五、王子サマとお姫サマ
五、王子サマとお姫サマ
「——様、奥様。旦那様が来られましたよ」
「……、」
ユウは我に返った。着々と自分の爪に施されていくネイルをぼんやりと眺めていたところ、声を掛けられていることに気付いたからだ。ハッと顔を上げると、目の前には向かい合うようにして座っている笑顔のネイリストの姿。これは先程までと何ら変わりない。けれど問題は——その横に、自分を見下ろしているロマンの姿があるということ。
「やあ、ユウ。やっと気が付いたのか」
「——、」
ばちりと視線が交錯した。ユウはひゅっと息をのんで、やばい、と直感的に思う。いつの間に来ていたんだろう。いつから私は声を掛けられていたんだろう。頭をフル回転させながらそんなことを考えて、慌てて頭を下げた。「だ、旦那様。お帰りなさいませ」
「うん」ロマンは口だけを笑顔の形にして笑った。「少しだけ仕事の合間に時間が取れたからね、来てみたよ。……はは。まあまさか、入室して数秒間もの間妻に無視されるとは思わなかったが」
「……っ、も、うしわけ、ありません」
ラズトーキン家お抱えのネイリストなのかはたまた高い報酬で雇われているのか、ネイリストはロマンからの目配せを受けると一礼し、二人の会話に一切干渉することなく立ち上がった。ロマンと共に入室していた彼の部下と並んで部屋の隅に控えて待機するのと同時、代わりにユウの正面にはロマンが腰掛ける。
「本当、酷いじゃないか」言いながら、机の上のユウの手に重ねるようにして、彼はゴツゴツとした手を重ねた。息を詰めたユウを眺めながら、にこりと笑みを浮かべる。「まさか私からのプレゼントが何か気に入らなかったとでも言うのかな?」
プレゼント——それはロマンによって今朝突然告げられた、これから数日掛けて行われることになるらしい怒涛のメンテナンスのことを指していた。結婚式は今週末。当日に向けて花嫁 を完璧な状態に仕上げる為にと、ロマンが屋敷にあらゆる分野の腕利きのスタッフを呼んだのだ。今朝のヘアケアに始まり、今はネイル。どうやらそんな具合に夕方以降も詰め詰めにスケジュールが入っているそうだが——予定を何も知らされていないユウには、それがどのくらいあるのかもいつまで続くのかも、何も分からなかった。とにかく言われるがまま、されるがまま、今朝から訳が分からないまま好き勝手に自分の身体を飾り付けられている。
「ちっ、違います」ユウは視線を下げると、必死に頭 を振った。「その……少しだけ、……考えごとをしていて」
「ほう。私よりも優先するべきことがあったと」
「、」
上手く弁解したいのに、それどころか墓穴を掘っていくばかりだ。小さな身体は更にどんどん縮こまっていく。
「そ、ういう、わけでは……」
「君に隠し事をされるのは大嫌いだと、私は前にも言わなかったかな?」
「っ……」
どうにか必死に取り繕おうとしたユウは、けれど畳み掛けるように重ねられるロマンの台詞に言葉を詰まらせて固まった。焦れば焦るほど何をどうするのが彼を怒らせずに済む正解なのか分からなくなって、はくはくと口を開閉させることしかできない。
「申し訳、ございません」
「うん。ならさっさと言いなさい」
先程よりも更に低い声で促されながら、グッと重ねられている手に力が加わった。少し痛くて、何より恐ろしくて。ユウの身体はびくりと勝手に反応して強張る。
「は、い」
反射的にか細い声で返事をすると、震える身体を抑えながら必死に口を開く。何度か言うのを躊躇って——それからようやっと、意を決して掠れる声で言った。
「あの。ぐ、グリムは今、どこで働いているんでしょうか」
「グリム? ——ああ、あの魔獣か。どうしてそんなことを聞く?」
「…………っ。そ、の……」
ユウは一瞬フリーズした。舌の付け根がカラカラに乾いていく。とにかくこわくて、声が震えて。けれど必死に思考を巡らせながら、石橋を叩いて渡るように少しずつ、言葉を続ける。
「元気かなと、気になって……」
「元気さ」
「……、ぁ……良ければ、連絡を取らせて頂けませんか」
「連絡?」
「はい。数分でも良いので——その、数分間のテレビ電話でも良いので、少しだけでも顔を見て、結婚する前に話す機会を頂きたいんです」
「……まさか、今までそんなことを考えていたせいで他のことが手につかなかったと?」
「……申し訳、ありません」
「全くだ。そんな下らないことで悩んでいたなんて」
そんなこと。下らないこと。
ユウはぎゅっと唇を引き結んだ。心臓をバクバクさせながら、機械のように再び謝罪の言葉を口にする。
——〝グリムが行方不明である〟
あの日、フロイドとボウリングに行った日に彼からそれを聞いてからというもの。ユウはずっと、大事な相棒の安否が気にかかって仕方がなかった。グリム、本当に行方不明なの? 今どこにいるんだろう。お腹空かせてないかな。雨に濡れて震えてないかな。怖い思いとかしてないかな。——何をしていても思考を占めるのはそんなことばかりで、不安が募るばかりで。あのあと何か有力な手掛かりは見つかっていないものかと、フロイドに連絡を取ろうとしては思い留まることを何度も繰り返していた。
何でも良いから話したくなったら連絡してくれと、どんなにくだらない話でも良いからと、フロイドは通信機を渡すときにそう言っていたが——けれど結局、今日までユウは、そんな勇気を持てなかったのだ。結果淡々と時間だけが過ぎていって、結婚式の日取りだけがどんどんと近付いてきて。そして現在に至っている、という訳である。
けれどそもそも、ユウはロマンとグリムを雇う代わりに嫁ぐという約束をしているのだ。グリムはどこにいるのか、いま何をしているのか。それらをロマンが把握している可能性は高い。もし今ここでそれを教えてもらうことができるのなら、それに越したことはない。
だからユウは必死に頭を下げた。
「お願いします。大切な友人なんです。どうか許可を頂けないでしょうか——」
「ああ、そういえば彼なら今は夕焼けの草原にいるんじゃなかったかな」
と、ロマンがユウの言葉を遮るようにあっさりと口を開いた。それから壁際に控える部下を横様に見て、「違ったかな?」とおもむろに問う。
「……」部下はちらりとロマンを一瞥してから、にこりと笑顔で頷いた。「そうだったと記憶しております」
「やはりそうか。結婚式にも参列するか聞いたんだが——何せ夕焼けの草原はここから遠い上に、彼には世界を股にかけて相当忙しく働いて貰っているからね。向こう数年は帰国の予定がないから、今回は辞退するとのことだったよ。この話は既に君にしてあったつもりだったんだが」
「ぞ、……存じ上げません」
「なら今言った。そういうことだ」
「……で、すが、」
「まだ何か?」
「……、……っ。いえ」
「よろしい。連絡を取ることについては——今言った通り忙しいからね、時間が取れるかどうか……だがしかし、愛する妻からのわがままだ。出来るだけ調整出来るよう、グリムくんに確認してみるさ。——さて、この話は終わりだ。もう良いね」
「……」
ユウは俯いた。
グリムは帰国していない。帰国するつもりも、式までに連絡が取れるかも分からない。告げられた言葉は彼女を納得させるどころか、更に混乱させるのに充分だった。どの情報も、明確情報がある訳ではない。何が本当で何が嘘なのか、余計に訳が分からなくなってしまったのだ。
すると釈然としない顔で返事をしないユウをじっと見て、ロマンは手に込める力を強めた。
「聞いているのかい? 良いね? とこの私が聞いているんだが」
「! 、……」一瞬呼吸が止まる。ユウははくりと唇を震わせると、こくりと頷いた。「は、い」
「よろしい。——さて」
ロマンは僅かに目を細めてから頷いた。と、ユウの手を掴んでいる方と反対の手で、おもむろに彼女の顔に手を伸ばす。
「……っ」
びくり、と身体が強張る。ユウは反射的に、息を詰めて下を向いた。
「どこを向いているんだ。こっちを向きなさい」
けれど飛んできたのは、そんな静かな命令だ。恐る恐る彼女が顔を上げると、ロマンは何かを考えるようにユウを眺めながら、彼女の胸の辺りまで伸びた髪に触れる。
「ふむ。正直、今回新しく雇った美容師の腕を少し心配していたんだが——悪くない。これなら及第点だろう。私の見込んだ通り、やはりお前の黒髪は伸ばしてこそ価値があるというものだ」
「……恐れ入ります」
「結婚式は私たちの晴れ舞台だ。隣に立つ妻がまさか私の趣味を疑われるような酷い姿だったなんてゲストたちに思わて噂されでもしたら、たまったものではないからね。——結婚式当日まで、まだまだやることは山ほどある。結婚式を行うのは女の夢だろう? 夢を叶えてやるのに加えて、ここまでメンテナンスをさせてやっているんだ、私からのプレゼントをありがたく思いなさい」
「……はい」
ロマンはにこりと微笑むと、それから思い出したような顔をした。
「ああそうだ」ふと、身を乗り出すようにして視線を下のほうに向ける。己で掴んでいた彼女の腕を離すと、持ち方を変えながら口を開いた。「今はちょうどネイルの途中だったんだろう? どれ、どんな爪に仕上がっているのかな」
太い指がユウの指を掴む。ユウはちらりと、ネイルの施されているもう片方の指先を見た。丁寧に下処理のされた指先は、既に淡い青のベースネイルが塗られている。この上から更にデザインが施されていくのだと、先程説明を受けたところだ。
「……、?」
一瞬の沈黙が部屋を包んだ。ここでユウは違和感を覚えて、ちらりとロマンを見る。彼は先ほどから、ひたすらに無言だったのだ。どうして何も言わないのだろうか。そう思っていると彼は一度顔を上げ、ユウに話し掛けることはせずに無言で振り返った。
「君」
視線の先にいるのは、先程下がったネイリストだ。ロマンは彼女を見やると、ややあって静かな声で問う。
「これは君が?」
「はい」
「……なぜ青を塗った?」
……あ。
ユウは腕を掴まれたまま、僅かに青い顔をした。ロマンの纏う空気が変わっていくような感覚。耳を塞ぎたくなるような重苦しさ。こういう状況を、今までに何度も見てきたから知っている。これから起きるであろう未来に思わず唇を引き結んで一人下を向くと、戸惑ったようなネイリストの声が聞こえてきた。
「サムシングブルーは花嫁にとって良き色でございますから。ドレス担当者や奥様とも話をして、奥様のイメージやドレスに合うお色をと思いまして——」
「変更しろ」
遮るように言葉が発せられる。笑顔のまま、ネイリストの動きが止まった。次第に明らかに、困惑したようなそれに変わる。「は?」
「色を変更しろと言ったんだ。今すぐやり直せ」
「で、ですが」
「言い訳をするな! 私の話が聞けないのか!」
ダンッと大きな音を立ててロマンは立ち上がった。途端机の上のネイル用品がガラガラと音を立てて薙ぎ倒され、その際一緒に投げ飛ばされたユウの腕は机に叩き付けられる。疼痛に顔を歪ませつつ顔を上げると、ロマンは頭を下げるネイリストに詰め寄って怒鳴り散らしていた。申し訳ございません。平謝りする彼女の言葉など一切入ってこないとでも言わんばかりに、彼はひたすら糾弾を続ける。
「花嫁に必要なのは華やかで柔らかい色だと予め伝えておいたはずだろう! それが何だ、この色は! 妻や担当者の好みなどは関係無い!」
「仰る通りでございます、」
「分かっているのなら初めからやれ! 当日私に恥をかかせるつもりか、この無能が——」
キンと耳鳴りがした。いつものように自分が怒鳴られているような気分になって、内容がうまく聞き取れなくなって、ユウは苦しくなる呼吸を必死に落ち着かせる。と、顔のすぐ隣をロマンの投げた何かが掠めて、直後背後で大きな音を立てて割れた。ひ、と小さく声が漏れる。
「——、」
もう何も考えられなかった。冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、ユウはただただ小さく身体を縮こませる。
それからしばらくの間、室内にはひたすら、怒鳴るロマンと謝るスタッフのやり取り声が響き渡っていた。
❖
この騒動は結局ロマンの気の済むまで続いた。
『ではそろそろ仕事に戻るとしよう。ユウ、良い子にしているんだよ』
そして十数分後。まるで何事もなかったかのように笑顔を浮かべて彼が去ると、一同は同じく何事もなかったかのように慣れた様子で片付けを行い、それぞれの仕事を再開した。ネイリストだけは別の者に変更されることとなったが、どこから手配してきたのか、その手配されたスタッフもあっという間にやって来て。その処遇に前任のスタッフは最初こそ不満のありそうな顔をしていたものの、ロマンの部下からあり得ない額の小切手を渡され満更でも無さそうな顔をしていたので、恐らく双方に何ら不都合は無いようだった。ユウはそんな光景を見るのが嫌で、一人目を伏せた。
『では奥様、少々スケジュールが押しておりますので』
こうして未だ心が落ち着かずに怯えていたユウの元には再び先程までと何ら変わらない設備が整えられ、これまたあっという間に、有無を言わさず施術が再開された。まるで今までのことが全て無かったかのように、青い爪は落とされ柔らかな桃色が施され。それが終わると今度は歩き方の指導やエステ、メイクのリハーサル等々——ありとあらゆる担当者が呼ばれては指導や施術を受け、目が回るほど沢山のスケジュールをこなすこととなったのである。
そして、夜。
ユウは部屋に戻ると、後ろ手に扉を閉めた。視界に入ったのは見慣れた己の部屋。
完璧にベッドメイキングされている、まるでホテルの一室のようなそこを眺めて何度か瞬きをしてから、彼女はゆっくりと一歩足を踏み入れた。毎日ここで寝ている筈なのに、そこはいつも通り、知らない誰かの部屋みたいに感じた。
「……——」
ユウはふらふらと覚束ない足取りで窓辺に向かった。椅子に腰掛けると、受け止めた柔らかなクッションによって身体が少しだけ沈みこむ。ふう、と小さく息を吐きながら下を向いた。膝の上の十本の爪先にはキラキラと、まるで自分のものとは思えないような美しい彩りが並んでいる。
随分と色々なことが起きたものだから、今日は少し疲れてしまった。吹き込む穏やかな夜風を頬で受けながら窓のほう見上げると、視線の先には夜空にぼうっと浮かぶ少し欠けた月が浮かんでいる。
『見ろ子分、今日は真ん丸の月なんだゾ! じゅる……饅頭みたいだな……すげーウマそうなんだゾ……』
『あはは。お月様は食べられないよ、グリム』
「…………」
何をしていてもどうしても考えてしまうのは、やはりグリムのことだ。学生時代、真剣によだれを垂らしながら月を睨み付けていた可愛らしい友人の姿を何となく思い返して、ユウはぐっと唇を引き結ぶ。
今どう行動するのが正解なのか、本当に今の自分のやっていることはグリムの為になっているのか。先日のフロイドの言葉と今日のロマンの言葉、それぞれを思い出すたびに、ユウは怖くなった。ロマンの言うことが正しいのなら、ロマンの元に来た意味はある。だけどもしも——もしも。フロイドたちの調査結果が本当で、グリムはもう外国にいなかったとしたら? 自分がここに来たことは全くグリムを守る役に立っていなくて、この屋敷に嫁いだところで何もかもグリムにとって無意味だったとしたら? 今この時にも、グリムの身に何かあったとしたら……? ——それらを考えるのが怖くて、恐ろしくて。さいきん、時折今まで以上に頭がおかしくなりそうだった。これからどうすれば良いのか、分からなくなりそうになるのだ。
「……、」
と。ふと、すぐそばに置かれた丸テーブルの上に目を向けた。
そこに置かれているのはぬいぐるみのクマだった。可愛らしい燕尾服を着て、黒いリボンをボウタイのように巻き付けた、可愛らしい茶色いクマ。
これはユウが初めてこの屋敷に来たとき、ロマンからプレゼントされたものだ。
『我々が同棲を始めた記念の品だよ』
この部屋に案内された際にそう言われたそれは、彼によるととある有名高級ブランドの限定商品なのだそうだ。どれくらいの価値があるか、どれだけ貴重なものなのか。当時誇らしげに長々と語っていた彼の説明にもあった通り、左足の裏には相変わらずシリアルナンバーが刺繍されて刻まれている。
ユウは震える手でそれを手に取り、クマの背中に触れた。燕尾服を捲りあげた下——隠されるように取り付けられているチャックをそっと開けると、中には白い綿が入っている。そこにおもむろに指を突っ込み中をまさぐると、何から出てきたのはとある固くて小さいものだった。彼女はそれを大事そうに取り出すと、心を落ち着かせるように胸の前で必死に握る。
はたして、それは石だった。以前ボウリングに行ったとき、フロイドから貰った通信手段の魔法石。連絡する勇気が出ず、結局連絡手段としては一切使っていないものの、隠しているこの場所から時折取り出しては、ユウはこうして不安を紛らわすための手段として使っていた。
これの存在は絶対にロマンに見つかる訳にはいかない。それくらい、今の彼女にとって最も大事な品だった。大切にするとフロイドと約束したから。とても大事なものだから。隠し事は無しだと強く言い付けられているけれど、これだけはどうしても手元に置いておきたかった。……だから見つからないように、ユウはこれを普段から一日のうちの数分しか触れることをしていない。
「……、?」
が。いつものようにひとときの安寧を大事に享受して石を仕舞おうとしたユウが、けれど不意にその動きを止めたのは、月明かりに照らされたそれを見て僅かに違和感をおぼえたからだった。青い石。金色の縁取りが周囲に施されている、その中心の煌めき。彼女はそれを暫くじっと見てから、持ち上げて月明かりの下に置いてみて。そしてややあって、僅かに瞠目する。
「あ、れ……」
石の中心部分。貰ったときから何か模様があるように思っていたそこにあったのは、単なる自然にできた模様ではなかった。——花だ。花の形が、石の内部に彫られている。
ユウは驚いて石から顔を離すと、直後思い出したように周囲の黄金細工をまじまじと見た。石の周りを覆っているのは、黄金の蔦や葉だったはずだ。そういえば。そう思ってから——ややあって、確信したような顔をする。
蔦を伸ばしながら石を抱いているこの周囲の葉も、石に掘られた花も。この石にまつわる植物は、たった一つの植物で構成されていた。そう、見覚えのあるその植物の名は。
「マレルナだ、これ……」
どうして今まで気付かなかったんだろう。ユウは少し前のめりになって、石をまじまじ見つめた。
マレルナ。岩礁や隆起サンゴ礁といった海辺に咲く、光る花。学生時代、まだ魔法植物が苦手だった頃。ツイステッドワンダーランドについて右も左も分からず、児童文学に出てくる植物すら満足に理解できなかったユウに、フロイドが見せに連れて行ってくれた花。
ユウが初めて魔法植物に興味を持った、人生の転機になった特別な花の一つだった。花言葉は——、
「……あなたの、光になりたい……」
掠れた声で呟いた瞬間、ユウの頭の中でふと、先日フロイドが言っていた言葉の数々が思い出された。
『何でも良いから、話したくなったら連絡して。どんだけ変な時間でも良い。どんなにくだらねー話でも良いから』
『忘れないで。オレらはさあ、いつでも小エビちゃんの味方だから。——絶対に』
次いで思い浮かんだのは、グリムの笑顔。
——子分! こっちなんだゾ!
「…………、——っ」
刹那、ユウはなんだか無性に泣きたくなった。苦しくなって、思わず石を握ったまま身体を折って蹲る。ぼろ、と涙が溢れた。ぽつりぽつりと、水滴が床にシミを作っていく。
もしグリムに何かあったら。
もしグリムを守ることなんてハナから出来ていなくて、自分がここに嫁いだ意味なんて最初から全く無かったとしたら。
そのことについて考えるとき、いつも頭の中には『このままにしていてはいけない気がする』という、漠然とした直感めいたものが浮かぶ。胸の奥では、焦燥感がずうっと燻っている。自分がここに嫁げば丸く収まると、初めはそう思っていたのだ。自分でどうにか出来ると思っていたのだ。だけど、そうじゃなかったとしたら? 今、一人でいても無力なだけなのだとしたら?
(…………良い、のかな)
ふと、心の中で呟いた。
(良いのかな、先輩に連絡してみても。光に、縋ってみても。良いのかな)
「…………、」
ユウはしばらくそのまま蹲っていた。何も言わず、ただ肩を震わせながら縮こまっていた。けれどややあって身体を起こすと、ズッと鼻を啜る。僅かに赤くなった濡れた目を擦ってから、ぬいぐるみを元の場所に戻した。
石は未だに手の中だ。大事なそれをじっと眺めながら、どうするべきか今一度真剣に考える。手は震えていた。不安で、今にもどうにかなりそうだ。だけど。それでも。
「——」
ユウは小さく深呼吸をした。それから改めて石を顔の前に持ってくると、覚悟を決める。立ち上がって顔を上げると、部屋の扉へと視線を向けた。
「……グリム、待ってて」
それから数分後。ユウはとある場所で屈むと、身を縮こませながら以前フロイドに教えてもらった通話ボタンを強く押した。
しばらく間があった。まるで永遠の時が流れているみたいな感覚になった。けれどそうしてしばらく待ったのち、石から声が聞こえてくる。
『……小エビちゃん?』
「っ」
安心する声だった。ずっと聞きたかった、懐かしく感じる声。
ユウは小さく息を吐く。それから震える声で恐る恐る口を開いた。
「フロイド、先輩。ユウです。あ、の——今、お時間良いですか……?」
『ッ、もちろん。……いま一人? シャチョーは?』
『旦那様は近場のリストランテにお得意様とディナーに行っています。数時間で帰ると仰ってました。私はその、一人です』
『おっけ。……ごめん十秒だけ待てる? オレいまシャワー浴びてきたばっかで全裸でさ——ぅお、』
「ぁ……す、すみません。掛け直したほうが……」
『全然。そのまま待っててぇ』よほど慌てているらしい。ガラガラと何かが倒れる音が聞こえて、ユウはちょっぴり心配になった。
『——よっ、と』
けれどすぐに音は収まって、『お待たせぇ』と間延びした声が聞こえる。聞き慣れたその声に、彼女は内心ほっとした。と、フロイドが石を持ち上げたのだろう。声が近くなって明瞭になる。
『連絡くれてありがとねえ、小エビちゃん。スゲー嬉しい』
「いえ。……連絡、遅くなってすみません」
『へーき。オレもアズールに連絡しろって言われてもさあ、気分が向かなきゃ一切連絡しないし』
「それは……怒られるやつじゃ……?」
『えー? 平気じゃね?』
『おい聞こえていますよ』
『ウワ、アズール』
『ウワとは何だ』
どうやら部屋にアズールが入ってきたらしかった。扉が開く音のあとで、軽口を言い合うような声が聞こえてくる。ユウはなんだか懐かしくなった。
『ユウさん、お久しぶりです。先日ぶりですね。プライベートな会話に割り込むような形になってしまい申し訳ありません。文句ならフロイドまで。ここで通話をしようとしたコイツに十割非がありますので』
ぎゃいぎゃいと昔と何も変わらない騒がしい様子は、学生時代と何ら変わりがなかった。話を聞いているだけで不思議とユウの心は落ち着いていって、それまで強張っていた身体が、ほんの少しだけほぐれていく気がする。彼女は僅かに目を細めると、袖で零れかけた涙をゴシゴシと拭った。
「……大丈夫です。フロイド先輩だけじゃなくて、その、皆さんにも聞いて貰いたい内容、なので……」
『おや、そうでしたか』
話しても良いのかな。タイミングを測りかねて尻込みしていると、フロイドから『どんな内容?』と優しく促される。ユウはぎゅうと石を握る手に力を込めると、おずおずと口を開いた。
「その……グリムの件、なんですけど……」
震えそうになる言葉尻をなんとか堪えながら、彼女は一生懸命を話を始めた。必死に言葉を紡ぐ。
「あの。グリムの居場所とか安否って、……もう分かったりしていますか」
一瞬、フロイドは固まった。
『……んーん』ややあって小さく息を吐いたあと、彼は言葉を選びながら会話を続けた。『ごめん、まだ。——でも監視カメラの映像漁ってたホタルイカ先輩がねえ、この間アザラシちゃんが映ってるヤツ一個だけ見つけたよ』
「……えっ」
『と言っても遠くからの定点映像だし、見つけられたのはまだこれだけだけどさ』
フロイドは石の向こうの様子を窺いつつ言う。
『とはいえ有力情報には間違いねーよ。オレもそれ見たんだけど、空港の駐車場の防犯カメラに映ってた。帰国したアザラシちゃんがさあ、——ケージみたいなのに入れられて黒服の男たちに車に乗せられていくところが。
画質悪かったからアレだけど、大人しく運ばれてたってことはきっと気絶させられていたんじゃねーかな』
「っ、そんな」
『ただ、この間話したオレらがアザラシちゃんの作ったアクセサリーの魔力を感じ取ったのはこの日よりも後。だからきっとアザラシちゃんは無事だよ。そこは安心して』
「……無事、」
『ウン』
「…………」
『……小エビちゃん?』
黙り込んだユウを心配して、フロイドが問うた。ユウはそれを聞いてハッとすると、「は、はい」と反射的に口を開く。
『大丈夫——じゃ、ねーよな。ごめんね、色々一気に話して』
「いえ…………」
ユウは俯いた。それからややあって顔を上げると、「あの、」と口を開く。
「私、さっき旦那様にお伺いしたんです。……グリムと、結婚式をする前にテレビ電話でも良いから連絡を取らせて頂けないかって」
『——、は』通信の向こうでフロイドの声が僅かに上擦った。『え、マジ? 小エビちゃんが?』
「……はい。そしたら——」
ユウはフロイドに、昼間ロマンに言われたことを伝えた。グリムは夕焼けの草原にいること。数年は帰国の予定が無いこと。忙しいから連絡を取れるかどうか分からないと言われたこと——等々。
『……アイツそんなこと言ってたの?』
「はい」
『んなワケねーよ。ホタルイカ先輩がハッキングしたデータ覗かせて貰ったけど、アザラシちゃんがこの間の帰国以降出国した記録なんて無かったし』
「……で、すよね。でも……、……」
ユウは下を向いた。困ったように眉を下げ、「すみません」と唐突に謝罪をする。
『? 何がぁ?』
「私——その、何が本当で何が嘘なのか、よく分からなく、なっちゃって。せ、先輩たちのこと、信じてない訳じゃないんです。だけど……その、旦那様の言うことは、ぜったいなはず、で」
『……小エビちゃん、』
「でも、グリムが……もし先輩の言う通りだったら、グリムは今、一人なんですよね。……あの子が怖い思いをしてるのは、絶対に嫌なんです。だから、その、」
言いたいことが上手く纏まらなくて、ユウは悔しくなった。『……ゆっくりで良いよぉ』落ち着かせるようなフロイドの言葉に頷いて、必死に思考を働かせる。
自分の意見や考えがどうにも矛盾していることは、自分が一番良く分かっていた。自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだった。フロイドたちはこんなにも力を貸してくれているのに、それは充分すぎるほど分かっているのに。けれど一方で、ロマンの言うことだって嘘な筈がないという考えが頭を占めるのだ。
嘘な筈がない。旦那様を疑うなんてそんな卑しいこと、してはいけない。……だけど、このままで良い気もしなくて——……。
訳が分からなくなりそうで、ユウは顔を歪ませた。けれど、そんなことをしている時間はないのも事実。自分はいま、一歩前進するために連絡をしているのだ。そう自分を叱咤して、なんとか一言ずつ、噛みしめるように言う。
「私にもっと出来ることがあるなら、やらなきゃって思ったんです。このまま分からないままにしてちゃ駄目だって」
『ウン』
『それで——その。どうしたらグリムに繋がる手がかりをもっと手に入れられるかなって考えて。見当違いかもしれないんですけど、一つ思いついたことが、あって」
『……ウン? 思いついたこと?』
「……はい」
ユウはグッと拳に力を込めた。震える声で、けれどはっきりと言う。
「い、今、旦那様の部屋に来てるんです」
『…………は?』
「っ、勝手に忍び込むなんていけないことだって、分かっているんです。でも、もしグリムの為になるのなら今しかないって、思って。そしたらこれ を見つけて……もちろん手掛かりに繋がるかは、まだ分からないんですけど、」
『……待って、待って小エビちゃん。え、今社長の部屋にいんの? 「これ」って何?』
「……」ユウは手元のそれをちらりと一瞥してから言う。「私の、スマホです」
『スマホ?』
「はい。グリム、あの肉球なのであんまりスマートフォンの操作得意じゃないから、ほとんど私としか連絡を取っていなかったんです。エースやデュースとかと何か用がある時は、私たちはグリムが外国に行くまでは一緒に住んでいたので、私が仲介役になって内容を伝えていたくらいで……だから最後にメッセージを送ってくるとしたら、私宛てだと思って。それでもしかしたら、何か手掛かりになりそうな連絡を残していたりしないかなって……」
『!』
「可能性は低いかもしれないですけど、やってみないと分からないから……取り敢えずバッテリー切れちゃってたので、いま充電してみています。
そ、それで——部屋に行くなら先輩が聞いていてくれたほうが、もし手掛かりを見つけたとき上手く役立ててくれるかもしれないって、思ったんです。だからその、連絡しました……」
久々にこんなに話した気がする。そう思ったユウは顔を強張らせたまま、焦ったように視線をすべらせた。
彼女の手元には、コンセントに繋がれたスマートフォンが置いてある。充電器はロマンが使っているらしきものが先ほど見つかったので、それを使わせてもらった。が、そもそもユウのスマートフォンは嫁いだ日に没収されてからずっとタンスの中で放置されていたのか、電源が切れてから日が経っているせいか充電が足りずまだ起動していない。
「グリムを助けるためなら私、……なんだって、やりたいんです。お願いします。き、協力して頂けませんか……」
『……』
フロイドはアズールと通信機の向こうで顔を見合わせた。それからゆっくり天を仰いで、考える素振りをする。
やはり小エビは小エビというか——少し目を離した隙に、この娘は相変わらずあまりにも無茶で突拍子もない行動をする。本当はこれ以上無茶なんてして欲しくないのに。けれど、それを彼女に言ったところで意思を変えるような娘でないことは、フロイドが一番良く分かっていた。そう思って溜息を吐くと、『……小エビちゃんさ』と口を開く。
『社長は食事会行ってるってさっき言ってたよね。ホントにまだ帰ってくる可能性はねーの?』
「少なくとも、あと一時間くらいは帰ってこないと思います。いつも車が帰ってくるの、それくらいは掛かるから……」
ユウはぼんやりと、普段の様子を思い返した。窓をぼんやりと眺めているあいだに、会食に出かけたロマンの車はいつも行って帰ってくるのだ。
『なら良いケド——あの家政婦たちは?』
「アンディさんとマリーさんは、今晩はもう帰っているので……。前にフロイド先輩が来たときはその、旦那様が出張だったから……旦那様が私を一人にしないようにって命令されていたので、お屋敷に泊まってたんですけど、」
『なるほど、話は分かりました』アズールが言った。『しかし、仮にユウさんのスマートフォンにグリムさんから連絡が来ていたとして、それは今まで没収されていたんでしょう? 既にあの社長に中身の全てを読まれているのでは?』
アズールはそこまで言うと、一瞬ふと言葉を止めた。それから深刻な声音で言葉を続ける。『——というか、待て。ロマンがユウさんのスマートフォンを持っていたのなら、フロイドとの交友関係もバレていませんか』
『……あー、それは大丈夫だと思う』
と、ユウが口を開く前にフロイドが言った。怪訝そうな顔をしたアズールに、さらに続くフロイドの声がさらりと発する。
『小エビちゃんのスマホさあ、国家元首のスマホ並みにセキュリティ万全だから』
一瞬の沈黙。直後、アズールの声がぽつりと響いた。
『……は?』
❖
「——様、奥様。旦那様が来られましたよ」
「……、」
ユウは我に返った。着々と自分の爪に施されていくネイルをぼんやりと眺めていたところ、声を掛けられていることに気付いたからだ。ハッと顔を上げると、目の前には向かい合うようにして座っている笑顔のネイリストの姿。これは先程までと何ら変わりない。けれど問題は——その横に、自分を見下ろしているロマンの姿があるということ。
「やあ、ユウ。やっと気が付いたのか」
「——、」
ばちりと視線が交錯した。ユウはひゅっと息をのんで、やばい、と直感的に思う。いつの間に来ていたんだろう。いつから私は声を掛けられていたんだろう。頭をフル回転させながらそんなことを考えて、慌てて頭を下げた。「だ、旦那様。お帰りなさいませ」
「うん」ロマンは口だけを笑顔の形にして笑った。「少しだけ仕事の合間に時間が取れたからね、来てみたよ。……はは。まあまさか、入室して数秒間もの間妻に無視されるとは思わなかったが」
「……っ、も、うしわけ、ありません」
ラズトーキン家お抱えのネイリストなのかはたまた高い報酬で雇われているのか、ネイリストはロマンからの目配せを受けると一礼し、二人の会話に一切干渉することなく立ち上がった。ロマンと共に入室していた彼の部下と並んで部屋の隅に控えて待機するのと同時、代わりにユウの正面にはロマンが腰掛ける。
「本当、酷いじゃないか」言いながら、机の上のユウの手に重ねるようにして、彼はゴツゴツとした手を重ねた。息を詰めたユウを眺めながら、にこりと笑みを浮かべる。「まさか私からのプレゼントが何か気に入らなかったとでも言うのかな?」
プレゼント——それはロマンによって今朝突然告げられた、これから数日掛けて行われることになるらしい怒涛のメンテナンスのことを指していた。結婚式は今週末。当日に向けて
「ちっ、違います」ユウは視線を下げると、必死に
「ほう。私よりも優先するべきことがあったと」
「、」
上手く弁解したいのに、それどころか墓穴を掘っていくばかりだ。小さな身体は更にどんどん縮こまっていく。
「そ、ういう、わけでは……」
「君に隠し事をされるのは大嫌いだと、私は前にも言わなかったかな?」
「っ……」
どうにか必死に取り繕おうとしたユウは、けれど畳み掛けるように重ねられるロマンの台詞に言葉を詰まらせて固まった。焦れば焦るほど何をどうするのが彼を怒らせずに済む正解なのか分からなくなって、はくはくと口を開閉させることしかできない。
「申し訳、ございません」
「うん。ならさっさと言いなさい」
先程よりも更に低い声で促されながら、グッと重ねられている手に力が加わった。少し痛くて、何より恐ろしくて。ユウの身体はびくりと勝手に反応して強張る。
「は、い」
反射的にか細い声で返事をすると、震える身体を抑えながら必死に口を開く。何度か言うのを躊躇って——それからようやっと、意を決して掠れる声で言った。
「あの。ぐ、グリムは今、どこで働いているんでしょうか」
「グリム? ——ああ、あの魔獣か。どうしてそんなことを聞く?」
「…………っ。そ、の……」
ユウは一瞬フリーズした。舌の付け根がカラカラに乾いていく。とにかくこわくて、声が震えて。けれど必死に思考を巡らせながら、石橋を叩いて渡るように少しずつ、言葉を続ける。
「元気かなと、気になって……」
「元気さ」
「……、ぁ……良ければ、連絡を取らせて頂けませんか」
「連絡?」
「はい。数分でも良いので——その、数分間のテレビ電話でも良いので、少しだけでも顔を見て、結婚する前に話す機会を頂きたいんです」
「……まさか、今までそんなことを考えていたせいで他のことが手につかなかったと?」
「……申し訳、ありません」
「全くだ。そんな下らないことで悩んでいたなんて」
そんなこと。下らないこと。
ユウはぎゅっと唇を引き結んだ。心臓をバクバクさせながら、機械のように再び謝罪の言葉を口にする。
——〝グリムが行方不明である〟
あの日、フロイドとボウリングに行った日に彼からそれを聞いてからというもの。ユウはずっと、大事な相棒の安否が気にかかって仕方がなかった。グリム、本当に行方不明なの? 今どこにいるんだろう。お腹空かせてないかな。雨に濡れて震えてないかな。怖い思いとかしてないかな。——何をしていても思考を占めるのはそんなことばかりで、不安が募るばかりで。あのあと何か有力な手掛かりは見つかっていないものかと、フロイドに連絡を取ろうとしては思い留まることを何度も繰り返していた。
何でも良いから話したくなったら連絡してくれと、どんなにくだらない話でも良いからと、フロイドは通信機を渡すときにそう言っていたが——けれど結局、今日までユウは、そんな勇気を持てなかったのだ。結果淡々と時間だけが過ぎていって、結婚式の日取りだけがどんどんと近付いてきて。そして現在に至っている、という訳である。
けれどそもそも、ユウはロマンとグリムを雇う代わりに嫁ぐという約束をしているのだ。グリムはどこにいるのか、いま何をしているのか。それらをロマンが把握している可能性は高い。もし今ここでそれを教えてもらうことができるのなら、それに越したことはない。
だからユウは必死に頭を下げた。
「お願いします。大切な友人なんです。どうか許可を頂けないでしょうか——」
「ああ、そういえば彼なら今は夕焼けの草原にいるんじゃなかったかな」
と、ロマンがユウの言葉を遮るようにあっさりと口を開いた。それから壁際に控える部下を横様に見て、「違ったかな?」とおもむろに問う。
「……」部下はちらりとロマンを一瞥してから、にこりと笑顔で頷いた。「そうだったと記憶しております」
「やはりそうか。結婚式にも参列するか聞いたんだが——何せ夕焼けの草原はここから遠い上に、彼には世界を股にかけて相当忙しく働いて貰っているからね。向こう数年は帰国の予定がないから、今回は辞退するとのことだったよ。この話は既に君にしてあったつもりだったんだが」
「ぞ、……存じ上げません」
「なら今言った。そういうことだ」
「……で、すが、」
「まだ何か?」
「……、……っ。いえ」
「よろしい。連絡を取ることについては——今言った通り忙しいからね、時間が取れるかどうか……だがしかし、愛する妻からのわがままだ。出来るだけ調整出来るよう、グリムくんに確認してみるさ。——さて、この話は終わりだ。もう良いね」
「……」
ユウは俯いた。
グリムは帰国していない。帰国するつもりも、式までに連絡が取れるかも分からない。告げられた言葉は彼女を納得させるどころか、更に混乱させるのに充分だった。どの情報も、明確情報がある訳ではない。何が本当で何が嘘なのか、余計に訳が分からなくなってしまったのだ。
すると釈然としない顔で返事をしないユウをじっと見て、ロマンは手に込める力を強めた。
「聞いているのかい? 良いね? とこの私が聞いているんだが」
「! 、……」一瞬呼吸が止まる。ユウははくりと唇を震わせると、こくりと頷いた。「は、い」
「よろしい。——さて」
ロマンは僅かに目を細めてから頷いた。と、ユウの手を掴んでいる方と反対の手で、おもむろに彼女の顔に手を伸ばす。
「……っ」
びくり、と身体が強張る。ユウは反射的に、息を詰めて下を向いた。
「どこを向いているんだ。こっちを向きなさい」
けれど飛んできたのは、そんな静かな命令だ。恐る恐る彼女が顔を上げると、ロマンは何かを考えるようにユウを眺めながら、彼女の胸の辺りまで伸びた髪に触れる。
「ふむ。正直、今回新しく雇った美容師の腕を少し心配していたんだが——悪くない。これなら及第点だろう。私の見込んだ通り、やはりお前の黒髪は伸ばしてこそ価値があるというものだ」
「……恐れ入ります」
「結婚式は私たちの晴れ舞台だ。隣に立つ妻がまさか私の趣味を疑われるような酷い姿だったなんてゲストたちに思わて噂されでもしたら、たまったものではないからね。——結婚式当日まで、まだまだやることは山ほどある。結婚式を行うのは女の夢だろう? 夢を叶えてやるのに加えて、ここまでメンテナンスをさせてやっているんだ、私からのプレゼントをありがたく思いなさい」
「……はい」
ロマンはにこりと微笑むと、それから思い出したような顔をした。
「ああそうだ」ふと、身を乗り出すようにして視線を下のほうに向ける。己で掴んでいた彼女の腕を離すと、持ち方を変えながら口を開いた。「今はちょうどネイルの途中だったんだろう? どれ、どんな爪に仕上がっているのかな」
太い指がユウの指を掴む。ユウはちらりと、ネイルの施されているもう片方の指先を見た。丁寧に下処理のされた指先は、既に淡い青のベースネイルが塗られている。この上から更にデザインが施されていくのだと、先程説明を受けたところだ。
「……、?」
一瞬の沈黙が部屋を包んだ。ここでユウは違和感を覚えて、ちらりとロマンを見る。彼は先ほどから、ひたすらに無言だったのだ。どうして何も言わないのだろうか。そう思っていると彼は一度顔を上げ、ユウに話し掛けることはせずに無言で振り返った。
「君」
視線の先にいるのは、先程下がったネイリストだ。ロマンは彼女を見やると、ややあって静かな声で問う。
「これは君が?」
「はい」
「……なぜ青を塗った?」
……あ。
ユウは腕を掴まれたまま、僅かに青い顔をした。ロマンの纏う空気が変わっていくような感覚。耳を塞ぎたくなるような重苦しさ。こういう状況を、今までに何度も見てきたから知っている。これから起きるであろう未来に思わず唇を引き結んで一人下を向くと、戸惑ったようなネイリストの声が聞こえてきた。
「サムシングブルーは花嫁にとって良き色でございますから。ドレス担当者や奥様とも話をして、奥様のイメージやドレスに合うお色をと思いまして——」
「変更しろ」
遮るように言葉が発せられる。笑顔のまま、ネイリストの動きが止まった。次第に明らかに、困惑したようなそれに変わる。「は?」
「色を変更しろと言ったんだ。今すぐやり直せ」
「で、ですが」
「言い訳をするな! 私の話が聞けないのか!」
ダンッと大きな音を立ててロマンは立ち上がった。途端机の上のネイル用品がガラガラと音を立てて薙ぎ倒され、その際一緒に投げ飛ばされたユウの腕は机に叩き付けられる。疼痛に顔を歪ませつつ顔を上げると、ロマンは頭を下げるネイリストに詰め寄って怒鳴り散らしていた。申し訳ございません。平謝りする彼女の言葉など一切入ってこないとでも言わんばかりに、彼はひたすら糾弾を続ける。
「花嫁に必要なのは華やかで柔らかい色だと予め伝えておいたはずだろう! それが何だ、この色は! 妻や担当者の好みなどは関係無い!」
「仰る通りでございます、」
「分かっているのなら初めからやれ! 当日私に恥をかかせるつもりか、この無能が——」
キンと耳鳴りがした。いつものように自分が怒鳴られているような気分になって、内容がうまく聞き取れなくなって、ユウは苦しくなる呼吸を必死に落ち着かせる。と、顔のすぐ隣をロマンの投げた何かが掠めて、直後背後で大きな音を立てて割れた。ひ、と小さく声が漏れる。
「——、」
もう何も考えられなかった。冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、ユウはただただ小さく身体を縮こませる。
それからしばらくの間、室内にはひたすら、怒鳴るロマンと謝るスタッフのやり取り声が響き渡っていた。
❖
この騒動は結局ロマンの気の済むまで続いた。
『ではそろそろ仕事に戻るとしよう。ユウ、良い子にしているんだよ』
そして十数分後。まるで何事もなかったかのように笑顔を浮かべて彼が去ると、一同は同じく何事もなかったかのように慣れた様子で片付けを行い、それぞれの仕事を再開した。ネイリストだけは別の者に変更されることとなったが、どこから手配してきたのか、その手配されたスタッフもあっという間にやって来て。その処遇に前任のスタッフは最初こそ不満のありそうな顔をしていたものの、ロマンの部下からあり得ない額の小切手を渡され満更でも無さそうな顔をしていたので、恐らく双方に何ら不都合は無いようだった。ユウはそんな光景を見るのが嫌で、一人目を伏せた。
『では奥様、少々スケジュールが押しておりますので』
こうして未だ心が落ち着かずに怯えていたユウの元には再び先程までと何ら変わらない設備が整えられ、これまたあっという間に、有無を言わさず施術が再開された。まるで今までのことが全て無かったかのように、青い爪は落とされ柔らかな桃色が施され。それが終わると今度は歩き方の指導やエステ、メイクのリハーサル等々——ありとあらゆる担当者が呼ばれては指導や施術を受け、目が回るほど沢山のスケジュールをこなすこととなったのである。
そして、夜。
ユウは部屋に戻ると、後ろ手に扉を閉めた。視界に入ったのは見慣れた己の部屋。
完璧にベッドメイキングされている、まるでホテルの一室のようなそこを眺めて何度か瞬きをしてから、彼女はゆっくりと一歩足を踏み入れた。毎日ここで寝ている筈なのに、そこはいつも通り、知らない誰かの部屋みたいに感じた。
「……——」
ユウはふらふらと覚束ない足取りで窓辺に向かった。椅子に腰掛けると、受け止めた柔らかなクッションによって身体が少しだけ沈みこむ。ふう、と小さく息を吐きながら下を向いた。膝の上の十本の爪先にはキラキラと、まるで自分のものとは思えないような美しい彩りが並んでいる。
随分と色々なことが起きたものだから、今日は少し疲れてしまった。吹き込む穏やかな夜風を頬で受けながら窓のほう見上げると、視線の先には夜空にぼうっと浮かぶ少し欠けた月が浮かんでいる。
『見ろ子分、今日は真ん丸の月なんだゾ! じゅる……饅頭みたいだな……すげーウマそうなんだゾ……』
『あはは。お月様は食べられないよ、グリム』
「…………」
何をしていてもどうしても考えてしまうのは、やはりグリムのことだ。学生時代、真剣によだれを垂らしながら月を睨み付けていた可愛らしい友人の姿を何となく思い返して、ユウはぐっと唇を引き結ぶ。
今どう行動するのが正解なのか、本当に今の自分のやっていることはグリムの為になっているのか。先日のフロイドの言葉と今日のロマンの言葉、それぞれを思い出すたびに、ユウは怖くなった。ロマンの言うことが正しいのなら、ロマンの元に来た意味はある。だけどもしも——もしも。フロイドたちの調査結果が本当で、グリムはもう外国にいなかったとしたら? 自分がここに来たことは全くグリムを守る役に立っていなくて、この屋敷に嫁いだところで何もかもグリムにとって無意味だったとしたら? 今この時にも、グリムの身に何かあったとしたら……? ——それらを考えるのが怖くて、恐ろしくて。さいきん、時折今まで以上に頭がおかしくなりそうだった。これからどうすれば良いのか、分からなくなりそうになるのだ。
「……、」
と。ふと、すぐそばに置かれた丸テーブルの上に目を向けた。
そこに置かれているのはぬいぐるみのクマだった。可愛らしい燕尾服を着て、黒いリボンをボウタイのように巻き付けた、可愛らしい茶色いクマ。
これはユウが初めてこの屋敷に来たとき、ロマンからプレゼントされたものだ。
『我々が同棲を始めた記念の品だよ』
この部屋に案内された際にそう言われたそれは、彼によるととある有名高級ブランドの限定商品なのだそうだ。どれくらいの価値があるか、どれだけ貴重なものなのか。当時誇らしげに長々と語っていた彼の説明にもあった通り、左足の裏には相変わらずシリアルナンバーが刺繍されて刻まれている。
ユウは震える手でそれを手に取り、クマの背中に触れた。燕尾服を捲りあげた下——隠されるように取り付けられているチャックをそっと開けると、中には白い綿が入っている。そこにおもむろに指を突っ込み中をまさぐると、何から出てきたのはとある固くて小さいものだった。彼女はそれを大事そうに取り出すと、心を落ち着かせるように胸の前で必死に握る。
はたして、それは石だった。以前ボウリングに行ったとき、フロイドから貰った通信手段の魔法石。連絡する勇気が出ず、結局連絡手段としては一切使っていないものの、隠しているこの場所から時折取り出しては、ユウはこうして不安を紛らわすための手段として使っていた。
これの存在は絶対にロマンに見つかる訳にはいかない。それくらい、今の彼女にとって最も大事な品だった。大切にするとフロイドと約束したから。とても大事なものだから。隠し事は無しだと強く言い付けられているけれど、これだけはどうしても手元に置いておきたかった。……だから見つからないように、ユウはこれを普段から一日のうちの数分しか触れることをしていない。
「……、?」
が。いつものようにひとときの安寧を大事に享受して石を仕舞おうとしたユウが、けれど不意にその動きを止めたのは、月明かりに照らされたそれを見て僅かに違和感をおぼえたからだった。青い石。金色の縁取りが周囲に施されている、その中心の煌めき。彼女はそれを暫くじっと見てから、持ち上げて月明かりの下に置いてみて。そしてややあって、僅かに瞠目する。
「あ、れ……」
石の中心部分。貰ったときから何か模様があるように思っていたそこにあったのは、単なる自然にできた模様ではなかった。——花だ。花の形が、石の内部に彫られている。
ユウは驚いて石から顔を離すと、直後思い出したように周囲の黄金細工をまじまじと見た。石の周りを覆っているのは、黄金の蔦や葉だったはずだ。そういえば。そう思ってから——ややあって、確信したような顔をする。
蔦を伸ばしながら石を抱いているこの周囲の葉も、石に掘られた花も。この石にまつわる植物は、たった一つの植物で構成されていた。そう、見覚えのあるその植物の名は。
「マレルナだ、これ……」
どうして今まで気付かなかったんだろう。ユウは少し前のめりになって、石をまじまじ見つめた。
マレルナ。岩礁や隆起サンゴ礁といった海辺に咲く、光る花。学生時代、まだ魔法植物が苦手だった頃。ツイステッドワンダーランドについて右も左も分からず、児童文学に出てくる植物すら満足に理解できなかったユウに、フロイドが見せに連れて行ってくれた花。
ユウが初めて魔法植物に興味を持った、人生の転機になった特別な花の一つだった。花言葉は——、
「……あなたの、光になりたい……」
掠れた声で呟いた瞬間、ユウの頭の中でふと、先日フロイドが言っていた言葉の数々が思い出された。
『何でも良いから、話したくなったら連絡して。どんだけ変な時間でも良い。どんなにくだらねー話でも良いから』
『忘れないで。オレらはさあ、いつでも小エビちゃんの味方だから。——絶対に』
次いで思い浮かんだのは、グリムの笑顔。
——子分! こっちなんだゾ!
「…………、——っ」
刹那、ユウはなんだか無性に泣きたくなった。苦しくなって、思わず石を握ったまま身体を折って蹲る。ぼろ、と涙が溢れた。ぽつりぽつりと、水滴が床にシミを作っていく。
もしグリムに何かあったら。
もしグリムを守ることなんてハナから出来ていなくて、自分がここに嫁いだ意味なんて最初から全く無かったとしたら。
そのことについて考えるとき、いつも頭の中には『このままにしていてはいけない気がする』という、漠然とした直感めいたものが浮かぶ。胸の奥では、焦燥感がずうっと燻っている。自分がここに嫁げば丸く収まると、初めはそう思っていたのだ。自分でどうにか出来ると思っていたのだ。だけど、そうじゃなかったとしたら? 今、一人でいても無力なだけなのだとしたら?
(…………良い、のかな)
ふと、心の中で呟いた。
(良いのかな、先輩に連絡してみても。光に、縋ってみても。良いのかな)
「…………、」
ユウはしばらくそのまま蹲っていた。何も言わず、ただ肩を震わせながら縮こまっていた。けれどややあって身体を起こすと、ズッと鼻を啜る。僅かに赤くなった濡れた目を擦ってから、ぬいぐるみを元の場所に戻した。
石は未だに手の中だ。大事なそれをじっと眺めながら、どうするべきか今一度真剣に考える。手は震えていた。不安で、今にもどうにかなりそうだ。だけど。それでも。
「——」
ユウは小さく深呼吸をした。それから改めて石を顔の前に持ってくると、覚悟を決める。立ち上がって顔を上げると、部屋の扉へと視線を向けた。
「……グリム、待ってて」
それから数分後。ユウはとある場所で屈むと、身を縮こませながら以前フロイドに教えてもらった通話ボタンを強く押した。
しばらく間があった。まるで永遠の時が流れているみたいな感覚になった。けれどそうしてしばらく待ったのち、石から声が聞こえてくる。
『……小エビちゃん?』
「っ」
安心する声だった。ずっと聞きたかった、懐かしく感じる声。
ユウは小さく息を吐く。それから震える声で恐る恐る口を開いた。
「フロイド、先輩。ユウです。あ、の——今、お時間良いですか……?」
『ッ、もちろん。……いま一人? シャチョーは?』
『旦那様は近場のリストランテにお得意様とディナーに行っています。数時間で帰ると仰ってました。私はその、一人です』
『おっけ。……ごめん十秒だけ待てる? オレいまシャワー浴びてきたばっかで全裸でさ——ぅお、』
「ぁ……す、すみません。掛け直したほうが……」
『全然。そのまま待っててぇ』よほど慌てているらしい。ガラガラと何かが倒れる音が聞こえて、ユウはちょっぴり心配になった。
『——よっ、と』
けれどすぐに音は収まって、『お待たせぇ』と間延びした声が聞こえる。聞き慣れたその声に、彼女は内心ほっとした。と、フロイドが石を持ち上げたのだろう。声が近くなって明瞭になる。
『連絡くれてありがとねえ、小エビちゃん。スゲー嬉しい』
「いえ。……連絡、遅くなってすみません」
『へーき。オレもアズールに連絡しろって言われてもさあ、気分が向かなきゃ一切連絡しないし』
「それは……怒られるやつじゃ……?」
『えー? 平気じゃね?』
『おい聞こえていますよ』
『ウワ、アズール』
『ウワとは何だ』
どうやら部屋にアズールが入ってきたらしかった。扉が開く音のあとで、軽口を言い合うような声が聞こえてくる。ユウはなんだか懐かしくなった。
『ユウさん、お久しぶりです。先日ぶりですね。プライベートな会話に割り込むような形になってしまい申し訳ありません。文句ならフロイドまで。ここで通話をしようとしたコイツに十割非がありますので』
ぎゃいぎゃいと昔と何も変わらない騒がしい様子は、学生時代と何ら変わりがなかった。話を聞いているだけで不思議とユウの心は落ち着いていって、それまで強張っていた身体が、ほんの少しだけほぐれていく気がする。彼女は僅かに目を細めると、袖で零れかけた涙をゴシゴシと拭った。
「……大丈夫です。フロイド先輩だけじゃなくて、その、皆さんにも聞いて貰いたい内容、なので……」
『おや、そうでしたか』
話しても良いのかな。タイミングを測りかねて尻込みしていると、フロイドから『どんな内容?』と優しく促される。ユウはぎゅうと石を握る手に力を込めると、おずおずと口を開いた。
「その……グリムの件、なんですけど……」
震えそうになる言葉尻をなんとか堪えながら、彼女は一生懸命を話を始めた。必死に言葉を紡ぐ。
「あの。グリムの居場所とか安否って、……もう分かったりしていますか」
一瞬、フロイドは固まった。
『……んーん』ややあって小さく息を吐いたあと、彼は言葉を選びながら会話を続けた。『ごめん、まだ。——でも監視カメラの映像漁ってたホタルイカ先輩がねえ、この間アザラシちゃんが映ってるヤツ一個だけ見つけたよ』
「……えっ」
『と言っても遠くからの定点映像だし、見つけられたのはまだこれだけだけどさ』
フロイドは石の向こうの様子を窺いつつ言う。
『とはいえ有力情報には間違いねーよ。オレもそれ見たんだけど、空港の駐車場の防犯カメラに映ってた。帰国したアザラシちゃんがさあ、——ケージみたいなのに入れられて黒服の男たちに車に乗せられていくところが。
画質悪かったからアレだけど、大人しく運ばれてたってことはきっと気絶させられていたんじゃねーかな』
「っ、そんな」
『ただ、この間話したオレらがアザラシちゃんの作ったアクセサリーの魔力を感じ取ったのはこの日よりも後。だからきっとアザラシちゃんは無事だよ。そこは安心して』
「……無事、」
『ウン』
「…………」
『……小エビちゃん?』
黙り込んだユウを心配して、フロイドが問うた。ユウはそれを聞いてハッとすると、「は、はい」と反射的に口を開く。
『大丈夫——じゃ、ねーよな。ごめんね、色々一気に話して』
「いえ…………」
ユウは俯いた。それからややあって顔を上げると、「あの、」と口を開く。
「私、さっき旦那様にお伺いしたんです。……グリムと、結婚式をする前にテレビ電話でも良いから連絡を取らせて頂けないかって」
『——、は』通信の向こうでフロイドの声が僅かに上擦った。『え、マジ? 小エビちゃんが?』
「……はい。そしたら——」
ユウはフロイドに、昼間ロマンに言われたことを伝えた。グリムは夕焼けの草原にいること。数年は帰国の予定が無いこと。忙しいから連絡を取れるかどうか分からないと言われたこと——等々。
『……アイツそんなこと言ってたの?』
「はい」
『んなワケねーよ。ホタルイカ先輩がハッキングしたデータ覗かせて貰ったけど、アザラシちゃんがこの間の帰国以降出国した記録なんて無かったし』
「……で、すよね。でも……、……」
ユウは下を向いた。困ったように眉を下げ、「すみません」と唐突に謝罪をする。
『? 何がぁ?』
「私——その、何が本当で何が嘘なのか、よく分からなく、なっちゃって。せ、先輩たちのこと、信じてない訳じゃないんです。だけど……その、旦那様の言うことは、ぜったいなはず、で」
『……小エビちゃん、』
「でも、グリムが……もし先輩の言う通りだったら、グリムは今、一人なんですよね。……あの子が怖い思いをしてるのは、絶対に嫌なんです。だから、その、」
言いたいことが上手く纏まらなくて、ユウは悔しくなった。『……ゆっくりで良いよぉ』落ち着かせるようなフロイドの言葉に頷いて、必死に思考を働かせる。
自分の意見や考えがどうにも矛盾していることは、自分が一番良く分かっていた。自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだった。フロイドたちはこんなにも力を貸してくれているのに、それは充分すぎるほど分かっているのに。けれど一方で、ロマンの言うことだって嘘な筈がないという考えが頭を占めるのだ。
嘘な筈がない。旦那様を疑うなんてそんな卑しいこと、してはいけない。……だけど、このままで良い気もしなくて——……。
訳が分からなくなりそうで、ユウは顔を歪ませた。けれど、そんなことをしている時間はないのも事実。自分はいま、一歩前進するために連絡をしているのだ。そう自分を叱咤して、なんとか一言ずつ、噛みしめるように言う。
「私にもっと出来ることがあるなら、やらなきゃって思ったんです。このまま分からないままにしてちゃ駄目だって」
『ウン』
『それで——その。どうしたらグリムに繋がる手がかりをもっと手に入れられるかなって考えて。見当違いかもしれないんですけど、一つ思いついたことが、あって」
『……ウン? 思いついたこと?』
「……はい」
ユウはグッと拳に力を込めた。震える声で、けれどはっきりと言う。
「い、今、旦那様の部屋に来てるんです」
『…………は?』
「っ、勝手に忍び込むなんていけないことだって、分かっているんです。でも、もしグリムの為になるのなら今しかないって、思って。そしたら
『……待って、待って小エビちゃん。え、今社長の部屋にいんの? 「これ」って何?』
「……」ユウは手元のそれをちらりと一瞥してから言う。「私の、スマホです」
『スマホ?』
「はい。グリム、あの肉球なのであんまりスマートフォンの操作得意じゃないから、ほとんど私としか連絡を取っていなかったんです。エースやデュースとかと何か用がある時は、私たちはグリムが外国に行くまでは一緒に住んでいたので、私が仲介役になって内容を伝えていたくらいで……だから最後にメッセージを送ってくるとしたら、私宛てだと思って。それでもしかしたら、何か手掛かりになりそうな連絡を残していたりしないかなって……」
『!』
「可能性は低いかもしれないですけど、やってみないと分からないから……取り敢えずバッテリー切れちゃってたので、いま充電してみています。
そ、それで——部屋に行くなら先輩が聞いていてくれたほうが、もし手掛かりを見つけたとき上手く役立ててくれるかもしれないって、思ったんです。だからその、連絡しました……」
久々にこんなに話した気がする。そう思ったユウは顔を強張らせたまま、焦ったように視線をすべらせた。
彼女の手元には、コンセントに繋がれたスマートフォンが置いてある。充電器はロマンが使っているらしきものが先ほど見つかったので、それを使わせてもらった。が、そもそもユウのスマートフォンは嫁いだ日に没収されてからずっとタンスの中で放置されていたのか、電源が切れてから日が経っているせいか充電が足りずまだ起動していない。
「グリムを助けるためなら私、……なんだって、やりたいんです。お願いします。き、協力して頂けませんか……」
『……』
フロイドはアズールと通信機の向こうで顔を見合わせた。それからゆっくり天を仰いで、考える素振りをする。
やはり小エビは小エビというか——少し目を離した隙に、この娘は相変わらずあまりにも無茶で突拍子もない行動をする。本当はこれ以上無茶なんてして欲しくないのに。けれど、それを彼女に言ったところで意思を変えるような娘でないことは、フロイドが一番良く分かっていた。そう思って溜息を吐くと、『……小エビちゃんさ』と口を開く。
『社長は食事会行ってるってさっき言ってたよね。ホントにまだ帰ってくる可能性はねーの?』
「少なくとも、あと一時間くらいは帰ってこないと思います。いつも車が帰ってくるの、それくらいは掛かるから……」
ユウはぼんやりと、普段の様子を思い返した。窓をぼんやりと眺めているあいだに、会食に出かけたロマンの車はいつも行って帰ってくるのだ。
『なら良いケド——あの家政婦たちは?』
「アンディさんとマリーさんは、今晩はもう帰っているので……。前にフロイド先輩が来たときはその、旦那様が出張だったから……旦那様が私を一人にしないようにって命令されていたので、お屋敷に泊まってたんですけど、」
『なるほど、話は分かりました』アズールが言った。『しかし、仮にユウさんのスマートフォンにグリムさんから連絡が来ていたとして、それは今まで没収されていたんでしょう? 既にあの社長に中身の全てを読まれているのでは?』
アズールはそこまで言うと、一瞬ふと言葉を止めた。それから深刻な声音で言葉を続ける。『——というか、待て。ロマンがユウさんのスマートフォンを持っていたのなら、フロイドとの交友関係もバレていませんか』
『……あー、それは大丈夫だと思う』
と、ユウが口を開く前にフロイドが言った。怪訝そうな顔をしたアズールに、さらに続くフロイドの声がさらりと発する。
『小エビちゃんのスマホさあ、国家元首のスマホ並みにセキュリティ万全だから』
一瞬の沈黙。直後、アズールの声がぽつりと響いた。
『……は?』
❖
