二、頭痛
二、頭痛
起きた瞬間に頭痛がする時というのは、フロイドの経験上大抵原因は碌なことがなかった。
たとえば二日酔い。別にフロイドは酒にめっぽう弱い訳ではないし、むしろざる な方ではあるけれど。悪酒に当たったときや変な酔い方をしたときなんかは、マア頭痛がすることもままある。
次に風邪。元来人魚は基本的に丈夫なイキモノで、風邪なんてものとは無縁だったが。そんな彼が、人間の身体になって初めて風邪を引いたのは、入学してしばらくした後ジェイドの風邪がうつったときのことだった。ただでさえきょうだいの看病に疲れていたところで風邪を貰ってしまい、その結果ジェイドよりも悪化してしまい……。あの時はもうとにかく、ガンガンと頭が痛んで最悪だった思い出しかない。加えて隣で完全復活したジェイドが、どさくさに紛れて笑顔できのこ料理を無限に振る舞おうとしてきたことも、最悪な記憶の一端としてはっきりと刻み込まれていた。
そして、頭痛の原因はさらにもう一つ。それが——、
「……——、」
目が覚めると、視界いっぱいに入ったのは見慣れた天井。
フロイドはハッとすると、勢い良く上体を起こした。横たわっていたのはソファーのようで、身動いだ反動でスプリングが僅かに揺れる。
「ッ、痛って……」
反射的に声が出た。鈍く頭が痛んだからだ。顔を顰めていると、横から「おはようございます」と声がする。フロイドは一拍置いて、声のした方を見た。緩く目を瞬いてから、抑揚のない口調で言う。
「……アズール」
場所はフロイドが働くアーシェングロット社、その社長室だった。品のある調度品でまとめられた室内は所有者であるアズールのセンスを感じさせ、尚且つどこかモストロ・ラウンジVIPルームの面影を彷彿とさせる。
社長であるアズールはそんな室内の最奥、最も存在感を放っている横長の机に向かっていた。いかにも社のトップが座るに相応しく誂えられた、こだわり抜かれたオーダーメイドの机だ。手元の資料から顔を上げ、彼は眼鏡の奥の碧い瞳でフロイドを一瞥する。含みを持たせて言った。
「少しは頭が冷えましたか」
「……冷えたっつーか」彼は責めるような声音と共に、ガシガシ後頭部を掻いた。「スゲー頭いてーんだけど」
「それはそれは。バファリンでも持ってきましょうか」
「いらねーよ。一応聞くけどさあ、オレの頭痛の原因に関して心当たりないワケ」
「さあ? 僕はお前を雷の魔法でぶん殴るくらいしかしていないので」
「それが原因だって言ってんの」
わざとらしく肩を竦めた彼を、フロイドは半眼で見た。呆れたような表情をして、特大の溜息を吐きながら改めて記憶を思い返す。
何を隠そう、今回のフロイドの頭痛の原因は、酒の飲み過ぎや風邪などではなく。一言で言うとアズールによる荒手の鎮静方法によるものだった。
例えば、ジェイドと学園内でとんでもない怪獣大戦争——もとい兄弟喧嘩をおっぱじめたときだとか。喧嘩を吹っ掛けてきた他寮の生徒と喧嘩になり、学園の備品を壊さんばかりに好き勝手暴れて教師からお小言を言われた時だとか。アズールは学生時代からそういう時に、彼ら双子を力でねじ伏せ止めることがままあった。殴ったり、魔法を撃ち込んだりとその静止方法は様々だが……兎にも角にも、流石はとんでもないウツボ兄弟を腰巾着として従えていた元オクタヴィネル寮長と言うべきか、現やり手敏腕社長と言うべきか。涼しい顔をして力で従えるのは、今に始まったことではない。
そして数十分前、おいたが過ぎたフロイドは久々にそのいかづちを食らった。というのも、きっかけは例の小エビの写真。
——小エビが結婚するらしい。それも、明らかに不自然な状況で。
そんなことを知ったフロイドはあの晩、背中に嫌なものを感じながらユウに何度も連絡を試みた。マジカメのメッセージも電話も、何度も送ってみたのだ。……けれど通話が通じるどころか、メッセージの既読さえ一切付かない始末。
その状況は、翌日になっても翌々日になっても全く変わることはなかった。だから数日後、フロイドは埒が明かないと、仕事そっちのけで小エビの自宅にも直接行ってみることにした、のだが……
『ああ、ユウちゃんかい? あの子なら少し前に出て行ったよ』
『……は? 出て行った?』
『そうさ。何だかねえ、お仕事の関係で急な転勤になっちまったらしくてねえ。寂しいもんだよ。アンタはユウちゃんのお友達なんだろう? あれまあ、わざわざ遊びに来たのにねえ。タイミングが悪かったねえ』
大家のお婆ちゃんの話の通り、小エビが住んでいると前に言っていたアパートは既にもぬけの殻だった。
あの日遊んだ小エビはどこから来たのだろう。見送った小さな背中はどこへ帰ったのだろう。今どこにいるのだろう。連絡も通じず、居場所も分からず、加えて相手の男がどこの馬の骨かも分からず……。つまり、八方塞がりになってしまったのである。
『この男なら見たことがあります』
が、そんな折。仕事をサボるフロイドを咎めるため無理矢理社長室に呼び出し、その流れで事情を聞くに至ったアズールが、写真を見てそう言った。
というのも、見かけたのは以前アズールが招待されたというとある企業のパーティー。同じく招待された客の中に、その男の姿もあったのだという。なんでも男は、魔法植物や魔法鉱物を使用したアクセサリーを扱う有名企業の社長なのだそうだ。
フロイドはそれを聞くなり、その会社に乗り込もうとした。けれどアズールに止められ、それを無視して出掛けようとし——結果、雷の魔法を落とされて見事に意識を飛ばされ。そうして数時間後ようやく目が覚め、現在に至るという訳である。
「……何で止めたワケ」
フロイドは一連の流れを思い返してから、アズールに向かって短く言った。視線をそちらへ遣ると、眼鏡越しの彼の視線もまたフロイドを見据える。一拍置いて、軽く肩を竦めた。
「〝何で〟? 単純な話です。お前がどこに乗り込もうが勝手ですがね、そのせいで僕まで迷惑を被るのはごめんなんですよ。面倒な相手に対して碌に策も講じず無闇矢鱈に突っ込んでは、命がいくつあっても足りない」
「ア?」
「ラズトーキン社社長、ロマン・ラズトーキン。……ユウさんと写っていたあの男は、世間ではやり手経営者として名を馳せてはいますが——その反面、経営者の間では良くない噂も少なくありません。自分に有利な取引を持ち掛けるためならどんな手段も厭わない、欲しい物を手に入れる為なら何だってする、怒ると手が付けられなくなる……という具合にね」
「……」
「僕はアーシェングロット社の社長だ。会社を守る責務がある。たかが噂だろうが、無闇に高いリスクを冒す可能性があるのならそれは先回りして避けるべきです。そういう判断でお前を止めました。仕事は遊びじゃないんだ、お前の一時の単独行動で会社を水泡に帰す訳にはいかない」
アズールは一度言葉を止めた。緩く瞬きをして、眼鏡のブリッジを押し上げて。それから、「分かりましたか」と言う。
「別にやるなとは言っていません。僕はお前にユウさんを諦めろと言うつもりも、お前の学生時代から一向に進展する気配のないウダウダした恋路を邪魔するつもりも毛頭ない」
「えなに急にディスられたんだけど」
「喧嘩を吹っかけるつもりなら、もっと上手くやれと言っているんです。勢いで乗り込めば良いという単純な話ではないだろう。簡単に前が見えなくなって暴走し自爆するような無能を部下に据えるほど、僕は目が悪かった覚えはありませんが」
「……」
フロイドはしばらく呆けたような顔をしていたが、ややあって平べったい目をしてアズールを見つめた。それからガシガシと後頭部を掻くと、「……アズールさあ」と口を開く。
「取り敢えずそれ、絶対シャチョーが部下に言うセリフじゃなくね」
「お前だって普段から社長に対する態度なんて取っていないでしょう」
「マア、確かに」
「認めるくらいなら改善しろこのバカウツボ」
「えー」
と、社長室の扉がノックされたのはその時だった。「どうぞ」アズールの声が響いたのち、重厚なそれはゆっくりと開く。直後、ひょこりと覗いたのは獣人の男だ。猫の耳に緑の目、明るい茶色の髪。男は部屋の中を一瞥するなり、「おっ」と明るい声で言う。そして彼の背後に立っているらしい人物を振り返って声を掛けた。
「ジェイドー、フロイド起きてるわ」
「おや。本当ですか」
はたして、やって来たのはチャドとジェイドだった。続いて入室したジェイドは、二人の顔を見るなり何やら手に持っていた書類をアズールに慣れた手つきで手渡す。
ジェイドがアズールに何かを話しているのを一瞥してから、フロイドは自分の向かいのソファーによっこらせと腰掛けたチャドへと視線を移した。数秒黙ってから、「ていうか」と淡々と口を開く。
「トビウオちゃんたち何しに来たワケ」
「んあ? 何って」チャドはどこからか取り出したチョコレートの包みを開けながら言った。「お前ユウちゃん連れ戻したいんでしょ。だから取り急ぎだけど、調査報告しに来てやったの」
「調査報告?」
「そ。そもそもあの二人を式場で見かけたときから、どうも変だと思ったんだよね。んでお前からはメッセの返信来なくなるし? 次の日から仕事来ないし? よく分かんねーけど何が起きてんのかなーって思ってたら、さっきアズールからその社長のこと調べろってさっき言われてさあ。だからジェイドと色々調べてみてたわけ」
「……は?」
フロイドは反射的にアズールを見た。と、ジェイドとの会話が一段落して一連の話を聞いていたらしい群青の瞳と目が合う。直後、アズールは肩を竦めて言った。
「お前が暴走するのも困りますが、それよりもこのまま使い物にならないのはもっと困る。ならさっさと片付けるに越したことはないでしょう」
「……アズール」
「心配しなくても、これはただの先行投資。借した分の見返りはお前の今後の働きで返してもらいます。もちろん、きっちり利息を付けてね。それに、ここはそれなりに歴史のある会社です。上手くモノに出来れば、莫大な利益に繋がる」
「あれ。さっき無闇に高いリスクは避けるべきとか何とか言ってなかった?」
チャドが茶化すように言った。アズールは彼をちらりと見てから、軽く鼻を鳴らす。
「リスクは金のなる木にもなる。不可能を可能にするのは昔から得意ですから。タダでは転びません、存分に利用させて貰いますよ」
「はは、さっすが」
「無駄話は終わりです。——ジェイド、説明をしてください」
「かしこまりました」
アズールが短く言うと、そう返したジェイドが颯爽と歩き出した。長い脚を駆使して最短でフロイドの元までやってくると、手元に持っていた資料を彼の前に置かれたローテーブルへと置く。
「どうやら、アズールの直感は間違っていなかったようですよ」
「そーそー。なんかね、色々スゲーよ」脚を組み直したチャドが話に加わる。「実際ちょーっと調べてみただけでも、この会社ほんっと怪しいのなんの。見てみてよその資料」
「……」
言われたとおりフロイドは資料を手に取った。
そこには笑顔を浮かべる、中年の男の顔写真が載っていた。恐らく企業のホームページにでも掲載されている写真なのだろう。スーツ姿で余所行きの笑顔を浮かべるそのさまは、人畜無害な風貌を醸し出しているように見える。……が。
ジェイドはフロイドが資料を眺めているのを一瞥してから、自分の手元の資料へと視線を滑らせた。ナレーターのような声音で滑らかに言う。
「ラズトーキン社の先代社長が亡くなり、先代の甥であったロマン社長に代替わりしたのが今から五年前。そこから業績は格段に飛躍していますが、……その頃から社内で、明らかに不自然な人間の出入りが増えているようです」
「不自然な人間の出入り?」と、フロイド。
「ええ。——簡単に言ってしまえば、どうやら彼は裏社会の人間と接触し始めたようです」
ジェイドは説明した。
ロマンはグレーゾーンをギリギリ越えている組織と繋がりを持ち、自分たちにとって都合の悪い邪魔な会社を排除するための手段としてそれをチラつかせ、無茶苦茶な取引を企業に持ち掛けているらしい、と。なんでも、相手会社の人間を肉体的にも精神的にも追い詰め都合の良いように利用し、それらの悪事に対して疑問の声をあげようとする人間がいようものなら内外問わずことごとく揉み消しているそうなのだ。
「数か月前にも子会社の支店長が一人、社長と揉めた数日後に不慮の事故 で左脚の靭帯を損傷する大怪我を負ったようです。彼はその後地方への異動の辞令を受けましたが、結局退職しました。他にも同様の事例は何件もあるようで」
資料の次ページには表があり、そこには企業の名前がいくつか記載されていた。マーズ社、メンバル商会、ロスメア社……ジェイドはページをめくりながら言葉を続ける。
「次のページに載っている会社はどれも、表向きは現在までにラズトーキン社に話し合いの末〝円満に〟買収されたとされる企業一覧です。が、どうやらそのいずれもが買収前から何かしらの妨害や多大な損害を受けていた様子でした。
会社の重役が事故に遭った、街で突然ヤクザ者の集団に絡まれて突然殴打された、それまで懇意にしていた取引先から突然関係を断たれ、商売が成り立たなくなった……という具合に」
「めちゃくちゃだな……」
呆れたように呟いたアズールを横目に、表を眺め眺めていたフロイドはややあって一つの会社の名前に目を留めた。直後、動きを止めて僅かに瞠目する。
「気付いた?」
刹那そう言ったのはチャドだ。何が、とアズールが顔を上げると、彼はグリーンの瞳をフロイドに向けている。それから一度視線をフロイドの持っている資料へと移すと、チョコレートを持ったままの手である一点を指した。「その最後に載ってる会社さあ、ユウちゃんの就職したとこでしょ」
「は?」アズールは思わず目を見開く。「……チャドお前、まさかユウさんの就職先の名前を覚えているんですか」
「え? うん。だってユウちゃんの卒業前にたまたまNRC行く用事があったとき、そんなようなこと言ってたし」
「……」
そういえばコイツの記憶力はとんでもないんだったな、とアズールは思い返した。学生時代、図書委員長だった彼は本のタイトルや一度読んだ本の内容を難なく全て覚えていたくらいなのだ。それも、あのとんでもなく蔵書数の多いナイトレイブンカレッジで。
「つまりなに。小エビちゃんの会社もこの会社に買収されてるってワケ?」
「……や、それがさあ。逆なんだよ」チャドが言った。「なんかその会社だけ、買収される直前で計画が白紙に戻ってんの」
「は? 白紙? 何故です」
怪訝そうにそう言ったアズールに対し、ジェイドは「詳しいことは分かりません」と言った。
「ただ、ロマン社長のマジカメの投稿から推測するに、ユウさんが彼と結婚する話が出たのもこの時期です。……非常にタイミングが良いことに ね」
「なっ。まさか——」
「……」
身を乗り出して唖然としたアズールを横目に、フロイドは押し黙った。資料をローテーブルに置くと、背凭れに大きく身体を預けて天井を仰ぐ。ややあってちらりと視線だけを移すと、随分と含みのある言い方をした同じ顔をしたきょうだいを一瞥した。視線が交錯した。一拍置いてから、静かに口を開く。
「……ジェイドさあ、小エビちゃんがそいつと結婚する代わりに、買収するのを白紙にしてもらったって言いてえの」
「話が早くて助かります。あくまで可能性の域を出ませんが、可能性はあるかと。僕の主観にはなりますが、ユウさんなら有り得るのでは?」
「……」
その通りだった。
他の従業員の生活を確保する代わりに自分が犠牲になる——あの小エビならやりかねない。小エビをよく知るフロイドには自信があった。
だって、いちごジャムの蓋も満足に開けられないくらい貧弱なのに、大事な誰かを守る為なら何だってしようとするお人好しなのだ。何でもかんでも気合いだけでどうにかしようとする無茶苦茶な性格。自分が辛い目に遭おうが、取り敢えず笑って誤魔化そうとする利他的なところ。——やりかねないのだ。それで自分がどうなろうが、自分にとって大事な者を優先する。あれはそういうエビなのだ。……
「——イド、フロイド」
フロイドはハッとした。顔を上げると、いつの間にか三人がこちらを向いている。どうやら考え込んでいる間に何度も呼ばれていたらしい。フロイドは無造作に前髪を掻き上げると、声の主であるジェイドのほうを見た。
「ごめ。なに」
「……いえ。平気ですか」
「ウン」
フロイドは頷いて、暫く黙った。それからふと、「——小エビちゃんってさあ」と呟く。
「昔っから、なんかスゲー無茶苦茶なエビじゃん」
「無茶苦茶なエビ……」アズールが眼鏡を押し上げながら言う。「まあ、言いたいことは分からなくもないですね」
「デショ。もし、この社長に無理矢理結婚させられるとかだけならさあ。ソイツんちの家の床掘り起こしてでも窓伝ってでも、自力で逃げてると思うんだよね。多分」
「あー……そういえばユウちゃん、スカラビアに監禁されたときグリムと二人でスプーンで穴掘って逃げようとしたって言ってたっけ」
「そー」フロイドは一瞬チャドを見た。それから天井を見やると、無感動に瞬きをする。「だから多分、ジェイドので合ってる。今の小エビちゃんは逃げないんじゃなくて、逃げられねーんだと思う」
大きな手をローテーブルにつくと、フロイドはゆっくりと立ち上がった。ガシガシと後頭部を掻くと、扉に向かって歩き出す。
「ちょっとオレ、一回顔洗ってくる」
「……ええ」
一同が見守る中、フロイドは廊下に出た。レストルームに向かって蛇口を捻って水を掬うと、容赦なくバシャバシャと顔を濡らす。
「——……」
ターコイズブルーの髪先が濡れて、水滴がポタポタと洗面台に落ちた。蛇口から水道水が、けたましい音を立てつつかたまりになって流れる。だがそれも、栓を閉じるとあっという間に静寂に包まれた。
「……小エビちゃん、」
掠れた声が響く。時たま滴る水の粒をぼんやり眺めながら頭の中でリフレインしたのは、先日のユウとの会話だった。それから何度も見た写真の中の、結婚式場で明らかに無理をして笑うユウの横顔。
「…………」
〝——ね。もし私がさっき言ったみたいな状況になったら、先輩は私のこと助けてくれましたか?〟
気付けなかった。気付かなかった。小エビちゃんはあの時、オレに助けを求めてたのかもしれねーのに。あれが小エビちゃんなりの、精いっぱいのSOSだったかもしれねーのに。それなのに。
「……。……〜〜ッ、クソ……」
フロイドは目の前の鏡に左手の拳を押し付けた。ドン、と鈍い音がする。鏡面に付着し滴る水滴の向こう、酷い顔をした自分を睨み付けた。ぎらりと殺意を纏う双眸からは、強い意思が漲っている。
本当は自分が幸せにしてあげたいけれど、それでも好きな子が幸せなら——小エビが幸せなら、正直なところフロイドは、自分が泡になろうが別にそれでも構わなかった。けれどこれは違う。あの男の隣にいて幸せそうだとは到底思えない。それはどう見ても明らかに違った。ならば、どんなことをしてでも取り返すまでだ。その為なら何だってやる。
「…………」
深く息を吐いた。震える肩で怒りを押し殺しながら、フロイドは眼光を鋭くする。ややあって、地を這うような低い声で呟いた。
「……ぜってー助ける」
強く握りこんだ拳の先で、鏡がみしりと軋んだ音を立てる。
頭痛はもう治まっていた。
起きた瞬間に頭痛がする時というのは、フロイドの経験上大抵原因は碌なことがなかった。
たとえば二日酔い。別にフロイドは酒にめっぽう弱い訳ではないし、むしろ
次に風邪。元来人魚は基本的に丈夫なイキモノで、風邪なんてものとは無縁だったが。そんな彼が、人間の身体になって初めて風邪を引いたのは、入学してしばらくした後ジェイドの風邪がうつったときのことだった。ただでさえきょうだいの看病に疲れていたところで風邪を貰ってしまい、その結果ジェイドよりも悪化してしまい……。あの時はもうとにかく、ガンガンと頭が痛んで最悪だった思い出しかない。加えて隣で完全復活したジェイドが、どさくさに紛れて笑顔できのこ料理を無限に振る舞おうとしてきたことも、最悪な記憶の一端としてはっきりと刻み込まれていた。
そして、頭痛の原因はさらにもう一つ。それが——、
「……——、」
目が覚めると、視界いっぱいに入ったのは見慣れた天井。
フロイドはハッとすると、勢い良く上体を起こした。横たわっていたのはソファーのようで、身動いだ反動でスプリングが僅かに揺れる。
「ッ、痛って……」
反射的に声が出た。鈍く頭が痛んだからだ。顔を顰めていると、横から「おはようございます」と声がする。フロイドは一拍置いて、声のした方を見た。緩く目を瞬いてから、抑揚のない口調で言う。
「……アズール」
場所はフロイドが働くアーシェングロット社、その社長室だった。品のある調度品でまとめられた室内は所有者であるアズールのセンスを感じさせ、尚且つどこかモストロ・ラウンジVIPルームの面影を彷彿とさせる。
社長であるアズールはそんな室内の最奥、最も存在感を放っている横長の机に向かっていた。いかにも社のトップが座るに相応しく誂えられた、こだわり抜かれたオーダーメイドの机だ。手元の資料から顔を上げ、彼は眼鏡の奥の碧い瞳でフロイドを一瞥する。含みを持たせて言った。
「少しは頭が冷えましたか」
「……冷えたっつーか」彼は責めるような声音と共に、ガシガシ後頭部を掻いた。「スゲー頭いてーんだけど」
「それはそれは。バファリンでも持ってきましょうか」
「いらねーよ。一応聞くけどさあ、オレの頭痛の原因に関して心当たりないワケ」
「さあ? 僕はお前を雷の魔法でぶん殴るくらいしかしていないので」
「それが原因だって言ってんの」
わざとらしく肩を竦めた彼を、フロイドは半眼で見た。呆れたような表情をして、特大の溜息を吐きながら改めて記憶を思い返す。
何を隠そう、今回のフロイドの頭痛の原因は、酒の飲み過ぎや風邪などではなく。一言で言うとアズールによる荒手の鎮静方法によるものだった。
例えば、ジェイドと学園内でとんでもない怪獣大戦争——もとい兄弟喧嘩をおっぱじめたときだとか。喧嘩を吹っ掛けてきた他寮の生徒と喧嘩になり、学園の備品を壊さんばかりに好き勝手暴れて教師からお小言を言われた時だとか。アズールは学生時代からそういう時に、彼ら双子を力でねじ伏せ止めることがままあった。殴ったり、魔法を撃ち込んだりとその静止方法は様々だが……兎にも角にも、流石はとんでもないウツボ兄弟を腰巾着として従えていた元オクタヴィネル寮長と言うべきか、現やり手敏腕社長と言うべきか。涼しい顔をして力で従えるのは、今に始まったことではない。
そして数十分前、おいたが過ぎたフロイドは久々にそのいかづちを食らった。というのも、きっかけは例の小エビの写真。
——小エビが結婚するらしい。それも、明らかに不自然な状況で。
そんなことを知ったフロイドはあの晩、背中に嫌なものを感じながらユウに何度も連絡を試みた。マジカメのメッセージも電話も、何度も送ってみたのだ。……けれど通話が通じるどころか、メッセージの既読さえ一切付かない始末。
その状況は、翌日になっても翌々日になっても全く変わることはなかった。だから数日後、フロイドは埒が明かないと、仕事そっちのけで小エビの自宅にも直接行ってみることにした、のだが……
『ああ、ユウちゃんかい? あの子なら少し前に出て行ったよ』
『……は? 出て行った?』
『そうさ。何だかねえ、お仕事の関係で急な転勤になっちまったらしくてねえ。寂しいもんだよ。アンタはユウちゃんのお友達なんだろう? あれまあ、わざわざ遊びに来たのにねえ。タイミングが悪かったねえ』
大家のお婆ちゃんの話の通り、小エビが住んでいると前に言っていたアパートは既にもぬけの殻だった。
あの日遊んだ小エビはどこから来たのだろう。見送った小さな背中はどこへ帰ったのだろう。今どこにいるのだろう。連絡も通じず、居場所も分からず、加えて相手の男がどこの馬の骨かも分からず……。つまり、八方塞がりになってしまったのである。
『この男なら見たことがあります』
が、そんな折。仕事をサボるフロイドを咎めるため無理矢理社長室に呼び出し、その流れで事情を聞くに至ったアズールが、写真を見てそう言った。
というのも、見かけたのは以前アズールが招待されたというとある企業のパーティー。同じく招待された客の中に、その男の姿もあったのだという。なんでも男は、魔法植物や魔法鉱物を使用したアクセサリーを扱う有名企業の社長なのだそうだ。
フロイドはそれを聞くなり、その会社に乗り込もうとした。けれどアズールに止められ、それを無視して出掛けようとし——結果、雷の魔法を落とされて見事に意識を飛ばされ。そうして数時間後ようやく目が覚め、現在に至るという訳である。
「……何で止めたワケ」
フロイドは一連の流れを思い返してから、アズールに向かって短く言った。視線をそちらへ遣ると、眼鏡越しの彼の視線もまたフロイドを見据える。一拍置いて、軽く肩を竦めた。
「〝何で〟? 単純な話です。お前がどこに乗り込もうが勝手ですがね、そのせいで僕まで迷惑を被るのはごめんなんですよ。面倒な相手に対して碌に策も講じず無闇矢鱈に突っ込んでは、命がいくつあっても足りない」
「ア?」
「ラズトーキン社社長、ロマン・ラズトーキン。……ユウさんと写っていたあの男は、世間ではやり手経営者として名を馳せてはいますが——その反面、経営者の間では良くない噂も少なくありません。自分に有利な取引を持ち掛けるためならどんな手段も厭わない、欲しい物を手に入れる為なら何だってする、怒ると手が付けられなくなる……という具合にね」
「……」
「僕はアーシェングロット社の社長だ。会社を守る責務がある。たかが噂だろうが、無闇に高いリスクを冒す可能性があるのならそれは先回りして避けるべきです。そういう判断でお前を止めました。仕事は遊びじゃないんだ、お前の一時の単独行動で会社を水泡に帰す訳にはいかない」
アズールは一度言葉を止めた。緩く瞬きをして、眼鏡のブリッジを押し上げて。それから、「分かりましたか」と言う。
「別にやるなとは言っていません。僕はお前にユウさんを諦めろと言うつもりも、お前の学生時代から一向に進展する気配のないウダウダした恋路を邪魔するつもりも毛頭ない」
「えなに急にディスられたんだけど」
「喧嘩を吹っかけるつもりなら、もっと上手くやれと言っているんです。勢いで乗り込めば良いという単純な話ではないだろう。簡単に前が見えなくなって暴走し自爆するような無能を部下に据えるほど、僕は目が悪かった覚えはありませんが」
「……」
フロイドはしばらく呆けたような顔をしていたが、ややあって平べったい目をしてアズールを見つめた。それからガシガシと後頭部を掻くと、「……アズールさあ」と口を開く。
「取り敢えずそれ、絶対シャチョーが部下に言うセリフじゃなくね」
「お前だって普段から社長に対する態度なんて取っていないでしょう」
「マア、確かに」
「認めるくらいなら改善しろこのバカウツボ」
「えー」
と、社長室の扉がノックされたのはその時だった。「どうぞ」アズールの声が響いたのち、重厚なそれはゆっくりと開く。直後、ひょこりと覗いたのは獣人の男だ。猫の耳に緑の目、明るい茶色の髪。男は部屋の中を一瞥するなり、「おっ」と明るい声で言う。そして彼の背後に立っているらしい人物を振り返って声を掛けた。
「ジェイドー、フロイド起きてるわ」
「おや。本当ですか」
はたして、やって来たのはチャドとジェイドだった。続いて入室したジェイドは、二人の顔を見るなり何やら手に持っていた書類をアズールに慣れた手つきで手渡す。
ジェイドがアズールに何かを話しているのを一瞥してから、フロイドは自分の向かいのソファーによっこらせと腰掛けたチャドへと視線を移した。数秒黙ってから、「ていうか」と淡々と口を開く。
「トビウオちゃんたち何しに来たワケ」
「んあ? 何って」チャドはどこからか取り出したチョコレートの包みを開けながら言った。「お前ユウちゃん連れ戻したいんでしょ。だから取り急ぎだけど、調査報告しに来てやったの」
「調査報告?」
「そ。そもそもあの二人を式場で見かけたときから、どうも変だと思ったんだよね。んでお前からはメッセの返信来なくなるし? 次の日から仕事来ないし? よく分かんねーけど何が起きてんのかなーって思ってたら、さっきアズールからその社長のこと調べろってさっき言われてさあ。だからジェイドと色々調べてみてたわけ」
「……は?」
フロイドは反射的にアズールを見た。と、ジェイドとの会話が一段落して一連の話を聞いていたらしい群青の瞳と目が合う。直後、アズールは肩を竦めて言った。
「お前が暴走するのも困りますが、それよりもこのまま使い物にならないのはもっと困る。ならさっさと片付けるに越したことはないでしょう」
「……アズール」
「心配しなくても、これはただの先行投資。借した分の見返りはお前の今後の働きで返してもらいます。もちろん、きっちり利息を付けてね。それに、ここはそれなりに歴史のある会社です。上手くモノに出来れば、莫大な利益に繋がる」
「あれ。さっき無闇に高いリスクは避けるべきとか何とか言ってなかった?」
チャドが茶化すように言った。アズールは彼をちらりと見てから、軽く鼻を鳴らす。
「リスクは金のなる木にもなる。不可能を可能にするのは昔から得意ですから。タダでは転びません、存分に利用させて貰いますよ」
「はは、さっすが」
「無駄話は終わりです。——ジェイド、説明をしてください」
「かしこまりました」
アズールが短く言うと、そう返したジェイドが颯爽と歩き出した。長い脚を駆使して最短でフロイドの元までやってくると、手元に持っていた資料を彼の前に置かれたローテーブルへと置く。
「どうやら、アズールの直感は間違っていなかったようですよ」
「そーそー。なんかね、色々スゲーよ」脚を組み直したチャドが話に加わる。「実際ちょーっと調べてみただけでも、この会社ほんっと怪しいのなんの。見てみてよその資料」
「……」
言われたとおりフロイドは資料を手に取った。
そこには笑顔を浮かべる、中年の男の顔写真が載っていた。恐らく企業のホームページにでも掲載されている写真なのだろう。スーツ姿で余所行きの笑顔を浮かべるそのさまは、人畜無害な風貌を醸し出しているように見える。……が。
ジェイドはフロイドが資料を眺めているのを一瞥してから、自分の手元の資料へと視線を滑らせた。ナレーターのような声音で滑らかに言う。
「ラズトーキン社の先代社長が亡くなり、先代の甥であったロマン社長に代替わりしたのが今から五年前。そこから業績は格段に飛躍していますが、……その頃から社内で、明らかに不自然な人間の出入りが増えているようです」
「不自然な人間の出入り?」と、フロイド。
「ええ。——簡単に言ってしまえば、どうやら彼は裏社会の人間と接触し始めたようです」
ジェイドは説明した。
ロマンはグレーゾーンをギリギリ越えている組織と繋がりを持ち、自分たちにとって都合の悪い邪魔な会社を排除するための手段としてそれをチラつかせ、無茶苦茶な取引を企業に持ち掛けているらしい、と。なんでも、相手会社の人間を肉体的にも精神的にも追い詰め都合の良いように利用し、それらの悪事に対して疑問の声をあげようとする人間がいようものなら内外問わずことごとく揉み消しているそうなのだ。
「数か月前にも子会社の支店長が一人、社長と揉めた数日後に
資料の次ページには表があり、そこには企業の名前がいくつか記載されていた。マーズ社、メンバル商会、ロスメア社……ジェイドはページをめくりながら言葉を続ける。
「次のページに載っている会社はどれも、表向きは現在までにラズトーキン社に話し合いの末〝円満に〟買収されたとされる企業一覧です。が、どうやらそのいずれもが買収前から何かしらの妨害や多大な損害を受けていた様子でした。
会社の重役が事故に遭った、街で突然ヤクザ者の集団に絡まれて突然殴打された、それまで懇意にしていた取引先から突然関係を断たれ、商売が成り立たなくなった……という具合に」
「めちゃくちゃだな……」
呆れたように呟いたアズールを横目に、表を眺め眺めていたフロイドはややあって一つの会社の名前に目を留めた。直後、動きを止めて僅かに瞠目する。
「気付いた?」
刹那そう言ったのはチャドだ。何が、とアズールが顔を上げると、彼はグリーンの瞳をフロイドに向けている。それから一度視線をフロイドの持っている資料へと移すと、チョコレートを持ったままの手である一点を指した。「その最後に載ってる会社さあ、ユウちゃんの就職したとこでしょ」
「は?」アズールは思わず目を見開く。「……チャドお前、まさかユウさんの就職先の名前を覚えているんですか」
「え? うん。だってユウちゃんの卒業前にたまたまNRC行く用事があったとき、そんなようなこと言ってたし」
「……」
そういえばコイツの記憶力はとんでもないんだったな、とアズールは思い返した。学生時代、図書委員長だった彼は本のタイトルや一度読んだ本の内容を難なく全て覚えていたくらいなのだ。それも、あのとんでもなく蔵書数の多いナイトレイブンカレッジで。
「つまりなに。小エビちゃんの会社もこの会社に買収されてるってワケ?」
「……や、それがさあ。逆なんだよ」チャドが言った。「なんかその会社だけ、買収される直前で計画が白紙に戻ってんの」
「は? 白紙? 何故です」
怪訝そうにそう言ったアズールに対し、ジェイドは「詳しいことは分かりません」と言った。
「ただ、ロマン社長のマジカメの投稿から推測するに、ユウさんが彼と結婚する話が出たのもこの時期です。……
「なっ。まさか——」
「……」
身を乗り出して唖然としたアズールを横目に、フロイドは押し黙った。資料をローテーブルに置くと、背凭れに大きく身体を預けて天井を仰ぐ。ややあってちらりと視線だけを移すと、随分と含みのある言い方をした同じ顔をしたきょうだいを一瞥した。視線が交錯した。一拍置いてから、静かに口を開く。
「……ジェイドさあ、小エビちゃんがそいつと結婚する代わりに、買収するのを白紙にしてもらったって言いてえの」
「話が早くて助かります。あくまで可能性の域を出ませんが、可能性はあるかと。僕の主観にはなりますが、ユウさんなら有り得るのでは?」
「……」
その通りだった。
他の従業員の生活を確保する代わりに自分が犠牲になる——あの小エビならやりかねない。小エビをよく知るフロイドには自信があった。
だって、いちごジャムの蓋も満足に開けられないくらい貧弱なのに、大事な誰かを守る為なら何だってしようとするお人好しなのだ。何でもかんでも気合いだけでどうにかしようとする無茶苦茶な性格。自分が辛い目に遭おうが、取り敢えず笑って誤魔化そうとする利他的なところ。——やりかねないのだ。それで自分がどうなろうが、自分にとって大事な者を優先する。あれはそういうエビなのだ。……
「——イド、フロイド」
フロイドはハッとした。顔を上げると、いつの間にか三人がこちらを向いている。どうやら考え込んでいる間に何度も呼ばれていたらしい。フロイドは無造作に前髪を掻き上げると、声の主であるジェイドのほうを見た。
「ごめ。なに」
「……いえ。平気ですか」
「ウン」
フロイドは頷いて、暫く黙った。それからふと、「——小エビちゃんってさあ」と呟く。
「昔っから、なんかスゲー無茶苦茶なエビじゃん」
「無茶苦茶なエビ……」アズールが眼鏡を押し上げながら言う。「まあ、言いたいことは分からなくもないですね」
「デショ。もし、この社長に無理矢理結婚させられるとかだけならさあ。ソイツんちの家の床掘り起こしてでも窓伝ってでも、自力で逃げてると思うんだよね。多分」
「あー……そういえばユウちゃん、スカラビアに監禁されたときグリムと二人でスプーンで穴掘って逃げようとしたって言ってたっけ」
「そー」フロイドは一瞬チャドを見た。それから天井を見やると、無感動に瞬きをする。「だから多分、ジェイドので合ってる。今の小エビちゃんは逃げないんじゃなくて、逃げられねーんだと思う」
大きな手をローテーブルにつくと、フロイドはゆっくりと立ち上がった。ガシガシと後頭部を掻くと、扉に向かって歩き出す。
「ちょっとオレ、一回顔洗ってくる」
「……ええ」
一同が見守る中、フロイドは廊下に出た。レストルームに向かって蛇口を捻って水を掬うと、容赦なくバシャバシャと顔を濡らす。
「——……」
ターコイズブルーの髪先が濡れて、水滴がポタポタと洗面台に落ちた。蛇口から水道水が、けたましい音を立てつつかたまりになって流れる。だがそれも、栓を閉じるとあっという間に静寂に包まれた。
「……小エビちゃん、」
掠れた声が響く。時たま滴る水の粒をぼんやり眺めながら頭の中でリフレインしたのは、先日のユウとの会話だった。それから何度も見た写真の中の、結婚式場で明らかに無理をして笑うユウの横顔。
「…………」
〝——ね。もし私がさっき言ったみたいな状況になったら、先輩は私のこと助けてくれましたか?〟
気付けなかった。気付かなかった。小エビちゃんはあの時、オレに助けを求めてたのかもしれねーのに。あれが小エビちゃんなりの、精いっぱいのSOSだったかもしれねーのに。それなのに。
「……。……〜〜ッ、クソ……」
フロイドは目の前の鏡に左手の拳を押し付けた。ドン、と鈍い音がする。鏡面に付着し滴る水滴の向こう、酷い顔をした自分を睨み付けた。ぎらりと殺意を纏う双眸からは、強い意思が漲っている。
本当は自分が幸せにしてあげたいけれど、それでも好きな子が幸せなら——小エビが幸せなら、正直なところフロイドは、自分が泡になろうが別にそれでも構わなかった。けれどこれは違う。あの男の隣にいて幸せそうだとは到底思えない。それはどう見ても明らかに違った。ならば、どんなことをしてでも取り返すまでだ。その為なら何だってやる。
「…………」
深く息を吐いた。震える肩で怒りを押し殺しながら、フロイドは眼光を鋭くする。ややあって、地を這うような低い声で呟いた。
「……ぜってー助ける」
強く握りこんだ拳の先で、鏡がみしりと軋んだ音を立てる。
頭痛はもう治まっていた。
