食う話

 彼には食欲がなかった。生まれた時から能力として欠落していた。ヒトとして食べなければならないと教育されていたから何となく食べていた。現に食べなければ彼の身体は悲鳴をあげた。目眩や頭痛に苛まれた。だから彼は「食べること」は風呂に入ったり教育を受けたり働いたりするものとほぼ同じようなものなのだろうと認識していた。「腹が減る」というのは食事まえの掛け声だと考えていた。しかし、空腹を感じない人間が物をよく食べるはずがなく、彼はずいぶんと痩せていた。彼は食事を理性によって行っていたのだった。
 彼が二十歳になろうかというとき、同居していた母が亡くなった。父も既に他界しており、彼はひとりになった。彼は元々学校へ行っておらず、とある職人のもとに出入りしていた。その職人――親方は無愛想で人間というものにまるで興味がないらしく、夕方きっかり五時になると彼をさっさと追いだしてしまった。だから、夜になると彼はひとりだった。朝起きるときもひとりだった。ひとりでいると、彼は食うことを放棄した。それによって身体のどこかしらが痛むこともままあったが、そんなときはさっさと布団に入って寝入ってしまった。面倒なことはなるべく避けたかった。それでも人さまの目がある昼間には、形だけの食事をとった。親方はそれについて特に何も言わず、彼の隣でむっつりと座り込んだまま弁当をかっくらっていた。
 あるとき、昼飯の時間になっても親方が仕事に熱中していることがあった。彼は親方に飯時であることを伝えた。親方は彼に「ひとりで食ってろ」と言い放った。彼はひとりで仕事場の隅っこにうずくまり、無言で飯を食った。その次の日、また親方は飯を食わなかった。彼は親方に何故食わないのかと尋ねた。親方はただ一言「仕事に集中したいのだ」と答えた。彼はそれを聞いて、食事を放棄して仕事をする者もあるのかと感心した。そこでその翌日、彼は弁当を持たずに親方のもとへ行った。飯の時間になっても何も言わず、親方の隣で黙々と作業を続けた。親方はこれといって気にしている様子はなかった。気をよくした彼は、それ以降弁当を仕事場に持ち込まなかった。彼はとうとう何も口にせぬまま一月を過ごした。「食事」という煩わしい作業から解放された彼はささやかながらも幸せだった。しかしそんな彼の心とは裏腹に身体の痛みは日増しに激しくなっていった。ついにある日、彼は仕事場の入口に足を引っ掛けて倒れ、そのまま起き上がることはなかった。次に彼の意識が浮上した時、彼は白をはりめぐらせた病室のなかに居た。医者は彼に、栄養失調だからもう少し食うようにと注意をした。彼はがっかりした。やはり人として生まれた以上、食わねば死ぬのだ。いっそ死んでしまおうか。いやしかし、食うことから逃げるためだけに命を粗末にするのも悔しい。かくして彼は、またしても食うことを身体に強いるはめになったのだった。

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