Ⅵ. 愛情
「どうもー、お邪魔しまぁす」
ドゴォン! と、派手な音が響いて扉が破壊される。『お邪魔しまぁす』の〝し〟が聞こえるか聞こえないかの頃には、既に扉の前にいた人物は吹っ飛んでいた。次の瞬間には、バリンと激しい音を立てて窓が割れる。「あは。一日ぶりだね、オッサン」
白い部屋だ。殺風景でタバコ臭い、雑居ビルの一室。ジジ、と切かかったLED照明が室内を照らし、時折点滅してはまた点く。ブーンと機械的な音を響かせながらただひたすらにそれを繰り返す下では、ものの数秒もしないうちに容赦なく
「散々逃げてくれちゃってさあ。追いかけっこ好きなんだねえ」
これでもかというくらいに背の高い男——フロイドは楽しそうに言いながら、よっこいせと屈み込んだ。床の影が濃くなる。拳銃の先でペシペシ男の頬を叩いている様子はまるで、おもちゃを与えられた子どもだ。
「色んなトコ逃げて、オレらに捕まらないようにって這いずり回って楽しかった? 面白かった? オレはねえ、楽しかったよ最初は。でもさあ、飽きんだよね単調で。つーか、借りたらやっぱ返さなきゃダメじゃん。ママに教わんなかったの? え? 言い訳してんの? ……アハ、よく聞こえないからもっとハキハキ喋れや」
フロイドは好き勝手喋ってクスクス笑いながら、長い指で拳銃を撫でる。男はその隙に意表をついて逃げようとしたのか、がばりと起き上がって腕を大きく振りかぶった。フロイドはそれを見もせずにアッサリ避けると、あは、と乾いた声で嗤う。
「ったくもー。アズールはせっかくお前のこと信用して貸してあげたのにさあ、裏切られたからスゲー悲しんでるよ。あーあ、可哀想なアズール」
彼は男の前髪をむんずと掴むと、容赦なく引き倒して持ち上げ目の前まで顔を近付けた。ズラリと並ぶエナメル質の鋭利な歯列が、ライトを浴びてギラリと光る。かと思えば、フロイドの表情は一瞬でごっそり感情の抜け落ちたそれに変わり。地を這うような低い声で口を開いた。
「——あんま調子に乗ってんじゃねーぞ、雑魚が」
「フロイド先輩、そっちは——って。うーわ、もう片付けたんすか?」
「あ、カレイちゃん」
お疲れ〜。棒キャンディをガロガロ転がしながら室内を見て回っていたフロイドを見て、別室で別の債務者と
「コイツ生きてるんですか? 返すもん返してもらうまで、死んで貰っちゃ困るんですけど」
「んあ? ウン、辛うじて?」
「なら良いっすけど……ったく。毎度毎度派手なんすってばー、フロイド先輩の暴れた後の現場って」
後片付けする新人の身にもなって下さいよ。
ヒューイがブーブーと文句を言えば、「あは。カレイちゃんは生意気だねえ」とケラケラ楽しそうな返事が返ってくる。分かってはいたが、あらためる気はないらしい。
「……」
それはそうと、今日は随分と機嫌が良いんだな。茶色の前髪の下で目を動かしたヒューイは思った。多分、今までフロイドを見てきた中で最上級の機嫌の良さだ。鼻歌なんか歌っちゃって、今なら仕事でミスしても凄まれなさそうである。今日って何かあるんだろうか。そういや、フロイド先輩の片想い中の子がリストランテに来るとかなんとか言ってたような——。
「ア」
と、フロイドが声を上げた。ヒューイは我に返ってフロイドを見上げる。彼はスマートフォンを操作していた。ややあって顔を上げると、「見て〜」とニコニコ顔で嬉しそうに言う。
「小エビちゃんからメッセ来たぁ! 風邪、完全に治ったって。今日来れるって」
「はあ」
「ほら見て、前撮った写真。可愛いでしょ小エビちゃん」
「ウワ、写真見せつけてこなくて良いですってば。誰彼構わず好きな子の写真見せびらかしてるんすかアンタ……」
「ア? 信用してる奴にしか見せねーけど。それとぉ、ちゃーんと脅しが効く奴♡」
悪用したら殺すから。フロイドがにっこりと笑みを浮かべるものだから、ヒューイは顔を引きつらせる。何なんだこの人、勝手に喋り倒して勝手に見せてきておいて。心の中で文句を垂れた。
「じゃ、オレ行かなきゃ」フロイドは唐突にそう言った。「小エビちゃん迎えに行く準備しなきゃ。カレイちゃん、後はよろしくねえ」
「は——ハア⁈」
「あ、あと片付ける時さあ。そこのパソコンとか、そいつなーんかコソコソやってたっぽいから調べといて」
「いや。いやいや、俺一人でっすか⁈ これ数日掛かりますよ⁈」
「ウン」
「ウンて……アンタねえ〜……」
じゃあね。ひらひら手を振って去っていく自由の化身みたいな巨躯は、ヒューイの静止なんて聞く筈もなく。騒がしかった室内は、あっという間に静寂に包まれた。
「うわー、ないわぁ……」
ヒューイは面倒だと言わんばかりにガシガシ後頭部をかいた。仕事メンドイなあ。そう思いながら、ちょうどそのタイミングで背後でモゾモゾ必死に起き上がって逃走を図ろうとした男に対し、ノールックで踵落としを食らわせる。
——ア? 信用してる奴にしか見せねーけど。
「……」
ふと、先程言われた言葉を思い出した。信用してる奴。信用。……先輩が? 俺を?
「……。〜〜っ、アー! くそッ」
彼は立ち上がったままのパソコンの前までツカツカ歩いて行った。マウスをひったくるように手に取って、ボキボキ首を鳴らし。
「ハア。ええ、ええ、やりますよ! やりゃあ良いんでしょやりゃあ!」
一人溜息を吐いて、胸ポケットからUSBメモリを取り出す。マフィアのオシゴトはけっこう忙しいのだ。仕事の始まりを告げるように、恨みを込めながらエンターキーをパチンと叩いた。
❖ ❖ ❖
落ち着くような薄暗い空間に、洒落たジャズBGMが流れている。寸分の歪みも乱れもなく整然とあるべき場所に並べられている調度品はどこまでも洗練されていて、どこもかしこも埃一つ見当たらない。頭上から室内を彩っているのは、クラゲを模した遊び心のある電灯だ。そして店の最奥に待ち構えているのは、息を呑むような美しさの巨大水槽。
——モストロ・ラウンジ。
フロイドに連れられてやって来たそのリストランテは、とにかく洒落た店だった。随所から母なる海を感じられ、自分が今海の中いるかのような錯覚を覚える。もちろんユウは初めてこんなところにやって来たが、間違っても普通の女子高生が来て良いところではないということだけは、足を踏み入れた瞬間よく分かった。
……やっぱり、ユーチューブでテーブルマナーについて勉強しておいて良かった。
ユウは心底思った。友人のエースやデュースはよく、委員会が一緒だという先輩のリドルにテーブルマナーについて叩き込まれているらしいが——ユウにはそんな知り合いはいないし、ましてやこのような場所とは縁のない一般市民。詳しくなかったので、必至に頭に叩き込んできたのである。
「——……、」
何はともあれ、ユウはあまりに美しい店の内装に感嘆して、思わずギュッとワンピースの裾を握った。ちなみに今日着ている服は、先日相変わらず風邪と闘っていたユウの元へ看病をしにやって来たフロイドが、『あ、そうだ。これ今度着てきてよ。小エビちゃんに似合うと思うんだぁ』と勝手に持ってきて勝手に置いていったナイトブルーの、ロング丈のシフォンワンピースである。ユウは結構気に入っていた。
フロイドのこういう強引なところには、良くも悪くも慣れっこだった。もう断ることを諦めているユウは、他にフォーマルな装いも持っていない為、ありがたく着てくることにしたのだった。肩と袖の部分がレース調になっていて、華やかかつフォーマルで大人っぽい印象を持つそれは、どことなく夜の海を連想させる。
「小エビちゃん」と、いつものようにスーツ姿のフロイドがチラとユウの方を向いて問いかけた。「どお? オレらの城。気に入った?」
「はい、すごいです……」
「おや、それは光栄です」
「わ」
圧倒されて立ち尽くしつつ辛うじて返事をしたユウの耳に、落ち着いたテノールが響く。ハッとして振り返ると、そこに立っていたのは二人の男だった。
一人はジェイド・リーチだ。相変わらず糊付けたみたいにパリリとした制服を完全に着こなしている、とにかく縦に長い男である。
「いらっしゃいませ」
一寸の乱れもない完璧な動作で胸に手を当て会釈をした彼は、仮にどこかのお屋敷の執事か五つ星のホテルマンだと言われても違和感の感じられない出立ちをしていた。完璧な笑みを携えながら顔を上げると、僅かに目を眇めてユウを見た。
「お久しぶりです、ユウさん」
「ジェイドさん。こちらこそ、お久しぶりです」
「ふふ、そう緊張なさらないで大丈夫ですよ」
「は、はい」
と、ジェイドの隣に立つ男がズイッとユウを覗き混んだ。
「へぇー、この子がユウちゃん? やっほー、こんにちは」
「!」ユウは驚いて目を丸める。「こんにちは」
初めて見る男だった。ジェイドと同じ制服を着ているが、とにかくフランクな印象を受ける。明るい茶髪の頭部からは、猫の耳が生えていた。
どうやら猫の獣人のようだ。グリーンの釣り目がちな瞳が特徴的で、人好きするような笑みを浮かべている。
「チャドでーす。よろしくね、ユウちゃん」
ユウは口を開く。けれど、答えるよりも先に返事をしたのはフロイドの方だった。「ウワ」と不機嫌そうな声を上げると、チャドの方を嫌そうに見る。「ジェイドがいるのは知ってたけどさぁ。なんでトビウオちゃんまでいるワケぇ?」
トビウオちゃん。ユウはその名前を聞いて「あ」と思った。フロイドが先日臨場幻影投映魔法で自宅プラネタリウムをやってくれた際に、話に挙がった人物の名だ。
「えー、ウワッて何だし。良いじゃん、お前が女の子店に連れてくるなんて初めてだからさぁ。気になって会いに来ちゃったんだもん」
「……あはあ。トビウオちゃん?」
「あ、やっべ」
「なあに、喧嘩売りに来たの?」
え、初めてなの……?
ユウはぽかんとしてフロイドを見上げた。初めて。何だかそれは、彼の特別になれたみたいでちょっとだけ嬉しくて——けれどややあって、そんなことを考えている自分に気が付きハッと我に返って下を向く。何考えてるんだ。ぶんぶん首を振っている間に、フロイドはチャドを笑顔で見つめながらボキボキ腕を鳴らした。けれどチャドは気にもしていないという風に、ケラケラ笑うだけだ。
「アイツ絶対あとで絞める。——小エビちゃん行こ。ねえジェイドぉ、早く案内して〜」
「おやおや、宜しいんですか?」
ニコニコ——もといニヤニヤしていたジェイドは口元に手を添えると、畏まりましたと微笑む。コイツもあとで絞める。そう思っているフロイドの隣で愉快そうに口角を上げて、ジェイドは白手袋に包まれた手を客席の方へと向けた。
「ではご案内致します。お客様、どうぞこちらへ」
食前酒代わりにユウへと提供された舌触りの良い豊作村産のりんごジュースと、フロイドの元へ運ばれたノンアルコールのワインで乾杯。そして運ばれる前菜、プリモ・ピアット、セコンド・ピアット——。
ユウが生まれてこのかた体験したことのないイタリアンのコース料理は、どれも味はもちろん、視覚的にも彩りや趣向が凝らされていてとにかく美しく、ユウは何度も胸が躍った。
それに、開店時間前で周りに客が居なかったことは幸いだった、と彼女は密かに思う。おかげで、適度にリラックスして料理に楽しむことができたのだ。運ばれてくる一品一品の洗練された料理を、フロイドや他のウェイターたちの説明をじっくり聞き、味わい、そして堪能することができたのである。
「わ、ジェラート」
「本日のドルチェはアフォガードでございます、お客様。通常メニューとは異なりまして、本日はフロイドがセレクトしたメニューをお持ち致しました」
「あは。セレクトしましたァ」
あっという間にデザートの時間になった。洒落た器に入れられ運ばれて来たのは、バニラ味のジェラートだ。品物を運び終えたジェイドは二人に許可を取ってからジェラートの上に少量のコーヒーをかけると、洗練された仕草で一礼をしてからその場を後にする。そうして二人きりに戻ってからも、ユウはキラキラと目を輝かせた。だって、ジェラートだ。この間の文化祭では食べ損なってしまって悲しみに暮れていたジェラートと、まさかこんなところで再会出来るなんて!
すると隣から、ククッと笑い声が聞こえる。ハッとしたユウが顔を上げると、フロイドが可笑しそうに肩を震わせながらユウを見ているところだった。
「ほんっと、小エビちゃんって分かりやすいよねえ。スゲー目ぇキラキラさせちゃってさあ」
「えっ。そ、そんなに分かりやすいですか……?」
「ウン」
「即答……」
「んはは。良いじゃん素直だねって言ってんだから。褒めてんの」
ほら、溶ける前に食べな。
ポンと頭を撫でられて、ユウはムウと頬を膨らませた。けれど確かに、溶けてしまっては元も子もない訳で。ややあって、ジェラートを口に運ぶ。
「!」
至高のリストランテはどうやら、デザートまで一流らしい。口にしたアフォガードは本当に美味しくて、思わず頬が緩んだ。幸せに浸りながらもう一口、と銀のスプーンを皿へ運び。けれど彼女はそこでふと動きを止める。そういえば、と言葉を紡いでフロイドを見た。
「さっきジェイドさん、これフロイドさんがセレクトした、って言ってましたよね」
「ン? そー」
「フロイドさん、アフォガード食べたい気分だったんですか?」
「食べたかったっつーか——……」フロイドはスプーンを持つ手を止めた。そうしてユウをじっと見つめると、頬杖をつく。「小エビちゃんさ。文化祭の時、本当はジェラート食べたそうにしてたよなあって思って」
「……。……えっ、私?」
「ウン。だから、出したら喜ぶかな〜って思ったんだぁ。おいし?」
ユウは目を瞬くと、いちどアフォガードへと視線を落とした。そしてもう一度フロイドの方を見ると、コクコクと勢いよく頷く。フロイドはそれを見てポカンと固まると、ややあってフハ、と吹き出した。
「スッゲー嬉しそうじゃん」彼はそう言ってコテンと首を傾げると、柔らかく眦を眇める。「あは、良かった」
「……——、」
彼の瞳がユウのそれと交錯した、瞬間。
ユウは突如、ドンッと自分の心臓が跳ねるのを感じた。大きく目を見開いて、思わず固まる。
——ずるい。直感的にそう思った。
フロイドから発せられたのは、何気ない言葉だった。だのにユウには、それが何だか突然、物凄くかっこよく見えたのであった。わざわざ食べたがっていたことに気付いてくれて、用意してくれて、それで嬉しそうに「良かった」だなんて微笑みかけられて。それってまるで、すごく私のことを気に掛けてくれているみたいじゃないか。それがなんというか、とてつもなく心に響いたのだ——。
「小エビちゃん?」
フロイドの声で、ユウはハッと我に返る。見ると、彼は怪訝そうにユウを覗き込んでいた。「平気? まだ本調子じゃない?」問われて、大丈夫ですと慌てて返す。
「……あの、フロイドさん」
「ンー?」
「……あ、」
「あ?」
「ありがとう、ございます。その、ジェラートのことも、今日招待してくれたことも、このお洋服も」
「ふふ。はぁい、どういたしまして」
「……」
気付かないふりをしていた感情が、溢れそうになる。
ボンッと火照り始めた頬をアフォガードで冷まそうと、ユウは慌ててスプーンを動かした。
❖
デザートを終え、食後のコーヒーを済ませたのち。満足のいく食事を終えた二人がジェイドたちに見送られながら店を出ると、晴れ渡った冬空からは暖かな陽が差し込んでいた。小春日和だ。ピチチと軽やかな小鳥のさえずりがどこからか聞こえてきて、思わず息を吸い込んで深呼吸をする。
気持ちの良い陽気だなあ。
店を出て数歩。そんなことを思いつつ目を細めながら空を見上げたユウを振り返って、フロイドは「ね、小エビちゃん」と声を掛けた。
「この近くにさぁ、自然公園あんだよね。良かったら腹ごなしに、ちょっと散歩していかない?」
どこからか子供たちの楽しそうな声がする。
ザザンザザンと、絶えることなく耳に響くのは海の潮騒だ。今はカエデの並木道を歩いている為見えないが、先ほどリストランテの駐車場からも海が見えていたから近くにあるのだろう。
はたしてフロイドがユウを連れてきた自然公園は、リストランテのすぐそばにあった。
入り口に立てられていた案内図の看板を見ただけでもその広さが伺えたが、実際足を踏み入れてみるとまるで森に佇んでいるかのようだった。特に今の時期は紅葉がとても綺麗で風情がある。燃えるようなオレンジに、黄色。木々を彩る葉はどれも息を呑むほど美しく、同時にはらはらと散っていくさまは、さながらカーテンのようだった。木々の間から時折陽光が差し込んでいて、それがよりいっそう神秘的に見える。
「紅葉、綺麗ですね」
「でしょー。ちょうど良い時期だったから明日小エビちゃんに見せよーって、昨日仕事中散歩してた時に思ったんだよねえ」
「……つまりサボってたんですね」
「あは、名探偵だね小エビちゃん」
街の喧騒を忘れて、のんびりと自然の中を進む。歩くたび、地面からは石畳を靴裏が弾く硬い音と、時折紅葉を踏んだ時のサクサクという音が聞こえていた。軽快なリズムが心地良い。
「そういえばフロイドさん。話変わりますけど、『死の轍』の呪いが解けてから、身体は何ともないんですか?」
「ウン、へーき。小エビちゃんのおかげで、魔法も完全に使えるようになったよぉ——あ、」
「?」
笑みを浮かべていたフロイドが顔を上げた。ユウがきょとんと目を丸めると、フロイドは立ち止まってニンマリ口角を上げる。まるで先ほどのジェイドみたいに胸に手を当てると、慇懃に「では、お客様」とおもむろに口を開いた。
「え、えっ。何ですか」
「あは。特別な場所にご招待致しまぁす」
言うが早いが、フロイドはユウの手を引っ張ってスタスタ歩き出した。何も分からず引っ張られるがままとなっていたユウには、フロイドの大きな背中しか見えない。どこへ向かうのだろうと思っていると、ややあってその足が止まった。彼は振り返って身体の位置を少しずらすとフ、と笑い。
「どうぞ、レディ?」
その先の景色を見るよう促すように手で指し示す。
「?」
彼女は怪訝そうに首を傾げてから、つられるようにそちらへ視線を向けた。そして目の前に広げっていた光景を見るなり、思わず瞠目する。
「わ——」
フロイドの指し示す先。整備された歩道を道なりに進んだ左手側に、視界いっぱいに広がっていたのは、一面のカエデの絨毯だった。ポツンと設置されているベンチの周囲に舞っているオレンジと黄色。カエデの木の下を色鮮やかな葉が覆い尽くし、それが雲一つない青空に映えている。
さらにここは少し高台になっているらしく、右手側にある柵の向こうには、とにかく壮大な大海原が広がっていた。太陽の光を浴びている海面は、キラキラとまるで宝石のように、眩しいくらいに輝いている。
つまり、紅葉を楽しみながら海を眺めることのできるスポットだった。
「すごーい!」
「綺麗でしょ?」
「はいっ」
ユウはフロイドにエスコートされるまま、紅葉を背にして海を一望できる場所に設置されたベンチへと移動した。時折カエデの葉がひらひら落ちてきて風情がある。心地良くて清々しくて、凪いだ気分になれる場所だった。そこに居るだけで、落ち着いた、静謐な気持ちになれる気がする。
「本当に良い天気ですね。海の向こうまで見えちゃいそう。フロイドさんの生まれた海って、もっとずうっと向こうですか?」
「ン? ウン。珊瑚の海だからァ、すげー北のほう」
「へぇー」
フロイドは故郷の海について幾つか話してくれた。あの偉大なる〝海の魔女〟がかつて実際に住んでいたとされる場所であることだとか、アトランティカ記念博物館という建物があるということだとか、沈没船があって面白いのだとか、海にはどんな店があるのかだとか……。
ユウにとっては初めて聞くことばかりで、そのどれもが新鮮だった。知らない国の話は、まるでおとぎ話みたいでワクワクする。人魚語も少し教えてもらってみたりした(どうやっても上手く発音出来ず、フロイドに笑われたが)。
二人はそうして和やかな時間を過ごしていたが、それが中断されることになったのは突然のことだった。いきなりぶわっと風が吹いたかと思えば、大量のカエデの葉が落ちてきたのだ。
「わあっ?!」
「あっはは。すっげ、めちゃくちゃ降ってきた」
二人は話を中断してギャーギャー言いながら立ち上がって、カエデまみれになりながら笑った。まるで局地的豪雨だ。一気に降ってきたかと思えば、暫くすると途端に静かになる。ヒラヒラと舞うカエデの葉の数は、また以前と同じように緩やかなものとなった。
「……っふ。凄かったねえ」
「ですね」
と、その時だ。ユウがふと、何かに気が付いて「あ」と声を上げた。
「ン? どったの」
「ふふ。フロイドさんの頭に葉っぱ、付いてるなって」
「マジ? どこ」
「そことそことそこです」
「え、多くね?」
なんと、ターコイズブルーの髪には目視しただけでも三枚ものカエデが引っ付いていた。フロイドが頭部を触って落ちたのは結局一枚だけで、他は全然取れていない。それが可愛らしくて、ユウはくすくす笑って「いま取ってあげます」とフロイドの方へ近付こうとした、のだが。
「っうわ、」
「! え。ちょ、小エビちゃ、」
相変わらずのドジというか、何というか。
足を踏み出したユウは落ち葉に足を取られ、つまづいて転びそうになった。コンマ一秒。ふわりと不自然に僅かに身体が浮いて、もう完全に顔から地面に突っ込むコースである。あ、やばい。彼女はそう思う時間もなく、地面に倒れ込んで——……。
ドサッ、と鈍い音がしたのち。
ユウがよろよろと目を開けると、自分が誰かに抱き留められていることに気が付いた。誰かって、そんなの一人しかいない。彼女がギョッとして顔を上げると、目の前にはフロイドが横たわっていた。
「ふ、フロイドさん!」
頭は彼の逞しい腕に守られたらしく、ユウにはたんこぶひとつ出来ていない。目の前の呆れたような端正な顔とバッチリ視線が重なった。
「小エビちゃんってさあ……ほんっと、あぶなっかしいよねぇ」
「あはは……」
「あははじゃねーし。……ったくもー、怪我無い?」
「な、無いです」
「ン。なら良いけどさぁ〜……」
フロイドは溜息を吐くと、ムクリと上体を起こした。ユウにも手を差しのべて起こしてやると、立ち上がって、ちょっとだけ土埃の付いたユウの頬を拭ってやる。そのままムニムニと頬を摘むと、「ほんっとに、この小エビは……」と眉をハの字に曲げた。
「いひゃいれふ」
「痛くしてんの」
「んぐ」
「小エビちゃんただでさえヨワヨワで、しかも病み上がりなんだからさあ。気を付けなきゃダメじゃん」
「はひ」
「オンナノコなんだからさあ。顔に怪我とかしたらイヤでしょ」
「ふひまへん(すみません)……」
フロイドは平べったい目をしたまま、ユウの頬から手を離した。まろい頭に沢山付いてしまっているカラフルなカエデの葉を取りながら、「んもー」と文句を言う。
「あんまり危ないことしてっと、唇にお仕置きのチューすっからね」
「えっ」
ユウがパッとフロイドを見た。そうして我に返って頬を赤らめると、慌てたように視線を逸らす。
「……。……、」
——え?
フロイドはぽかんとした。だって、半分冗談で言ったつもりが、返ってきた反応が今までとは何だか少し違うような気がしたからだ。
「……小エビちゃん」
じい、と見つめながら口を開く。けれどユウは俯いたまま返事をしなかったので、フロイドはそっと覗き込むようにしながら少女の顎に手を添えた。僅かに上を向くように軽く力を込めれば、ようやく熱っぽい瞳と視線が合う。
「……」
「……」
良い、のだろうか。
周囲からは、木々のざわめきと海の音しか聞こえなかった。
先ほど頬に触れた時とは異なり、色っぽさの混じった手つきでフロイドは唇の下にそっと触れる。そうしてゆっくりと、首を傾けた。
お互いの吐息が聞こえてしまうかのような距離だった。黒の一房を耳に掛けた彼が、ユウの高さに合わせるようにしてゆっくりと身体を屈め、端正な顔を近付けてくる。唇同士が触れ合うまで、ほんの数センチ。二人は次第に距離を詰め、そして。
「——、」
しかし次の瞬間、ユウはハッと我に返った。肩から掛けていたバッグの中で突然、無機質な音を立ててスマートフォンが振動したのだ。慌てたようにフロイドの胸の前に手を当てると、ふいと視線を逸らす。いま私、何しようとしてた? 心臓をバクバク鳴らしながら「あ、ごめんなさ、」と声を発すれば、フ、と小さな吐息と共にフロイドの身体が離れていくのを感じた。
「いーよ」静かな声だった。そして、続けるように「スマホ見な」と促される。
ユウはコクコク頷いて、逃げるようにして鞄を漁ってスマートフォンを取り出した。初めてのことに混乱して、フロイドの顔がまともに見られなかった。
「……え、」
——けれどそんな混乱は、液晶を見た瞬間吹き飛ぶことになる。
ユウはバッと顔を上げた。戸惑いを含んだ表情で、「あの、フロイドさん」と声を掛ける。スマートフォンを見せながら、口を開いた。
「お母さんからメッセージが返って来ました。〝今夜帰るから、絶対家にいなさい〟って」
❖
メッセージが送られてきたあと、二人はそのまま帰宅する流れになった。元々フロイドが自宅と店との往復を送迎してくれるという話だったので、ユウは再びフロイドの車に乗り。数時間前に通った道を、自宅に向けて再出発した。
車内は行きと違って会話が無く、静かだった。響いているのは陽気なラジオパーソナリティたちが繰り広げる会話と、ポップな音楽と、それから車の走行音だけ。
ユウは困って、ひたすら膝の上に手を乗せていた。何を話して良いのか分からなかったのだ。頭の中でぐるぐる考える。
フロイドにとっては待ちに待っていたはずの、ユウの母親とのご対面だ。つまりそれは、ユウとの契約が完全に終わることを意味する。ユウだってずっとそれを望んでいた筈なのに、複雑な感情だった。
接点が無くなってしまう。そうなればもう、そう簡単にフロイドには会えなくなってしまうのだろうか。今の生活が終ってしまうことが、少しだけ——……。
「小エビちゃん」
ハッと我に返る。無意識にスマートフォンを握り締めていたユウは顔を上げた。いつの間にか外の風景は、方向音痴のユウでも判別が付くくらい見慣れた地元のものとなっている。
運転席を見ると、フロイドは前を向いたまま運転を続けていた。徐々にひとけがない通りに差し掛かる。信号を右に曲がったところで、彼はおもむろに口を開いた。
「……あのさ。今夜だけは見逃してあげる」
「……え?」
「小エビちゃんママのコト。小エビちゃん、ずーっと会いたかったんでしょ」
「フロ、」
「その代わり明日になったら、分かる範囲で良いからどこ行ったか連絡して。小エビちゃんママと
ぽかんとしている間に、車はゆっくりと停止した。見慣れたいつものアパート。フロイドがいつも押しかけてきた場所。その目と鼻の先の路肩に止まったかと思えば、フロイドは口角を上げる。ぽん、と頭を撫でて一拍、「着いたよ」と口にした。
「ありがとうございます」
「……ン。じゃあね」
「……はい」
「——、」
黒塗りのピカピカの高級車を降りると、窓越しにいちどだけ視線が交錯する。フロイドは何かを言いかけて、けれど微笑むだけで口を閉じた。そうしてややあって、ゆっくりと車を走らせ始める。
ユウはその光景をぼんやり見つめ続けた。車体が見えなくなるまで眺めたのち——すとん、と脱力したみたいにしゃがみこむ。
「……フロイドさん」
絞り出すみたいに呟いた言葉は、儚く消えかかっていて。吹いたら飛んでしまうカエデの葉みたいに、風に乗って消えていった。
❖ ❖ ❖
グツグツと鍋の中のお玉をかき混ぜる。
カレーの良い匂いが室内を充満させていた。並行して作っていたコンソメスープも、味見をするとちょうど良い味付けだ。うん、と小さく頷いて、ユウは換気扇を止めてガスコンロの電源を切る。またお母さんが帰ってくるときに温め直そう。そう思って、四か月以上ぶりの再会する母親から連絡が来ていないかスマートフォンを確認した。……連絡なし。いつ帰ってくるのだろう。
ユウは困ったような顔でちゃぶ台のほうへ歩いていくと、カーペットの上に腰を下ろした。なんとなく室内を見渡す。ふと、部屋の端に置いてあるスクールバッグに付いているストラップが目に入った。〝たこやきクン〟だ。
「……」
小エビちゃん。
ふと頭の中で、柔らかな声が再生された。名前を呼ぶ優しい笑み、大きな手、さらりと揺れるターコイズブルーを思い返し——。
と、ユウはそこで思考を止め、勢い良く顔を上げた。ガチャガチャと、乱雑に鍵を開ける音が室内に響いたのだ。慌てて立ち上がって玄関へ向かうと、そのタイミングで扉が開いた。
「……っ、おかあさん」
「ああ、ユウね。ただいま」
「お、おかえりなさい」
「はあ。相変わらず狭っ苦しいわね、ここ」
久々に帰宅してきた母親は、相変わらず全体的に派手な格好をしていた。赤いタイトなワンピースに、踵の高いヒール。巻かれた派手な髪は胸の辺りまで伸ばされていて、アパート特有の青白い照明の中でも存在感がある。間違っても、取り立て屋に追われているほど金銭に困窮している人間の格好ではなかった。久し振りの娘との再会になんぞまるで興味が無いといった様子で、玄関前に立ち塞がっている。
「えっと……今回は長く居るの?」
「長くって、
「そ、そう——」自分の家なのにな、とユウは浮かびかけた考えを喉奥に押し戻す。「取り敢えず、中に入ったら? 夜ご飯作ってあるから……」
会いたかったはずなのに、実際会うと何をどう会話して良いのか分からなくなるのはいつものことだった。ユウはしどろもどろになりながら、母親に家へ入るよう促す。
フロイドを始めとした取り立て屋のことについても、流石に少し話をしなければならないと思っていた。借りたものを返すのは当たり前だ。もし本当に
「いいえ、結構。食事はいらない。どうせあんたの不味いカレーでしょ?」
けれど母親は、ユウの誘いをばっさりと切り捨てた。娘をチラと一瞥すると、面倒そうに溜息を吐く。
「言ったでしょ。私、ここに長く留まる気はないの。取り立て屋が来るし、辛気臭いし。ただ案内しにきただけ」
「……案内?」
「そ。昨日、エドにあんたの話をしたら、あんたのこと高く買ってくれるって言うから」
「エド……え、誰……?」
言っている意味が分からず混乱する。高く買う。私を? 状況を読み込めずポカンとしていれば、母親がドアの外へと視線を向けた。真っ赤なルージュの塗られた唇を動かす。「良いわよ」
すると、部屋にもう一人——見知らぬ男が入ってきた。
歳は四十代後半から五十代前半だ。平均的な身長で、焦げ茶の髪をオールバックに固めている。高価そうなベージュのスーツを着ていて、中からは同じ色のベストと群青色のシャツ、茶色のネクタイが覗いていた。そしてその男の後ろには、黒ずくめのガタイの良い男が二人、控えるようにして立っている。指示を受ければ今にも動き出しそうだ。雰囲気から既に、三人とも総じてカタギには見えない。
「やあ、君がユウくんかい?」
「……誰ですか貴方」
「エドモンド・ドレッド。君のお母さんの
つまり、また新しい彼氏か。ユウが呆れたようにそう思っていると、エドモンドと名乗った男は、怪訝そうに眉を顰めた彼女をじっと見た。ふむ、と考え込むように顎に手を当てると、いきなりユウの腕を掴む。
「ッ!」
「うーん、まあまあかな。顔は悪くないね、流石君の娘だ」
「まあね」
「ちょっ、触らないでください。離して!」
「暴れるんじゃあないよ」
低く迫力のある声がしたかと思えば、腕を掴む力が強くなる。反射的にびくりと動きを止めれば、彼は満足したような顔をした。首にかけていた、魔法石らしき赤の石のついたペンダントを取り出すと、ユウの手に握らせる。何も変化は起きない。
「——ははっ、本当だ」
唐突に、男は愉快げに声を上げた。
「なあ。君の娘、本当に全く魔力が無いんだな」
「だから言ったじゃない」
「ああ、素晴らしい……良いね。こういう珍しい人間、欲しがる奴はごまんといるだろうよ。本当に連れて行って良いのかい?」
「好きにして。ちゃんと分け前は寄越しなさいよ」
「もちろん。ちゃんと分かってるさ」
なんの。
なんの、会話をしているのか。
「——っ! いや!」
ユウは怖くなって暴れた。男の注意が緩んだ隙に全身全霊で腕を掴む手を振り払うと、決して広くないリビングの方へと後ずさる。ガシャンと、ぶつかったちゃぶ台が音を立てた。丁寧に並べておいたカレー用のスプーンが、カツンと音を立てて床に落ちる。
「お、お母さん。なに、どういうこと、?」
「何って。あんたでも私の役に立つ日が来たってことよ。結構人気なんですって、コレクターには。あんたみたいな
「は、……?」
声が震えた。訳が分からなくて、呼吸が早くなっていく。
逃げなきゃ。とにかく頭に浮かんだのはそれだった。後ずさって、一拍。踵を返して、扉が塞がっているならとベランダに走る。
「捕まえろ」
「はい」
けれどエドモンドが指示を出し、黒ずくめの男たちがユウを捕らえたのは一瞬だった。
「やだ! 離してッ! 誰か、誰か!」
「煩い。大人しくしろ」
いとも簡単に羽交い締めにされたかと思えば口を塞がれ、首の後ろの急所を手刀で殴られ。
「! っ、ぁ……」
滲んだ視界がぐらりと傾く。
一瞬、興味なさげに己を見下ろす母親が見えた。そしてまるで走馬灯のように、今日のフロイドとの思い出が思い出される。どうしてこんなことになったんだろう。さっきまではあんなに、あんなに楽しかったのに。
「——……、」
どさり。床に倒れ込んだ先に、ぼんやりと〝たこやきクン〟の姿が見えた。ユウはまぶたをゆっくり閉じながら、小さな声で「……フロイドさん、」と呟く。
フロイドさん、助けて。
