『ホテル行こ!』

 こればっかりは僕から言い出さないといけない気がして、でも足は結局狂児の車なので、一か八かの賭けでした。運転席に座る狂児の目の周りが少し強張り、ハンドルに置こうとした手は僕に掴まれて宙に留まりました。いつもの雰囲気で言いくるめられたらと思うと、僕の口の中もカラカラに乾きました。それを見越してフリードリンクの最後の溶け切った氷まで飲んできたのに。
「ええよ。聡実くんの行きたいとこなら、どこへでも行ったろ」
 緊張の間は一瞬で、狂児はすぐいつもの薄ら笑いに戻りました。お目当てのホテルあるん?満室やったらどうする?AVみたいにカラオケでやってもええで。アホ迷惑やろが。ここがいい、満室なわけないから。断言するなぁ、人気ないのそこ。予約したから。ラブホって予約できるんや、すごいね。聡実くんって経験豊富なんや。お互い言葉はつるつる口から滑り出て、いつもと変わらない帰り道のように、初めての道を行きました。

「聡実くんはどっちしたい〜?」
 慣れないキラキラ光る部屋で緊張していると、バスルームから狂児のふざけた大声が響きました。そういえば言ってなかった。どうやってもスマートな言葉が思いつかなくて、脱衣所の扉がとてつもなく分厚く思えました。何を言っても狂児は絶対この奥で笑うんだ。何が経験豊富や。僕には結局、飾りようのない言葉を押し出すことしかできません。
「僕が入れ、いや、抱きたいです、狂児さんを」
「……ええよ、そんな気ぃしてた」
 狂児の声は意外とふざけていなかった。そのことに動揺した僕は、なんでなん、と何度も言いながらシャワーを浴びた気がします。

 そこからの記憶はより断片的にしか残っていません。どんな記憶もそんなもんだとは思いますが、こんな大事なときでさえ同じように処理してしまう僕の脳を、僕は恨みました。
 狂児の固めた髪がシャワーを浴びて柔らかな手触りになっていたのだとか、間接照明のぼんやりとした光の中でうごめく背中の青だとか、いつもより濃く感じるタバコの香りだとか。きっと狂児は僕より何もかもが大きくて、だから僕の記憶では全体像を捉えきることは不可能でした。
 全部終わって、狂児の上に倒れ込んだ僕に向けられた「なんで赤ちゃんってずっと泣いてんのに喉枯れへんねやろな。大人はカラオケで喉潰すこともあんのに」などという意味不明な問いかけも、僕はなんて答えたのか覚えていません。
 カラオケのあとに抱かれた狂児が声を枯らしたのかどうか、僕がそれを知る前に狂児は部屋を出ていました。残された僕に延長料金がかからないよう、アラームをセットする優しさを残して。

⏳️
 死ぬなら、昔は大阪で死にたかった。いやそもそも死にたくはないけど。大阪ならすぐに組に連絡が行くし、諸々の処理も楽や。少し前は、できれば大都会東京で派手に死にたかった。大阪のヤクザの殺害事件は東京まで届かん。聡実くんが音信不通の俺に無駄にキレんでもええように、そうならんかなと思っていた。
 今?今はもうどうでもええ。愛しい人の気持ちを顧みることもないほど、充分すぎるほどもらったから、身軽や。でも流石に腰と喉が痛い。大阪に戻る予定は一日ずらした。嬉しい痛みに唸る。しけたこのホテルのベッドは、昨日のより大分固い。キラキラもヒラヒラもしてない。
 聡実くん、俺が初めてやったりせんかな。
 もう聡実くんとの次はない。でも今日だけは、浮かれてええやろ。聡実くん覚えてるかな、君が寝落ちする前の最後の言葉。

「じゃあ大人は、水飲んだらええやないですか」

⌛️
 隣の部屋の挙動に耳をすませる日々を、早く終わらせたかった。朝帰りした成田は少し動きがトロくて、本来のチェックアウトの時間にも出ていく素振りを見せなかった。
 次部屋を出たときがチャンスだ。昼過ぎにユニットバスのトイレが流される音がして、にわかに隣の俺の部屋は殺気立つ。成田は俺よりでかいが、こちとら二人がかりだ。
 成田に扉を開けられる前に、俺は同じ階の廊下の物陰へ、もう一人は部屋に残って覗き穴と聞き耳。扉を開けた成田は、腰をかばいながら廊下の自販機で水を買った。
 成田が部屋に入り、扉を閉めようとした瞬間、隣の部屋が開く。俺は走り出す。鉄砲玉の俺は本当に速い。成田の部屋の扉が閉まる直前、仲間がドアノブに手をかけて止める。無理やりこじ開ける。成田が扉の向こうの仲間を蹴り倒す。その足が戻る前に、俺は成田の腹めがけて突っ込む。吹っ飛ぶ。バランス崩した。
 落ちてた枕、顔に当てる。
 パァン。
 心臓、土手っ腹。一発撃つごとに冷静になる。もう成田は動かない。
 破れた安そうな枕からビーズが溢れ出る。なんの気なく逆さまにして振ると、死体の血に張り付いて砂糖がけみたいになった。
 ほどなくして仲間に呼ばれる。騒ぎになる前に、ここから車まで走らなくては。証拠写真のために成田の顔についた砂糖がけを、血の染みた枕で払う。全体と、吹っ飛んだ顔だけでは不安だから、きれいに残った腕も袖をまくって撮る。
 腕を捕まれて、でかい指が反射で動いた。彫られた名前はこいつのイロだろう。腕を乱暴に床に置くのと、急げよ!と呼ばれたのは同時だった。振り向きもせず、俺は走り出していく。
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