HiGH&LOW〜THE STORY OF ZOMBIE〜

 楓士雄。お前はいつだって無敵に見えた。それは喧嘩だけじゃなく、この世のありとあらゆる災厄にも、持ち前の太陽みたいな力で災厄自体を焦がしてしまうんだと、俺は信じていた。たとえ喧嘩で負けたって、心は折れたりなんかしない。俺はお前の力を誰よりも信じてる。
 だから校内を見回っていたときに、不意を突かれてアイツらの歯が楓士雄の手の甲を掠めたって、何も恐れてなんかいなかった。どこかに引っ掛けて擦りむいた傷と見分けがつかなかった。水は足りないから流すことはできなかったけど、他の人間ならともかく、でも、楓士雄なら大丈夫。その日の晩から楓士雄は熱を出した。食欲も失せ、絶え間ない頭痛に唸り声をあげた。
「お前が弱ってちゃ、みんな不安になっちまうぞ」
「それはそーだけどよぉ、頭いてえ…」
「すぐ治るさ」
 そうであってほしかった。どんなときでも楓士雄は負けない。負けた姿を見せたくなんかない。弱る楓士雄を誰にも見られないように、夜は空いた教室を楓士雄専用にして、俺は扉の前で周囲を見張った。楓士雄も理解していたのか、発熱が始まって五日は痩せ我慢をした。昼間を全力で乗り切った分、夜に全て返ってくる。かろうじて吐くのは窓の外にできているが、きっと勘の良い轟には全てバレている。ジャム男が生きていくために書き付けてきたノートは、途中から思い出ばかりが増えた。ジャム男は優しい。そこには楓士雄の負けた姿なんて一言も書かれていない。楓士雄の言葉や行動が、そうやって残るなら。俺が楓士雄の味方として、してやれることは何だろう。


 『あの日』の騒動で街は燃えたり壊れたりして、夜はより深く、星はより光るようになった。発熱から七日目の夜に、楓士雄の部屋の扉を叩く。今晩は晴れ。春は少し先だが、寒さの峠は越えている。雲はなく、星がよく見える。
「楓士雄、少し歩こうぜ」
「……おう」
 吐き気は収まっていたが、楓士雄の歩みは鈍い。二階から階段を降りて一階へ。人の気配がある。でも構っていられない。話しかけられないうちに楓士雄の手を引く。乾いて冷たい。正門は柵代わりの机だらけで、今の楓士雄では簡単に出入りできない。楓士雄を背負い、よじ登る。弱った身体は重い。俺のかいた汗はおそらく楓士雄にも降っていただろうが、楓士雄は何も言わず背負われていた。
 鬼耶高を襲うアイツらも、夜は皆どこかへ帰る。実際帰った先でどのように過ごしているのかは知らない。だから食糧を探しに行くのはいつも夜だった。コンビニが「帰る先」だった奴らに出くわしたとき、楓士雄は一番多くアイツらを倒した。そんな思い出の場所も、振り返らずに通り過ぎる。
 
 かつて鳳仙と決闘をした河原が眼下に広がる。川は黒く穏やかだ。月が無い分、夜空には明るい大きな星から小さな星までぶちまけられていた。
 橋の手すりに楓士雄が寄りかかる。俺も定位置の隣に並ぶ。どんなに星があっても灯がない夜だ。夜目はきいても鮮明には見えない。数少ない救いだ。街の惨状をぼかしてくれる。
「この辺でこんなに星が見えるなんてな」
「じいちゃんが住んでたあたりもさ、こんな感じだったぜ。夜は真っ暗で、あぜ道の灯り以外ほとんど何もなかった」
「懐かしいか?」
「まあな、でも昼間の方がいいや。あっちは星はきれいだけど、夜はほんっとに誰もいねえもん。まあ昼にしたってここほど人いねえけどな」
「わりぃな。身体、つらいのに」
「別に。気にすんなよ。これぐらいの時間がちょうどいい」
 まぶしくねえし、と楓士雄は夜空を見上げる。
「……今、どんな具合だ」
「もうまるっきり変だ。昼は暑くて、眩しくて、喧嘩の一番盛り上がってる時みてえな気分がずっと続いて落ち着かねえし、夜は逆に頭は痛えけど、気分は悪くない。動きにくいけど、ちょうどいい温度のお湯に浸かってるみたいで嫌じゃねえんだ」
「あんなに吐いたのに?」
「吐き気は確か……三日前ぐらいの、夜に落ち着いた。でも、もう俺駄目だ、負けたなって、そんとき思ってよぉ。前の俺だったらそんなのすげぇ悔しいはずなのに、負けたってわかっただけっていうか。全然そんな気持ちになんねえんだよ」
「悟ってんな」
「さとり、ってこんな感じか」
 ニカッと太陽みたいに笑うところは、怪我をする前と全然変わらないのに。敗北をただ受け入れるだけの楓士雄は遠く感じる。楓士雄を楓士雄たらしめるものは、これからどれだけ残るのか。仲間は、俺は、どこまでそれを許せるのか。もし楓士雄が全て消えたとき、誰が楓士雄に引導を渡すのか。そんなこと、していいのか。楓士雄がそうなるまで「していいのか」なんて思いもしなかったのに。
「おい黙るなよ。いなくなったかと思うじゃん」
「いるって」
「司、これから俺にどうしてほしい」
 楓士雄らしくない。楓士雄はいつも自分で道を決めてきた。でも、もう今までと同じように上にいることはできない。ずっと考えて、たどり着いた答えはあった。
「お前のじいちゃんち、この川の上流の方角へずっと歩けばたどり着く」
「おう」
「戸或市はお前のじいちゃんちの西にある。太陽が落ちていく方に歩け。鈴蘭は前行ったし、鳳仙も同じ市内だ。標識ぐらいあるだろ」
「鳳仙の次は、川沿いに下流へ歩け。途中で団地がある。最後に鬼耶高」
 川を上流、じいちゃんちの西、太陽が落ちる方、下流、と楓士雄はキーワードを復唱する。川を指さして、ルートを想像する。
「鬼耶高に着いたらどうする」
「俺と、タイマンしてくれ」
 楓士雄の口角が上がる。
 瞳がどの星よりもまばゆく輝く。
 喧嘩の時の高揚が、身体中に満ちる。
 ああ、と応える声は少し上擦り、期待を噛みしめるように乾燥した拳を強く握りしめる。
 一番見慣れた楓士雄が、久しぶりに俺の目の前に現れた。嬉しさと悲しさで目の奥が熱くなっても、俺はどうしたって視線を逸らせない。俺が最も心強く信じている存在。楓士雄が好きだ。それでも、鬼耶高に残っている連中にとっては、もう一緒にはいられない。お前に「楓士雄」の名残が残れば残るほど、皆も、俺も、苦しむだろう。それなのに、お前のいない世界なんてと思うのに。お前のあとに続いて変わっていくことを、俺はまだ選べない。
 俺の覚悟が決まらなかったばかりに、楓士雄は孤独な旅に出る。せめて、皆のために遠くへ旅立ったということにしておけば、生き残った人間は楓士雄をずっと尊敬するだろう。でもそれだけじゃお前があまりに可哀想だ。だからもし次に出会うお前が「楓士雄」を失っていたとしても、俺だけはお前の喧嘩の相手になろう。
 俺と違って、楓士雄の顔には喜びだけがあった。あの日以来人間と喧嘩する余裕もなかったから。別れる前に、肩を寄せ合い握手を交わす。できるだけ長くこの手を握っていたい。楓士雄の肩へ落ちた涙の染みは、ずっと乾かないでいてほしい。
「しかし行ったことある場所ばっかだけど、全部徒歩だもんな。どれくらいかかんだろ」
「長くなるかもな」
「元気でいろよ、司。まあ大丈夫だろうけどな。おい!隠れてんだろジャム男!」
「ひえっ!し、静かにぃ!」
 震える手でシャベルを握り締めたジャム男が、物陰から顔を出す。慌ててシーッ!と唇に指を当てるが、緊張した視線は楓士雄の方から離さない。
「気をつけて帰れよ」
「……おう」
「タイマン、絶対だからな!司!」
 ゆっくりと橋を渡る後ろ姿が、闇に溶けていく。ジャム男が俺の腕をぎゅっと掴んだ。錨だ。俺があの闇に流れていかないように。
 楓士雄の姿が見えなくなり、足音さえも聞こえなくなった頃、ジャム男はずっと張り詰めていた息を吐いた。
「ハッ、ハァッ……俺、もう、もうだめかと……」
「ごめん。心配かけた」
「俺、いざとなったら楓士雄さんを……その……」
「あんな震えてて、できんのかよ」
「そりゃ倒すまではできなくても、司さんから引き離すぐらいは頑張りますよ!」
 そう言って剣道のようにシャベルを二、三度振り下ろしてみせる。風も切らないシャベル捌きに思わず笑ってしまった。
「そうか、俺も頑張んなきゃな」
「そうです!楓士雄さんは遠くに行っちゃったけど……でもきっと、俺たちだけでも頑張れますよ、司さん!」
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