Chapter3:True love for you

28 泡沫のおともだち ②


 希望を宿したヒーローみたいに夢を宣言したエリザベスを、アタシは全力で応援するつもりで、厳しく容赦なく指導した。早朝に叩き起こして一緒に海辺を走ったり、三時のおやつを暫くお預けにしたり、今まで着たことのない服を選ばせたり。お察しの通り、エリザベスは弱音を零しまくった。でもこの子は意気地なしじゃないから、鼻水を啜っては頬をペチペチ叩いて、アタシの後を粘り強く追いかけてきた。
 彼女の自信のなさは、まず長い前髪がサポートしているのだと発見して、アタシはこれでもかってくらいおでこが見えるようにヘアピンをつけてあげた。ただ彼女は「お揃いにしてくれるんなら頑張る!」と譲らなかったから、仕方がなくアタシも前髪につけることにしたの。そしたらエリザベスは大層嬉しそうに、手鏡へと映り込むアタシたちに見入っていたっけ。
 エリザベスは「一等星になりたい」とは言ったものの、具体的にどういうことをするのかは決まっていなかった。やれることが沢山ある世の中で、彼女にしかできないこと。それを探し当てるのは困難だった。なんとなくこれにしよう、じゃダメ。これこそが自分の天命なんだって、そう断言できるくらいのことじゃないと、エリザベスは納得しないだろうから。

 でも、夢を抱いたあの日から、彼女は少しずつ成長を遂げている。ボサボサだった髪は鯨の瞳みたいに艶めいていて、おぼこい輪郭は新品の用紙のようにシャープになった。よく分かんないキャラの印刷されたTシャツはパジャマとして大活躍中。彼らと役割を交代したのは、白鳥のような神秘を広げた真っ白いワンピースだった。塗る習慣のなかった日焼け止めを欠かさず擦り込んだ肌に、その純真な色合いは見事にマッチしている。波風によって白旗みたいに靡いたワンピースの中には、細くありながらも丈夫さの窺えるふくらはぎが隠れていた。その長い脚を下になぞっていくと、洋服と同じ色をしたクロスストラップサンダルが目につく。ヒールの高いそれを、エリザベスは踊るみたいに履きこなしていた。
 アタシは、これといって変わっていない。歳を取らないのだから、当然のことだけど。でもあるとき、自分の髪に水色の花が咲いていることに気がついた。アタシはエリザベスが新しい設定を付け足したのだと察したわ。けど、あの子はアタシを見るなり「わぁ、どうしたんそれ? めちゃくちゃかわええわ」と大絶賛するばかり。設定なんて無意識に変更されていくものかと、アタシはもういちいち反応しなかった。それにこの花はどこか、朝焼けの海のカラーリングと似ていたし、彼女のセンスは悪くはない。鏡越しに水色の花弁たちを眺めていると、「もしかしてその花、ブルースターちゃうかなぁ?」とエリザベスが図鑑を凝視しながら教えてくれた。
 ブルースター。綺麗な名前。まるでエリザベスみたい。
 スラスラと流れ出た気持ちは、心の内側に閉じ込めた。こんなことを聞いたら、彼女はまんまと調子に乗るかもしれないし。だけど、それから数十分は、鏡の中から出ることができなかった。

 今日も今日とて、アタシとエリザベスは砂浜の上を渡っている。時刻はアタシが好き……らしい夜明け前。ぼんやりとした空からは、太陽がゆったりと近づいてきていた。夏の日の出は早い。
 水平線から視線を前に向き直ると、エリザベスの後ろ姿があった。彼女は白のワンピースを揺らしながら、ご機嫌に鼻歌を口遊んでいる。この歌は、エリザベスが幾度と浴室で聞かせてくれるものだった。子守唄みたいに、あたたかい音色。羊水の底に沈んでいくみたいで、でも呼吸はできるような、目も耳も口も、全部塞がれていて、それなのに安心感でいっぱいになるような。そんなメロディを、彼女は奏でてくれる。静けさを孕んだ波の動きも、足の裏と軽やかにタッチし合った砂の擦れも、エリザベスを慕ってやまない自我を持った楽器みたいだった。
 彼女の朝焼けの海のように澄んだ声は、アタシの宝物よ。内心でこっそりと囁いた。

「こんばんは」

 ふとそのとき、こちらに挨拶が届いた。振り返るとそこには、かなり小柄な女のヒトが佇んでいる。彼女の纏っていた着丈の長いゆったりとしたワンピースは、少女性の溢れるエリザベスとは違って、優雅で慎ましい女性らしさを醸し出す。女性は小幅に歩を進めると、アタシたちとの距離を縮めていった。やがて立ち止まると、彼女はエリザベスと一緒にアタシを挟むような位置に留まる。
 女性の茶髪は腰元まで伸びていて、遠目から眺めていたときは金色だと思い込むほど色素が薄い。だけど、肌色は健康的な小麦のようだったから、儚いイメージは抱かせなかった。彼女の耳元には、黄緑色をした菱形のアクセサリーをぶら下げたピアスが、気高く煌めいている。こんなに小さいのに、このヒトのことを一瞬でオトナだと認識したのは、このピアスの妙な輝きのせい……かしら。無駄のない佇まいも相まって、アタシは彼女がコドモだなんて疑いもしなかった。

「素敵な歌姫の正体はアナタ?」

 コテン、と女のヒトは小首を傾ける。彼女の目線の先に、アタシはいない。アタシを通り抜けた向こう側。そう、つまり、彼女は他でもない、エリザベスに問いを投げていた。
 エリザベスは貰った質問の意味を噛み砕けず、理解不能だというようにカチンと硬直していた。けど、分からないままでいられる、だなんて好都合が続くわけもなく。

「……うわああっちょっとまって!?」

 と、これまた大変可哀想なことに、目の前で起こってしまったハプニングを迎え入れるしかなかった。「はい、待ちます」だなんてバカマジメに答えた女のヒトは、アタシの身体を認知することはなく、エリザベスをまっすぐに見つめている。あまりにも真摯な眼差しに、エリザベスは居た堪れないといった風に、両手を顔に猛スピードで被せた。

「えっあっどっどこから聞いてました!?」
「恐らく初めから……と言ったら、アナタを困らせてしまうかしら」
「ほんますんません……今ここで砂に埋もれて死にます……」

 慌てふためくエリザベスとは相反して女のヒトは物凄く落ち着いている。そのエレガントの高みのような受け答えに、エリザベスはとうとう恥の蓄積が限界を越して、もはや耐えきれずヘニャリとしゃがみ込んでしまった。頭にワカメでも背負ったみたいに陰湿な顔色で、彼女は砂浜に穴を掘ろうとしている。
 いけない、これは弱虫モードだわ。この状態に入ると、エリザベスはネガティブの化身になってしまう。戻ってくるのにも時間がかかるから、ビンタでもデコピンでも何でもいいから目を覚まさせないと。だけど、今はタイミングが悪すぎる。ここでアタシがエリザベスに声をかけてしまえば、彼女は空気に話しかけるフシギな女の子として名を馳せることになるかもしれない。おともだちのいないこの子には今更かもだけど、ある程度の常識がひっくり返らない程度に過ごしてほしかった。

「ワタクシ、苦情を訴えにきたのではありませんのよ」

 アタシは何もできない不甲斐なさを痛感していた。けど女のヒトのリアクションは、さっきと変わらず冷静なままで。ふわりと柔らかな裾を支えながら、彼女はその場に屈み込んだ。顔を上げて。そう呼びかけるみたいに、エリザベスと目線を合わせる。

「もしかしたら人魚姫がいるのかもしれない、と思いましたの。そのうち、考えれば考えるほど、居ても立っても居られなくなって。年甲斐もなく、家を飛び出してしまいましたわ。そうして、優しい歌声の流れるがまま導かれた先に……」

 ——まさか、こんなに可愛らしいお星様がいらっしゃっただなんて。

 まるで夢のような出会いですわ、と夢物語を語りながら品性の籠った微笑を湛える彼女は、そこはかとなくあどけない少女のようでもあった。

「ワタクシ、すっかりアナタのファンです。よろしければこちらにサインをしていただける?」
「サササササイン!?」

 仰天するエリザベスにお構いなく、女のヒトは懐からミニサイズの色紙とペンを取り出した。準備の周到さに、アタシは驚きを通り越して少し引く。もしホントに人魚姫だったとしても、彼女はサインを書いて貰うつもりだったってことになるわ。どういう度胸の持ち主なのよと、じっとりとした半目で女のヒトを睨んでみる。けど彼女はお利口なお人形のように無表情で、ただそれでいてどんぐりみたいにつぶらな瞳には、きらきらと期待が瞬いていた。

「どうしよアリス、サインなんて考えたことあらへんかったわ」
「でもあの奥サマ、貰う気満々よ」
「そうなんよなぁ〜!」

 こしょこしょ、と耳元で作戦会議が開かれる。だけど長引かせちゃマズいから端的に結論を述べると、エリザベスは困ったように頭を抱えた。女のヒトはワクワクを潜めることなく、色紙を大切そうに摘んでいる。断られるとは微塵も思っていなさそうな待機の姿勢に、エリザベスは占い結果が最下位だったときのように唇を波線に描いていく。
 でも今のエリザベスは、自分の口に自分で糸を縫い付けることはしない。じんわりと、スローモーションに、波線は三日月に変身していった。

「う、じゃなくて……私でよければ、ぜひ! 書かせてもらいます!」

 元気よくお腹の底から声を出すと、彼女は色紙とペンを受け取って、黙々と筆を動かしていく。フシギとその動きに、迷いはなかった。

「こんな感じです。その……下手で申し訳ないんですけど」

 エリザベスは身を起こすと、自信がなさそうに頬を掻きながら、同時に立ち上がった女のヒトに色紙を手渡した。アタシは二人の間にいたから、邪魔にならないよう隣にズレておく。そのおかげで、アタシの横に並んだエリザベスは、一直線に腕を伸ばすことができた。
 女のヒトはそれを受け取ると、数分間ほど寡黙な生き物になった。表情は無をコーティングしたままで、瞬きすら忘れ去られている。一体何を感じているのか、さっぱり分からない雰囲気だった。
 アタシもエリザベスも、会話を切り出すことはルール違反のような圧がかかったから、ひたすら唾を飲み込むことで気を紛らわせる。エリザベスがギュッと、アタシの手を握る。アタシも彼女の手を、ギュッと握り返した。

「……まぁ、嬉しいわ……」

 すると聞こえてきたのは、粉砂糖がサラサラと手の中から流れていくみたいに、か細く清純な声だった。

「エイプリルさん、ありがとう存じます。早速自室に飾って、夫にも自慢いたしますわ」

 女のヒトは顔を上げると、ほんのり頬を染めながら、こちらに色紙の表側を披露する。そこには「April」と大きな文字が書かれていた。インク溜まりは目立つし、若干右上に偏りがちではあるけど、クッキリとした筆圧には強い意志が込められている。
 エリザベスからの贈り物を、女のヒトは表、裏、と何度もクルクルと回しながら、クリスマスプレゼントを貰った子供みたいに喜んでいた。その溢れ出る歓喜に共鳴するように、彼女の左手の薬指に嵌められた指輪が一際光を放っている。

「いえいえこちらこそです! ファンだなんて、初めて言ってもらえたので」
「あら、ワタクシが一人目ですの? それは大変……とても誇らしいことね。不相応な言動は許されませんわ」
「いやいや奥さんそんな名誉あることちゃいますから!」

 ボケているつもりはなく、いたって真剣な面持ちの女のヒトに、エリザベスは面白いほど振り回されていた。アタシは笑いを堪えたけど、女のヒトはお淑やかに笑みを深める。彼女は色紙を胸の内に抱きしめながら、祈るような仕草でエリザベスを熟視した。

「エイプリルさんの一人目のファンは、マリエッタという名にございます。この名を持った者が、アナタの煌めきに心を奪われたことを、どうか覚えておいてくださいまし」
「……! はい、絶対に忘れません。ありがとうございます」

 まるで小さな王国のお姫さまみたいに美しい会釈をしてみせたマリエッタに、エリザベスも深々と頭を下げる。「幸先いい始まりね」とエリザベスを肘で突くと、彼女は照れ臭そうに笑った。

「エイプリルさんは、お芝居がお好きなの?」
「芝居ですか? うーん……? 目立つのは苦手だし、演技もやったことないです」
「そうなの?」

 マリエッタの素朴な疑問は、エリザベスにとっては不可思議なものね。母親であるエリザベスは当然アタシの姿が見えるけど、赤の他人であるマリエッタからしたら、この海辺にいるのは二人だけなのだから。
 エリザベスは悩むような言い方で無関心を伝えたけど、マリエッタはほんの少し驚いたみたいに左手を頬に添える。彼女はつくづくとエリザベスを直視していた。そして、微かな時の間で、愛おしげに瞳を細めた。

「アナタならきっと……誰もを虜にしてしまうような、素晴らしい舞台女優さんになれますわ」

 一瞬、アタシの存在を認知したかのように目と目が合う。けど、それはどうやら気のせいだったらしく、マリエッタの丸い秋色の眼にアタシは映っていなかった。ドキリと波打った心臓を押さえて嘆息をつく。

「……舞台女優……」

 そんなアタシの横で、エリザベスが小さく呟いた。彼女は小刻みに胸を握り締めながら、海の向こう側に顔を傾ける。

「それ、ええかもしれへん……!」

 彼女の黒髪がフワリと舞い上がって、懐かしいような潮の香りが充満した。アタシの背を追い越しそうな少女の後ろ姿のそのまた先には、母なるホリゾンブルーが広がっていて、水色の奥底から蘇るみたいに太陽が現れる。白っぽい光は海面に照らされて、それは真夏の木漏れ日のように眩しかった。エリザベスはこの日から朝の海が好きになったのだと、湯船の水を両手で掬いながら、飽きることを知らずに話していたわ。そしてアタシの瞳にも彼女が好きだといった瑞々しい色が、淡いラベンダーへと仲睦まじく混ざり合うようになった。


◆◆◆


 確固たる夢を見つけてからのエリザベスには、迷うという選択肢がなくなった。彼女は自分一人の力で親を説得して、ロンドンへ旅立つことになった。口煩いママも、心配性のパパも、最初は勿論賛成しなかったわ。でも、内気で泣き虫だったカワイイ娘が、揺るがすことのないお願いをしてきたのは初めてで。二人は折れる、というよりも、包み込むような形で、エリザベスのワガママに協力した。エリザベスは目一杯愛されて育った女の子で、そのことを彼女の子供であるアタシは一番に理解していたのよ。
 どんなに多忙でもサマーホリデーには必ず帰ってくると、あの子はパンパンのキャリーケースを転がしながら去っていった。アタシはこの村に住む女の子、っていう設定だから、一緒に行くことは叶わなかったけど、これでよかったのだと思う。寂しくなかったといったら、ウソになる。でも、どれだけ離れていようとも、エリザベスの存在をすぐに感じ取ることができる。それに、あの子だって頑張っているはず。なら、彼女の理想の少女であるアタシが、メソメソなんてしていられないわ。

 エリザベスは約束通り、毎年サマーホリデーのシーズンには村に戻ってきた。彼女はママとパパを差し置いて、いっつもアタシの元へといの一番に駆けつける。アタシとエリザベスの絡みは、端から窺えば一人芝居でしかない。だから集合場所は海にしようとアタシが決めた。けどエリザベスはアタシを発見するなり、キャリーケースを投げ捨ててアリスと大声で呼ぶものだから、アタシのお優しい気遣いも水の泡になる。もう好きにしたらいいけど。
 浜辺を散歩しながら、彼女はロンドンでの生活を報告してくれた。とある劇団にスカウトされたこと。新しい仲間ができたこと。美味しいグルメが沢山あって、体重計に乗るのが恐ろしいこと。でも、ママのご飯が一番好きだってこと。レッスンは凄く厳しいものだと言っていたけど、エリザベスは終始楽しそうに喋っていたのよ。それがアタシは、堪らなく嬉しかったの。

 一年、二年、と月日が流れていく中で、彼女はアタシの身長を追い抜いた。この前の測定では、ついに百七十センチメートルを越したらしい。エリザベスの両親は平均的な背丈だけど、たしかパパの方のおじいちゃんがびっくりするくらいの大男って話を小耳に挟んだことがある。「遺伝子が上手く運ばれてもうたなぁ」と、エリザベスのパパは優しげに我が子の頭を撫でていた。
 エリザベスは小さな少女から、立派な女性へと咲き誇っていく。まるで海の女神サマみたいに神秘的な彼女と、泣きベソをかいて俯いていた以前の彼女は、全く別人のようだった。エリザベスの美しさは生まれ持った才能じゃない。今だって少しでも気が緩めば、その麗しさはいとも容易く蕩けていってしまう。
 だから彼女は、一瞬たりとも心臓に宿した決意を忘れない。一等星という天命に、命を捧げた覚悟を持っていたのだから。

「エリィ」
「んー?」

 エリィ。それは、アタシからこの子への、初めてのプレゼントだった。彼女はこれから、「エイプリル」として輝きを放っていく。アタシにとっては、エリザベスもエイプリルも、最愛の相手に変わりはない。そんな想いが届くといいと思って、アタシはホリデーに帰ってきた彼女へ予告なくあだ名で呼んでみせた。すると彼女は、両手に抱えたお土産をどっさり砂浜の上に落として、アタシに勢いよく泣きついてきたっけ。情けない泣き顔を曝す彼女に、なんだ、何にも変わっちゃいないのね、だなんて意地悪な秘密を喉元に忍ばせながら、アタシも無邪気に抱き締め返した。
 今では聞き慣れたあだ名に、エリィは能天気な返事をする。彼女はサンダルを脱いで、パシャパシャと水色で染まった海に素足を浸していた。穢れの見当たらない純朴なワンピースが翻ると、濃厚な青色の双眸がアタシを捕らえる。その純粋なラピスラズリから視線を逸らしたくなったけど、アタシは拳を握ることで必死に我慢した。

「アタシ、引っ越すことになったの」
「……え?」

 この子はもう、ちっぽけで引っ込み思案な少女じゃない。そして、もう、独りぼっちでもなくなった。海中を気ままに漂うような空想ではなく、大地に足の裏を踏み締めるような現実で生きていける。

「ここから遠い場所なの。もうこうやって会えることもないわ」

 なら、泡沫のおともだちイマジナリーフレンドのアリスは、きっとエリィの足枷になってしまうに違いない。だからアタシは、彼女に別れを告げようと決心した。

「そ、そんな、いきなりすぎるよ! それに、もう会えないだなんて……」

 案の定、エリィはひたすら困惑して、アタシに駆け寄ろうとする。けど、アタシはその動きを封じる。あの日彼女が夢を語ったときみたいに、魔法の杖を潤んだ唇に当てて。

「口調が崩れなくなった、凄いじゃない。エリィはもう大丈夫よ。アタシが断言してあげる」
「でもアリス……私……」

 エリィは髪飾りのリボンの端っこを掴みながら何かを言いかけたけど、アタシは慈しみを滲ませるように微笑みかけることで、彼女の言葉を立ち止まらせる。アタシは静かに指を離すと、エリィから一歩、また一歩と後退していく。そして、清々しく差し込んだ朝日と共に、もう一度微笑んでみせた。

「これだけは覚えていて。アタシはずっと、エリィだけを応援してるわ」

 だからいつの日かアタシのことを忘れてね。

「……アリス? どこに行っちゃったの……? ねぇアリス! お願いだから返事をして! アリス!」

 ポツンと一人残されたエリィは、アタシの名前を何十回と叫ぶ。でもアタシは、もうその声には応えない。彼女の手からサンダルが零れ落ちて、ピチャリと海水が弾ける。切なくて儚い音色は、何回も繰り返された。しゃがみ込んで、肩を震わせるエリィの背中を、こっそりと見守る。アタシは、小さくなったとしても丸まらなくなったあの子の背中に、心底安堵したのを自覚すると、彼女が消えるまでグッと息を潜めていた。エリィは偶然通りかかったママが迎えにくるまで、帰ろうとはしなかった。海はすっかり、冷蔵庫で冷やしたオレンジの皮みたいに、チラチラと鮮やかに発光している。


 エリィはホリデーの時期になるたび、あの海に訪れてアタシのことを探した。泡みたいに繊細な声が、パチン、パチン、と痛ましく破けるように、アタシの名前を呼びながら。けど次第に、この浜辺にはアタシだけが取り残されるようになった。透明なホリゾンブルーも、懐かしい潮の香りも、トパーズを粉々にしたみたいな砂も、何一つ変わらない。そのはずなのに、目の前の景色が、無心にコピーされただけの背景のように思えて。体験も感動も思い出も、色褪せていくことはないのに、複製物を上から貼り付けられてしまったら、その全てがなかったことになるみたいだった。
 記憶って、頼りないものね。塗り替えられたり、奪われたり、思い出せなくなったら、もうどうしようもないんだから。アタシはふと、自分の手のひらに視線を落とした。太陽光を通さない白紙の肌には、薄く赤や緑の色味が帯びていて、細やかに編まれた手相が刻まれている。切り揃えられた爪も、少し出っ張った手首の骨も、アタシの腕についたパーツたちで、それらはたしかにそこにある。間違いなく、エリィがアタシのことを忘れていない証拠だった。

 だけどついに、そのときがきて。とある冬の日の夜明け前。アタシの身体は、霊体のように消えかかっていった。自分の指先が透け始めていると分かったとき、アタシはとても安心したわ。エリィはアリスのことを忘れられるくらい、幸せになれたってことだから。
 アタシはまだ薄暗い空を見遣った。薄くも濃くもない青色の水は、腰元でユラユラとアタシを揺さぶる。浜辺で歩いているときよりも、天空や水平線との距離は近づいているはずなのに、何故だか更に遠のいているように感じられる。海底から目覚めてくる太陽も、今日は起きてこないかもしれない。そんなことを考えながら、アタシは海に身を投げた。
 これでアリスという少女は、この世界から消失する。悲しいことじゃないわ。ここはあたたかで慈悲深い羊水の中。アタシは元いた場所に、帰るだけなのだから。段々と海面に手が届かなくなっていくけど、アタシはその様子をボーッと眺めていた。生きているどころか、存在すらしていなかったアタシは、海に溺れても苦しくなんてない。魂を持たないアタシは死ぬんじゃなくて、ヒッソリと消えていくだけ。だけど、虚しい気持ちは一ミリたりとも芽生えない。
 だってアタシ、この世界でエリィに出会えて、存在しない存在を信じて肯定されて、一番に愛してもらったわ。アタシみたいな絵空事の存在が貰うには、あんまりにも多すぎるくらいに、かけがえのない愛を無償で与えられた。だから、いいの。最後まであの子の望んだアタシでいられるのなら、思い残すことなんてないから。

 ラベンダーとホリゾンブルーの混ざった瞳から、プカリと涙が生まれていく。この一滴の雫だって架空のものでしかないけど、どうか母なる海に溶かされて、見えないままに遺ってくれればいいと、そう願うのを最後にしてアタシは瞼を瞑った。
 でも、そのとき。狭くなっていくアタシの視界に、泡沫が浮かんだのが見えた。ブクブクと息苦しい音を軋ませるそれは、アタシの涙じゃない。だから、アタシは反射的に振り返った。そして、やっと生き物らしく、息が止まった。

「エリィ!!」

 水の底には、あの子が、エリィが沈んでいた。彼女の朧げに開かれた唇からは、まるで魂が漏れ出ていくみたいに、脆い泡がスルスル逃げていく。瞳を閉ざすエリィの周りには、小さく無色の飴玉が転がっている。それを口に放り込めば、きっと、塩の味がしてしまう。そう分かってしまって、アタシは必死に手を伸ばした。けど、この手は彼女の身体を通り抜けていく。

「あぁ、今になって、どうしてなのよっ!!」

 生まれた瞬間からそうだった。アタシは空想で、架空で、フィクションで、虚構。何もかもが彼女の想像で、アタシがこの子と触れ合えたことなんて、一回もなかったのに。どれだけアタシが抗って、藻掻き苦しんだって、現実はアタシに顧みないの。

「アタシの存在は、こんなにも無力なの!!」

 青の空間にアタシの悲痛はよく響いた。誰に届くわけでもないくせに。
 アタシは溺れていくエリィを救うことはできなくて、抱き締めるマネをしながら虚空にしがみついて、ただこの子が生き絶えていくのを見届けるしかなかった。二人で一緒に、悲しみの奥へ奥へと沈んでいく。まるで心中みたいだった。でも、違うわ。この子は、自分で自分を殺したの。

 ……どうして?

不意に、アタシがアタシに尋ねた。その刹那。無色の飴玉の一粒がアタシの口内に入る。すると、脳内に、知らない映像が大量に流れ込んできた。それは、走馬灯というタイトルのアルバムを、この手で捲っていくみたいに。
 アタシは、深呼吸をして、じんわりと歯を食いしばると、目に暗闇をくっつける。そして、ようやく覚悟を決めると、エリィの記憶の中に飛び込んだ。
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