檻の余白
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名を留める
気配を捉えた時には、相手は既に向かいの席に座っていた。
夕暮れ時のダイナーで早めの夕飯を食べていた結理は、やや面倒そうに顔をしかめながらフォークを置く。
「神出鬼没の吸血鬼って感じー」
「……もしかして、褒めてくれた?」
「褒めても貶してもないただの感想」
どことなく期待している様子で尋ねてくるマクシミリアンに即答して、ふと気が付いた結理は軽く周囲を見てから尋ねる。
「珍しいね。一人?」
「うん。イングウェイは仕事の打ち合わせ中」
「単独で仕事してるってこと?」
「仕事自体は二人でだけど、クライアントが一人ずつと話をしたいと言ってね」
質問にマクシミリアンはごく普通に答えた。今現在、彼を感知しているのは結理一人だけのようで、店主も店主の娘も常連達も、新規客が来たことに気付いていない。レオがいれば恐らく気付くだろうが、当の本人はトラブルを起こしたザップに巻き込まれる形で事故に遭って今は病院にいる。
「……つまり暇だから来た。みたいな?」
「時間が空いたから君に会いに来た。という表現にしてほしいな」
「あんまり変わんない気もするけどなあ……」
ぼやきながら結理は、彼女の顔ほどある特製チーズバーガーにかぶりついた。マクシミリアンは食事をする少女をただじっと眺めていて、相変わらず飽きないのかと内心呆れつつも構わずに食事を続ける。
「…………眺めてる時って何考えてんの?」
「……その量がその体のどこに入っていくのかと考えることはよくある」
「飽きるぐらい言われてる」
バーガーを食べ終えてからなんとなく、前から気になっていたことを聞いてみるとそんな答えが返ってきた。案外普通のことを考えてるのかと拍子抜けしたような気持ちになりながら、カルボナーラとミートソースの二色パスタに手をつける。
「つか、本当に暇だから……えっと、時間が空いたから来ただけ?」
「一応……」
マクシミリアンの返答はどこか歯切れが悪かった。
彼等は結理に対する感情を持て余していたり言語化できないことが多々あり、上手く形にできないからとりあえず動いてみることも少なくない。その最たるものが初手での拉致監禁だが、紆余曲折の末に手打ちになって以降はそこまで強引な手段を取ることはほとんどなくなり、今のように唐突に姿を見せるに留めている。
多分何か思うことがあるんだろうと察したが、それを促したりはしない。出来れば藪はつつきたくないからだ。
「…………名前」
「え?」
「名前を、呼んで欲しい」
「ええ……」
やがて、結理がミートソースを食べ終えてカルボナーラに取りかかり始めた頃に、マクシミリアンはそんなことを言ってきた。予想外な内容に、結理は困惑に眉を寄せる。
「何?封印してほしいの?」
「そうじゃなくて」
冗談と本気の中間辺りの声音で尋ね返すと、マクシミリアンは即答して続けた。
「前に……君が逃げ出した時に、一度だけ僕を呼んでくれただろう?勿論今なら不意をつく為だったと理解できるけど、あの時……筆舌に尽くしがたい感覚に陥ったんだ」
「多分、急に名前呼ばれてびっくりしただけなんじゃないかな…?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
実際は意識誘導の術の影響だったのだろうが、一応当たり障りのなさそうな返答をする。マクシミリアンは自分の中で思う所があるのか、曖昧な言葉を返してきた。
「だからもう一度……名を呼んで欲しい」
「…………それはやめといた方がいいと思う」
食べる手を止めて、結理は考える間を置いてから真っ直ぐにマクシミリアンを見てそう答えた。
「あんた達は名に縛られてる存在でしょ?わたしにも同じ部分があるからこそ言うけど、吸血鬼が名を呼ばれることにこだわるのは……よくないよ」
「けど、君にとっては好都合なんじゃないか?」
「そりゃ牙狩りとしてはね」
通り名であろうと定着している名だ。更にこちらは諱名も把握しているので、支配下に置くのは流石に難しいが結理ならば多少の間縛る術はあるし今すぐ実行にも移せる。
だが、
「でも今は、少なくともただ会いに来ただけの知り合いを無意味に縛るようなことはしたくないよ」
仕事で鉢合わせるか、彼等が約束を違えない限りは害することはしない。牙狩りとしては甘いが、それは結理なりの線引きだった。
話はそこまでだという意思表示も兼ねて食事を再開しながら、ちらりとマクシミリアンを窺う。
「え、何…?」
だがマクシミリアンが何故か深刻な顔でこちらを凝視していた(少なくとも結理にはそう見えた)ので、思わず口に運びかけたフォークを下ろして少し引き気味に尋ねる。
「……君の距離感が本当に分からない」
少女から一切目を離さず、マクシミリアンは瞬き一つせずにそう答えた。
「本来は敵同士であるという線引きはしているのに、時々あっさりと自分からその線を越えてくると思ったら気遣う言葉すらかけてくる。ただの知り合いだと言いながら友人のように接してくる時もある。けれど自分の内には一切踏み込ませようとしない。事あるごとに、僕は君に翻弄されている」
「……そう、かなあ…?」
振り回されているのはこちらの方なのでは?と思ったが、マクシミリアンがあまりにも真剣な顔をしている(ように見える)ので明確な否定は返せなかった。
「けれど、こうして翻弄されるのも愛おしいんだと思う」
「そんな人を小悪魔みたいに……」
「だって君は打算で言葉を紡がないから」
「……………………そっか、その手があったね」
実のところ打算を交えて話すこともそれなりにあるのだが、相手が勘違いしているのならいいかと結理は息をついた。それに雑談の時はあまり気負わずに話しているので、案外的外れでもない。
ならばこれからは何気ない雑談でも打算を混ぜるべきかと考えて、すぐに胸中で却下する。
「でも、いいや」
「どうして?」
「だってあんた達何考えてんのか全然分かんないし、全部の会話でいちいち言葉選ぶのも面倒だから」
「…………そういう所」
「何が?」
「今の、本音だろう?」
「そうやって勝手に翻弄されてくれるんなら大助かりだね」
思わず失笑しながら、少女は今度こそ食事を再開した。相変わらずこちらを凝視するマクシミリアンが、どことなく拗ねているように見えるのはただの希望的観測だろうかと思いながらカルボナーラを食べ切って、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「もう帰るけど、あんたはどうする?」
「……僕も戻る」
「そう。ビビアンごちそうさまー!」
「毎度ありー!」
いつものように店主の娘に声をかけてから、結理は店を出た。
「……………………あれ?」
少女が店を出て少ししてから、ビビアンはふと何かに気付いた様子で顔を上げる。
「今、ユーリと一緒に誰かいた?」
「うわ……」
待ち構えていたかのようなイングウェイの姿を見つけたのは、ダイナーを出て少し歩いてからだった。結理が思わず顔をしかめている間に、イングウェイが歩み寄ってくる。
「……終わったの?」
「ああ、交代だ」
「分かった」
イングウェイと短い会話を交わしてから、マクシミリアンは少女に向き直った。
「じゃあ僕はこれで。いずれ呼んでもらえるように努力してみるよ」
「だからやめときなって……」
半顔で呻くが、マクシミリアンは何も返さずに雑踏の中に消えていった。何ともなしに見送ってから、結理もさて帰るかと歩き出す。
正確には歩き出そうとしたが、イングウェイに肩を掴まれて止まらざるを得なかった。抗議と怪訝を混ぜた視線を向けるが、イングウェイは気にした風もなく問いを投げかけてくる。
「マクシミリアンとはどんな会話を?」
「大した話じゃないよ。ただの雑談。暇だから来たって言ってたし」
「呼んでもらえるようにとは?」
「…………あー……っと……」
重ねて問われて、どう答えるべきか、そもそも答えていいものなのかと考えた結理は数秒黙った。多分だが、結理が答えなくてもマクシミリアンはイングウェイから問われれば雑談の内容を素直に答えるだろう。ならばわざわざ言わなくてもいいかもしれない。
「……あんたは、わたしに名前を呼ばれたいと思う?」
だからというわけではないが、少しだけ気になった結理はそう問い返していた。イングウェイは虚をつかれたように少女を凝視して黙り込む。驚いているのか言葉の意味を考えているのか、相変わらず表情からは読み取れない。
しばらく沈黙が流れた後、イングウェイは雑踏に消えてしまいそうな声で答えを返した。
「…………………………呼んでもらえるのなら」
「マジで…!?」
「マクシミリアンからも言われたのか?」
「やめといた方がいいって言っといた」
「……それは道理だ」
「向こうよりは分別がついてるみたいで何より」
「だが、君は“縛る“為に名を呼んだりはしないだろ?」
「……二人揃ってわたしを信用しすぎだよ」
断定の形で尋ねられた結理は渋い表情で呻く。油断を誘えるという意味では喜ぶべきなのだろうが、対価が大きすぎて喜ぶよりも警戒と憂鬱が勝ってしまう。
「そうかもしれない。だがこういう言葉がある」
「?」
「惚れた弱みだ」
「よく恥ずかしげもなく言えるね…!?」
「それにプライベートでは害さないという約束もある」
「まあ……それはそうだけど」
もしかして今冗談を言ったのだろうかと結理は思ったが、藪はつつきたくないのでそこに突っ込むのは止めておいた。未だに彼等が自分に一目惚れをしたというのは信じられないが、一定の好意があるのは行動の端々から認めざるを得ないし、そのおかげで均衡が保てている部分があるのも事実だ。
彼等が思っているよりは、結理は駆け引きや打算を交えて接している。特にイングウェイはそれを織り込み済みで交流していると考えていたのだが、もしかしたらあまり考えていないんじゃないかと思ってしまった。
案外お互いに腹の内は分かってないのかもしれない。少なくとも結理は彼等の考えていることは全く分からないので、言動で推察しているに過ぎない。何でもない会話を交わした次の瞬間には八つ裂きにされたり、約束など放り捨てて拉致監禁されて好き勝手に弄ばれるかもしれないと、心の片隅では常に思っている。
「……結理」
「何?」
「食事でもどうだろうか?」
「唐突……今食べたばっかだからデザートならいいよ」
「ではそれで」
急に話題を変えてきたなと思いつつ肯定を返すと、イングウェイは当然のように少女の手を取った。まさか惚れた弱みだと言ったのが恥ずかしくなって誤魔化したつもりなのだろうかと思ったが、それを聞く勇気は結理にはなかった。
代わりに今まで交わしていた話題に思考を戻す。
(名前、か……)
いつか気兼ねなく彼等の名を呼ぶ時が来るのだろうかと、そんな考えがよぎって、すぐに打ち消した。
『名』を呼ぶ時はきっと、戦場で決着をつける時だ。そしてその名を呼ぶのは自分ではない。
彼等と真の意味で交われる日は来ないのだと、結理は胸中で自身に言い聞かせた。
END.
気配を捉えた時には、相手は既に向かいの席に座っていた。
夕暮れ時のダイナーで早めの夕飯を食べていた結理は、やや面倒そうに顔をしかめながらフォークを置く。
「神出鬼没の吸血鬼って感じー」
「……もしかして、褒めてくれた?」
「褒めても貶してもないただの感想」
どことなく期待している様子で尋ねてくるマクシミリアンに即答して、ふと気が付いた結理は軽く周囲を見てから尋ねる。
「珍しいね。一人?」
「うん。イングウェイは仕事の打ち合わせ中」
「単独で仕事してるってこと?」
「仕事自体は二人でだけど、クライアントが一人ずつと話をしたいと言ってね」
質問にマクシミリアンはごく普通に答えた。今現在、彼を感知しているのは結理一人だけのようで、店主も店主の娘も常連達も、新規客が来たことに気付いていない。レオがいれば恐らく気付くだろうが、当の本人はトラブルを起こしたザップに巻き込まれる形で事故に遭って今は病院にいる。
「……つまり暇だから来た。みたいな?」
「時間が空いたから君に会いに来た。という表現にしてほしいな」
「あんまり変わんない気もするけどなあ……」
ぼやきながら結理は、彼女の顔ほどある特製チーズバーガーにかぶりついた。マクシミリアンは食事をする少女をただじっと眺めていて、相変わらず飽きないのかと内心呆れつつも構わずに食事を続ける。
「…………眺めてる時って何考えてんの?」
「……その量がその体のどこに入っていくのかと考えることはよくある」
「飽きるぐらい言われてる」
バーガーを食べ終えてからなんとなく、前から気になっていたことを聞いてみるとそんな答えが返ってきた。案外普通のことを考えてるのかと拍子抜けしたような気持ちになりながら、カルボナーラとミートソースの二色パスタに手をつける。
「つか、本当に暇だから……えっと、時間が空いたから来ただけ?」
「一応……」
マクシミリアンの返答はどこか歯切れが悪かった。
彼等は結理に対する感情を持て余していたり言語化できないことが多々あり、上手く形にできないからとりあえず動いてみることも少なくない。その最たるものが初手での拉致監禁だが、紆余曲折の末に手打ちになって以降はそこまで強引な手段を取ることはほとんどなくなり、今のように唐突に姿を見せるに留めている。
多分何か思うことがあるんだろうと察したが、それを促したりはしない。出来れば藪はつつきたくないからだ。
「…………名前」
「え?」
「名前を、呼んで欲しい」
「ええ……」
やがて、結理がミートソースを食べ終えてカルボナーラに取りかかり始めた頃に、マクシミリアンはそんなことを言ってきた。予想外な内容に、結理は困惑に眉を寄せる。
「何?封印してほしいの?」
「そうじゃなくて」
冗談と本気の中間辺りの声音で尋ね返すと、マクシミリアンは即答して続けた。
「前に……君が逃げ出した時に、一度だけ僕を呼んでくれただろう?勿論今なら不意をつく為だったと理解できるけど、あの時……筆舌に尽くしがたい感覚に陥ったんだ」
「多分、急に名前呼ばれてびっくりしただけなんじゃないかな…?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
実際は意識誘導の術の影響だったのだろうが、一応当たり障りのなさそうな返答をする。マクシミリアンは自分の中で思う所があるのか、曖昧な言葉を返してきた。
「だからもう一度……名を呼んで欲しい」
「…………それはやめといた方がいいと思う」
食べる手を止めて、結理は考える間を置いてから真っ直ぐにマクシミリアンを見てそう答えた。
「あんた達は名に縛られてる存在でしょ?わたしにも同じ部分があるからこそ言うけど、吸血鬼が名を呼ばれることにこだわるのは……よくないよ」
「けど、君にとっては好都合なんじゃないか?」
「そりゃ牙狩りとしてはね」
通り名であろうと定着している名だ。更にこちらは諱名も把握しているので、支配下に置くのは流石に難しいが結理ならば多少の間縛る術はあるし今すぐ実行にも移せる。
だが、
「でも今は、少なくともただ会いに来ただけの知り合いを無意味に縛るようなことはしたくないよ」
仕事で鉢合わせるか、彼等が約束を違えない限りは害することはしない。牙狩りとしては甘いが、それは結理なりの線引きだった。
話はそこまでだという意思表示も兼ねて食事を再開しながら、ちらりとマクシミリアンを窺う。
「え、何…?」
だがマクシミリアンが何故か深刻な顔でこちらを凝視していた(少なくとも結理にはそう見えた)ので、思わず口に運びかけたフォークを下ろして少し引き気味に尋ねる。
「……君の距離感が本当に分からない」
少女から一切目を離さず、マクシミリアンは瞬き一つせずにそう答えた。
「本来は敵同士であるという線引きはしているのに、時々あっさりと自分からその線を越えてくると思ったら気遣う言葉すらかけてくる。ただの知り合いだと言いながら友人のように接してくる時もある。けれど自分の内には一切踏み込ませようとしない。事あるごとに、僕は君に翻弄されている」
「……そう、かなあ…?」
振り回されているのはこちらの方なのでは?と思ったが、マクシミリアンがあまりにも真剣な顔をしている(ように見える)ので明確な否定は返せなかった。
「けれど、こうして翻弄されるのも愛おしいんだと思う」
「そんな人を小悪魔みたいに……」
「だって君は打算で言葉を紡がないから」
「……………………そっか、その手があったね」
実のところ打算を交えて話すこともそれなりにあるのだが、相手が勘違いしているのならいいかと結理は息をついた。それに雑談の時はあまり気負わずに話しているので、案外的外れでもない。
ならばこれからは何気ない雑談でも打算を混ぜるべきかと考えて、すぐに胸中で却下する。
「でも、いいや」
「どうして?」
「だってあんた達何考えてんのか全然分かんないし、全部の会話でいちいち言葉選ぶのも面倒だから」
「…………そういう所」
「何が?」
「今の、本音だろう?」
「そうやって勝手に翻弄されてくれるんなら大助かりだね」
思わず失笑しながら、少女は今度こそ食事を再開した。相変わらずこちらを凝視するマクシミリアンが、どことなく拗ねているように見えるのはただの希望的観測だろうかと思いながらカルボナーラを食べ切って、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
「もう帰るけど、あんたはどうする?」
「……僕も戻る」
「そう。ビビアンごちそうさまー!」
「毎度ありー!」
いつものように店主の娘に声をかけてから、結理は店を出た。
「……………………あれ?」
少女が店を出て少ししてから、ビビアンはふと何かに気付いた様子で顔を上げる。
「今、ユーリと一緒に誰かいた?」
「うわ……」
待ち構えていたかのようなイングウェイの姿を見つけたのは、ダイナーを出て少し歩いてからだった。結理が思わず顔をしかめている間に、イングウェイが歩み寄ってくる。
「……終わったの?」
「ああ、交代だ」
「分かった」
イングウェイと短い会話を交わしてから、マクシミリアンは少女に向き直った。
「じゃあ僕はこれで。いずれ呼んでもらえるように努力してみるよ」
「だからやめときなって……」
半顔で呻くが、マクシミリアンは何も返さずに雑踏の中に消えていった。何ともなしに見送ってから、結理もさて帰るかと歩き出す。
正確には歩き出そうとしたが、イングウェイに肩を掴まれて止まらざるを得なかった。抗議と怪訝を混ぜた視線を向けるが、イングウェイは気にした風もなく問いを投げかけてくる。
「マクシミリアンとはどんな会話を?」
「大した話じゃないよ。ただの雑談。暇だから来たって言ってたし」
「呼んでもらえるようにとは?」
「…………あー……っと……」
重ねて問われて、どう答えるべきか、そもそも答えていいものなのかと考えた結理は数秒黙った。多分だが、結理が答えなくてもマクシミリアンはイングウェイから問われれば雑談の内容を素直に答えるだろう。ならばわざわざ言わなくてもいいかもしれない。
「……あんたは、わたしに名前を呼ばれたいと思う?」
だからというわけではないが、少しだけ気になった結理はそう問い返していた。イングウェイは虚をつかれたように少女を凝視して黙り込む。驚いているのか言葉の意味を考えているのか、相変わらず表情からは読み取れない。
しばらく沈黙が流れた後、イングウェイは雑踏に消えてしまいそうな声で答えを返した。
「…………………………呼んでもらえるのなら」
「マジで…!?」
「マクシミリアンからも言われたのか?」
「やめといた方がいいって言っといた」
「……それは道理だ」
「向こうよりは分別がついてるみたいで何より」
「だが、君は“縛る“為に名を呼んだりはしないだろ?」
「……二人揃ってわたしを信用しすぎだよ」
断定の形で尋ねられた結理は渋い表情で呻く。油断を誘えるという意味では喜ぶべきなのだろうが、対価が大きすぎて喜ぶよりも警戒と憂鬱が勝ってしまう。
「そうかもしれない。だがこういう言葉がある」
「?」
「惚れた弱みだ」
「よく恥ずかしげもなく言えるね…!?」
「それにプライベートでは害さないという約束もある」
「まあ……それはそうだけど」
もしかして今冗談を言ったのだろうかと結理は思ったが、藪はつつきたくないのでそこに突っ込むのは止めておいた。未だに彼等が自分に一目惚れをしたというのは信じられないが、一定の好意があるのは行動の端々から認めざるを得ないし、そのおかげで均衡が保てている部分があるのも事実だ。
彼等が思っているよりは、結理は駆け引きや打算を交えて接している。特にイングウェイはそれを織り込み済みで交流していると考えていたのだが、もしかしたらあまり考えていないんじゃないかと思ってしまった。
案外お互いに腹の内は分かってないのかもしれない。少なくとも結理は彼等の考えていることは全く分からないので、言動で推察しているに過ぎない。何でもない会話を交わした次の瞬間には八つ裂きにされたり、約束など放り捨てて拉致監禁されて好き勝手に弄ばれるかもしれないと、心の片隅では常に思っている。
「……結理」
「何?」
「食事でもどうだろうか?」
「唐突……今食べたばっかだからデザートならいいよ」
「ではそれで」
急に話題を変えてきたなと思いつつ肯定を返すと、イングウェイは当然のように少女の手を取った。まさか惚れた弱みだと言ったのが恥ずかしくなって誤魔化したつもりなのだろうかと思ったが、それを聞く勇気は結理にはなかった。
代わりに今まで交わしていた話題に思考を戻す。
(名前、か……)
いつか気兼ねなく彼等の名を呼ぶ時が来るのだろうかと、そんな考えがよぎって、すぐに打ち消した。
『名』を呼ぶ時はきっと、戦場で決着をつける時だ。そしてその名を呼ぶのは自分ではない。
彼等と真の意味で交われる日は来ないのだと、結理は胸中で自身に言い聞かせた。
END.
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