金曜日の夜は
「誠司?急に、なんで」
「新太、今週からオロチ兄弟と同じところで働き始めたんでしょ?LINEも全然返ってこないし、疲れたんじゃないかなって思ってさ。はいこれ、晩メシ」
「えっ、うん、ありがとう……?」
誠司の突然の訪問に新太は目を丸くさせながら、玄関先で惣菜の入ったスーパーの袋を受け取った。絶望団地よりは小奇麗だが、廊下を照らす照明がチカチカと心もとないアパートの一室。そこが今一人で暮らす新太の生活拠点だ。遠慮がちに開けた扉へ、涼しい初秋の風が吹き込む。
「もしかして、もう食べ終わってた?」
「いや、買ってはきてたけど、まだ、」
「じゃあ一緒に食べよう。今晩泊まっていい?」
「うん。うん……?」
「今日寒いね」
新太は、多分本当に疲れている。新しい環境と旧知の幼なじみが押し寄せてきて、何がなんだかといったところだろうか。それでも誠司の「寒い」の一言にハッとした顔をして、半開きだった扉を押して中へ入るよう促した。二人も立てないような狭い玄関。端に寄せられたマーチンのブーツは、今週しっかり履き潰されて埃まみれだった。
「泊まるって、その、親とか、勉強は……?」
「まあ、うまいこと言ってきたから」
穏やかに自信を持って受け答えをすると、大抵の人間は誠司の言葉を信用する。誠司の両親も、予備校の講師も、新太も。もちろん全てがハッタリなわけではないけれど。明日の午前中には帰るから、と言うと、新太はそれ以上追求しなかった。
部屋の中は今週をなんとか乗り切ったという生活感に満ちていて、食卓にしているテーブルはその最たるものだった。まあごちゃごちゃと色々乗っている。新太はまず乗っているもの全てをテーブルの端に寄せ、掃除は後回しにして温める惣菜を選ぶのを優先するようだった。
「この辺のペットボトルって集めてる?」
「え?いや」
「じゃあ後で捨てれるようにまとめとくね」
「うん」
惣菜を温めに行く後ろ姿に呼びかける。心ここにあらずな返事だが、目の前のことでいっぱいいっぱいなのだろう。空のペットボトルを持参したビニール袋に入れながら、コンビニ弁当の容器や包装、チラシの類を選別してそれぞれ袋に詰める。最後に机を軽く拭いたところで、新太が戻ってきた。
「ペットボトルどころじゃないし」
「ごめん、やりすぎたかな」
「あっいや、たくさんやらせたと思って、」
「俺がしたくてやっただけだから。ごはん温まったんでしょ?食べよ」
こちらが気を遣っておいてなんだが、新太には気を遣わせたくない。新太の年の差を気にせず凭れてくれるところを、誠司は気に入っている。新太も疲れているのか、誠司が買ってきた夕飯を黙々と食べた。
「あっ、さっきの片付けたやつさ、一応分別して入れといたから。何か間違えて捨ててたら明日探して」
「うん。誠司はすごいな。何でもできて」
「何でもはできないよ」
「俺、今週気づいたら終わってて…全然ゴミ出ししてなかったなって、今お前がゴミまとめてるの見てやっと思い出した」
胃に物が入って元気が戻ってきたのか、新太の口数が増える。話しながらも三つ目の唐揚げに箸を伸ばしているし。唐揚げおいしいよね。
「俺は働いたことないからわかんないけど、そんなもんじゃないの、最初は」
「そうか……」
唐揚げを咀嚼しながら神妙そうな顔をする。神妙そうな顔をしていても、多分新太の意識は新生活より唐揚げの方に傾いている。よく噛んで食べてるし、目尻がなんとなく幸せそうなのだ。そんな新太を見ているだけで、誠司も箸が進む。今晩感じてる「好き」は鶏の味だ。
現場で働いているオロチ兄弟とは意外と顔を会わせないこと。元鬼耶高校の番長がバイトにいること。コンビニ弁当の種類は意外と少ないこと。覚えることが多くて頭がパンクしそうなこと。
新太はとつとつと、でも誠司の予想以上に今週あったことや思ったことを話してくれた。新しい日常は誠司にとっても目新しく、新太が違う世界で生きていること自体が面白かった。
「誠司は?」
「え?」
「誠司は今週、どうだった?」
新太がこちらに興味を持つとは思わなくて、誠司は少し驚いた。受験生らしく勉強の日々が続いているし、新太に比べたらとても単調な毎日だ。でも積み重ねだし、それが悪いとは思わないけれど。
「前会ったときと、そんなに変わりないよ」
「変わりない?そっか」
新太は視線を落とし、マグカップに波波注いだ緑茶に息を吹きかける。波打つ緑を見つめる伏せたまぶたがピクリと動いた。
「でも、俺が最近見たお前、サボってばっかりだったけど……?」
「流石に何もない日はサボってないよ!そうだな、そういう意味では……新太とまた会えてからは、俺も結構変わったかもしれない」
「成績が落ちたり?」
「ふふ、落ちてないから。こうしたい、ってことがはっきりしたんだよ。今日もそう思ったから来たんだし」
「なんだか、修学旅行みたいだね」
「いや、それはお前だけだろ」
「他所の布団ってだけじゃなくてさ、こうやって誰かと隣り合って寝るのがさ。それっぽくない?」
そうかな、と腑に落ちないまま新太は照明のスイッチを引いた。暗闇に垂れた白いスイッチだけがゆらゆらと浮かんでいる。
「寝相悪い方?」
「いや、普通かな」
「俺は蹴ったりはしないけど、結構ぐるぐる回ってる。うつ伏せで寝始めても、朝には仰向けになってるから」
枕に顔を押し付けて話すから、新太の声はくぐもっている。うつ伏せで寝れるもんなのかな、と誠司が隣を見たときには、新太はもう眠りに落ちていた。
★
「……ッ!今何時!?」
「9時だけど、今日はお休みでしょ?」
「あっ、そうか、土曜日……」
勢いよく上体を起こした新太は、休日と気づくと大きなため息をついて、もう一度布団に倒れ込んだ。良かったぁと心底安心したつぶやきが布団から聞こえてくるから、思わず笑ってしまう。こちらの笑い声が聞こえたのか、布団の中からも笑い声が聞こえてきた。
「今日は何か予定あるの?」
「いや、時間は決めてなかったけど、午後からでも見舞いに行こうと思ってて」
「そっか」
「誠司、朝飯は?」
「さっきその辺で買ってきて、勝手に食べたよ」
「何でもできてる……」
「そうかなあ」
新太は顔を洗い、白湯と開けかけのスティックパンを持って食卓についた。その後に着いていくように、誠司は正面に座る。黙々と食事は行われ、三本目のパンが食べ切られたところで、新太は空になったパンの袋を縛った。大きな伸びを一つして、白湯を飲みきる。新太の朝食が終わったことを確認して、誠司は机に前のめりになった。
「あの、もし新太が良かったらだけど。これから新太のお袋さんが帰ってくる年末までさ、金曜日に来ていい?晩ご飯、持ってくるから」
突然の提案に、新太は昨日押しかけたときよりも目を見開き、驚いていた。
「なんで?」
「新太、お袋さんが帰ってくるまで一人だし。楽になるかなと思って」
「いや、そうじゃなくて、なんでそこまで」
「……多分、悔しいんだと思う。あのときの新太のこと、ほんとは俺も救いたかった。楓士雄みたいにできなくても」
新太より先に起きて、少し外の空気を吸って、自分の気持ちを明確にした。正直はぐらかすことも考えていた。それでもこれがやさしさだけじゃなく、新太への執着に起因する行動なんだとわかってもらった方が、新太は諾々と受け入れるような気がしていた。
新太は言葉を失い、迷っているようだった。何か言いかけては、言葉がうめき声に変わる。
「ウー……。じゃあ、無理のない範囲で、来れば」
「今の間は、いいのかな。ほんとは嫌じゃない?」
「受験に影響しないか、とか、気になるけど。多分お前には勝算あるんだろ……。俺が気にしても仕方ないなって思って」
「あっ俺の心配だったんだ」
予想していたとはいえ、拍子抜けした。当たり前だろ、と新太は顔を両手で覆う。お前が俺に構ったせいで大学入れなかったら、最悪だろ。そんなぼやきが両手の間から漏れてきて、笑ってしまった。笑い事ではないし、新太の心配は最もだけど。
「昨日のさ、お前がこうしたい、って思ったことってこういうこと?」
「今の俺でできるのはこういうことかな、って。大人になったらもっと違うことかもしれないけど」
「お前、大人になったらもっと大それたことしそう」
「そう?」
そうだよ、と言いながら新太は席を立った。白湯を入れたコップを洗って、歯を磨きに洗面所へ。新太の生活がまた始まる。誠司は帰り支度を始めながら、それぞれの生活の一部にお互いが編み込まれる幸せを噛み締めた。
「新太、今週からオロチ兄弟と同じところで働き始めたんでしょ?LINEも全然返ってこないし、疲れたんじゃないかなって思ってさ。はいこれ、晩メシ」
「えっ、うん、ありがとう……?」
誠司の突然の訪問に新太は目を丸くさせながら、玄関先で惣菜の入ったスーパーの袋を受け取った。絶望団地よりは小奇麗だが、廊下を照らす照明がチカチカと心もとないアパートの一室。そこが今一人で暮らす新太の生活拠点だ。遠慮がちに開けた扉へ、涼しい初秋の風が吹き込む。
「もしかして、もう食べ終わってた?」
「いや、買ってはきてたけど、まだ、」
「じゃあ一緒に食べよう。今晩泊まっていい?」
「うん。うん……?」
「今日寒いね」
新太は、多分本当に疲れている。新しい環境と旧知の幼なじみが押し寄せてきて、何がなんだかといったところだろうか。それでも誠司の「寒い」の一言にハッとした顔をして、半開きだった扉を押して中へ入るよう促した。二人も立てないような狭い玄関。端に寄せられたマーチンのブーツは、今週しっかり履き潰されて埃まみれだった。
「泊まるって、その、親とか、勉強は……?」
「まあ、うまいこと言ってきたから」
穏やかに自信を持って受け答えをすると、大抵の人間は誠司の言葉を信用する。誠司の両親も、予備校の講師も、新太も。もちろん全てがハッタリなわけではないけれど。明日の午前中には帰るから、と言うと、新太はそれ以上追求しなかった。
部屋の中は今週をなんとか乗り切ったという生活感に満ちていて、食卓にしているテーブルはその最たるものだった。まあごちゃごちゃと色々乗っている。新太はまず乗っているもの全てをテーブルの端に寄せ、掃除は後回しにして温める惣菜を選ぶのを優先するようだった。
「この辺のペットボトルって集めてる?」
「え?いや」
「じゃあ後で捨てれるようにまとめとくね」
「うん」
惣菜を温めに行く後ろ姿に呼びかける。心ここにあらずな返事だが、目の前のことでいっぱいいっぱいなのだろう。空のペットボトルを持参したビニール袋に入れながら、コンビニ弁当の容器や包装、チラシの類を選別してそれぞれ袋に詰める。最後に机を軽く拭いたところで、新太が戻ってきた。
「ペットボトルどころじゃないし」
「ごめん、やりすぎたかな」
「あっいや、たくさんやらせたと思って、」
「俺がしたくてやっただけだから。ごはん温まったんでしょ?食べよ」
こちらが気を遣っておいてなんだが、新太には気を遣わせたくない。新太の年の差を気にせず凭れてくれるところを、誠司は気に入っている。新太も疲れているのか、誠司が買ってきた夕飯を黙々と食べた。
「あっ、さっきの片付けたやつさ、一応分別して入れといたから。何か間違えて捨ててたら明日探して」
「うん。誠司はすごいな。何でもできて」
「何でもはできないよ」
「俺、今週気づいたら終わってて…全然ゴミ出ししてなかったなって、今お前がゴミまとめてるの見てやっと思い出した」
胃に物が入って元気が戻ってきたのか、新太の口数が増える。話しながらも三つ目の唐揚げに箸を伸ばしているし。唐揚げおいしいよね。
「俺は働いたことないからわかんないけど、そんなもんじゃないの、最初は」
「そうか……」
唐揚げを咀嚼しながら神妙そうな顔をする。神妙そうな顔をしていても、多分新太の意識は新生活より唐揚げの方に傾いている。よく噛んで食べてるし、目尻がなんとなく幸せそうなのだ。そんな新太を見ているだけで、誠司も箸が進む。今晩感じてる「好き」は鶏の味だ。
現場で働いているオロチ兄弟とは意外と顔を会わせないこと。元鬼耶高校の番長がバイトにいること。コンビニ弁当の種類は意外と少ないこと。覚えることが多くて頭がパンクしそうなこと。
新太はとつとつと、でも誠司の予想以上に今週あったことや思ったことを話してくれた。新しい日常は誠司にとっても目新しく、新太が違う世界で生きていること自体が面白かった。
「誠司は?」
「え?」
「誠司は今週、どうだった?」
新太がこちらに興味を持つとは思わなくて、誠司は少し驚いた。受験生らしく勉強の日々が続いているし、新太に比べたらとても単調な毎日だ。でも積み重ねだし、それが悪いとは思わないけれど。
「前会ったときと、そんなに変わりないよ」
「変わりない?そっか」
新太は視線を落とし、マグカップに波波注いだ緑茶に息を吹きかける。波打つ緑を見つめる伏せたまぶたがピクリと動いた。
「でも、俺が最近見たお前、サボってばっかりだったけど……?」
「流石に何もない日はサボってないよ!そうだな、そういう意味では……新太とまた会えてからは、俺も結構変わったかもしれない」
「成績が落ちたり?」
「ふふ、落ちてないから。こうしたい、ってことがはっきりしたんだよ。今日もそう思ったから来たんだし」
「なんだか、修学旅行みたいだね」
「いや、それはお前だけだろ」
「他所の布団ってだけじゃなくてさ、こうやって誰かと隣り合って寝るのがさ。それっぽくない?」
そうかな、と腑に落ちないまま新太は照明のスイッチを引いた。暗闇に垂れた白いスイッチだけがゆらゆらと浮かんでいる。
「寝相悪い方?」
「いや、普通かな」
「俺は蹴ったりはしないけど、結構ぐるぐる回ってる。うつ伏せで寝始めても、朝には仰向けになってるから」
枕に顔を押し付けて話すから、新太の声はくぐもっている。うつ伏せで寝れるもんなのかな、と誠司が隣を見たときには、新太はもう眠りに落ちていた。
★
「……ッ!今何時!?」
「9時だけど、今日はお休みでしょ?」
「あっ、そうか、土曜日……」
勢いよく上体を起こした新太は、休日と気づくと大きなため息をついて、もう一度布団に倒れ込んだ。良かったぁと心底安心したつぶやきが布団から聞こえてくるから、思わず笑ってしまう。こちらの笑い声が聞こえたのか、布団の中からも笑い声が聞こえてきた。
「今日は何か予定あるの?」
「いや、時間は決めてなかったけど、午後からでも見舞いに行こうと思ってて」
「そっか」
「誠司、朝飯は?」
「さっきその辺で買ってきて、勝手に食べたよ」
「何でもできてる……」
「そうかなあ」
新太は顔を洗い、白湯と開けかけのスティックパンを持って食卓についた。その後に着いていくように、誠司は正面に座る。黙々と食事は行われ、三本目のパンが食べ切られたところで、新太は空になったパンの袋を縛った。大きな伸びを一つして、白湯を飲みきる。新太の朝食が終わったことを確認して、誠司は机に前のめりになった。
「あの、もし新太が良かったらだけど。これから新太のお袋さんが帰ってくる年末までさ、金曜日に来ていい?晩ご飯、持ってくるから」
突然の提案に、新太は昨日押しかけたときよりも目を見開き、驚いていた。
「なんで?」
「新太、お袋さんが帰ってくるまで一人だし。楽になるかなと思って」
「いや、そうじゃなくて、なんでそこまで」
「……多分、悔しいんだと思う。あのときの新太のこと、ほんとは俺も救いたかった。楓士雄みたいにできなくても」
新太より先に起きて、少し外の空気を吸って、自分の気持ちを明確にした。正直はぐらかすことも考えていた。それでもこれがやさしさだけじゃなく、新太への執着に起因する行動なんだとわかってもらった方が、新太は諾々と受け入れるような気がしていた。
新太は言葉を失い、迷っているようだった。何か言いかけては、言葉がうめき声に変わる。
「ウー……。じゃあ、無理のない範囲で、来れば」
「今の間は、いいのかな。ほんとは嫌じゃない?」
「受験に影響しないか、とか、気になるけど。多分お前には勝算あるんだろ……。俺が気にしても仕方ないなって思って」
「あっ俺の心配だったんだ」
予想していたとはいえ、拍子抜けした。当たり前だろ、と新太は顔を両手で覆う。お前が俺に構ったせいで大学入れなかったら、最悪だろ。そんなぼやきが両手の間から漏れてきて、笑ってしまった。笑い事ではないし、新太の心配は最もだけど。
「昨日のさ、お前がこうしたい、って思ったことってこういうこと?」
「今の俺でできるのはこういうことかな、って。大人になったらもっと違うことかもしれないけど」
「お前、大人になったらもっと大それたことしそう」
「そう?」
そうだよ、と言いながら新太は席を立った。白湯を入れたコップを洗って、歯を磨きに洗面所へ。新太の生活がまた始まる。誠司は帰り支度を始めながら、それぞれの生活の一部にお互いが編み込まれる幸せを噛み締めた。