『RM アンドレ・デジール 最後の作品』
エミールがジャンにもっと、もっと、と言葉をねだる姿はいつも子どものようだった。
エミールが言うには、「ジャンの言葉を聴くと、キャンバスに描きたくなるような景色が見える」そうだ。ジャンにとって好きなものを語ることは造作もないことだ。きっとこの世の大多数の人間だってそうだと思うし、エミールだって好きなものを語ることはできる。それでも才能あるエミールにインスピレーションを与えているのは、俺の言葉だ。嬉しくないわけがない。
贋作を作るときも、もともと大好きな名画について制作状況や解釈をエミールに語り聴かせるだけでいい。彼の目は喜びに輝き、潤む。しかしすぐに苦しみさえ孕んだ真剣な眼差しに変わり、スケッチブックに下絵を描きつけて、キャンバス以外にこの世に見るものはないとでもいうように、数日間己の世界に籠もった。まるでかつての画家たちのように。
こうなるとジャンにできることは少ない。エミールが絵にのめり込みすぎて寝食を忘れないように、彼の分の食事や休息の準備を整えてやり、そばで制作風景を見守るだけだ。
見守ると言っても、迷いのない筆運びや色鮮やかに埋められるキャンバス、絵の世界にいるエミールにただ魅入られているときも多かったのだが。
油絵は乾くのに時間がかかる。いくらエミールでも時間を早めることはできないから、最低限の待ち時間でパンを食べ眠りに落ちる。厚く盛られた絵の具は乾くのに時間がかかるから長く眠れる。キャンバスから離れたくないのか、頑なにアトリエのソファーで寝ようとするエミールをジャンがなだめすかして寝室に連れていくこともままあった。ベッドに押し込まれると、緊張の糸が切れたエミールはすぐに眠った。
「ん? あらら…パンくずついてるよ、エミール」
くちびるの端にパンくずをつけたまま眠るエミールを起こさないよう、ジャンは人差し指の腹でそっとパンくずを払う。言葉未満のうめき声が指を追うように漏れ出て、思わずジャンは微笑んだ。悩み多き青年であり、数多の画家が降りてくる贋作画家であり、眠る姿は子どものようであり。どんな名画に登場する人物よりも不思議で愛おしい。過去の巨匠も未来の画家も、もちろん写真にだって、彼の不思議、彼の本当は切り取れないだろう。
でも彼自身ならどうだ? 今の作品を描き終えたら、俺から見たエミールをそれと伏せて語ったら。数々の名画と同じ熱量で語れる自信はある。エミールは彼の複雑で唯一の肖像画を描けるんじゃないだろうか。
「今日は、不思議な男の話をしよう。まず彼は、いい顔をしている。彼の抱える悩み、世界と接したときの喜びが表情の内に秘められている。よこしまな欲望とは無縁の、澄んだ目の輝きもいい。彼に深く関わった人間は、彼がより良く生きることを、きっと望むだろう。この不思議な男は、複雑さを内に秘めながらも、己の信じた方向に愚直に進むことしかできない。でも、俺も……俺は、そんな彼が愛おしいと思う」
「……ジャン、これって」
鉛筆の動きが止まる。流石にエミールの才能を持ってすれば、気づかれてしまっただろうか? スケッチブックを覗き込む。描かれた人物は、
「えっ……俺?」
明るいところにいるのか、落ちている影はコントラストで濃いものの、しかしスケッチ全体は暗い印象ではない。紙の上の俺が、何より楽しそうに笑っているからだろう。急に鏡を見せられたときのような驚きで、言葉を失う。
「なんでだろう、君が他の人のことを話しているんだから君じゃないはずなのに、きっと俺も知っている人だ、俺をいつだって暖めてくれる気持ちだ、この瞳はきっとあの時の母さんと一緒だ!
そこまで見えて、やっぱりこの不思議な男は、君だと思ったんだ!」
堰を切ったようにエミールから言葉が溢れ出す。彼の母親の事情は知らないが、俺が彼に向けるのと同じ気持ちを、彼も俺に抱いていたなんて!
「エミール、俺が話した『不思議な男』は、お前のことなんだ。俺は、お前にお前自身の肖像画を描いてほしくて、」
「えっ、ええっ!?」
「俺の言葉でドガのエトワールを描けたんだ、きっと今度もエミールの内面が見えるような、素晴らしい作品になるだろうって、思って……」
「ジャンが俺のことを考えて話して、でも俺はその言葉でジャンが見えて、俺は俺自身を描いていて」
「うん、ややこしいことさせてごめん」
驚きで目を白黒させていたエミールは、スケッチブックに視線を戻した。
スケッチブックに描かれた俺が、エミールに笑いかけている。俺はいつも、こんなに幸せそうな顔をしていたのか。
「ジャン。流石にこのスケッチを、俺の自画像とは言えないけど……なんだか、すごく嬉しい……!」
エミールは、暖かな陽だまりを喜ぶ花のように笑った。
どんな贋作を描いていたときよりも、このスケッチは彼に平穏をもたらした。俺はそう信じたい。
「エミール……」
「これは誰にも渡さないし、大事にするよ!」
「ああ。そうしてくれると、俺も嬉しい」
★
「エミールさ~ん! 探してたスケッチブックって、これじゃない!? どう?」
「……これだ」
「やっぱりね~スーパー介護士マンは探し物も大得意! ……って、なんかいいね、このスケッチ。大切な人? って感じ」
「わかるか」
「だってこんなに嬉しそうにこっちを見てるんだよ?
描かれた方も描いた方も幸せだったんだなって、すぐにわかるよ!」
エミールが言うには、「ジャンの言葉を聴くと、キャンバスに描きたくなるような景色が見える」そうだ。ジャンにとって好きなものを語ることは造作もないことだ。きっとこの世の大多数の人間だってそうだと思うし、エミールだって好きなものを語ることはできる。それでも才能あるエミールにインスピレーションを与えているのは、俺の言葉だ。嬉しくないわけがない。
贋作を作るときも、もともと大好きな名画について制作状況や解釈をエミールに語り聴かせるだけでいい。彼の目は喜びに輝き、潤む。しかしすぐに苦しみさえ孕んだ真剣な眼差しに変わり、スケッチブックに下絵を描きつけて、キャンバス以外にこの世に見るものはないとでもいうように、数日間己の世界に籠もった。まるでかつての画家たちのように。
こうなるとジャンにできることは少ない。エミールが絵にのめり込みすぎて寝食を忘れないように、彼の分の食事や休息の準備を整えてやり、そばで制作風景を見守るだけだ。
見守ると言っても、迷いのない筆運びや色鮮やかに埋められるキャンバス、絵の世界にいるエミールにただ魅入られているときも多かったのだが。
油絵は乾くのに時間がかかる。いくらエミールでも時間を早めることはできないから、最低限の待ち時間でパンを食べ眠りに落ちる。厚く盛られた絵の具は乾くのに時間がかかるから長く眠れる。キャンバスから離れたくないのか、頑なにアトリエのソファーで寝ようとするエミールをジャンがなだめすかして寝室に連れていくこともままあった。ベッドに押し込まれると、緊張の糸が切れたエミールはすぐに眠った。
「ん? あらら…パンくずついてるよ、エミール」
くちびるの端にパンくずをつけたまま眠るエミールを起こさないよう、ジャンは人差し指の腹でそっとパンくずを払う。言葉未満のうめき声が指を追うように漏れ出て、思わずジャンは微笑んだ。悩み多き青年であり、数多の画家が降りてくる贋作画家であり、眠る姿は子どものようであり。どんな名画に登場する人物よりも不思議で愛おしい。過去の巨匠も未来の画家も、もちろん写真にだって、彼の不思議、彼の本当は切り取れないだろう。
でも彼自身ならどうだ? 今の作品を描き終えたら、俺から見たエミールをそれと伏せて語ったら。数々の名画と同じ熱量で語れる自信はある。エミールは彼の複雑で唯一の肖像画を描けるんじゃないだろうか。
「今日は、不思議な男の話をしよう。まず彼は、いい顔をしている。彼の抱える悩み、世界と接したときの喜びが表情の内に秘められている。よこしまな欲望とは無縁の、澄んだ目の輝きもいい。彼に深く関わった人間は、彼がより良く生きることを、きっと望むだろう。この不思議な男は、複雑さを内に秘めながらも、己の信じた方向に愚直に進むことしかできない。でも、俺も……俺は、そんな彼が愛おしいと思う」
「……ジャン、これって」
鉛筆の動きが止まる。流石にエミールの才能を持ってすれば、気づかれてしまっただろうか? スケッチブックを覗き込む。描かれた人物は、
「えっ……俺?」
明るいところにいるのか、落ちている影はコントラストで濃いものの、しかしスケッチ全体は暗い印象ではない。紙の上の俺が、何より楽しそうに笑っているからだろう。急に鏡を見せられたときのような驚きで、言葉を失う。
「なんでだろう、君が他の人のことを話しているんだから君じゃないはずなのに、きっと俺も知っている人だ、俺をいつだって暖めてくれる気持ちだ、この瞳はきっとあの時の母さんと一緒だ!
そこまで見えて、やっぱりこの不思議な男は、君だと思ったんだ!」
堰を切ったようにエミールから言葉が溢れ出す。彼の母親の事情は知らないが、俺が彼に向けるのと同じ気持ちを、彼も俺に抱いていたなんて!
「エミール、俺が話した『不思議な男』は、お前のことなんだ。俺は、お前にお前自身の肖像画を描いてほしくて、」
「えっ、ええっ!?」
「俺の言葉でドガのエトワールを描けたんだ、きっと今度もエミールの内面が見えるような、素晴らしい作品になるだろうって、思って……」
「ジャンが俺のことを考えて話して、でも俺はその言葉でジャンが見えて、俺は俺自身を描いていて」
「うん、ややこしいことさせてごめん」
驚きで目を白黒させていたエミールは、スケッチブックに視線を戻した。
スケッチブックに描かれた俺が、エミールに笑いかけている。俺はいつも、こんなに幸せそうな顔をしていたのか。
「ジャン。流石にこのスケッチを、俺の自画像とは言えないけど……なんだか、すごく嬉しい……!」
エミールは、暖かな陽だまりを喜ぶ花のように笑った。
どんな贋作を描いていたときよりも、このスケッチは彼に平穏をもたらした。俺はそう信じたい。
「エミール……」
「これは誰にも渡さないし、大事にするよ!」
「ああ。そうしてくれると、俺も嬉しい」
★
「エミールさ~ん! 探してたスケッチブックって、これじゃない!? どう?」
「……これだ」
「やっぱりね~スーパー介護士マンは探し物も大得意! ……って、なんかいいね、このスケッチ。大切な人? って感じ」
「わかるか」
「だってこんなに嬉しそうにこっちを見てるんだよ?
描かれた方も描いた方も幸せだったんだなって、すぐにわかるよ!」
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