一、

『よく聞きなさい。人にはね、誰にでも生まれたときからお役目があるのよ』
 雨風を凌ぐ家もなく、物心ついた頃から両親もいない。毎日なんとかその日暮らしの生活で辛うじて命を繋いでいた孤児の私が、突然知らない男の人たちに捕まって初めてこのお屋敷に連れて来られたとき。一体何が起こっているのか分からず困惑していた幼い私に最初にそう言ったのは、怖い顔で私を見下ろしていたこの家の当主のばばさまだった。
 曰く、人には誰にでも生まれたときからお役目があるのだという。
 たとえば、人の上に立つべき者。
 お金持ちのご子息と結婚して、お世継ぎを作るべき者。
 会社を継いで今よりも一族を繁栄させる者。
 学を得て、それを生かす者。
 芸を極めし者。……等々。
 当時の私には言われていることの全部は理解できなかったけれど、その日から何年も何年もその内容を聞かされているうちに何となく、お役目というのは〝その運命を背負った者が絶対にやらなくてはいけないこと〟なのだろうということを理解した。そしてどうやら私は、私に与えられたとあるお役目のためにこの家に連れてこられた存在らしい、ということも。
「——いつまで待たせる気だい」
「ッ!」
 スッと襖が開いて思考が途切れる。私は我に返って、慌てて襖の方へと向き直った。目の前に飛び込んできたのは、着物を着た女性の姿。視線が合ってしまいそうになって、慌てて頭を下げる。
「、ばばさま」
 そこにいたのは、出会った頃よりも貫禄が増したばばさまだった。ばばさまは私の姿をじっと見下ろすと、興味が無いと言わんばかりにふんと鼻を鳴らす。無感動に瞬きをすると、心底嫌そうな低い声で言った。
「時間だよ。ぼさっとしていないで、準備が出来たのならさっさと来なさい。お前のような暇人と違って、私の時間は有限なんだから、最期、、まで余計な手間を掛けさせるんじゃないよ」
「はい。申し訳ありません」
「全く……いくら儀式の為とはいえ、どうしてお前なんかにこんな上等な着物を着せなくちゃいけないのかねえ。その着物は無能には似合わないよ。本当に反吐が出るわ」
「……恐れ入ります」
「良いかい、よくお聞き。この十数年、わざわざみすぼらしいお前を拾ってここまで育ててやったんだ。しっかり人魚さまにその身を捧げて、我が一族とこの村に恩を返すんだよ」
「はい」
「万が一私らに恥をかかせるようなことを少しでもしたら承知しないからね。ほら、いつまでそこでぼさっとしてるつもりだい。さっさと立つんだよ」
「っう、ぐ、」
 思い切り横腹を足で蹴られて、その勢いのまま地面に転がりそうになったのをぐっと堪える。またやってしまった。私がノロマだから、無能だから。ばばさまに怒られてしまった。お手を煩わせてしまった。
「……っも、し訳、ありません、」
「ふん、お前はいつもそればっかりだね。本当に悪いと思ってるのかい」
「申し訳、ありません」
 他の謝り方なんて知らない。咳き込みそうになったのを耐えながら、私は深く頭を下げてひたすら必死に謝る。
 今日は儀式だからか、ばばさまの蹴りが収まったのはそれからすぐのことだった。いつもみたいに水の魔法を掛けられたり、火の魔法で髪を焦がされることもないまま、ばばさまは溜息を吐くとスッと立ち上がる。
「さっさと来なさい」
「けほ、……は、い」
 立たなきゃ。私は慌てて起き上がると、着物の乱れを直しながらばばさまの後ろに続いた。床の木目を見つつ、必死に廊下を歩く。
 ちらりと周囲を見渡した。村一番のお金持ちであるらしいこの家は相変わらず、信じられないくらいにきらびやかな内装をしている。……なんだか実感が沸かないけれど、私がこの屋敷に来ることも、この景色を見ることも、多分もうないのだろう。あるとするならきっと、〝人魚さま〟に食い殺されて幽霊にでもなったあとだ。ぼうっとそんなことを考えて、無感動に瞬きをする。
「捧げ者の準備が整いました」
 屋敷の外に出た瞬間誰かが言った。私はそれを合図に、事前に言われていた通りのお作法で村の人たちに一礼をして、それから儀式を行う一行と共にお屋敷に背を向ける。目指すは人魚さまのいる岩場の洞窟だ。今日が良いお天気で良かった。洞窟があるあの海辺はいつも、雨が降ると酷く荒れて足場が悪くなるから。
「お役目をしっかり果たすように」近付いてきた村長さまが低い声で言う。「——この期に及んで逃げようなんて考えるなよ」
「……はい」
 私は返事をすると、儀式の行列に加わってゆっくりと歩き出した。すると神楽鈴が鳴って、一行は人魚さまの洞窟に向かって粛々とした足取りで進み始める。儀式の始まりだ。
 ……逃げようだなんてそんなこと、考えるわけがない。
 私は心の中でそう呟く。
 だって、私にとってはこの村と家が全てなのだ。人魚さまがどれだけ怖いひとなのかは知らないし、食べられてしまうことはもちろん怖いけれど。そんなことよりも私にはばばさまや村長さまの言葉が絶対で、それこそが絶対守るべきものだから。
 それ以上に大事なものなんて、私には何ひとつない。

   ■ ■ ■

『お前は明後日、人魚さまの生贄として捧げられることになったから。光栄なことよ。準備しておきなさい』
 ユウが贄に捧げられる日程は、数日前にばばさま—— 榊鬼さかき家現当主であるこの女によって淡々と発せられた。
 その瞬間、ユウの儀式の日が決まった。彼女はそのとき、自分の人生の終止符がいつになるかを知ったのである。

 ユウは現在十七歳であるけれど、しかし実のところ、自分が何歳なのかということをこれまで全く知らなかった。物心がついた頃には両親なんてものは既にいなかったし、それゆえ自分の誕生日がいつなのかも分からなかったし。拾われ育てられた榊鬼家でも特段必要になる機会は無く、それどころか昔一度気になって尋ねてみたところ『調子に乗るな』とばばさまに酷く怒られてしまったので……だから結局現在に至るまで、自分の年齢が幾つなのかなんて考えたことがなかったのである。
 そんな彼女がようやっと自分の年齢を知ったのは、つい一昨日のことだった。ばばさまの部屋に呼ばれたかと思えば、突然こうして生贄の儀式を執り行う日取りを伝えられたとき。『人魚さまへの儀式は代々生贄の十七歳の誕生日に行われるのがしきたりで、嫁入り前の生娘が捧げられる』と、事もなさげに淡々と告げられたのである。
 私の誕生日。私の、年齢……。
『聞いているのかい。分かったのなら返事をしなさい』
『! は、はい。申し訳ありません』
『全く……相変わらずぼさっとした子だね』
 ユウは慌てて頭を下げ、その場を後にし——自室に戻りながら、(……そっか)と独り言ちた。
 誕生日。つまり私は、もうすぐ十七になるらしい。誕生日というのは、間違っていなければそういう趣旨のものだったはずだ。私は十七歳になって、そして人魚さまに捧げられ、食べられて死ぬのだ。……
 ユウはその晩、寝床に戻るなり一人でケーキのことを思い浮かべた。誕生日と言えば、とぼんやり考えたときに思い浮かんだのが、以前ばばさまが溺愛する孫の誕生日に買ってきていたケーキだったのだ。宝石みたいな大粒のいちごがたくさん乗せられロウソクが立てられている、立派なケーキ。キラキラ光る和栗がたくさん乗っている、モンブランとかいうケーキ。あれらは一体、どんなに素敵な味がするのだろう。食べたらどんなに幸せな気持ちになれるのだろう。
 久々にそんな幸せな想像をしながら、彼女はいつも通り小さく丸まって眠りについた。そのお陰か、夢の中で甘いものを心ゆくまでたくさん食べることができたので。久々に幸せな気持ちのまま、翌朝目覚めることができたのである。

   一

 剥き出しの荒々しい岩に、ザバンと波が当たっては水しぶきが弾けている。それはなんだか、大海原そのものが生きているみたいだった。波は何度も大きくうねりながら、寄せては返してを繰り返している。
 崖道を下っていった奥、滅多に人通りのない村の外れ。人魚の棲む洞窟はそんな海辺の、聳え立つ鳥居の先にあるとされている。鳥居の先、しめ縄と紙垂しでがつけられたそこは、大昔から村の掟によって特別な人間以外は立ち入りが固く禁じている場所だ。勝手に入れば神の怒りに触れ、呪われ食われてしまうとされる神域。
「……」
 十七歳の誕生日当日。儀式のためにそんな洞窟までやって来たユウは、鳥居の前で一行と別れ、上等な着物の下でぎゅうと小さな己の手を握りしめていた。不安げに眉を下げながら、その入り口を見上げる。
 この洞窟の近くにはきれいな湧き水がある。水を汲みに行かされたことは何度もあったので、洞窟自体を目にする機会自体は今までにも何度もあったけれど……とはいえ実際に近付いてみると、そこは思ったよりも大きくて暗く見えた。洞窟の奥に入り込んでいく風がびゅうびゅうと音を立てていて、まるで巨大な生き物みたいだ。しかしいつまでも入り口に立っているわけにはいかないので、震えそうになる足を叱咤して、恐る恐る洞窟に足を踏み入れる。
「……失礼します」
 洞窟内は静かで薄暗かった。左右にぽつりぽつりと灯篭が置かれていて、中で火が揺らめいている。その光に導かれるように進み続ければ、しばらくしてひらけた場所に出た。洞窟の一番奥。見えてきたのは、中央に飾られた大きな何か。
「……?」ユウはぱちぱちと目を瞬いてから呟いた。「鏡?」
 そう、鏡だった。
 三段ほど階段を登った少し小高いところ。そこに設置されていたのは、ユウの背丈よりもずうっと大きな姿見のようなものだ。アーチ状で、枠には銅色をした重厚な装飾がびっしりと施されている。海を模したデザインのようだった。よく見ると貝殻や波、タコやウツボの装飾が多く彫られている。
 こんなひと気のない場所に設置されているというのに、不思議なことに鏡には埃一つはおろか、錆すらも付いていなかった。ユウが近付くと、きれいな鏡面は彼女の姿を鮮明に映す。真っ赤な着物を着せられた、細っこい娘だ。ユウは自分の姿をまじまじ見つめてから、困ったように僅かに首を傾げる。
「えっ……と、?」
 そもそも、どうしてこんなところに鏡があるのだろうか。儀式に使う用? 人魚さまの身だしなみ用? というか、肝心のその人魚さまはどこにいるのだろう。留守だろうか。
 彼女は困ってしまって、うろうろと辺りを見渡した。どうしよう、ここで待っていれば帰ってくるかな。一生懸命悩んでから最終的にそう結論付けると、ひとまずどこか端の方で待っていようと考えて回れ右をする。——が。
「!」
 ふと、何か気配を感じた気がしてふと動きを止めた。彼女はもう一度、反射的に背後を振り返る。そして目の前の光景を認めると、石よろしく固まった。黒曜の瞳を見開く。
 今の今までユウの姿を映していたはずの鏡。その鏡面が、まるで水面みたいに波紋を描きながら大きく波打っていたのだ。榊鬼の家は代々魔力が強い者を多く排出する家系なので、ユウも魔法自体は見たことがあるけれど……それでも、こんな大掛かりなものは生まれてこのかた見たことがない。これも魔法なのだろうか。彼女がそんなことを考えていると、突然何かが鏡の中から飛び出す。
「え?」
 それは腕だった。浅葱色の着物を着ている、誰かの左腕。それが鏡の中からニュッと現れたかと思えば、大きな手がユウの細腕をがっしりと掴んだのだ。そしてそのまま力強く、鏡のほうへと引っ張られる。
「!?」
 ——引きずり込まれる。
 もともと細くて力のない腕では、大した抵抗などできるはずもなく。脳内で警鐘が鳴った直後、ユウの身体はいとも簡単に鏡面へと引っ張られた。状況が全く飲み込めないけれど、一先ずどう考えても目の前の鏡に顔面を打ち付けそうなことだけは確実。彼女は青褪めて身体を縮め、これから起こる衝撃に耐える覚悟をした——のだが。
「っ……、……?」
 どういう訳か、身体が鏡にぶつかることはなかった。それどころか、目の前にあったはずの鏡は今はもう後ろにある。
 というのも今のこの一瞬のうちに、まるで扉を潜るみたいに身体が鏡を通り抜けたのだ。波打つ鏡面が身体を飲み込み、洞窟の景色から一転、視界は眩しさに包まれる。
 ユウには今、自分の身に何が起こっているのかさっぱり分からなかった。ただひとつ分かったのは、目を白黒させながら眩しさに目を細めた瞬間、掴まれていた腕を更にぐいっと引っ張られて無理矢理顔を上げさせられたことだけ。途端視界に飛び込んできたのは、目を見張るほどに鮮やかなターコイズブルーの髪と、左右で色の異なる垂れ目がちな瞳だ。
「あれぇ。鏡の向こうから妙な気配したから、なんか強いヤツでもいるのかなって思ったケド——噛みごたえのなさそうなただの人間じゃん」
「ぁ……」
「こんにちはァ、お嬢サン」
「こ、こんにちは」
「一人でノコノコ人魚の巣に来るなんてウケんね。オレの家に何か用?」
 ユウは困惑しながら瞬きをしつつ、目の前の男を見て思わず息を飲んだ。というのも彼は、今まで会ったことのある誰よりも美しかったのだ。
 村の人間と比べ、とんでもなく背の高い男だった。ターコイズブルーの髪の一房が黒いメッシュになっていて、右耳には菱形の、キラキラと輝く三連のピアスを付けている。身に纏っている浅葱色の着物は彼の色によく合っており、だらしなく着崩しているにも拘わらずとてもよく似合っていた。もし『彼は異国の俳優だ』と誰かに紹介されたのなら、疑うことなく納得してしまいそうな出で立ちだ。とにかくスタイルが良くて、圧倒的なオーラを纏っている。
「……、」
 しばらく見惚れてから、ユウはハッと我に返った。〝オレの家〟? 今しがた彼に言われた言葉を反芻してから辺りを見渡して、そしてようやく、彼女がいま立っているそこは先程までの洞窟ではなく、いつの間にか屋外になっていると気付く。緩く風が吹いていて、どこからか潮の香りがした。男の背後には開け放たれている大戸口が見えて、その奥には平屋のような建物が見える。
 彼女は一度背後を振り返った。そこには相変わらず鏡がある。どういう仕組みかは分からないけれど、鏡を潜り抜けた先はこの家に繋がっているらしい。
「……あの」ユウは改めて男の方へと向き直ると、僅かに掠れた声で言った。「貴方が人魚さま……ですか?」
「んえ? マアそう呼ばれることもあるけど。どーもぉ、フロイドでぇす。オレのコト知ってんの?」
「!」
 やっぱりこの方が人魚さまだ。ユウはようやく解放された己の手をぎゅっと握った。この男は人間の姿をしているし、どういう訳か人魚と呼べる尾鰭も無いけれど……しかし何となく、直感でそんな気がしたのだ。
「……人魚さま」
 ユウは頭を下げた。自分はこの日の為に生きてきたのだ。生かされてきたのだ。先日儀式の日程が決まってから何度も暗唱させられた台詞を、必死に口にする。
「お初にお目にかかります。ユウと申します。あなたさまへの生贄として此方に参りました」
「ア? 生贄?」
「はい。我があから村と榊鬼家の繁栄のため、この身を捧げます。どうぞ好きなようにお使いくださいませ」
 ユウは頭を下げたまま、サイズの合っていない自分の草履を無心で見つめた。食べられるとき、あんまり痛くないと良いな。殴られたりしないと良いな。そんなことを密かに考えながら頭を下げ続けていると、「あー、そういやそんなのあったっけ」と頭上から声がする。
「生贄の儀式、今年なんだっけねぇ」
「は、はい」
「ふーん」
「……」
「……」
「……? あの……」
「んー、あのさあ。やっぱ帰って良いよ」
「え?」
「オレぇ、今ニンゲンと話す気分じゃねーんだよね。さっきは鏡の方から妙な気配がしたから、久々になんか面白いコトあるかもーって連れてきてみたけど——別に生贄とか要らねーし」
 しかしフロイドはしばらくユウを眺めたのち、そう気怠げな声で言った。
 ……えっ?
 ユウは混乱した。
 だってまさか、初手で用無しだと言われるとは思ってもみなかったのだ。最初は冗談で言っているのかと思ったが……けれど驚いて顔を上げると、本当に興味がないと言わんばかりな表情をしている男の姿があって。その言葉はどう見ても本心なのだと分かる。
 そういえば、人魚さまはとても気分屋な方なのだっけ。大昔の書物にそんな記述があるのだと、以前ばばさまが言っていた気がする。ユウはそんなことを思って……けれどすぐに事態の重大さに気付いて青褪めた。
「かえ、る?」
 私、帰らされるの? あの家に?
 ユウは困ってしまって、その場で固まった。男はさっさと踵を返して「あ〜……なんか楽しいコトないかなぁ」と間延びした声で呟きながら後頭部を掻いていて、今にも屋敷の方へと姿を消してしまいそうだ。どうしよう。どうすれば良いんだろう。ユウの頭は真っ白になる。
 だって、ここを追い出されたら帰る場所なんて無いのだ。神に捧げられる為に生かされてきた身。村の役に立つために、一族の役に立つために、今まで育ててもらってきた身。それなのに生贄のお役目すらも出来なかったら、自分に存在価値なんてない。絶対に、お役に立たなきゃいけないのに。それなのに。
「っ」
 ユウはグッと脚に力を入れた。
「待っ、お待ちください」
 慌ててフロイドの元に向かおうと、声を掛けて走り出す。けれど直後、彼女の身体はぐらりとバランスを崩した。というのも履いていた草履のサイズが大きいせいで、うっかり躓いてしまったのだ。あ、まずい。思った時には時すでに遅し。支えきれないほど完全に傾いた身体はそのまま重力に従って、石畳へと近付いていく。
「ぅ、わ」
 軽い衝撃と共に、痩躯がべしゃりと倒れ込んだ。直後辛うじて受け身を取った手のひらが、僅かに熱を持ってジンと痛む。
「ウオ。は?」ギョッとしたフロイドが立ち止まって振り返った。「え、なんかスゲー音したけど。大丈夫?」
「だ、大丈夫です。申し訳ありません」
「いや全然大丈夫じゃなくねぇ? 鼻血出てるし」
「へ」
 戻って来た彼が己の鼻の辺りを指す。起き上がりながらつられて自分の鼻に触れたユウは、その手に付いた赤を見て慌てて鼻を押さえた。
「ッ、」
 ボタボタと垂れる鮮血は、止まりはしていないが幸い着物には付着していない。真っ先にそのことを確認してから誤魔化すようにニコリと微笑むと、男は呆れたように溜息を吐いた。
「んもー、ほらこっち向いて。治したげるから」
「治……!? め、滅相もございません。人魚さまに治して頂くなんて、そんな」
「なあに、オレの言うこと断るの?」
「! ちが、」
「なら良いからこっち向けって。オンナノコなんだからさあ、顔大事デショ」
「大事……?」
「ウン。ほら」
 フロイドは溜息を吐くと、よっこらせとユウの前に屈みこんだ。頭に手を伸ばすと、顔を上げた彼女はそれを見て大きく目を見開く。途端、痩躯が身構えたように強張った。小さな肩がビクリと震える。
「あは、すげぇビクビクしてんじゃん。小エビみてぇ」
「……っ! す、すみませ……」
「別に良いけど。ていうかお前、全体的にちっちゃいねえ。ちゃんと食べてる?」
 フロイドが言いながら少女の鼻の前で指を鳴らすと、きらりと光の粒が弾けた。ややあって「ハイ、おしまーい」と彼は言う。ユウが鼻に触れると、いつの間にか血は止まっていた。手の傷も治っている。……魔法で治してくれたんだ。驚いて呆けていると彼はそのまま少女の手を掴んで、引っ張り上げて立ち上がった。改めて触れたその手は大きくて、少しひんやりしている。
「あ——ありがとうございます」
「どういたしましてぇ。ほら、これ以上怪我する前にさっさと帰りな。そこの鏡から戻れるから」
 男は顎で奥を指す。ユウはそれを一度振り返ってから、もう一度男を見やった。困ったように視線を彷徨わせ、何かを言いたげに口を開閉する。
「? どしたの」
「あの……本当に生贄は要らないんですか?」
「ウン、要らねーけど」
「じ、時間が経ったら気が変わるとか。他に何か私にお手伝い出来ることとか……そういうのもありませんか。少しでも良いんです」
「えー? そもそも別にオレ、元々生贄にそんな興味ねーもん。なんかお前んちの当主が毎回勝手に連れてくるから神として取り敢えずは会ってたけど、なんかみーんな同じようなこと言うばっかりでつまんねーしさあ。もういい加減飽きたあ」
「そう、ですよね……申し訳ありません」
「? ウン」
 フロイドはジッと娘を見下ろした。帰れと言った途端、明らかに必死に残る理由を探し始めた彼女に内心首を傾げる。先程あんなに怖がっていたくせに。贄に捧げられずに済んで喜ぶ場面ではないのだろうか。そんなことを思って、俯く彼女のつむじを見つめながらしばらく考え。
 ——ああ、そうか。
 そこで彼はようやく、彼女の意図に気付いて膝を打つ。
 この娘はきっと、このままノコノコ実家に帰る訳にはいかなくてゴネているのだろう。というのも、人間社会には何かと面倒な世間体なるものが色々があるそうだから。きっと生贄の儀を経て大々的に送り出された手前、あっさり帰るなんて許されないと思っているのだ。
「あは。もしアズールだったら、色々取引持ち掛けて、ここに残りたいヤツに仕事くれたり助けてくれたりしたかもしれないけどねぇ。ざぁんねん、ここの神オレだから」
「あず……、アズールさん。お友達ですか?」
「お友達っつーか……知り合いのタコちゃんみたいな。腐れ縁ってやつ?」
「知り合いの、タコちゃん……」
 彼は薄く笑って、キョトンとしているユウを見た。僅かに目を細めると「もし、ここにいるのがアズールだったら」と考える。
 ここにいるのがアズールだったら。確かに今こうして困っているこの娘に甘い言葉で囁いて助けてはくれるだろうが、蓋を開ければその実、明らかに此方が有利な取引を持ち掛けて契約でも結ぶのだろう。この娘はどうにも世間知らずに見えるというか、他人のことをコロッと信じてしまいそうな様子で、加えて村一番の金持ちの家の娘なのだから……フロイドが軽く考えてみただけでも使いようは幾らでもある。アズールはそりゃあもう、ニッコニコで取引を持ち掛けるのだろう。ユウの将来を考えるのなら、ここに住む神がアズールじゃなくて良かったのかもしれない。
 マしかし、残念ながらここにいるのもとんだ邪神であるので、実のところ同じくらいハズレくじを引いているようなものではある。フロイドは別に慈悲深い契約で誰彼構わず助けるつもりもないし、かといって楽しくないこともしたくないからだ。一応ここの土地神として生贄に挨拶をするという最低限の責務は(今日はたまたま気が向いていたので)果たしたけれど……単純にそれだけのことだ。あとはさっさと追い返すに限る。この娘の事情など知ったことではない。
「人魚さま。あの、少しお伺いしても良いですか」
「んあ。なに?」
「……人魚さまは、面白いことや楽しいことがしたいんですか?」
「? ウン、まあね。最近スゲー退屈でつまんねーんだもん」
「そう、ですか」
「だから生贄は別に要らないワケ。分かったんならさっさと帰ンな」
「……」
 そういう訳でフロイドは、さっさとそう言って娘を追い返そうとした。俯いて黙りこくってしまった彼女を横目に欠伸を一つしてから、家に戻って昼寝でもしようかなァなんて違うことを考える。それか海にでも泳ぎに出ようか。沈没船を探したり鮫を追いかけたり、人間の乗る船にちょっかいをかけたり。久々にそういうことをしてみるのも良いかもしれない。……
「——人魚さま」
 けれど。押し黙っていたユウが再びフロイドを呼んだのだので、彼の思考は一時ストップした。
「ア?」
 彼は気怠げに振り返る。そこには相変わらず俯いたままの少女がいて、ちいちゃな手を帯の前で握り込んでいた。
 ——なあに。オレ、いい加減帰りたいんだけど。
 フロイドは本当は、そう言ってさっさと去るつもりだった。けれど瞬間少女が勢い良く顔を上げたものだから、突然のことに少しばかり驚いて「え、ナニ」と思わず違う言葉を口にする。
「ご相談があります」
「ゴソーダン?」
「はい。……私がもし人魚さまの退屈を取り払うことが出来るのなら、ここに残ってもよろしいですか」
「え? そりゃマア、おもしれーコトしてくれんなら大歓迎だけど」
「……分かりました」
「んえ」
 分かりましたって、何が? 首を傾げたフロイドの前で、ユウは一瞬目を瞑って息を吐いた。それから改めて、覚悟を決めたような顔で彼を見上げる。
 黒曜の瞳と視線が交錯した。一瞬の後に口を開くと、ユウははっきりと芯のある声で言った。
「人魚さま。私をあなたのお嫁さんにして下さいませんか」
 その場に沈黙が落ちる。
 ざあっと風が吹いて、遠くの海から微かに波の音がする。
「……——」
 フロイドはぽかんと固まって、しばらく少女を眺めた。およめさん。よめ……嫁? 頭の中で言葉を反芻して、思考を巡らせて。それからぽつりと、ようやっと口を開く。「…………は?」
 訳が分からなかった。どう考えたって文脈がおかしい。自分たちはつい先程まで帰る帰らないの話をしていたはずなのに、「あなたのお嫁さんにしてくれませんか」って何だ。話の流れがおかしすぎるだろ。けれどどう見てもユウは真剣だった。真面目な顔で男を見ている。
「え、なに。嫁って言った? つがいってこと?」
「つが……?」
「あー……だから、夫婦めおとってこと」
「! そ、そうです」
「いや、『そうです』じゃねーんだけど。何でオレが娶るって話になんの?」
「アズールさんと同じようなことを、私もしてみようと思って」
「アズールのようなことぉ?」
「はい。取引を」
「取引って——何と何で取引すんの」
「私のこの身を、人魚さまのお嫁に差し上げます。夫婦生活をして人魚さまの退屈を取り除く代わりに、私をここに置いて欲しいんです」
「ハア?」
 訳が分からないといった様子のフロイドに見下ろされながら、ユウは密かに息をつめた。
 言葉尻が震えそうになる。心臓がバクバク鳴っていた。どうにかして伝えなきゃ、と思考を必死に動かす。
〝面白いこと〟
 ユウがそのことを必死に考えたとき、最初に思い浮かんだのがこれだった。
 フロイドは今の生活に心底退屈していて、つまらないことに対して飽き飽きしている。そんな彼に対してちっぽけな人間の自分にでもできることで、尚且つ〝神様が今までに全く体験したことのないような何か〟……その条件を満たすようなものを考えたとき、ふと『夫婦になるのはどうだろう』と思い付いたのだ。
「神様が人間を娶ったなんてお話を、少なくとも私は今までに聞いたことがありません」彼女は一生懸命説明をした。「出過ぎた真似をしていることは重々承知しています。だけど——今までにやったことのないことをしたら、人魚さまも面白いかなって思って」
 ユウはぎゅうと手を握った。フロイドはそれをじっと見てから、「……。……お前さあ」と口を開く。
「ホントにオレと取引したいの? そんなに家に帰りたくねーの?」
「その」ユウは困ったように視線を彷徨わせた。「……私は人魚さまの為にお役に立つことを望まれ育てられた身です。いま帰っても、きっとお役に立てなかったことについて酷く失望されてしまうから……」
「実家の人間に怒られるくらいなら怖い神の家に居候するって? 毒をもって毒を制すってワケ?」
「……」
 この娘、よく分からないがどうやらよっぽど実家の人間に失望されたくないらしい。
 フロイドは呆れたようにユウを見下ろした。よく見ると、彼女の手は僅かに震えている。無理をしていることはどう見ても明らかなのに、けれど彼女は一向に折れる気配がない。神に取引まで持ち掛ける前代未聞の娘だが、肝が据わっているのかそうではないのか何なのか。
「ね、ヤダって言ったらどうすんの?」
「い、良いと言ってくださるまでお待ちします」
「んえ。お待ちされんの、オレ」
「はい」
「……それさあ、もう取引って言わなくねえ? 単なる押し売りじゃん」
「えっ。あ、」
「いま気付いたワケ?」
「……」
「……」
「……」
「……。……ふは」
 ややあってフロイドは吹き出した。肩を震わせて、耐え切れずにクツクツ笑う。
 何というか、とんでもなく抜けていて素直な娘だ。彼は次第に楽しくなってきて、「小エビちゃんおもしれーね」と素直に言う。急に笑われて目を白黒させていたユウは「こえび……?」とキョトンとした。フロイドはそんな彼女を、目を眇めて見やる。
「そ。すぐビクッてするから小エビちゃん」
「こえびちゃん」
「ウン。ねえ、さっきの話だけどさあ。良いよぉ」
「え?」
「だから、夫婦。なりたいんでしょ? 小エビちゃんのコト、オレのお嫁さんにしたげる」
「! ほ、ほんとうですか」
「ホント。なんか退屈しなさそうだし〜」
 嫁に貰うのが面白そうというよりも、単純にこの娘が気に入ったという話である。だって、今までに会ったことのないタイプだし。人間が生きている間くらいの短い時間を共に生きるのなら、暇潰しくらいにはなりそうだと、そう思ったのだ。
「小エビちゃん、今日からオレのお嫁さんね。んでオレはぁ、なんだっけ。旦那?」
「は、はい。旦那さまです」
「んふ。旦那サマね」
 フロイドはニコニコ笑って、それからユウの手を取った。人間って、取り敢えず夫婦になったら何をするんだろ。頭の中で考えて、それから「ア!」と思い出したように言う。
「ね。じゃあ二人でさあ、祝言挙げようよ。オレやってみたーい」
「しゅ——祝言!?」
「ダメ?」
「だっ、駄目じゃ、ないですけど……」
「ヤッタァ」
 昔から、気が向いたら即行動の男である。フロイドは足取り軽く自宅へ向かいながら、やることリストを頭の中で纏めつつウキウキ心を踊らせた。
 そんな彼に引っ張られながら、ユウはその背中を見上げてポカンと目を丸める。なんというか、展開の早さについていけていないのだ。自分で言い出したことではあるのだけど、明らかに思考が追い付いていない。
 (……でも、これで)と彼女は思う。
 でもこれで、ひとまずこれでばばさまの元に戻らなくて済んだのだ。人魚さまに奉仕をして、村と家に繁栄を。形は違えどその目的の達成のための第一歩を踏み出すことが出来たのだ。これできっと、能無しと怒られずに済む。いつの日か再会する日が来たとして、事情を話せば良くやったじゃないかと褒めて貰えるかもしれない。もしかしたら、きっと……。
「はい、とうちゃーく」
「!」
 フロイドの声が響く。
 身体はいつの間に敷居をまたいで、家の門をくぐっていた。玄関に到着するなり、彼はようやっと振り返る。鋭利な歯列を覗かせ、ユウに向かって無邪気に笑いかけた。
「いらっしゃーい。今日からここがオレと小エビちゃんの家ね」
「はい。人魚さ……旦那さま」
「堅苦しいのヤだからフロイドで良いよ」
「フロイド、さま」
「あは。そーそー」
 フロイドさま。ユウは頭の中で何度か反芻する。生きているうちに、まだ新しい単語を覚えることになるとは思わなかった。もう死にゆくだけだと、昨日はそう思っていたのに。人生とは何が起こるか分からないものだ。

 ユウがフロイドの洞窟にやって来てから、たったの一時間ほど。
 フロイドは退屈しのぎのために。
 ユウは実家に帰らないために。
 恋愛漫画もびっくりなスピードで——二人はこうして、奇妙な夫婦関係に至ったのである。
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