酷暑を過ぎたら
月末月初の忙しさに、いよいよ始発の電車に乗るようになってしまった。車両に人は少なく、座席に座っても左右に広く余裕がある。俺が寝ぼけまなこでパンを食べても、乗客は誰も気に止めない。
夏の盛りとはいえ夜明け間もない朝だから、弱冷房車の寒くも暑くもない気温が心地良い。せめて会社の最寄り駅までは眠ろう。
りーんりーろ…
素朴で涼しげな音が耳をくすぐる。なんだろう、懐かしい音色。水に濡れた草の匂い。そういえば昨晩は雨だった。
りーんりーろ…りーんりーろ…
澄んだ音が俺のそばに近づく。懐かしいということは、小さい頃に聞いたんだろうか。
りーんりーろ…りーんりーろ…りーんりーろ…
鈴の鳴るような音……。
鈴虫だ!しかも近くにいる!
眠気がサァっと引いていく。俺は虫が苦手だ。遠くで鳴くだけならいいが、同じ車両にいたらやばい。もし身体を這われでもしたら……。
辺りを見回すも、俺のようにほとんど眠っている乗客しかいない。ふと向かいの座席に座る乗客が目についた。
滑らかなチョコレートみたいな肌に、ベリーショートの黒髪。背は高くて脚も長くて、一見青年のようにも見えるが、トップスの身体の線を隠すカットソーと、顔の輪郭の柔らかさから女性のようにも見える。
黒くて大きな瞳と視線がぶつかる。りーんりーろ。
「うわっ!」
視線を逸らそうとした瞬間、鈴虫の鳴き声が聞こえて思わず声を出してしまった。向かいの乗客は不思議そうな顔をした。
「い、いや…この車両に鈴虫、いますよね?びっくりしたあ…はは」
「あなた、耳がいいですね!まさしく鈴虫ですよ。今の音を出した種の、正確な名前までわかりますか?」
「えっ?名前?そこまでは…小さい頃に聞いたぐらいなので」
「それはそれは、良い幼少期をお過ごしで」
向かいの乗客は面食らう俺を気にせず、上機嫌で俺の隣に座った。背が高いから、俺は不思議な乗客を見上げる姿勢になる。細い首に等間隔にならぶホクロが、呼吸するように揺れる。隣に座られて初めて気づいたが、背中が山なりに盛り上がっている。しかし姿勢が悪いという感じでもない。服の下にリュックかなにか背負っているような塩梅だ。
「あなたは鈴虫がお好きなんですね」
「ええ、同胞ですから」
「どうほう…ってなんですっけ」
「仲間ですね」
…もしかしてやばい人かもしれない。もしくは俺が夢の中にいるかだ。
「今の時期は、セミ社と鈴虫社の商売の入れ替わりの時期なんですよ。日照りのあとに雷を伴う大雨が降るでしょう?あれが始まるまではおおよそセミ社のかきいれ時です。私たちも夜には商売をしていますが、最近はセミ社も延長届を出して夜までやっていますねえ。
そして夏の大雨が降って、空が曇りだす頃から私たちも昼に商売を始めます。逆に大雨のたびにセミ社は来年の準備に入ります。昨日も大雨が降ったでしょう。今日も曇りですし、やっといい気温になりそうなもんで、私もこの時間帯に出勤しているんです」
「はぁ…早起きや夜勤はつらくないですか」
「暑い日中に比べれば全然ですね」
「いいなあ。俺は眠くて眠くてたまらないです」
「でも朝は夜ほど人気がないから、私もついつい羽を伸ばしてしまいますね。ほんとは驚かれてしまうので、人前では伸ばさない方がいいのですが」
「えっ、どんなことしてるんですかぁ」
羽を伸ばして驚かれるなんて。相手の丁寧な話しぶりから、人から驚かれるようなことをしているようには全く見えなくておかしかった。俺の語尾には馴れ馴れしい響きがまとわりついていたが、不思議な乗客は興味を持たれて嬉しいのか、瞳を輝かせた。
「ふふ、あなたは鈴虫がお好きなようなので、見せてあげましょう。ほら、これが私の『羽根』です」
カットソーを軽やかに捲る。
チョコレート色の背中に、銀色に光る繊細な楕円型。瞬くように震え、りーんりーろ、と鳴った。
夏の盛りとはいえ夜明け間もない朝だから、弱冷房車の寒くも暑くもない気温が心地良い。せめて会社の最寄り駅までは眠ろう。
りーんりーろ…
素朴で涼しげな音が耳をくすぐる。なんだろう、懐かしい音色。水に濡れた草の匂い。そういえば昨晩は雨だった。
りーんりーろ…りーんりーろ…
澄んだ音が俺のそばに近づく。懐かしいということは、小さい頃に聞いたんだろうか。
りーんりーろ…りーんりーろ…りーんりーろ…
鈴の鳴るような音……。
鈴虫だ!しかも近くにいる!
眠気がサァっと引いていく。俺は虫が苦手だ。遠くで鳴くだけならいいが、同じ車両にいたらやばい。もし身体を這われでもしたら……。
辺りを見回すも、俺のようにほとんど眠っている乗客しかいない。ふと向かいの座席に座る乗客が目についた。
滑らかなチョコレートみたいな肌に、ベリーショートの黒髪。背は高くて脚も長くて、一見青年のようにも見えるが、トップスの身体の線を隠すカットソーと、顔の輪郭の柔らかさから女性のようにも見える。
黒くて大きな瞳と視線がぶつかる。りーんりーろ。
「うわっ!」
視線を逸らそうとした瞬間、鈴虫の鳴き声が聞こえて思わず声を出してしまった。向かいの乗客は不思議そうな顔をした。
「い、いや…この車両に鈴虫、いますよね?びっくりしたあ…はは」
「あなた、耳がいいですね!まさしく鈴虫ですよ。今の音を出した種の、正確な名前までわかりますか?」
「えっ?名前?そこまでは…小さい頃に聞いたぐらいなので」
「それはそれは、良い幼少期をお過ごしで」
向かいの乗客は面食らう俺を気にせず、上機嫌で俺の隣に座った。背が高いから、俺は不思議な乗客を見上げる姿勢になる。細い首に等間隔にならぶホクロが、呼吸するように揺れる。隣に座られて初めて気づいたが、背中が山なりに盛り上がっている。しかし姿勢が悪いという感じでもない。服の下にリュックかなにか背負っているような塩梅だ。
「あなたは鈴虫がお好きなんですね」
「ええ、同胞ですから」
「どうほう…ってなんですっけ」
「仲間ですね」
…もしかしてやばい人かもしれない。もしくは俺が夢の中にいるかだ。
「今の時期は、セミ社と鈴虫社の商売の入れ替わりの時期なんですよ。日照りのあとに雷を伴う大雨が降るでしょう?あれが始まるまではおおよそセミ社のかきいれ時です。私たちも夜には商売をしていますが、最近はセミ社も延長届を出して夜までやっていますねえ。
そして夏の大雨が降って、空が曇りだす頃から私たちも昼に商売を始めます。逆に大雨のたびにセミ社は来年の準備に入ります。昨日も大雨が降ったでしょう。今日も曇りですし、やっといい気温になりそうなもんで、私もこの時間帯に出勤しているんです」
「はぁ…早起きや夜勤はつらくないですか」
「暑い日中に比べれば全然ですね」
「いいなあ。俺は眠くて眠くてたまらないです」
「でも朝は夜ほど人気がないから、私もついつい羽を伸ばしてしまいますね。ほんとは驚かれてしまうので、人前では伸ばさない方がいいのですが」
「えっ、どんなことしてるんですかぁ」
羽を伸ばして驚かれるなんて。相手の丁寧な話しぶりから、人から驚かれるようなことをしているようには全く見えなくておかしかった。俺の語尾には馴れ馴れしい響きがまとわりついていたが、不思議な乗客は興味を持たれて嬉しいのか、瞳を輝かせた。
「ふふ、あなたは鈴虫がお好きなようなので、見せてあげましょう。ほら、これが私の『羽根』です」
カットソーを軽やかに捲る。
チョコレート色の背中に、銀色に光る繊細な楕円型。瞬くように震え、りーんりーろ、と鳴った。
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