Chapter2:Dreams and reality
27 あの棺で眠る者
エセルバート。それが、この人の名前。
やはり、聞き覚えはなかった。彼はわたしの名前を、まるで名付け親のように、大事に呼んでくれたのに。
「ごめんなさい。わたし、あなたの名前を忘れてしまっていたの」
彼は瞠目した。当たり前の反応が、わたしを罪悪感に溺れさせる。
彼の名前を、忘れるはずがない。でも、今、初めて聞いただなんて。そんなの、嘘をついていると思われてしまう。それは嫌。どちらを選んでも不誠実なことに変わりはないけれど、それでもわたしは誠の心をこの人に渡したかった。
「構わないんだ。だから、己を責めるのはやめてくれ」
優しい声色だった。わたしの内側に入り込んで、中にいる小さなわたしの隣に立って、ささやかに手を握ってくれるように。
「これから沢山、俺の名を呼んでくれる?」
眼鏡を通して控えめに微笑む彼は、わたしの答えを知っている。純粋に尋ねているようで、これはわたしを勇気づけてくれるための、神聖なる誓いの儀式だった。
彼が手を差し伸べる。わたしは頷き、喜んでその手に触れようとした。
「ありがとう、エ——」
刹那、後ろから誰かに抱きしめられた。その人物は間を置かずに半回転し、わたしとの立ち位置を入れ替わらせる。大きな身体が、必死に縋り付く。カーテンの如く揺らめいたヴェールが、わたしを隠すようにして広がった。
「貴方は……?」
「この子に触らないで!」
彼の動揺した質問のあとに響いたのは、剣幕な叫びと何かを叩く音だった。わたしは振り返る。そこには、赤らんだ左手を押さえるエセルバートと、彼を睨みつけるクエルクスがいた。エセルバートは驚いたように、わたしたちを見つめている。
「帰りましょう。私たちの家に」
そんな彼と対極に、クエルクスは落ち着き払った様子だった。こちらに向き直ると、わたしの手を強く引いて、無慈悲にも歩き始める。一歩、また一歩と、クエルクスが歩を進めるたびに、わたしとエセルバートの距離は空いていった。
先程まで、あんなに近くにいたのに。身を抱き寄せて、互いに存在を確認し合ったのに。もう二度と、この指先が届くことはない。そう言い聞かされているようだった。
「そんな、どうして、嫌、離して!」
押し寄せてきた絶望は、やがて激情へと変貌していく。喉が潰れるほどの絶叫を吐き出し、獣のようにがむしゃらに暴れて、クエルクスから逃れようとした。だけれど、彼は動じない。
「なりません。ならないのです」
ただそう呟き、わたしを一際強引に引き寄せると、我が子を抱擁するよう胸の中に埋めて抱き上げた。息は苦しくない。でも、声を出すことができない。これでは、あの人の名前を呼ぶことができない。
「サナシア!」
彼が懸命にわたしを呼ぶ。きっとこちらに走り出し、あの細々しい腕を伸ばしているのだろう。けれどわたしは、何もできなかった。抵抗することも叶わず、赤子のように連れ去られていく。この人を受け止められるのは、わたししかいないのに。
「引っ込んでろ根暗男!」
クエルクスの背中越しに、憎しみの籠った少年の怒声が響いた。次に、エセルバートが呻く。きっとラセルティリアだ。間近に聞こえたということは、エセルバートはすぐそばにいた。わたしを追いかけて、取り戻そうとしてくれていたのだ。それなのにわたしは、彼の姿を瞳に映すこともできないだなんて。
「全部全部、アンタのせいなのに!! アンタさえいなけりゃ、みんなが幸せだった!! 誰も苦しまなかった!! なのに、どうしてなんだよ、このクソ野郎!!」
少年の収まらない憤怒は、焚き付けられた炎が大波に飲み込まれるかの如く、次第に悲しみへと染まっているようだった。悲惨な人殺しの犠牲となった土地に、とめどない津波が覆い被さっていく。人類の愚かさと自然の怒りを、同時に実感させられている心地だった。
だけれどエセルバートは、決して大地を穢したりしない。だって彼は、花弁の一枚一枚と二人きりで会話をしてくれるような、心優しい青年なのだから。そんな彼が、恰も報いを受けるように、罵詈雑言を与えられている。こんなの、何かの間違いなのに。あの人は、愛に満ち溢れた人なのに。わたしが一番分かっているのに。
「訳の分からぬ話をするな、どいてくれ!」
「うわっ!」
わたしの願いが通じたのか、エセルバートはラセルティリアの言葉を否定してくれた。それから瞬時に、草を踏み締める音色が耳に入ってくる。彼の足音だ。わたしの元に向かってきている。そう理解すると、忽ち全身が震えた。クエルクスの胸を突き破ってでも、エセルバートの手を繋ぎたい。貴方の名前を、わたしのメロディで贈りたい。心の中で、何度もそう切願した。
彼の吐息が、すぐそばに落とされる。あぁ、そこにいるのね、エセルバート! わたしはクエルクスから抜け出そうとした。でも、身動きは一切取れない。その代わり、クエルクスが微かに酸素を吸い込んだ。
「ルパロセラ!」
「あいよ」
清らかに、高らかに、まっすぐ命じたクエルクスに、悠然と返答する少女。その幼い声は、何故か上空から降ってきたように感じられる。そして、ルパロセラがやってきた瞬間、エセルバートの気配を失った。わたしは気が動転して、身体を藻掻くように動かそうとするが、脱力した筋肉は眠ったまま。ぶら下がった腕や足に、役立たずと泣き叫びたかった。
「ま〜ったく、ねーちゃんのこと見くびってもらっちゃ困るぜ」
「ばーちゃん……!」
「おっとっと? 一文字間違えてるかもな、ラセルティリア」
二人が何かを話しているが、どうでもよかった。エセルバートの安否が気がかりで仕方がない。耳を澄ませて彼の呼吸音を探るが、一向に見当たらない。彼はどこにいるの?
「自分たちのことはいいから、早く行ってあげてくれ。ペペちゃんを置いてきちゃったからな。所謂、ここは任せろってやつさ」
静かにして。あの人が、掻き消されてしまう。野原に埋もれて、土の中に還ってしまう。月明かりに見初められて、眩い光に吸い込まれてしまう。紺の空が、彼の色を隠してしまう。
「あぁ、行かないでおくれ、サナシア……俺から離れないで……」
野原から身を起こし、月明かりを振り払い、紺の空を剥ぎ取った、彼のか細い悲しみが、涙のように零れ落ちる。
そこにいるのね、エセルバート。大丈夫、待っていて。わたしは必ずあなたの元に、飛び立ってみせるから……
「! クエルクス、シーア……!」
夜風が肌を掠めなくなった。冷え冷えとした空気も、打って変わったようにあたたかい。懐かしい香りが満ちている。ここは、わたしを安心させる空間だ。未知の恐怖に怯えることなく、幸せに過ごしていける場所。
でも、エセルバートがいない。わたしには、あの人しかいないのに。
「ちょ、ちょっと待つのだわ、何をしに行くつもり?」
「この子を閉じ込めます」
「え……? クエルクス、どういうことなの?」
「言葉の通りですよ、ペレンニス」
何か音がするけれど、もう、何も考えられなかった。頭の中が真っ白に、真っ黒に、ごちゃ混ぜになって、正確な景色を描くことができない。わたしの好きな、ヒヤシンスと真紅が揃わなければ、この世界の彩りだなんて皆無に等しかった。
わたしはほとんど放心状態だったけれど、不意に、視界が開けていく。久方ぶりに、瞳を持ち上げたような感覚だった。目の前には、クエルクスが立っている。
「今日から、此処にいなさい。これから外へ出ることを、一切禁じます」
彼の発言の意味を理解できなくて、わたしは恐る恐る辺りを見渡す。木製の部屋に、小さなパレットベットに机。素朴な内装には、見覚えがある。ここは、クエルクスがくれた、わたしの部屋だ。そして彼は、わたしを閉じ込めると、そう言ったのだ。
「そんなの、嫌。あの人は、わたしの全てなのに。わたしの心臓は、彼のために生きているのに」
勝手に口から、想いが流れ出ていく。だけれど、そのどれもがわたしの本心だった。胸元でぎゅっと、拳を握る。すると、わたしの意志に呼応するように、心臓はどくどくと鼓動を鳴らした。これこそ、正しい生き様だった。
でも。クエルクスは、首を振った。縦にではなく、左右に、幾度となく。彼はこちらに近寄り、わたしの肩に手を乗せた。それから、淡白に封じ込まれた表情で、わたしを静かに見下ろす。
「冗談だとしても、そのようなことを言わないで」
顔立ちとそっくりな調子で、クエルクスはまたしても、わたしを否定した。その無感情で、無機質な対応を、わたしは初めて鬱陶しい と思った。
「冗談なわけがない! わたしの想いは彼であり、彼の想いはわたしなのよ!」
この人は、敵だ。わたしと彼を引き裂こうとする、悍ましい悪魔なのだ!
わたしは急いで、彼の手を叩き落とす。けれどクエルクスは、わたしの手首を容易に捕らえる。
「貴方はあの青年に騙されている。私はそれが、永久に許せないのです」
くぐもった灰色の眼差しは、開閉しない。小さな唇だって、仄かに動くだけ。わたしは、彼の冷淡に論するような口調が、腹立たしくてどうにかなりそうだった。
「分かったような口を聞かないで!!」
腹の底から湧き上がった感情を、際限なく放出する。わたしはゆらゆらと面を上げて、目先にいる彼を、妬ましく睨んだ。
「わたしの名前を呼んだこともないあなたに、何が分かるというの……?」
クエルクスは、何も言わない。沈黙に委ねるよう、そっと目を伏せただけ。そして、彼は緩慢な動作で、ゆったりと、わたしに背を向けた。
「待って、ここから出して!」
わたしは慌てて、彼を呼び止める。手を伸ばせば届く位置にいるはずなのに、クエルクスは遥か先を歩んでいるようで。上質なキトンを、軽やかなヴェールを、何としてでも掴まなければ。私たちを阻む彼を見返らせて、この手で、確実に切り裂かなければならない!
「大丈夫。迎えにきたよ、サナシア」
悪魔の背後に襲いかかろうとした、そのときだった。安らかで純真なお告げが、わたしに降り注ぐ。
この声は。少し掠れた、奥深い少年の声は。わたしの名前を呼んでくれた、愛おしいこの声の持ち主は。
「ッお待ちなさい! エセルバート・オサリバン!」
ガチャリ。鍵の閉まる音がした。
扉の前に、あの人が立っている。心配することはないと言うように、どこまでも柔らかに、彼はわたしに微笑みかけていた。
「エセルバート……!」
ようやく名前を呼べた喜びのままに、わたしはエセルバートのところへと駆け出した。腕を広げてくれた彼の中に、ぴったりと身体を嵌め込む。そうして、もう二度と抜けてしまわないようにと、強く強く抱きしめた。
「あなたとずっと、二人きりでいたい」
「うん」
「あなた以外、何もいらないの……」
「あぁ」
わたしの言葉を、彼は一つずつ大事に、噛み締める。それは、同じ気持ちを通わせている証だった。
心が熱で潤っていく。こんなにも幸福なことは、これからどれほど生きても、体験することはないだろう。
「もう俺たちを阻む存在はいない。だから、永遠に二人で此処にいよう、サナシア」
彼が耳元で、穏やかに囁く。その一言一句が、わたしの魂の写し身ようだった。
「勿論よ、エセルバート」
肯定を返すと、彼が嬉しそうに笑う。わたしがずっと、この瞳に宿したかった、薔薇のように美しい笑みだった。
エセルバートを抱きしめれば抱きしめるほど、床がぬかるんで、ふわりと微睡みへ落ちていく。ぼんやりとした温度がわたしを、時計の針が停止した居場所へと誘う。思考を忘れていく感覚が、形を失っていくような感覚が、わたしにひたひたと染み込んでいく。
わたしはエセルバートと、この二人きりの世界で生きていくために生まれたのだ。
脳内で呟いた言の葉を最後に、わたしは深く瞼を閉ざした。
◆◆◆
あの子を叩いて、殴って、滅茶苦茶にして。満足しきったあたしは、あっさりと眠気がなくなって、いつもの席に座ってた。
気分は爽快。夏の朝日みたいに清々しくって、でも、梅雨の夕方みたいにじめじめもしてて。真逆の湿度を体感させられてるみたいだった。だけど、もう終わったことなんて、どうでもいい。どうせあの子は、あそこから出ることはできないんだから。
あたしは空っぽな身体を、背もたれに押しつけた。浮かび上がるスクリーンは、あの子みたいな黒でたっぷり満ちてる。何も映らない画面を、ただぼうっと眺めた。でも次第に、暗闇には砂嵐が舞い始める。路地裏のゴミ袋に集まる小蝿みたいに、ブンブン、ジージーと、不愉快な鳴き声を震わせて。まるであたしの心情をそのまま上映してるみたい、だなんて、頭の端っこで思った。
『——し——ア』
そのとき。モノクロのノイズが駆け回る雑音とは明らかに違った音が聞こえた。
どっと、圧迫させられるような胸騒ぎが、あたしを一気に取り囲む。この、悪夢の前兆のような恐怖は何? ホラー映画の後半で判明する事実を思い知るような、このとてつもない衝撃は?
あたしは、ネタバレなんて大嫌いだった。だから慌てて、丸裸の耳を塞ごうとする。だけど、未熟な防衛は一歩遅かった。
定められた運命を、覆せないみたいに。
『目を覚まして、ミア』
——彼と、そっくりな声が、あたしを呼んだ。
発作的に立ち上がる。座面の折り畳まれる悲鳴が、シアターに侘しく響く。そこからは、ひたすらに無音。でも、いつ次の台詞が流れてくるのかは、分からない。あたしはこの物語の脚本を知らないから。
不意に、左手がズボンのポッケを求める。その中身を暴こうと、今にも動き出しそうな指先が、あたしとは別物のようで。けど、あたしは耐え抜いて、ぐっと指を丸め込んだ。そして、何もかもから目を逸らして、映画館から逃げ出した。
今日は起きたのが早かったから、まだ夜も明けてないかもって思ったけど、もう既に朝日は燦々と昇ってるみたい。あたしはほっとして、振り返らずに歩き出す。
飽きるほど目にした白薔薇が両脇に並ぶ一本道だ。ただ、飽きたってのはあくまで表現。あたしがこの白い薔薇たちにそんなこと、言うわけないじゃない。彼の小さな子供たちは、あたしがやってきたことを大喜びするみたいに、きらきら花弁を輝かせる。あたしを導くような揺らめきに従って、レンガ道をリズムよく渡っていく。
暫くしてから水盤が見えてきて、そこを通り過ぎていけば、あたしの思い描く風景が現れた。階段の上に建つ、半円形のフラワーアーチ。太陽光を漏らさないように縫われた白薔薇と葉っぱは、今日もしっかりと役目を果たしてる。それでいい。彼らが懸命になる理由だって、きっとあるのだから。
慎重な足取りはすっかり忘れ物になったから、気軽なステップで、でもそれでいて丁寧に、汚れ一つない階段をスニーカーで上がっていく。
「よく眠れた?」
「いや、あんまり」
アーチのそばから問いが投げられる。深く悩まず素直に答えてみると、彼もまた呆れるみたいに肩を竦めた。
「僕もだよ」
昨日と同じように、彼がそこにいて、あたしを待ってくれてた。これだけで十分なくらい、本当に、嬉しかった。あたしとの約束を信じてくれた彼に、ありったけの感謝が溢れていく。
彼はあたしの気持ちを感じ取ったのか、ひっそりとはにかむ。
「歩こっか」
「えっ、大丈夫なの?」
唐突な彼の提案に、あたしは驚いた。だって彼は、長い間この光を恐れて、アーチの中で身を守っていたのに。お節介かもしれないけど、やっぱり心配だった。そんなあたしの疑問に、彼は申し訳なさそうに眉をハの字に下げる。
「怖い。……けど、夢だったんだ。光の注ぐ街を、何の気負いもなく歩くことが」
晴れた青空を見上げる彼の眼差しは、怯えてる。でも、潤んだ青緑色の瞳には、かけがえのない憧れが、日光なんかよりも煌めいてた。彼はずっと、その憧憬を自分で傷つけながらも。大事に守ってあげたかったんだ。
「それ、最高にときめく夢だね」
夢が錆びることはない。きみが希望を捨てない限り、絶対に。
「一緒に行こう!」
あたしは手を伸ばす。心の底から、彼を信じてるから。
「うん」
そして、彼も手を伸ばす。心の底から、あたしを信じてくれてるから。
薄暗い灰色から、温もった金色へと、頑丈な境界線を飛び越えて、彼が一歩を踏み出す。指と指が微かに触れ合った途端、あたしたちはきゅっと手を繋ぎ合った。
彼から白光を弾く日傘はいない。ありのままの日差しが、彼を照らしていく。この熱は、彼を焦がしてしまうかもしれないし、跡形もなく、焼き尽くしてしまうかもしれない。けど、彼はアーチから出て、あたしの手を取った。なら、世話焼きに口を挟んだりしない。紅潮する頬も、垂れていく汗も、彼にとっては鬱陶しいものなんかじゃなくて、わくわくするような冒険心の表れなんだから。
あたしは彼の手を引いて、弾むように歩を進めていく。彼も同じように、あたしの隣を歩いていった。焦らずゆっくりと、二人で庭園内を巡り回る。ちらりと横目に窺うと、彼の整った横顔があった。彼は楽しげに、周囲の景観に目を凝らしてる。無邪気な息遣いに、あたしも釣られちゃいそう。
というか、釣られてもいいじゃん。早速そう認めると、ちょっぴり鎮めていた高揚感が、新鮮に込み上がってきて。ジャズポップの音色に乗るように、上体がるんるんと揺れていった。
「それ、君も日焼け対策に?」
ふと、彼が尋ねる。視線は、あたしの胸元にかけられてるサングラスに注目してた。
あたしは彼みたいに、日光を怖がったりはしない。いや、ちゃんと日焼け対策はするべきだから、日焼け止めはちゃんと塗るけど。でもこのサングラスを、太陽を防ぐためにつけよう、とは思わない。ただ、最初からここにいた。あたしに分かるのは、これだけだった。
「これはオシャレ。つけてみる?」
考え倦ねてもまとまらなかったから、ファッションということにしておく。イケてるかダサいかなんて、他人に判断されたらそれまでだけど、少なくともあたしはこれを手放すつもりはなかったから。
彼はあたしのお誘いに「うん」と頷くと、こちらを覗き込むように屈む。そこから彼は停止して、お利口にあたしの次の行動を待ってた。おい我儘プリンス、とツッコミたくなったけど、あたしは大人なレディなので、我慢することに決める。
襟から外してテンプルを広げると、彼の顔にそうっと嵌めていく。サイズに問題はないみたいで、彼は位置を修正することなく、姿勢を元に戻した。
くるくると、周りを見渡したり、快晴を仰いだり。真新しいおもちゃを手に入れた子供みたいに、彼はその場で緩やかに回転する。けど、彼の面持ちは少し気難しいものだった。
「うーん、やっぱり見えにくくて好きじゃないや」
回るのをやめて、サングラスを外す彼が苦笑する。彼は感謝を告げながら、あたしの胸元にサングラスを吊り下げた。
たしかに、彼にこそ必要なアイテムだろう。だから、過去につけたことがあったとしても、それは変なことじゃない。でも、じゃあどうして、今はつけていないんだろう。好きじゃないから、が答えなんだろうけど……。どうしてか、あんまりしっくりこなかった。
そうもやもやしちゃうくらい、サングラスを飾った彼の姿が、あたしにとってぴったりな容姿だった。
「あのとき……ミラージェンを追いかけてたときは、僕も慣れないことをして気がつかなかったけど」
彼が小さな声で発する。脳内で独り言を繰り広げてたあたしは、即座に切り替えて耳を傾ける。
再度天空を仰視した彼の美しい眼からは、もう神々しい光は零れ落ちない。
「君が言ってたように、ここはあたたかいね」
じっくりと、天からの贈り物を受け取るように、彼は瞼を瞑った。
「僕は陽の光を恐れてたわけじゃない。影から出るのが怖かっただけなんだ」
その二つは、似ているようで全然違う。でもどうしても、同一人物だって、思い込んじゃう。そうして、自分自身を追い詰めて、最大の武器となっていく。それは肉体的な痕の残らない、痛ましい自傷行為だった。彼は途方もない地獄を孤独に味わっていた。
でも、今こうして、この人は自分で気づくことができたのだ。知らないフリをすることだってできたのに、知りたいのだと願って、恐れと向き合うことを決意することによって。
それがどれだけ勇気のいる行為なのか、あたしには理解できてしまう。だから、胸がいっぱいだった。彼の臆病な覚悟が、何よりも輝かしかった。
けど、彼の今までの生き方が「間違い」だなんて断定してほしくない。
「別にね、どっちにいたっていいんだよ。無理ってなっちゃったら、影に隠れちゃえばいいし。お日様に会いたくなったら、外に出ればいいんだから。きみなら大丈夫。きみがどっちを選んでも、あたしは隣にいるよ」
だから、きみが選んだ人生を歩んで生きたきみがいいんだって、あたしの想いをちゃんと伝える。きみという人間が大好きなんだよって、目一杯に歌う。
「それ、前にも言われたような気がする。君にかな」
すると彼は、どこか不思議そうにそう言った。あたしの言葉があたしのものだって、言い切れないみたいに。
「ミラージェン」
ふわりと、柔和な風が吹く。彼の雪景色が儚く靡いて、春の彼方に溶けちゃいそうだった。
「ここは、夢の中?」
彼は首を傾げることもなく、一直線な質問であたしを貫く。悩むような仕草は見当たらなくて、何か一つを確かめるような物言いだった。
おかしな質問だ。だって、夢はあたしとあの子の世界なのであって、目を覚ませばここに戻ってくるんだから……
『目を覚まして、ミア』
刹那、彼の、じゃなくて、彼に似通った声が脳裏を過ぎる。またあの、猛烈に嫌な予感だった。彼の問いに答えてちゃ駄目、だなんて、そんな緊迫感があたしの肩を突く。でも、この空気から脱出するためには、いち早く返答する他なかった。当たり前を声に出すことに抗いたくなる。けど、あたしはそれを無視して、覚束なく唇を開いた。
「現実だよ」
答えて、しまった。間違いなんてない。どんな人が審議しても、必ず正しい解答。これでいいはず。なのに、全身に取り憑くような、この違和感は何。あたしは引っ掛かりを拭いたくて、だけど、何故だか、怖くって。だから、縋りつくみたいに、彼の反応を待った。
けど、彼は黙ったままだった。落ち着いたように、あたしを見つめてる。でも段々と、彼の静寂な表情は、花弁が朽ちるみたいに崩れていって。
最後に彼は、世界で一番の幸福な笑みを、あたしに贈り届けた。そして、力無くその場に倒れた。
「え、」
打ち切り漫画のバッドエンドみたいに、呆気ないワンシーン。あたしは彼を支えてあげることすらできず、ひたすら立ち尽くした。
「そんな、うそでしょ」
灼熱の球体が彼の生気を奪ったんじゃない。そう本能的に察知して、膝がガクッとレンガに打ち付けられる。そのまま座り込んで動けなくなりそうだったけど、這いつくばるように膝を地面に擦り付けて、なんとか彼の頭を太ももに乗せる。
小刻みに震える手で、彼の頬に触る。さっきまで彩られていた赤らみは消え失せて、まるで、棺の中を覗いてるみたいだった。
「ねぇ起きて、お願い、目を開けて、あたしを見つめて……」
ぼたぼたと、流れる雫が、彼の輪郭を伝う。でも、彼は起きない。あたしは項垂れて、彼の胸に泣き伏した。
あの映画館を逃げ出したときから、あたしは何にも変わってなかった。心のどこかで、こうなることは分かってたはずなのに。
「きみの名前って、なんだっけ……」
これこそが、あたしの選んだ「運命」だった。
◆◆◆
踏み場のない暗闇に投げ出されることが恐ろしかった。無限大に口を広げる宇宙の底に吸い込まれることが恐ろしかった。私はベッドの上で、独りぼっちになってしまうのが怖かった。
ミラージェンとの仲違いが、未だ受け入れられない。もうあの子は、随分と前に此処を去っていったというのに。
私は唖然として寝転びながら、活気の失われた睨み合いを天井相手にしている。煌めく星々のモビールは、破けて見窄らしい布切れが干されているようにしか見えなくなった。鳥の羽の如く柔らかな天蓋は、翼のもげた鳥の死骸。安眠を与える紺色の夜空は、卑屈な戯言を生産する人影が滲んだものでしかない。こんな廃れた場所で、私はまた孤独となってしまった。だが、涙は潤わない。そんなもの、とっくに枯れ果てていた。
首を重たく横に傾け、弱々しく壁に手を伸ばすと、私の指はスカスカとすり抜ける。それを確認し終えると、弛んだ糸に引っ張られるようにして上体を起こす。次に、やる気の欠如した動作で、脚を壁側へと移動させてゆく。寝具の縁に腰をかけると、指先と等しく下半身もすり抜けた。私はゆっくりと、聖なる川に爪先をつけるように、足を下ろしてゆく。そうして立ち上がると、私を閉じ込めるのは白いシーツや甘い毛布ではなく、奇妙なほどにおどろおどろしい赤の一本道なのであった。
ザレンダの元へ出向くためには、この路地さながらに鬱屈とした道を通らねばならない。これまでも何度か此処を渡り歩いてきたが、脳天から蛆虫がぶら下がってくるやもしれない悪寒を長引かせられるはずもなく、私は足早に去ることを心がけていた。だが、以前はあれほどまでに恐ろしく気色の悪かったこの細道が、現在では形容し難い安心感を催している。
そこでふと勘づく。私の傍らに、揺り籠が置かれているのだと。こちらから近づいたのか、それともあちらから近づいてきたのか。曖昧な動機や理屈など意味をなさないだろうに。神聖のみを主成分としたシーツやブランケットに触れてみる。すると驚いたことに、私は黒を抜き取った灰色——それは如何にも蒼白で母性的だ——によって、恐怖を器用に溶解されたのだった。平然と残ったこれを、私は、親しみと呼ぶしかないというのに。何もかもを破棄して、此処で永遠に沈殿してゆくことを許されたい。後方を顧みるのが面倒になるくらい、そう思わずにはいられなかった。
しかし私は彼に会わなければならないし、億劫な旋風などが額の周りを回ることもない。私は揺り籠から離れると、老人のような歩行は完治させないまま左壁を通り抜けてゆく。
瞬く間に景色は変化する。私の目前に構えていたのは、真紅を華やがせたアルバムの落ち着く棚であった。一本道からザレンダの空間へ到着した際、何処に繋がるのかはいたって気まぐれだ。初対面の書棚との挨拶を交わすこともあれば、図らずも彼の真横へと佇むこともしばしば。だが、この家具と対峙することになるとは。偶然を深読みする無謀さこそが人間の代表的な嗜好だということは承知済みである。私に芽生えたこのちっぽけな疑問が無益であるということも、だ。無茶な納得を己に押し付けて、アルバムから目線を外すことにする。目指すべき行方は此処ではないのだから。
ごく短い瞬きのように過ぎ去ってゆく景観たちに放流されるがまま、私は独りよがりな約束の地へと足を止めた。夢の中へ不可思議に没頭するかの如く、はたまた洗い流せない現実の所業に見入るかの如く。
ソファに精神を癒着させていたザレンダが、こちらを見返る。それから尋常なる加速によって、私の異変を感知してしまったようだった。
「何が……」
「私、こうであるべきだったの」
駆けつけた彼に、告げる。ザレンダは私の両の手を握り、左、右、と首を振っていた。しかしながら、どんなことが起きようとも、私はこの人に賛同できないのだ。
樹木に実った果実が雨水を存分に蓄えた土の上に落下するように、彼が跪く。ぐちゃりと嘆いた破壊音が、彼の涙腺を酷く痛めつける。私を仰ぎ見るザレンダの涙は、林檎に灯った丸い艶を摘み取ったような美しさであった。
彼が私を抱擁したのを、他人事の如く傍観する。しわくちゃな藻屑になりかねない抱擁。だが、ザレンダから否定の慰めは絞り出されない。これが答えだった。私たちにはもう、どうしようもなかった。
「もうすぐ、箱庭が完成する」
ザレンダは聡明だ。よってこの予感は当たっている。終幕はまもなく開かれる。
「共に見届けようか」
愚かなる傷の舐め合いに区切りをつけた。彼もまた、私と全くもって同意見なようだったから。
私たちはこの身を、日常的かつ、非日常的な素振りで、ソファに託す。気取ることをやめた面持ちは、紙芝居劇の方へと傾いてゆく。ガーデンの真髄を探る必要はなくなったため、画面に映すストーリーは予め決まっている。
ひんやりとした朝方に、フラワーアーチで待ち合わせをする男女——シェイヴィとミラージェンが、可憐に解かれない小指のような邂逅を果たす。色も形も異なった双眼を照らし合わせる彼らの、日差しよりもあたたかな視線の結びつきを目の当たりにした。
「最初から決められていたみたい」
ようやく私は、決して触れられぬ処女の如き神秘性を思い知らされ、其処に割り込む隙などなかったのだと、今しがた悟る。
ザレンダは寡黙を演じた。肯定を追い越した既知に浸っているのだから真っ当な役割である。
『一緒に行こう!』
はつらつと、けれども勇敢に、ミラージェンが手を差し伸べた。そしてアーチに潜んでいたシェイヴィも、彼女と同じ意志を宿してその手を取る。彼は、影から出ることを選んだのだった。
「よかった」
少々驚愕したのも束の間。ザレンダのこじ開けられた暗黒の瞳は嬉しそうに、それでも後悔を忘れることなく、じわじわと狭まっていった。
私たちは映画の感想をぽつぽつと個人的に呟くだけで、平凡じみた会話を展開することは避けられている。スクリーンに彩られた映像に、今だけは夢中になりたいのだ。運命の青年と少女が隣り合う風景は、まるで幻想的な夏に呼び覚まされた御伽噺のようだった。幼子であった時代に出会った奇跡の夢物語を、誰にも指摘されぬようにと幼稚に守りたくなってしまう。そのような世界を、私たちは眺めている。
すると不意に、シェイヴィの顔へサングラスが乗せられた。清いホワイトに寝かしつけられている彼には相応しくない闇の色。正しくそれらは、敵対するカラーリングだった。だが私には、むしろ長年連れ添ってきた友人のような親近感が浮上する。異様なまでの既視感。こうであるべきなのだと再教育される不愉快さ。
きっとザレンダも眉頭を押さえているに違いない。そう確信して首を回したが、彼は先刻から変わらぬ反応を続けている。私とは真逆の風体であった。太陽からの愛情を認めることが叶えられた白薔薇の青年を、ザレンダは何とも愛おしげに、かつて観測者を名乗ったとは思えぬ面立ちで見つめていた。
『別にね、どっちにいたっていいんだよ。無理ってなっちゃったら、影に隠れちゃえばいいし。お日様に会いたくなったら、外に出ればいいんだから。きみなら大丈夫。きみがどっちを選んでも、あたしは隣にいるよ』
純朴というには傷だらけで、でも、だとしても、滑らかな自然さを放つ少女の台詞が発される。その僅かな一瞬であった。ザレンダが、呼吸音を乱したのは。
『それ、前にも言われたような気がする。君にかな』
空想の中を泳ぐように微笑んだ青年の言葉に、彼は息を呑んだ。だが私には、尺を埋めるための当たり障りない掛け合いのようにしか、感じられなかった。
『ミラージェン』
私たちの相違した状況など露知らず、シェイヴィが少女の名を呼ぶ。
『ここは、夢の中?』
——一斉に、私の身体中を循環する血液が逃げ去っていった。青年が丁重に、忍ばせていた、問い。この問いが、悪魔を召喚するよりも遥かに禁忌的で、それが黙示録を彷彿させるほどの悲劇なのだと、私は知っている。
夢の主は夢の住人に、その質問をしてはならない。何故なら、住人が「現実だ」と答えれば——主は夢の中から、出られなくなってしまう。
永遠に。
「ミア!! 答えては駄」
『現実だよ』
部外者の私が必死に叫んだところで、くだらぬ願いは虚しく散ってゆくだけ。
「シェイヴィ!!」
私たちは、シェイヴィの「死」を目撃したのだった。
ザレンダの叫び声と被さるように、画面は冷酷に切り替わってゆく。芝居劇に貼り付けられたのは、こぢんまりとした一室の場面。そこには、小鳥の如く可憐な少女サナシア、次いで、学生服を纏った青年が、扉をすり抜けるようにして現れた。青年の隣にいた神々さながらに壮麗な男は、彼の登場に気づくなり、恰も稲妻に打たれたように形相を変えて、
『ッお待ちなさい! エセルバート・オサリバン!』
と。あの青年を呼び止めた。私たちはこの耳で、たしかにその名を聞いた。
「「父さん」」
互いに顔を見合わせる。
そう。完全に、同じタイミングで、そう零してしまった。
私は、自分の名を思い出せない。あの子を信じて、ユゼと名乗っていただけ。でも、エセルバート・オサリバンという名が、私の「父親」であるのだと、確信を持って頷けてしまえる。況してや、ザレンダもそのような因果の元に産まれし人間なのだということも、もはや言い逃れできなかった。
「その髪色に、瞳の色。貴方たちこそが、この世界から望まれた存在だったんだね」
暁色の瞳を宿した、母 と娘 。真紅色の瞳を宿した、父 と娘 。果ては、父親の持つヒヤシンス色の髪に染まった、娘 、と、息子 。
彼は、父親の遺伝子を素晴らしく受け継ぎ、故に利発すぎたばかりに、容易に、導き出した結論を私に告げる。
「あの子が犠牲になる必要はない。そして貴方も、もう存在証明に苦しむ必要はなくなった」
我が子を安心させるように柔らかな微笑みを、子供である彼が、私へとささやかに捧げた。
「あの棺で眠る者。それが、俺だったのだから」
だん。
物音がした。足元に、何かが落ちる音が。床に視野を下げると、そこには、真紅の日記帳が眠っている。私は、ゆっくりと、顔を上げた。隣の席には、もぬけの殻となったコートが、裏側に隠されていた青緑色を晒して、無口に居座っていた。
急いで屈む。それから日記帳を拾って、必然的に開かれたのは裏表紙の背面であった。私はまたもや必然的に、カバー裏の端へと目玉を固定させる。そして、「Ethelbert O'Sullivan」と刻まれた文字列を、やはり突きつけられるのだった。無能に、ページを閉ざす。何処までも私たちを魅惑する赤色が、こちらを嘲笑っていた。
そのとき私は、これと瓜二つの色彩を持ったあのアルバムが、脳内に前世の如き鮮明な記憶として蘇る。考え無しに、滅茶苦茶になって、走り出した。やがて目的の本棚の前にまで駆けつけると、私はやっと、宝物の中身を開封する。
黒いページに飾られた写真に映る彼は、どう足掻いても笑顔を知り得ることはなくて。でも、こんなにも愛おしくて、大切で仕方のない存在は、みるみると私の風貌へと書き換えられていった。
「違う、違う、違う」
幾度となく否定を訴えながら、私はアルバムを捲ってゆく。だが、その度に、彼は私になってしまう。彼のそばで無邪気に笑うシェイヴィも、いつの間にかサングラスをかけていて。その隣には、楽しそうにピースマークをするミラージェンがいて。そしてその隣には、必ず私がいて。
見たこともない景色。そのはずだった。これは私の馬鹿馬鹿しい妄想なのだと、かぶりを振れるはずだった。でも、私はこの描写に、見覚えがありすぎる。私は、このシーンを体験したことが、きっとあった。
そう。この世界は、私の生まれた世界だった。
『Happy Birthday! Miseren!』
ばたりと閉まった扉の表紙に記された文字が変貌する。吹き出しの中の数字の六が上下、左右、と反転してゆき、「9.11」に生まれ変わる。
「これは私のものじゃなくて、私 のものなのに!!」
選ばれたのは、ザレンダの世界ではなく、私の世界だった。
私はアルバムを抱きしめ、その場に蹲る。自問自答に付き合ってくれるザレンダは、もう何処にもいないのに。
エセルバート。それが、この人の名前。
やはり、聞き覚えはなかった。彼はわたしの名前を、まるで名付け親のように、大事に呼んでくれたのに。
「ごめんなさい。わたし、あなたの名前を忘れてしまっていたの」
彼は瞠目した。当たり前の反応が、わたしを罪悪感に溺れさせる。
彼の名前を、忘れるはずがない。でも、今、初めて聞いただなんて。そんなの、嘘をついていると思われてしまう。それは嫌。どちらを選んでも不誠実なことに変わりはないけれど、それでもわたしは誠の心をこの人に渡したかった。
「構わないんだ。だから、己を責めるのはやめてくれ」
優しい声色だった。わたしの内側に入り込んで、中にいる小さなわたしの隣に立って、ささやかに手を握ってくれるように。
「これから沢山、俺の名を呼んでくれる?」
眼鏡を通して控えめに微笑む彼は、わたしの答えを知っている。純粋に尋ねているようで、これはわたしを勇気づけてくれるための、神聖なる誓いの儀式だった。
彼が手を差し伸べる。わたしは頷き、喜んでその手に触れようとした。
「ありがとう、エ——」
刹那、後ろから誰かに抱きしめられた。その人物は間を置かずに半回転し、わたしとの立ち位置を入れ替わらせる。大きな身体が、必死に縋り付く。カーテンの如く揺らめいたヴェールが、わたしを隠すようにして広がった。
「貴方は……?」
「この子に触らないで!」
彼の動揺した質問のあとに響いたのは、剣幕な叫びと何かを叩く音だった。わたしは振り返る。そこには、赤らんだ左手を押さえるエセルバートと、彼を睨みつけるクエルクスがいた。エセルバートは驚いたように、わたしたちを見つめている。
「帰りましょう。私たちの家に」
そんな彼と対極に、クエルクスは落ち着き払った様子だった。こちらに向き直ると、わたしの手を強く引いて、無慈悲にも歩き始める。一歩、また一歩と、クエルクスが歩を進めるたびに、わたしとエセルバートの距離は空いていった。
先程まで、あんなに近くにいたのに。身を抱き寄せて、互いに存在を確認し合ったのに。もう二度と、この指先が届くことはない。そう言い聞かされているようだった。
「そんな、どうして、嫌、離して!」
押し寄せてきた絶望は、やがて激情へと変貌していく。喉が潰れるほどの絶叫を吐き出し、獣のようにがむしゃらに暴れて、クエルクスから逃れようとした。だけれど、彼は動じない。
「なりません。ならないのです」
ただそう呟き、わたしを一際強引に引き寄せると、我が子を抱擁するよう胸の中に埋めて抱き上げた。息は苦しくない。でも、声を出すことができない。これでは、あの人の名前を呼ぶことができない。
「サナシア!」
彼が懸命にわたしを呼ぶ。きっとこちらに走り出し、あの細々しい腕を伸ばしているのだろう。けれどわたしは、何もできなかった。抵抗することも叶わず、赤子のように連れ去られていく。この人を受け止められるのは、わたししかいないのに。
「引っ込んでろ根暗男!」
クエルクスの背中越しに、憎しみの籠った少年の怒声が響いた。次に、エセルバートが呻く。きっとラセルティリアだ。間近に聞こえたということは、エセルバートはすぐそばにいた。わたしを追いかけて、取り戻そうとしてくれていたのだ。それなのにわたしは、彼の姿を瞳に映すこともできないだなんて。
「全部全部、アンタのせいなのに!! アンタさえいなけりゃ、みんなが幸せだった!! 誰も苦しまなかった!! なのに、どうしてなんだよ、このクソ野郎!!」
少年の収まらない憤怒は、焚き付けられた炎が大波に飲み込まれるかの如く、次第に悲しみへと染まっているようだった。悲惨な人殺しの犠牲となった土地に、とめどない津波が覆い被さっていく。人類の愚かさと自然の怒りを、同時に実感させられている心地だった。
だけれどエセルバートは、決して大地を穢したりしない。だって彼は、花弁の一枚一枚と二人きりで会話をしてくれるような、心優しい青年なのだから。そんな彼が、恰も報いを受けるように、罵詈雑言を与えられている。こんなの、何かの間違いなのに。あの人は、愛に満ち溢れた人なのに。わたしが一番分かっているのに。
「訳の分からぬ話をするな、どいてくれ!」
「うわっ!」
わたしの願いが通じたのか、エセルバートはラセルティリアの言葉を否定してくれた。それから瞬時に、草を踏み締める音色が耳に入ってくる。彼の足音だ。わたしの元に向かってきている。そう理解すると、忽ち全身が震えた。クエルクスの胸を突き破ってでも、エセルバートの手を繋ぎたい。貴方の名前を、わたしのメロディで贈りたい。心の中で、何度もそう切願した。
彼の吐息が、すぐそばに落とされる。あぁ、そこにいるのね、エセルバート! わたしはクエルクスから抜け出そうとした。でも、身動きは一切取れない。その代わり、クエルクスが微かに酸素を吸い込んだ。
「ルパロセラ!」
「あいよ」
清らかに、高らかに、まっすぐ命じたクエルクスに、悠然と返答する少女。その幼い声は、何故か上空から降ってきたように感じられる。そして、ルパロセラがやってきた瞬間、エセルバートの気配を失った。わたしは気が動転して、身体を藻掻くように動かそうとするが、脱力した筋肉は眠ったまま。ぶら下がった腕や足に、役立たずと泣き叫びたかった。
「ま〜ったく、ねーちゃんのこと見くびってもらっちゃ困るぜ」
「ばーちゃん……!」
「おっとっと? 一文字間違えてるかもな、ラセルティリア」
二人が何かを話しているが、どうでもよかった。エセルバートの安否が気がかりで仕方がない。耳を澄ませて彼の呼吸音を探るが、一向に見当たらない。彼はどこにいるの?
「自分たちのことはいいから、早く行ってあげてくれ。ペペちゃんを置いてきちゃったからな。所謂、ここは任せろってやつさ」
静かにして。あの人が、掻き消されてしまう。野原に埋もれて、土の中に還ってしまう。月明かりに見初められて、眩い光に吸い込まれてしまう。紺の空が、彼の色を隠してしまう。
「あぁ、行かないでおくれ、サナシア……俺から離れないで……」
野原から身を起こし、月明かりを振り払い、紺の空を剥ぎ取った、彼のか細い悲しみが、涙のように零れ落ちる。
そこにいるのね、エセルバート。大丈夫、待っていて。わたしは必ずあなたの元に、飛び立ってみせるから……
「! クエルクス、シーア……!」
夜風が肌を掠めなくなった。冷え冷えとした空気も、打って変わったようにあたたかい。懐かしい香りが満ちている。ここは、わたしを安心させる空間だ。未知の恐怖に怯えることなく、幸せに過ごしていける場所。
でも、エセルバートがいない。わたしには、あの人しかいないのに。
「ちょ、ちょっと待つのだわ、何をしに行くつもり?」
「この子を閉じ込めます」
「え……? クエルクス、どういうことなの?」
「言葉の通りですよ、ペレンニス」
何か音がするけれど、もう、何も考えられなかった。頭の中が真っ白に、真っ黒に、ごちゃ混ぜになって、正確な景色を描くことができない。わたしの好きな、ヒヤシンスと真紅が揃わなければ、この世界の彩りだなんて皆無に等しかった。
わたしはほとんど放心状態だったけれど、不意に、視界が開けていく。久方ぶりに、瞳を持ち上げたような感覚だった。目の前には、クエルクスが立っている。
「今日から、此処にいなさい。これから外へ出ることを、一切禁じます」
彼の発言の意味を理解できなくて、わたしは恐る恐る辺りを見渡す。木製の部屋に、小さなパレットベットに机。素朴な内装には、見覚えがある。ここは、クエルクスがくれた、わたしの部屋だ。そして彼は、わたしを閉じ込めると、そう言ったのだ。
「そんなの、嫌。あの人は、わたしの全てなのに。わたしの心臓は、彼のために生きているのに」
勝手に口から、想いが流れ出ていく。だけれど、そのどれもがわたしの本心だった。胸元でぎゅっと、拳を握る。すると、わたしの意志に呼応するように、心臓はどくどくと鼓動を鳴らした。これこそ、正しい生き様だった。
でも。クエルクスは、首を振った。縦にではなく、左右に、幾度となく。彼はこちらに近寄り、わたしの肩に手を乗せた。それから、淡白に封じ込まれた表情で、わたしを静かに見下ろす。
「冗談だとしても、そのようなことを言わないで」
顔立ちとそっくりな調子で、クエルクスはまたしても、わたしを否定した。その無感情で、無機質な対応を、わたしは初めて
「冗談なわけがない! わたしの想いは彼であり、彼の想いはわたしなのよ!」
この人は、敵だ。わたしと彼を引き裂こうとする、悍ましい悪魔なのだ!
わたしは急いで、彼の手を叩き落とす。けれどクエルクスは、わたしの手首を容易に捕らえる。
「貴方はあの青年に騙されている。私はそれが、永久に許せないのです」
くぐもった灰色の眼差しは、開閉しない。小さな唇だって、仄かに動くだけ。わたしは、彼の冷淡に論するような口調が、腹立たしくてどうにかなりそうだった。
「分かったような口を聞かないで!!」
腹の底から湧き上がった感情を、際限なく放出する。わたしはゆらゆらと面を上げて、目先にいる彼を、妬ましく睨んだ。
「わたしの名前を呼んだこともないあなたに、何が分かるというの……?」
クエルクスは、何も言わない。沈黙に委ねるよう、そっと目を伏せただけ。そして、彼は緩慢な動作で、ゆったりと、わたしに背を向けた。
「待って、ここから出して!」
わたしは慌てて、彼を呼び止める。手を伸ばせば届く位置にいるはずなのに、クエルクスは遥か先を歩んでいるようで。上質なキトンを、軽やかなヴェールを、何としてでも掴まなければ。私たちを阻む彼を見返らせて、この手で、確実に切り裂かなければならない!
「大丈夫。迎えにきたよ、サナシア」
悪魔の背後に襲いかかろうとした、そのときだった。安らかで純真なお告げが、わたしに降り注ぐ。
この声は。少し掠れた、奥深い少年の声は。わたしの名前を呼んでくれた、愛おしいこの声の持ち主は。
「ッお待ちなさい! エセルバート・オサリバン!」
ガチャリ。鍵の閉まる音がした。
扉の前に、あの人が立っている。心配することはないと言うように、どこまでも柔らかに、彼はわたしに微笑みかけていた。
「エセルバート……!」
ようやく名前を呼べた喜びのままに、わたしはエセルバートのところへと駆け出した。腕を広げてくれた彼の中に、ぴったりと身体を嵌め込む。そうして、もう二度と抜けてしまわないようにと、強く強く抱きしめた。
「あなたとずっと、二人きりでいたい」
「うん」
「あなた以外、何もいらないの……」
「あぁ」
わたしの言葉を、彼は一つずつ大事に、噛み締める。それは、同じ気持ちを通わせている証だった。
心が熱で潤っていく。こんなにも幸福なことは、これからどれほど生きても、体験することはないだろう。
「もう俺たちを阻む存在はいない。だから、永遠に二人で此処にいよう、サナシア」
彼が耳元で、穏やかに囁く。その一言一句が、わたしの魂の写し身ようだった。
「勿論よ、エセルバート」
肯定を返すと、彼が嬉しそうに笑う。わたしがずっと、この瞳に宿したかった、薔薇のように美しい笑みだった。
エセルバートを抱きしめれば抱きしめるほど、床がぬかるんで、ふわりと微睡みへ落ちていく。ぼんやりとした温度がわたしを、時計の針が停止した居場所へと誘う。思考を忘れていく感覚が、形を失っていくような感覚が、わたしにひたひたと染み込んでいく。
わたしはエセルバートと、この二人きりの世界で生きていくために生まれたのだ。
脳内で呟いた言の葉を最後に、わたしは深く瞼を閉ざした。
◆◆◆
あの子を叩いて、殴って、滅茶苦茶にして。満足しきったあたしは、あっさりと眠気がなくなって、いつもの席に座ってた。
気分は爽快。夏の朝日みたいに清々しくって、でも、梅雨の夕方みたいにじめじめもしてて。真逆の湿度を体感させられてるみたいだった。だけど、もう終わったことなんて、どうでもいい。どうせあの子は、あそこから出ることはできないんだから。
あたしは空っぽな身体を、背もたれに押しつけた。浮かび上がるスクリーンは、あの子みたいな黒でたっぷり満ちてる。何も映らない画面を、ただぼうっと眺めた。でも次第に、暗闇には砂嵐が舞い始める。路地裏のゴミ袋に集まる小蝿みたいに、ブンブン、ジージーと、不愉快な鳴き声を震わせて。まるであたしの心情をそのまま上映してるみたい、だなんて、頭の端っこで思った。
『——し——ア』
そのとき。モノクロのノイズが駆け回る雑音とは明らかに違った音が聞こえた。
どっと、圧迫させられるような胸騒ぎが、あたしを一気に取り囲む。この、悪夢の前兆のような恐怖は何? ホラー映画の後半で判明する事実を思い知るような、このとてつもない衝撃は?
あたしは、ネタバレなんて大嫌いだった。だから慌てて、丸裸の耳を塞ごうとする。だけど、未熟な防衛は一歩遅かった。
定められた運命を、覆せないみたいに。
『目を覚まして、ミア』
——彼と、そっくりな声が、あたしを呼んだ。
発作的に立ち上がる。座面の折り畳まれる悲鳴が、シアターに侘しく響く。そこからは、ひたすらに無音。でも、いつ次の台詞が流れてくるのかは、分からない。あたしはこの物語の脚本を知らないから。
不意に、左手がズボンのポッケを求める。その中身を暴こうと、今にも動き出しそうな指先が、あたしとは別物のようで。けど、あたしは耐え抜いて、ぐっと指を丸め込んだ。そして、何もかもから目を逸らして、映画館から逃げ出した。
今日は起きたのが早かったから、まだ夜も明けてないかもって思ったけど、もう既に朝日は燦々と昇ってるみたい。あたしはほっとして、振り返らずに歩き出す。
飽きるほど目にした白薔薇が両脇に並ぶ一本道だ。ただ、飽きたってのはあくまで表現。あたしがこの白い薔薇たちにそんなこと、言うわけないじゃない。彼の小さな子供たちは、あたしがやってきたことを大喜びするみたいに、きらきら花弁を輝かせる。あたしを導くような揺らめきに従って、レンガ道をリズムよく渡っていく。
暫くしてから水盤が見えてきて、そこを通り過ぎていけば、あたしの思い描く風景が現れた。階段の上に建つ、半円形のフラワーアーチ。太陽光を漏らさないように縫われた白薔薇と葉っぱは、今日もしっかりと役目を果たしてる。それでいい。彼らが懸命になる理由だって、きっとあるのだから。
慎重な足取りはすっかり忘れ物になったから、気軽なステップで、でもそれでいて丁寧に、汚れ一つない階段をスニーカーで上がっていく。
「よく眠れた?」
「いや、あんまり」
アーチのそばから問いが投げられる。深く悩まず素直に答えてみると、彼もまた呆れるみたいに肩を竦めた。
「僕もだよ」
昨日と同じように、彼がそこにいて、あたしを待ってくれてた。これだけで十分なくらい、本当に、嬉しかった。あたしとの約束を信じてくれた彼に、ありったけの感謝が溢れていく。
彼はあたしの気持ちを感じ取ったのか、ひっそりとはにかむ。
「歩こっか」
「えっ、大丈夫なの?」
唐突な彼の提案に、あたしは驚いた。だって彼は、長い間この光を恐れて、アーチの中で身を守っていたのに。お節介かもしれないけど、やっぱり心配だった。そんなあたしの疑問に、彼は申し訳なさそうに眉をハの字に下げる。
「怖い。……けど、夢だったんだ。光の注ぐ街を、何の気負いもなく歩くことが」
晴れた青空を見上げる彼の眼差しは、怯えてる。でも、潤んだ青緑色の瞳には、かけがえのない憧れが、日光なんかよりも煌めいてた。彼はずっと、その憧憬を自分で傷つけながらも。大事に守ってあげたかったんだ。
「それ、最高にときめく夢だね」
夢が錆びることはない。きみが希望を捨てない限り、絶対に。
「一緒に行こう!」
あたしは手を伸ばす。心の底から、彼を信じてるから。
「うん」
そして、彼も手を伸ばす。心の底から、あたしを信じてくれてるから。
薄暗い灰色から、温もった金色へと、頑丈な境界線を飛び越えて、彼が一歩を踏み出す。指と指が微かに触れ合った途端、あたしたちはきゅっと手を繋ぎ合った。
彼から白光を弾く日傘はいない。ありのままの日差しが、彼を照らしていく。この熱は、彼を焦がしてしまうかもしれないし、跡形もなく、焼き尽くしてしまうかもしれない。けど、彼はアーチから出て、あたしの手を取った。なら、世話焼きに口を挟んだりしない。紅潮する頬も、垂れていく汗も、彼にとっては鬱陶しいものなんかじゃなくて、わくわくするような冒険心の表れなんだから。
あたしは彼の手を引いて、弾むように歩を進めていく。彼も同じように、あたしの隣を歩いていった。焦らずゆっくりと、二人で庭園内を巡り回る。ちらりと横目に窺うと、彼の整った横顔があった。彼は楽しげに、周囲の景観に目を凝らしてる。無邪気な息遣いに、あたしも釣られちゃいそう。
というか、釣られてもいいじゃん。早速そう認めると、ちょっぴり鎮めていた高揚感が、新鮮に込み上がってきて。ジャズポップの音色に乗るように、上体がるんるんと揺れていった。
「それ、君も日焼け対策に?」
ふと、彼が尋ねる。視線は、あたしの胸元にかけられてるサングラスに注目してた。
あたしは彼みたいに、日光を怖がったりはしない。いや、ちゃんと日焼け対策はするべきだから、日焼け止めはちゃんと塗るけど。でもこのサングラスを、太陽を防ぐためにつけよう、とは思わない。ただ、最初からここにいた。あたしに分かるのは、これだけだった。
「これはオシャレ。つけてみる?」
考え倦ねてもまとまらなかったから、ファッションということにしておく。イケてるかダサいかなんて、他人に判断されたらそれまでだけど、少なくともあたしはこれを手放すつもりはなかったから。
彼はあたしのお誘いに「うん」と頷くと、こちらを覗き込むように屈む。そこから彼は停止して、お利口にあたしの次の行動を待ってた。おい我儘プリンス、とツッコミたくなったけど、あたしは大人なレディなので、我慢することに決める。
襟から外してテンプルを広げると、彼の顔にそうっと嵌めていく。サイズに問題はないみたいで、彼は位置を修正することなく、姿勢を元に戻した。
くるくると、周りを見渡したり、快晴を仰いだり。真新しいおもちゃを手に入れた子供みたいに、彼はその場で緩やかに回転する。けど、彼の面持ちは少し気難しいものだった。
「うーん、やっぱり見えにくくて好きじゃないや」
回るのをやめて、サングラスを外す彼が苦笑する。彼は感謝を告げながら、あたしの胸元にサングラスを吊り下げた。
たしかに、彼にこそ必要なアイテムだろう。だから、過去につけたことがあったとしても、それは変なことじゃない。でも、じゃあどうして、今はつけていないんだろう。好きじゃないから、が答えなんだろうけど……。どうしてか、あんまりしっくりこなかった。
そうもやもやしちゃうくらい、サングラスを飾った彼の姿が、あたしにとってぴったりな容姿だった。
「あのとき……ミラージェンを追いかけてたときは、僕も慣れないことをして気がつかなかったけど」
彼が小さな声で発する。脳内で独り言を繰り広げてたあたしは、即座に切り替えて耳を傾ける。
再度天空を仰視した彼の美しい眼からは、もう神々しい光は零れ落ちない。
「君が言ってたように、ここはあたたかいね」
じっくりと、天からの贈り物を受け取るように、彼は瞼を瞑った。
「僕は陽の光を恐れてたわけじゃない。影から出るのが怖かっただけなんだ」
その二つは、似ているようで全然違う。でもどうしても、同一人物だって、思い込んじゃう。そうして、自分自身を追い詰めて、最大の武器となっていく。それは肉体的な痕の残らない、痛ましい自傷行為だった。彼は途方もない地獄を孤独に味わっていた。
でも、今こうして、この人は自分で気づくことができたのだ。知らないフリをすることだってできたのに、知りたいのだと願って、恐れと向き合うことを決意することによって。
それがどれだけ勇気のいる行為なのか、あたしには理解できてしまう。だから、胸がいっぱいだった。彼の臆病な覚悟が、何よりも輝かしかった。
けど、彼の今までの生き方が「間違い」だなんて断定してほしくない。
「別にね、どっちにいたっていいんだよ。無理ってなっちゃったら、影に隠れちゃえばいいし。お日様に会いたくなったら、外に出ればいいんだから。きみなら大丈夫。きみがどっちを選んでも、あたしは隣にいるよ」
だから、きみが選んだ人生を歩んで生きたきみがいいんだって、あたしの想いをちゃんと伝える。きみという人間が大好きなんだよって、目一杯に歌う。
「それ、前にも言われたような気がする。君にかな」
すると彼は、どこか不思議そうにそう言った。あたしの言葉があたしのものだって、言い切れないみたいに。
「ミラージェン」
ふわりと、柔和な風が吹く。彼の雪景色が儚く靡いて、春の彼方に溶けちゃいそうだった。
「ここは、夢の中?」
彼は首を傾げることもなく、一直線な質問であたしを貫く。悩むような仕草は見当たらなくて、何か一つを確かめるような物言いだった。
おかしな質問だ。だって、夢はあたしとあの子の世界なのであって、目を覚ませばここに戻ってくるんだから……
『目を覚まして、ミア』
刹那、彼の、じゃなくて、彼に似通った声が脳裏を過ぎる。またあの、猛烈に嫌な予感だった。彼の問いに答えてちゃ駄目、だなんて、そんな緊迫感があたしの肩を突く。でも、この空気から脱出するためには、いち早く返答する他なかった。当たり前を声に出すことに抗いたくなる。けど、あたしはそれを無視して、覚束なく唇を開いた。
「現実だよ」
答えて、しまった。間違いなんてない。どんな人が審議しても、必ず正しい解答。これでいいはず。なのに、全身に取り憑くような、この違和感は何。あたしは引っ掛かりを拭いたくて、だけど、何故だか、怖くって。だから、縋りつくみたいに、彼の反応を待った。
けど、彼は黙ったままだった。落ち着いたように、あたしを見つめてる。でも段々と、彼の静寂な表情は、花弁が朽ちるみたいに崩れていって。
最後に彼は、世界で一番の幸福な笑みを、あたしに贈り届けた。そして、力無くその場に倒れた。
「え、」
打ち切り漫画のバッドエンドみたいに、呆気ないワンシーン。あたしは彼を支えてあげることすらできず、ひたすら立ち尽くした。
「そんな、うそでしょ」
灼熱の球体が彼の生気を奪ったんじゃない。そう本能的に察知して、膝がガクッとレンガに打ち付けられる。そのまま座り込んで動けなくなりそうだったけど、這いつくばるように膝を地面に擦り付けて、なんとか彼の頭を太ももに乗せる。
小刻みに震える手で、彼の頬に触る。さっきまで彩られていた赤らみは消え失せて、まるで、棺の中を覗いてるみたいだった。
「ねぇ起きて、お願い、目を開けて、あたしを見つめて……」
ぼたぼたと、流れる雫が、彼の輪郭を伝う。でも、彼は起きない。あたしは項垂れて、彼の胸に泣き伏した。
あの映画館を逃げ出したときから、あたしは何にも変わってなかった。心のどこかで、こうなることは分かってたはずなのに。
「きみの名前って、なんだっけ……」
これこそが、あたしの選んだ「運命」だった。
◆◆◆
踏み場のない暗闇に投げ出されることが恐ろしかった。無限大に口を広げる宇宙の底に吸い込まれることが恐ろしかった。私はベッドの上で、独りぼっちになってしまうのが怖かった。
ミラージェンとの仲違いが、未だ受け入れられない。もうあの子は、随分と前に此処を去っていったというのに。
私は唖然として寝転びながら、活気の失われた睨み合いを天井相手にしている。煌めく星々のモビールは、破けて見窄らしい布切れが干されているようにしか見えなくなった。鳥の羽の如く柔らかな天蓋は、翼のもげた鳥の死骸。安眠を与える紺色の夜空は、卑屈な戯言を生産する人影が滲んだものでしかない。こんな廃れた場所で、私はまた孤独となってしまった。だが、涙は潤わない。そんなもの、とっくに枯れ果てていた。
首を重たく横に傾け、弱々しく壁に手を伸ばすと、私の指はスカスカとすり抜ける。それを確認し終えると、弛んだ糸に引っ張られるようにして上体を起こす。次に、やる気の欠如した動作で、脚を壁側へと移動させてゆく。寝具の縁に腰をかけると、指先と等しく下半身もすり抜けた。私はゆっくりと、聖なる川に爪先をつけるように、足を下ろしてゆく。そうして立ち上がると、私を閉じ込めるのは白いシーツや甘い毛布ではなく、奇妙なほどにおどろおどろしい赤の一本道なのであった。
ザレンダの元へ出向くためには、この路地さながらに鬱屈とした道を通らねばならない。これまでも何度か此処を渡り歩いてきたが、脳天から蛆虫がぶら下がってくるやもしれない悪寒を長引かせられるはずもなく、私は足早に去ることを心がけていた。だが、以前はあれほどまでに恐ろしく気色の悪かったこの細道が、現在では形容し難い安心感を催している。
そこでふと勘づく。私の傍らに、揺り籠が置かれているのだと。こちらから近づいたのか、それともあちらから近づいてきたのか。曖昧な動機や理屈など意味をなさないだろうに。神聖のみを主成分としたシーツやブランケットに触れてみる。すると驚いたことに、私は黒を抜き取った灰色——それは如何にも蒼白で母性的だ——によって、恐怖を器用に溶解されたのだった。平然と残ったこれを、私は、親しみと呼ぶしかないというのに。何もかもを破棄して、此処で永遠に沈殿してゆくことを許されたい。後方を顧みるのが面倒になるくらい、そう思わずにはいられなかった。
しかし私は彼に会わなければならないし、億劫な旋風などが額の周りを回ることもない。私は揺り籠から離れると、老人のような歩行は完治させないまま左壁を通り抜けてゆく。
瞬く間に景色は変化する。私の目前に構えていたのは、真紅を華やがせたアルバムの落ち着く棚であった。一本道からザレンダの空間へ到着した際、何処に繋がるのかはいたって気まぐれだ。初対面の書棚との挨拶を交わすこともあれば、図らずも彼の真横へと佇むこともしばしば。だが、この家具と対峙することになるとは。偶然を深読みする無謀さこそが人間の代表的な嗜好だということは承知済みである。私に芽生えたこのちっぽけな疑問が無益であるということも、だ。無茶な納得を己に押し付けて、アルバムから目線を外すことにする。目指すべき行方は此処ではないのだから。
ごく短い瞬きのように過ぎ去ってゆく景観たちに放流されるがまま、私は独りよがりな約束の地へと足を止めた。夢の中へ不可思議に没頭するかの如く、はたまた洗い流せない現実の所業に見入るかの如く。
ソファに精神を癒着させていたザレンダが、こちらを見返る。それから尋常なる加速によって、私の異変を感知してしまったようだった。
「何が……」
「私、こうであるべきだったの」
駆けつけた彼に、告げる。ザレンダは私の両の手を握り、左、右、と首を振っていた。しかしながら、どんなことが起きようとも、私はこの人に賛同できないのだ。
樹木に実った果実が雨水を存分に蓄えた土の上に落下するように、彼が跪く。ぐちゃりと嘆いた破壊音が、彼の涙腺を酷く痛めつける。私を仰ぎ見るザレンダの涙は、林檎に灯った丸い艶を摘み取ったような美しさであった。
彼が私を抱擁したのを、他人事の如く傍観する。しわくちゃな藻屑になりかねない抱擁。だが、ザレンダから否定の慰めは絞り出されない。これが答えだった。私たちにはもう、どうしようもなかった。
「もうすぐ、箱庭が完成する」
ザレンダは聡明だ。よってこの予感は当たっている。終幕はまもなく開かれる。
「共に見届けようか」
愚かなる傷の舐め合いに区切りをつけた。彼もまた、私と全くもって同意見なようだったから。
私たちはこの身を、日常的かつ、非日常的な素振りで、ソファに託す。気取ることをやめた面持ちは、紙芝居劇の方へと傾いてゆく。ガーデンの真髄を探る必要はなくなったため、画面に映すストーリーは予め決まっている。
ひんやりとした朝方に、フラワーアーチで待ち合わせをする男女——シェイヴィとミラージェンが、可憐に解かれない小指のような邂逅を果たす。色も形も異なった双眼を照らし合わせる彼らの、日差しよりもあたたかな視線の結びつきを目の当たりにした。
「最初から決められていたみたい」
ようやく私は、決して触れられぬ処女の如き神秘性を思い知らされ、其処に割り込む隙などなかったのだと、今しがた悟る。
ザレンダは寡黙を演じた。肯定を追い越した既知に浸っているのだから真っ当な役割である。
『一緒に行こう!』
はつらつと、けれども勇敢に、ミラージェンが手を差し伸べた。そしてアーチに潜んでいたシェイヴィも、彼女と同じ意志を宿してその手を取る。彼は、影から出ることを選んだのだった。
「よかった」
少々驚愕したのも束の間。ザレンダのこじ開けられた暗黒の瞳は嬉しそうに、それでも後悔を忘れることなく、じわじわと狭まっていった。
私たちは映画の感想をぽつぽつと個人的に呟くだけで、平凡じみた会話を展開することは避けられている。スクリーンに彩られた映像に、今だけは夢中になりたいのだ。運命の青年と少女が隣り合う風景は、まるで幻想的な夏に呼び覚まされた御伽噺のようだった。幼子であった時代に出会った奇跡の夢物語を、誰にも指摘されぬようにと幼稚に守りたくなってしまう。そのような世界を、私たちは眺めている。
すると不意に、シェイヴィの顔へサングラスが乗せられた。清いホワイトに寝かしつけられている彼には相応しくない闇の色。正しくそれらは、敵対するカラーリングだった。だが私には、むしろ長年連れ添ってきた友人のような親近感が浮上する。異様なまでの既視感。こうであるべきなのだと再教育される不愉快さ。
きっとザレンダも眉頭を押さえているに違いない。そう確信して首を回したが、彼は先刻から変わらぬ反応を続けている。私とは真逆の風体であった。太陽からの愛情を認めることが叶えられた白薔薇の青年を、ザレンダは何とも愛おしげに、かつて観測者を名乗ったとは思えぬ面立ちで見つめていた。
『別にね、どっちにいたっていいんだよ。無理ってなっちゃったら、影に隠れちゃえばいいし。お日様に会いたくなったら、外に出ればいいんだから。きみなら大丈夫。きみがどっちを選んでも、あたしは隣にいるよ』
純朴というには傷だらけで、でも、だとしても、滑らかな自然さを放つ少女の台詞が発される。その僅かな一瞬であった。ザレンダが、呼吸音を乱したのは。
『それ、前にも言われたような気がする。君にかな』
空想の中を泳ぐように微笑んだ青年の言葉に、彼は息を呑んだ。だが私には、尺を埋めるための当たり障りない掛け合いのようにしか、感じられなかった。
『ミラージェン』
私たちの相違した状況など露知らず、シェイヴィが少女の名を呼ぶ。
『ここは、夢の中?』
——一斉に、私の身体中を循環する血液が逃げ去っていった。青年が丁重に、忍ばせていた、問い。この問いが、悪魔を召喚するよりも遥かに禁忌的で、それが黙示録を彷彿させるほどの悲劇なのだと、私は知っている。
夢の主は夢の住人に、その質問をしてはならない。何故なら、住人が「現実だ」と答えれば——主は夢の中から、出られなくなってしまう。
永遠に。
「ミア!! 答えては駄」
『現実だよ』
部外者の私が必死に叫んだところで、くだらぬ願いは虚しく散ってゆくだけ。
「シェイヴィ!!」
私たちは、シェイヴィの「死」を目撃したのだった。
ザレンダの叫び声と被さるように、画面は冷酷に切り替わってゆく。芝居劇に貼り付けられたのは、こぢんまりとした一室の場面。そこには、小鳥の如く可憐な少女サナシア、次いで、学生服を纏った青年が、扉をすり抜けるようにして現れた。青年の隣にいた神々さながらに壮麗な男は、彼の登場に気づくなり、恰も稲妻に打たれたように形相を変えて、
『ッお待ちなさい! エセルバート・オサリバン!』
と。あの青年を呼び止めた。私たちはこの耳で、たしかにその名を聞いた。
「「父さん」」
互いに顔を見合わせる。
そう。完全に、同じタイミングで、そう零してしまった。
私は、自分の名を思い出せない。あの子を信じて、ユゼと名乗っていただけ。でも、エセルバート・オサリバンという名が、私の「父親」であるのだと、確信を持って頷けてしまえる。況してや、ザレンダもそのような因果の元に産まれし人間なのだということも、もはや言い逃れできなかった。
「その髪色に、瞳の色。貴方たちこそが、この世界から望まれた存在だったんだね」
暁色の瞳を宿した、
彼は、父親の遺伝子を素晴らしく受け継ぎ、故に利発すぎたばかりに、容易に、導き出した結論を私に告げる。
「あの子が犠牲になる必要はない。そして貴方も、もう存在証明に苦しむ必要はなくなった」
我が子を安心させるように柔らかな微笑みを、子供である彼が、私へとささやかに捧げた。
「あの棺で眠る者。それが、俺だったのだから」
だん。
物音がした。足元に、何かが落ちる音が。床に視野を下げると、そこには、真紅の日記帳が眠っている。私は、ゆっくりと、顔を上げた。隣の席には、もぬけの殻となったコートが、裏側に隠されていた青緑色を晒して、無口に居座っていた。
急いで屈む。それから日記帳を拾って、必然的に開かれたのは裏表紙の背面であった。私はまたもや必然的に、カバー裏の端へと目玉を固定させる。そして、「Ethelbert O'Sullivan」と刻まれた文字列を、やはり突きつけられるのだった。無能に、ページを閉ざす。何処までも私たちを魅惑する赤色が、こちらを嘲笑っていた。
そのとき私は、これと瓜二つの色彩を持ったあのアルバムが、脳内に前世の如き鮮明な記憶として蘇る。考え無しに、滅茶苦茶になって、走り出した。やがて目的の本棚の前にまで駆けつけると、私はやっと、宝物の中身を開封する。
黒いページに飾られた写真に映る彼は、どう足掻いても笑顔を知り得ることはなくて。でも、こんなにも愛おしくて、大切で仕方のない存在は、みるみると私の風貌へと書き換えられていった。
「違う、違う、違う」
幾度となく否定を訴えながら、私はアルバムを捲ってゆく。だが、その度に、彼は私になってしまう。彼のそばで無邪気に笑うシェイヴィも、いつの間にかサングラスをかけていて。その隣には、楽しそうにピースマークをするミラージェンがいて。そしてその隣には、必ず私がいて。
見たこともない景色。そのはずだった。これは私の馬鹿馬鹿しい妄想なのだと、かぶりを振れるはずだった。でも、私はこの描写に、見覚えがありすぎる。私は、このシーンを体験したことが、きっとあった。
そう。この世界は、私の生まれた世界だった。
『Happy Birthday! Miseren!』
ばたりと閉まった扉の表紙に記された文字が変貌する。吹き出しの中の数字の六が上下、左右、と反転してゆき、「9.11」に生まれ変わる。
「これは私のものじゃなくて、
選ばれたのは、ザレンダの世界ではなく、私の世界だった。
私はアルバムを抱きしめ、その場に蹲る。自問自答に付き合ってくれるザレンダは、もう何処にもいないのに。
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