秘密
この世界に生きとし生けるものならば、誰にだって他人に隠しておきたい秘密の一つや二つあるものだ。それは例えば他人には知られたくない人間関係があるだとか、実はこの間夜中にこっそり他人のおやつを盗み食いしちゃっただとか、幼少期の忘れてしまいたい黒歴史があるだとか、酔った勢いでうっかり何かやらかしてしまっただとか……エトセトラエトセトラ。マアとにかく、この世に後ろめたいことが全く何も無い人間なんて存在しないのと同じように、誰に対しても全く秘密のない人間なんてものは間違いなく存在しない。もしも万が一『自分には秘密なんて無い』と豪語する人間がいようものなら、それこそ逆に信用出来ないまであるくらいだ。それはきっと、元の世界もツイステッドワンダーランドも同じである。そんなことはもちろん分かっていた——のだが。
「……——」
監督生は石よろしく固まって、自分の手の中の物をじいと見下ろした。どうしよう。これはもしかしなくても、恐らくとんでもないものを見つけてしまった。取り敢えず視線を逸らして、ひょっとしてこれは夢かもしれないと一度現実逃避をしてみて。けれど改めてちらりと視線を落として、やっぱり夢じゃないと頭を抱える。どうしよう、どうしよう!
はたして彼女の手の中には、とある一冊の雑誌が握られていた。随分と読み込まれているのか既に草臥れているように見えるそれは、ファッション雑誌のように洒落たデザインの表紙をしているわけでも、スポーツ雑誌のように爽やかな選手がメインで映っているわけでもなく。やたら短い丈のスカートを履いて大きな胸を強調するようにワイシャツの前を開け放っている、セーラー服姿の黒髪ショートの女性の写真が大きく表紙を飾っている雑誌である。
『女子高生と紡ぐ禁断の恋!』だとか、『制服のあの子を暴く!』だとか。ゴシック体の派手な見出しで踊っているのは、いくつものそんなよく分からない文字の羅列だ。監督生はふと先程うっかり中を覗いた際に見てしまった、破廉恥な写真の数々をふと思い出して、思わず頬を僅かに染めながら口を噤む。——そう、いくらそういったこと に物凄く疎い監督生でも、流石にこれがどういったシロモノかくらいは理解できた。紛れもなく、これは所謂〝男性向けのピンクな本〟——つまりエロ本である。
放課後、場所はオクタヴィネル寮にあるフロイドの自室である。窓の外には海が広がるこの部屋に現在なぜ彼女が一人で居るのかといえば、きっかけは昨日の昼休みにフロイドからとあるお誘いを受けたことだった。
『ねえ小エビちゃん。明日ヒマ? オレんトコ来ない?』
『明日ですか? はい、空いてますけど……ん? 〝オレんトコ〟?』
『そー。明日から三日間さあ、ジェイドが連休使って山行くんだって。だからオレしばらく部屋一人なんだぁ。山なんてマジで何が楽しいのか分かんねーし、明日の昼間はアイツの代わりにラウンジの仕事出なきゃいけねーからスゲーメンドーだなぁって思ったけどぉ——でもジェイドいないってことは、仕事終わりに部屋に小エビちゃん呼べんじゃん? だからさあ、どうかなーって』
『へ』
『明日、オレの部屋でお泊まり会しない?』
『お泊まり……』
監督生は驚いたように目を丸めてフロイドを見た。
なんでもこの小エビ、普段からよくフロイドとお泊まりデートを行ってはいるが、それはオンボロ寮で行われることが常で、実はフロイドの自室に泊まったことは今までにただの一度もないのだ。というのも、肝心のフロイドがそれを良しとしなかったのである。
——オレが部屋にいる時に遊びに来んのは良いけどぉ……ジェイド居るし、泊まるのはナシ。いくらアイツでも、オレ無防備な小エビちゃんの姿見せんのぜってーヤだもん。
いつだったか、付き合ったばかりの頃に小エビの黒髪を指先で弄りながらそう言っていたその言葉の通り、彼は今まで一度も監督生を部屋に泊まらせたことがなかった。マア監督生としても恋人の仲睦まじい時間にジェイドがいては気まずいし、そもそもジェイドも嫌だろうし。そりゃあそうだと彼の言葉に納得し、もちろん了承していたのだが。
『お、お邪魔しても良いんですか?』
『あは、当たり前じゃん。小エビちゃんはオレの大事なカノジョだもん』
そんな中、そういった言葉と共に初めて誘われた、フロイドの部屋でのお泊まりデート。当然だと言わんばかりに頷いたフロイドを見て、監督生はじわじわと嬉しさがこみ上げるのを感じた。だって、そりゃあもちろん小エビにだって「恋人の部屋にお泊まりしてみたい」という憧れは少なからずあったのだ。卒業するまではひとまず無理だろうなと思っていたことが、まさか突然明日叶えられるとなれば、もちろん嬉しくない訳がない。
『ね、どお?』
『い、……』
『ン?』
『行きたい、です……』
『はぁい。じゃあ決定ね♡』
『!』
『んふ、小エビ喜んでる。かぁいい』
だから監督生は、ドキドキしつつも喜んでフロイドの誘いを受けることにした。ポンと頭を撫でるフロイドに『楽しみです』と言って、『オレもスゲー楽しみ』とにんまり眦を眇める彼に嬉しそうな顔でほにほに笑って、テレテレと頬を搔いて。そうしてオンボロ寮に帰ったのち、鼻歌を歌いながらお泊まりセットの準備をしたのであった。
『仕事終わったらすぐ戻るからさあ、小エビちゃん先に部屋でゆっくりしててよ』
『わかりました』
そして当日。そんな言葉と共にあらかじめ手渡されていた鍵を受け取って中に入ったは良いものの、大好きなひと の部屋に自分がいるのはなんだか落ち着かなくて。監督生はそわそわと室内を見渡してから、けれど家主のいない部屋であんまり好き勝手眺めるのは失礼かもと思い直し、ひとまずそそくさとベッドの端にちょこんと座った。取り敢えずフロイド先輩が戻って来るまで大人しく待っていよう。そう考えて気を紛らわすために持参していた本でも読むことに決め、お泊まりセットの中に忍ばせていたファンタジー小説を取り出す。
これは先日、大の本好きであり仲良しの先輩でもある図書委員長・チャドにおすすめしてもらって読み始めたもので、最近の彼女のお気に入りの書籍だった。村の安寧のため生贄として捧げられることになった人間の娘と神様のラブストーリーで、村の人間に翻弄されながらも一生懸命に生きようとするヒロインと、そんな彼女のことが大好きな神様の恋物語が魅力的だ。神様との距離がどんどん縮まっていくのを見ていると監督生の心は踊って、早く寝なくてはいけないと分かっている夜でも、いつもうっかり読み進める手が止まらなくなるのである。
今日はどんなシーンが読めるんだろう。監督生はワクワクしながら美麗なイラストが描かれた表紙を撫でた。昨晩はたしか、中盤の辺りまで読んだはずだ。そう思って本を開き——けれど文字の羅列に目を通す前に、『あっ』と思わず声を漏らして下を向く。
ページを開いた瞬間、挟んでいた栞がひらりと本から放り出されてしまったのだ。それは慌てて掴もうとした少女の指の間をすり抜け、床に落ち。そしてなんと、ベッドの下の隙間にスルリと入り込んでしまったのである。
やってしまった。
監督生は慌てて、ベッドの下を覗いた。が、下は暗くてよく分からない。困ってしまった彼女は、取り敢えずえいやと手を突っ込んでみることにした。きっとそこまで奥の方へは行っていないはずだ。
手探りで暗闇を捜索し、栞を探す。すると暫くして、何かが手に触れる感覚があった。ハッとした監督生は、取り敢えずそれを何の気無しに引っ張ってみる。そして明るいところでそれを目にして——思わずピタリと固まった。
『え……? これ……』
それは栞なんかよりもずうっと、大きなものだった。
雑誌である。それも、際どい衣装を着た女の子が全面に印刷されている雑誌。
「…………」
そう。それは間違いなく、探し求めていた可愛らしい栞などでは到底なく。……この部屋に住まう恋人が所有していると思われる、正真正銘立派なエロ本だったという訳である。そして話は冒頭に戻る。
——この世界に生きとし生けるものならば、誰にだって他人に隠しておきたい秘密の一つや二つあるものだ。それは監督生だって例外ではないし、もちろんフロイドだってそうだろう。だから彼に何か監督生の知らない秘密があったとしても、別に何らおかしいことではないと思っていた。思ってはいた、……のだが。
「……」
監督生は取り敢えず件の雑誌を膝の上に乗せると、熱くなった頬に手を当て、あれこれ考えるようにウロウロと視線を彷徨わせた。
〝そういうこと〟をする時、フロイドはいつも監督生に対してすごく紳士的だ。初めてのとき、全く知識のなかった監督生に手取り足取り教えてくれたのはもちろんのこと、それからというもの毎度毎度それはもう宝物に触れるみたいに優しく丁寧に、怖がらせないようにと順序を踏んでくれるのが常である。初めては痛いと言うけれど、彼女からしたら今までにそう感じたことなんて一度もなかったし、毎回ムード作りからアフターケアまで、とにかくいたれりつくせりだった。フロイドはそれはもう完璧なくらい小エビに愛を与えてくるものだから、小エビはむしろ、気持ちが良すぎて訳が分からないくらいにふわふわしてしまうことのほうがほとんどで。もうとにかく、何から何まで自分にはもったいないくらい完璧なのである。
(でも……)
監督生は頬に手を当てながら、ぐるぐると頭の中で考えた。もしかして先輩、毎回必死になっちゃう私の手前合わせて我慢してくれているだけで、本当はこういうアブノーマルな感じのプレイもしたいのかな。こういう色々と際どい格好、私にもして欲しいと思っているのかな。髪型とか背格好とか、なんかこの表紙の人、何となく私に似てる気がするし……。
「……」
彼女はもう一度、ちらりとその本へ視線を向けた。試しに、自分とフロイドの〝そういうプレイ〟を想像してみる。が、恥ずかしさに耐え切れずに思わずわ゛ーっと一人で頭を抱えた。そういったものに耐性のない監督生には、あまりにも刺激が強すぎたのだ。まだ日も落ちきっていない夕方からなんて妄想してるんだ、私! 彼女は慌ててパタパタと、思い浮かんだ映像を振り払う。——と。
「小エビちゃーん! ただいまぁ」
「っ!」
突然部屋の扉がガチャリと開いて、監督生はビクリと肩を跳ね上げた。声のした方を反射的に見やると、そこには満面の笑顔を浮かべたフロイドが立っている。大きな手にはラウンジのロゴが入ったビニール袋を提げていて、中から食欲がそそられる香ばしい匂いがした。鼻腔をくすぐるそれは、フロイドが部屋の扉を閉める頃にはあっという間に室内に充満していく。
「待たせてごめんねぇ」彼は今にも鼻歌を歌い出さんばかりの機嫌の良さを滲ませながら言った。「あんね、余ってた食材でカレー作ってきたんだぁ。あと、小エビちゃんの好きなスイーツもあるよ。せっかくだし、映画でも観ながら一緒に——」
フロイドはそこではたと言葉を止めた。なんだか小エビの様子がおかしいことに気付いたのだ。
「……?」
彼は顔を上げて真っ赤な顔をした監督生を見るなり、次いで彼女の手元に視線を向けた。一生懸命手で隠そうとしている様子ではあるが、あいにく彼女の小さな手では雑誌の半分も隠せていない。
なんだろ、なんか必死な顔しててかぁいい。
フロイドは呑気にそんなことを思いながらゆるりと垂れ目がちな目を瞬き、なんの気なしに膝に乗せられている雑誌を視界に入れた。そこにあるものを認め、室内に静寂が落ちること一拍、二拍。直後、ようやく事態に気付いてギョッとしたように目を見開く。
「〜〜ッッッ!?」
そこからはとにかく素早い動きだった。
フロイドは長い脚をフル活用して監督生の座るベッドへ近付くと、彼女の膝の上から光の速さで本を奪い取って背中に隠す。困惑したように「は!? えッ!? 待って?」と挙動不審な反応をしてから、「こ、こえびちゃ、コレどこにあった!?」と裏返りそうな声で言った。
「あ、えっと、ベッドの下に」
「ハア!? 何でンなトコに……」
フロイドは困惑しつつも頭をフル回転させて考える。監督生を呼ぶからと、普段じゃ考えられないくらいに細かいところまで、浮き足立ちながら部屋を片付けや掃除をしたのは昨晩のことだ。もちろんこういうものは絶対に見られない場所に隠したはずだし、ベッドの下に入れていたはずの物なんて、靴の手入れ用品くらいなものだったはず。それなのに。
『——ふふふ。監督生さんと楽しんでくださいね』
ふと、フロイドの脳内にジェイドのそんな言葉が思い出された。そういえば今朝出ていく際、やけに意味ありげな笑みを浮かべていたような。てっきり山に行くせいでテンションがおかしくなっているだけかと思っていたが、今考えれるとあれはこういうことが起きることを予測した上での笑みだったのではないか。考えられないこともない。だってジェイドは、先日フロイドがうっかり机の上のテラリウムを誤って割ってしまったことを、未だに結構根に持っていたし。
何かを企んでいるような、楽しそうなきょうだいの顔を思い浮かべる。……なるほど。つまりこれは意趣返しということか。
「……」
——絞める。マジであのクソキノコ狂い、帰ってきたら絶対絞める。
フロイドはそう固く決意した。決意するだけでは足りなかったので、取り敢えず脳内で自分と似たようなあの顔を二、三発殴っておく。
「……あの、先輩」
「!」
と、監督生が口を開いたのはその時だった。フロイドがハッとして顔を上げると、少女は困ったように眉を下げながら言葉を続ける。
「すみません。見るつもりは無かったんです。だけど——その、栞がベッドの下に落ちちゃって。それで私、拾おうとして……その時に」
「ヤ、小エビちゃんは悪くねーからマジで。気にしなくて良いよぉ……」フロイドはガシガシと前髪をかき上げた。「それで、アー……栞? 落としちゃったの?」
「は、はい。前にフロイド先輩がお花くれたじゃないですか。髪に刺してくれて。あれすごく嬉しいなって思ってたら、チャド先輩が長持ちするようにしてあげるーってラミネートかけてくれて……それ使ってたんですけど、」
「んえ」
オレがあげた花? フロイドはぼんやりと過去を回顧した。
あれは付き合ってすぐの頃だったか。小エビによく似合いそうだと思って、道端に咲いていた綺麗な青い花を何気なくプレゼントしたことがあった。普通道端の花を好いている女性にプレゼントする奴があるか! と、当時その話を聞いたアズールにはドン引きされたものだが……どうやら監督生は本当に喜んでくれたようで、それをわざわざ栞にして、今でも大事に使ってくれているらしい。
まさかそんなに大事に持っていてくれていたとは。フロイドは花を手渡したときの、花なんかよりもずうっと可愛らしかった彼女の笑顔を思い返しながら、床へと視線を滑らせた。よっこらせと屈み込むと、ベッドの下に手を入れる。ややあって指先に触れたものを引っ張り出すと、パッと顔を上げた。「コレ?」ベッドの縁に腰掛けている監督生に、ひょいと差し出しながら尋ねる。
「! そうですっ」監督生は首を一生懸命縦に振りながら両手で栞を受け取る。「良かった……ありがとうございます」
「どういたしましてぇ」
今日も今日とて、相変わらず最高に可愛らしい笑顔だ。フロイドはふっとその笑顔を眺めてから、何秒か考える素振りをし。それからややあって、「……ねえ、小エビちゃん」と口を開いた。
「あのさ。アー……さっきの雑誌の話だけど」彼はガシガシ後頭部をかきながら言葉を続ける。「……オレの方こそごめん」
「えっ」
栞を見つめていた黒曜がパッとターコイズブルーを見上げた。分かりやすく驚いたような顔をしながら、監督生は慌てたように言う。「な、どうして謝るんですか。私が間違って見ちゃったのに」
「だってヤでしょ、彼氏があんなの持ってたら」
オレだったらヤだもん。
フロイドは大層真面目な顔でそう言って、綺麗に整頓されているジェイドの机へと向かった。躊躇なく引き出しの一番上の段を開けると、整然としていたそこに容赦なくその雑誌を突っ込む。そして座ったままの監督生の隣へと戻り、ギシリとスプリング音を立てながら腰掛けた。監督生の肩口にグリグリと顔を埋めつつ、内心大きく溜息を吐く。
今回ジェイドによってベッドの下に仕込まれていたエロ本。あれはそもそもフロイドが買ったものではない。元は以前取り立てた生徒の、所有物の一つだった。
……うーわ、何この頭の悪そうな本。
監督生以外の雌に対して全く興味が無いフロイドが当時最それを見たとき、最初に抱いたのは正直なところそんな感想だった。前に寮で『どんな格好が一番エロいか』って話してる奴らもいたケド——こういう格好してれば誰でも良いワケ?? あからさまに顔を顰めながら彼は呆れたようにそんなことを思いつつ、興味なさげにぺらぺらと中身を見たのだ。
しかしその直後、『こんなよく分からない雌よりも、小エビちゃんが着たほうが絶対かわいーじゃん』という考えがふと彼の頭をよぎった。よく見てみれば黒色のショートヘアに制服姿のこの女優はなんとなく、本当になんとなーく、薄目で見ると髪型や背格好の雰囲気はどことなく似ているような気がするし(もちろんフロイドからしたら小エビの方が何千倍も可愛いが)。そういう訳で彼はそのままうっかり大好きなつがいのそういう格好を想像し、止まらなくなってしまったのである。
——もしも、これが小エビちゃんだったら。
フロイドは考えた。
きっと恥ずかしくて茹でエビになっちゃう、かぁいいほっぺ。
このスカート裾が短すぎませんかって、一生懸命ちいちゃな両手で裾を引っ張って太ももを隠そうとする姿。
鎖骨の下から覗く柔い肌とか、オレが選んだ青色のランジェリーがワイシャツの下からちょっと見えている姿とか。あとはこの世でオレだけが見ることを許された、そんな小エビちゃんの可愛すぎる姿とか。……
普段だったらフロイドはこの時点で監督生に会いに行き、なし崩しにイチャイチャに持ち込むのが常なのだが。しかし、この時のナイトレイブンカレッジはちょうどテスト週間真っ只中。普段フロイドの自由奔放ぶりに手を焼いている教師がもしこのことを聞いたら明日槍でも降るんじゃなかろうかと目をひん剥いて驚くだろうが、テストを頑張りたいと意気込んで一生懸命頑張っていた小エビに手を出して困らせるほど、フロイドは自分のつがいに対して気遣いの出来ない男ではなかった。小エビちゃんと思う存分イチャイチャすんのはテストが終わったあと。オレ、待てができるウツボだもん。彼はそう思って、代わりに気晴らしに次のイソギンチャク候補を追い回しに行き。けれど何をしても愛しい小エビの妄想は頭から離れず、むしろ思い出す頻度は上がるばかりで——結局、雑誌はすぐに捨てずに少しだけ手元に残して、その後も何度か眺めてしまったのである。まあテストが終わって小エビが解禁されてからは今まで、部屋のどこかに放置してスッカリその存在自体忘れていたのが。恐らくそれをいつの間にかジェイドが保管して、今回の嫌がらせに使われたのだろう。
……なんか冷静に考えたらオレ、元々あの雑誌持ってたヘンタイとやってるコト変わんなくねぇ?
フロイドは小エビに掻い摘んで事情を説明しながら、その事実に気付いて一人ゲンナリした。マジでこれがきっかけで小エビちゃんに嫌われたらどうしよう。そう思って焦っていると「なるほど、そんな経緯が……」と、監督生は少し恥ずかしそうに指先で頬を掻いた。それから何か言いたげに少し口をまごつかせると、ややあって「フロイド先輩」と名前を呼ぶ。一拍置いてから顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「あの、先輩はその……本当は、ああいう……ぷれい? がお好き、なんですか……?」
「え」
一瞬沈黙が訪れる。ああいうプレイ。普段の小エビからは絶対に発せられることのない、というか今までの彼女ならば絶対に知らなかったであろうそんな単語にしばらくスペースウツボになってから、フロイドはまさか、とギョッとしてジェイドの机のほうを一瞥した。それから改めて監督生を見やると、「ウワ待って」と言う。
「小エビちゃんもしかして、あの雑誌表紙だけじゃなくて中身もガッツリ見た?」
「! が、ガッツリって程ではないですけど、……」
「でもちょっとは見たんだ?」
「ぅ……ちょっとだけ……。制服プレイ? とか、コスプレえっ、ち……? とか、って書いてあったので——先輩ああいうのが好きなのかなって……」
「ッあ゛ーーー」
結構しっかり読んでいるじゃないか。フロイドは大慌てで、小エビの言葉を遮るように図太い悲鳴を上げた。穴があったら入りたい。
「嫌なモン見せてマジでごめん。あんね、マッッッジで海の魔女に誓って絶対浮気とかじゃないから。いやどっちにしろキモいんだけど……ほんっとごめん、引いたよね。オレちょっと、後でアズールに頼んで殴ってもらってくる」
「!? な、なんでですか」
「だって、小エビちゃんのコト不安にさせたし嫌な思いさせたデショ。ごめんねぇ。ほんっと、オレだっせー……」
フロイドは力なく笑って頭を抱えた。考えれば考えるほど頭をよぎるのは「やらかした」という思いだ。本当は、小エビちゃんの前では常に余裕がある紳士でいたいのに。怖がらせたくないし、引かれたくないし、万が一拒否された日には立ち直れないし、そもそも好きな子の前ではスマートでありたいのに。落ち着きのあるかっこいいコイビトでありたいのに。それなのに!
「あっ、あの。せんぱい」
「……なあに?」
と。監督生の声がして、フロイドはよろよろ顔を上げた。しゃらりと三連のピアスが耳元で鳴って、乾いた音がする。監督生は一瞬逡巡したのち、ゆっくりと口を開いた。細くて掠れる声が、狭い室内に落ちる。
「殴られてこなくて良いです。だからその代わりに……その、さっきの雑誌のこと、詳しく教えてもらえませんか?」
「んえ。……」フロイドは一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。考えるように黙り込んで、フリーズして。それからようやっと困惑したように目を見開くと、小エビに負けず劣らず掠れた声で辛うじて言う。「……えッ? は?」
え、何て? どゆこと? 小エビちゃん実はああいうの好きだったワケ??
とにかく理解が追いつかず、頭の中に広がるのは混乱ばかりだ。現在隣に座る小エビは、首まで真っ赤に染めつつぎゅうと両の手をそれぞれ膝の上で握り込んで俯いている。彼女がフロイドの視線に気が付いたのはそれからすぐのことで、フロイドと視線が交錯するなり明らかにぎこちない動きをした。その様子は間違っても、『実はああいうのが好き』には見えない。
「えっ、なんで? 小エビちゃん、あの雑誌気に入ったの?」
「ち、ちがいます。けど、」
「けど?」
「先輩がああいうのが好きなら、もっと知りたいなって思ったんです。それでもし先輩のことを私も喜ばせられるなら、良いなあって……思って」
「え——は?」
「もちろん私はあの雑誌の女の人たちみたいに胸が大きい訳でもないし、おこちゃまだし、全然魅力的なプロポーションはしてないですけど……先輩いつも私のことばっかり、その——そういう時 に気持ち良くしてくれるから」
ぽぽぽ。明らかに先ほどまでよりも更に、彼女の頬の朱が濃くなっていく。
監督生の声は今にも消えてしまいそうだった。彼女はそのまま改めてフロイドの方をちらりと見上げると、垂れ目がちなヘテロクロミアが思った以上に至近距離で自分を見据えていることに気が付いて視線を逸らす。誤魔化すように目元に掛かっていた黒髪を耳に掛けると、本物の茹でエビ顔負けの真っ赤な顔でゆっくりと口を開いた。
「だからああいう雑誌の感じが好きなら、ちょっと勉強してみようかなって……思ったり、して……」
「……」
「……」
「……ご、ごめんなさいやっぱり私いま変なこと言いましたよね忘れてくださ」
「小エビちゃん」
監督生はびくりと肩を跳ね上げた。勢いでうっかりとんでもないことを言ってしまった。そう思って取り消そうとした瞬間、被せるように名前を呼ばれたかと思えば、突然ぐいと身体を引き寄せられる。そうしてそのまま、端正な顔が近付き——。
「んっ、」
キスをされている。監督生がそのことに気付いたのは、直後のことだった。目を大きく見開いた瞬間、大きな手が後頭部に回され、ぬるりと柔らかい何かが口内に侵入してくる。
「っは、ふ……」
目を白黒させている間に舌を絡め取られ、いつもみたいに弱いところを好き勝手懐柔された。息が続かなくて、段々とクラクラしてきて。生理現象の涙が目尻に溜まってきた頃、ようやく解放される。
下唇を親指でなぞられながら、監督生ははふはふと肩で息をしつつ頭にはてなマークを浮かべた。私、どうして今キスされたの……?? 困惑しながらフロイドを見やると、それをじいっと見ていたフロイドは呆れたように息を吐いた。そのまま自身の前髪をかき上げると、「……小エビちゃんさあ」と気怠げなトーンで言う。
「は、はい」
「何でそういうこと言うの」
「す、すみません。小エビの分際で調子に乗りました……」
「そうじゃねえって」
「……??」
扁平な垂れ目で監督生を見て、フロイドは身体の向きを監督生のほうへ更にずらしながらベッドに手をついた。ギッと僅かにスプリング音が鳴ったそこでしばらく少女を眺めたのち、「……先に謝っとく、ごめん」と端的に言う。
「へ?」
「やっぱさ、夜ご飯も映画も後にしよ」
「えっ? ——うわあ!?」
なんで? 監督生がそう思った瞬間、フロイドは低い声でそう言って監督生をベッドに押し倒した。突然のことに混乱している少女に、捕食者然としたウツボの影が掛かる。流石にここまで来れば、鈍感な監督生にだって今から何が起ころうとしているのか、それくらいは察しがついた。えっ、えっ!? 挙動不審になりながら、監督生は慌てて目の前でピアスを外している男に声を掛ける。
「せ、先輩」
「なあに」
「なあにじゃなくて、あの。何でピアス取って、流れるように私の服脱がせようとしてるんですか」
「小エビちゃんが可愛いコト言うから悪いんじゃん」
「可愛いこと……?」
「そ。オレを喜ばせたい、だっけ? んなの、小エビちゃんが隣に居てくれればオレもうそれだけで毎日スゲー幸せなのにさあ……そんなん言われたら理性どっか行っちゃうに決まってんじゃん。オレのコトすげー考えてくれてありがとね」
「へ」
「だからもうちょっとイチャイチャしよ? さっきのチューの続き。取り敢えずオレ、もう一回チューしたいなあ。ダメ?」
「ぁう……そうやって聞けば何でも許してもらえると思ってるんだから……」
「ンー?」フロイドはゆっくりと顔を近付けて、敢えて耳元で囁くように言う。「——ねえ、もう一回」
「! 〜〜う、ううーっ。ずるい……」
「あは」
じゃあ決定ね。クルクルと喉を鳴らしながら、フロイドは小エビの痩躯に覆い被さるように背中を丸めた。やっぱり、あんな雑誌のメスなんか小エビちゃんの足元にも及ばねーわ。フロイドはそんなことを思って、眦を眇める。
「大好きだよ、小エビちゃん」
「……私もだいすき、です」
「ウン」
ふっと口角を上げると、あとは服の擦れる音だけになる。これ以上ないくらいに愛しいものを瞳に映しながら、その全てが愛おしくて仕方がなくて。フロイドは幸せを噛み締めながら、もう一度薄い唇にかぶりついた。
「……——」
監督生は石よろしく固まって、自分の手の中の物をじいと見下ろした。どうしよう。これはもしかしなくても、恐らくとんでもないものを見つけてしまった。取り敢えず視線を逸らして、ひょっとしてこれは夢かもしれないと一度現実逃避をしてみて。けれど改めてちらりと視線を落として、やっぱり夢じゃないと頭を抱える。どうしよう、どうしよう!
はたして彼女の手の中には、とある一冊の雑誌が握られていた。随分と読み込まれているのか既に草臥れているように見えるそれは、ファッション雑誌のように洒落たデザインの表紙をしているわけでも、スポーツ雑誌のように爽やかな選手がメインで映っているわけでもなく。やたら短い丈のスカートを履いて大きな胸を強調するようにワイシャツの前を開け放っている、セーラー服姿の黒髪ショートの女性の写真が大きく表紙を飾っている雑誌である。
『女子高生と紡ぐ禁断の恋!』だとか、『制服のあの子を暴く!』だとか。ゴシック体の派手な見出しで踊っているのは、いくつものそんなよく分からない文字の羅列だ。監督生はふと先程うっかり中を覗いた際に見てしまった、破廉恥な写真の数々をふと思い出して、思わず頬を僅かに染めながら口を噤む。——そう、いくら
放課後、場所はオクタヴィネル寮にあるフロイドの自室である。窓の外には海が広がるこの部屋に現在なぜ彼女が一人で居るのかといえば、きっかけは昨日の昼休みにフロイドからとあるお誘いを受けたことだった。
『ねえ小エビちゃん。明日ヒマ? オレんトコ来ない?』
『明日ですか? はい、空いてますけど……ん? 〝オレんトコ〟?』
『そー。明日から三日間さあ、ジェイドが連休使って山行くんだって。だからオレしばらく部屋一人なんだぁ。山なんてマジで何が楽しいのか分かんねーし、明日の昼間はアイツの代わりにラウンジの仕事出なきゃいけねーからスゲーメンドーだなぁって思ったけどぉ——でもジェイドいないってことは、仕事終わりに部屋に小エビちゃん呼べんじゃん? だからさあ、どうかなーって』
『へ』
『明日、オレの部屋でお泊まり会しない?』
『お泊まり……』
監督生は驚いたように目を丸めてフロイドを見た。
なんでもこの小エビ、普段からよくフロイドとお泊まりデートを行ってはいるが、それはオンボロ寮で行われることが常で、実はフロイドの自室に泊まったことは今までにただの一度もないのだ。というのも、肝心のフロイドがそれを良しとしなかったのである。
——オレが部屋にいる時に遊びに来んのは良いけどぉ……ジェイド居るし、泊まるのはナシ。いくらアイツでも、オレ無防備な小エビちゃんの姿見せんのぜってーヤだもん。
いつだったか、付き合ったばかりの頃に小エビの黒髪を指先で弄りながらそう言っていたその言葉の通り、彼は今まで一度も監督生を部屋に泊まらせたことがなかった。マア監督生としても恋人の仲睦まじい時間にジェイドがいては気まずいし、そもそもジェイドも嫌だろうし。そりゃあそうだと彼の言葉に納得し、もちろん了承していたのだが。
『お、お邪魔しても良いんですか?』
『あは、当たり前じゃん。小エビちゃんはオレの大事なカノジョだもん』
そんな中、そういった言葉と共に初めて誘われた、フロイドの部屋でのお泊まりデート。当然だと言わんばかりに頷いたフロイドを見て、監督生はじわじわと嬉しさがこみ上げるのを感じた。だって、そりゃあもちろん小エビにだって「恋人の部屋にお泊まりしてみたい」という憧れは少なからずあったのだ。卒業するまではひとまず無理だろうなと思っていたことが、まさか突然明日叶えられるとなれば、もちろん嬉しくない訳がない。
『ね、どお?』
『い、……』
『ン?』
『行きたい、です……』
『はぁい。じゃあ決定ね♡』
『!』
『んふ、小エビ喜んでる。かぁいい』
だから監督生は、ドキドキしつつも喜んでフロイドの誘いを受けることにした。ポンと頭を撫でるフロイドに『楽しみです』と言って、『オレもスゲー楽しみ』とにんまり眦を眇める彼に嬉しそうな顔でほにほに笑って、テレテレと頬を搔いて。そうしてオンボロ寮に帰ったのち、鼻歌を歌いながらお泊まりセットの準備をしたのであった。
『仕事終わったらすぐ戻るからさあ、小エビちゃん先に部屋でゆっくりしててよ』
『わかりました』
そして当日。そんな言葉と共にあらかじめ手渡されていた鍵を受け取って中に入ったは良いものの、
これは先日、大の本好きであり仲良しの先輩でもある図書委員長・チャドにおすすめしてもらって読み始めたもので、最近の彼女のお気に入りの書籍だった。村の安寧のため生贄として捧げられることになった人間の娘と神様のラブストーリーで、村の人間に翻弄されながらも一生懸命に生きようとするヒロインと、そんな彼女のことが大好きな神様の恋物語が魅力的だ。神様との距離がどんどん縮まっていくのを見ていると監督生の心は踊って、早く寝なくてはいけないと分かっている夜でも、いつもうっかり読み進める手が止まらなくなるのである。
今日はどんなシーンが読めるんだろう。監督生はワクワクしながら美麗なイラストが描かれた表紙を撫でた。昨晩はたしか、中盤の辺りまで読んだはずだ。そう思って本を開き——けれど文字の羅列に目を通す前に、『あっ』と思わず声を漏らして下を向く。
ページを開いた瞬間、挟んでいた栞がひらりと本から放り出されてしまったのだ。それは慌てて掴もうとした少女の指の間をすり抜け、床に落ち。そしてなんと、ベッドの下の隙間にスルリと入り込んでしまったのである。
やってしまった。
監督生は慌てて、ベッドの下を覗いた。が、下は暗くてよく分からない。困ってしまった彼女は、取り敢えずえいやと手を突っ込んでみることにした。きっとそこまで奥の方へは行っていないはずだ。
手探りで暗闇を捜索し、栞を探す。すると暫くして、何かが手に触れる感覚があった。ハッとした監督生は、取り敢えずそれを何の気無しに引っ張ってみる。そして明るいところでそれを目にして——思わずピタリと固まった。
『え……? これ……』
それは栞なんかよりもずうっと、大きなものだった。
雑誌である。それも、際どい衣装を着た女の子が全面に印刷されている雑誌。
「…………」
そう。それは間違いなく、探し求めていた可愛らしい栞などでは到底なく。……この部屋に住まう恋人が所有していると思われる、正真正銘立派なエロ本だったという訳である。そして話は冒頭に戻る。
——この世界に生きとし生けるものならば、誰にだって他人に隠しておきたい秘密の一つや二つあるものだ。それは監督生だって例外ではないし、もちろんフロイドだってそうだろう。だから彼に何か監督生の知らない秘密があったとしても、別に何らおかしいことではないと思っていた。思ってはいた、……のだが。
「……」
監督生は取り敢えず件の雑誌を膝の上に乗せると、熱くなった頬に手を当て、あれこれ考えるようにウロウロと視線を彷徨わせた。
〝そういうこと〟をする時、フロイドはいつも監督生に対してすごく紳士的だ。初めてのとき、全く知識のなかった監督生に手取り足取り教えてくれたのはもちろんのこと、それからというもの毎度毎度それはもう宝物に触れるみたいに優しく丁寧に、怖がらせないようにと順序を踏んでくれるのが常である。初めては痛いと言うけれど、彼女からしたら今までにそう感じたことなんて一度もなかったし、毎回ムード作りからアフターケアまで、とにかくいたれりつくせりだった。フロイドはそれはもう完璧なくらい小エビに愛を与えてくるものだから、小エビはむしろ、気持ちが良すぎて訳が分からないくらいにふわふわしてしまうことのほうがほとんどで。もうとにかく、何から何まで自分にはもったいないくらい完璧なのである。
(でも……)
監督生は頬に手を当てながら、ぐるぐると頭の中で考えた。もしかして先輩、毎回必死になっちゃう私の手前合わせて我慢してくれているだけで、本当はこういうアブノーマルな感じのプレイもしたいのかな。こういう色々と際どい格好、私にもして欲しいと思っているのかな。髪型とか背格好とか、なんかこの表紙の人、何となく私に似てる気がするし……。
「……」
彼女はもう一度、ちらりとその本へ視線を向けた。試しに、自分とフロイドの〝そういうプレイ〟を想像してみる。が、恥ずかしさに耐え切れずに思わずわ゛ーっと一人で頭を抱えた。そういったものに耐性のない監督生には、あまりにも刺激が強すぎたのだ。まだ日も落ちきっていない夕方からなんて妄想してるんだ、私! 彼女は慌ててパタパタと、思い浮かんだ映像を振り払う。——と。
「小エビちゃーん! ただいまぁ」
「っ!」
突然部屋の扉がガチャリと開いて、監督生はビクリと肩を跳ね上げた。声のした方を反射的に見やると、そこには満面の笑顔を浮かべたフロイドが立っている。大きな手にはラウンジのロゴが入ったビニール袋を提げていて、中から食欲がそそられる香ばしい匂いがした。鼻腔をくすぐるそれは、フロイドが部屋の扉を閉める頃にはあっという間に室内に充満していく。
「待たせてごめんねぇ」彼は今にも鼻歌を歌い出さんばかりの機嫌の良さを滲ませながら言った。「あんね、余ってた食材でカレー作ってきたんだぁ。あと、小エビちゃんの好きなスイーツもあるよ。せっかくだし、映画でも観ながら一緒に——」
フロイドはそこではたと言葉を止めた。なんだか小エビの様子がおかしいことに気付いたのだ。
「……?」
彼は顔を上げて真っ赤な顔をした監督生を見るなり、次いで彼女の手元に視線を向けた。一生懸命手で隠そうとしている様子ではあるが、あいにく彼女の小さな手では雑誌の半分も隠せていない。
なんだろ、なんか必死な顔しててかぁいい。
フロイドは呑気にそんなことを思いながらゆるりと垂れ目がちな目を瞬き、なんの気なしに膝に乗せられている雑誌を視界に入れた。そこにあるものを認め、室内に静寂が落ちること一拍、二拍。直後、ようやく事態に気付いてギョッとしたように目を見開く。
「〜〜ッッッ!?」
そこからはとにかく素早い動きだった。
フロイドは長い脚をフル活用して監督生の座るベッドへ近付くと、彼女の膝の上から光の速さで本を奪い取って背中に隠す。困惑したように「は!? えッ!? 待って?」と挙動不審な反応をしてから、「こ、こえびちゃ、コレどこにあった!?」と裏返りそうな声で言った。
「あ、えっと、ベッドの下に」
「ハア!? 何でンなトコに……」
フロイドは困惑しつつも頭をフル回転させて考える。監督生を呼ぶからと、普段じゃ考えられないくらいに細かいところまで、浮き足立ちながら部屋を片付けや掃除をしたのは昨晩のことだ。もちろんこういうものは絶対に見られない場所に隠したはずだし、ベッドの下に入れていたはずの物なんて、靴の手入れ用品くらいなものだったはず。それなのに。
『——ふふふ。監督生さんと楽しんでくださいね』
ふと、フロイドの脳内にジェイドのそんな言葉が思い出された。そういえば今朝出ていく際、やけに意味ありげな笑みを浮かべていたような。てっきり山に行くせいでテンションがおかしくなっているだけかと思っていたが、今考えれるとあれはこういうことが起きることを予測した上での笑みだったのではないか。考えられないこともない。だってジェイドは、先日フロイドがうっかり机の上のテラリウムを誤って割ってしまったことを、未だに結構根に持っていたし。
何かを企んでいるような、楽しそうなきょうだいの顔を思い浮かべる。……なるほど。つまりこれは意趣返しということか。
「……」
——絞める。マジであのクソキノコ狂い、帰ってきたら絶対絞める。
フロイドはそう固く決意した。決意するだけでは足りなかったので、取り敢えず脳内で自分と似たようなあの顔を二、三発殴っておく。
「……あの、先輩」
「!」
と、監督生が口を開いたのはその時だった。フロイドがハッとして顔を上げると、少女は困ったように眉を下げながら言葉を続ける。
「すみません。見るつもりは無かったんです。だけど——その、栞がベッドの下に落ちちゃって。それで私、拾おうとして……その時に」
「ヤ、小エビちゃんは悪くねーからマジで。気にしなくて良いよぉ……」フロイドはガシガシと前髪をかき上げた。「それで、アー……栞? 落としちゃったの?」
「は、はい。前にフロイド先輩がお花くれたじゃないですか。髪に刺してくれて。あれすごく嬉しいなって思ってたら、チャド先輩が長持ちするようにしてあげるーってラミネートかけてくれて……それ使ってたんですけど、」
「んえ」
オレがあげた花? フロイドはぼんやりと過去を回顧した。
あれは付き合ってすぐの頃だったか。小エビによく似合いそうだと思って、道端に咲いていた綺麗な青い花を何気なくプレゼントしたことがあった。普通道端の花を好いている女性にプレゼントする奴があるか! と、当時その話を聞いたアズールにはドン引きされたものだが……どうやら監督生は本当に喜んでくれたようで、それをわざわざ栞にして、今でも大事に使ってくれているらしい。
まさかそんなに大事に持っていてくれていたとは。フロイドは花を手渡したときの、花なんかよりもずうっと可愛らしかった彼女の笑顔を思い返しながら、床へと視線を滑らせた。よっこらせと屈み込むと、ベッドの下に手を入れる。ややあって指先に触れたものを引っ張り出すと、パッと顔を上げた。「コレ?」ベッドの縁に腰掛けている監督生に、ひょいと差し出しながら尋ねる。
「! そうですっ」監督生は首を一生懸命縦に振りながら両手で栞を受け取る。「良かった……ありがとうございます」
「どういたしましてぇ」
今日も今日とて、相変わらず最高に可愛らしい笑顔だ。フロイドはふっとその笑顔を眺めてから、何秒か考える素振りをし。それからややあって、「……ねえ、小エビちゃん」と口を開いた。
「あのさ。アー……さっきの雑誌の話だけど」彼はガシガシ後頭部をかきながら言葉を続ける。「……オレの方こそごめん」
「えっ」
栞を見つめていた黒曜がパッとターコイズブルーを見上げた。分かりやすく驚いたような顔をしながら、監督生は慌てたように言う。「な、どうして謝るんですか。私が間違って見ちゃったのに」
「だってヤでしょ、彼氏があんなの持ってたら」
オレだったらヤだもん。
フロイドは大層真面目な顔でそう言って、綺麗に整頓されているジェイドの机へと向かった。躊躇なく引き出しの一番上の段を開けると、整然としていたそこに容赦なくその雑誌を突っ込む。そして座ったままの監督生の隣へと戻り、ギシリとスプリング音を立てながら腰掛けた。監督生の肩口にグリグリと顔を埋めつつ、内心大きく溜息を吐く。
今回ジェイドによってベッドの下に仕込まれていたエロ本。あれはそもそもフロイドが買ったものではない。元は以前取り立てた生徒の、所有物の一つだった。
……うーわ、何この頭の悪そうな本。
監督生以外の雌に対して全く興味が無いフロイドが当時最それを見たとき、最初に抱いたのは正直なところそんな感想だった。前に寮で『どんな格好が一番エロいか』って話してる奴らもいたケド——こういう格好してれば誰でも良いワケ?? あからさまに顔を顰めながら彼は呆れたようにそんなことを思いつつ、興味なさげにぺらぺらと中身を見たのだ。
しかしその直後、『こんなよく分からない雌よりも、小エビちゃんが着たほうが絶対かわいーじゃん』という考えがふと彼の頭をよぎった。よく見てみれば黒色のショートヘアに制服姿のこの女優はなんとなく、本当になんとなーく、薄目で見ると髪型や背格好の雰囲気はどことなく似ているような気がするし(もちろんフロイドからしたら小エビの方が何千倍も可愛いが)。そういう訳で彼はそのままうっかり大好きなつがいのそういう格好を想像し、止まらなくなってしまったのである。
——もしも、これが小エビちゃんだったら。
フロイドは考えた。
きっと恥ずかしくて茹でエビになっちゃう、かぁいいほっぺ。
このスカート裾が短すぎませんかって、一生懸命ちいちゃな両手で裾を引っ張って太ももを隠そうとする姿。
鎖骨の下から覗く柔い肌とか、オレが選んだ青色のランジェリーがワイシャツの下からちょっと見えている姿とか。あとはこの世でオレだけが見ることを許された、そんな小エビちゃんの可愛すぎる姿とか。……
普段だったらフロイドはこの時点で監督生に会いに行き、なし崩しにイチャイチャに持ち込むのが常なのだが。しかし、この時のナイトレイブンカレッジはちょうどテスト週間真っ只中。普段フロイドの自由奔放ぶりに手を焼いている教師がもしこのことを聞いたら明日槍でも降るんじゃなかろうかと目をひん剥いて驚くだろうが、テストを頑張りたいと意気込んで一生懸命頑張っていた小エビに手を出して困らせるほど、フロイドは自分のつがいに対して気遣いの出来ない男ではなかった。小エビちゃんと思う存分イチャイチャすんのはテストが終わったあと。オレ、待てができるウツボだもん。彼はそう思って、代わりに気晴らしに次のイソギンチャク候補を追い回しに行き。けれど何をしても愛しい小エビの妄想は頭から離れず、むしろ思い出す頻度は上がるばかりで——結局、雑誌はすぐに捨てずに少しだけ手元に残して、その後も何度か眺めてしまったのである。まあテストが終わって小エビが解禁されてからは今まで、部屋のどこかに放置してスッカリその存在自体忘れていたのが。恐らくそれをいつの間にかジェイドが保管して、今回の嫌がらせに使われたのだろう。
……なんか冷静に考えたらオレ、元々あの雑誌持ってたヘンタイとやってるコト変わんなくねぇ?
フロイドは小エビに掻い摘んで事情を説明しながら、その事実に気付いて一人ゲンナリした。マジでこれがきっかけで小エビちゃんに嫌われたらどうしよう。そう思って焦っていると「なるほど、そんな経緯が……」と、監督生は少し恥ずかしそうに指先で頬を掻いた。それから何か言いたげに少し口をまごつかせると、ややあって「フロイド先輩」と名前を呼ぶ。一拍置いてから顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「あの、先輩はその……本当は、ああいう……ぷれい? がお好き、なんですか……?」
「え」
一瞬沈黙が訪れる。ああいうプレイ。普段の小エビからは絶対に発せられることのない、というか今までの彼女ならば絶対に知らなかったであろうそんな単語にしばらくスペースウツボになってから、フロイドはまさか、とギョッとしてジェイドの机のほうを一瞥した。それから改めて監督生を見やると、「ウワ待って」と言う。
「小エビちゃんもしかして、あの雑誌表紙だけじゃなくて中身もガッツリ見た?」
「! が、ガッツリって程ではないですけど、……」
「でもちょっとは見たんだ?」
「ぅ……ちょっとだけ……。制服プレイ? とか、コスプレえっ、ち……? とか、って書いてあったので——先輩ああいうのが好きなのかなって……」
「ッあ゛ーーー」
結構しっかり読んでいるじゃないか。フロイドは大慌てで、小エビの言葉を遮るように図太い悲鳴を上げた。穴があったら入りたい。
「嫌なモン見せてマジでごめん。あんね、マッッッジで海の魔女に誓って絶対浮気とかじゃないから。いやどっちにしろキモいんだけど……ほんっとごめん、引いたよね。オレちょっと、後でアズールに頼んで殴ってもらってくる」
「!? な、なんでですか」
「だって、小エビちゃんのコト不安にさせたし嫌な思いさせたデショ。ごめんねぇ。ほんっと、オレだっせー……」
フロイドは力なく笑って頭を抱えた。考えれば考えるほど頭をよぎるのは「やらかした」という思いだ。本当は、小エビちゃんの前では常に余裕がある紳士でいたいのに。怖がらせたくないし、引かれたくないし、万が一拒否された日には立ち直れないし、そもそも好きな子の前ではスマートでありたいのに。落ち着きのあるかっこいいコイビトでありたいのに。それなのに!
「あっ、あの。せんぱい」
「……なあに?」
と。監督生の声がして、フロイドはよろよろ顔を上げた。しゃらりと三連のピアスが耳元で鳴って、乾いた音がする。監督生は一瞬逡巡したのち、ゆっくりと口を開いた。細くて掠れる声が、狭い室内に落ちる。
「殴られてこなくて良いです。だからその代わりに……その、さっきの雑誌のこと、詳しく教えてもらえませんか?」
「んえ。……」フロイドは一瞬、何を言われたのかよく分からなかった。考えるように黙り込んで、フリーズして。それからようやっと困惑したように目を見開くと、小エビに負けず劣らず掠れた声で辛うじて言う。「……えッ? は?」
え、何て? どゆこと? 小エビちゃん実はああいうの好きだったワケ??
とにかく理解が追いつかず、頭の中に広がるのは混乱ばかりだ。現在隣に座る小エビは、首まで真っ赤に染めつつぎゅうと両の手をそれぞれ膝の上で握り込んで俯いている。彼女がフロイドの視線に気が付いたのはそれからすぐのことで、フロイドと視線が交錯するなり明らかにぎこちない動きをした。その様子は間違っても、『実はああいうのが好き』には見えない。
「えっ、なんで? 小エビちゃん、あの雑誌気に入ったの?」
「ち、ちがいます。けど、」
「けど?」
「先輩がああいうのが好きなら、もっと知りたいなって思ったんです。それでもし先輩のことを私も喜ばせられるなら、良いなあって……思って」
「え——は?」
「もちろん私はあの雑誌の女の人たちみたいに胸が大きい訳でもないし、おこちゃまだし、全然魅力的なプロポーションはしてないですけど……先輩いつも私のことばっかり、その——
ぽぽぽ。明らかに先ほどまでよりも更に、彼女の頬の朱が濃くなっていく。
監督生の声は今にも消えてしまいそうだった。彼女はそのまま改めてフロイドの方をちらりと見上げると、垂れ目がちなヘテロクロミアが思った以上に至近距離で自分を見据えていることに気が付いて視線を逸らす。誤魔化すように目元に掛かっていた黒髪を耳に掛けると、本物の茹でエビ顔負けの真っ赤な顔でゆっくりと口を開いた。
「だからああいう雑誌の感じが好きなら、ちょっと勉強してみようかなって……思ったり、して……」
「……」
「……」
「……ご、ごめんなさいやっぱり私いま変なこと言いましたよね忘れてくださ」
「小エビちゃん」
監督生はびくりと肩を跳ね上げた。勢いでうっかりとんでもないことを言ってしまった。そう思って取り消そうとした瞬間、被せるように名前を呼ばれたかと思えば、突然ぐいと身体を引き寄せられる。そうしてそのまま、端正な顔が近付き——。
「んっ、」
キスをされている。監督生がそのことに気付いたのは、直後のことだった。目を大きく見開いた瞬間、大きな手が後頭部に回され、ぬるりと柔らかい何かが口内に侵入してくる。
「っは、ふ……」
目を白黒させている間に舌を絡め取られ、いつもみたいに弱いところを好き勝手懐柔された。息が続かなくて、段々とクラクラしてきて。生理現象の涙が目尻に溜まってきた頃、ようやく解放される。
下唇を親指でなぞられながら、監督生ははふはふと肩で息をしつつ頭にはてなマークを浮かべた。私、どうして今キスされたの……?? 困惑しながらフロイドを見やると、それをじいっと見ていたフロイドは呆れたように息を吐いた。そのまま自身の前髪をかき上げると、「……小エビちゃんさあ」と気怠げなトーンで言う。
「は、はい」
「何でそういうこと言うの」
「す、すみません。小エビの分際で調子に乗りました……」
「そうじゃねえって」
「……??」
扁平な垂れ目で監督生を見て、フロイドは身体の向きを監督生のほうへ更にずらしながらベッドに手をついた。ギッと僅かにスプリング音が鳴ったそこでしばらく少女を眺めたのち、「……先に謝っとく、ごめん」と端的に言う。
「へ?」
「やっぱさ、夜ご飯も映画も後にしよ」
「えっ? ——うわあ!?」
なんで? 監督生がそう思った瞬間、フロイドは低い声でそう言って監督生をベッドに押し倒した。突然のことに混乱している少女に、捕食者然としたウツボの影が掛かる。流石にここまで来れば、鈍感な監督生にだって今から何が起ころうとしているのか、それくらいは察しがついた。えっ、えっ!? 挙動不審になりながら、監督生は慌てて目の前でピアスを外している男に声を掛ける。
「せ、先輩」
「なあに」
「なあにじゃなくて、あの。何でピアス取って、流れるように私の服脱がせようとしてるんですか」
「小エビちゃんが可愛いコト言うから悪いんじゃん」
「可愛いこと……?」
「そ。オレを喜ばせたい、だっけ? んなの、小エビちゃんが隣に居てくれればオレもうそれだけで毎日スゲー幸せなのにさあ……そんなん言われたら理性どっか行っちゃうに決まってんじゃん。オレのコトすげー考えてくれてありがとね」
「へ」
「だからもうちょっとイチャイチャしよ? さっきのチューの続き。取り敢えずオレ、もう一回チューしたいなあ。ダメ?」
「ぁう……そうやって聞けば何でも許してもらえると思ってるんだから……」
「ンー?」フロイドはゆっくりと顔を近付けて、敢えて耳元で囁くように言う。「——ねえ、もう一回」
「! 〜〜う、ううーっ。ずるい……」
「あは」
じゃあ決定ね。クルクルと喉を鳴らしながら、フロイドは小エビの痩躯に覆い被さるように背中を丸めた。やっぱり、あんな雑誌のメスなんか小エビちゃんの足元にも及ばねーわ。フロイドはそんなことを思って、眦を眇める。
「大好きだよ、小エビちゃん」
「……私もだいすき、です」
「ウン」
ふっと口角を上げると、あとは服の擦れる音だけになる。これ以上ないくらいに愛しいものを瞳に映しながら、その全てが愛おしくて仕方がなくて。フロイドは幸せを噛み締めながら、もう一度薄い唇にかぶりついた。
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