煩悩しかない
〝夢〟というものは不思議なものである。
なぜ見るのか、どのような仕組みなのか。そのメカニズムについて、解明されていない謎は科学が進んだ現代でも未だに多くあり、未解明な部分が多い……らしい。
とはいえ、少なからず各々の深層心理や情動が深く関わっていることには違いない。願望だったり、やってみたいことだったり。毎回ではないとはいえ普段から強く思っていることに関連した内容が夢に出てきたことは、誰にだって一度は覚えがあるはずである。
それは人魚であるフロイドもそうだった。あれやりたいなーとか、あれやったらどうなるんだろうとか。内心思っていたことや考えていたことが夢に出てきたことは、今までの人生でもちろん経験がある。——その内容が他人に話せるものであるかは別として。
「ねえ小エビちゃん」
「はい」
「これさあ、夢じゃねーよな?」
「夢じゃないと思います。ほっぺ抓ってみたら痛かったし……」
「……だよねえ」
フロイドはガシガシと後頭部を掻いた。隣に立っている愛おしい少女をちらりと見てから、彼女のその不安げな瞳が頭上のある一点に向けられているのを見て、つられるように改めてそちらを見上げる。
【昨日見た夢の内容を再現しないと出られない部屋】
そこには大きな横長の看板が掲げられていた。ともすれば真夏の校庭に飾られる、運動会のスローガンが書かれたベニヤ板みたいだ。見知らぬこの部屋自体はまるでモデルルームかホテルの一室のようだというのに、キングサイズのベッドが一床ある向かい側の壁、大きな薄型テレビの上に掲げられているこの板だけが明らかに異質で場違いである。
フロイドはげんなりした顔をした。何度読み返しても意味不明なこの文章を改めて睨み付けてから、何度目か分からない溜息を吐く。
「…………。…………いや、マジでナニコレぇ」
「さあ……」と、不安げに返事をしたのは監督生だ。「誰かのいたずらでしょうか」
「ハア〜? えー、意味分かんね。小エビちゃん、これやったヤツになんか心当たりある?」
「無いです。……その、いつも心当たり無くてもトラブルに巻き込まれてるので、ちょっと自信はないんですけど……」
「あ、トラブルメーカーの自覚あんだ?」
「ゔ。も、もしかしてそうかなって最近ちょっと思って。それでそれをこの間エースに言ったら、『は? 今更気付いたわけ?』って呆れた顔されて……」
「んはは」
成長したじゃーん。フロイドはそう言いながら小エビを引き寄せ、腕にちいちゃな痩躯を閉じ込めながらそのつむじを見下ろした。
流石はこの学園きってのトラブルメーカー。色々と場数を踏んでいるからか、愛しいつがいは今こうして見知らぬ場所に閉じ込められてもパニックにならず、案外落ち着いているようだった。それを確かめることができたので、ひとまず良かったとフロイドは内心考える。
だがしかし。どこの馬の骨とも知れない誰かの明確な悪意によって、今の彼女が少なからず不安そうな表情をしているのは明らかだった。それに今ここにいるのが二人だから良かったものの、万が一小エビがこの部屋に一人で閉じ込められていたら、とか、他の雄と二人きりでここに閉じ込められていたら……とか。フロイドからしたら、そんなことを考えただけでゾッとする。
「……」
フロイドは静かに考えるような素振りをした。それからややあって、打って変わって「ねえ小エビちゃん」と間延びした声で口を開く。きょとんとした顔で彼の方を向いたつがいにグーッと体重を掛けながら、ニッコリと笑みを浮かべた。
「何かおもしれー話してよ。オレ飽きちゃったぁ」
「へ……? い、今ですか!?」
「あは、今でぇす♡」
小エビの頭頂部にぐりぐりと頭を埋めると、彼女は豊満なまつげを携えた両目をぱち! と見開き、分かりやすく慌てたような素振りであれこれ話題を探し始めた。そんな己のつがいを見て、フロイドはフと小さく口角を上げる。スゲー慌ててんじゃんウケる。
彼はそんなことを思いながら彼女の頭を撫でつつ、その傍ら改めて頭上を見た。鮮やかな前髪の下、ヘテロクロミアを睨み付けるようにギラリと光らせる。
(——出られない部屋、ねえ。)
改めて看板の文字を読む。
(誰の仕業か知らねーけど、取り敢えずこれやったヤツは後で絶対絞める。)
当然だ。ちょっかいを出した奴は誰であろうと一切許すつもりはないし。というかそもそも、今だって現在進行形で貴重なデートの時間を邪魔されている訳だし。どう考えたって絞める以外の選択肢など端から存在しない。
と、腕の中でもぞもぞと小エビが動いた。フロイドは下を見て、「何話すか決まったぁ?」と笑う。
「ま、まだです」
「えー、ほら早く〜。オレが楽しめるやつね」
「えええ……というかあの、先輩。顎刺さってます刺さってます」
「刺してんの♡」
「ぁえ、小エビ縮んじゃう……」
「ふは。これ以上ちっちゃくなんの? そしたらオレのポケットに入れたげる。一緒にお出かけしよーねぇ」
「……フロイド先輩うっかり落としそうじゃないですか」
「んえ? んなことねーって。オレの信用無さすぎじゃね?」
そういう問題ではないだろう。ここにアズールやエースがいたらそう突っ込みを入れただろうが、あいにく今は二人きり。突っ込む者は不在であった。
——閑話休題。
さて。そもそも、どうしてここに二人がいるのかというと。ことの発端は、今から十数分ほど前まで遡る。
というのも、いつものように放課後フロイドが小エビと合流してオンボロ寮へと向かおうとしていたときのことだった。二人が歩いていた廊下の壁が突然光ったかと思えば——次の瞬間、どういう訳か二人は、見知らぬこの部屋に立っていたのだ。
『え……? あれ?』
『は? ここどこ』
本当に一瞬の出来事だった。二人は互いの顔を見合わせて、『えっ、どういうこと?』と困惑し。そしてあれこれ話しているうちに、現在に至る。
「何かあったぁ? 脱出に使えそうな手がかり」
「うーん、無さそうです。先輩は?」
「無いねえ。こっちのタンスも開かねーし」
「ですよね……」
さて。そういうわけで小エビが一生懸命考えた〝おもしれー話〟についてフロイドが一通り聞いたあと。二人は室内を見て回り、何か脱出の手がかりがないかについて話し合った。がしかし、分かったことといえば部屋にはしっかり鍵が掛かっていて、互いのポケットに入っていたスマートフォンも圏外だということだとか、置かれていた大きなタンスを開けてみても、何も入ってはいないということだとか、そのくらいで。……つまるところあまり有益な情報はなく、分かったことと言えば『どうやら本当にこの不思議な部屋に閉じ込められてしまったらしい』という事実のみらしい。
「あれ。もしかして私たち、詰んでます、?」
「んー、そうかも」
「そんな……」
フロイドは戸惑ったようにこちらを見た監督生の横で、鼻で溜息を吐いた。それからややあって「誰かに指図されんのは癪だけどぉ……」と口を開く。
「やっぱホントに、ここに書いてある通りのことをやるしかないっぽいかも」
「ここに書いてある通りのこと」
「そ。ホントは力づくで出ようかと思ったけどさあ――」
フロイドは一度言葉を切ると、監督生から少し離れて壁の前に立った。小エビちゃん耳塞いで。そう言ってからマジカルペンを構えると、容赦なく攻撃魔法を打ち込む。
「!」
塞いだ耳越しに聞こえた突然の爆音に、少女の薄い肩が跳ねる。物凄い音がした。さぞ派手に穴が開いてしまったのかしらと思いきや……けれど直後目を丸める。
「え、」
呆けた声の隣で、フロイドが舌打ちをした。
「ほらね」
というのも。はたして壁には、どういう訳か傷一つ付いていなかった。まるで新品同様だ。あれほどけたましい音を立てたというのに、そこにはペンキを塗り立ての新築の壁みたいにつるりとしたままの壁が広がっていたのである。
唖然としている監督生の横で、フロイドが肩を竦めた。
「やっぱビクともしないんだよねえ。魔法、さっきからいくら打ち込んでも無効化されるし」
「ほんとだ……というか、『さっきから』……? いつの間にこんな魔法打ち込んでいたんですか?」
「んえ? ああ、さっきまでは防音魔法使ってたかんね。小エビちゃん、ビクッてすぎて心臓止まっちゃったら困るし」
「そ、そんなことじゃ止まりませんっ」
「あは。ホラー映画でちょっと脅かされただけで飛び上がっちゃう小エビが何か言ってる〜」
マア良いケド。軽く笑う彼に対し平べったい目をしてから、監督生は改めて壁を一瞥した。
どうやらフロイドの言うとおり、この壁は全く魔法による攻撃を通さないらしい。改めてまじまじ観察してみても、破壊どころかヒビの一つすら入っていない。
「……」
それならば。
監督生は静かに考え込んでから、よしと一人頷いた。何かを意気込むような顔をしているそんな彼女を見てフロイドが「どうしたの、小エビちゃん」と声を掛けると、ぱっと顔を上げる。
「あ、その……魔法が無理なら、気合いでどうにかいけないかなーと思って」
「んあ? 気合い?」
「はい」
監督生は難しい顔で頷いて、ちいちゃな拳をシュッシュッと壁に向けて打ち込む素振りをした。フロイドはそれを見て片眉を上げる。まさかとは思うがこの娘、四方に聳え立つコンクリートの壁を気合いでどうにか破壊しようと考えているらしい。それも普段ジャムの蓋を開けることすらままならない、頼りないこの細腕で。彼女はややあって、気合いに満ちた表情で「よし」と呟いた。フロイドを見上げて元気にサムズアップをする。「なんかいけそうな気がしてきました……!」
「いや待てって。いけねーから。どっから来んのぉその自信……」
フロイドは呆れた顔をしながら、構えの姿勢を取る監督生の腕を片手であっさり掴む。小エビには悪いが、この非力な娘の力では到底『今日はいける』感じではない。平べったい目をして、大きく溜息を吐いて。赤子に言い聞かせるように、「全部の指の骨粉砕骨折したらヤでしょ」と言う。
「そ、それは確かにやだ……」
「でしょー? ならダメ。つーか、物理攻撃ならそもそもオレもさっき試したし。蹴り入れてみてもダメだったよ」
「えっ。そうなんですか」
「ウン」
「そっか……じゃあ無理か……」
「だから最初から言ってんじゃん。小エビちゃんさあ、何で定期的にそんな武闘派エビ目指そうとしてんの??」
マアそもそも、監督生の「気合いでなんとか」発言は、別に今に始まったことではない。例えば壊滅的に下手くそな料理に対してだとか、ちょっと信じられないくらいに方向音痴なことに対してだとか。この小エビは何でもかんでも、行き詰まったら取り敢えず気合いで何とかしてみようとする節があるのである。しかし残念ながら、それで良い方向に好転したことはあまりないのだが。
フロイドは呆れたような顔をしてから、頭上の文字を見上げた。やはり他に手立てはなさそうだ。となれば……よく分からないが、このお題の指示に従うしかない。夢の再現とやらをやるしかない。
「んで?」という訳でフロイドは、切り替えるような声色で話を切り出した。「ねえ、小エビちゃんが昨日見た夢はどんななのぉ?」
「へ。あ……やっぱりやるんですか」
「ウン。だーって、ここにずっといてもつまんねーじゃん。最悪成功しなくても、流石にずっと音信不通だったら流石にジェイドとかアズールが気付くだろうし。取り敢えず聞かせてよ。ほら、どんな夢?」
「! ……そ、それは、……」
「ウン、それはぁ?」
「…………。…………ぅ、その……っ、あ! ふ、フロイド先輩はどうですか!」
「……んえ。オレ?」
フロイドはきょとんとして小エビを見た。どうやら夢について、小エビはあまり言いたくないらしい。あからさまな誤魔化しと共に自分に話を振ってきた監督生を緩く見てから、フロイドはガシガシと後頭部を掻いた。
「アー、」考えるように斜め上を見て、それから考えるようにして言う。「オレは——」
……ところで。これはナイトレイブンカレッジに通っている者なら恐らくほとんど誰もが知っていることだろうが、フロイド・リーチは基本的に、他人に遠慮なぞ一切しない男である。
だって、やりたいことは我慢したくないし。つまんないことなんてやりたくないし。え、逆に何でオレが他のヤツの為に自重しなきゃいけねーの? 何で気とか遣わなきゃいけねーの?
例えば道徳の授業で先生から思いやりについて習った時だって。学園長から集会で他の生徒たちと手を取り合いましょうねとかナントカ、長ったらしくてありがたーいお話があった時だって。そんなことをバカ正直に言えるくらいには、彼は図太い神経をしているタイプの男だった。そもそも生まれてからこのかた深海で苛烈な生存競争を勝ち抜いてきたのも、あの ナイトレイブンカレッジに二年も在籍しているのも、どれもこれも伊達じゃないのだ。自分が言いたいときに言いたいことを言うし、それで周囲が困ろうが嫌な気持ちになろうが知ったこっちゃないし。彼にとって他人に対する態度とはそういうもので、そういう生き方が普通なのである。——そう、いつもなら。
だがしかし、今回はいつもとは違った。
何せ、今ここにいるのはつがいの小エビなのだ。世界でいちばん大好きなコ。未だに手を繋ぐたびにえへ……と言いながら真っ赤になっちゃうような、自分と出会うまで穢れなんてものとはとんと無縁だった女のコ。
そりゃあ、彼女がフロイドの夢に出てくるくらい日常茶飯事だ。常に小エビのことしか考えていないから、当然夢の中の解像度もとんでもなく高い。
そしてそれはたまたま、昨晩も同じだった。フロイドは思う。夢でも小エビは、それはそれは物凄く可愛かったと。オレの小エビちゃんの解像度のほうが高くね? と。マアとにかく、そこまでは良かったのだ、そこまでは。……ただ一つ問題なのは、昨晩のその夢の、内容。
「…………」
フロイドは改めて夢の内容を思い浮かべた。ちらりと無言で自分を見上げる小エビを見てから、再び逸らして斜め上の虚無を見る。
オレの夢。
オレの……………。
……………………。
……、…………いや、これ 流石に言えなくね?
静寂の中、フロイドはゆっくりと腕を下ろした。ちらりと目を向けると、ばちんと目が合う。
「……――」
黒曜の瞳とヘテロクロミアが交錯した。そのまま何秒か見つめ合い続けて、見つめ合い続けて。ややあってようやく、彼はニコーッと笑う。
「……あは。忘れちゃった♡」
「へ?」
「オレさあ、全然思い出せないの。だからぁ、代わりに小エビちゃんが先に教えて?」
「え、いや……えっ? ぜ、絶対嘘じゃないですか!」
「えー? ホントだって。オレぇ、小エビちゃんの知りたいなァ。もしかしたら小エビちゃんのヤツ聞いてるうちに思い出すかもしれねーし」
掲げられた文章を読む限り、ここにいる全員の夢を再現しなければならないと書かれている訳ではない。であれば、再現するのは一人分の夢だけで良いかもしれないし。ワンチャンなんとかなるかもしれないし。
フロイドはそんなことを思って、監督生を覗き込んだ。ダメ? 優しく問いかけると、監督生はわかりやすく狼狽えたような顔をする。
「オレが思い出せないんだから、小エビちゃんが素直に言った方が早くない?」
「それは……そうかも、ですけど」
「しかも小エビちゃんさあ、この間買ったチョコ蒸しパン一緒に食べながらNetflixで映画観んの、今日スゲー楽しみにしてたじゃん。あれ賞味期限今日までだったから、早くここから出て食べないと腐っちゃうよぉ?」
「ぇあ……」
このエビは案外、流されやすい性格をしている。おまけにフロイドの顔がどうしようもなく好きなのだ。言葉巧みな彼の言葉を聞いているうち、少女はみるみるどうしよう! と焦ったような顔をし始める。なんとも分かりやすいものである。フロイドはそんな彼女の様子を見て、「あは」と笑った。口角を上げる。
「はい、きーまり。じゃあ最初は小エビちゃんね——」
と、その時だった。
フロイドはすっと視線を鋭くすると、反射的に小エビを庇うように立って背後を見る。なんだ。今までの表情から一転、研ぎ澄ますような瞳で周囲を伺う。
「な、何の音ですか……?」
「分かんない。……あの中から聞こえた気がする」
会話をしながら、彼は正面を顎で指す。
そこにはタンスが置かれていた。先程室内を調べたときに全く開く気配のなかった、小エビの胸のあたりの高さまであるタンスだ。その中から、ゴトンと何かが落ちたような鈍い音が聞こえたのだ。
フロイドはタンスに近づくと、じっとそれを見つめた。家具の持つ気配が少し変わった。そう思いながら取っ手に手をかけると、思い切り引く。
「え!?」
先に声を発したのは、開いたタンスを背後から覗き込んだ監督生だった。彼女は目を丸めると、それをしばらく覗き込んでからフロイドを見上げ。そして「これ、私の夢に出てきたものです!」と言う。
「は? マジ?」
「マジです」
フロイドは改めてタンスを見る。
先ほどまでとは打って変わって、簡単に開いたタンスの上から二番目の段。その中にはどういう訳か、トレーに乗せられたジュースが入っていた。――そう、ジュースが入っていたのだ。衣類を入れるはずの木製のそこに、何故かピンク色をしたストローが刺されたグラスが一つ。キンキンに冷えているのかグラスに僅かに汗をかきながら置かれたそれは、どう見ても場違いである。
「つーか、これ」
フロイドはよく分からないまま、取り敢えずグラスをトレーごとタンスから取り出した。そしてそれをベッドサイドのテーブルへと運びながら、少し首を傾げる。「なんかストローの形おかしくね?」
ストローは一本だと思っていたが、よく見ると二本のそれが絡みついているようだった。真ん中がハートの形になっていて、その上の飲み口の部分だけ左右それぞれの方向を向いている。
「ナニコレぇ。陸にはこんなストローがあんの?」
フロイドはよく分からなくて、じいっとそれを見て考え込んだ。けれどややあって、小エビがどうにも静かなことに気付く。フロイドはきょとんとして背後を見た。そして、ぱちくり目を丸める
「小エビちゃん?」
「!」
「どしたの、顔真っ赤だけど。体調悪い? どっか痛い?」
「ぁ、ちが、違い、ます」
監督生はぶんぶんと首を横に振った。困ったように視線をうろうろ彷徨わせる様子はあんまりにも不自然で、フロイドはどうしたんだろうかと考える。それから眼下のグラスを一瞥すると、ふと「そういえば」と思った。そういえばこれ、最近どっかで見たような……。
「あ、分かった。これ麓の町のカフェのやつ?」
「! し、知ってるんですか」
「知ってるっつーか、この間ジェイドが言ってた気がする。んー、アイツあの時なんて言ってたっけ」
フロイドは監督生と話しつつ過去を思い返す。
最近麓の町にできた、小洒落たカフェ。アズールの命によって市場調査に出掛けたジェイドから見せてもらった視察写真の中に、確かこのような風貌のストローがあった気がするのだ。あの日は気分が最悪だったのであまりきちんと聞いていなかったが、確か恋人用のメニューにあるとかなんとか言っていなかったか。そう、「恋人限定メニューを注文したときだけ飲むことができるメニューで、これを二人で分け合って飲むんだそうです」とか何とか……。
フロイドはそこまで言って、ふと言葉を止めた。
二人で飲む。この極力近づかなければ飲めなそうなストローで、恋人同士が。……そして己のつがいが、それに関する夢を見た。それはつまり。
「……」
フロイドはパチパチと目を瞬いた。そのまま小エビを見ると、彼女は下を向いて固まっている。普段は白くて小さな耳が、その存在を主張するかのようにじわじわと赤くなっていた。彼はそれをじいっと見てから、「ねえ小エビちゃん」と声をかける。
「!」
「これさあ、夢に見たの?」
「……そう、です」
「ふーん」
「テイクアウトもできるって、前に町に出掛けた時にエースたちとそういう話になって、それで覚えてて、」
「夢でこれ飲んだんだ?」
「……ぁ、その、えと、」
「オレと?」
「、」
淡々とした質問攻めに遭って、監督生の耳が益々赤くなった。彼女は困り果てたような顔をして視線を彷徨わせてから、ちらりとフロイドを見やる。はくり。唇を震わせ、何度か言いかけるように開閉して。それから観念したのか、ややあって小さくこくりと頷いた。そして、小さな声で言う。
「……当たり前じゃないですか。好きな人とじゃないと飲まないです」
「んえ」
「……」
フロイドは固まった。しばらく考え込んでから、は? と頭の中で呟く。は? え? なにこの小エビかわいすぎんだけど。
フロイドがフリーズしている間にも、室内には静寂が満ちていく。監督生は気まずくなったのか、そっと視線を逸らした。グラスのほうへ視線を向けていても、挙動不審なのは明らかだ。あんまりにも可愛らしくて、フロイドは暫くその様子を見てから、ややあってふは、と笑った。そうしてややあって、「小エビちゃん」と呼ぶ。
直後、彼はおずおず振り向いた監督生の痩躯を思いっきり抱きしめた。彼はそのままクルクル喉を鳴らしながら、少女の額にキスをする。満面の笑みを浮かべて、柔らかい声で言った。
「あは、オレもだーいすき」
――フロイド先輩と新しくできたカフェの恋人限定ドリンクをテイクアウトして、それを一緒に飲む。
監督生の夢の内容はどうやらこうだったらしい。
フロイドは頬を真っ赤に染めた監督生を至近距離で見つめる。何はともあれ、無事にお題を達成したのであった。
■
「……あれ、開かなくね」
「ほんとだ……」
ジュースを飲み終えたあと。二人はびくともしない扉の前で互いの顔を見合わせた。
完全に飲み干したというのに、今までと比べても何ら変化した感覚がないのだ。そもそもドアノブが回る気配もないし、押しても引いても全く音沙汰が無いし。監督生に夢の内容に間違いが無かったかと問うても、恐らく間違いないとのことらしい。ということは、他に原因があるのか。
——あれ。
フロイドは首を傾げる小エビを見下ろしながら、冷や汗が伝うのを感じた。
これはまさか、監督生一人の夢では駄目だということだろうか。看板には全員の夢を実現しなければならないと書いてあった訳ではない。だが一方で、片方の夢を実現すれば良いと書いてあった訳でもないのだ。つまりこれはそういうことなのだろうか。いや、まさかそんなワケ――……。
「!」
ごとん。
ふと、室内に鈍い音が響いた。
聞き覚えのある音だ。それも少し前。小エビの夢を実現しようと二人で決めた直後、彼女の夢の話について詳しく聞こうとしていたとき。ジュースの入ったグラスが出てきたとき。
「あ、フロイド先輩の夢に出てきた道具が出てきたんですかね」
監督生が音のしたであろう方を見た。
それを見れば思い出せるかも! 無邪気にそう言った小エビの横を通り抜けて、フロイドは背後のタンスの方へと向かう。上から二番目の棚、先ほどトレーが入っていた場所。そこに手を掛けると、ゆっくりと開けた。
「……、」
フロイドは一瞬中を真顔で見た。それから勢いよく閉めると、フーッと息を吐く。
「…………………………ウワ最悪」
本当に小さな声で呟いて、思わず天を仰いだ。マジで誰だよこれやってるヤツ。あとで絶対絞める。心の中で今まで以上に殺意を増大させる。
「あれ、何も入ってなかったんですか?」
「! アーウン、いや、入ってなくはねーんだけど」
「?」
「……」
フロイドは、追いかけて来たきょとんとしている小エビをじっと見た。そのまま何かを考え込むようにフリーズしてから、「……小エビちゃんさあ」と口を開く。
「はい」
「あのさ、オネガイがあんだけど」
「? 何ですか?」
「……」
フロイドは一度言葉を止めた。私にできることなら! もう恥ずかしかった自分の夢を知られたあとですっかり元気になっている監督生をじっと見つめてから、真面目な声で言った。
「……オレのコト殴ってくんねえ?」
「……、……はい!?」
フロイドの開けたタンス。
その中には、それはまあ鮮やかなピンク色の——大人のおもちゃが入っていた。
なぜ見るのか、どのような仕組みなのか。そのメカニズムについて、解明されていない謎は科学が進んだ現代でも未だに多くあり、未解明な部分が多い……らしい。
とはいえ、少なからず各々の深層心理や情動が深く関わっていることには違いない。願望だったり、やってみたいことだったり。毎回ではないとはいえ普段から強く思っていることに関連した内容が夢に出てきたことは、誰にだって一度は覚えがあるはずである。
それは人魚であるフロイドもそうだった。あれやりたいなーとか、あれやったらどうなるんだろうとか。内心思っていたことや考えていたことが夢に出てきたことは、今までの人生でもちろん経験がある。——その内容が他人に話せるものであるかは別として。
「ねえ小エビちゃん」
「はい」
「これさあ、夢じゃねーよな?」
「夢じゃないと思います。ほっぺ抓ってみたら痛かったし……」
「……だよねえ」
フロイドはガシガシと後頭部を掻いた。隣に立っている愛おしい少女をちらりと見てから、彼女のその不安げな瞳が頭上のある一点に向けられているのを見て、つられるように改めてそちらを見上げる。
【昨日見た夢の内容を再現しないと出られない部屋】
そこには大きな横長の看板が掲げられていた。ともすれば真夏の校庭に飾られる、運動会のスローガンが書かれたベニヤ板みたいだ。見知らぬこの部屋自体はまるでモデルルームかホテルの一室のようだというのに、キングサイズのベッドが一床ある向かい側の壁、大きな薄型テレビの上に掲げられているこの板だけが明らかに異質で場違いである。
フロイドはげんなりした顔をした。何度読み返しても意味不明なこの文章を改めて睨み付けてから、何度目か分からない溜息を吐く。
「…………。…………いや、マジでナニコレぇ」
「さあ……」と、不安げに返事をしたのは監督生だ。「誰かのいたずらでしょうか」
「ハア〜? えー、意味分かんね。小エビちゃん、これやったヤツになんか心当たりある?」
「無いです。……その、いつも心当たり無くてもトラブルに巻き込まれてるので、ちょっと自信はないんですけど……」
「あ、トラブルメーカーの自覚あんだ?」
「ゔ。も、もしかしてそうかなって最近ちょっと思って。それでそれをこの間エースに言ったら、『は? 今更気付いたわけ?』って呆れた顔されて……」
「んはは」
成長したじゃーん。フロイドはそう言いながら小エビを引き寄せ、腕にちいちゃな痩躯を閉じ込めながらそのつむじを見下ろした。
流石はこの学園きってのトラブルメーカー。色々と場数を踏んでいるからか、愛しいつがいは今こうして見知らぬ場所に閉じ込められてもパニックにならず、案外落ち着いているようだった。それを確かめることができたので、ひとまず良かったとフロイドは内心考える。
だがしかし。どこの馬の骨とも知れない誰かの明確な悪意によって、今の彼女が少なからず不安そうな表情をしているのは明らかだった。それに今ここにいるのが二人だから良かったものの、万が一小エビがこの部屋に一人で閉じ込められていたら、とか、他の雄と二人きりでここに閉じ込められていたら……とか。フロイドからしたら、そんなことを考えただけでゾッとする。
「……」
フロイドは静かに考えるような素振りをした。それからややあって、打って変わって「ねえ小エビちゃん」と間延びした声で口を開く。きょとんとした顔で彼の方を向いたつがいにグーッと体重を掛けながら、ニッコリと笑みを浮かべた。
「何かおもしれー話してよ。オレ飽きちゃったぁ」
「へ……? い、今ですか!?」
「あは、今でぇす♡」
小エビの頭頂部にぐりぐりと頭を埋めると、彼女は豊満なまつげを携えた両目をぱち! と見開き、分かりやすく慌てたような素振りであれこれ話題を探し始めた。そんな己のつがいを見て、フロイドはフと小さく口角を上げる。スゲー慌ててんじゃんウケる。
彼はそんなことを思いながら彼女の頭を撫でつつ、その傍ら改めて頭上を見た。鮮やかな前髪の下、ヘテロクロミアを睨み付けるようにギラリと光らせる。
(——出られない部屋、ねえ。)
改めて看板の文字を読む。
(誰の仕業か知らねーけど、取り敢えずこれやったヤツは後で絶対絞める。)
当然だ。ちょっかいを出した奴は誰であろうと一切許すつもりはないし。というかそもそも、今だって現在進行形で貴重なデートの時間を邪魔されている訳だし。どう考えたって絞める以外の選択肢など端から存在しない。
と、腕の中でもぞもぞと小エビが動いた。フロイドは下を見て、「何話すか決まったぁ?」と笑う。
「ま、まだです」
「えー、ほら早く〜。オレが楽しめるやつね」
「えええ……というかあの、先輩。顎刺さってます刺さってます」
「刺してんの♡」
「ぁえ、小エビ縮んじゃう……」
「ふは。これ以上ちっちゃくなんの? そしたらオレのポケットに入れたげる。一緒にお出かけしよーねぇ」
「……フロイド先輩うっかり落としそうじゃないですか」
「んえ? んなことねーって。オレの信用無さすぎじゃね?」
そういう問題ではないだろう。ここにアズールやエースがいたらそう突っ込みを入れただろうが、あいにく今は二人きり。突っ込む者は不在であった。
——閑話休題。
さて。そもそも、どうしてここに二人がいるのかというと。ことの発端は、今から十数分ほど前まで遡る。
というのも、いつものように放課後フロイドが小エビと合流してオンボロ寮へと向かおうとしていたときのことだった。二人が歩いていた廊下の壁が突然光ったかと思えば——次の瞬間、どういう訳か二人は、見知らぬこの部屋に立っていたのだ。
『え……? あれ?』
『は? ここどこ』
本当に一瞬の出来事だった。二人は互いの顔を見合わせて、『えっ、どういうこと?』と困惑し。そしてあれこれ話しているうちに、現在に至る。
「何かあったぁ? 脱出に使えそうな手がかり」
「うーん、無さそうです。先輩は?」
「無いねえ。こっちのタンスも開かねーし」
「ですよね……」
さて。そういうわけで小エビが一生懸命考えた〝おもしれー話〟についてフロイドが一通り聞いたあと。二人は室内を見て回り、何か脱出の手がかりがないかについて話し合った。がしかし、分かったことといえば部屋にはしっかり鍵が掛かっていて、互いのポケットに入っていたスマートフォンも圏外だということだとか、置かれていた大きなタンスを開けてみても、何も入ってはいないということだとか、そのくらいで。……つまるところあまり有益な情報はなく、分かったことと言えば『どうやら本当にこの不思議な部屋に閉じ込められてしまったらしい』という事実のみらしい。
「あれ。もしかして私たち、詰んでます、?」
「んー、そうかも」
「そんな……」
フロイドは戸惑ったようにこちらを見た監督生の横で、鼻で溜息を吐いた。それからややあって「誰かに指図されんのは癪だけどぉ……」と口を開く。
「やっぱホントに、ここに書いてある通りのことをやるしかないっぽいかも」
「ここに書いてある通りのこと」
「そ。ホントは力づくで出ようかと思ったけどさあ――」
フロイドは一度言葉を切ると、監督生から少し離れて壁の前に立った。小エビちゃん耳塞いで。そう言ってからマジカルペンを構えると、容赦なく攻撃魔法を打ち込む。
「!」
塞いだ耳越しに聞こえた突然の爆音に、少女の薄い肩が跳ねる。物凄い音がした。さぞ派手に穴が開いてしまったのかしらと思いきや……けれど直後目を丸める。
「え、」
呆けた声の隣で、フロイドが舌打ちをした。
「ほらね」
というのも。はたして壁には、どういう訳か傷一つ付いていなかった。まるで新品同様だ。あれほどけたましい音を立てたというのに、そこにはペンキを塗り立ての新築の壁みたいにつるりとしたままの壁が広がっていたのである。
唖然としている監督生の横で、フロイドが肩を竦めた。
「やっぱビクともしないんだよねえ。魔法、さっきからいくら打ち込んでも無効化されるし」
「ほんとだ……というか、『さっきから』……? いつの間にこんな魔法打ち込んでいたんですか?」
「んえ? ああ、さっきまでは防音魔法使ってたかんね。小エビちゃん、ビクッてすぎて心臓止まっちゃったら困るし」
「そ、そんなことじゃ止まりませんっ」
「あは。ホラー映画でちょっと脅かされただけで飛び上がっちゃう小エビが何か言ってる〜」
マア良いケド。軽く笑う彼に対し平べったい目をしてから、監督生は改めて壁を一瞥した。
どうやらフロイドの言うとおり、この壁は全く魔法による攻撃を通さないらしい。改めてまじまじ観察してみても、破壊どころかヒビの一つすら入っていない。
「……」
それならば。
監督生は静かに考え込んでから、よしと一人頷いた。何かを意気込むような顔をしているそんな彼女を見てフロイドが「どうしたの、小エビちゃん」と声を掛けると、ぱっと顔を上げる。
「あ、その……魔法が無理なら、気合いでどうにかいけないかなーと思って」
「んあ? 気合い?」
「はい」
監督生は難しい顔で頷いて、ちいちゃな拳をシュッシュッと壁に向けて打ち込む素振りをした。フロイドはそれを見て片眉を上げる。まさかとは思うがこの娘、四方に聳え立つコンクリートの壁を気合いでどうにか破壊しようと考えているらしい。それも普段ジャムの蓋を開けることすらままならない、頼りないこの細腕で。彼女はややあって、気合いに満ちた表情で「よし」と呟いた。フロイドを見上げて元気にサムズアップをする。「なんかいけそうな気がしてきました……!」
「いや待てって。いけねーから。どっから来んのぉその自信……」
フロイドは呆れた顔をしながら、構えの姿勢を取る監督生の腕を片手であっさり掴む。小エビには悪いが、この非力な娘の力では到底『今日はいける』感じではない。平べったい目をして、大きく溜息を吐いて。赤子に言い聞かせるように、「全部の指の骨粉砕骨折したらヤでしょ」と言う。
「そ、それは確かにやだ……」
「でしょー? ならダメ。つーか、物理攻撃ならそもそもオレもさっき試したし。蹴り入れてみてもダメだったよ」
「えっ。そうなんですか」
「ウン」
「そっか……じゃあ無理か……」
「だから最初から言ってんじゃん。小エビちゃんさあ、何で定期的にそんな武闘派エビ目指そうとしてんの??」
マアそもそも、監督生の「気合いでなんとか」発言は、別に今に始まったことではない。例えば壊滅的に下手くそな料理に対してだとか、ちょっと信じられないくらいに方向音痴なことに対してだとか。この小エビは何でもかんでも、行き詰まったら取り敢えず気合いで何とかしてみようとする節があるのである。しかし残念ながら、それで良い方向に好転したことはあまりないのだが。
フロイドは呆れたような顔をしてから、頭上の文字を見上げた。やはり他に手立てはなさそうだ。となれば……よく分からないが、このお題の指示に従うしかない。夢の再現とやらをやるしかない。
「んで?」という訳でフロイドは、切り替えるような声色で話を切り出した。「ねえ、小エビちゃんが昨日見た夢はどんななのぉ?」
「へ。あ……やっぱりやるんですか」
「ウン。だーって、ここにずっといてもつまんねーじゃん。最悪成功しなくても、流石にずっと音信不通だったら流石にジェイドとかアズールが気付くだろうし。取り敢えず聞かせてよ。ほら、どんな夢?」
「! ……そ、それは、……」
「ウン、それはぁ?」
「…………。…………ぅ、その……っ、あ! ふ、フロイド先輩はどうですか!」
「……んえ。オレ?」
フロイドはきょとんとして小エビを見た。どうやら夢について、小エビはあまり言いたくないらしい。あからさまな誤魔化しと共に自分に話を振ってきた監督生を緩く見てから、フロイドはガシガシと後頭部を掻いた。
「アー、」考えるように斜め上を見て、それから考えるようにして言う。「オレは——」
……ところで。これはナイトレイブンカレッジに通っている者なら恐らくほとんど誰もが知っていることだろうが、フロイド・リーチは基本的に、他人に遠慮なぞ一切しない男である。
だって、やりたいことは我慢したくないし。つまんないことなんてやりたくないし。え、逆に何でオレが他のヤツの為に自重しなきゃいけねーの? 何で気とか遣わなきゃいけねーの?
例えば道徳の授業で先生から思いやりについて習った時だって。学園長から集会で他の生徒たちと手を取り合いましょうねとかナントカ、長ったらしくてありがたーいお話があった時だって。そんなことをバカ正直に言えるくらいには、彼は図太い神経をしているタイプの男だった。そもそも生まれてからこのかた深海で苛烈な生存競争を勝ち抜いてきたのも、
だがしかし、今回はいつもとは違った。
何せ、今ここにいるのはつがいの小エビなのだ。世界でいちばん大好きなコ。未だに手を繋ぐたびにえへ……と言いながら真っ赤になっちゃうような、自分と出会うまで穢れなんてものとはとんと無縁だった女のコ。
そりゃあ、彼女がフロイドの夢に出てくるくらい日常茶飯事だ。常に小エビのことしか考えていないから、当然夢の中の解像度もとんでもなく高い。
そしてそれはたまたま、昨晩も同じだった。フロイドは思う。夢でも小エビは、それはそれは物凄く可愛かったと。オレの小エビちゃんの解像度のほうが高くね? と。マアとにかく、そこまでは良かったのだ、そこまでは。……ただ一つ問題なのは、昨晩のその夢の、内容。
「…………」
フロイドは改めて夢の内容を思い浮かべた。ちらりと無言で自分を見上げる小エビを見てから、再び逸らして斜め上の虚無を見る。
オレの夢。
オレの……………。
……………………。
……、…………いや、
静寂の中、フロイドはゆっくりと腕を下ろした。ちらりと目を向けると、ばちんと目が合う。
「……――」
黒曜の瞳とヘテロクロミアが交錯した。そのまま何秒か見つめ合い続けて、見つめ合い続けて。ややあってようやく、彼はニコーッと笑う。
「……あは。忘れちゃった♡」
「へ?」
「オレさあ、全然思い出せないの。だからぁ、代わりに小エビちゃんが先に教えて?」
「え、いや……えっ? ぜ、絶対嘘じゃないですか!」
「えー? ホントだって。オレぇ、小エビちゃんの知りたいなァ。もしかしたら小エビちゃんのヤツ聞いてるうちに思い出すかもしれねーし」
掲げられた文章を読む限り、ここにいる全員の夢を再現しなければならないと書かれている訳ではない。であれば、再現するのは一人分の夢だけで良いかもしれないし。ワンチャンなんとかなるかもしれないし。
フロイドはそんなことを思って、監督生を覗き込んだ。ダメ? 優しく問いかけると、監督生はわかりやすく狼狽えたような顔をする。
「オレが思い出せないんだから、小エビちゃんが素直に言った方が早くない?」
「それは……そうかも、ですけど」
「しかも小エビちゃんさあ、この間買ったチョコ蒸しパン一緒に食べながらNetflixで映画観んの、今日スゲー楽しみにしてたじゃん。あれ賞味期限今日までだったから、早くここから出て食べないと腐っちゃうよぉ?」
「ぇあ……」
このエビは案外、流されやすい性格をしている。おまけにフロイドの顔がどうしようもなく好きなのだ。言葉巧みな彼の言葉を聞いているうち、少女はみるみるどうしよう! と焦ったような顔をし始める。なんとも分かりやすいものである。フロイドはそんな彼女の様子を見て、「あは」と笑った。口角を上げる。
「はい、きーまり。じゃあ最初は小エビちゃんね——」
と、その時だった。
フロイドはすっと視線を鋭くすると、反射的に小エビを庇うように立って背後を見る。なんだ。今までの表情から一転、研ぎ澄ますような瞳で周囲を伺う。
「な、何の音ですか……?」
「分かんない。……あの中から聞こえた気がする」
会話をしながら、彼は正面を顎で指す。
そこにはタンスが置かれていた。先程室内を調べたときに全く開く気配のなかった、小エビの胸のあたりの高さまであるタンスだ。その中から、ゴトンと何かが落ちたような鈍い音が聞こえたのだ。
フロイドはタンスに近づくと、じっとそれを見つめた。家具の持つ気配が少し変わった。そう思いながら取っ手に手をかけると、思い切り引く。
「え!?」
先に声を発したのは、開いたタンスを背後から覗き込んだ監督生だった。彼女は目を丸めると、それをしばらく覗き込んでからフロイドを見上げ。そして「これ、私の夢に出てきたものです!」と言う。
「は? マジ?」
「マジです」
フロイドは改めてタンスを見る。
先ほどまでとは打って変わって、簡単に開いたタンスの上から二番目の段。その中にはどういう訳か、トレーに乗せられたジュースが入っていた。――そう、ジュースが入っていたのだ。衣類を入れるはずの木製のそこに、何故かピンク色をしたストローが刺されたグラスが一つ。キンキンに冷えているのかグラスに僅かに汗をかきながら置かれたそれは、どう見ても場違いである。
「つーか、これ」
フロイドはよく分からないまま、取り敢えずグラスをトレーごとタンスから取り出した。そしてそれをベッドサイドのテーブルへと運びながら、少し首を傾げる。「なんかストローの形おかしくね?」
ストローは一本だと思っていたが、よく見ると二本のそれが絡みついているようだった。真ん中がハートの形になっていて、その上の飲み口の部分だけ左右それぞれの方向を向いている。
「ナニコレぇ。陸にはこんなストローがあんの?」
フロイドはよく分からなくて、じいっとそれを見て考え込んだ。けれどややあって、小エビがどうにも静かなことに気付く。フロイドはきょとんとして背後を見た。そして、ぱちくり目を丸める
「小エビちゃん?」
「!」
「どしたの、顔真っ赤だけど。体調悪い? どっか痛い?」
「ぁ、ちが、違い、ます」
監督生はぶんぶんと首を横に振った。困ったように視線をうろうろ彷徨わせる様子はあんまりにも不自然で、フロイドはどうしたんだろうかと考える。それから眼下のグラスを一瞥すると、ふと「そういえば」と思った。そういえばこれ、最近どっかで見たような……。
「あ、分かった。これ麓の町のカフェのやつ?」
「! し、知ってるんですか」
「知ってるっつーか、この間ジェイドが言ってた気がする。んー、アイツあの時なんて言ってたっけ」
フロイドは監督生と話しつつ過去を思い返す。
最近麓の町にできた、小洒落たカフェ。アズールの命によって市場調査に出掛けたジェイドから見せてもらった視察写真の中に、確かこのような風貌のストローがあった気がするのだ。あの日は気分が最悪だったのであまりきちんと聞いていなかったが、確か恋人用のメニューにあるとかなんとか言っていなかったか。そう、「恋人限定メニューを注文したときだけ飲むことができるメニューで、これを二人で分け合って飲むんだそうです」とか何とか……。
フロイドはそこまで言って、ふと言葉を止めた。
二人で飲む。この極力近づかなければ飲めなそうなストローで、恋人同士が。……そして己のつがいが、それに関する夢を見た。それはつまり。
「……」
フロイドはパチパチと目を瞬いた。そのまま小エビを見ると、彼女は下を向いて固まっている。普段は白くて小さな耳が、その存在を主張するかのようにじわじわと赤くなっていた。彼はそれをじいっと見てから、「ねえ小エビちゃん」と声をかける。
「!」
「これさあ、夢に見たの?」
「……そう、です」
「ふーん」
「テイクアウトもできるって、前に町に出掛けた時にエースたちとそういう話になって、それで覚えてて、」
「夢でこれ飲んだんだ?」
「……ぁ、その、えと、」
「オレと?」
「、」
淡々とした質問攻めに遭って、監督生の耳が益々赤くなった。彼女は困り果てたような顔をして視線を彷徨わせてから、ちらりとフロイドを見やる。はくり。唇を震わせ、何度か言いかけるように開閉して。それから観念したのか、ややあって小さくこくりと頷いた。そして、小さな声で言う。
「……当たり前じゃないですか。好きな人とじゃないと飲まないです」
「んえ」
「……」
フロイドは固まった。しばらく考え込んでから、は? と頭の中で呟く。は? え? なにこの小エビかわいすぎんだけど。
フロイドがフリーズしている間にも、室内には静寂が満ちていく。監督生は気まずくなったのか、そっと視線を逸らした。グラスのほうへ視線を向けていても、挙動不審なのは明らかだ。あんまりにも可愛らしくて、フロイドは暫くその様子を見てから、ややあってふは、と笑った。そうしてややあって、「小エビちゃん」と呼ぶ。
直後、彼はおずおず振り向いた監督生の痩躯を思いっきり抱きしめた。彼はそのままクルクル喉を鳴らしながら、少女の額にキスをする。満面の笑みを浮かべて、柔らかい声で言った。
「あは、オレもだーいすき」
――フロイド先輩と新しくできたカフェの恋人限定ドリンクをテイクアウトして、それを一緒に飲む。
監督生の夢の内容はどうやらこうだったらしい。
フロイドは頬を真っ赤に染めた監督生を至近距離で見つめる。何はともあれ、無事にお題を達成したのであった。
■
「……あれ、開かなくね」
「ほんとだ……」
ジュースを飲み終えたあと。二人はびくともしない扉の前で互いの顔を見合わせた。
完全に飲み干したというのに、今までと比べても何ら変化した感覚がないのだ。そもそもドアノブが回る気配もないし、押しても引いても全く音沙汰が無いし。監督生に夢の内容に間違いが無かったかと問うても、恐らく間違いないとのことらしい。ということは、他に原因があるのか。
——あれ。
フロイドは首を傾げる小エビを見下ろしながら、冷や汗が伝うのを感じた。
これはまさか、監督生一人の夢では駄目だということだろうか。看板には全員の夢を実現しなければならないと書いてあった訳ではない。だが一方で、片方の夢を実現すれば良いと書いてあった訳でもないのだ。つまりこれはそういうことなのだろうか。いや、まさかそんなワケ――……。
「!」
ごとん。
ふと、室内に鈍い音が響いた。
聞き覚えのある音だ。それも少し前。小エビの夢を実現しようと二人で決めた直後、彼女の夢の話について詳しく聞こうとしていたとき。ジュースの入ったグラスが出てきたとき。
「あ、フロイド先輩の夢に出てきた道具が出てきたんですかね」
監督生が音のしたであろう方を見た。
それを見れば思い出せるかも! 無邪気にそう言った小エビの横を通り抜けて、フロイドは背後のタンスの方へと向かう。上から二番目の棚、先ほどトレーが入っていた場所。そこに手を掛けると、ゆっくりと開けた。
「……、」
フロイドは一瞬中を真顔で見た。それから勢いよく閉めると、フーッと息を吐く。
「…………………………ウワ最悪」
本当に小さな声で呟いて、思わず天を仰いだ。マジで誰だよこれやってるヤツ。あとで絶対絞める。心の中で今まで以上に殺意を増大させる。
「あれ、何も入ってなかったんですか?」
「! アーウン、いや、入ってなくはねーんだけど」
「?」
「……」
フロイドは、追いかけて来たきょとんとしている小エビをじっと見た。そのまま何かを考え込むようにフリーズしてから、「……小エビちゃんさあ」と口を開く。
「はい」
「あのさ、オネガイがあんだけど」
「? 何ですか?」
「……」
フロイドは一度言葉を止めた。私にできることなら! もう恥ずかしかった自分の夢を知られたあとですっかり元気になっている監督生をじっと見つめてから、真面目な声で言った。
「……オレのコト殴ってくんねえ?」
「……、……はい!?」
フロイドの開けたタンス。
その中には、それはまあ鮮やかなピンク色の——大人のおもちゃが入っていた。
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