茨の檻
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「……ぅ……ん……」
意識が浮上しても思考はぼんやりとしたままで、身体には重い倦怠感がまとわりついていた。夜明けの気配を感じ取ったからかと思いつつ、結理はゆっくりと深呼吸をする。途端に夢も見ないほど深く眠ったにも関わらず、身体のそこかしこに軋むような鈍痛が走った。
昨夜受けた“仕打ち“が悪夢でなかったことに盛大に舌打ちをし、気持ちだけで言えば怒りと羞恥とその他諸々でのたうち回りたかったが、寝返りを打つのすら億劫で動けそうにない。
(これ……もう一回寝た方がいいかも……)
胸中で呻きつつなんともなしに首だけで横を向くと、
「…………」
「…………」
小さな瞳と目が合った。
瞳の持ち主である犬は、ご機嫌そうに尻尾を振りながら興味津々といった様子で横たわる少女を見つめている。
「…………………………誰?」
「目が覚めたか」
思わず尋ねると返答は上から来た。盛大に顔をしかめてからのろのろと首を向けると、そこには予想した通りに今最も見たくない顔達が佇んでいる。
「……おはようロリコン変態共」
「悪態がつけるのなら問題はなさそうだ」
「身体中バッキバキなんですけど」
「少し無理をさせてしまったね」
「少しじゃない触んな強姦魔共」
繕う元気もなく半ばやけくそでストレートに悪態をつくが、タイクーンブラザーズは特に気に障った風もなく労るように少女に触れた。それが昨夜の情事を思い起こさせるようで、結理は更に顔をしかめる。
「今日なんだが、仕事が入ってしまった」
「……二人で出るの?」
「ああ。君から一日、あるいは二日ほど目を離さざるを得なくなる」
「わー絶好のチャンスー」
「そういったことは口に出さない方がいい」
「多分、どう見ても動けないからあえて言ってるんだと思うよ」
「ほんとつまんない奴ら」
内容は違えど身も蓋もない返答に吐き捨てるように息をつくが、やはり怒りもせずにイングウェイが枕元にいる犬を撫でた。
「どちらにしろ我々が留守にすることは変わりないので見張りを立てる」
「それがこの子?」
「ブルーノだ」
「ブルーノ」
名前を復唱すると呼ばれたと思ったらしく、ブルーノは元気に一声鳴いた。流石に舐められすぎじゃないかと思いつつ注意深く気配を探ると、ブルーノはただの犬とは違う気配がした。少なくとも人界の一般的な個体ではなさそうだ。
「なるべく早く帰る」
「食事もその時に」
「二度と帰ってくんな……」
呻く声には力が入っていなかった。押し寄せてきた疲労の波が意識の輪郭をぼかしてまぶたを落とそうとする。
「行ってくる」
「いい子で待っていて」
それぞれにキスを落とされて反論しようとした結理だったが、疲労と眠気の方が勝って何も言うことはできなかった。
(もう……いいや……寝よう………………)
暗闇の中をひたすらに駆け抜けていた。
早く、速く、逃げなければという焦りが体を追い立て、ただがむしゃらに足を動かす。
もっと早く、もっと遠くへ。
でなければ捕まってしまう。
背後からは二つの足音が迫ってきていた。足音の持ち主達は急ぐことも苛立ちを見せることもなく、ただ悠然とこちらの後を追っている。それが余計に焦りを生み、体を突き動かしていた。息が切れても、足が痛みを訴えてもただ走り続ける。
やがて前方に小さな光が見えた。あの光に届けば暗闇から逃げ切れる。日常に戻れる。その確信を持って更に踏み込み、光を掴もうと手を伸ばした。これで帰れるのだという安堵に泣きそうになる。
だが、
「っ!?」
背後から伸びてきた四つの手が光を掴もうとした手を、光に飛び込もうとしていた四肢を捕まえ、暗闇に引きずり戻した。
悲鳴を上げる間もなく組み敷かれ、剥ぎ取られ、無遠慮に体を蹂躙される。どれだけ抵抗しても簡単に抑え込まれて、暴慢に散らされた。
勝てないのだと、魂に刻みつけられるようだった。
それでも折れてたまるかと睨んだ目に二対の鋭い牙が映り込んで、ひゅっと掠れた息が漏れる。
拒絶の言葉よりも早く躊躇なく突き立てられた牙に、少女の身体は無惨に喰い散らかされた。
「っ!!!!はっ…!!あぁ……っ……」
弾かれたように目を開けると、視界に映ったのは見慣れ始めた天井だった。横たわったまま震える手で体に触れ、最後に恐る恐る首元を撫でる。どこも欠けていない。どこも食い千切られてなどいない。彼等は結理を凌辱して血を啜っても、体を欠損させたりはしなかった。
「…………はあ…………」
深い溜息をつきながら両手で目元を覆う。緩みかけた涙腺は歯を食いしばって耐えた。ここで泣いてしまえば心が折れてしまう。それだけは許すことはできなかった。意地と矜持、そしてまぶたの裏に浮かぶ仲間達の顔が、今の結理を辛うじて繋ぎ止めている。
「……会いたい……帰りたい……!」
思わず声にのせてしまった言葉が、逆に悪夢で混乱した頭に少しずつ落ち着きを取り戻してくれる気がした。
もう一度、今度は意識的にゆっくり深呼吸をしてから、結理は慎重に起き上がった。まだ少し身体は痛むし軽い目眩もするが、動けないほどではない。壁しかない正面をぼんやりと見ながら、気持ちがもう少し落ち着くのを待つ。
(……少し……まずいかもしれない……)
怒りで薄めても、平然を繕っていても、監禁や凌辱によって心身に刻まれるダメージは着実に蓄積されている。この状況が長引けば長引くほど、結理は不利になっていく。摩耗して折れきってしまう前に、なんとしてでも逃げなければならない。
心の隅に残る淀みのような気持ちを払拭するように、サイドテーブルの上に置いてあったペットボトルを手に取って水を飲む。それからふと横を見ると、ベッドの側でブルーノが大人しく座ってこちらを見ていた。主人達に言いつけられた通り見張りの仕事を全うしているようだ。
「…………おいで」
言いながら手を差し出してみるが、ブルーノはその場から動かない。馴れ合う気はないのか、そう指示されているのかは結理には分からなかった。まあいいかと気を取り直して、ラジオをつけてからベッドを降りる。時刻は昼下がりで、軽快なトーンの音楽番組が流れ始めた。目眩に響かない程度の軽いストレッチをしてベッドの縁に腰掛けるが、すぐに思い直してそのまま仰向けに体を倒した。
薄暗い天井を見上げて今日は何をしようかと思案する。多分脱走は出来るがすぐに勘付かれて成す術もなく連れ戻されるだろう。戯れ程度に試してもいいが監視が厳しくなったら本末転倒だと脳内で却下した。代わりにむーと顔をしかめながら相手の戦力を分析する。
長老級の血界の眷属としてのとてつもなく高い身体能力と、真っ二つにされても即座に元通りになる高速の再生能力。着弾と同時に棘のように広がっていく杭とあらゆるものを難なく切り裂く鋼線を作り出す血の技。他者の技を即座に模倣してみせる頭の回転の速さも厄介だ。
そして、血脈門。
正直なところこの血脈門が最もネックだった。上手いこと逃げおおせて距離を稼げても、門を使われれば一瞬でゼロになってしまう。何らかの形で封じなければ、比喩抜きで地の果てまで逃げても無駄に終わるだけだ。
(……そういえばチェインさんの報告で……いやでも、それならまず使わせない方向に持っていった方が……うーん……)
以前彼等と対峙した時の情報を記憶から引っ張り出す。どんな些細なことでもいい。彼等を出し抜ける方法を見つけなければこの監禁生活は終わらない。
(なんにしろ、足りないことが多すぎるなあ……)
まずは自分の体調管理だろうかと考える。ベストなコンディションに持っていくのは無理でも、限りなく近い状態まで引っ張り上げられればいい。万全でなくとも最上のパフォーマンスを求められるなどよくあることだ。その為にできることを思案している内に、緩やかな眠気の波が訪れた。
「……あ、これだめだ」
声に出しながら上半身を起こして、閉め切られたままのカーテンをなんともなしに眺める。ついでに日課の探知を行うと、リビングの方に誰かの気配を捉えた。もう帰ってきたのかと顔をしかめかけたが、彼等の気配ではなかった。見張りはもう一人いたらしい。
(こっちに来る気配はなさそう?わたしが部屋を出た時に止める役か、普通にハウスキーパーさんか……いやそれはないか……どっちにしろ顔は合わせない方がいいかな?)
そこまで考えて、外が見たいなと思い立った。この部屋に連れてこられてから一度も外を見ていない。部屋のカーテンは常に閉め切られているし、バスルームに窓はない。これぐらいはいいだろうとベッドから降りて窓に向かうと、ずっと座ったままこちらを見ているだけだったブルーノが結理の行く先を阻むように移動した。結理は苦笑するとブルーノと目線を合わせるようにしゃがんで笑いかける。
「逃げたりしないよ?ちょっと外が見たいだけ。心配なら一緒に見てくれる?」
語りかけながらそっと手を伸ばして触れる直前で止める。ブルーノは差し出された手と少女の顔を交互に見てからふんふんと手の匂いを嗅いで、その手に顔を乗せた。許されたと判断した結理はあやすようにブルーノを撫でる。
「かーわいー…!!」
思わず破顔して両手で撫で回すと、ブルーノも応えるように擦り寄ってきた。それからふいと離れてカーテンの方にとてとてと歩いていった。どうやらこちらの言葉を信じてくれたようだ。
「ありがと」
お礼を言ってカーテンの前に立つと、ブルーノは足の間に入ってきた。温もりに頬を緩めつつカーテンを開ける。
開け放たれた向こうには霧に覆われた景色が広がっていた。異界側とあってかHLの市街地より霧が濃かったが、外が全く見えないわけではない。広めのバルコニーの向こうにはいくつかのマンションやビルが立ち並んでいて、蛇のような龍のような異界存在が悠々と空を泳いでいる。異界側の割に人類側に近い街並みが広がっているのは、恐らく人界の文化を好む異界側が集まる区画なのだろう。
久しぶりに見た外は思っていたよりも感慨が湧かなかった。曇りでいつもより更に薄暗かったからでもあるのだろうが、気持ちがそれほど擦り減ってしまっているのだろうかと小さな不安がよぎる。気を取り直してガラス窓に触れてみると、特に強化が施されているわけでもない普通のガラスだった。これならば壊して脱出できる。
(やっぱりここから逃げるしかないか……でも警戒はされてるよね……)
いかに隙をつくかが今後の課題だろう。こちらが弱っている、あるいは逃げる気はないと判断させて油断を誘うくらいしか現時点では思いつかないが、何も思いつかないよりはマシかと息をついて、足元のブルーノを蹴飛ばさないように踵を返すと今度は壁にかけられたコートに歩み寄った。ポケットを探るが中に入っていた普段遣いの端末と財布、そしてアパートの鍵やハンカチまで抜き取られていた。軽く舌打ちをして更に探る。魔術で編まれた隠しポケットには気付かなかったか手が出せなかったようで、そちらの中身は全て無事だった。血晶石で補給をしようか一瞬迷ったが、ブルーノが見ているので断念して代わりに「やっぱ全部取られてる…!」と声に出して悪態をついてコートから離れた。
再びベッドに寝転がって、天井を見上げる。一通り考え終わって数瞬無になった思考の隙間に、疑問が滑り込んだ。
彼等は何故こんなにもこちらに執着するのか。
今までもこういった、異界系に目をつけられたり気に入られたりすることはあった。その筆頭が堕落王だが、彼にしろ他の連中にしろ理解の有無は置いておいてそれなりに理由の言語化は出来ていた。興味深い存在だから、変わった気配がするから、物怖じしない言動が気に入った、小動物みたいだから、思い通りにいかないから等々……堕落王からの評価が多いなと気付いて思わず表情を歪めてから、脱線した思考を戻す。
一目惚れだと、マクシミリアンは言っていた。それが一番近い表現だろうと。それが本当だとしたら厄介だし、身勝手に囚えて離さないことにもある種の説得力が生まれてしまう。
(惚れられて良かったことほぼないんだよなあ……)
少なくとも異界都市に来てからは、結理にとって惚れた腫れたはいい話題でないことの方が圧倒的に多く、今の状況はここ最近では文句なしにトップに躍り出る厄ネタだ。盛大に陰鬱なため息をついて横を向くと、ブルーノが相変わらずこちらをじっと見ながら座っていた。なんか飼い主達に似てるなと、胸中で感想が浮かんだ。
思考が途切れると、また眠気の波がやってきた。昨夜から何も補給をしていないので、回復の手段が睡眠しかない今は仕方がないと、諦めて毛布をかぶって目を閉じる。
(……ダイアンズ・ダイナーのチーズバーガー食べたいな……)
頼めば買ってきてくれるだろうかと、疲労で緩んだ頭がそんな事を考えたのを最後に、意識はゆったりと沈んでいった。
それから微睡みと覚醒を何度か繰り返して、気配を感じた結理は目を開けた。つけっぱなしだったラジオからは早朝向けなのか落ち着いた雰囲気のトーク番組が流れている。目線だけ横を向くと、丁度血脈門が開いてタイクーンブラザーズが入ってくるところだった。
「……ただいま結理」
「え、早……」
「思いの外早く済ませられた」
驚きを隠さずに呟くとイングウェイから簡潔な返答が来た。片手に袋を提げたマクシミリアンは挨拶だけすると用があるらしく部屋を出る。残ったイングウェイは何かに気付いた様子で窓の方を、正確には閉め忘れたカーテンを見てわずかに顔をしかめた。
「外に出たのか」
「出てないよ。カーテン開けただけ」
「……ブルーノ」
呼ばれたブルーノは一声鳴いた。結理にはどちらの意味なのか分からなかったが、イングウェイには理解できたらしく「そうか」とだけ言ってカーテンを閉めた。
「カーテン開けるのもダメだった?」
「いや、目を離した以上ある程度動き回ることは予見していた。出ていかなかっただけでも十分だ」
「そりゃどうも」
半眼で呻きながら起き上がった直後、結理の腹が小さくなった。そういえば丸一日何も食べていなかったことを今更思い出す。
「申し訳ないが食事はまだ用意できていない」
「まあ……朝早いしね……」
「我々も食事はまだだ」
「へえ……え?」
気のない返事をした直後、急に肩を掴まれてベッドに沈められた。突然のことに目を丸くした結理だったが、ルームウェアの襟元をくつろげられてさっと顔色を変える。
「ちょ、ちょちょちょちょ待って待って!」
「少しでいい」
「よくねえわ!!ちょ、やめ……」
反論しながら押し返すが相変わらずびくともしない。覆いかぶさってきたイングウェイの牙が首筋に触れて今にも皮膚を突き破ろうとする中、結理は必死に叫ぶ。
「待って……“止まって“!!」
「…………」
声に力を乗せて拒否をするとイングウェイはぴたりと止まった。その隙に押し退けて距離を取った結理は、思わず側にいたブルーノを抱き上げながら睨む。
「……今吸われたら……流石に死ぬんだけど……」
声には懇願が混じってしまった。これで構いやしないと返されたらもうどうすることもできない。今の体調では逃げたところで五秒も経たずに捕まるだけだ。ブルーノの人質ならぬ犬質は有効だろうかと藁にも縋る思いで考えていると、開け放たれたままの扉がコンコンとノックされた。
いつの間にかいたマクシミリアンは、若干呆れているように見える顔で扉に寄りかかって両者を見ていた。
「流石にそれはよくないと思うよ」
「…………」
「ちゃんと食べさせてからにしないと」
「いやどんな状況でも噛まれるのは嫌だけど!?」
思わず結理が声を張り上げるが両者は例によって意に介した風もない。やがてイングウェイがため息をついて無言で部屋を後にした。詫びの一つくらい入れろよと去っていく姿を睨んだが、言ったところでずれた返答がくるだけなので諦めて、代わりにマクシミリアンに問いかける。
「……あいつ、なんかあったの?」
「どうして?」
「いや……なんとなく」
確信があったわけではないが、結理には先程のイングウェイが普段とは少し違って見えた。どう表現するのが適切だろうかと考えて、それらしい言葉が浮かぶ。
(……焦ってた?)
何に?と思うが、そもそも焦っていたのかも分からない。気のせいと言ってしまえばそれまでの、ほんの僅かな違和感だ。あまり気にしなくていいのかもしれない。
「……仕事中も行き帰りの移動中も特に何もなかったと思うけど……」
「そう……」
「気になる?」
「いや別に」
問いかけには即答しておいた。興味を持ったと勘違いされても困るし、それで距離が縮まったと思われるのも面倒だ。
それともあえて興味を示して距離を縮めることで油断を誘った方がいいのだろうかと考え始めたところで、抱き上げたままだったブルーノが飽きたと言いたげに身を捩らせる。
「あ、ごめんね」
慌てつつ慎重に下ろすと、ブルーノは一度身を震わせてから部屋を出て行った。小さな姿を何ともなしに見送って一息ついた結理だったが、立ち上がった直後に目の前がくらんだ。
(やば……)
空腹だったところに急に動いたせいで、ぎりぎり保っていた体が悲鳴を上げている。踏ん張ろうとしたが足に力が入らず、体が傾いた。
このままでは倒れてしまうと衝撃に備えたが、すんでのところで支えられた。しまったと顔をしかめたまま上を向くと、支えた当人であるマクシミリアンはいつもの無表情で結理を見下ろしていた。
「大丈夫?」
「……ちょっとよろけただけ」
慎重に息を吐いてからそう答えて、押し退けるようにマクシミリアンから離れる。
「……へ?あ、ちょ…!」
正確には離れようとしたのだが、それよりも早くマクシミリアンが閉じ込めるように抱きしめてきた。
「や……何?離してよ…!」
抗議しながら押し退けようとしても離そうとはしない。まさか先程のイングウェイのように血を吸おうとしているのかと、内心冷や汗をかく。
「ちょっと…!」
「君が逃げないことは予測していた」
「え…?」
何とか抜け出さなければともう一度押し退けようとしたが、不意に落とされた言葉を聞いた結理は思わず抵抗を止めた。どういうことかと考えている間にマクシミリアンは続ける。
「君は賢く慎重だ。満足に動けない状態ではきっと行動に移さないだろう。だから僕達も家を空けられた」
それはこちらが逃げることを諦めていないと分かっているという牽制だろうかと、結理は思わず身を固くした。ただでさえ実力差がかけ離れているのに、油断もしてくれないのなら打つ手がない。
「でも、帰って君が逃げずにいた時、安堵している自分がいた」
だが、続いた言葉があまりにも意外で、思わず絶句してしまった。
「自身で思っていたよりも僕達は……僕は君に惹かれている」
「…………あの」
なんと言っていいか分からず、けれど何か言わなくてはと口を開いた結理だったが、言葉が紡がれるよりも早くマクシミリアンが離れた。つい今までの空気などなかったかのように、いつもの佇まいで扉の向こうを指し示す。
「軽食を作るから、今日は向こうで食べよう。歩ける?」
「……歩ける、けど……」
「じゃあ、こっちに」
そう言って背を向けたマクシミリアンについていきながら、結理はこっそり顔をしかめた。
(なんか……やりづらい……)
このやりづらさがこれ以上大きくなる前に決着をつけなければいけないと、頭の中で警告が鳴った気がした。
探知である程度把握はしていたが、実際に見るリビングは相当に広かった。一体どれだけ稼いでいるのだろうと思わず半眼になりながら、結理は案内されたダイニングで大人しく席に着く。
「いただきます」
いつものように手を合わせてから、出されたトーストサンドに手をつける。久しぶりの温かい食事に思わず頬が緩んだ。ゆっくり咀嚼しながらちらりと窺い見ると、対面に座るマクシミリアンは相変わらずこちらの食事をじっと見つめていて、イングウェイはキッチンのカウンターに寄りかかっていた。いつもはマクシミリアンと並んでこちらを観察するのに珍しいと思いつつ、結理はひとまずは気にせずに食事を続ける。
「おいしい?」
「うん。あんたが作ったの?」
「こっちのピザトーストはイングウェイが」
「へえ」
気のない返事をしながら、結理はなんとなく気になってイングウェイを一瞥した。腕組みをしてカウンターに寄りかかっているイングウェイは、何故かこちらから視線を外している。今までにない態度に、まさか先程の拒絶で機嫌を損ねたのだろうかと内心焦る。だが拒絶などいつものことだし先程の行動はマクシミリアンにも諌められていたのだから、今更なのではないかと不思議に思った。
「どうかした?」
「いや……」
尋ねてくるマクシミリアンに別にと答えかけた結理だったが、少し試してみたいことを思いついてイングウェイを見やった。
「ねえ……"こっち見てよ"」
「……」
声をかけるとイングウェイは素直に結理を見た。相変わらず表情から感情は読み取れないが、だからこそと問いを投げる。
「さっき嫌がったの怒ってるの?」
「怒ってはいない」
「じゃあ何?」
「…………」
重ねた問いには返答はなかった。それは答える気がないというよりは、どう答えていいか分からないといった雰囲気をまとっているように感じられた。
「……もしかして、気まずいの?」
態度から導き出した問いに、イングウェイはほんの僅かに身じろいだように見えた。
「そうなの?」
「…………そうかもしれない」
何かを察したらしいマクシミリアンが続けて問うと、やや躊躇うような沈黙を置いてからイングウェイは答えた。
「さっき君から血を吸おうとしたのは、衝動的な行動だった。君が止めなければ、マクシミリアンが諌めなければ、私は君を喰らい殺していたかもしれない。それは我々の……私の意に反する。そういった行動を取るべきでなかったという自省の気持ちは……確かにある」
(わたしを殺す気は本当にないんだ……)
堰を切ったように言葉を並べるイングウェイを見ながらピザトーストに手をつけた結理は、胸中で考えを巡らせる。
小さな手札は少しずつ増えてきている。あとはどこでどう切っていくかを考えなければならない。
「そんなに血が足りなかったの?」
「そういうわけじゃない。あえて言うなら……以前いた猫を吸うクライアントの感覚が一番近いかもしれない」
「え、何?猫?」
「前に仕事終わりに必ず猫に顔を埋めて吸うクライアントがいたんだけど、それで気持ちの一区切りをつけるらしくて、そのことだと思う」
「そうだ」
「猫吸いのノリで血ぃ吸われても困るんだけど…!?」
「物理的に減るし!」と顔をしかめてから、結理は息をついた。若干話は逸れたが、衝動的な行動をとってしまったことが気まずいと思っていて、結理と顔を合わせられなかったというのは分かった。拉致監禁して好き放題吸血しておきながら今更何なんだと思ったが、彼等なりの線引きを超えてしまったが故なのだろう。どちらにしろ理解はできても納得はできないがそれはひとまず置いておく。
「でも、なんか意外」
「?」
「気まずいとか思うんだ」
「僕等だってそれくらいの情緒はあるよ」
「だから朝ごはん作ってくれたの?」
「それはただ店が開いていない時間だったからだ」
「そうゆう情緒はほんと足りないよね…!」
思わず呻いてから、結理は大口の一口でピザトーストの三分の一ほどに噛みついた。ピザソースとチーズの塩梅が丁度よく、ベーコンの香ばしさもいいアクセントだ。
「……それで、ずっと気まずいままでいるの?」
「……叶うのなら許しを」
「そもそもこの状況が既に許せるわけないんだけど……でもまあ、一個お願い聞いてくれるんなら、気にしなくていいよくらいは、言えるかな?」
「お願い……」
「不定期に殴りかからせてほしい」
お願いと聞いて明らかに警戒を滲ませたタイクーンブラザーズは、内容を聞いて初めて分かりやすい空気を出して固まった。有り体に言えば、「何言ってんだこいつ?」といった空気だ。流石にこの発言は戸惑うのかと内心で笑いつつ、結理は続ける。
「監禁されてるのはムカつくけど、かといって逃げられるわけでもあんた達を倒せるわけでもないから、憂さ晴らしくらいには付き合ってほしいってゆうか、ちょっと体を動かしたいってゆうかなんだけど……」
「成程」
「まあ別に、突拍子もないお願いだし、あんたが勝手に気まずい分にはわたしからしたらどうでもいいから、聞いてくれなくてもいいよ」
「いや、了承しよう」
「じゃあ、さっきのもチャラで」
「結理はそれでいいの?」
「何が?」
「もっと、外に出たいとかそういったお願いをしてくると思ったんだけど」
「……あ、そっかそれ言えばよかった」
マクシミリアンの言葉に結理は顔をしかめてみせる。それからすぐに息をついて「でもいいや」と返答した。
「あんまり大きなお願いして対価を求められても困るし」
「殴りかかるのも大きなお願いだと思うけど……」
「あんた達からしたら子犬がじゃれてくるようなもんでしょ?」
「……確かに」
「真っ正面から肯定されるとムカつくなあ…!」
彼等も実力差を認識しているだろうとは分かっていても、いざ肯定されるとそれはそれで腹は立つ。でもそれでいいと結理は胸中で呟く。向こうがこちらの力を取るに足らないと思っていてくれれば、色々と思考を巡らせやすい。
「ごちそうさまでした。じゃあ早速」
食べ終えてきちんと手を合わせてから、結理は予備動作なしで動いた。テーブルを飛び越えてイングウェイに蹴りかかろうと足を振り上げる。
だが相手も既に動いていた。蹴り足をあっさり掴んで振るい、そのまま床に向かって滑らせる。叩きつけられなかったので衝撃はほとんどないが、滑った体を立て直す前に片手で簡単に組み伏せられた。
「……手加減ありがとう」
「君も本気ではなかった」
「いや、わりかし思い切りやったんだけど……」
息をついて体から力を抜くと、降参の意と捉えたイングウェイも手を離す。押さえつけられた首を軽くさすりながら起き上がった直後、ふいに体を持ち上げられて宙に浮いた。振り向くとマクシミリアンが何か言いたげに見下ろしていた。
「……何?」
「これを毎日?」
「不定期に、だよ。疲れ過ぎてたらやんないよ……多分」
答えると、マクシミリアンは何とも言えない表情で黙ってしまった。何かを言いたげで、けれど言葉が上手く出てこないといった表情に結理には見えた。何かを言いたいのは確かなようなので、ひとまずは待ってみる。
「……君は、」
やがて、沈黙を終えたマクシミリアンは言いにくそうに言葉を紡いだ。
「僕達が思っていたより変わり者なのかもしれない」
「は?」
突然不名誉とも取れる評価を放られた結理は、遠慮なく不服に顔をしかめた。
