茨の檻
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何でもない日だった。
世界を揺るがすような騒動があるわけでもなく、仕事が立て込んでいるわけでもなく、通りを歩きながら今日の夕飯は何にしようかと考えられるような、そんな一日の終わりに差し掛かり始めた時間帯。
このまま何事もなく終わるのだろうと思っていた一日は、たった一歩踏み出した瞬間に激変した。
気配を感じた時には既に、一之瀬結理は無数の蝙蝠に取り囲まれて扉の向こうに引きずり込まれていた。扉が血界の眷属御用達の移動手段である血脈門であり、引きずり込んだものの正体に気付いた瞬間には驚愕と困惑を抱きながらも戦闘態勢を取っていて、"敵"を視認する前に気配の方向に向かって血の棘鞭を飛ばす。相手は難なく躱してこちらを捕らえようと手を伸ばしてきた。その手を腕から遠慮なく斬り落として、そのまま振り向き様に背後からの気配に刃爪を振るうが、あっさりと腕を掴み上げられて動きを止められる。即座に振り解こうとしてもそれよりも早く斬り落としたはずの腕で後ろから抱き抱えるように拘束され、流れるような動作で豪奢なソファの上に落とされた。
「っ!!」
そこでようやく相手の姿を見た結理は思わず息を呑んで目を見開く。
気配と血脈門に引きずり込まれたことから、相手が複数いることと血界の眷属であることは分かっていた。だがその吸血鬼達が見たことのある顔であったのは予想の外だった。
(タイクーンブラザーズ…!?何で!?)
以前敵対した吸血鬼の二人組の姿にぞっと総毛立つ。一対一でも勝ち目などないのに、二体揃われては逃げることすら不可能だ。誰かから依頼を受けて偶然拐ったのが結理だったということはまずないだろう。対峙した敵対者達の中で一番御しやすそうだと判断して牙狩りの戦力を減らしにきたのか、あるいは牙狩りの情報を吸い出すのが目的か……どちらにしろこのまま無事に帰れないことは確定済だ。
「く…!」
「大人しくしてほしい。殺すつもりはない」
「は…?」
例え勝ち目がなくともなんとか拘束を解こうともがくがびくともしない。まずいと内心焦っていると不意にそんなことを言われた。もがくのを中断して相手を見上げると、二対の瞳がじっと少女の顔を覗き込んでいる。感情の見えない無機質な敵対者達を睨みながら、結理は敵意も警戒も隠さずに尋ねる。
「どうゆう意味?目的は何?」
「君だ」
「……は?」
「君のことを知りたい」
「…………はあ?」
全く想定していなかった回答に、警戒も一瞬飛んでいった呆気にとられた声が出た。口ぶりからして戦力の情報を得たいというニュアンスでないことは察せられたが、それ故に訳が分からない。
「知りたいって……何を?」
「まずは名前を」
「……人に名前を聞きたかったら自分から名乗るもんじゃない?」
「イングウェイだ」
「僕はマクシミリアン」
「吸血鬼が普通に名乗るな…!!」
「名無しで通すわけにもいかないクライアントもいるからね」
ちょっとした意趣返しのつもりの悪態は見事に空回った。諱名でないので名乗ることに支障はないのだろうが、それにしてもためらいがなさすぎて言葉を繕うのも忘れて唸るとしれっと返される。
「君の名前を聞きたい」
「…………」
じっと、再び顔を覗き込まれた結理は数瞬考える。軽い悪態を意に介さない様子から、すぐさま殺すつもりがないのは本当らしい。彼等の目的が本当に結理自身なのかはまだ疑っているが、抵抗は無意味で逃走はほぼ不可能なのは覆しようのない事実だ。ならば非常に悔しく腹立たしいが、下手に暴れてうっかり殺されたり体のどこかを捥がれるよりは出し抜ける機会をうかがった方がマシかもしれないと結論を出す。
「…………結理」
若干躊躇しながらも名乗ると、彼等は言葉を転がすように小さく復唱した。偽名を使った方がよかったかもしれないと名乗ってから気付いたが、後々調べられてもややこしくなるし明かせない名を明かしていないのはお互い様なので、まあいいかと思い直して問いを投げる。
「……わたしのこと知ってどうするの?」
「我々はどうやら君に惹かれているらしい」
「……ひか……え?」
「気になった相手のことを知ろうとするのは普通だろう?」
「拉致って連れ込むのは普通じゃねえけど!?」
「それくらいは誤差の範囲だ」
「いや完璧に範囲外でしょ!」
あっさりと言ってのける相手に率直な意見を口にする結理だが内心は動揺と困惑で埋め尽くされていた。惹かれてる?誰が?誰に?何で?と疑問が飛び回っている。
「あの……一応確認するけど、わたしが牙狩りにいるのは知ってるよね?」
「それは勿論」
問いには即答された。
彼等と結理が出会ったのは世界崩壊幇助器具が出品されたオークション会場で、その後はライブラの仲間達と共に争奪戦や攻防戦や総力戦に至るまで、彼等とはただひたすらに敵対者として対峙し続けた。実質的に決着はうやむやになり、居合わせたライブラのメンバーが誰一人欠けることなく生き残れたのは運や巡り合わせによるものが大きい。
そんな戦場で、しかも視界の端に入っていたかも怪しいと思っていた相手から惹かれているらしいと言われて納得が出来るわけがない。
「それでどうしてわたしに惹かれてるらしいとか思ったの?」
駆け引き抜きで尋ねると、彼らは顔を見合わせた。まるで未知の言葉を聞いたかのような態度に、なんとなく嫌な予感がする。
「言語化は……まだ難しい」
「だからとりあえず拐った?」
「そうだ。こちらへ連れてくるのが手っ取り早いと考えた」
え、馬鹿なの?というツッコミはギリギリで飲み込んだ。考察から行動へ移す過程があまりにもすっ飛ばされ過ぎている。それが人外の価値観故なのか彼等の元来の気質なのかは分からないが、とにかく突拍子がなさすぎて呆れるしかない。同じように突然拉致するが、言語化が出来ている分堕落王の方がまだマシなのでは?と錯覚してしまう程だ。
そんな少女の胸中に気付いた様子もなく、イングウェイの方が続けた。
「近くで観察すれば、あるいはいくらか話せばこの言語化できないものに答えが出せるかと考えた」
「……そもそもどこでわたしが気になったの?」
「初めは先日の仕事先でだ」
「オークションでの?」
「そう」
「ハエみたいに払われてその後見向きもされなかったけど……」
「それは仕事中だったからだ。あの時の君は我々の敵対者で、プライベートな会話をする余地はなかった」
「はあ……」
「だがその時に、君に不思議な魅力を感じた」
「気のせいだと思う」
「それを決めるのはこちらだ」
願望も混じった心底からの即答は即答で返された。本当に気のせいや勘違いであって欲しい。外見上の同年代以外で魅力的だと言われていいことがあったことなどほとんどない。ましてや、相手は人知の及ばない化物達だ。結理自身にも人外の血は流れているが、感性は人類寄りな方だと思っているので理解し合えるとも思わない。
「仕事中でなければ目を離せなくなっていた。それがマクシミリアンも同じだったと聞いて、ひとまずは君をこちらへ連れてこようと結論付けた」
「……あんた達には物珍しく見えてるかもしれないけど、わたしにあんた達が期待するような面白味なんてないよ」
「あまり自分を卑下しない方がいい」
「いや卑下ってゆうか……」
「ああそうか」
どう言い返そうかと言葉を考えていると不意にマクシミリアンが何かに気付いたように声を漏らした。
「これが一目惚れってことか」
「…………はあ?!」
「言語化出来ない感情、何故君に惹かれるのか、外見は子供のような君に魅力を感じるのか、イングウェイが拐ってでもこちらへ連れてこようと言い出したのか、それらを一目惚れだと結論付ければ辻褄が合う」
「成程」
「いや成程じゃないし!!」
どんどん事態が悪くなっていくのを肌で感じながら、結理は思わず叫ぶ。突拍子もない結論を投げ込まれて思考が停止しなかったのは最早意地だ。相手の出方を窺うことやどう逃げるかなど全てかなぐり捨てて全力で反論する。
「待って待って待って!?あんた達が二人揃ってわたしに惚れたって?絶対勘違いだから!!!!」
「何故そう言い切れる?」
「まずわたし達は敵同士だし!出会った場所も戦場だし!だいいちわたしが見た目子供って分かってるんなら子供に惚れた変態になるけどいいの!?」
「年齢差のことを踏まえるなら人類なんて皆子供みたいなものだからそこはあんまり……」
「あああああ人外の感性…!!!!」
あっさりと返されて頭を抱えたくなったが手は拘束されたままだ。心なしか触れ方が優しくなっている気がするが拘束を振り払える気配は一切ないので気のせいだと思いたい。
「いやこの際寿命差だの種族差だのはどうでもいいや……とにかく!一目惚れは勘違いだし気になったのは…………」
言いかけて、結理はどこまで話していいのか迷って言葉を詰まらせた。自身が持っている手札を切って事態がいい方向へ向かうのか悪い方向へ向かうのか全く見当がつかない。
「気になったのは?」
「あーっと……」
どうしたものかと考えていると促され、結理は言葉を選びながらぽつぽつと返す。
「わたしは……異界とも違う異世界から来たから、ここじゃない存在ってのを感じ取って珍しく見えてるだけだと思う」
「異世界……」
「HLや異界は存在しないし吸血鬼もあんた達ほどはでたらめに強くない世界、みたいな…?」
そう答えるとどちらも考え込むように黙った。嘘を言っていると思われたかもしれないが、本当のことしか言っていないので疑われても虚偽だと断定されてもどうしようもないし、これ以上自身のことを話すつもりもない。
「……敵同士であるという認識も含めて」
なんとか隙を見て逃げられないかと機会をうかがっていると、イングウェイが口を開いた。
「それらは我々が君に一目惚れをしないという論が成立する根拠にはならないだろう」
「むしろ物珍しく見えることが好意を抱く理由になるんじゃないかな」
「…………だとしても」
こちらの言葉を受け入れた上での彼等の結論に、結理も繕わずに言葉を返す。
「わたしがそれに応えることはないよ」
この回答が最悪の事態を招くことになろうとも、自分を偽ることはしたくなかった。
「わたしにとってあんた達はどこまで行っても敵でしかない」
それは自身の、自身に流れる"血"と矜持に礼を欠く行為だからだ。
「人類を害する血界の眷属とは相容れない」
「……そうか」
少しの沈黙の後、イングウェイが息をつくと結理の首元に触れながら続ける。絞め殺されるのだろうかと身を固くするが、そういった気配はなくまるで動物を愛でるようであり、何かを確かめるような触れ方でもあった。
「マクシミリアン、もういいな?言葉は大方尽くした。言語化も……ある程度は出来ただろう」
「うん。初めからこうするべきだったかもしれないけど、まあ結果論か」
「?何言って……っ!!」
内容の見えない会話に顔をしかめた結理だったが、強烈な予感がして背筋が冷えた。
「イングウェイが言っただろう?“こちら”へ連れてこようって」
「っ!!」
言葉の意味を理解したのと、首筋に牙の気配のする息遣いを感じたのと、咄嗟に体が動いたのはほとんど同時だった。片方だけ開放された手を振るって血の棘鞭を飛ばし、前後の吸血鬼達を一切の加減なく切り刻む。緩んだ拘束から即座に抜け出して飛びつくように手近な窓へ向かった。
「わ!?」
正確には向かおうとしたが、不意に引っ張るように強く足を捕まれてバランスを崩し、加速しかけた体がつんのめった。何故と驚愕しながら振り向くと、斬り裂いた手だけが結理の足を掴んでいる。
「く…!この……っ!!」
もう一度斬り飛ばそうとするがそれよりも早く細く赤い糸が手足に巻きついて動きを封じた。それがマクシミリアンが放った鋼線で、あらゆるものを難なく切り裂いたことを思い出して反射的に止まる。
「大人しくしてくれ。あまり手荒には扱いたくない」
「出来るわけないでしょうが!!!!」
十秒もかからずに再生して動きを封じたマクシミリアンに告げられて怒鳴り返す結理だが、動こうとすると血の鋼線が食い込んで肌どころか肉まで切ろうとするので思うように動けない。脳内でまずいとヤバいの単語が飛び交いながらも抵抗は諦めずに悪態をつく。
「牙狩りを……っ……転化させようなんて、どうかしてる!」
「だからこそだ」
背後から抱きしめるように少女を拘束したイングウェイが、首筋に一気に牙を立てる。
「───っ!!」
ずぶりと、肌を破って固いものが食い込んだ感触に、思わず息が止まって総毛立った。それでもなお抵抗を続けようとする少女を宥めるように頬に触れながら、マクシミリアンが淡々と言葉を紡ぐ。
「敵同士である。相容れない存在であることが拒絶の理由になるのなら、"同じ"になってしまえば理由は潰えるだろう?」
「……っ……あ、がっ……は、ぁ……やめ……っ…!」
命を啜られる喪失感を脳が快楽と誤認して抵抗力を削り取っていく。どうにか気力を奮い立たせても、恐ろしい勢いで血を吸い上げられては武器と行動を一度に取り上げられているのと同じで、酷い目眩と共に体から力が抜けていった。
「ゃ……あ……」
「怖いのも痛いのも最初だけだ。すぐに馴染む」
このままではまずいと分かっていも、対抗する手立てはない。
彼等に目をつけられて拐われた時点で既に詰んでいたのだと気付いたが、もう全てが遅すぎた。
「…………妙だ」
「どうしたの?」
牙が抜かれた痛みが消えかけていた意識を繋ぎ止める。頭上でされる会話にはわずかだが困惑が感じ取れた。
「刻印が発現しない」
「どれ?」
(逃げなきゃ……なのに…!)
相談に気を取られているのか触れる腕に拘束の強さはないので抜け出せるチャンスであるのに、大量に血を奪われた体に力は入らない。そんな結理をよそに、マクシミリアンはイングウェイが少女の首筋を指でなぞる。
「……本当だ」
「どういうことだ?」
一度顔を見合わせてから、両者は少ない表情の中に怪訝の色を混ぜて結理を見つめる。
「……知らないよ……」
掠れた声でどうにかそれだけを口にしたが、本当のところ心当たりはあった。だがそれに答えてやる義理などないし、答えたところで状況は変わらない。
転化の兆候が表れない理由を向こうが知ろうが知るまいが、後はきっと喰い殺されるだけだ。
(最悪……)
狩る者として考え得る最も絶望的な末路に泣きたくなったが、その体力すら喰われてしまったのか涙は出なかった。
「僕が噛んでも?」
「ああ」
短いやり取りの後にマクシミリアンの手が伸びてきた。その手の行き先が結理の着ているコートの襟元であると気付いた瞬間、
「!」
「コートに……触るな…!!」
結理自身も驚いた速度で動いた手が、みしりと音を立てるほどの力強さでマクシミリアンの手首を掴んで止めた。
「……っ……」
だがそれもほんの数瞬で、すぐに掴んだ手から力が抜ける。
「く……そ……」
「……大切なものなら、尚の事汚さないよう配慮するよ」
そう言ったマクシミリアンは丁寧な手つきでコートの片袖だけを脱がせると、イングウェイが噛んだ反対側の首筋に牙の先で触れた。
「吸いすぎるなよ?ただの血ではない」
「牙狩りだからではなく?」
「味わえば分かる」
「く…!」
これ以上噛まれてたまるかと腕を上げようとした結理だったが、もう指一本すら動く気配はない。抵抗にもならない小さなもがきを意に介さず、また牙が肌を破って食い込んできた。
「ぅあ……ぁ……っ……」
(やばい……これ……もう……)
絶望的と分かっていてなお抗おうとする意思に反して、意識は砂が落ちるように消えていった。
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