Ⅷ. Happily Ever After
——人生は、何が起きるか分からないものである。
たとえば十年先の未来に自分がどこで何をしているのかだとか、もっと言ってしまえば明日自分が何をしているかだって、そんなことは誰にも分からない。だから、予期せぬことや驚くべきことは総じて突然起きるものだ。それは分かっているつもりだった。
とはいえ、まさか自分の生活がここまでガラリと変わる瞬間がすぐに訪れるなんてことを、ユウは想像していなかった。それこそ人生じゃん? なんてフロイドはケラケラ笑っていたけれど、だってユウは普通の貧乏学生なのだ。今までもマア……日常的にマフィアが家にやって来る、いつ死ぬか分からないような割と特殊な人生を送っていた自負はあるが——少なくともハイスクールに通っているうちに、それ以上に日常が劇的に変化する未来が訪れるなんて思ってもみなかったのだ。……そう、数週間前までは。
「……——」
そんなことを思い返しながら、ユウは課題をやっていたノートから顔を上げ、窓の向こうに広がる夜景を見下ろした。とにかく縦に長いこのタワーマンションは、完成してからまだ間もない新築なのだという。駅近、日当たり良好、二十四時間常駐のコンシェルジュスタッフ、オートロック、万全なセキュリティ対策、なんと施設内にはフィットネスジムや図書館なんかもあるらしい——……。頭の中でふと、ユウの城であったオンボロアパートとは比べ物にならないほどに好条件であり、それでいてゼロの数が多すぎる家賃が記載されていた、ここの物件についての宣伝広告を思い返した。そうしてパチパチと目を瞬くと、改めて部屋を見返して呟く。
「いや、何度見ても本当に凄い……私の場違い感……」
いい加減慣れなよと先日フロイドには笑われたが、この悩みは多分暫く付き纏うだろうなとユウは思っていた。人生の全てを、オンボロアパートでの暮らしに捧げてきたのだ。たかが数日ここで過ごしたところで、慣れるものではない。
『ねえ、小エビちゃん。もし嫌じゃなかったら、この間オレが新しく買ったマンションに越してきて欲しいんだけど』
『え?』
さて。そもそも一体何がどうしてユウは現在こんな場所に居るのかというと、きっかけは数週間前、フロイドがそう切り出したことだった。
『私が引っ越し……?』
『ウン。だって小エビちゃん家さあ、マジでしょっちゅう取り立て屋とか怪しい奴とか来るんだもん。ここ離れたほうが良くね』
『いつでも助け呼んで良いからねって言ったって、どうせ小エビちゃん、本当にピンチにならないと呼ばないでしょ。だからいつも先手打って不審者居ないかチェックしてるけど——オレの巣に住んでくれたらぁ、もうちょい安心できんじゃん?』
『つーか……マア、普通にずっと一緒にいたいし』
取り立て屋やら悪い人間というのは、やはり今でもアパートの周囲には一定数いる。フロイドが日々訪れることで牽制しているとのことだったが——とはいえユウはそのことに対して、少し申し訳ないと思っていたのも事実だった。彼にばかり負担を掛けさせる訳にはいかない。
今までなら母親を待つためという理由でその誘いを断る可能性もあったが……これまで散々娘をほったらかしにしていた挙句、先日自分の利益のために売り飛ばそとした母親にはもう、正直ユウは特別な感情を持っていなかった。待つ義理はない。少し悩んだのち、彼女はそう判断した。
『分かりました』
そういう訳で、彼女は引っ越しを二つ返事で了承した。しかし、それがまさかこんなにも大仰なタワーマンションだと知ったのは、引っ越し当日のことだったのである。
「……、」
と、スマートフォンが通知を報せるバイブ音を鳴らしたのはその時だった。マンションへ引っ越してきたときの記憶を回顧していた彼女は我に返って顔を上げると、テーブルの上に置いてあった端末を手に取る。
「あ」
フロイドからのメッセージだった。液晶に表示されたその名前を一瞥するなり、マジカメのアイコンをタップしてメッセージを開く。
【小エビちゃんお疲れ〜。バイト終わった?】
【お疲れさまです。終わりました! 晩ご飯も作ってありますよ】
ユウは『お楽しみに!』とエビが笑顔で話しているスタンプを添えて送った。すると、一瞬で既読が付く。
【ありがと。でも、ごめーん……やっぱ朝言った通り、今日家帰るの日付変わる頃かも。先寝てて良いよ】
返信しようと指を伸ばした瞬間、更に立て続けに、シュポッとメッセージが送られてきた。
【もうアズールぶっ飛ばしてさっさと帰りたい】
【小エビちゃんのコト早くギューってしたい】
ユウは目をぱちくり瞬いた。恋人の悲痛な叫びに思わず苦笑しつつ、昨晩フロイドが言っていたことを思い返す。
——『明日さあ。ラウンジの次のフェアで出すメニューの試作品を、支配人のアズールが直々に試食してテストする面倒な日なんだよねえ。アズールすげー厳しいから、もう毎回チョー大変で今から憂鬱。課題山積みだったら、もしかしたら帰んの遅くなるかも』
ということは、やはり仕事が難航しているらしかった。この口ぶりだと相当なのだろう。ユウはそう思って、タプタプとメッセージを打ち込む。
【お仕事頑張って下さい。終わったら、幾らでもギューしてどうぞ】
送信ボタンを押そうとして——、
待って。流石にちょっと、これ送ったら恥ずかしい? 思い留まって、ユウは少し躊躇った。けれど彼は仕事中で時間が無いのだと思い返して、えいやっと勢いで送る。すると瞬間、シュポッと返信が来た。
【ならスゲー頑張る】
「……」
ユウはなんだか恥ずかしくなって、スマートフォンを置いた。ちょっぴり赤くなった顔でフウと小さく息を吐く。集中力が切れてしまって、今日はもう課題ができそうになかった。明日は休日だし、ちょっとサボってしまおうとペンを置く。
取り敢えずお風呂でも沸かそうかと考えて、少女は立ち上がった。都会の夜景に背を向けて、スリッパの音を響かせながら風呂場へと向かった。
❖
広い浴室で入浴を済ませてから一人食事を摂り、それから少しの間映画を観ることにした。この家には大きなテレビがあり、動画配信サービス内の作品をテレビの大画面で観ることが出来るのだそうだ。
今までフロイドのスマートフォンでしか映画を観ていなかったユウにとって、大迫力で映画が観られることはとにかく素晴らしい体験だった。先日一度だけ、ここに越してきてからフロイドと二人でテレビで映画を観たが、あんまりにも嬉しくてキラキラ目を輝かせてしまい、フロイドに笑われたほどである。
さて。今回視聴した映画は、かの有名な俳優ヴィル・シェーンハイトが主演を務めた恋愛映画だった。割と最近公開されたものだが、どうやらサブスクリプションでも観られるようになったらしい。世界中で大ヒットを記録した話題作だ。ずっと気になっていたユウは、それが配信されていると知って大喜びで映画を視聴し始めた。
「めちゃくちゃ良かった……」
そして二時間後。全て観終わる頃には、彼女の心は満足感で溢れていた。ソファーの上でクッションを抱き締めながら、映画の内容に想いを馳せる。映像も音楽も役者たちの演技も、とにかく全てが素晴らしい映画だった。満足感がすごい。
——なんか、余計早くフロイドさんに会いたくなっちゃった。
テレビを消して、伸びをして。劇中の恋人たちの様子を思い返しながら彼女はふっと微笑んで、一人そんなことを思った。壁に掛けられた時計を見れば、残念ながらまだ彼が帰ってくるには早そうだ。これはやっぱり、会えるのは明日かな。独り言ちながら立ち上がって、眠るための準備をあれこれ始める。
明日はフロイドも仕事が休みだったはずだ。そしてそれは、この家に越してきて荷解きなどを済ませてから初めての、落ち着ける休日でもある。今観た映画みたいにデートをしたり、家でのんびりしたり……二人でそんな素敵な時間が過ごせれば良いなあと、ユウは恋人との休日の過ごし方について、あれこれ想いを馳せた。
——すると、その時だ。ガチャリと鍵を開ける音が響いたのは。
「え……えっ?!」
ユウは顔を上げて時計を見た。当然、急に時間が進んだ訳ではない。何で?! そう思って玄関の方へ向かったのと、扉が開いたのは同時だった。玄関の向こうにいたのは、大好きなターコイズブルー。
「ただいまぁ、小エビちゃん」
「おかえりなさい。びっくりした……早く帰って来られたんですね」
「んふふ、そう。オレのつがいがチョー可愛いメッセくれたからさあ。小エビちゃん起きてるうちに帰りたくて、秒で仕事終わらせてきた。真面目に働いて、オレえらーい」
はたして、玄関にニコニコ佇んでいたのはフロイド・リーチその人だった。相変わらず第二ボタンまではだけたシャツをジャケットの下に着ており、前髪は珍しくかき上げて横に流している。
「お仕事お疲れさまです」
「小エビちゃんもお疲れー。ね、オレ頑張ったからギューして良いでしょ?」
早急に問いかけられる。内容は子供っぽいのに、こてんと小首を傾げる様子はひどく色っぽくて大人っぽかった。ユウは思わず視線を逸らして、こくりと頷く。そうっと腕を広げた。
「……はい、どうぞ」
頭上でフロイドがクスと笑ったのを感じた。刹那扉が閉まる音がしたかと思えば、静かな玄関先でぎゅうと思い切り抱き竦められる。スーツからは相変わらず、海を感じる良い香りがした。
「あ、風呂入ったでしょ。小エビちゃん新しいシャンプーのにおいする」
「ふふ。はい、入りました」
「やっぱり。今何してた? もう寝るトコだった?」
「今は、えっと——」ユウは一瞬考え込んで、口をつぐんだ。腕の中に閉じ込められた薄暗闇の視界の中で、言葉を続ける。「さっき映画を観終えて、その。フロイドさんのことについて考えてました」
「んえ。オレぇ?」
「はい。ヴィルさんの映画を観たんです、あの最新作。それ観てたら、なんか……早くフロイドさんに会いたいなあって、思っちゃって。なんか止まらなくなっちゃって」
「は、……——」
沈黙が落ちる。沈黙、沈黙。
そこでようやく、ユウはフロイドが一言も発さないことに気が付いた。ついうっかりフロイドに早く会えたことが嬉しくてはしゃいでしまったが、「もしかしなくても変なこと言ったかも」という考えが頭をよぎる。
「……あの、フロイドさん、?」
「……」
いつまで経っても彼からの反応は無い。ユウがどうしようかと視線をウロウロさせ始めた頃、ようやく彼女の身体は解放された。
「ん……ッ?!」
けれど次の瞬間、性急に腰を抱かれる。キスをされている、ユウがそのことに気付いたのは、一拍置いてからのことだった。フロイドの持っていた鞄は床に落ち、どさりと鈍い音がするのが背後から聞こえる。まるでかぶりつくようなくちづけだ。甘くて背中がぞくぞくするようなそれは、角度を変えて何度も降ってきた。
「っは、」
ようやく唇が離れて思わず倒れ込みそうになった痩躯を、フロイドがやすやすと支える。そして彼は、ハアと大きく溜息を吐いた。
「小エビちゃんさぁ……何でそういうコト言うわけ」
「そういう、こと?」
「可愛すぎること!」
「へ、」
「あー……クソ、」
——あんま意識させんな。我慢できなくなる。
フロイドはそうぶっきらぼうにそう呟くと、せっかくセットされていた前髪を思い切りかき上げた。一瞬耳に引っ掛かったメッシュが、けれどややあってするりと落ちる。ユウはそんな彼の様子をぽかんと見やってから、ややあってようやく彼が何を言っているか察して、ボンッと頬を赤らめた。困ったように視線をウロウロ彷徨わせて、ふと唐突に『初恋の人』を思い出す。
ターコイズブルーの髪をした、背の高い絵本の中のひとだ。柔らかいタッチで絵描かれていた、白馬に乗って颯爽と姫の元に現れる優しくてハンサムな王子様。
もし、家の玄関を開けた先にこんな運命の人が待っていたのなら。『こんにちは。お迎えに参りました』なんて言って、ユウの元へ会いに来てくれたのなら。かっこよく微笑んで、手を差し伸べてくれたのなら。——それはどんなに素敵なことだろうかと、彼女はよく思ったものである。
一方で目の前の男は、彼と容姿は似ているものの、性格や行動はまるで正反対だ。
ユウの自宅前で待ち伏せをしていた取り立て屋でありマフィアで、必要とあらば平気で悪いことをするヴィランそのもので。
「……」
だけど、とユウは思う。だけど、そんな彼のことをどうしようもなく好きになってしまったのだ。もう、フロイドじゃなきゃ駄目なのだ。
「……フロイドさん」
ユウは俯くフロイドのシャツの裾をそっと掴んだ。ぴくり。フロイドの節くれた指先が僅かに動いて、垂れた目がユウを見る。
視線が交錯した。一拍置いてユウはふっと微笑むと、あのね、と掠れた声で言う。
「良いですよ、我慢しなくて」
「……は、?」
「フロイドさんなら、……どうぞ幾らでも」
「……意味分かって言ってんの、それ」
「分かって、ます」ユウは耳まで真っ赤に染めながら、けれど一切引くことなくコクンと頷いた。「フロイドさんなら、その、構いません。私、フロイドさんの彼女だもん」
「——、」
フロイドは僅かに目を見開くと、目元をじんわり赤く染めながら天を仰いだ。ややあって手を伸ばし、少女のやわい肌にそっと触れる。ゆっくりと身体を丸めた。
「……マジでさあ。いつからそんな、魔性の小エビになったワケぇ?」
「えへへ」
ユウは落ちてきた影を見ながら笑って、静かに目を閉じた。
幸せだなあと思った。
「好きだよ、ユウ」
——私の、私だけの王子様。
甘やかな声と共に降ってきた愛を、全力で享受する。
ユウはその言葉に応えるように、大きな背中に手を回した。
———mio principe【完】
1/1ページ
