Ⅴ. 弱音


 銀行のものかと見紛うほど巨大で威圧的な金庫の周りで、寸分の隙間もなく壁一面に並べられた書籍が室内を圧迫している。とにかく格式の高さを煮詰めたような部屋だ。鏡面のように磨き上げられた執務机やローテーブルなどの調度品には、塵一つすら見当たらない。
「……またですか、、、、、?」オクタヴィネル・ファミリー、ボスであるアズールの執務室にて。アズールから手渡されたペラ物を読んだジェイドが、視線を鋭くして言った。「今月だけでもう三人目でしょう」
「ええ、先程チャドから報告が。やはり今までの二人と同様、うちの構成員がドレッド・ファミリーの構成員から売り付けられた違法ドラッグを買い、使用していたと」対してそう答えたのはアズールだ。眼鏡の奥のスカイブルーを鋭くすると、心底面倒だというように溜息を吐いて首を軽く振る。「全く……うちのファミリーには、薬漬けになった廃人を飼い慣らしておく趣味はないんですがね」
 ドラッグを使用していた奴は処分しろ。畏まりました。
 短いやり取りの中で物騒な話題が完結し、アズールの命令にジェイドが胸に手を当て浅く腰を折る。オクタヴィネルのモットーは『自己責任』だ。自ら薬物中毒になってそのうち廃人になることが確定している者を置いておくほど、お優しくはないのである。(オクタヴィネル・ファミリーはマフィアにしては珍しく、麻薬取引こそやるものの、薬自体は使用しない主義なのだ。)
「……」
 アズールは両の手を顔の前で組んで、じっと考えを巡らせる。
 ドレッド・ファミリー。オクタヴィネルの隣にシマを所有しているマフィアで、アズールも彼らのボスと何度か顔を合わせたことがある。表面上は友好的だが——彼らが、マーマンがボスをするこのマフィアを下に見ていることも、オクタヴィネルのことをよく思っていないことも知っている。力では敵わないと踏んでいるのか、賢い選択をして今のところお利口に大人しくはしているが、あわよくば蹴落とさんと言わんばかりに、虎視眈々とアズールの失脚を狙っているのだ。
「とにかく、引き続きドレッド・ファミリーの動向は見張るように。これ以上うちのシマで騒ぐような真似をすることがあれば即刻報告を」
「はい」
「よろしい」アズールは視線をジェイドの奥にすべらせた。「——おいフロイド、お前にも言っているんです。聞いているのか」
 もぞりと、僅かに影が動く。
「……ンー、聞いてるぅ」
 とにかく高価な黒革のソファー。そこに遠慮なく横になり、肘掛けに頭と足をそれぞれ身体を預けて脱力していたフロイドは、覇気のない声で口を開いた。それを見て、ジェイドがおや、と片眉を上げる。
「仕事の気分じゃないんですか?」
「……別に。仕事はちゃんとやるけどさァ」
「では、まだ考えが纏まらないんです、、、、、、、、、、、?」
「……」
 くすくすと笑うジェイドの隣で、アズールが再び溜息を吐いて眉間を揉む。
 女なんぞすぐ飽きて取っ替え引っ替えしていたあのフロイドが、なんと一人の娘に惚れ込んでしまったらしい。そうジェイドから聞かされたのは、三日前のことだった。しかも相手は債務者の娘——女子高生ときた。あんまりに衝撃的な事実に、アズールは思わず眼鏡がずり落ちかけたものである。
 と、フロイドが胡乱気に口を開いた。
「イヤ、だってさあ……未だに分かんねえんだもん。惚れたって何? どゆこと? オレが小エビちゃんを? 好き⁇ ハ?」
「何で突然キレているんですお前」
「ふふ。僕のきょうだいは初々しくてピュアなので、未知の感情に混乱しているんですよ、アズール」ジェイドはニコニコしながら言った。楽しそうである。「というかフロイド、貴方あれだけ派手に求愛までしていたのに、混乱しているポイントはまだそこなんですね」
「ウウウウウ」
「あの時のフロイドの、茹でだこっぷりは見事でしたよ。アズールが泣き喚いて〝泣き虫タコちゃん〟になった時すら、あそこまではなかなかなりません」
「ッあぁあ゛」
「おい、しれっと僕を巻き込むな」
 アズールはきょうだいを揶揄って虐めて楽しんでいるジェイドを見て、ウワッと思ってちょっと引いていたが。急に自分のことを出されて、心底嫌そうに扁平な目つきをした。そうしてフロイドの方を見れば、先程まで横になっていたはずが起き上がり、今にもジェイドにクッションを投げつけるところである。室内で暴れるな! 彼は思わず怒鳴りつけて立ち上がった。ややあって、今日何度目か分からない溜息を吐く。
「全く……そこまで懸想しているのなら、彼女のことを口説いてその気にさせて攫ってくるなり何なりすれば良いじゃないですか。相手は債務者ではなくその娘。面倒を起こさないのなら僕も文句は言いません。お前なら簡単でしょう、それくらい」
 全力でクッションを投げる為の構えをしていたフロイドと、どさくさに紛れて自分も暴れようと臨戦態勢に入ろうとしていたジェイドの動きが同時にピタリと止まる。そしてまるで鏡写しみたいに、見事に同じタイミングでアズールを振り返った。
「ふふ、アズールも物騒ですね」
「別に、これくらい普通でしょう」
「そうですか? 僕だったら足を尾ひれに変えて、一生僕無しでは生活できないようにしますが」
「どっちが物騒だ」
 どっちもどっちだ。だがそれを突っ込む者はここには居ない。
 するとようやく、フロイドが口を開いた。顔を上げアズールを見るなり、「えー……」と言い。腕を下ろすと、首の後ろを摩りながら呟くように言った。
「……攫うのはやだ」
「はあ、何故です?」
「……だってさあ。小エビちゃんにはあんまり、悪いコトに巻き込まれて欲しくねーし、笑ってて欲しいんだもん。安易にこっち側、、、、に攫っちゃってさあ、オレの仕事に巻き込みたくねーなって……でも、それでオレ以外の雄のトコ行くのはもっとヤだなあ……」
「は、」
「ダア〜〜〜ッ……もう、分っかんねーの! 頭スゲーぐちゃぐちゃする!」
 アズールはポカンとした。瞠目し、次いでジェイドを見やる。自分は恐らく今、ジェイドと同じような表情をしているんだろうなと思った。幽霊でも見たような顔だ。ヤ、だって……目の前にいるのはあのフロイドだぞ。つい先日だって、敵対組織の人間を蹴り飛ばして嬲って返り血を浴びながら、キャラキャラと胴間声を上げていたような男だ。それなのに。何だこのピュアっピュアな恋する乙女は。
「……オレ仕事してくる」
 と。そんな二人のことなんて気にするでもなく、フロイドはガシガシ後頭部をかきながら立ち上がり、アッサリ部屋から出て行った。パタンと閉まった重厚な扉。それをしばらく見つめたのち、アズールは目を瞬き。
「……。……ジェイド」
「ふふ。かれこれ三日間、こんな感じです」
「……——」
 いや、もう相当惚れてるじゃないですか。
 アズールは頭を抱えた。

   ❖ ❖ ❖

 身体じゅうが熱い。頭がグラグラする。
 ユウはベッドの上でぼんやり目を開けた。もぞもぞと首だけを動かして周囲を見渡すと、オレンジの夕空が目に入る。カーテン閉めなきゃなあ。煌びやかな夕陽が差し込む窓の方を見ながら、怠くて動く気になれない情けない身体に嫌気がさして溜息を吐いた。
【ユウおつかれさま! 今日撮った写真贈るね】
 クラスメートからメッセージが届いていた。ユウはぼんやりそれを見て、次いで送られてきていた写真をタップする。数時間前、学校の友人と撮った数枚の写真やクラスの集合写真だ。写真の中で楽しそうにしている己や友人たちの姿を見て、少しだけ頬が緩んだ。
 〝フロイド人魚化事件〟なる騒動から、あっという間に二週間ほど経過した。
 本日は、ユウの通うハイスクールにて文化祭が行われた日だ。楽しいはずの日に、こんなことになっているなんて。彼女はぼんやりと天井を見つめながら、数時間前までの記憶を回顧する。
 視線の先に広がる騒がしい光景。普段は授業をしている静かな空間も、いつもは閉め切られている教室も、規律を守る生徒たちも、全部がとにかくお祭り騒ぎだった。人がひしめき合っている廊下にはアップテンポなBGMが流れ、タトゥーシールやらコスプレやらきぐるみやらを着た生徒で溢れ、それぞれ思い思いの宣伝を繰り広げ、通い慣れた校舎だというのに新鮮に見えたものだ。とにかく凄い熱気だった。声を張り上げるか耳を近付けるかしないと、隣にいる友人の声すら聞き取れないほどであった。
「野球部です! 男だらけのメイド喫茶やってまーす! 二号棟一階! 癒やしを求めに来ませんかーっ!」
「美味しい焼きそば! 焼きそばはいかがー!」
「チュロスあるよー! 今ならじゃんけんに勝つともう一本無料!」
「熱気も吹き飛ぶお化け屋敷! 九九九人の亡霊が貴方のことをこの先の突き当りの教室で待ってます! 千人目の亡霊になりませんかー!」
 声を枯らさんばかりの勢いで宣伝をしまくる他クラスの生徒の声を聞きながら、ユウも必死の思いで教室へとやってきた客たちを誘導していた。バイトで散々やっていることだから慣れっこだ。そういう訳で気軽に引き受けたものの、それなりに静かなバイト先の店内とは勝手が違い、思ったよりも大変である。
「射的場へようこそ! 参加希望の方はこちらにお並びくださーい!」
 大声で叫んで、客を案内する。その繰り返しである。疲れるけれどものすごく楽しく、自分のクラスが思っていたよりもずっと繁盛していることには誇らしさと達成感があった。——しかし、そんな矢先のことである。ユウが自分の体調の異変を知覚し始めたのは。
 軽度の頭痛と倦怠感。それから時たま訪れる悪寒。完全に風邪の初期症状だった。
 恐らく熱はまだ無さそうなので、取り敢えず気付かないフリを決め込むことにした。そうでなくても、せっかくクラスのみんなが楽しい日だ。体調不良で、クラスの店舗のシフトの穴を開ける訳にもいかない。体調を崩すのならせめて、文化祭が終わったあとであって欲しかったのに。
 幸か不幸か、ユウは幼い頃から体調不良を隠すのが得意だった。滅多なことがない限り、バレることはない。彼女はなんとか不調を隠し、騙し騙し午前中のシフトを昼前に終えた。
「よっ。ユウ、おつかれー! 仕事代わるよ」
「おつかれ。ありがとう、よろしくね」
「ねね。今から店見て回るんでしょ? 一号棟入ってすぐのとこにあるさあ、サッカー部がやってるジェラートの店、超美味しいからオススメ。行ってみ」
「えー、ほんと? じゃあ行こうかな」
 楽しげにおすすめの出店を教えてくれたクラスメートと一言二言会話をしてから後の仕事を託して、取り敢えずどこかで休憩出来ないだろうかと考えつつユウは教室をあとにする。ジェラート食べたいなあと思いながら、けれど残念ながら今は食欲なんて一ミリも無いので、今回は諦めるしかなさそうだった。
「うう、遠のいていく私のジェラート……」
 己の体調不良を恨みながら、よたよたと混み合う廊下を進む。
 お手洗いに行って顔を洗い、あと数時間なら何とかなるだろうと鏡とにらめっこしながら気合いを入れ直した。そうして、手洗い場を出て右に曲がった瞬間のことである。——突如視界に大きな靴先が入り込み、顔を上げると目の前にたまたま立っていた、見慣れたターコイズブルーとばったり出くわしたのは。
「あ。小エビちゃん居たぁ。やっほー」
「え……えっ、フロイドさん?! 何故ここに」
「面白そうだなーって思って、仕事前に来ちゃったあ♡」
「はい⁈」
 相変わらず縦に長い男だった。こうして混雑した中にいても、とにかく迫力がある。ただその場に立っているだけで、多くの視線を集めてしまうような存在感があった。実際、道行く人々の多くは、チラチラとこちらを一瞥して通り過ぎている。
 ……というか、仕事って? 取り立て? それとも抗争的なやつ?
 馬鹿正直に嫌そうな顔をしたユウに、フロイドは「そっち、、、じゃねーよ」とケラケラ笑った。
「今日は、店のほう」
「店……?」
「そ。オレらさあ、リストランテ経営してんの」
「えっ。そうなんですか?」
「ウン。つーか寧ろ、そっちが本職っつーか……表向きはね」
「表向きは」
「あは。世間的にはマフィアって秘密組織なワケ。一応、アー……副業? や、裏稼業? みたいな。ナイショのオシゴトだからさ」
「……」
 そんな副業あってたまるか。平べったい目をするユウに、「小エビちゃんも今度招待したげる」とフロイドはニコニコ笑った。どうやったって金を搾り取られる未来しか見えなくて、ユウはハハと乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「それはそうとフロイドさん、いつ学校来たんですか?」
「んー、一時間くらい前」
「え。結構居るじゃないですか」
「あは。なんか、割と楽しかったよ。こういうトコって若者のトレンドが結構垣間見えたりするからさぁ、店のメニューのアイデアにも繋がって結構有益〜ってんで、写真撮ってくとアズールも喜ぶの」
「なるほど」
 名ばかりの店舗という訳ではなく、どうやら本当に、店の経営には力を入れているらしい。感心するユウの前で「今日は色々食べたし色々遊んだぁ」と、フロイドは幾つか立ち寄った出店を挙げた(その中にジェラートの名前もあったので、ユウは密かに羨ましくなった)。
「で? 小エビちゃんは? 今まで何してたの?」
「さっきまでクラスの仕事してたんですけど、やっと休憩入りました」
「ふーん。おつかれぇ」
 フロイドは緩く相槌を打つなり、スッと目を細めた。喧騒に包まれた空間で自分を見上げるユウの細っこい痩躯を、上から下まで眺める。
「……ていうかさあ。オレ、さっきから気になってたんだけど」
 と。やおら、彼は脈絡もなくそう切り出した。腰を曲げ、グイと少女を覗き込みながら真剣な顔で言う。
「小エビちゃん、なんか今日……顔色悪くねぇ? 体調悪い?」
「へ、?」
 途端ユウの動きが止まる。目の前にある色の違う双眸に、驚いたように瞠目する少女の顔が浮かんでいた。ややあってハッとすると、彼女は誤魔化すように「あはは」と頬を掻きながら笑う。
「あー……最近文化祭準備とかで忙しかったから、疲れてるように見えるんだと思います」
「ホントに?」
「はい」
「なら良いんだけどさァ……」言葉とは裏腹に、フロイドは煮え切らない顔をしている。じとりとユウを凝視すると、おもむろに手を伸ばして少女の前髪をかき上げた。大きな手が額に触れて、ひんやりとした体温が伝わったかと思えば。彼は自分の前髪も同じようにかき上げ、突然端正な顔を近付ける。額同士が触れて、離れた。
「ッ、!」
「んー。熱は——無いか」
 フロイドは低い声でそう呟くと、突然のことに目を白黒させながらギョッとして固まっているユウに気付き、フと笑みを浮かべた。ポンとその頭に手を乗せる。
「あは、スゲー顔」
 そうして近くの自動販売機まで歩いて行くと、スポーツドリンクを購入する。ガコン。鈍い音を立てて取り出し口に落っこちたそれを手に取ると、ユウにひょいと手渡した。
「はい、これ。取り敢えず水分はちゃんと取りな」
「へ、? ……あ、ありがとうございます」
「小エビちゃん、マジでヨワヨワなんだから気を付けてよ。すーぐ無茶しようとすんだからさぁ」
「ぅ。はい」
「オレ今から仕事行くけど、ちょっとでもキツかったら無理しないで連絡して」
「あ、あの、……」
「あとはぁ、」
「あのっ! フロイドさん」
「ン?」
「ど、どうしたんですか。急にこんな……」
 ……至れり尽くせりというか、何というか。
 ユウはキャパオーバーになりかけ、あうあう言いつつフロイドから視線を逸らす。
 だって、フロイドの態度に頭が追いつかなかったのだ。いくら普段からそれなりに一緒に居るとはいえ、今まで基本的に、彼がユウの為だけに何かをするということは無かったのに。
 他のマフィアからユウを守ってくれるのは、契約のため。時たま食事を作ってくれるのは、彼が食べたい気分だったから。映画やドラマをユウの好きに観させてくれるのは、ユウの百面相が面白いから。
 そんな彼が、ユウの風邪の為に純粋にあれこれ世話を焼こうというのだ。混乱して当然である。
 さて。フロイドはその様子を見て、数拍ののち「どうした、って……」と後頭部を掻いた。
 彼からすれば、好きな子の体調が悪そうなのが普通にイヤなだけだ。小エビに元気がないと、自分まで元気がなくなってくる気がするし。それに、人間はチョット殴ればコロッと死んでしまうような弱い存在であることを、フロイドはこれまでの実体験からよぉーく知っている。マアつまり、単純に彼女のことがとにかく心配なのだ。
「……」
 フロイドは困ったように首の後ろをさすった。チラリとユウの方を見て、再び逸らして。そうしてどう返すべきか言いあぐねて「……別にぃ」と言葉を濁す。
 ——しょうがねーじゃん。惚れちゃったんだもん。
 理由なんて、それ以外のなにものでもなかった。母親への取り立てのこととか、呪いのこととか、どうにかしなきゃいけない仕事は山積みだが、それ以前に小エビちゃんが好き。理由はただそれに尽きるのである。
「……ほんっと、番狂わせだよねえ」
「……? ぎゃっ、痛ッ! 何するんですか」
「んはは。おもしれ」
 フロイドは、キョトンとしている彼女に何となく軽くデコピンをお見舞いした。体調、崩してなきゃ良いんだけど。そう思いながら。

   ❖

 ふ、と意識が浮上する。
 いつの間にかまた眠ってしまっていたらしい。ユウが瞼を開けると、先程までオレンジ色だった空にはすっかり闇夜が広がっていた。どのくらい眠っていたのだろう。そう思って壁掛けの時計を見やれば、時刻は案外、友人からのメッセージを読んだときから三十分ほどしか進んでいないようだった。浅い睡眠に辟易する。
「……のど、かわいた」
 ユウは呟いて、スマートフォンをポケットに仕舞いながらのろのろ立ち上がる。キッチンへと向かおうとして——けれど道の途中で力尽きて、ズルズルと屈みこんだ。
 だめだ、ちょっと休憩してからにしよ……。
 使い古されたフローリングに座り込んで体育座りをし、顔を足の間に埋める。ひんやりとした床の感覚が心地良いなと思いながら、薄暗い視界の中で熱い息を吐いた。体調は確実に、帰宅した時よりも悪化している。恐らく熱も上がってきている。
 ふうふうと浅い呼吸を繰り返す。鈍い頭痛が、断続的にこめかみの辺りを刺激していた。紛らわすように膝に額を押し当て、ユウはフローリングの溝をジッと眺める。
『小エビちゃん、なんか今日……顔色悪くねぇ? 体調悪い?』
 ぼんやりと、文化祭での会話が頭に浮かんだ。
 体調が悪いことが誰かにバレるなんていつ以来だろう、とユウは思う。フロイドさん、案外他人のことよく見てるからなあ。そう独り言ちながら、ふーっと息を吐いた。
 今度こそ脚に力を込めてよろよろ立ち上がり、冷蔵庫の前に立つ。取り出したのは、先ほどフロイドが買ってくれたスポーツドリンクだ。飲みかけのそれを指に引っ掛けるようにして手に取ると、もう一度先程座っていた廊下までよろよろと移動する。蓋を開けて口内に流し込むと、ひんやりとした飲料が喉を潤した——と。
「っ!」
 ガチャガチャガチャ。いきなりドアノブが大きく音を立てる。ユウは反射的に顔を上げ、同時にびくりと肩を跳ね上げた。見ると、ちょうど直線上にある玄関——その中と外を隔てる古めかしい扉が、騒がしく音を立てている。無遠慮に勢いでドアノブが回され、ドンドンと鈍い音を立てて扉も叩かれ。頭痛の酷い今の頭に響く。
「っう……」
 ユウは呻いて、思わず顔をしかめた。すると扉の向こうから、「おいコラ!」と野太い怒鳴り声が聞こえてくる。
「居るのは分かってんだよ!」
「隠れてないで出てきやがれこのアマ!」
「今日こそ払ってくれるんだよなぁ、アァ?!」
 久々に聞く取り立て屋の怒号だった。よりにもよって、どうしてこんな日に。お金無いって言ってるのに。ていうか、お母さん相変わらず家に帰ってきてないのに。彼女は困って、諦めて早く帰ってくれないかなと眉を下げた。
 けれどマア、ツイていないことというのは続くもので。ユウは次の瞬間、うっかり手に持ったままだったペットボトルを取り落とした。飲み途中のため蓋を締めていなかったそれはあっさり転がり、どぽどぽとと少女の足の先に水溜りを作る。
「……最悪」
 溜息を吐いて、手で身体を支えながらヨロヨロ立ち上がる。キッチンから布巾を引っ掴んでくると、水溜りの方へと戻ろうとした。が、立ちくらみがして足が縺れ、べしゃりと床に倒れ込む。
「……っう、」
 咄嗟についた両の手のひらがジンジンと熱を持った。頭が痛い。身体が怠い。取り立て屋が怖い。なんかもう、つかれた。——そんなことを思った瞬間、ぷつんとユウの中で何かの糸が切れる。
 色々な感情が一気に押し寄せて、途端に訳が分からなくなった。自然とじんわり視界が滲んでいく。「あ、れ……?」手の甲にポタポタと熱いものが落ち、そこで漸く今自分が泣いているのだと気が付いた。
「……。〜〜ッ、——……」
 人生は自力。
 この数年、ユウにとってそれは、少なくとも『いつか迎えに来てくれるであろう絵本の中の王子様』なんかよりもずっと日々を生き抜く指針となるものだった。
 けれど何故か、今日は違った。とにかくしんどくて苦しくて、立ち上がろうと思っても涙が止まらないのだ。心細くって仕方がなくて、一人が怖くて。久々の風邪のおかげで、完全に精神まで参ってしまっているようだった。
 ——ポケットの中でスマートフォンが振動したのは、ちょうどその時だ。継続する振動ではないから、電話ではないと分かる。けれど何となく気になって、ユウは緩慢な動きでポケットに手を伸ばした。辛うじて上体を起こし、四つん這いの体勢からぺたんと地面に座り直して、触れ慣れた硬い端末を引っ張りだす。白い指で液晶を軽くタップした。
【小エビちゃん、へーき?】
 そこに書かれていたのはフロイドからのメッセージだった。ユウはそれを見つめて、ずびっと鼻をいちど啜る。
 ——ちょっとでもキツかったら無理しないで連絡して。
 ふと、脳裏に先ほどの彼の言葉がよぎった。垂れた片金眼で真剣にユウを見据えつつ、言い聞かせるように伝えられたあの台詞。
 甘えても許されるのだろうか。考えながら、ユウは震える手でスマートフォンをタップした。画面の向こうでは『既読』の表示が付いたところだろう。
「……」
 とにかく、不安に押し潰されそうで仕方がなかった。ぼろぼろと涙を流し、嗚咽を漏らしながら液晶を見つめる。早く返信しなきゃ。頭ではそう思っているのに、けれど弱音を吐くことにも、吐かないことにも迷いがあって返信が出来ない。思考がまとまらず、ぐちゃぐちゃになる。
【起きてる? 何か欲しいモンあったら買ってくけど】
 ぽこん、とメッセージが追加された。
【オレ仕事サボりたい気分だからさあ、小エビちゃんトコ行くの、口実に使わせてよ】
「……ほしいもの、」
 まるでドラマでよく見る、身内に送るみたいなメッセージだ。そう思っていたら、おちゃらけたような追加のメッセージが送られてきて少しだけ気持ちが緩んだ。
「……ズッ」
 家の向こうから、再び扉が思い切り叩かれる気配がした。ユウはそれにびくりと身体を強張らせてから鼻を啜る。震える手で握り込むスマートフォンを改めて見つめると、意思を持って指を動かした。
【起きてます。あの、】
 タプタプと打ち込まれていく単語。マフィアにこんなことを頼むのは絶対間違っている。それは分かっているが、どういう訳かフロイドには——フロイドになら、頼める気がした。
【お時間あったらで良いので、少しだけそばにいてもらえませんか】
 一人が怖い。助けてほしい。
 シュポッ。散々迷った挙句時間を掛けて送った精一杯のSOSは、一瞬で既読が付き。
【良いよぉ】
 一拍置いたのち、そんな返事が返ってきた。

 さて。それから五分もしないうちに、外に居るマフィアたちの怒号が聞こえた。ドッタンバッタン派手な音が響いて、けれどややあって、フロイドの凄む声しか聞こえなくなって。
「泣いて縋れよ、ギャハハハッ!」
 何ともマア……ヴィランじみた声で楽しそうに彼はマフィアたちを追っ払ったようだったが。追い払ってくれたのなら別にそれで良い思うくらいには、ユウは疲れていた。
 実のところそもそもこのオンボロアパートには今、飴ちゃんをよくくれる、耳の遠い大家のミチおばあちゃんとユウしか住んでいないし、近隣住民とて所詮〝はぐれ者〟の寄せ集めみたいな人間ばっかりなのだ。取り立てなんて日常茶飯事で、気にされることはない。
 何はともあれ、彼はややあって玄関扉を開け、ビニール袋片手に現れた。
「お待たせ、小エビちゃん。大丈夫——」フロイドは革靴をゴツゴツ言わせながら、電気の点いていない廊下を進み。そうして転がったペットボトルを一瞥してから、ユウの方へと視線を向けて僅かに目を見開いた。呟くように言う。「……じゃ、なさそうだねえ」
 ややあって、フロイドはフ、と眉を下げて笑った。
「小エビちゃん」
「……ぁ。来てくれて、ありがと、ございます」
「ウン。……あーあー、そんなに目ぇ擦るなって」
 仕事を放り出して来たからか、フロイドは普段とは違って前髪をかき上げているヘアスタイルだった。彼は酒と香水の匂いを纏いながら、よっこらせとユウの前に屈むと。これでもかという程色っぽい、蕩けるような視線を向けて、ユウの頬を伝う涙を拭った。
「ほら、どーしたの。そんなに泣いたら溶けちゃうよぉ?」
「溶けないもん……」
「んっふ、急に何言ってんのコイツみたいな顔すんじゃんウケる」
 彼は膝の上で頬杖をつきながら僅かにくつくつと肩を揺らした。それでも尚相変わらずズビズビ泣いているユウの黒曜をたれた瞳で見つめると、「んもー、しょうがねーなぁ」と、もう片方の手でまろい頭をぽんと撫でる。やおら唐突に少女の脇と膝裏に手を差し込むと、軽々と横抱きにした。
「わぁ?!」
 突然の高さと浮遊感にギョッとしたユウは反射的にひしっと彼の胸を掴み、顔を上げる。薄暗い中で眇められた美しい双眸と目が合った。
「取り敢えず、あったかいトコ移動しよ」
「じ、自分で歩けます、」
「歩けないでしょ」フロイドは呆れたように言う。「ほら、病人は大人しく運ばれときな」

 フロイドはユウをリビングに連れて行くと、掛け布団が半分落っこちている安物のベッドにユウを横たわらせ、その上に改めて掛け布団を掛けた。買ってきたらしい冷えぴたをユウの額に貼り、床を拭き、風邪薬を飲ませて——「小エビちゃん腹減ってる? 何か食べられそう?」と問う。
「一応、ゼリーとアイスは買ってきたよ。あとは雑炊的なのも作れっけど」
「いえ。そんな、お構いなく……」
「ハ? やだけど。小エビちゃんが呼んだんじゃん。オレ、小エビちゃんの看病する」
「大丈夫……」
「大丈夫じゃねーだろ。するっつってんだからいいじゃん」
「ぅ、」
 ユウはたじろいだ。これ以上押し問答を続けると、恐らく近いうちにフロイドの表情が変わってしまう。確かに呼び出したのは自分だ。熱で頭が回らないのも事実だったので、ユウは諦めることにした。
「……じゃあ、雑炊をお願いします」
「あは、了解」
 ウキウキでユウのエプロンを身に着ける後ろ姿——ユウと三十センチほど身長差があるため、どう考えてもちょっとサイズが小さそうだ——をぼんやり眺め。ユウは何度かまばたきをした後、ゆっくりとまぶたを閉じた。
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