我がことのように、互いに色を塗らん
広告として流れてきたのか、誰かのリポストか。流行りの服を着て街に立つ、見知らぬ男性の写真。前川新太はその爪が艷やかに光っているのに惹かれた。青っぽく加工された写真に、水色の爪が服装も引き立てている感じがする。いいねを押して、それからしばらく写真のことは忘れた。思い出したのは、桐原誠司とともに繁華街近くの百均の中を、あてもなく回遊しているときだった。
「あー、あるんだ……」
「あれ、新太そういうの塗るんだ」
「いや塗ったことはないけど、百均にもあるんだと思って」
「ここ大きいからね」
三階まである大型店舗は、新太や誠司の住んでいる地域ではまずない。一階は生活必需品の他にテーマごとに商品を陳列している。「夏を楽しむ」とまとめられた雑貨の中に、小指の長さほどのマニキュアのボトルが並んでいる。他の色は二階メイクコーナーへ、と誘導するポップもある。
「二階行っていい?」
「どうぞ」
他の色と言っても大した量はないだろう。新太の予想はすぐに覆された。色も多ければボトルの形も一種類ではない。多すぎて、下の方に陳列されているものは蓋にホコリが被っている。一階にも置いてあったキラキラしたものや、肌色に近い色が人気らしい。一列まるまる在庫がなくなっているところもある。
「塗ったことないけど興味があるの?」
「うん、なんかかっこいい感じの人見て」
「へえ」
「これ塗ったあとどうやって取るんだろ」
「リムーバーだって」
「あっそれもある……」
「ベースコートとトップコートもいるって」
「ある……お前もしかして今調べてる?」
うん、と寄せられたスマホには、マニキュアを塗る手順を説明する動画。濃い赤色が爪の上を瞬く間に滑っていく。赤もいいな。
「かっこいい人って、どんな感じの塗ってたの」
「水色。ほんとは違うかもしれないけど。加工してたから」
こんなの、といいねの奥深くに埋もれていた投稿を探し出し、誠司の方へ寄せる。やや長めの髪を脱色して、カラーサングラス越しの目つきはするどくて、よく見れば爪以外に服も小物も良く映えている。やはり服の広告だったが、被写体はモデルではなくてアーティストらしい。
「なるほど。こういうのが」
「あー、でもこれ黒かな……」
「光ってるところは水色っぽいね」
「どうしよ……」
「俺かご持ってくるから、それまでに決めといて」
「えっ」
今日このタイミングで買うのか。放り出されたような気持ちになって、新太は縋るような視線を誠司によこす。新太の買い物でしょ?と誠司は笑顔しか返さない。陳列棚が急にこちらを押し潰すような圧迫感をもって迫る。黒?水色?赤?夏のおすすめはビタミンカラーやラメ……。
新太の視線は当てをなくしたようにぐるぐる回る。そうこうしているうちに、もう誠司は棚の近くまで戻ってきていた。リムーバーやベースコートをぽんぽんかごに突っ込みながら。新太には時折、無自覚にこちらを追い詰める幼馴染がサメ映画のサメに見えた。
青、とりあえず青の棚だ。それらしい列に滑りそうな視線を固定して見る。ペンキみたいな青、ラメが入った青、紫みたいな青、黒っぽい青、黒っぽい青……。意外と当てはまりそうな色は二つもあった。よく見ると黒っぽいのは二つとも液体が透けている。紫に近い青か、水色に近い青かの違いらしい。水色に近い青を手に取り、半透明ということも加味して、シンプルな黒も手に取った。
「選んだ?」
「選んだ」
「二色なんだ」
「まあ、どうなるかわかんねえけど」
「じゃあ早く試そう」
「えっ今日?」
「日が暮れたら塗りにくいよ」
ベースコート兼トップコート、リムーバー、ネイルカラー二本、コットン、締めて五百円プラス税。日が長くなってきたとはいえ、六時前だ。避暑に入った百均から出ると、空はどことなくオレンジがかっていた。
近くの公園でベンチを探す。落ち着いた住宅街が近いから、小学生ぐらいの子どもはもう帰り支度を始めている。ビニール袋からベースコートと水色のネイルを取り出して、開ける。ツンとした臭いが漂った。
「これ、家じゃやれないな……」
「また公園で塗ればいいよ」
「えー、これから暑くね?」
誠司が改めてスマホで手本の動画を再生する。液体をたっぷり筆にとって、ボトルの口で適当に量を減らす。何回かに分けて塗る、の繰り返し。新太は慣れない筆の扱いに苦戦して、はみ出しながら左手の爪にベースコートを塗った。
「これ何分待つんだろ」
「五分から十分ぐらいかな」
「ていうか、左手でとか絶対塗れない」
「塗ってあげよっか」
「マジで?」
「マジで」
仕切りも背もたれもない今時珍しい簡素なベンチは、二人で向かい合うのにちょうど良い。釣り合ったシーソーのように向き合い、誠司は新太の手を取った。
新太の爪の表面は、多少乾燥しているものの大きな欠けもない。あれから、お互いに慌ただしく生活に変化があった。その過程で、新太は誠司に手を伸ばすことをいよいよ引け目に思わなくなった。新太の爪の上を、透明な液体がまんべんなく覆う。誠司も満更ではないのだろう。元来の優しさと、我が物としたい独占欲が混ざって新太から離れる気配がない。ベースコートを小指まで塗り終わっても、名残惜しそうに手を繋いだまま色々な角度へ傾けて、出来を確認している。
「手離して」
「左も塗ろうか?」
「いい、別に」
とはいえ流石に興味の第一投は譲りたくない。新太は小さなボトルを倒さないように、向かい合う二人の間に置いた。筆に粘っこく乗ったネイルを、ゆっくり爪に置く。
水色は粘りでつっかかりながら爪を染め……
「いや、これ、色ついてる……?」
「確かに、青って言えばうっすら青だけど」
「重ねたら濃くなるかな」
「でも今塗ったの乾かさなきゃ」
「めんどくさ……塗る?」
「ええー、やだ」
「さっきまで塗りたがったくせに」
「単なるめんどくさがりは助けたくないな。黒使う?」
「んー、とりあえずいいや」
新太の爪の上に、青いムラができる。誠司にまかせた右手の爪も、仕上がりに対して違いはなかった。スマホのライトで照らすと余計に不健康そうなムラが際立つ。二巡目の左手はまあまあ色が濃くなったものの、透明度が高いために塗れているところとそうでないところの差が激しい。いかにも初心者の所業で、見栄えは悪かった。まだ血の気が引いた程度の色合いの右手の方がマシだ。右手はもう塗らないことにした。
「俺にも塗ってよ」
「……?」
「なんでそんな驚くの?黒じゃなくて、その水色がいいな」
爪に色を塗った誠司なんて、新太は想像したことがなかった。それにこんな不健康そうな色を?まあ黒を塗ったところも想像したことはないが。日はゆっくり暮れて、街灯の光が降らないところは暗く青みがかる。スマホを光源にすると、一匹の蚊がゆらゆらと飛んできた。手を差し出す誠司の剥き出しの前腕に、落ちるように貼り付く。筆を置いて、新太はためらうことなく蚊を叩いた。
★
「そんだけでいいの」
「いい、これぐらいで」
利き手で何度も同じ動作を繰り返したから、段々色のはみ出しも少なくなってきたのに。新太が物足りなさを感じているのを知ってか知らずか、誠司は乾いた指をくるくると街灯に当てて眺めていた。塗る前よりもうっすらと青みがかって、つるりとした光沢がある。塗る前の方が健康的な色をしていた気がする。でも光沢は塗らなければ手に入らなかった。昼間に見たらもっと印象が変わるかもしれない。
「落とすやつさあ、ほんとに俺が持って帰ってもいいの」
「いいよ、新太の方が濃く塗ってるし、黒も塗るかもしれないでしょ」
「じゃあ落とすとき言って。持ってくるから」
「うん、塗ってほしいときも言うから。持ってきてね」
「うん。……うん?」
何かひっかかるような、丸め込まれているような。しかしどこがおかしいのか即座に気づけないまま、新太は誠司と別れた。誠司が公園でやっていたように、右手の爪と、マニキュアの小瓶を台所の照明にかざす。一度にこれだけしか減らないなら、二人でもしばらく遊べる。咄嗟にお前も買えばいいじゃん、という言葉が出てこなくて正解だった。こちらには未開封の黒もある。新太は食器を洗いながら、次は爪を黒で揃える想像をする。
青より目立つけど、やりたがるかな?
まだ見ぬ誠司の反応を想い描きながら、新太の夜は更ける。
「あー、あるんだ……」
「あれ、新太そういうの塗るんだ」
「いや塗ったことはないけど、百均にもあるんだと思って」
「ここ大きいからね」
三階まである大型店舗は、新太や誠司の住んでいる地域ではまずない。一階は生活必需品の他にテーマごとに商品を陳列している。「夏を楽しむ」とまとめられた雑貨の中に、小指の長さほどのマニキュアのボトルが並んでいる。他の色は二階メイクコーナーへ、と誘導するポップもある。
「二階行っていい?」
「どうぞ」
他の色と言っても大した量はないだろう。新太の予想はすぐに覆された。色も多ければボトルの形も一種類ではない。多すぎて、下の方に陳列されているものは蓋にホコリが被っている。一階にも置いてあったキラキラしたものや、肌色に近い色が人気らしい。一列まるまる在庫がなくなっているところもある。
「塗ったことないけど興味があるの?」
「うん、なんかかっこいい感じの人見て」
「へえ」
「これ塗ったあとどうやって取るんだろ」
「リムーバーだって」
「あっそれもある……」
「ベースコートとトップコートもいるって」
「ある……お前もしかして今調べてる?」
うん、と寄せられたスマホには、マニキュアを塗る手順を説明する動画。濃い赤色が爪の上を瞬く間に滑っていく。赤もいいな。
「かっこいい人って、どんな感じの塗ってたの」
「水色。ほんとは違うかもしれないけど。加工してたから」
こんなの、といいねの奥深くに埋もれていた投稿を探し出し、誠司の方へ寄せる。やや長めの髪を脱色して、カラーサングラス越しの目つきはするどくて、よく見れば爪以外に服も小物も良く映えている。やはり服の広告だったが、被写体はモデルではなくてアーティストらしい。
「なるほど。こういうのが」
「あー、でもこれ黒かな……」
「光ってるところは水色っぽいね」
「どうしよ……」
「俺かご持ってくるから、それまでに決めといて」
「えっ」
今日このタイミングで買うのか。放り出されたような気持ちになって、新太は縋るような視線を誠司によこす。新太の買い物でしょ?と誠司は笑顔しか返さない。陳列棚が急にこちらを押し潰すような圧迫感をもって迫る。黒?水色?赤?夏のおすすめはビタミンカラーやラメ……。
新太の視線は当てをなくしたようにぐるぐる回る。そうこうしているうちに、もう誠司は棚の近くまで戻ってきていた。リムーバーやベースコートをぽんぽんかごに突っ込みながら。新太には時折、無自覚にこちらを追い詰める幼馴染がサメ映画のサメに見えた。
青、とりあえず青の棚だ。それらしい列に滑りそうな視線を固定して見る。ペンキみたいな青、ラメが入った青、紫みたいな青、黒っぽい青、黒っぽい青……。意外と当てはまりそうな色は二つもあった。よく見ると黒っぽいのは二つとも液体が透けている。紫に近い青か、水色に近い青かの違いらしい。水色に近い青を手に取り、半透明ということも加味して、シンプルな黒も手に取った。
「選んだ?」
「選んだ」
「二色なんだ」
「まあ、どうなるかわかんねえけど」
「じゃあ早く試そう」
「えっ今日?」
「日が暮れたら塗りにくいよ」
ベースコート兼トップコート、リムーバー、ネイルカラー二本、コットン、締めて五百円プラス税。日が長くなってきたとはいえ、六時前だ。避暑に入った百均から出ると、空はどことなくオレンジがかっていた。
近くの公園でベンチを探す。落ち着いた住宅街が近いから、小学生ぐらいの子どもはもう帰り支度を始めている。ビニール袋からベースコートと水色のネイルを取り出して、開ける。ツンとした臭いが漂った。
「これ、家じゃやれないな……」
「また公園で塗ればいいよ」
「えー、これから暑くね?」
誠司が改めてスマホで手本の動画を再生する。液体をたっぷり筆にとって、ボトルの口で適当に量を減らす。何回かに分けて塗る、の繰り返し。新太は慣れない筆の扱いに苦戦して、はみ出しながら左手の爪にベースコートを塗った。
「これ何分待つんだろ」
「五分から十分ぐらいかな」
「ていうか、左手でとか絶対塗れない」
「塗ってあげよっか」
「マジで?」
「マジで」
仕切りも背もたれもない今時珍しい簡素なベンチは、二人で向かい合うのにちょうど良い。釣り合ったシーソーのように向き合い、誠司は新太の手を取った。
新太の爪の表面は、多少乾燥しているものの大きな欠けもない。あれから、お互いに慌ただしく生活に変化があった。その過程で、新太は誠司に手を伸ばすことをいよいよ引け目に思わなくなった。新太の爪の上を、透明な液体がまんべんなく覆う。誠司も満更ではないのだろう。元来の優しさと、我が物としたい独占欲が混ざって新太から離れる気配がない。ベースコートを小指まで塗り終わっても、名残惜しそうに手を繋いだまま色々な角度へ傾けて、出来を確認している。
「手離して」
「左も塗ろうか?」
「いい、別に」
とはいえ流石に興味の第一投は譲りたくない。新太は小さなボトルを倒さないように、向かい合う二人の間に置いた。筆に粘っこく乗ったネイルを、ゆっくり爪に置く。
水色は粘りでつっかかりながら爪を染め……
「いや、これ、色ついてる……?」
「確かに、青って言えばうっすら青だけど」
「重ねたら濃くなるかな」
「でも今塗ったの乾かさなきゃ」
「めんどくさ……塗る?」
「ええー、やだ」
「さっきまで塗りたがったくせに」
「単なるめんどくさがりは助けたくないな。黒使う?」
「んー、とりあえずいいや」
新太の爪の上に、青いムラができる。誠司にまかせた右手の爪も、仕上がりに対して違いはなかった。スマホのライトで照らすと余計に不健康そうなムラが際立つ。二巡目の左手はまあまあ色が濃くなったものの、透明度が高いために塗れているところとそうでないところの差が激しい。いかにも初心者の所業で、見栄えは悪かった。まだ血の気が引いた程度の色合いの右手の方がマシだ。右手はもう塗らないことにした。
「俺にも塗ってよ」
「……?」
「なんでそんな驚くの?黒じゃなくて、その水色がいいな」
爪に色を塗った誠司なんて、新太は想像したことがなかった。それにこんな不健康そうな色を?まあ黒を塗ったところも想像したことはないが。日はゆっくり暮れて、街灯の光が降らないところは暗く青みがかる。スマホを光源にすると、一匹の蚊がゆらゆらと飛んできた。手を差し出す誠司の剥き出しの前腕に、落ちるように貼り付く。筆を置いて、新太はためらうことなく蚊を叩いた。
★
「そんだけでいいの」
「いい、これぐらいで」
利き手で何度も同じ動作を繰り返したから、段々色のはみ出しも少なくなってきたのに。新太が物足りなさを感じているのを知ってか知らずか、誠司は乾いた指をくるくると街灯に当てて眺めていた。塗る前よりもうっすらと青みがかって、つるりとした光沢がある。塗る前の方が健康的な色をしていた気がする。でも光沢は塗らなければ手に入らなかった。昼間に見たらもっと印象が変わるかもしれない。
「落とすやつさあ、ほんとに俺が持って帰ってもいいの」
「いいよ、新太の方が濃く塗ってるし、黒も塗るかもしれないでしょ」
「じゃあ落とすとき言って。持ってくるから」
「うん、塗ってほしいときも言うから。持ってきてね」
「うん。……うん?」
何かひっかかるような、丸め込まれているような。しかしどこがおかしいのか即座に気づけないまま、新太は誠司と別れた。誠司が公園でやっていたように、右手の爪と、マニキュアの小瓶を台所の照明にかざす。一度にこれだけしか減らないなら、二人でもしばらく遊べる。咄嗟にお前も買えばいいじゃん、という言葉が出てこなくて正解だった。こちらには未開封の黒もある。新太は食器を洗いながら、次は爪を黒で揃える想像をする。
青より目立つけど、やりたがるかな?
まだ見ぬ誠司の反応を想い描きながら、新太の夜は更ける。