Ⅳ. 求愛


 嗅ぎなれた粉っぽい香りを吸い込みながら、無感動に黒板消しを握る手を動かす。目の前に広がっているのは深緑のブラックボードだ。つい一時間ほど前まで教師たちの解説がびっしり書き込まれ続けていたはずだが、それらはもうすっかり影も形もない。
「ユウ、じゃあねー!」
「うん、またね!」
 フロイドとの〝デート〟から、かれこれ二週間。
 中間テストがなんとか終わり、本日から部活動が解禁である。黒板消し片手に手を振ったユウは、開放感に溢れる表情で念願の部活動へと向かったクラスメートが教室をあとにした後、黒板全体を見渡してもう良いかと小さく息を吐いた。教壇に置いてあった日誌に手を伸ばし、取り敢えず書き込んでいく。ちなみに共に本日の日直の仕事をやるはずのエースは、「オレ今日早く部活に行かないとだから!」とか何とか言ってさっさと教室を出て行ってしまった。もう、今度教科書忘れても見せてあげないんだから。心の中で文句を言いつつ、仕事をさっさと済ませてしまおうと手を動かす。
「ねえ、ユウ」
「んー?」
 と、声を掛けてきたのは友人のアーネだ。一学年上だが仲の良い彼女とは、タイミングが合う日にはよく駅まで一緒に帰ったり、定期的に昼食を一緒に食べたりする仲である。今日は所属しているバトミントン部の活動が休みらしく、一緒に帰ることになっていた。一番前の窓際の席に腰掛け、頬杖をつきながら仕事が終わるのを待っていた彼女は、緩く返事を返したユウに「ちょっと気になってたんだけど——」とおもむろに切り出す。
「あなた、彼氏でも出来た?」
「……。……は?!」
 ユウはぎょっとして顔を上げた。思ったより声が響いて、慌てて口を噤む。教室に残っているのが二人だけだったことにひとまず胸を撫で下ろしてから、「き、急に何言ってるのアーネちゃん!」と小声に切り替えて友人の顔を見た。
「あれ? 違う?」
「違うよ!」
「えー。最近のユウなんだかちょっと楽しそうだし、テスト期間前くらいにユウが突然〝これ〟付けてきたとき、もしかして! って思ったんだけどなあ」
 今度文化祭のときに、紹介してもらおうと思ったのに。胸元まで伸びた、ウェーブがかった美しい赤髪を揺らしながら残念そうに呟いた彼女が手にしていた〝これ〟とは、ユウのスクールバッグに括り付けられている『たこやきクン』だった。吊目がちな少女のシルバーの瞳がそれを捉えているのを見て、ユウはぶんぶんと首を振る。
「変なこと言わないでよ。びっくりした……」
「だって気になるじゃない、親友の恋バナ♡」
「何も無いからね? 残念ながら」ユウは平べったい目をしてアーネを一瞥した。そして日誌に書き込んでいた手を止めると、顔を上げてクシャ! と顔を歪める。「……んもう、アーネちゃんが変なこと言うから何書こうとしてたか忘れちゃったじゃない」
「あはは。ごめんって」
 何はともあれ、その後残っていたやるべきことをあれこれ手伝ってくれたアーネのおかげで、仕事は思ったよりも早く終わった。教室を出て、少し傾いた日光が差し込む廊下を二人で歩く。
「日誌提出しなきゃ。ちょっと職員室寄ってくるね」
「オッケー。行ってらっしゃい。ここで待ってるわね」
 担任のクルーウェルが居るであろう職員室があるのは、昇降口のその先だ。ひらひらと手を振るアーネには昇降口で待っていて貰うことにして、ユウは一人先に進んだ。と、唐突にポケットの中のスマートフォンがブブ、と振動する。見ると、ロック画面に表示されたのはフロイドからのメッセージ。
【ごめん今日遅れるかも】
 画面をもう一度見て、瞬きをして。返信するために液晶をタップした、瞬間。
『あは。小エビちゃん、成長したんだもんね、、、、、、、、、?』
 唐突に思い出されたのは先日の記憶だった。後頭部に手を添えられて引き寄せられ、額にキスをしてからニイと両方の眦を眇めた、あの男の顔が浮かぶ。
「——ッ、!」
 ユウは反射的に足を止め、ガバッとスマートフォンから顔を上げた。何で今思い出すの?! 気にしないようにしていた筈のそれが思い浮かんだのを、慌てて首を振って振り払おうとする。うっかり頬が熱くなっていくのを感じた。
 フロイドはいつもの気まぐれでデートごっこなんてものをして、ただ単にユウの反応を楽しんでいただけだ。その時のことを未だに引き摺っているなんて本人に知られたら、どれだけ揶揄われるものか分かったものではない。
 ……もう。アーネちゃんが変なこと言うから。
 ユウは深呼吸すると、ふうと気持ちを整える。液晶をタップすると【分かりました】と送信し、端末をポケットにしまい直すなり、改めて職員室へと向かった。

   ❖

 カクンと舟を漕いだ感覚に、ユウはハッと目を覚ました。
 自宅アパート。そこに置かれた小さなちゃぶ台の前に座りながら、いつの間にかうっかり寝落ちしていたらしい。慌てて顔を上げると、先程まではオレンジ色だったはずの空が漆黒に染まっていた。未だ寝ぼけたままの頭を無理矢理切り替えながら立ち上がってカーテンを閉め、きょろきょろと辺りを見渡す。スマートフォンはちゃぶ台の下に転がるようにして落ちていた。恐らく寝落ちしたタイミングで取り落としたのだろう。
「通知は……来てない、か」
 ユウはしゃがみ込んでスマートフォンを取り上げると、メッセージを確認した。通知は真っさらなままで、記憶に残っている寝落ちする前と特段何も変わりがない。少しだけ困ったようにキッチンの方へ視線を移すと、そこに置かれている、たこ焼き器が収納されている箱を見た。「今日、来るかなあ」眉を下げて独り言ちる。
 きっかけは、テスト最終日が翌日に迫った夜——昨晩のことである。
『フロイドさん。あの、良かったら明日たこ焼きパーティーしませんか?』
『んえ。たこ焼きパーティー?』
 もうすっかり慣れつつある、手を繋いで浄化の儀式を行う一時間。翌日にも控えていたテストのため、手を繋ぎながら勉強を続けていたユウが『お話があります』とおもむろに切り出しそう述べたのは、その時だった。
『実は我が家、まだ一回も使ったことないんですけど、そこの冷蔵庫の上にたこ焼き器が置いてあって』
『何でンなもん持ってるワケ?』
『前にスーパーの福引きで当たったんです』
 ユウは言った。フロイドさんたこ焼きお好きみたいですし、明日の帰りに食材色々買っておくので、良かったら一緒にパーティーやりませんか、と。
 というのも彼女、今回のテストで大いにフロイドに助けられたと感じていたのだ。週に数回の訪問のうち、気分が良い日に時たま繰り出される物凄く分かりやすい解説のおかげで、苦手な勉強が以前よりもずっと捗ったのである。
『へえ? それでお礼してくれんの?』
『はい! それにあのたこ焼き器、一度使ってみたかったんですよね』
『つまりこのパーティー、小エビちゃんがやりたいってコトね』
『えへへ……』
 小エビちゃんのそういう馬鹿正直なトコ、嫌いじゃねーよ。
 フロイドは言いながら目を細めた。そして『ていうかさあ』と言葉を続ける。
『折角ならタコだけじゃなくて、色んなタネ入れようよ。飽きがこなくて良いし』
『色んなタネですか? えっと……ウインナーとか?』
『あは、良いね』シャラリ、と三連のピアスが揺れる。『色々やろうぜ。エビとかチーズとか牡蠣とか、あとは——トマト、ブロッコリー、苺、生クリーム、チョコ、アンチョビ、ポテトサラダ、こんにゃく……』
『ちょ、ちょっと待って下さい、流石にそれゲテモノ集めすぎじゃありません……?』
『良いじゃん楽しくね?』
『えええ……』
 昨晩の出来事をそこまで回顧したユウは、うーん、と困ったようにスマートフォンの時計を見た。目が覚めてからしばらく待っているが、やっぱりフロイドが現れる気配はない。マア元来気紛れな男であるし、そもそも本日のは契約上の話ではなく簡単な口約束だ。もしかしたら今日は来ないのかもしれないなあと思いつつ、ユウは取り敢えずテスト期間中に溜めがちだった家事をやって待つことにした(座っているだけだとまた寝てしまいそうだと思ったのだ)。そうして軽く床掃除を終え、ふあ……とあくびを一つした、その時。
 ピンポーン。唐突に、部屋のチャイムが鳴り響いた。
 ユウはハッとして玄関の方へと視線を向ける。来たのだろうか。それともまさか、別の取り立て屋だったり……? 彼女はいつものように呼吸をひそめた。物音を立てないようにして扉まで向かうと、そっと背伸びして覗き穴を見る。映ったのはターコイズブルーの髪——フロイドだ。ユウは身体を離すと、解錠して扉を開けた。
「こんばんは」
 いつものようにそう言いながらひょこりと顔を覗かせると、冷えた外気が頬やら首筋を撫でた。少女はそのままフロイドを中に入れようと顔を上げ……しかしその瞬間、えっ、と大きく目を見開いた。
「フロイド、さん……?」
 ——フロイドはどういう訳か血濡れていて、見るからに満身創痍だったのである。
「な、なに、どうしたんですか」
「……ごめん取り敢えず入れて。一応撒いたけど尾行されてたら厄介」
「!」
 訳が分からず声を掛けたユウに、フロイドは圧倒的な鋭い雰囲気を纏いながら低い声で言う。ヒューヒューと明らかに通常とは異なる呼吸音が聞こえて、ユウは我に返るとコクコク頷きながら慌てて従った。今にもずり落ちそうになっているフロイドのバッグを代わりに持ってやり、彼が家の中に入ったことを確認すると、急いで鍵を掛ける。一応もう一度覗き穴を覗いたが、見たところ外に誰かが居る気配はなかった。
「あの、お怪我は——」
 ユウはほっとして胸を撫で下ろした。けれどそれもつかの間、背後を振り返ったのと同時に、ドサッと鈍い音が廊下に鈍く響く。
 お世辞にも決して広いとは言えない玄関。フロイドはそこに膝を付き、今にも倒れ込みそうになっていた。呼吸は苦しそうで、苦しそうな喘鳴が響き渡る。
「なっ、」
 ユウは悲鳴を上げそうになったのを必死に堪え、慌てて男に駆け寄った。大丈夫ですか?! 極力小さな、けれど焦りを含んだ口調で声をかければ、フロイドは壁に手を付きつつしんどそうに起き上がる。瞬間、何かがバリリと鈍い音を立てた。何の音だろうか。ユウが考える前に、小エビちゃん、とフロイドは辛うじて口を開く。
「……血は、返り血だから平気。それより、風呂場に、さ」
「お風呂場ですか?」
「水」
「へ、」
「水、張って……」
「わっ」
 糸が切れたように倒れ込みそうになったフロイドの巨躯を、慌てて肩を組むような体勢で支える。刹那ピリリと頬に切れたような痛みが走ったが、気にしている余裕なんてものはなかった。何せ、意識の殆どない人間というのは想像以上に重いのだ。それでなくてもフロイドは、元々ユウと体格差がありすぎる訳で。ユウは自分も倒れ込みそうになった足をどうにかこうにか踏ん張って、汗をビチョビチョにかきながら耐えた。何が起こっているのか訳が分からない。分からないが、とにかく言われた通り風呂場を目指す。
「っは、はあ……は、……」
 普段なら数歩で辿り着くはずの風呂場に辿り着いたのは結局、それからしばらく経ってからのことだった。
 ユウはタックルでもするかの如き勢いで扉を開ける。すると真っ先に視界に飛び込んできたのは、白を基調にまとめられた真向かいの洗面台だ。それに見向きもせず左手を向けば、そこにあるのは見慣れたシャワー付き浴槽。
 彼女はまず真っ先にシャワーのノブを思い切りひねり、次いで濡れるのも構わず屈んでバスタブに栓をした。大雨みたいに降り注ぐそれが溜まり始めたことを確認した瞬間——辛うじて支えていたフロイドが突然、バスタブへと重心を傾ける。
「っわあ、?!」
 当然ユウの力では支え切れず、フロイドはバチャンと雪崩込むように落っこちた。シャワーの水を一気に引っ被った衣服は水を吸い、重たくなったのが分かるくらいに変色していく。フロイドさん! ユウは慌てて、シャワーの矛先を顔に水が掛からない位置へとずらした。水音が響く中彼の方へと視線を移すと——けれどそこで、はたと固まって動きを止める。
 浴槽に、いかにも窮屈そうに長い脚を折り畳みながら座っているフロイド。その濡れたターコイズブルーの髪から覗く耳が、丸っこい人間の耳ではなく、いつの間にか髪色とよく似た色の、大きくて鋭利なものに変化していたのだ。水掻きのような構造になっているそれは、間違っても人間のそれではない。
「え……?」
 どういうこと? 何が何だか分からず混乱するユウの視線の先で、フロイドが辛うじて目を開けた。ユウが困惑している原因については気付いていないようで、肩を上下させてヒューヒューと呼吸をしつつ、ユウの肩に掛かっている己のバッグを見る。
「ね。ジェイドに、連絡……してくんね」その視線につられるようにバッグを見たユウに、フロイドは言った。「マジカメに、さぁ、連絡先あるから」
 ジェイドさん。ユウは頭の中でその名前を検索した。そうだ、確かフロイドさんの兄弟の。慌てて頷いて鞄を開けて、スマートフォンを取り出す。『1105』——言われた通りのパスワードを入力してロックを解除すると、マジカメの連絡先一覧からそれと思しきものを発見し、通話ボタンを押して待った。数回のコール音の後、『どうしました、フロイド』とマフィアとは思えぬ上品な声が聞こえた。
「あの、えっと——こんばんは。ジェイドさん……ですか? フロイドさんのご兄弟の」
『……』瞬間、電話越しに纏う空気が警戒しているそれに変わる。『ええ。そうですが……失礼、貴方は? これは僕のきょうだいのスマートフォンの筈ですが』
「フロイドさんの携帯で合ってます。はじめまして、ユウといいます」
 戸惑っている余裕はない。初めこそ狼狽えたものの、目の前の苦しそうなフロイドの様子を見てそう思ったユウは、挨拶は手短に済ませたのち現在の状況を自分なりに一生懸命端的に説明をした。
 よく分からないが、フロイドが満身創痍で現れたこと。
 いつの間にか耳の形と色が突然変わっていたこと。
 なんだか呼吸が苦しそうなこと。
 今はバスタブで眠っていて、ジェイドに連絡してと言われたこと。
『……なるほど』それを聞いて、ジェイドは色々と思うところがあるらしかった。『畏まりました、すぐにそちらへ向かいます』と電話越しに述べる。
「あの、住所なんですけど」
『把握しているので大丈夫ですよ』
「エッ。あ、ハイ……」
 何も大丈夫ではないが、突っ込む気も起きない。
 ユウは内心溜息を吐いた。よくよく考えると、今から自宅に更なるマフィアを呼んで、これから部屋に招き入れようとしている状況だ。普通に嫌である。が、かといって何だかんだ顔見知りになってしまったフロイドをこのまま放り出すのは気が引けた。というか、放り出そうにも今のフロイドは歩けなさそうだし……。
「……」
 頭痛がした。ユウは考えるのを放棄したくなってきて、平べったい目をする。万が一ジェイドとやらに取り立てされそうになったら、フロイドと取り引きしていると言ってみよう(口約束だけど)。それで駄目だったら、まあ。その時はまた考えることにして……。取り敢えずそれで良いや。心の中で結論付けることにした。
『——ところでユウさん。貴方は先程、今フロイドが居るバスタブ内にシャワーで水を溜めていると仰っていましたが』
 と、ジェイドの声が聞こえた。ユウは我に返って、耳元に意識を集中させる。
『は、はい』
『もし宜しければお湯ではなく、冷水をお願いします』
『え?』
『僕たちの適正温度ですので』
 では。
 一方的に切れた通話画面を見て、ユウはぽかんとした。適正温度? 水が……?? 頭の上に疑問符を浮かべたのと同時、ふと足先に何かが当たった感覚がする。彼女は反射的に、足元へと視線を向けた。
 キラキラと光る、青色のひし形のもの——それは、彼がいつも右の耳元で揺らしていたピアスだった。いつの間にか外れて床に落ちている。彼女はそれを拾おうと手を伸ばして——視界の端に映り込んだ光景に再び瞠目した。
「……。……えっ?」
 目の前の視覚情報がうまく理解できなくて、ユウははたと固まった。ザーザーと水の音が響くシャワールーム内でパチパチと目を瞬くと、ゆっくりと視線をフロイドへと移す。
 お世辞にも広いとはいえない真白のバスタブ。その中に横たわっていたフロイドの姿はいつの間にか、先程までと大きく異なっていた。
 上半身は人間らしい面影を残しているものの、問題は下半身だ。裂けてしまったらしい衣服がようやく溜まり始めた水面に浮かび、明らかに人間のものとは異なる皮膚がぬめりけを帯びている。例えるならイルカやシャチのような質量のありそうな身体が、バスタブに入り切らずにピアスの近くまで垂れ下がっていた。——尾ひれだ、、、、。いつもの意味が分からないくらいに長い脚ではなく、ターコイズブルーの重たそうな一本の尾ひれが。入り切らずに、床に垂れるようにしてそこにあった。
「……、」
 ユウは息を呑んで、その尾ひれを凝視した。そのまま導線を伝うかのように視線を上へ上へと動かしていき、やがてフロイドの顔を見やる。
 目の前に居たのは、紛れもない人魚だった。ヒト族とは明らかに、体長もディティールも違う。彼の肌の色は髪色とよく似たターコイズブルーが主になっていて、五本の指それぞれに付いているのは水掻きと鋭い爪だった。人魚という種族をユウは生まれて初めて見たが、その圧倒的な存在感に呑まれて思わず凝視してしまう。
 ——もし宜しければお湯ではなく、冷水をお願いします、僕たちの適正温度ですので。
 ふと、ユウは先程のジェイドの言葉を思い出した。お湯じゃなくて水。その意味を、混乱している頭でぼんやりと理解する。よく分からないが、もしかしてフロイドは人魚なのだろうか。人魚なら確かに、湯に浸かっているイメージはない。
 バスタブを確認すると湯は既に五センチほど既に溜まっており、僅かな湯気と湿気が部屋を包んでいた。ユウは濡れない場所に鞄とピアスを置くと、浴槽に手をついてつま先立ちをしながらもう片方の手を伸ばす。フロイドの尾ひれがあるぶん先程までよりも手をつく場所が不安定だったが、辛うじてシャワーの水温調整用のノブを掴むことができた。温水から冷水に。一気に温度を変更すると、水温を確認するために湯船へと手を伸ばそうとして——つるん。
「うわっ、」
 まずいと思ったのも束の間、バスタブを掴む手が滑り、支えが鈍る。顔から湯船に突っ込みそうになって、ユウは反射的に目を瞑った。しかし直後に訪れたのは、衝撃でも顔面着水でもなく腹への圧迫感。「ウグ」可愛さの欠片もない声を上げた彼女は直後、自分の腹に尾周りに尾ひれが巻き付き、僅かに身体が浮いていることに気が付いて瞠目した。次の瞬間、聞き慣れた声が浴室に響く。
「っぶねえ……びびった」
「!」
「目ぇ開けたら小エビちゃん、浴槽に顔面から突っ込みそうになってるんだもん。へーき?」
「し、絞まってます……ウエストが……」
「ア。わり」
 思いの外丁寧に降ろされたかと思えば、ずるりと太い尾ひれが腹回りから離れていく。バスタブに入り切らないそれらは、ユウの太もものあたりでゆらゆらと揺れていた。顔を上げると、オリーブとゴールドの双眸と目が合う。その顔は先程までよりもずっと元気そうで、苦しそうだった呼吸も落ち着いていた。
「げほ……もう大丈夫なんですか」
「ウン、死にかけの状態は回避したァ。小エビちゃんのおかげ。水分足りてなくてさあ、危うく干からびるとこだったの。ありがとねえ」
「……」
 ユウはぼんやりフロイドの回答を聞いていたが、ややあって視線を動かすと足元を見た。高い所に物を収納する時用として、たまたまこの部屋に置いてある踏み台。それを一瞥すると、よろよろとそこに腰掛けた。流石に濡れた身体が寒くなってきたところだったので、棚からバスタオルを一枚引っ張り出して頭から被りながら息を吐く。
「大丈夫なら、良いんですけど」一気に緊張が解けて、疲労感が襲ってくるのを感じる。「良かった……何事かと思いました……」
 彼女は胡乱気に顔を上げて、ジェイドに連絡をしたこと、すぐに来てくれると言っていたことを説明した。
「その電話を終えてフロイドさんを見たら、いつの間にかこの姿になっていたんです」
 そう述べると、「あー、ね。詳しい成分は調査しねーと分かんないけど……変身解除薬浴びせられたっぽくてさァ」と回答が返ってくる。
「変身解除薬……」
「そ」肘をバスタブに凭れさせて、もう片方の手で前髪をグイとかき上げながら彼は頷く。「さっきやりあった組織の奴がさ、隙をついてぶっ掛けてきやがったの。オレのコト道端で干からびさせて弱らせて殺そうと思ったんだろうけど——あは、ザンネンだよねえ。その前にてめえが死んじゃ訳無いのに」
「ひえ……」
「でもマア、オレ予備の変身薬は今持ってないからさあ。どっちにしろジェイドに来て貰わないと、人間の姿に戻れねーんだけどさ」
 そう言って肩を竦めたフロイドの話を聞きながら、ユウはかつて授業でかじった程度の変身解除薬の知識をぼんやりと思い返した。口を開こうとして——その前に、バスタブにだいぶ水が溜まっていることに気が付く。水、止めても良いですか? 問うと、「小エビちゃん落っこちるからオレがやるー」とフロイドはあっさり手を伸ばしてシャワーを止めた。一瞬で静かになったバスルーム。フロイドの身体が揺れるたび、ちゃぷ、と水が波打った。
「……」
 ユウは改めてフロイドの体躯を見る。そして暫くして、そっと顔を上げた。
「フロイドさん。あの、ひとつ聞きたいことがあるんですけど」
「んー?」
「……フロイドさんは、人魚なんですか?」
「……」
 ゴールドとオリーブが緩く瞬かれる。
 フロイドはジッと凪いだ目でユウを見ていた。何を考えているのか分からない、まるでブルーホールみたいに底の見えない瞳だ。はみ出た尾ひれは貫禄があり、サバンナの王であるライオンの尻尾みたいにゆらゆらと揺らめいている。
「そうだよ」鋭利な歯列を覗かせて彼は言う。「オレねえ、ウツボの人魚なの」
「ウツボの、人魚」
「小エビちゃん、人魚見るの初めて?」
「はい」
「ふうん」
 ぽた。被っているバスタオルの中で、前髪を伝った水が彼女の鼻先を掠める。
 フロイドは目を獰猛に眇めた。人ならざるものだからだろうか。それとも、先ほどまで別の組織とやらと死闘をしていたからだろうか。ユウには何だか、彼の纏う空気がいつもよりピリついている気がした。シャワーを止めてしまったせいでとにかく静かだ。ひたすらに無言の時間が流れる。
「……あ、の」
「ン?」
「もし、駄目だったら——その。全然断って頂いて構わないんですけど、」
 視線だけで続きを促される。ユウは僅かに逡巡すると、恐る恐る口を開いた。黒曜の瞳とヘテロクロミアが交錯する。
「フロイドさんの身体、良かったら触らせて頂けませんか」
「——は?」
「や、決していやらしい意味とかではなくてですね! ……そ、の——凄く格好良くて綺麗だなあと思って。私、人魚さんって初めてこんなに近くで見たから……」
 フロイドは固まった。連動して、ゆらゆらと揺れていた尾ひれの動きも止まる。大きく目を見開いた。
「……」
「す、すみません嫌ですよね!」
 何でもないです、忘れてください!
 早口でそう言うユウを見て、フロイドはぽかんとした。本当に意味が分からなかったのだ。
 だってそもそも基本的に、人間にとって人魚というのは恐れられる存在だ。それなのに、この少女は開口一番『触ってみたい』なんてのたまう。
「……」
 フロイドは呆れたような目でユウを見た。この少女、この歳の一般人にしては恐らく、人生の中でそれなりに修羅場を潜り抜けてきたと思うのだが——にも拘わらずどこか抜けているというか、お人好しというか。マアきっと、両者なのだろう。そもそも普通の人間は初めからマフィアに夕飯を作ることはしないし、こうして死にかけている自分の取り立て屋を介抱したりしない。
 ——ああ、やっぱり面白い。
 フロイドは思う。
 飽きないのだ。見ていると目が離せなくなって、ワクワクする感じ。
「小エビちゃんってさ」どんどん自分の気分が上昇していくのを感じながら、フロイドはおもむろに口を開いた。「なんかぁ、すげーバカだよね」
「きゅ、急な悪口ですね……」
「だってさあ。普通は人魚のコト、触りたいなんて言わねーよ? そんなの自殺行為。何されるか分かんねえもん」
「エッ」
「でも、良いよ。触らせたげる。オレいま気分良いからさ」フロイドは口の両端を上げた。「あは。小エビちゃんにだけ、トクベツね」
 フロイドの尾ひれは、ユウが想像していたよりも弾力があった。恐らく筋肉量が多いのだろう。自分の腕よりもずうっと太くてたくましいそれに「失礼します」と謎の気合い兼断りを入れて触れた彼女は、暫くすると目を輝かせて「わ、すごい……!」なんて言ったものだから、フロイドは可笑しくってケラケラ笑った。ただの人魚の尾ひれだ、別に凄かないだろうに。
 そして肌同士が触れ合っているということは、『死の轍』の浄化も進む。そういう訳で、フロイドの腕で相変わらず真っ黒に染まっていた魔法石は、ユウが満足して踏み台に座り直した時には少しだけクリアカラーが覗くようになっていた。この季節にずうっと濡れ鼠だったせいで流石にユウが寒そうだったので、フロイドは取り敢えず乾燥魔法を掛けてやる。唇を始めとして青白くなりつつあった顔色は、それでようやく色を取り戻しつつあった。
「そうだ、着替えていなかったんでした。ありがとうございます」
「このくらい別に良いけどさぁ。小エビちゃん、弱っちいんだから気を付けな? そのうち風邪引くよ?」
「あはは……」
「あと、もう一つ。ちょっとこっち向いて」
「へ。——わ、」
 彼はそう言ってユウの腕を引っ張ると、突然顔を覗き込んで顎の辺りに触れた。鋭い爪のついた手で、傷付けないよう器用にそっと触れているのが分かる。な、なに⁈ 途端ユウの脳裏に浮かぶのは、先日のゲームセンターでの一件だ。よく分からないけど、またキスされる⁈ どうすれば良いのか分からず、固まって——一拍。フロイドは指の腹でそっとユウの頬に触れ、撫でるような仕草をした。
「ン、これでよし」
「へ……?」
「さっきから気になってたンだよね。多分、オレの耳か何かで小エビちゃんのほっぺ引っ掻いちゃったんじゃねーかな。血出てたから魔法で治した。ごめんね」
「えっ。あ、」
 ソウデスカ……。ユウはカタコトでそう言って、ぺた、と己の頬に触れた。そう言われれば確かに、先ほどピリッと痛みが走ったような気がしなくもない。が、それよりも今は羞恥心が勝つ。
「……」
 フロイドは突然黙り込んでしまったユウをじっと見た。ややあって何かに気がつくと、「あ」と声を上げる。
「あは、なーに? もしかして、またチューされると思ったぁ?」
「っ……!」
「んはは、分かりやす。チューする?」
「し、しませんっ!」
 ユウは頬を真っ赤に染める。口をへの字に曲げて、ぽかぽかとちいちゃな手でフロイドの尾ひれを叩いた。

 それから二人はジェイドがアパートにやって来るまで、いつもみたいにバスルームで手を繋ぎながら、映画鑑賞をしつつ待つことにした。もうすっかり忘れかけていたが、本来なら今日はたこやきパーティーをする筈だった日だ。珍しくスーパーでりんごジュースを買って帰ってきたことを思い出したユウにより、バスルームに冷えたりんごジュースが運び込まれた。(ちなみに水面に浮かんでいたフロイドの服の残骸は、魔法で綺麗さっぱり取り払われた。)
 しかしここで問題が発生した。バスタブを挟んで手を繋ぐというのは、思ったよりもやりにくかったのだ。
「んー。じゃあさ、小エビちゃんオレの上に来なよ」
「上……上?」
「そ、上〜」
 フロイドはにっこりそう言うなり、ユウに二種類の魔法を掛けた。防寒魔法と、防水魔法。そうしてポカンと立ち尽くすユウを見上げると、腕を広げて小首を傾げる。「はい、どーぞ。来て?」
「いや、いやいや。流石にそれは」
「えーなんで。こっち来た方がさあ、小エビちゃんと手繋ぐの楽だしお互い映画見やすいし、小エビちゃんが映画観ながらビクッてなってもすぐ分かっておもしれってなるじゃん」
「……やりたい理由、八割は最後に言ったやつが目的ですよね」
「はは」
 フロイドは悪びれもなく笑った。
「ね、ほら早く。早くしないと、ジェイド帰ってきて観る時間無くなっちゃうよ?」
「……もし断ったら?」
「んー、大音量でホラー映画流す」
「う゛……」ユウはぎくりとした。ホラー映画は苦手なのだ。一人暮らしだから、夜になると怖くって堪らなくなるのである。
 そういう訳でユウは早々に諦め、フロイドに抱き抱えられる形で映画鑑賞をすることになった。恐る恐る人魚が詰め込まれたバスタブに足を入れたと思えば、あっという間にフロイドの胸に飛び込む形になり。気が付いた時には、鍛え上げられている腹筋に背中を預けながらアクション映画を鑑賞していた。
「寒くない?」
「はい。やっぱり魔法って凄いですね。水が冷たくないし洋服が濡れもしないって……なんか、変な感じ」
「マア、そんな長時間は保たせらんないから限定的な魔法だけどねえ。……あ、小エビちゃん。そこに置いてあるりんごジュース取って」
「分かりました」
 ユウは身を乗り出し、バスタブの縁に置かれていたトレーに手を伸ばす。フロイドが手渡されたそれを受け取ると、彼女も自分の分を手に取った。
 腕の中のユウは実に楽しげだ。流石というか何というか、先ほどまでの躊躇いはどこへいったのやら、あっさりバスタブの中で映画を楽しんでいる。
「ふふ。バスルームでの飲食って、なんだか背徳感があってちょっとワクワクします」
「そお?」
 そんな背徳感なんかより何百倍も悪いコトしてる奴の腕に、今こうして抱かれてるのにねえ。フロイドはそんなことを思いながらユウのつむじを見下ろし、フと笑みを浮かべると。可愛らしいコップに入れられたりんごジュースを、グイッと一口嚥下した。
 それからどれくらい経っただろうか。ぼーっと映画を眺めていると、ふと、フロイドの眼下で影がゆらりと揺れた。彼はちらりと下を見やる。そして片眉を上げると、ゆっくりと身を乗り出した。
「……小エビちゃん?」
「……」
「んえ。寝ちゃった?」
 マジで? とフロイドは思う。けれど何度か呼び掛けても、ユウは時たま舟を漕ぐだけで返事は返ってこなかった。魔法で映画を止めると、一気にシンと静まり返る室内。聞こえてくるのはスウスウと穏やかな息遣いだけだ。柔らかな頬のラインと豊満なまつ毛がチラッと見えて、背中から伝わる温かさがフロイドにじんわりと伝わる。彼はそれを見て、呆れたように眉を下げた。悩ましげに、色気たっぷりに天井を仰ぎながら、呟くように言う。
「……いや、警戒心無さすぎじゃねえ?」
 仮にも自分の元に金を取り立てに来ているマフィアの前だぞ、と思う。たとえばフロイドが今その気になれば、ひ弱な小エビなんぞあっという間に、どこかに売り飛ばされることも臓器を抜き取られることも、犯されることも食い殺されることも有り得るというのに。
「……」
 彼は困ったようにカリカリこめかみを掻いた。
 つーかそもそもオレ、何でこんなコトしてんだっけ。ぼんやり思いながら、少女のつむじを見下ろす。
 美人の部類だが特に絶世の美女というわけでもなければ、特段胸が大きい訳でも脚が長い訳でもなく、そこまで頭が良い訳でもない。おまけに金銭は悲劇的なほど持っていないし、そもそもオクタヴィネルから金を借りるだけ借りてトンズラしようとしている債務者の娘だ。
 それなのにこの数週間、フロイドはこの小エビに飽きることも突き放すことも母親の代わりに法律ギリギリアウトの店で働かせることも無く、ダラダラと仲良しこよしの関係を続けている。どうしてだか気に入っているのだ。エビらしく何処へでもピチピチ飛び跳ねて動き回る彼女を、気が付いたら目で追っているし構ってしまうし、今日だって死にかけながら、いつの間にかここに来ていたし。……
「フロイド」
「んあ」
 と、バスルームの入り口から声が聞こえた。フロイドはゆるゆると顔を上げて、声のした方を見る。
 こんにちは。そこに当たり前のように立っていたのはジェイドだった。吊り目がちなオッドアイと視線が交錯する。
「無事ですか?」
「無事〜。小エビちゃんが水張ってくれたから」
「小エビさん——ああ、彼女が噂のユウさんですか」ジェイドは、フロイドの胸の中への視線をすべらせた。家を特定して鍵まであっさり突破しているというのに、白々しい男である。「随分と面白いことになっていますね。貴方が誰かにベタベタ身体を触らせるなんて」
「別にぃ……あ、写真撮んなし」
「ふふ。アズールとチャドに見せたら喜びそうなので」
 カシャカシャと遠慮なく写真を撮ったのちニッコリと笑みを浮かべたジェイドは、それからスマートフォンを何度か操作するとポケットに仕舞った。
「さて」
 切り替えるように言うと、「一応変身薬は持ってきましたが……」とプラスチック容器を取り出し、顔を上げる。
「その前に、取り敢えず簡易的な検査をしたほうが良いでしょうね」
「だろーねぇ」
 今回人間の姿になる為の変身薬を処方するには、まず初めにフロイドが被った変身解除薬の成分を調べることが必要だというのが二人の意見だった。普段使用している変身解除薬ならいざ知らず、敵対組織の人間が所持していた変身解除薬を被ったすぐ後に変身薬を使用した場合、どんな副作用が起こるか分からないからだ。
 ジェイドは注射器を取り出すと、慣れた手つきでフロイドに向ける。フロイドも慣れたように腕を見せ、採血に応じた。あっという間に検体が採り終わる。ジェイドは専用の魔導具を何もない空間から出現させると、その中に検体を入れ、何やら解析を開始した。魔導具は浮遊しながらジェイドの付近で浮かんでいて、現時点ではうんともすんとも言わない。
「結果分かるまでどんくらい掛かる?」
「五分ほどです」
「おっけ」
 はたして、きっちり五分後には検査結果が出た。ジェイドは成分を目を細めて見たのち、幾つか調合されていた変身薬のうちの一つを手に取って手渡す。「こちらで大丈夫かと」
「ありがと」
 フロイドは魔法薬と新しい服を受け取ると、腕の中の小エビを見た。
「小エビちゃあん。オレ人間に戻るからさあ、起きて。全裸の男に抱っこされてても良いワケ?」
「んん……」
「起きませんね」
「あ゛ー……テスト勉強で最近徹夜したからだろうねえ」
「テスト勉強」
「そ。今日中間テストだったんだってサ」
 フロイドはガシガシ後頭部を掻いた。ったくもー。困ったように言うと、ジェイドを見上げる。
「ジェイドぉ、小エビちゃんのコト抱っこしてて。オレ着替えるから」
「はあ、構いませんが。……貴方が飽きることなく、誰かにここまで関心を寄せるとは珍しい。彼女に対してかなりの入れ込みようですね。気に入っているんです?」
「んえ?」
「定期的にここへ通っていますし、最近小エビさんの話をよく聞きますから」
「んー、……まあね」
 ジェイドはフロイドを見つめたのち、手を伸ばすと彼からユウを受け取って横抱きにした。想像よりもずっと軽い痩躯に片眉を上げて、まじまじと少女の顔を覗き込む。その横でフロイドは魔法薬を呷り、バシャバシャ浴槽から上がり。ユウと手を繋いでいたおかげで魔法はほとんど使えるようになっていたので、乾燥魔法で体を乾かした。よっこいせ、と服を着る。
「ぅ……」
 別にきょうだいの着替えを見ていたところで面白いことはない。そう思ったジェイドがバスルームを出てリビングに到着したタイミングで、ユウがおもむろに目を開けた。目が覚めたというより、寝惚けているといったほうが正しい。とろんとした目だった。暖色がちな電球の明かりに照らされて、ぼんやりジェイドを見上げる。
「おや。お目覚めですか?」
「……。ん……ふろいど、さん、?」
「ふふ。残念ながら僕はフロイドではありません」
「……?」
 ユウは寝惚けたままだったので、生まれたての仔犬みたいな真ん丸な瞳でジェイドをキョトンと見上げた。ジェイドはそれを見つめて、スッと目線を細める。
「小エビちゃん起きたぁ?」
 着替えを済ませたフロイドがやって来た。ダボダボのグレーのスウェットにブラックのジョガーパンツという、さっぱりとした格好だ。
「まだ寝惚けているようです。僕のことをフロイドと勘違いしているようで」
「ハァ? えー、有り得ねえんだけど」
 彼は踵が完全に飛び出ているスリッパ——以前ユウが用意してくれたものの、サイズが全く合わなかったのだ——を引っ掛けながらジェイドの元までやって来ると、呆れたように小エビを覗き込んだ。いつの間にか再び目を閉じてしまった彼女の顔を一瞥すると、その痩躯をジェイドのから回収して横抱きにする。
「無防備ですね、彼女。捕食者僕たちの前で眠りこけるとは、相当肝が据わっているというかなんというか」
 ジェイドは面白そうにそう言ってクスクス笑う。
「随分と愚かで可愛らしい。フロイドが飽きて取り立てをする気分では無くなったら、僕が代わりにこの家まで通うのも良いかもしれません」
「え」
「食いではほとんど無さそうですが、それなりに楽しめそうですし。ふふ。僕たち二人で分け合ったら、あっという間に食べ尽くしてしまいそうですが」
「……ハ?」
 ユウを見下ろしていたフロイドは低い声でそう言うと、ギロリと顔を上げた。睨みつけるようにジェイドを見ると、「何言ってんの」と言う。
「ジェイドにはやんねーよ」
「おや……、駄目なんですか?」
「んなの、当たり前——」言いかけたフロイドは、『嫌だ』とはっきり思った自分に気がつきピタリと固まる。いや、なんで。べつにオレが取り立てなくたっていいじゃん。小エビじゃなくたって、呪いを解く為の女は別口で探してくれば良いし、つーかジェイドの方が、イソギンチャクどものコト精神的に追い詰めんの上手いし——。
「あ、れ、フロイドさん……って、ぅわ、エ⁈ 私もしかして寝てました⁈」
 ユウが目を覚ました。フロイドはハッとして、横抱きにされている事実に気付いて混乱している様子のユウを見下ろす。反射的に平静を装った。わざとらしく口端を上げると、ちいちゃな痩躯を下ろして言う。
「……あは。おはよ。ガッツリ寝てたよ」
「す、すみません。フロイドさんに背中を預けてたら心地良くて、ついうっかり——」ユウは言いかけて言葉を止めた。きょとんとしたように視線をすべらせると、そこに立っていたもう一人の二メートル近い男の存在に気がついて「ワ⁈」と声をあげ、反射的に一歩後ずさる。他に誰かがいるなんて思いもしなかったのだろう。寝起きの混乱した頭でフロイドとジェイドをいちどずつ見比べると、パチパチと目を瞬いた。「あ……えっ、と、ジェイドさん、?」
「ええ。改めまして初めまして、ユウさん。ジェイド・リーチと申します」ジェイドは慇懃な仕草で胸に手を当てながら、マナー教本のお手本みたいな角度で軽く会釈をした。さながらホテルマンだ。フロイドとは対照的な吊り目がちの瞳をスッと細めると、言葉を続ける。「この度は僕のきょうだいを助けて下さってありがとうございました」
 兄弟とは聞いていたけど、二人は双子だったんだ。ジェイドをぼうっと眺めていたユウは、ややあって「ん?」と首を傾げた。助ける……? その言葉でようやく、彼女の頭の中でフロイドが人魚に戻っているという事実が思い出される。今度はパッとフロイドの方を見ると、大きく目を見開いた。
「フロイドさん! バスタブから出られるようになったんですね」
「っふ、気付くのおそ。出られたよぉ。ありがとうね、小エビちゃん」
「もう……めちゃくちゃびっくりしたんですよ」彼女は溜息を吐いた。けれどややあって「でも」と言葉を続ける。安堵を含んだ表情で、ふにゃりと柔らかな笑みを浮かべた。「良かったぁ。無事で良かったです」
「……——、」
 フロイドは固まった。そうしてコンマ一秒後、あれ、と思う。
 ジェイドにすら小エビを取られたくない理由。飽きずにここに通ってしまう理由。
 手放したくない、理由。
 ——オレ、小エビちゃんのこと好きかも。
「キュー、キュルル。……、ッ!」
 刹那、フロイドは突然のことにギョッして口を押さえた。突拍子もないことを思ったのと同時、突然自分の意思とは関係なく喉が鳴ったのだ。ジェイドが僅かに目を見開いてフロイドを見る。そりゃあそうだ。きょうだいが突然求愛、、なんて始めたら、誰だって驚く。
「あれ……それって人魚の鳴き声ですか?」
「エ。あ、」
「わあ、初めて聞きました」
「ウン、ソウダネ」
 カタコトで話しながらタジタジになっているフロイドを放心状態で見ていたジェイドは、しばらく放心していたが。まさか自分が求愛されているなんて夢にも思っていないユウがキラキラとした目でフロイドを見上げているのを見て、ウッカリ吹き出した。フロイドが真っ赤になっていく様子に、おやおやと思いながら口元に手を添える。
 ——これはまた、随分と面白いものが見られそうだ。
「んっふふふふふ。ふふふふ、ふふふふふ」
「え——ジェイドさん、めちゃくちゃ笑ってますけど、どうしたんです……?」
「……無視しな、無視。きっと毒キノコの食べ過ぎで頭おかしいだけだから」
「はあ。……えッ、毒キノコ?」
 困惑するユウと爆笑するジェイドの隣で、フロイドは耳まで真っ赤に染める。
 好き。好き? 好きって何。オレが小エビを? この子のことを??
「……。……——ッッ、いや、ちょっと待って、」
 小さく呟く。ゆっくり顔を上げて、ぽかんとしているユウの横顔を見て、そして。
 ……マジで?
 ドッと汗をかいた。
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