイドがさっさとユウをイデアの元に連れて来てしまった。
『ねえ小エビちゃん、あのさあ。小エビちゃんってスゲーヨワヨワでおっちょこちょいじゃん?』
『へ。な、なんか急にイグニハイドに連れたかと思ったら急に喧嘩売られてます……??』
『んふ。違くてさあ——』
フロイドは機械音痴の彼女にも分かるように、かなり噛み砕いた説明をした。そして、ユウからの承諾をあっさりと取り付け。イデアが気付いたときには、彼は『よろしくお願いします』と差し出された端末を受け取っていたのだ。
「——ってワケで、僕がユウ氏のスマホ魔改造して強力セキュリティ搭載したわけ」
「無茶苦茶だなあのウツボ……」
「そう、無茶苦茶なんだよ。キミんとこの従業員どうなってんの? お陰で散々な目に遭いましたわ」
「僕に言わないでください。オクタヴィネルのモットーは自己責任ですから」
学生時代のあれこれを思い出しつつ軽く説明しながら、イデアは手に持っているラップトップパソコンを操作した。彼は先程まで別の部屋で作業していたところを、今しがたアズールに呼び出されて連れて出されたところだった。ので、現在は髪を後ろで一纏めにして、頭部には洗顔用のヘアバンドをつけた完全オフモードの作業スタイルである。
イデアは相変わらず猫背のまま、アズールの隣をのそのそ歩いた。光る青い髪が揺れて、火の粉のように時折空中で爆ぜる。
「で、実際セキュリティ精度は上がったんです?」
アズールが問うた。それに対しイデアは、当然と言わんばかりに得意気に返す。
「フヒッ。君さあ、誰に言ってると思ってるの? そりゃあもちろんっすわ。簡単に言うと、あー……、ユウ氏以外の人間がロックを外そうとすると、自動的に警戒用画面に切り替わって個人情報の閲覧に制限が掛かるようになる的なギミックを付けたって感じ」
「なるほど」
「制限が掛かると、ユウ氏と仲の良い数人——エース氏とかデュース氏とか、あとは当時他にも許可取った、ユウ氏と仲良かった同じ学年の生徒何人か——との、魔導AIによって生成された偽の無難な会話の履歴だけ表示される仕組みになってるんですわ。ユウ氏の持つ個人情報は、それでほぼ閲覧される可能性が消えて無事ってわけ」
「……イデアさん貴方、無理矢理やらされたと言っていた割にノリノリじゃありません?」
「いやぁ、好きにやって良いって言うから、当時やりたかったこと思いっ切りやらせてもらったんだよね。それにまあ、拙者の個人情報を見知らぬ輩に盗まれても困るんで」
と、アズールが歩みを止めた。イデアもそれに続いて立ち止まると、目の前には一つの扉。
アズールはノックをするなり扉を開いた。「イデアさんを連れてきました」よく通る声を発した彼に続いてイデアが足を踏み入れると、魔法石に向かって話し掛けていたフロイドが振り返る。
「あ。アズール、ホタルイカ先輩」
「ド、ドモ……」
「ねー小エビちゃんのスマホさあ、電源点いたって」
「! 本当ですか」
「ウン。ただ今見た感じ、アザラシちゃんからの新しいメッセは無かったって」
「……あー、ほんとだ」フロイドの言葉にイデアが頷く。「グリム氏からユウ氏にメール来たの、三か月くらい前が最後だね」
「? 何故分かるんですか」
訝しげにイデアを見たアズールは、けれど直後イデアの抱えていたラップトップを見て、驚いたように目を見開いた。フロイドはその様子に怪訝そうな顔をする。僅かに眉をしかめると、次いで同様にイデアのラップトップを覗き込んだ。イデアはフロイドの瞳が同じように見開かれたのをちらりと見てから、淡々と言う。
「ユウ氏のスマホのデータを、魔改造したときの情報を使ってパソコンで画面共有できるようにしたんだよ。多少タイムラグはあるけど、ここはフロイド氏の簡易魔法石の通信圏内ってくらいだし、屋敷からそこまで離れてる訳じゃない。なら電波もいけるかなって思ったら、ビンゴっすわ」
「……ホタルイカ先輩さあ、まさか今までもそうやって小エビちゃんのスマホ覗き見してた訳じゃねーよなぁ?」
「は? してないよする訳ないだろ」
「なら良いけどォ……」
フロイドは魔法石に向き直ると、「小エビちゃん」と口を開いた。明らかに今しがたとは異なる優しい声である。
「ね。小エビちゃんの見てる画面、こっちでも見れるようになったよ」
『え。そ、そんなこと出来るんですか』
「そうみたい。ホタルイカ先輩スゲーよねえ」
『凄いです……』
ロマンの部屋で、ユウはきっと一人スマートフォンを握り締めたまま顔を上げ、目を丸めているのだろう。フロイドは容易にそんな姿が想像できて、少しだけ目尻を緩めた。
何にせよ、声で説明するのみではなく実際に同じ画面を見ることができるというのはやりやすいものである。フロイドたちとユウは改めて、端末内のメールや電話の履歴を当たってみることにした。
が、残念ながらやはりめぼしい手掛かりのようなものは何もありそうになかった。グリムとのメッセージはユウの記憶にある通り、グリムが旅立ってすぐの異国での体験についての内容で止まっているし、その後ユウがスマートフォンを没収されてから不在着信や留守電が入っていた形跡もない。改めてその事実が一通り分かったあと、ユウは小さな声で『……わざわざ集まって頂いたのに、何もなくてすみません』と言った。
「……んーん」
フロイドはイデアのラップトップを見た。静かに画面が動いている。どうやらユウが操作をしているらしかった。慣れないようなぎこちない動きで、一つの画面がタップされる。フロイドはそれを目で追ってから、僅かに目を伏せた。
そこに映っていたのは、先程も何度か見たグリムの連絡先だった。記載されている数字の羅列をユウが押せば、今すぐにでもグリムのスマートフォンに電話をかけることが出来る。そしてそのすぐ上に表示されているのは、連絡先のアイコンとして使っていたらしい、ユウとグリムの二人で映っているツーショット。確かこれはユウが卒業してすぐ、アパートに引っ越したばかりの頃に撮った写真だと言っていたはずだ。
『……グリム』
微かに呟く声が聞こえた。ややあって、『……あの、』と次の言葉が発せられる。
『私、もう少しこの部屋を探してみます。また何も見つからないまま終わっちゃうかも、しれないけ、ど——、』
けれど不自然に会話が止まったのはその時だった。
「……?」
フロイドは数秒固まってから、「……小エビちゃん?」と問う。返事はない。どうしたのだろうか。眉をしかめてアズールやイデアのほうを見やると、アズールも分からないといったふうに首を傾げた。するとようやく魔法石の向こうから、『……な、んで、?』と掠れた声が響く。
「小エビちゃん。どしたの」
嫌な予感がした。フロイドは身を乗り出して、真剣な口調で問う。
『ぁ……廊下から物音が、して』
「え」
『ど、どうしよ、っは、……こっち、来る、……わ、私……ッ』
「ッ、小エビちゃん!」
小エビの言葉尻は完全に震えていた。明らかに呼吸が浅くなっているのが、魔法石越しにも伝わってくる。不審者が屋敷内にいるという説も無くはないが、あれだけ完全警備がなされている屋敷でその可能性は薄い。ならばまさか、ロマンが帰ってきたのか。とにかくフロイドは声を掛けようとして——けれど直後、反射的に口を噤んだ。
ガチャリと扉の開く重たい音がしたのだ。その瞬間、通信の音が乱れる。ユウが魔法石を咄嗟に握り締めて隠したせいで、ノイズが入っているようだった。
『…………やあ、ユウ。こんなところで何をしているのかな』
『! だん、な……さま、』
『ここは私の部屋だよ。許可なく入ることを許した覚えはないんだが』
『——ッ』
バンッと扉が思い切り閉まるような音がしたのと同時、ユウの声にならない小さな悲鳴が聞こえた。直後段々足音が近付いてきたかと思えば、ドンッと鈍く響くテーブルを叩く音。それは何度も何度も繰り返され、魔法石越しに聞いているフロイドたちにも圧迫感を与えた。イデアが心底嫌そうな顔をして、それからパソコンで何かを操作し始める。その間にも、聞こえてくるのはロマンの苛立った声だ。
『全く、少し目を離すとすぐこれだ。油断したよ。君に求婚していた頃のことを思い出した』
『も、……も、うしわけ、ございませ……』
『妻はもっと従順であるべきだと、何度言えば分かるのかな?』
『っ……ぁ、……』
『ユウ。こっちを見なさい』
『……は、い』
『ここに立ち入ってはいけないと、前に言わなかったかい?』
『……おっしゃる、とおりで……』
『何で入ったのかな』
『そ、れは……、…………もうし、わけ——』
『ふざけるのも大概にしろ!』
『ッ』
聞くに耐えない詰問だった。何度も何度も罵声と物に当たる音が聞こえて、聞こえてくる音声の節々から小エビが本気で怯えているのが痛いほど伝わってくる。フロイドは血がにじみそうになるほどグッと拳を握り込んだ。「絶対に喋るなよ」——隣でアズールがそんなジェスチャーをしたのを見て、音もなく舌打ちをしてから脳内で悪態をつく。
……分かっている。
ほんとうは、今すぐにでもロマンに食って掛かりたかった。けれど今ここで声を上げても、それは悪手でしかないことは明白なのだ。だって仮に今から屋敷に向かったとて、相当時間が掛かってしまい今はユウを直接守ってやれる手立てがないから。それにそもそも、ただでさえユウは今ロマンの部屋に不法侵入しているのに、さらに外部と連絡までもを取っているなんてそんなこと、知られたら本当にどうなってしまうか分かったものではないから。
「——ふ、フロイド氏。アズール氏」
と、ラップトップを見ていたイデアが小声で二人に呼び掛けた。二人がイデアを見ると、彼はラップトップを指差す。その横に差し出されたのはタブレットだ。あらかじめ打ち込まれていたらしいテキストメッセージが、端末に表示されている。
【ユウ氏のスマホの内カメラ、ハッキングして映像見れるようにしたよ】
「!」
しれっととんでもないことを言い出した。フロイドはアズールと顔を見合わせてから、ラップトップを見る。するとそこには、ユウのスマートフォンの画面を映したものとは別に小さなウィンドウが表示されていた。あまり画質が良くはないが、画面いっぱいに映し出されたのはちょうどユウからスマートフォンを奪い取ったらしいロマンの顔。
『はっ。ああ、なるほど。あの魔獣に連絡でもするつもりだったのかな?』
ようやく怒鳴るのを止めたらしいロマンが馬鹿にしたような声で言ったところだった。瞬間、ラップトップに映るスマートフォンの画面が少しだけ動く。どうやらロマンが操作しているようだ。
『君はよっぽどあの魔獣に会いたいらしい』
『……ぐ、グリムが、しんぱいで』
『心配? 彼は無事だと伝えたはずだよ』
『ぁ。そ、の……、ですが、』
『君はそれでも私の言葉を信じなかったと。そういう訳か』
『っそれは、……』
『君は私を疑ったわけだ』
『……、……』
と、ロマンの空気が変わった。どう答えるべきか分からず固まったユウを睨み付けたかと思えば、ややあって肩を竦める。
『……まあ良い。そんなに知りたいのなら見せてあげよう』
『……。……え、』
『あの魔獣が見たいんだろう? 当初の予定とは違うが——まあ良い。これ以上私に逆らわれるよりもマシだ』
『……』
戸惑うユウを横目に、ロマンはおもむろに自分のスマートフォンを取り出しどこかに電話をかけた。数コールののち、繋がったらしい電話先に向かって言う。
『ああ、私だ。グリムくんからこちらに電話を掛けて欲しいんだが。——ああ、ああ。そうだ。ユウのスマートフォンに。少々事情が変わってね、予定を変更することにした』
ちらりとユウを見ながら電話を切ったロマンの手元で、今度はユウのスマートフォンが振動した。ロマンはそれを一瞥して鼻を鳴らしてから、液晶をタップする。そして片眉を上げると、ユウに端末を手渡した。『ほら。そんなに気になるのなら、自分の目で見てみると良い』
『……』ユウは困ったような顔でロマンを見上げながら、恐る恐る端末を受け取った。それから視線をスマートフォンに向けると——大きく目を見開いてぽつりと呟く。『……えっ』
フロイドも画面の映像を見る。
そこに映っていたのは、殺風景なとある部屋にいるグリムだった。まるで安ホテルの一室のような、あまり生活感のない部屋。そこに置かれた簡易的なベッドの上で、眠そうに目をグシグシと擦っている。
『ふなぁ……急に叩き起こして何なんだゾ……』
はたして、彼は寝起きのようだった。ぺたりと座り込んでいるその懐かしい光景を見て、ユウは恐る恐る端末に顔を近付ける。そして泣きそうな顔で呟いた。
『グ、リム……?』
直後、目を擦っていたグリムの動きが止まり、大きな耳がぴくりと音のしたほうを向いた。ゆっくりと顔が上がり、そこに映ったのはシアン色の大きな瞳。
『ふな、……?』グリムはぽかんとしながら、キョロキョロと辺りを見渡すと。ややあってロマンの部下から向けられているらしい端末に気が付き、そちらに視線を向けた。そしてユウの姿を見つけると、勢い良く立ち上がる。『! 子分ッ!』
『グリム! 良かった、無事なの——』
しかしユウが言い終える前に、スマートフォンはユウの手から離れていた。ロマンが再び奪い取ったかと思えば、『会話をすることを許した覚えはないよ』と言い放ったからだ。
『さて、これで彼が無事なことは分かっただろう。異存はないね?』
『お、お待ちください。どうかもう少しだけ、話をさせて頂けませ、』
『……』
スマートフォン越しに映るロマンの表情が、スッと冷酷なものに変わった。彼は画面を一瞥すると、容赦なく通話終了ボタンを押す。瞬間、ぶちりという無機質な音とともにグリムの声が聞こえなくなり、にわかに騒がしさに包まれていたロマンの部屋には再び、一気に静寂が戻った。
『ぁ……』
切なげなユウの言葉の数秒後、ロマンはおもむろにスマートフォンを置く。それからユウのほうへとゆっくり歩いていくと、しばらくしてフロイドたちの画角からは何も映らなくなった。
『……さて』
聞こえるのはユウの手中にある魔法石からだけだ。ロマンの声が、唐突に響く。
『ユウ、君は賢い。グリムくんは今見てもらった通り、実はここしばらく彼は私の部下たちと一緒にいるんだ。君がこれ以上何か粗相をしたら彼がどうなるか——もちろん
『!』
ユウがひゅっと息を呑むのが分かった。
明確な脅しだ。そこからの暫しの沈黙ののち、ロマンは鼻で笑った。靴音が聞こえたかと思うと、ザザッと魔法石に大きなノイズが入る。どうやら腕を掴まれたユウが魔法石を落としたらしかった。ロマンに気付かれていなさそうなことだけが幸いだが、とはいえ思わぬ衝撃音の大きさに、アズールは思わず顔を顰める。
『——さて。何はともあれ、ひとまず君には少々躾直しが必要だね』
ややあって少し遠くなったところから聞こえたのはそんな声だった。
『……ぁ、や……っ、お許しくださ、』
『嫌だ? 誰が嫌だと言って良いなんて言った? ほら、分かっているだろう。ユウの部屋に行くよ。さっさと来なさい』
『っ……、……ごめんな、さ……』
『はは、謝るくらいなら最初からやらなければ良いものを——ほら、来なさい。来いと言ってるんだ! いい加減にしろ!』
『
スマートフォンのカメラの端に一瞬だけ映ったのは、腕を掴まれてズルズルと無理矢理部屋の外へ引っ張られていくユウの姿だった。恐怖に怯えきった顔で連れて行かれるその姿はとにかく痛々しくて、見るに耐えなくて。しかしそれが見られたのは一瞬のこと。部屋から出て行きバタンと扉が閉まった瞬間、ひとけは消えて室内はすっかり静寂に包まれる。
「……。……な、何なの、あのクソみたいな男……」最初に声を発したのはイデアだった。「こんなに胸糞悪いのは久々っすわ。センスの無い制作陣が作ったクソゲーか?? 拙者みたいな恋人いない歴=年齢みたいな奴でも、あれがアウトなのは分かるんだが?」
「…………ええ。——正直、控えめに言って反吐が出ます。心底軽蔑する」アズールが静かに言う。それからフロイドを一瞥した。
「………………」
フロイドは黙っていた。ただただ画面を睨み付けたまま、無言で立っている。しかしそのオーラはとてつもなかった。怒りからか、ブルブルと握った拳が震えている。
「……フロイド」
アズールはいちど目を瞑って息を吐いてから静かに言った。振り向くこともしないフロイドを見て、勝手に言葉を続ける。
「心苦しいですが、今はまだ屋敷に無理に助けに向かう訳にはいきません。グリムさんの件も調べなければならないことが色々ありますし、何よりここで失敗したら、今週末の結婚式に潜入できる可能性も助けるチャンスも全て棒に振ることになる」
「……分かってる」
「……なら良い」
「あ」イデアが言った。「し、式場周辺まで偵察に行っているチャド氏とジェイド氏、もうすぐ帰ってくるって。チャット来た」
「そうですか。分かりました」
フロイドはそのやり取りを横目に、ふらりと踵を返した。首をさすりながら、もったりとした動きで部屋の扉に手を掛ける。誰も近付けないようなオーラがあった。そのまま出て行ったかと思えばしばらくして、ドォンと遠くで重たい振動音が響く。
「……なっ、なな何!? この音」
「大水槽のほうですね。フロイドが中で暴れているんでしょう」
「ひえ。一人怪獣大戦争ってワケ……」
「ここで暴れられるよりはマシです」
「そ、それはそう。確かに……」
コーヒーを淹れに行ったアズールを横目にイデアは椅子に凭れた。天井を見上げて、いま見た一連の展開を思い返す。
「……——」
オルトを連れて来なくて良かった、と思った。ここに弟がいたら、怒りのあまり今すぐあの屋敷に風穴を開け、屋敷ごとロマンを消し炭にしかねないので。
陽キャは嫌いだ。大嫌いだ。でもユウはオルトにとってそのくらい大切な友達で、——きっとフロイドにとっては言わずもがな。何よりイデアにとっても可愛い後輩だった。そんなに大切な子があんな仕打ちを受けているなんて、到底許せる筈がない。
「こんなクソゲー解釈違いっすわ。ユウ氏にはもっと違うシナリオがお似合いだろ」
イデアはブツブツ呟いた。一昔前のRPGゲームのように、ドット絵のユウ姫が城から勇者フロイドに助けられるところをなんとなく想像してみる。そちらのほうが断然良い。そりゃあリア充爆発しろとは思うけれど、それでもやっぱりユウには笑顔が似合うのだ。大切な人たちに囲まれて、幸せそうに笑っていて欲しいのだ。
「……こりゃあ、このクソ社長にはさっさと退場してもろて、グリム氏とユウ氏は無事に解放されて再会するエンド一択っすな」
イデアはパチンと指を鳴らした。そして花吹雪の舞う中、勇者と姫が共に帰るゲームクリア画面を想像して、口角を上げて。ギザ歯を見せながら一人笑う。
「フヒッ。それで踊ってキスして、みんなハッピーに解散ってことで。それが良いよ。ついでに拙者はグリム氏を心ゆくまでモフモフさせて貰えれば大満足」
可愛い後輩の悲痛な泣き顔を見るより、リア充のイチャイチャを見るほうが百億倍マシだ。オタクは解釈違いにうるさいので。
「アイツのシナリオ、拙者たちが全部書き換えてやる」
イデアはラップトップに向き直った。チリチリと揺れる美しい毛先は、いつからか少し赤に染まっていた。
❖ ❖ ❖
問題児が多く在籍するナイトレイブンカレッジ。無法地帯であるその場所において今までとんでもない事件はいくつもあったものだが、その中の一つに〝監督生身投げ騒動〟と呼ばれた事件がある。
やたら物騒な名前のその騒動の顛末について当時三年生だったフロイドが知ったのは、その日の放課後、部活が始まる前のことだった。部室にて、着替え途中のチャドが『そういえば』と思い出したように口を開いたことに端を発する。
『なあエース。そういや今日ユウちゃん怪我したってホント? なんか窓から飛び降りた? とかって聞いたんだけど。どういう状況?』
『げっ。もう先輩たちにも広まってるんすか?』
『いやー、なんか女子会してた壁の絵画たちが教えてくれたんだよねえ。ほら、ロザリアちゃんと猫のパンタシアちゃん。おしゃべり好きな東棟のマダムが学校中に触れ回ってるーって教えてくれたんよ』
『まだ半日も経ってないっすよ? ゴシップ好きの絵画たちの情報網、コワ〜……』
『は? 待ってトビウオちゃん。飛び降りた? 何それオレ知らねーんだけど。どゆこと』
『や、俺もついさっき聞いたんだよね。ロザリアちゃんたちも噂でしか聞いてないって言ってたから、詳しくはエースに聞こって思って』
『……』
フロイドは眉根を寄せながら、既に着替えを終えているエースを見た。当然である。好きな子がどこからか飛び降りて怪我をしたなんてそんなこと、看過できる訳がない。本音を言えば今すぐここを飛び出して小エビの安否を確認しに行きたかったが、とはいえ最も親しい友人の一人であるエースがここにいるということは、恐らく彼女は無事なのだろう。ならば小エビに会いに行く前に事情を把握するのが先決だ。彼はコンマ数秒でそう判断すると、早く説明しろと言わんばかりの気迫でエースを見た。『あは。さっさと教えろよカニちゃん』そして笑っていない目で脅迫——もとい発言を促す。
当のエースはというと、苦虫を噛み潰したような顔をして、それまで手持ち無沙汰にコロコロと手の上で転がしていたバスケットボールを何度かバウンドさせた。それから『いや、』とか『アー……』とかブツブツ言ってから、猫っ毛の跳ねた後頭部をガシガシと掻くと。明らかに覇気のありすぎる一九一センチを引き攣った顔で見上げ、事情を説明すべく口を開いた。
『……知っての通り、アイツってトラブルメーカーじゃないっすか。簡単に言えば、今回も見事にトラブルに巻き込まれたんすよ』
エースは言った。
なんでも数時間前、廊下を歩いていたグリムがとある上級生グループの一人にぶつかり、監督生が慌てて謝罪をするもここぞとばかりにイチャモンを付けられ絡まれたそうだ。そのうちの一人が監督生の胸ぐらを掴みかかったものだから、グリムが炎の魔法を浴びせようとして。けれど揉み合った末に男子生徒がグリムの首根っこを掴んで、開いていた近くの窓から思いっ切り投げ飛ばしたらしい。
——っグリム!
突然のことに反応が一瞬遅れたエースとデュースの横で、誰よりも早く動いたのは監督生で。彼女は躊躇いもなくグリムを追い掛け窓に向かうと、エースの静止も聞かずに飛び出し、グリムの頭を守るようにして抱きかかえて一緒に落ちていったのだ。
『そこ二階だったからそこまで高くはなかったし、ラッキーなことに下に植えられていた低木の茂みがクッションになって大怪我は免れたんすけど——まあ多少の打ち身はしてたんで、そのまま保健室連れて行きました。今はフツーに元気なんで安心してください』
『えーやっっっば……それ、ユウちゃん下手したら骨折してたくない?』
『いや有り得ましたよ普通に。まじビビりましたもん。デュースもそうだけど、監督生もああ見えて相当頑固で無鉄砲なとこあるからさあ。別にそれ自体は悪いことじゃないんすけど、普通に危ねーし見てるこっちの肝が冷えるから程々にして欲しいっつーか……』
『……カニちゃんさあ』
と、げっそりするエースにフロイドがおもむろに話し掛けた。『小エビちゃんたちに絡んだそいつらの名前、覚えてねーの』
『え? ……あー、先輩たちと同じ三年生ですよ。B組のシェーマスってヤツと、A組の——』
エースが挙げた数名の名前を聞きながら、フロイドは緩く瞬きをした。
『……ふーん、分かった。ありがとねえ』
そうしてふらりと、おもむろに部室の出口に向かって歩いていく。
『……』
そんな彼の行動を見てから、エースとチャドは互いを見た。ややあって、エースが『フロイド先輩?』と声を掛ける。
『なに』
『……や、なにじゃなくて。どこ行くんすか? 部活は?』
フロイドは静かに振り返った。一拍置いて、面倒そうに後頭部を掻くと。緩やかに目を瞬いてから言った。
『別に。気分変わったから帰るだけ』
『…………アー、ハイ……』
翌日、B組のシェーマスその他エースが名前を挙げた者たちは、登校時には既に大怪我をしていたらしい。いったい何があったのかと周囲に問われても、彼らは全員揃いも揃って自分で転んだのだと、どこか引き攣った顔で言うだけだった。
❖
「フロイド。おーい、起きろー」
「……」
「あ、起きた」
「……なあにトビウオちゃん」
「なあにじゃねーよ。さっき話し合いのあと、お前が仮眠するから一時間経ったら起こせって言ったんじゃん」
「アー……」
そういえばそうだった気がする。
フロイドは呟きながらのそのそ起き上がった。横になっていたカウチがギシリと音を立てているのを無視して後頭部を掻くと、半目で周囲を見渡す。
寝泊まりを繰り返しすぎて、すっかり第二の居住地となりつつあるこの役員部屋には相変わらず、あちらこちらに資料や書籍が山のように積まれていた。このフロアは元々、基本的にフロイドたち上層部しか立ち入らないエリア。最近あまりにフロイドが会社に残って調べものをするので、アズールが仕方なく突貫でこの部屋を使うようにと指示したのである。社長室を一日中占拠されては堪らないので。
「はいこれ、頼まれてた資料と——あとそっちは次の会議の資料ね」鼻で溜息を吐いてから、チャドは資料を手渡していく。「あとこれ、目を通してここにサインしといてって。この案件は俺じゃ対処できねーから」
「……ン。そこ置いといて」
「……」
鈍い返事をしながらテーブルに置かれた仕事やらユウ関連やらの資料を横目で一瞥したフロイドを見て、こりゃあ相当キてんな、とチャドは心の中で思った。目つきも酷いが、それに加えてクマも酷い。最近は暇さえあれば調べものをしているし、そもそもあまり眠れていないのだろう。今だって眠りながら魘されていたし。
まあ当然といえば当然である。本人は学生時代から隠していたつもりのようだし、小エビも現在に至るまで全く気付いている気配がなかったが——この男の小エビに向けていた矢印の大きさは、そりゃあもう昔から特大で分かりやすかったのだ。そんな大事な子があんな状況になっているなんて、フロイドの立場ならば気が気でないに決まっている。仲の良かった後輩がこんな仕打ちを受けていると知って、ついでに先ほどあった出来事を聞いて、チャドですら現在進行形で割とかなり怒り心頭なのだから。
「さっきの話聞いたとき、お前が頭に血上って屋敷に突っ込んで行かなかったの正直意外だったわ」
「……別に。状況から考えたらこれが最善だっただけ」
「案外現実的な」
「当たり前じゃん。今この状態でオレが現実見なくなったら色々終わりじゃね」
「……まあ、確かに」
フロイドは資料をあれこれ流し見しながら返した。それからややあって、「今さあ」と唐突に口を開く。
「夢見たんだよね」
「え。夢?」
「学生ン頃小エビちゃんがさあ、アザラシちゃん守るために窓から飛び降りたときの夢」
「あー……そういやそんな事件あったね」
「ウン」
フロイドは置かれていた資料を手に取った。笑顔で映るロマンの写真を一瞥すると、放り投げるようにしてテーブルに戻す。
「オレ、小エビちゃんが予測出来ない行動すんの大好きなんだあ。おもしれーし、見てて飽きないんだもん。……でも、危ない目に遭うのはヤだ。泣いてんの見んのも」
昔からそうだ、とフロイドは夢を思い返して改めて思う。あの小エビはいつも、こうと決めたらとにかく無鉄砲で頑固で、周りが止めても聞きやしない。挙句誰かを頼ることが苦手で、大事な何かを守るためなら自分を顧みずに無茶ばかりするのだ。自分だって物凄く怖いくせに。
「本当は今すぐあの屋敷から攫っちゃいたいの。放っといたらすぐ無茶すんだもん。今だって——アイツに何されてんのか、考えただけで暴れたくなるし」
躾直しが必要だね——ねっとりした声を思い返して、フロイドは歯軋りをしながらフーッと息を吐いた。やめろ、その子に手を出すな。これ以上傷付けるな。握られた拳が明確に震える。
「……だけどさあ、今のままじゃ小エビちゃん、多分それやっても喜ばないじゃん。それどころか下手したら自分だけ助かったコト責めて、アザラシちゃん守るために、また自分からアイツのトコ戻っちゃうかもしんねーし」
「……」
チャドは冷蔵庫から勝手にプリンを取り出して、それをフロイドの横に置いた。ジェイドが昨日意気揚々と仕舞っていた気がするが——名前を書いていないのが悪い。そう思いながらよっこいせと隣に腰掛けると、「……だからグリム探すんでしょ」と言う。
「……ウン」
「乗りかかった船だし? ていうか調べれば調べるほど俺もその社長に反吐が出るし? 最後まで見届けてやるからさ、さっさと俺らでグリム見つけて、ユウちゃんのこと攫ってよ」
べりべりとプリンの蓋を剥がしていく。それをテーブルに置きながら、チャドは続けた。
「んで全部上手くいった暁には、ハッピーエンドに貢献した俺に浴びるほど高級スイーツ奢って」
「……いーけど」
「やった。俺、ユウちゃんと昔大人になったら行きたいねーって話してたスイーツの店があんだよね」
「は? 待って何それデートじゃん。やっぱナシ、オレが行くし」
「日和って未だに告白も出来てねー奴が何か言ってる〜」
「うっせ。絞められてーの」
フロイドは隣でプリンを食べる男を、
「今思ったけどさあ。ムカつくポイントしか無いと思ってたけど、あのロマンにもひとつだけ感謝できるとこあるわ」
「ア? 無いだろ」
「えー? あるって。ほら、」
チャドはスプーンを宙で揺らめかせながら、悪い顔で笑った。
「フロイドのこと、ヴィランから
「…………、」
フロイドはぽかんとして目を瞬いた。それからしばらくして、顔を逸らして肩を竦める。おもむろにポケットの中の魔法石を取り出すと、じっと眺め。ややあって「……あは。そうかもねえ」と静かに嗤った。
「マア、おとぎばなしに出てくる王子サマみたいにお行儀良くするつもりなんて微塵もねーけど」
フロイドはスマートフォンをタップして、一枚の写真を表示した。学生時代、二人でマレルナの花畑を見に行ったときの写真だ。光る花々に囲まれて笑顔で映る、笑顔のユウの写真。フロイドは感情の削ぎ落ちた顔をして、低い声で言った。
「——どこまでだって追い回して、生きてるコト後悔させてやるよ」
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