Chapter3:True love for you

28 泡沫のおともだち ③


 学校が終わって、レッスン教室に向かっていた最中。「ちょっときみ」と声をかけられて、私はお気楽に振り返る。

『星を見つけたのだわ』

 熱烈な眼差しでそう断じたのは、ロンドンでも有名な劇団の一つである「スターダスト」を率いる座長ことデイジー・ガードナーだった。当の私は無知な田舎娘なので、やけに芸術的な魅力を纏う花のように麗しい女性が、そんな偉大な人物だとは知りもしない。のちにこの真実を聞かされることになるけど、私は危うく気絶して病院のお世話になるところだったのだ。
 有無を言わせず私を連れ去った彼女は、とんでもなくゴージャスでシックな建物の扉を容赦なく開けると、大股でとある部屋に突撃していく。そしてまたしても「星を見つけたのだわ!」と大勢の人がいる前で声を張り上げた。デイジー・ガードナーはブツブツと何かを呟きながら、急ぎ足でどこかへ行ってしまう。
 そう、つまりは……私はどんな理由で攫われたのかも分からないのに、初対面の人がズラリと集まるような場所にたった一人、美容室に預けられる子犬みたいに置いて行かれた。見知らぬ男の子と女の子と、男の人と女の人と、おじさんとおばさんと、その他諸々の、カエルみたいな目玉が大量に私へ集結する。
 こ、怖がっちゃ駄目。この人たちは、私の敵なんかじゃない。突然やってきた赤の他人を、物珍しそうに、もしくは不審に思って観察している、もしくは警戒して睨んでいるだけなのだから。

「し、し、深呼吸、深呼吸……」

 すーはー、と胸に酸素を送る。鼻は詰まってないし、肺の調子も万全。それなのに、吸った空気はそのまま上から下に流れていくみたいで、ちゃんと呼吸をできていないような気がする。お腹の内側に小さな竜巻が出現して、辺りを渦巻く風が無防備な脚を囲むから、初めてヒールつきのサンダルを履いた日みたいに震えが止まらなかった。
 私は憧れのあの子の名前を呼びそうになる。けど、ムッと口を噤んだ。こんな臆病な態度に、彼女は褒め言葉なんて発さない。凛とした表情で、私の行動を待つのみだ。なら私は、精一杯の勇気を込めて、この口角を上げてみせるだけ。再度深呼吸をしようと、すーの準備を終えて、次にはーを完了させようとした。

「ねーえ」
「はああ!」

 隣から女の子の声がして、私はびっくりしすぎたあまり、誤って超音波のような音を放ってしまう。やってもうたと口元を押さえつけたけど、時すでに遅し。一室にいる全ての人々は私をギョッと見つめていたし、私に話しかけた女の子も髪を逆立てて耳を塞いでいる。これはほんまにやってしもうた。

「びっくりするじゃない」
「うぅ、すみません……ほんとにすみません……」

 申し訳なさが私の体内にたっぷりと注がれていく。もしここが海だったら、すぐにでも砂浜を掘ってその穴に潜りたい。でもここには私の足を包んでくれるサラサラの砂たちはいなくて、艶やかなフローリングの上をサンダルに絡め取られた足で立つだけだった。

「アンタ、座長に誘拐されたってわけね」
「は、はい?」
「なに、そのピンときてないみたいな顔!」

 つい自信をなくして俯きかけたとき、横にいた女の子が私を覗き込んだ。私の正体を簡単に明かした彼女は、さくらんぼみたいな両目で私をジーッと見定めている。

「大根役者の美人と千両役者のブスだったら断然前者を選ぶわ。それなりに育成すれば役には立つんだから」

 女の子は私に指をさすと、父ちゃんに文句を垂れる母ちゃんとそっくりな、判子を押すみたいにクッキリとした発音を目立たせた。

「ま、アタシは千両役者の美人だけどね。分かったかしら?」

 私から離れると、彼女は悠々とクルリ回ってみせる。赤茶色の髪の毛が風船みたいに飛び立って、もしこの子の背後に青空が広がっていたのなら、どれほど印象的な場面だったのかと考えてしまう。彼女のオリーブが実った瞳はコロコロしているけど、その苦々しい実を食べることはできないのだと、誰にも渋抜きだってさせないような強かさが軸になっていた。

「おぉ、かっこいい……!」

 思わず感激した。こんなに物怖じせず、自分は自分だって宣言できる人がいるなんて。しかも、とびきり可愛い女の子! やっぱり都会は一味違う。ド田舎で過ごしてきた私なんか、ひょろひょろな海藻類でしかないのだと、気を引き締めるには十分な教訓だった。

「本気で言ってんの?」
「ん? えぇっと、嘘をつく必要なんてないです」

 キュートとか、チャーミングという単語の相応しい女の子は、その愛らしい相貌をちょっとだけ顰める。彼女の問いかけも、訝しい顔つきも、私にはフシギなもののようにしか感じ取れない。脳内を捻り出してもこれだ、という解答は出てこなくて、私はクエスチョンマークを差し出すことしかできなかった。

「……そう。素直でステキな子なのね」

 すると女の子は、まるで海の飛沫を躱すように瞳を逸らす。だけどそれも、たったの数秒のことで。彼女は間を置かずに、私と再び目を見合わせた。

「貴方って人は、本当に素敵!」

 それは、毎朝通うパン屋の店主からオマケでクッキーを貰うような素朴さや、スキップで角を曲がると運命的な出会いが用意されるような可憐さ。花弁が降り注ぐようなありったけの幸福を授かる、街中の、世界中の、老若男女に愛されて育ったような、ニッコリと鈍感な笑み。彼岸花みたいにカーブを描いたまつ毛の瞬き方も、周辺の空気を従わせるような妖精の息遣いも、目玉の瞳孔の位置すら自らの手で定める判断力も、彼女の作り出した研ぎ澄まされし演出だった。

「でも、貴方は観客の望みを演じることができるの?」

 今さっきまで私のそばにいた、雨上がりのレンガ道に逞しく直立する花のような女の子は、全人類から花束をプレゼントされるようなヒロインに生まれ変わって、雀が毛繕いをするみたいな仕草で私に尋ねる。柔らかで恐れを知らない口調は、さながら世間知らずのお嬢さんのようで。だけど、彼女の喉の奥深くを辿った終着点。中央に宿された私たちのコア。その生存を知らしめるシステマチックな鼓動に耳を澄ませば、分かる。彼女が私に質問を提示した、本当の意味が。

「そのために私は生きてる」

 私は少女を見据える。月と太陽が口付けをして、新しい月が巡り来るように。

「ロマンチックなライバル関係……えぇ、えぇ、まるで心が燃え盛るようね。火傷すら心地いいくらいなのだわ」

 いつの間にか、デイジー・ガードナーは私たちの間に割り込んでいた。私は仰天して女の子に飛びついてしまったが、彼女も演じることに飽きたのかすっかり強気な少女に戻っている。デイジー・ガードナーは恍惚としたひとときに浸るように、両手を交差して鎖骨の辺りに置いた。

「イシュミィ。彼女のこと、きみにお任せするわ」
「ハーイ」
「? あの、お任せするとは……?」

 円滑な二人のコミュニケーションの中に口を挟むのは気が引けたけど、私はおずおずと控えめに手を上げて質問をしてみる。

「今日からきみは、この『スターダスト』の一員よ。うふふ。ほら、みんなも突っ立っていないで、こっちにいらっしゃい」

 スターダスト、という僅かに聞き覚えのある名前を反芻する暇もなく、デイジー・ガードナーが周囲に呼びかけると、ゾロゾロと人集りが出来上がった。彼らは親しみを手のひらに乗せて、いっぱいの握手を私と交わしてくれる。列車から降りたあとみたいな人混みにもみくちゃされた私は、最後に残った女の子——イシュミィと向かい合った。

「アンタ名前は?」楽観的なヒトしかいないの、と彼女は前髪を人差し指でクルクル巻きながら言う。
「エリザベスです。エリザベス・ホープ」
「オーケー、エリザベス。アタシのことはイシュミィって呼んで。ちゃん付けもあだ名もイヤよ。そう歳も変わらないでしょうし、フツーに話しかけて」
「イシュミィ、だね。分かりました! ん? 違うな。えっと、はい、了解です!」
「そんな気はしていたの」

 イシュミィはやれやれと首を左右に振ると、つばの大きな帽子を整えてから私の手を強引に掴む。

「案内してあげる。ムダに広いから、アンタ一人だと心配になるものね」
「それは凄く助かる……ありがとう。ところで、ここってどこなのかな?」
「ハァ。ほら、ポケポケしてないでついてきて! 時間が勿体ないから、歩きながら話すわ」
「は、はい!」

 小腹を立てるように足音を鳴らすイシュミィだったけど、私を尻目に見たそのオリーブ色の眼は、微かながら愉快さを含んでいるみたいだった。


◆◆◆


「やけに嬉しそうなのね、エリザベス」

 レッスンの前のストレッチをしていた私の肩に、イシュミィが小さな顎を乗せてきた。私の鼻歌が普段よりもワンオクターブ高いのを、彼女は聞き逃さない。

「そりゃもう! 久しぶりに家に帰れるんだもん!」

 私は覇気のある声で答える。ぎこちない敬語は、気がつけばフラットな友達口調に移り変わっていた。
 ロンドンに旅立ったのは衝動的だったし、直感で行動しちゃうタイプだって自覚はあるから、尚のこと全力で応援してくれた母ちゃんと父ちゃんには感謝してもしきれない。簡単に物事が上手くいく、だなんて妄想するほど甘い世界じゃないから、とりあえずレッスン教室に通ってコツコツと道順を辿っていこう……と思っていた。
 でも、座長であるデイジーさんに連れ去られて、この「スターダスト」に訪れたあの日。つまりはスカウトされた、というわけだったけど、未だその実感は湧かないし、毎日が夢みたいに楽しいことだらけだった。
 大根役者かつ経験の少ない私は、レッスンについていくだけでも手一杯。だけど、ステージから眺める特別な景色を知ってしまったら、もう観客席に座っていただけのあの頃には戻れなくなった。この場所からなら、絶対に夢を叶えられる。あの子から貰ったものを返せる。そう確信した。
 厳しい稽古に振り回される生活に折れずやってこれたのは、私と同い年であったイシュミィの存在が大きい。彼女は私よりもずっと昔から劇団に入っていて、積み重ねられた努力が芝居からひしひしと伝わった。言葉遣いは少しだけ物騒だし、いつも不機嫌を曝け出していたけど、私は堂々とした振る舞いを崩さないイシュミィを尊敬している。そして彼女もきっと、「夢」を追いかけていた。
 同じような志を持ったイシュミィをかっこいいと、ただ拍手しながら見上げているだけではいられない。彼女が前へ進めば進むほど、私も負けないように前へ進んでいった。決してこちらを振り返らないイシュミィを、いつか真正面から包み込めるようにと願って。
 デイジーさんとの出会いは偶然以外の何者でもなかった。けど、私にとっての運命はイシュミィとの出会いだった。

「母さんのご飯をいーっぱい食べられるんだもん。あ〜、恋しくて堪らなかったよ……。父さんも元気かなぁ」

 もうすぐサマーホリデーがやってくる。スパルタな教育方針のスターダストにも休暇を与えてくれる温情はあったようで、スケジュール表を目にしたときはほっと胸を撫で下ろした。

「フーン。さぞ賑やかなお家なんでしょうね」
「そうそう。三人でトランプに白熱しすぎて、お隣さんに「殺人でも起こったのかと思った」って、心配されたこともあったからね」
「アンタが三人いるってことかしら? 楽しそうで羨ましいわ」

 彼女はカラカラ笑うと、ゆっくりと私の首に頬をくっつける。

「ねぇ、アタシも連れてってよ」

 その呟きは、湯船の中で話すみたいにくぐもった音だった。

「家族と旅行とか行かないの?」
「行かなーい。ウチ、遠出とかあんまりしないから」
「そっかぁ。家でまったりするのもいいよね」
「そうよ、それがヒマなの。ウチの中の時計だけ壊れちゃったみたいになるから」

 壁にかけられた時計を上目遣いに見つめるイシュミィは、カチカチと進む針の一歩をぼんやり眺めている。

「冗談よ。行くとしても、まずそんなお金ないし。それに、アンタのお休みをジャマするつもりもないわ」

 イシュミィは緩やかに体を浮かせると私の横に並ぶ。邪魔だなんて絶対に思ったりしない。それにもかかわらず速やかに頷けないのは、私の大好きな女の子——アリスの存在にあった。あの村に住む彼女と会えるのは、このホリデーシーズンだけ。だからどんな人だとしても、アリスとの二人きりの時間に割り込まれたくはなかった。

「ごめんね。けどいつか、イシュミィに遊びにきてほしい! まぁド田舎だから、ロンドンと比べたら何もない退屈なところなんだけど……」
「エリザベスといてアタシがヒマだったことなんてないじゃない」
「?」
「楽しみにしてる」

 イシュミィは呆れたようにほくそ笑むと、部屋にやってきたデイジーさんのところに駆け足で走っていく。彼女の偽りなく楽しそうな笑みは、小指を絡め取ろうとしながらも、スルリと解け落ちてしまうような滑らかさを貼り付けていた。
 彼女が「連れていって」と言ったのは、これが最初で最後だった。


 今回の公演も無事に幕を閉じた。撤収作業を済ませた私たちは、デイジーさんが貸切ってくれた店でお疲れ様パーティーを楽しんでいる。大がかりな演目だったのもあり、一同は達成感を喜ばしく共有し合っていた。
 隣の机からは何度も「乾杯!」と陽気にグラスの触れ合う音が奏でられる。私も釣られてレモンスカッシュを一口飲むと、じんわり甘酸っぱさが沁みていく。アリスの髪にそっくりな色合いだったから選んだけど、思った以上に美味しくて二口目はすぐに訪れた。瞬く間に空っぽとなってしまったグラスの底には何故だか満足感が居座り続けている。爽やかな水滴たちの光沢に目線を奪われていると、不意に初恋色の海がトクトクと注がれていった。

「大活躍だったのだわ、エイプリル」
「デイジーさん! ありがとうございます」

 テーブルの間を通りすがったデイジーさんがジュースを入れてくれて、私は慌てて頭を下げる。すると彼女は控えめに笑った。

「もっと堂々としないと。次はきみがみんなを導くのだから」

 艶めいたリップが美しく弧を描く。私はレモンスカッシュの残った唇をパクパクと、動かすしかなかった。

「ホリデーはゆっくり休んでちょうだいね」

 優雅に去っていくデイジーさんの後ろ姿に、うっかり見惚れてしまう。
 次の公演は、今日よりも大規模な会場で行われる。聞かされていたのはそのくらいだ。でも、みんな口に出さないだけで理解している。スターダストは年に一度、その会場で特別なステージを上演する。主演は座長であるデイジーさんよって選ばれ、それは将来への期待を込めたエールであるのと同時に、見習いのお星さまを卒業したという証でもあった。
 これまでに主役をいただけることは何度もあった。だけど、次の舞台は違う。ついに私の夢を叶える第一歩を、この足で踏み出せるのだから。

「そんなマヌケな顔をお客サマに見せるつもり?」

 震える指先から視界を上げると、そこにはイシュミィが立っていた。彼女はサイダーをストローで啜りながら、私を見下ろす。その面持ちはちょっぴり不貞腐れていて、だけどどこか嬉しそうだった。

「アタシの前だけにしなさいよ」
「イシュミィ……!」

 私を端に追いやりながら、彼女はドスンと豪快な音を立てて隣に座る。真四角の机にはみんなの頼んだメニューが並んでいて、それらをイシュミィはバイキングのようにお皿に入れては咀嚼して、なくなればまた次のターンへと移っていく。もしかしたら全種類を制覇するのではないか、というくらいのスピードで。

「い、いっぱい食べるね……!」
「色々どうでもよくなっちゃったの」

 食事に気を使っている彼女からは聞いたこともない惰性が零された。その間にも、イシュミィはオーロラソースがたっぷりついたポテトを一口で完食する。

「ねーえ。エリザベスはどうして舞台に立つの?」

 間延びした呼びかけだった。あの日、イシュミィが私を見つけてくれたときのように。
 アリスにはみんなを導く「一等星」になると伝えたけど、実は彼女に明かしていないことがある。
 私は独りぼっちだった。一人も友だちがいなくて、大好きな母さんと父さんには迷惑と心配をかけてばかり。世界からはみ出しものにされて浜辺に座っていると、私の意識は生まれたてのカメが海に向かっていくように、水の中へと吸い込まれるみたいだった。私にはカメみたいに、一人で生きていく勇敢さなんて持ち合わせていないのに。
 でも、そんな私と、アリスは友だちになってくれた。月光を秘めたような金髪に、ラベンダーのように大人びた紫の瞳を持つ、可愛い女の子。私の村に引っ越してきた彼女は、初めはトゲトゲした対応だったけど、それでも何故か私のそばにいてくれた。私を見捨てることは、一度だってなかった。

 アリスは赤の他人の私に、愛をくれた人だった。私はこの子に愛を与えてもいないのに、何も返してはいないのに、ただ私の隣にいてくれた。それが孤独な私をどれだけ救ってくれたのか、あの子は知らないだろう。
 私は彼女のことをもっと知りたくなって、しつこいくらいに色んな質問をしたし、会う度に「そこにいてくれてありがとう」と感謝を贈ることも忘れなかった。髪に咲いたブルースターも、瞳に混じったホリゾンブルーも、朝焼けの海みたいな色はあの子にぴったりで、私は大好きだった。
 アリスが私にくれた愛は、かけがえのないもの。この愛のおかげで、私はこうして生きてこれた。本当に幸せだった。

 でも、この世界にはきっと、昔の私みたいに辛い思いをしている人が沢山いる。
 その人たちは私と同じように、自分は独りぼっちなのだと心を閉ざしてしまっているかもしれない。だけど、そんなことはない。彼らは教えてもらうまで知らなかっただけ。私だってそう。アリスと出会うまでは知らなかった。
 だから、アリスが教えてくれたように、私もみんなに愛を届けたい。愛って、見かけは綺麗なもののようだけど、いざ渡されたら簡単に受け取れるものではなくて。美味しそうな林檎と見せかけて、その果実には毒が入っているかもしれない。だけど、私はその毒を醜いと言いたいわけじゃない。その果実は、白雪姫を殺してしまうかもしれないけど、アダムとイヴが分け合ったものでもあるんだよって、そう言いたいの。
 私のこの想いは我儘でしかないだろうけど、だとしても私はみんなに知ってほしい。それが私にできる、アリスへの恩返しにもなるはずだから。

「愛するため」

 夜空を星が貫くように私は答える。これが私の夢であり、生きる意味であり、天命だった。

「愛されもしないのに、できっこないわ」

 空になったことに気がつかないのか、彼女はストローを吸い続けている。ズズ、ズズ、と耳障りなノイズ音が軋めいた。

「アタシたちは客の望むものを与えるために演じる。それが何故か分かる? 愛には見返りが求められるからよ。要は等価交換なの。下心なんて付き物。純粋な想いなんてどこにもありゃしないわ。この心が満たされることだって、一生ない。だからアタシたちは、永遠に舞台のスターでなくちゃならないんでしょ?」

 無理矢理延命させられたストローには、暴力的な歯形がつけられていく。彼女の手は震えていて、微弱な振動は弱り切ったストローを怯えさせる。その動きは、親に叱りつけられて許しを乞う子供のようだった。
 イシュミィは多くを語らない人で、他人の事情にも首を突っ込んでこない。私が彼女について尋ねても、のらりくらりと平凡な世間話を聞かせるだけ。それはごく一般的な会話で、不自然さは香らない。だけど、イシュミィは自分の話をするときだけ、私なんかよりもよっぽど酷い大根役者になる。それを私は、ずっと知っていた。

「違う。私は見返りのない愛を知ってる。それがどれほど純粋な想いなのかも知ってる。だから私も同じように、世界中のみんなを愛したくて、あの舞台に立っているの」
「じゃあ、みんながアンタを傷つけたら、どうするの?」
「たとえ傷ついたって構わない。私は私の愛が届くまで、絶対に諦めない」
「ふざけた綺麗事、言わないでよ!!」

 彼女が激しい金切り声をあげた。そして次の瞬間、思いっきりグラスを床に叩きつける。

「正直に言いなさいよ! 誰かから愛されたいって、愛されないと死んじゃうんだって、アタシと同じだねって、早くアタシに言ってよ!!」

 立ち上がったイシュミィは散らばったガラス片を粉々に踏み潰しながら、机の上に置かれていた食器を私目掛けて次々と投げる。ドロリとしたオーロラソースやベタベタしたレモンスカッシュが、私の真っ白なワンピースをカラフルに染めていく。それはイシュミィの心境をありのままに浮かび上がらせたような色合いだった。
 騒ぎを聞きつけてやってきたメンバーはハンカチを手渡してくれたけど、私は全ての色を拭うことなく抱きしめる。
 彼女にも知ってほしい。いや、知ってもらわなくてはならない。君は貰いたいはずのものを受け止められていないんだよって。君は誰もから愛されるべき存在なんだよって。

「私はイシュミィのことが大好きだよ」

 だから私は、まっすぐに私の愛を伝える。共に切磋琢磨して過ごしたこの数年間で築かれた絆に、イシュミィが気づいていないはずがないのだから。

「なら、ホリデーはここに残ってよ」
「!」

 イシュミィは俯きながら、私にお願いをする。だけど、そのお願いだけは、私に叶えられないもの。ホリデーは、アリスと会える大切な時間であり、アリスという私にとっての愛情と、奥深くまで想いを繋ぐためのひとときだった。アリスの存在をそばに感じてこそ、私は自分の存在意義を確かめられる。私の信じる愛を信じていられる。だから「連れていって」と頼まれたときも、どうしても、譲ることはできなかった。

「誰かを信じるだなんてどうにかしてた」

 彼女は言い淀む私を見て、感情が抜け落ちたように薄ら笑う。

「あーあ、悪い夢でも見ていたのかしら。ねぇエリザベス。人生なんてね、知ってるか知らないかだけでパッと決まっちゃうの。バカみたいでしょ? アタシ、最初からどうしようもなかったの」
「イシュミィ、そうじゃないよ! 君は自分で、どうしようもなくなろうとしてる。目の前にあるものを拒んでいるだけなの、それじゃ駄目なの……」
「愛されたことのある人間にはわからないわ、もう手遅れになった人間のことなんて」

 彼女に触れようとして伸ばされた手は、彼女によって無慈悲に払われた。冷めたオリーブの実が私を蔑む。でも、イシュミィはやっぱり、自嘲気味に微笑んでいた。

「エイプリルの愛が泡沫の夢でしかないって、アタシが教えてあげる」

 淡白な響きで告げると、彼女は流れるように踵を返して、周囲の声なんて耳に入らないかのように店から出ていった。カラン、と鳴ったベルの音は、いたって清涼で。こちらに振り返りもしなかったイシュミィの赤茶色を結ぶ黒いリボンは、真夏の幽霊に攫われるかのように視界から消えていってしまった。


◆◆◆


 見習いのお星さまの卒業ステージは、私が想像していたよりも遥かに成功を収めた。その演目がキッカケとなってファンの数はどんどん増えていき、その後の舞台でも沢山の拍手と歓声をいただくことができて、私はチームの中でも一目置かれるようになっていた。一方でイシュミィとの交流はあの日を境にパッタリと途切れてしまい、私と彼女は目線すら合わなくなってしまった。デイジーさんたちからは単なる嫉妬だと慰められたけど、そんな稚拙な支配によるものではないのだと、私は分かっている。
 もう一度イシュミィと話さなければならない。そう決心して、みんなが帰ったあとも運よく居残っていたイシュミィに声をかけた。

「切羽詰まった顔なんかしちゃってどうしたの?」

 久しぶりに顔を合わせた私に腕を引かれても、イシュミィはこれっぽっちも驚いた素振りを見せない。コロリと愛らしい顔立ちには、永遠という二文字が連想された。

「存外早かったのね」

 一室にいる人々を置き去りにするように、彼女は上品に笑む。

「本当に素直でステキな子」

 そう言うと、少女の星を失った夜空のワンピースから、キラリと小さな手鏡が現れた。それは私が故郷から持ち出したもので、ところどころ傷がついていたりと少々古びた身なりをしている。でもその身なりは、私とアリスの思い出を物語るものでもあった。私はあの手鏡で毎日のように自分の姿を確認しては明日の目標を考えた。そしてアリスもたまに向こう側にいる自分を眺めながら、楽しそうに笑っていたのを覚えている。

「どうしてそれを?」
「夏風が届けてくれたの。カワイイ贈り物でしょ?」

 イシュミィは奥ゆかしく肩を揺らす。それから私に意見する隙間も与えず、右手から手鏡を落っことしていった。鋭い落下音が床に叫びつけられて、砕け散ったガラス片がイシュミィの右腕を切りつける。赤子の口から唾液が漏れるように血液は滴り、殴られたみたいにボロボロとなってしまった鏡の割れ目を静寂に埋めていった。

「キャア! なにするの、やめて、エリザベス!!」

 彼女の痛ましい涙声が放たれて、私は我に返る。

「お願いだから昔のアンタに戻ってよ……!」

 フラフラとその場に崩れ落ちた彼女は、顔を覆って啜り泣く。新鮮な傷口を放置する少女のワンシーンは、あまりにも健気だった。まもなくして、複数人のメンバーが室内に入ってくる。先ほど帰ったはずの面々だった。彼女は仲間に介護されるよう囲まれていく。どれほど優しい言葉をかけられても、イシュミィは幾度となく「昔のエリザベスに戻って」と悲痛を繰り返すだけだった。

 私の同年代やイシュミィと近い時期に入団した団員は、後輩である私に少なからず妬ましさを抱いていた。実力主義な業界であるのだと飲み込んでひたすら特訓に励める人なんていない。それでもみんなは堪えて、堪えて、いつの日か光が差し込むのを夢に見ている。
 イシュミィは、そんな彼らの負の感情を巧みにコントロールした。ある者には努力の実らなさに自身の苦労を話した上での同情を寄せて、その枯れかけたハートに過激なほどの闘争心を焚く。ある者には人気になってからのエリザベスは人が変わってしまったのだと、私を魔女に仕立てることで残酷な処刑こそが正義なのだと唆す。街中の、世界中の、老若男女に愛されて育ったような、素朴な村娘を完璧に演じながら。
 すれ違った人々は異端者を軽蔑するように私を睨み、コショコショとわざとらしく陰口を囁く。カバンの中に仕舞ったはずの台本も、シュレッダーにかけられたような見た目に変わり果てることがしょっちゅうで、私の私物にプライバシーなんてものは通用しなくなっていった。

 イシュミィの人柄を熟知していたデイジーさんは、飛び交う悪評がデタラメだと分かっていた。彼女は私に寄り添い、今すぐにでも騒ぎを鎮めようとしてくれた。だけど、私はそれを拒んだ。どんな傷を負わされようとも、私には痛くも痒くもない。私はアリスがいる限り、自分の愛を信じて突き進むことができる。その先には必ず、イシュミィがいるはず。こんなところで立ち止まってはいられなかった。

 でも。

「アタシ、引っ越すことになったの」

 サマーホリデーになって、いつもと変わらず故郷に戻った初日。アリスは私にそう告白した。

「……え?」
「ここから遠い場所なの。もうこうやって会えることもないわ」
「そ、そんな、いきなりすぎるよ! それに、もう会えないだなんて……」

 私は再会の約束すらない突然の別れに困惑した。けどアリスは慌てふためく私を見て、コラ、と怒ってはくれない。彼女は何故か、頼もしく口角を上げていた。その勇敢な表情に、なんだかじっとしていられなくなって、アリスに駆け寄ろうとする。だけど、彼女は私の動きを封じた。あの日私が夢を語ったときみたいに、魔法の杖を乾いた唇に当てて。

「口調が崩れなくなった、凄いじゃない。エリィはもう大丈夫よ。アタシが断言してあげる」

 アリスからの「大丈夫」は、私にとってのお守りみたいなものだった。彼女は安易に根拠のない言葉は渡さない。私と違って、常に現実的な視点を持つ少女だった。だからこそ、今、彼女の選んだ「大丈夫」という言葉が、私をじわじわと蝕んでいく。
 私が大丈夫でいられるのは、アリスがそばにいてくれるからだよ。だけどもし、そうじゃなくなったら……

「でもアリス……私……」

 喉がつっかえて、苦しくて仕方がなくて、それでも聞いてほしくて、私は口を開こうとする。だけどその瞬間、アリスは私に慈愛を包んで微笑みかけた。もう、口を開いてもいい理由は、溶けてしまった。彼女の綺麗な指先が私の唇から離れていく。一歩、また一歩とアリスは後退る。

「これだけは覚えていて。アタシはずっと、エリィだけを応援してるわ」

 だからいつの日かアタシのことを忘れてね。
 彼女が再度微笑んだのち、朝を連れた太陽が目を覚ます。私の目の前に、アリスの姿はなかった。

「……アリス? どこに行っちゃったの……? ねぇアリス! お願いだから返事をして! アリス!」

 私は何度も、アリスの名前を呼んだ。二回、五回、十回、百回と。喉の奥が枯渇してもなお、私は叫び続けた。だけど、彼女はもう、私の隣にいなかった。エリィと、世界でたった一つだけのプレゼントを、私のために開けてはくれなかった。
 浜辺に一人残された私の光景は、まるでアリスという存在が不必要になったのだと、水平線の先にいる透明で不明瞭な何者かに思い知らされているようで。私は見えもしない無色な彼らに、自分の愛を否定されたような気さえした。
 必死に掴んでいたサンダルが落ちて、浅い海水に横たわる。その横に、私もしゃがみ込んだ。嗚咽が止まらない。身体の震えが止まらない。起き上がることができない。両腕をギュッと掴んでも、そこには肉があるだけ。私がいるだけ。
 もうこのまま、背筋を丸めて、俯き続けたかった。だけど、そうしたらもう二度と、あの子は帰ってこない気がして。私は、前向きな思いで踏ん張った、だなんて果敢さではなく、ただただ恐れが張り付いたように硬直していた。
 私の大好きなホリゾンブルーは、気がつけばオレンジに染まっていて。その色は、アリスを攫っていってしまった朝日が、彼女の残り香すらも燃やし尽くすような、容赦のない熱を帯びていた。


 イシュミィによる魔女狩りはエスカレートしていった。首謀者が彼女であることには違いなかったけど、彼女が直接手を下すことはなく、民衆は勢力を伸ばしていく。だけど、それも極めて静かに、陰湿に。何故なら、私を断罪するのは彼らではなかった。
 彼らはどこからか、過去の私が見窄らしい田舎の娘であったのだという情報を入手した。魔女の正体を明らかにした人々は、すぐさま処刑の準備に取り掛かる。簡単な話だった。昔の私の写真をばら撒くのと一緒に、ありもしない邪悪なウワサを流せば、処刑場は完成したも同然なのだから。
 誹謗中傷の絶えない毎日が、ゆっくりと、丁寧に、積み重なる。終いには、私は舞台に上がっても、立つことすらできなくなった。スポットライトに当てられることが、孤独の証明のようで、恐ろしくなった。
 私はデイジーさんに連絡することもなく、無断でレッスンを休み続けた。彼女からの電話も、出ることができなかった。ふと、私は故郷行きの列車に手ぶらで乗っていて、到着してからフラフラと向かっていった先は、実家ではなくあの海だった。目先には曖昧な青に揺らがされた海が広がっている。約束の場所であったここに、もうあの子はいない。
 真冬にもかかわらず、私はお気に入りの白いワンピースにサンダルを身につけている。凍えるような海風が私の肌を掠めて、表面をジワジワと凍らせていくかのようだった。このまま砕けて、ただの欠片となって、海の中に消えてしまいたい。そう思った。
 サンダルを脱ぎ捨てて、水の中に入っていく。フシギと、冷たくはなくて、だけど、あたたかくもなくて。首元にまで波が近寄ってきても、何も感じなかった。空を仰いでも、初恋色の煌めきは見えなかった。

「私、何を信じればいいのか、分からなくなっちゃった……」

 塩の味が口一杯に満ちていく。
 あの甘酸っぱさが、恋しくなった。


◆◆◆


 アタシは何も知らなかった。エリィに襲いかかった、嫉妬や正義感による理不尽な暴力も、信じるも信じないも関係なく、世間に都合よく消費されていたことも。
 同じ生き物なのに自分がヒーローだと思い込んで、善良さを疑わずに腫瘍を取り除こうとする残忍さも、一人の人間を現実離れしたコンテンツとして、使い捨てるよう軽はずみに甚振る無分別さも、正気じゃない。
 でもアタシは、知ってしまった。エリィの命の灯火が消えかかっている、今になって。

 殺してやる。
 エリィの努力も、決意も、なんにも分かっちゃいないくせに。

 殺してやる。
 エリィがどんな想いを宿して夢を追いかけていたのかだって、知らないくせに。

 殺してやる。
 この子を傷つけたヤツら、全員、アタシが殺してやる。

「絶対に、殺してやるわ!!」

 ……だから、何?

 殺したところで、エリィは助からないじゃない。泡沫のおともだちイマジナリーフレンドのアタシに、何ができるっていうの? アタシがアタシである限り。最初からどうにもならなかったのに。
 アタシ、この世界にとって、エリィにとって、どうしようもなく無価値な存在だったのに。
 なのに、あのとき、どうして……

「泣かないで、アリス」

 それは子供をあやすように優しい男の声だった。

「……誰……?」

 アタシを認識する人物の名前に、聞き覚えはなかった。遠い異界から届くような声は、どこから伝わってきているの? アタシは辺りを見渡した。すると上から、イルカのお腹みたいに真っ白な手が降りてきて、その指先がアタシの頬を弱々しく撫でる。

「大丈夫だよ。僕も君と、同じ望みを抱いてる」

 真っ逆さまに舞い降りてきた青年は、アタシを見つめながら軽やかに綻ぶ。彼はアタシの額にそっとキスをすると、青緑色の瞳がエリィを指し示す。その直後、アタシの腕に、たしかな重みがのしかかる。ハッとして視線を変えると、エリィはアタシの腕の中にいた。彼女の身体は深海の底に引き寄せられることなく、アタシの身体に抱きしめられている。それなのに、この子の温もりは奪われてしまっていた。せっかく、こうやって触れ合えたのに。

「アリス。君をガーデンに招待しよう」
「なによ、それ」
「僕はどんな望みも叶えられる。勿論、君の望みもね」
「……!」

 男の眼差しは全てを見透かしていた。会話は不要だと言うように、男は微笑を浮かべる。アタシはグッと、唾を飲み込んだ。

「さぁおいで。僕らで夢を現実にしよう」

 彼が華奢な手を差し出す。アタシに、迷える選択肢はない。決意を焼き付けた手のひらでその手を握りしめると、青年もまたアタシの手を握り返した。
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