三、やくそく

 右に曲がってから真っ直ぐ進んで、扉を三つ通り過ぎた突き当りを左折。その先をしばらく進んだ先、一番奥に見える大きな扉の部屋。
 そこに聳えているのは派手な装飾がとにかくふんだんに施されている、まるで中世の映画に出てきそうな扉だった。冷え切り静まり返っているこの屋敷の廊下はどの角度から切り取っても豪奢ではあるけれど、目の前の扉はそのいずれよりもとにかく贅を尽くされている。
 ——〝社長室〟
 金色のプレートが掲げられた壁にはそう記載されていた。ギラギラと光るそれは小さいながらに存在感を放っていて、けれど光が反射していているせいかどこか読みにくい。読むために作られているというよりも、作らせた者の好みや自己顕示欲が色濃く反映されていることは明らかだった。
(……良かった、ちゃんと着いた)
 やっとの思いでそんな目的地の前まで辿り着くなり、ユウは内心ほっと胸を撫で下ろした。同じような廊下がどこまでも続くこの屋敷は残念ながら、絶望的なほど方向音痴である彼女からするととにかく迷宮でしかない。少し歩いただけでも迷子になりそうなここで、その上さらに目的の場所に向かうだなんてそんな高度なこと、……正直なところ、ユウにとってはここに来てから数か月が経った今でも至難の業だった。
 それでも、絶対に迷う訳にはいかないのだ。屋敷の中で道に迷い、時間に遅れたなんてことが万が一あったら——また怒られてしまうのは確実だから。
 そう考えると今日は運が良い。本当に良かった。『あの人』が怒るとすごく怖いから……。ユウは改めて、噛み締めるようにそう思った。
「……、」
 と、中から僅かに漏れ聞こえた大きな笑い声に、彼女ははっとしたように顔を上げた。呑気にあれこれ考えている暇はないと、現実に引き戻されてふと我に返ったのだ。唇を引き結ぶと、不安げに黒曜の瞳で重厚な見目の扉を控えめに見上げる。
 息を詰めて腕を持ち上げ、部屋の扉をノックした。ゴンゴンと重苦しい音が響いたのち、一拍置いて「入れ」と低い声が聞こえる。
 ユウは扉を開けた。生暖かい空気が頬に触れたのと同時、静かに頭を下げてなるべくしとやかに言う。「……ご歓談中失礼致します」
「こっちに来なさい」
「はい」
 低いヒールの先が、敷き詰められている花柄のカーペットに沈む。ユウは視線を落としたまま、部屋の真ん中に誂えられているソファーに向かって歩き出した。そこには中年の男が座っていて、にこりと笑みを浮かべている。ユウの姿を一瞥してから視線を外すと、「いやあ、話を中断してしまって申し訳ない」と余所行きの声で言った。
「実は、今日は君たちに紹介したい者がいてね。まだ信用のおけるほんの数人にしか紹介していないんだが、話の分かりそうな君たちになら見せてやっても良いだろうと思ってね」
 『君たち』——歓談中だったらしい男は目の前のローテーブルに置かれたティーセットを手に取りながら、向かいのソファーに座っているらしい来賓に向かって明るくそう言った。ユウの立ち位置からは死角になっているため彼らの顔はまだ見えないが、どうやら今日の商談は穏やかに滞りなく進んでいるようだ。男の近くへ到着したのはそんなことを考えている時で、ユウはいつもと同じように男の座るソファーのすぐそばにて立ち止まった。しずしずと頭を下げると、ちらりとそれを一瞥した男は楽しげに口を開く。
「実は最近妻を欲しいと思って、せっかくだから娶ることにしたんだ。それでしばらく探していたんだが、少し前にぴったりの女を見つけたんだよ。——さて、改めて紹介しよう。これが妻のユウだ」
「……ユウと申します」
「どうだ、ここらでは少々珍しい黒髪だろう? 見た目もなかなか悪くない。気に入ったので、これとは近々挙式を挙げる予定でね。そこで正式に籍を入れる予定なんだ」
「——ほう。それはそれは」
「まあ、社長の妻としてはまだまだ若輩者で少々見苦しい点はあるがね、これからしっかり躾をしていくつもりさ。そういう訳で、妻のこともどうぞよろしく頼むよ。ああそうだ、是非君たちのことも我々の結婚式に招待させてくれ。後日招待状を送らせて頂こう」
「……ありがとうございます。光栄です」
 ユウの視線の先に、綺麗に手入れの施された、客人の大きな革靴の靴先が見えた。先ほど相槌を打ったのがユウから見て奥にいる人物のようで、いま声を発したのは手前の人物……ということは、どうやら今ここを訪ねてきた客人は二人らしい。そんなことを彼女がぼんやり考えていると、「ああ、申し訳ありません。自己紹介が遅れました」と奥に座る人物の声がした。直後、彼らがユウのほうを向いて立ち上がる気配を感じる。
 わざわざ立ち上がってくれるなんて。ユウは慌てて、一拍置いてそっと顔を上げた。
 ここらで微笑んで、軽く挨拶を交わすのが予め言い付けられている基本の会話の流れだ。頭の中でセリフを反芻し、笑顔を浮かべようとして——けれど直後、目の前の光景を認めた途端動きが止まる。
「……——、」
 叫ばなかったのは、ほとんど奇跡だった。
初めまして、、、、、、奥様」
 だってそこに立っていたのは、——すごく、見覚えのある顔ぶれだったから。
「私はアーシェングロット社代表取締役社長の、アズール・アーシェングロットと申します」
 どこか胡散臭いような、けれどよく透き通る、綺麗な声を持った男だった。銀縁の眼鏡の下、ギラリと鋭い碧い眼光が覗いている。
 ……なんで。どうしてここに。
 ユウは混乱した。けれどアズールはそんなことなどお構いなしに彼女に笑顔を向けると、「そしてこちらが」と、そのまま流れるように隣の男に手のひらを差し向ける。ユウの視線はそれにつられた。ゆっくりと、黒曜の双眸の向かう先が隣の男へと移動する。
「……っ」
 直後、一瞬呼吸を忘れた。先程から気付かないふりをしていた存在が、否応なしに視界に入ってきたからだ。
「——こちらが、我が社の専務を務めているリーチです」
 ユウはアズールの説明を聞きながら、目を見張るほど鮮やかなターコイズブルーの下の——見慣れた、けれど随分と懐かしく感じるヘテロクロミアと視線が交錯したのを感じた。それから一拍ののち、その男は慇懃に口を開く。
「ご紹介に預かりました。改めまして、初めまして奥様。私はフロイド・リーチと申します」
 よく知る普段の態度とは何もかもが異なる、まるで彼の片割れのような口ぶりと所作だった。糊がきいた、第一ボタンまできっちりと閉められたシャツを身に纏った彼は、何も言えずに呆けているユウにニコリと微笑むと会釈をする。そうして慇懃に言った。
「——どうぞ、以後お見知りおきを」
 三連のピアスが緩く揺れる。
「……、……」
 ユウははくりと口を開閉させた。どうしていいのか分からなかった。
 上がった口角とは対照的に、フロイドのゴールドとオリーブの目は全く笑っていなかったけれど。
「ぁ……よ、ろしく……おねがい、します、……」
 彼女はそんなことに気付く余裕もなく——ただ辛うじてそう口を開いて、目の前の信じ難い光景を呆然と見つめることしか出来なかった。

 三、やくそく

「話は以上だ。部屋に戻っていなさい、ユウ」
「……——」
 フロイドは、唐突に淡々と放たれた言葉を聞いて緩やかに瞬きをした。声の主である男——ロマンのほうを見やると。つい一分ほど前に〝これから自分が妻にする予定の娘〟を呼び立ててフロイドたちに紹介してきた彼は、ソファーに座ったままもう用は済んだと言わんばかりに目の前のテーブルに置かれたティーセットを手に取り……一人悠然と、紅茶に口を付けている。
 彼がそのまま視線を移すと、相変わらず目の前では明らかに来客たちの姿に困惑している様子のユウが、硬直しながらアズールを見上げていた。彼はその様子を見て、すっと目を細める。
(……痩せたな)
 心の中で最初に独語したのはそんな所感だ。ユウは元々痩せぎすではあったが、それはそれとして二か月ほど前に会ったときまでは、ここまでではなかったはずだ。
 ——小エビが音信不通になったあの日から二か月と少し。フロイドたちはあれからありとあらゆる手を使ってラズトーキン社の調査をし、彼の興味がありそうな取り引き材料を餌にし。持ち前のトーク力や度胸を駆使して、結果こうして異例の速さでここまでロマンに近付くことに成功した。この屋敷に招待されて社長である彼自らと会話することが出来るのは、気難しい彼が会うと決めた限られた人間だけ。だからこれは、快挙と言っても過言ではないだろう。……だが当然、フロイドとしては現状その程度のことで喜ぶ訳にはいかなかった。なんせ目的はもっと先にあるのだから。
「……」
 フロイドは改めてユウを見た。
 あの日から一度も姿を見ることが敵わなかった小エビの無事な姿を、こうして一目でも見られたことにまずは一安心であるけれど。とはいえフロイドから見て、目の前の小エビは記憶の中の彼女よりも明らかに以前より窶れているように見えた。明らかに、今まで以上に吹けば倒れてしまいそうな身体をしている。
 目の前の状況への理解が追いつかないのか、彼女は未だに戸惑っている様子だ。けれどフリーズしているそんな彼女の様子に気付いたロマンが、しばらくしてちらりと訝しげに痩躯を見やる。
「どうした、聞こえなかったのかい?」一拍ののち、彼はソーサーを置きながら目を向けた。静かだが、明らかに威圧感のある口調である。「ユウ。部屋に戻りなさいと言っているんだよ」
「、」
 はっと我に返った小さな痩躯が、びくりと肩を跳ね上げて僅かに縮こまった。
 ユウはロマンを振り返る。濁った瞳と視線がかち合って、慌てて一歩後ろに下がった。
「も、申し訳ありません」
「うん、さっさと行きなさい」
「はい」
「分かっているね。私が呼ぶまで一歩も出て来るんじゃないよ」
「……はい」
「よろしい」
 ぺこりと頭を下げて、ユウは回れ右をした。けれど先程入ってきた扉に向かって再び歩き出す前に、フロイドとアズールは一瞬アイコンタクトを取る。直後、「——失礼、ロマン社長。少々よろしいでしょうか」とアズールが口を挟んだ。
「どうかしたかな? アーシェングロットくん」
「僭越ながら私共といたしましては、せっかくこうしてご挨拶に来てくださった奥様にも、ぜひ次の企画についてのご意見を伺いたいのですが……如何でしょう」
 フロイドはちらりとユウを見た。歩き出そうと片足を半歩前に出した体勢の彼女は、困ったようにロマンのほうを振り返って立ち止まっている。小エビちゃん、フロイドは心の中で声を掛けた。先ほどから手が届く位置にいるというのに、触れられないどころか目すらまともに合わない。どうにも様子がおかしいのは明らかで、グッと膝の上の拳を握り込む。
「『ご意見』? はは、気を遣わなくて良いんだよ」
 と、すぐそばではロマンがアズールに大声でそう宣った。「あれは我々の仕事のことに何か口を挟めるほど、器量が良くはないさ」
「いえ、いえ。気を遣うなどとんでもない」それに対しアズールは大袈裟に肩を竦める。「先ほどもお話しした通り、我が社はこれから女性をターゲットにした企画を進めていく予定です。新たな客層の顧客を得るため御社と提携をして、サービスの拡充を図りたいと考えています。それには女性ならではの視点として、奥様のご意見も大変参考になるかと」
「……ふむ」
 ロマンは一瞬考える素振りをした。それからすぐに、小さく肩を竦める。
「まあ、君がそこまで言うのなら構わないが……期待はしないでくれたまえ」
「ああ、許可を下さりありがとうございます」
「手早く済ませてもらえるかな? いかんせん、彼女はあまり身体が強くないのでね。負担になってはいけない――ユウ」
 デタラメ言いやがって。フロイドが内心そう思ったのと同時に、名前を呼ばれたユウは不安げな顔でロマンを見た。
「はい」
「ここに座りなさい」
「は、はい」
 ここ、と示されたのはロマンの隣――フロイドの真正面の席だ。か細い声が室内に落ちて、ユウは遠慮がちに三人の元まで戻るとソファーに腰掛ける。様子を伺うようにちらりとロマンを見上げてから、視線をローテーブルに移した。また目が合わない。フロイドがそう思っている間に、よろしくお願いします、と小さく頭を下げる。
「……ええ。こちらこそ、よろしくお願い致します」
 アズールは営業用の笑みを浮かべた。小エビと彼らの実際の関係を知る者からしたらあまりにも奇妙な光景だが、さすが数々の取引現場を潜り抜けてきた男というべきか。今のこの状況に見事に順応し、説明を続ける。
「当社は、カフェやバーの経営を中心業務としている会社です。このたび、御社と提携をして女性のお客様の来店率を上げたいと考えています。——口頭で説明しただけでは分かりにくいですね。最近刷新した店舗紹介の小雑誌があるので、よろしければ」
「ほう、洒落た装丁ではないか」
「ラズトーキン社長にそう言って頂けるとは。恐れ入ります」
 アズールが鞄から取り出し差し出した冊子を、ロマンは手に取ってぱらぱらと中身を確認した。隣の小エビに見せる気配など毛ほどもない。その様子を一瞥してから、フロイドは隣で黙っているユウにもう一部を手渡す。
「奥様にも一部どうぞ」
「!」
 ユウは少し驚いたようにそれを見てから、戸惑ったようにフロイドを見上げた。迷子の子どものような目をしながら、再びロマンを見る。
「構わん、受け取りなさい」
 ロマンからそう言われたのち、彼女は白い手でようやっと小雑誌を受け取った。「……ありがとうございます」小さな声が室内に響く。
「とんでもございません」フロイドは微笑む。「実は、この雑誌に写っているスタッフは私なんですよ。店の雰囲気が分かるように、実際にモデルを入れて撮りたいと、カメラマンに無茶振りをされまして」
「……」
 ユウはちらりとフロイドを見た。それから慌てたように視線を落とすと、フロイドが指した写真を見て「そう、なんですね」と相槌を打つ。
「ええ、モデルなんて初めてだったので緊張しました。……ああ、緊張といえば奥様は、最近このお屋敷に住まわれ始めたのだと先ほどお聞きしました。新生活には慣れましたか?」
「へ。ぁ……は、はい、少し。その、……旦那様が大変良くして下さるので、……」
「――そうですか。それは何よりです」
 フロイドはスッと目を細めた。彼の言葉に続くようにアズールが口を開く。
「当社では新規のお客様にも、訪れたときに落ち着いて楽しんで頂きまた来たくなるような空間作りを目指していきたいと考えています。些細なことでも構いません。難しいことは抜きにして、奥様から見て何かご意見などあれば、教えて頂けると大変嬉しいです」
 けれど結局、ユウは五分程度で退室することとなった。というのもロマンが『妻は体調があまり優れないようだから』と話に割り込み、さっさと彼女の部屋に控えせてしまったのだ。
「……ロマン社長、突然の申し出を受け入れて下さり、ありがとうございました」ユウが退出したあとの扉を一瞥してから、アズールはにっこりと作り笑顔を浮かべた。「貴重なご意見、大変参考になりました。どうぞ奥様にもよろしくお伝えください」
「構わんさ。——そういえば君たちは結婚をしているのかい? え? してない? そうかそうか、まあまだまだ若いからね。私もそのくらいの歳の頃は随分とヤンチャしたものさ」
 ロマンは得意げにそう言って、脚を組む。
「だが結婚は良いものだよ。可愛い嫁を娶り、共に過ごすことができる……こんなに楽しいことはない。君たちも、いつかそういう人たちに出会えることを祈っているよ。まあ、妻の躾をするのはそれなりに骨が折れるがね。ははは」
「…………——」
「そうだ。もし良い人がいないのなら、ここは一つ私が誰か紹介しようか。どうだい? きっと気に入る娘が一人くらいは見つかるだろうよ」
 タイミング良く、フロイドとロマンの目が合った。フロイドはじっと男を見てから口を開く。
「お気持ちは大変ありがたいですが、遠慮させて頂きます」にこりと笑みを浮かべ、彼はこともなげに言った。「私には長い間、密かにお慕いしている方がおりますので」
 アズールがちらりとフロイドを見た。その横で目を丸めたロマンは、ややあって仰け反ると大仰に笑う。
「ははっ、これは失礼した! いやあ、そうかそうか。面白いことを聞いたなあ! 君ほどの良い男を放っておくなんて、相当な良い女なんだろうね」
 室内には一人ぶんの笑い声が響いていた。テーブルにロマンの足が当たったのか、置かれているティーカップの水面が波紋を作る。フロイドは目を伏せながら、そんな光景を意味もなく見ていた。ややあって顔を上げると、薄く笑う。静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「ええ、それはもう」

   ❖

「……」
 しばらく進んだ先。ひとけのない廊下の途中で立ち止まるなり、ユウはバクバク鳴っている自分の心臓の音を誤魔化そうと胸の前で手を握り締めた。明らかに戸惑いを隠しきれていない、不安げな顔をして唇を引き結ぶと、「……なに、」と小さく呟く。
 思い出すのは、先ほどの社長室でのできごとだ。
 ……フロイド先輩がいた。アズール先輩がいた。
 あの事態はユウにとって、とてつもない衝撃だった。もう会うことがないと覚悟したはずの彼らが、どうしてここにいたのか。
 ——偶然だろうか? きっとそうだ。
 ユウは一人問答する。
 だって、わざわざここまで会いに来る理由がないのだ。いくらユウが金持ちに嫁いだとはいえ、彼らに何か利益を与えてやれる訳ではないし。フロイドに至っては、何の説明も無しに勝手に消えてしまったのだから、怒っているかもしれないくらいだ。ひょっとしたら、もう顔も見たくないと思われているかもしれない。そんな身勝手な後輩の元へ、わざわざ会いに来るはずなんてある訳がない。自意識過剰も甚だしい——。
「っう、……ッ」
 そこまで考えた瞬間酷い耳鳴りに襲われて、ユウは思わず屈みこんだ。頭がクラクラするのを、石造りの床を見つめながら必死に耐える。以前にも同様の症状が起きて吐いてしまったとき、そのことが旦那様にバレて「屋敷を汚すな」と叱られ、『指導』されたばかりなのだ。だからどうにかして落ち着かなくちゃいけないのに、けれどそのことを考えれば考えるほど呼吸は荒くなって、頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。どうしよう。身体を休めようにも慌てすぎて、そもそもここがどこかも、自分の部屋がどこかも分からない。ユウは焦って、半ばパニックになりながら必死に手を握り込む。……と。
「!」
 突然頭上からヌッと大きな影が落ちてきて、地面に伸びていたユウの小さな影をあっという間に飲み込んだ。彼女は石よろしく固まって息をのむ。いつの間にか、後ろに誰か立っている、、、、、、、、、、
 どうしよう、全然気付かなかった。旦那様だろうか。あれこれ考えつつさあっと血の気が引いて、ユウは背筋が寒くなるのを感じた。怒られちゃうという焦りだけが募って、手が震える。怯えたように背後を振り返り、——直後僅かに目を見開いた。「……ぇ、」
「スゲー青い顔してんじゃん」
 ユウの目の前で、彼女と同じように驚きに一瞬目を見開いた男が真剣に言った。隣に屈むなり、顔を覗き込むようにして問う。「どしたの。頭痛い? 気持ち悪い?」
「ぁ、だ、いじょうぶ……です、」
「は? 大丈夫じゃないだろ」
「ほ、ほんとに大丈夫、ですから……っ」
 ユウは反射的にそう答えて、気合いで立ち上がった。けれど急に立ち上がったせいか、視界が一瞬僅かに暗くなったのは直後のこと。いつも起こる、軽度の貧血だ。立ちくらんで膝から崩れそうになったところを、腕を引かれて大きな手に支えられた。
「ッ」
「っぶね……」
 僅かに焦りを孕んだ声と共にふわりと嗅ぎなれた懐かしい優しい香りがして、ユウは僅かに瞠目する。心なしか安心するような気持ちになった。腕が離れたあとで改めて顔を見上げると。そこに立っている男を一瞥し、ぽつりと名前を呼んだ。
「……フロイド、先輩、?」
「やっほぉ」
 はたして、そこにいたのはフロイドだった。
 先ほど社長室にいた時と同様、のりの効いたジャケットの下にきっちり第一ボタンまで留めたシャツを着て、ユウを見下ろしている。が、先ほどまでとは明らかに雰囲気が違った。どちらかというとユウの知る、いつもの柔和なフロイドだ。
「ほん、もの……?」
 彼は垂れ目がちの眦を緩く細めた。それから柔らかい声で、改めて「んふ。ホンモノでぇす。久し振り、小エビちゃん」と言う。
「まだ体調悪い?」
「……え、あ……大丈夫です」
「おっけ。だいじょばないカンジね」
「……」
「んふ、なんで分かんのってカオしてる。まだ顔色悪いケド――吐きそう?」
 何も言っていないのに、全てお見通しのようだった。ユウは一瞬考えて、けれどここで嘘をついてもあれこれ聞いてきそうだと諦める。直後、ゆるゆると小さく首を振った。
「……そこまででは。少しすれば良くなります」
「ん、そっか。——ね、ちょっと手出して」
「手?」
「そ。一瞬だけ。悪いようにはしねーから」
 ユウは迷って、ちらりとフロイドを見た。それからおずおずと左手を、彼の前に差し出す。フロイドは小さな手のひらに触れると、ぴくりと反応したのを見て「へーき、怖くねーよ」と安心させるように言った。すると一拍置いて、きらりと光の粒が手のひらの上を舞う。
「——、」
 ユウの中にほんのりと僅かに温かさが広がった。安心するような、日だまりのような温かさだ。すると直後、心なしか身体が少し楽になる。
「身体がちょっとラクになる魔法。マア子供騙しの、オマジナイ程度のモンだけどねえ」
 まるでユウの考えなど全て見通しているかのようなタイミングの良さで、フロイドは緩く言った。そして最初に言った通りすぐに手を離すと、ユウの顔を覗き込んで僅かに口角を上げる。
「どお? ちょっとは落ち着いた?」
 ユウはゆっくり顔を上げて、それから小さく頷いた。ややあって、「……ありがとうございます」と頭を下げる。
「どういたしましてぇ」
 ……本物だ。本当に、フロイド先輩だ。
 前髪の向こうに見える柔らかい笑みを下から見上げて、ユウの中でようやく、目の前の男の現実味が増してきた。これ、幻覚じゃないんだ。改めてそう知覚すると、彼女は少し迷ってから「……あの、」とようやく口を開く。
「なんで先輩がここに。旦那様は……」
「ん? ああ、ちょっと電話掛かってきたから一瞬抜けまーすって言って脱出してきたぁ。あんなオッサンの相手じゃなくて、オレは小エビちゃんと話したかったからサ」
「私と……」
「そ。オレさあ、その為にここまで来たんだもん」
「え……、……」
 ユウは口を開こうとして、けれどはっとして、困惑したように口を噤んで目線を落とした。長い袖の裾の下でぎゅうと手を握って、「ごめんなさい」と掠れた声で呟く。
「あの。私、あんまり男の人と話しちゃだめって、言われてて」
「……ダンナサマに?」
「……、すみません」
「……ふーん。じゃあさあ、今からオレが勝手に話すから聞いててよ」
 ユウは返事をしなかった。フロイドはそれを気にすることなくガシガシと後頭部を掻くと、普段通りの口調で「さっきさあ」とおもむろに口を開く。
「小エビちゃん、オレの渡した小雑誌見たでしょ? モストロ・ラウンジのさあ、オレがカメラマンにモデルやれって言われたーって言ったヤツ。
 そのカメラマンって、別に専属のヤツとかじゃなくて、たまたまその日手スケジュールが空いてただけのジェイドなんだけどさあ。……最初アイツ、現場着いた途端意味分かんないこと言ってきたんだよね。『先ほどふと考えたのですが、今回の小雑誌に載せる写真にはモデルを入れたら良いと思うんです。水槽を眺める髪の長い女性の後ろ姿など如何ですか』って」
 フロイドは先日言われたそんなセリフを、ジェイドの真似をしながら言った。ユウの視線が少しこちらを向いたことを気配で感じながら、ひょうきんに言葉を続ける。
「で、それを聞いたオレとトビウオちゃんはハ?? ってなったワケ。だって『如何ですか』って急に言われたってさあ、そもそも店内の写真撮るだけの予定だったから、モデル用意するどころかその場にいたスタッフオレら三人だけだったんだよ? しかも閉店後の店舗で撮影で普通にスゲー疲れてたから、今から誰か人を呼ぶのもメンドーだし」
 彼はその時のことを思い出した。廊下の天井を仰いで、げっそりとした顔をする。
「けどさあ、小エビちゃんも知ってると思うけどジェイドってそもそもすげー頑固じゃん。無理だっつってんのに、いくら言っても無理じゃありませんの一点張り。だからイライラして、『そんなに言うなら何か案でもあるワケ?』って聞いたんだよね。そしたらアイツ、なんて言ったと思う?」
 窓一つない廊下を見上げて、フロイドは壁に凭れた。一拍置いてから口を開く。
「『簡単です。貴方達二人が女装をしてみれば良いんですよ』って」
「……え」
 ここで初めて、ユウが小さな声を上げた。本当に小さな声だ。けれど反応を見せてくれたのは確かで、フロイドはそれを一瞥してから話を続ける。
「マジ意味訳分かんなくねえ? オレ一瞬、何言われたのか分からなかったもん。だけどアイツは本気なワケ。ちょっと前にオレとトビウオちゃんが、社用の冷蔵庫にジェイドが入れておいたシュークリーム食べちゃったこと引き合いに出してきてさあ。さっさとやれって煩くて」
 フロイドは世にも最悪だったその夜のことを思い返した。早く帰りたかった二人は結局その後、仕方ないので女装をした。が、ジェイドは何パターンか写真を撮り、そのデータを眺めたのち。明らかに肩を震わせながら『やはり貴方達の女装ではイメージと違いますね。やっぱり女装はボツにしましょう』と言ったのだ。
「ほんっと、三発くらい殴ろうかと思ったわ。アイツずーっとシュークリームの件で恨んでて、それで仕返ししたかっただけなんだよ絶対。結局オレはまた着替えさせられて従業員としてモデルさせられることになるし、トビウオちゃんは時間無いからって結局撮影後も帰るまで女装姿のまま仕事することになったしさあ……マジ頭おかしくね?」
「……っふ、」
 その瞬間、目を丸めていたユウが、耐え切れなかったのか口元に手を当てて可笑しそうにくすくす笑った。きっと女装をしたままパソコンとにらめっこをするチャドを想像したのだろう。小さな肩を、分かりやすく震わせている。
「……——、」
 フロイドは動きを止めると、それを見て内心僅かに安心した。
 ——小エビちゃんが笑ってる。
 それは久々に見る、ユウの本当の笑顔だった。『あの写真』で何度も見た横顔とも、先ほど社長室で見た無理な笑顔とも違う、自然な笑顔。小エビの小エビらしい、フロイドの大好きな笑顔。
 彼は肩の力をほんの少しだけ抜いて、僅かに眦を眇めた。直後、ユウの頭に手を伸ばす。
 完全に無意識だった。学生時代から今まで何度もしていたように、フロイドは大きな手でユウの頭に触れて撫でようとしたのだ。けれどその瞬間——それを視界に入れたユウの身体が、大袈裟なほどびくりと跳ねる。先ほどまでの笑顔は一気に消えて、小さな身体をこれでもかというくらいに縮こめて。その細腕で、明らかに顔を庇うような仕草をしたのだ。
「……、」
 フロイドは目を見開いて固まった。その下でユウは、直後真っ青な顔をする。今しがたの自分の行動に気付いたのか、我に返ると「ぁ。す、すみませ」と慌てふためいた。
「ごめんなさい、違うんです。先輩が嫌とかじゃなくて、その、ちがくて」
「小エ——」
「すみません。どうしよ、私何してるんだろ……」
「小エビちゃん、落ち着けって。大丈夫だから」
 ユウは声も手も震えていた。フロイドは落ち着かせるように視線を合わせると、「むしろ、オレのほうこそびっくりさせてごめんねえ」と言う。ユウはそれを聞いて一瞬固まって、頭を抱えながら僅かに顔を歪めた。唇を引き結んで、泣きそうな顔で緩やかに首を横に振る。
「……——」
 フロイドは少し微笑みながら、けれどその瞳の奥を少しだけ鋭くした。
 陸に上がりナイトレイブンカレッジに入学して二年目——フロイドが初めて出会って小エビを認知したその当時から、このちんまい生き物は思っていることがすぐ顔に出るタイプであった。
 たとえば何か隠しごとをしていたり嘘を吐いていたりする時なんかは大抵挙動不審で、嬉しいことや悲しいことがあるとまるで絵文字でも見ているかのようにパッと表情が切り替わる。とんでもなく分かりやすかったのだ。恐らく本人的には上手く隠しているつもりだったのだろうが、残念ながら彼女が思っている何倍も態度に出るタチだったのだろう。それを小エビ本人に言うとぷりぷり怒られるものの、フロイドからすれば正直なところ、そりゃあもう見ていて面白くて可愛いものだった。
 だけど、今はどうだ——フロイドは思う。
 ユウはまるで、数か月前までとは別人のようだった。今までの小エビと比べたら明らかに全体的に表情に乏しいし、常に怯えているようだし、どことなく判断力も鈍っている様子だし。それに加えて——今のこの、明らかな自己防衛反応。
 ……こういう人間を、フロイドは過去に何度か見たことがあった。彼が今までに『おはなし』した債務者や、債務者の配偶者。その中にも、今のユウと同じような様子だった者たちがいたことがあるのだ。……
「……」
 フロイドは内心舌打ちをした。
 ずっと考えることを避けていたとある可能性を、こうなってくると考えざるを得なかった。——いや、社長室で小エビと再会した時点で、嫌な予感はしていたのだ。それでも一番現実であってほしくなかったその可能性。それを今、嫌でも頭に思い浮かべざるを得なかったのである。
 彼は改めて、先ほどまで話をしていた男のことを思い浮かべた。ブランド物の派手なスーツときつい香りの香水を纏っている、厳つい指輪を何個も太い指に嵌めて豪快に笑う男。
(——アイツは)
 彼はギリ、と奥歯を噛む。
 アイツは——ロマンは。一体この屋敷で、普段小エビに何をしているのだろう。何したら、ここまで怯えさせることができるのだろう。
 正直、フロイドとしては今すぐこの場で大暴れしたいくらいの気持ちだった。社長室に戻って、今すぐロマンを殴り倒したいくらいの。けれどそれはまだだ。今じゃない。彼は怒りを必死に抑え込んで、フーッと息を吐いた。落ち着け、冷静になれ。そう頭の中で唱えつつ、今何をするべきか思考を巡らせる。
「——ねえ、小エビちゃん」ややあって、彼は努めて穏やかに口を開いた。「あのさ。一つ聞いても良い?」
 返事は無かった。が、ユウの視線がこちらを向いたので、フロイドは話を続ける。
ラズトーキンこの会社のこと調べてたらさあ。小エビちゃんが前いた会社、一回ここに買収されそうになったのに、その後白紙になってたんだけどさ。……あれ、やったの小エビちゃん?」
「! ……」
「……やっぱそっかあ。小エビちゃん、相変わらずスゲー無茶すんね」
「まだ何も言ってないです……」
「えー? 何も言ってなくても、オレ小エビちゃんの顔見りゃ何言いたいかくらい分かるもん」
「……」
 ユウはぺた、と自分の頬に触れた。暫く黙り込んでから、「……そんな大層な話ではないんです。そもそも、全部私のせいだから」と震える声で言う。
「私がその——旦那様の申し出を断ろうとしたから。それであの会社は買収されそうになって……私のせいでみんなが、酷い扱いを受けることになりそうだったんです。だから、……」
 言葉は続かなかった。フロイドはその様子をじっと見下ろしてから、おもむろにポケットの中のスマートフォンを取り出す。液晶を数回操作してから指を止めると、それをユウに見せた。
「……?」
 突然端末を目の前に突き出されて、ユウは訝しげにフロイドを見た。けれどフロイドに促されて、戸惑いつつもその端末を見る。
 それはとあるニュース記事だった。大手企業が、とある中小企業を買収したというニュース。
 その中小企業に元から務めていた社員の業務内容は大幅には変わることはないが、しかし素晴らしい才覚を持った新しい同僚たちのために、待遇は今よりも良くなることを保証すると社長が語ったと記されている。隣に写るスーツ姿の笑顔の初老の写真は、おそらくこの会社の社長なのだろう。
「この企業さあ、小エビちゃんも聞いたことあるような大手でしょ? んでこの買収された会社ってさあ、小エビちゃんがいた会社じゃん」小エビが読み終えたタイミングを見計らって、フロイドが会話を再開した。「しかもここ、ホワイト企業ランキングでいっつも上位に入るような上場企業だよ。社長がスゲーお人好しでさあ、でもスゲー頭が切れるとんでもねー奴だってアズールも言ってた。——ね、小エビちゃんがあの時守ったお陰でさあ。小エビちゃんがいた会社、ちゃんと評価してくれるトコが守ってくれることになったんだよ」
 無事に大きな後ろ盾ができた。こうなれば恐らく、余程のことがない限りラズトーキンにちょっかいを出される可能性はないだろう。
 フロイドが話すそれを、ユウは呆けたように聞いていた。ややあってようやく理解出来たのか、「……そっか」と噛み締めるように言う。ぎゅう、と質の良い長袖を握った。
「そっか……良かった……」
「ウン、——」
 と、廊下の向こうから物音が聞こえてきたのはその時だった。フロイドが僅かに目を細めると、その横で小エビが明らかに表情を強張らせる。彼はそれをちらりと見てから、真剣に耳を澄ました。
 複数の足音だった。まだかなり遠いので会話の内容までは分からないが、女のものと思われる声がこれまた複数、少しずつこちらに近付いてくる。
「っ、アンディさんとマリーさんが来ます」
「誰?」
「旦那様が雇っている、このお屋敷のお手伝いさんたちです」
 ユウは小さな声で言った。ちらりとフロイドを見上げると、それから何かを考えるように黙り込み。ややあって、「あの」と口を開く。
「その、……今日は会えて嬉しかったです。早く社長室に戻ってください」
「は?」
「アズール先輩たちにも、その、よろしくお伝えください」
 ユウは頬を掻きながら、へらりと笑って頭を下げた。「……会いに来てくれてありがとうございました。すごく元気が出ました」か細い声でそう言って、話を終わらせようとする。
「ッ。ちょっと待てって」
 けれどフロイドとしては当然、それでハイそうですかと引き下がる訳にはいかなかった。小エビを引き止めると、「そうじゃねーじゃん」と真剣な声音で言う。
「小エビちゃん、ここに来たくて来たワケじゃないんでしょ。この間助けてって言ってたじゃん。あれエイプリルフールの嘘でも何でもなくて、本心だったんだろ」
「……」
「ねえ、一緒に帰ろうよ」
「か、える……」
「ウン。オレと一緒にここから出よ」
「……、」
 ユウは固まった。それから目を逸らすと、絞り出すように「……私は大丈夫ですから」と言って薄く笑う。
「何が大丈夫なの。何も大丈夫じゃねーじゃん」
「ここにいるのがバレたら、先輩が旦那様に怒られちゃう」
「今オレのことは良いから。ねえ、話聞けって。この間会ったとき、オレモデルやったって嘘ついたじゃん。スカウトしたのはジェイドだけど——嘘をホントにしたよ? だから小エビちゃんの嘘もさあ、ホントにさせてよ。オレに小エビちゃんを助けさせてよ。ねえ、一緒に帰ろうよ」
「……ありがとうございます。でも大丈夫なんです」
「小エビちゃん、」
「本当に、平気ですから、」
「平気なワケ——」
「……、……。……〜〜ッ、良いから帰ってよ!」
 ずっと笑顔だったところから一転、ユウが叫んだのはその時だった。驚いたフロイドが瞠目したのと同時、彼女はハッとして口を手で覆う。
「すみませ……」
 ユウは小さい声でそう言った。自分を落ち着かせようと必死に息を整えようとしているようだが、うまくいかないのか呼吸が落ち着かない。直後、ボロリと涙が溢れた。彼女は慌てたようにそれを拭いながら、涙声で言う。
「おねがい、おねがいですから。帰ってください……お願いします……」
「……。……ねえ。もしかして、他にまだ何か脅されてんの?」
「……っ、」
 小さな背中がびくりと震えた。図星か。フロイドが目を細めると、ユウが少し顔を上げる。
「教えて。何言われてんの? 教えてくんないとオレ帰んない」
「、」
 ユウは心底困ったようにフロイドを見た。その間にも宝石のような黒曜の瞳からポロポロ涙が溢れるのを見て、フロイドはぐっと拳を握りしめる。好きな子が目の前で号泣しているのに、自分は何も出来ていない。その不甲斐なさに吐き気がした。
「……、……。っぐ、グリムが」
 と、観念したユウが呟くように吐露した。
「……は?」フロイドは突然の単語に一瞬固まる。「アザラシちゃん?」
 ユウはこくりと頷いた。
「あの子今、大魔法士になる為に世界一周の旅をしてるって前に言ったじゃないですか。でも、もし私がここから逃げ出したりして良い妻にならなかったら、……っ、スポンサーに見放されちゃうんです。私のせいで、二度と帰ってこられなくなっちゃうんです」
「何それ、どういう——」
「だから、ごめんなさい。私、帰れないんです」
 足音が近付いてくる気配がする。ユウの顔は段々白くなって、呼吸が浅くなって、傍目から見ても焦っているのが分かった。ユウはもう一度、「お願いします」と縋るような目で必死に言う。
「先輩、帰ってください。グリムに何かあっても、先輩に何かあっても、私どっちも嫌なの……これ以上大好きな人たちが傷付くの、見たくない……っ」
「…………ッ」
 フロイドは苦々しく顔を顰めた。それから大きく息を吐くと、「……分かった」と呟く。
「でも、覚えといて。ぜってーまた来るから」
「また……」
「ウン。約束」
「……、」
 フロイドは左手を出して、小指を立てた。ユウはそれをちらりと見てから、つられるように自分の手を差し出す。小さな小指が、フロイドの長い指に無理矢理絡め取られた。フロイドは顔を上げたユウに微笑むと、その場を後にする。
 あっという間に、廊下はまた静かになった。暫くすると、ユウの前にアンディとマリーがやって来る。
「奥様。先ほど大きな声が聞こえた気がしましたが——どうかされましたか」
「……大丈夫です。その、ちょっと疲れちゃって」
「……? そうですか」
 ヒソヒソと話をしながら去っていく訝しげな彼女たちの視線をやり過ごそうと、ユウはぺこりとお辞儀をしてそれを見送った。それからふと視界に入った己の小指を見つめて、少し折り曲げてみて。先ほど言われた言葉を、頭の中で反芻する。
「……やくそく」
 ——そんなもの、期待しちゃいけない。いけない、のに。
「……、」
 ユウはズ、と鼻を啜った。
 頭の中はもうとにかくぐちゃぐちゃだった。下を向いたまま、グッと唇を噛む。
 気を抜くと嗚咽が零れそうにだった。耐えろ、耐えろ。唱えても止まらない身体のエラーを、無理矢理抑え込もうとする。
「っふ……ぅ、」
 とにかく広い廊下の隅っこ。
 そこに連れて来られた未来の〝奥様〟は、一人静かに息を殺して。小指を視界に入れないように、小さく身体を丸めてしばらく必死に目を瞑っていた。
 
   ❖

「紅茶かコーヒー」
「りんごジュース」
「買っていません」
「えー」
「えーじゃない。お前がさっき聞いた時に何でも良いと言ったんだろう。それに暑くなってきたからか、そういう冷た〜いペットボトル系はほとんど売り切れていたんですよ」
「じゃあコーヒー」
「コーヒーね。ほら、投げますよ」
「ン」
 フロイドは助手席の窓枠からようやく視線を外して、運転席に座るアズールを見た。初夏らしい生ぬるい風が、自動販売機から戻って来た彼と共に流れ込んでくる。ネクタイを緩めながら乗り込んできたアズールの手から、ひょいと缶コーヒーが放られてきた。
「ありがと」
 無感動に言って受け取ったフロイドは、缶の蓋を開けて口を付ける。苦い香りが口の中に広がったのと同時、車は再び走り出した。
「あの後、ユウさんには会えましたか」
「会えた」
「そうですか。彼女の様子は?」
「……あとで話す。取り敢えず簡潔に言うと、〝最悪〟」
「……でしょうね」
 アズールは先ほどまでの会議の様子を思い返した。
 会社との電話、、、、、、を終えて戻ってきたフロイドは、笑顔で普段通り——もちろん余所行きの姿だが——ではあったけれど。それでも幼馴染のアズールからすると、どうにも様子がおかしかった。笑顔の奥がピリついていて、隣に座っていてもとにかくどす黒い何かが垣間見えたのだ。これは相当怒っているなということだけは明らかで、彼はそんなことを考えながらも、マア良いかと思いつつ一先ずはちきれんばかりの笑顔でロマンに対しセールストークを繰り広げていたのである。
「……あの男に対しては僕も、初めから強い不快感を感じました」アズールは疲れ切ったような溜息を吐く。「仮にも愛する女性を下げるような物言い、見下すようなあの言動——調べた時点でああいう男だとは分かってはいましたが、全ての思考回路が未だに信じられない。……ああそうだ、お前あのとき、一瞬ロマンを殴ろうとしたでしょう。肝が冷えましたよ」
「んえ、あの時っていつ」
「最初にユウさんが挨拶に来た時です」
「アー? 分っかんね。最初から最後までずーっと殴りたかったし」フロイドは淡々と言う。「ただ、今日は絶対殴んねえって最初から決めてたからガマンしただけ。……小エビちゃんがもし今日オレと一緒に行かないって言ったとき、アイツが残った小エビちゃんに何かしない保証も無かったし」
 赤信号になる。車を一時停止したアズールは、ドリンクホルダーに手を伸ばして紅茶を一口飲んだ。『何かしない保証』——その意味するところについて考えて、静かに言う。「……DV、ですか」
「そう。精神的にも、……あと物理的にも」
「…………」
「ねえ、アズール」
「何です」
「ごめん、やっぱコーヒーの気分じゃねーわ。飲みにくくて仕方ねーし」
「……」
 おもむろにフロイドが言った。アズールはその様子をちらりと見てから、己のボトルをドリンクホルダーに戻す。
「寧ろコーヒーで良かったと思いますよ」
 軽く肩を竦めてハンドルを握った。パッと信号が青に変わったのを見て、アクセルを踏み込む。眼鏡のブリッジを押し上げながら、静かに言った。
「車内をりんごジュースまみれにされては、たまったものじゃありませんから」
「……」
 フロイドは返事をすることなくスマートフォンを取り出すと、何度か液晶を操作した。それから耳に端末を押し当てると、暫く黙る。数度のコール音の後、「……あ、トビウオちゃん?」と言った。
「ジェイドいる? ……ふーん。……や、ちょっと調べんの手伝って欲しいことあって」
「……」
 アズールはちらりと視線をコーヒー缶へと向けた。
 燦々と日光が差し込む車内。僅かな振動が起きるたびに、フロイドが無造作に置いたスチール缶がカタカタと音を立てている。——それは先ほどまでとまるで見違えるほど、とんでもない形にひしゃげていた。握られた形のまま、くの字に曲がっていて到底中身が飲めそうにない。
「ア? ウン。そう、調べて欲しいの」
 フロイドは前髪を無造作に掻き上げた。フーッと息を吐くと、鎮めきれない怒りを孕んだ瞳を一度瞬く。低い声で言った。
「アザラシちゃんがどこの会社に所属してんのか。んで、今どこの国にいるか」
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