Chapter2:Dreams and reality

26 悪夢


「懐かしいな」

 口笛を吹きながら、ルパロセラが呟く。機嫌よく流るる息は、彼女の目線の先にある天井へと飛び立っていった。

「こんな感じで野原に寝転んでさ、ぐ〜たらぐ〜たら……したもんだよなぁ」

 組んだ両手に頭を預けて寝転がるルパロセラは、穏やかに瞼を閉ざしながら脱力感に浸っている。そんな彼女の横で、わたしも宙を仰いでいた。
 花柄のカーペットに背中をくっつける四人が、リビングに集まっている。波の泳ぐ木天井に開眼する瞳は、慎ましい目つきでわたしたちを見守っていた。

「そんで、見上げたらいっつもおじさんがいたよな」

 ルパロセラの右隣で腕を組んでいるラセルティリアが、不快を隠さぬ物言いを見せつける。恐らく、童顔を顰めているに違いない。だけれど、それが好意の裏返しだということは、本人以外の皆が熟知している愛らしさだった。クエルクスも、彼をよく可愛がっていたように思える。

「うふふ。まるで遠い昔のことみたいなのだわ」

 わたしの左隣で祈るように手を包むペレンニスは、軽やかな声色を弾ませた。わたしに擦り寄って甘やかに微笑む彼女は、微睡みに守られながら夢想している。自由奔放な女王さまのようでいて、ただちょっぴり我儘なだけの少女の夢幻は、わたしに落ち着きを授けてくれた。
 三人が思い描く牧歌的な風景は、わたしの脳内にも一瞬で浮かび上がる。だけれど、これは回想ではなく、想像だった。
 わたしたちには当然のように幼少期を過ごした過去がある。そうでなければ、今ここにわたしはいない。でも、時計の針を巻き戻したそこに、わたしはいたのだろうか。ラセルティリアと、ルパロセラと、ペレンニス。そしてクエルクスが存在した空間に、果たしてわたしの席は用意されていたのか。
 こんなどうしようもない不安を抱えてしまうのは、やはりわたしには想像を繰り広げる他なかったからだった。皆のように、わたしも幸福な日々を追憶したい。なのに、再生する映像の内容がわたしの記憶だと、この口で言い切ることはできなかった。その迷いが、己の中に悲しみという感情を蓄積させていく。あまりにも心細くて、喉が枯れてしまいそうになった。

「昔だけじゃない。今もこれからも、ずっと一緒だ」

 だけれどそれに気がついたのか、ルパロセラがこちらを向く。それから、わたしに笑いかけてくれた。大空を舞うかの如く、一入朗らかに。わたしは幾らか、救われるような思いだった。

「クエルンが帰ってくるのも遅いかもだし、サプライズってことにして、今日はみんなでリビングで寝ないか?」

 彼女はひょいと上半身を持ち上げると、短い人差し指を緩やかに立てる。それに続いて身を起こした二人も、ルパロセラと同意見のようだった。でもわたしは、瞬時に頷けずにいる。
 今日の夜は、この家から出なければならない。シェイヴィに命じられたのだ。わたしが喜ぶはずだから、玄関の扉を開くようにと。だが、夜分遅くに外出をするだなんて、皆に心配をかけてしまうだろう。珍しくクエルクスがいないのは、正直に言えば好都合だった。でも、ここで寝るとなれば少々厄介だ。わたしはなるべく、このことは隠しておきたかったから。

「あ……えっと……」

 おどおどと起き上がるわたしの背を、ルパロセラが優しく押した。そのおかげでスムーズに座る体勢へと移り変わる。

「大丈夫。きっとゆっくり眠れるさ」

 ルパロセラはそう囁くと、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。まもなく、彼女の視線はわたしから離れる。

「並び順はどうするよ?」
「そうね、なんでもいいのだわ。これでどう?」
「いやいやおじさんの隣にサナちゃんがいたらまずいだろ」
「あら、どうして? ぼくに分かるよう説明してちょうだい、ラセルティリア」
「あ、アンタ……まさか……!?」
「おうおう、若いねぇ」

 小さな作戦会議が開かれて、リビングは忽ち賑やかになっていく。三人の笑い声が、あたたかくて、無邪気で、大切だった。だけれど、わたしの心の置き場は、もうあのドアの向こう側にしかなかった。


 静まった一室に、三人分の寝息を確認する。間違いじゃない。全員が眼を瞑って、規則的に呼吸を繰り返していた。クエルクスはまだ戻っていないようだ。申し訳ないけれど、ありがたい状況だった。
 わたしは慎重に布団から抜け出すと、暗闇に慣れた眼を駆使して玄関へと足を運ぶ。そして、そっとドアノブに手をかけた。

「ごめんなさい」

 ドアが開かれていく。でも、音はしなかった。静寂を手にしたからではない。ただすんなりと、わたしを導くようにして広がっていったのだ。
 一歩踏み出すと、わたしの足は草原に降り立つ。片足も滑り込ませてしまえば、そこはもう別世界のようだった。寥々とした黒に満ちた空。瑞々しく煌めきを放つ三日月。夜を孤立してしまった国だと感じてしまう人もいるだろう。だけれどわたしは、哀愁を誘うこの闇にこそ血道を上げるのだった。
 原っぱの上を歩く。なんとも身軽な心地だった。まだ数歩しか足跡を刻んでいないというのに、背後に建っていたはずの家が遥か遠くに置いていかれているのだという、謎めいた確信がある。
 わたしの足首にエメラルドの少年少女が悪戯に息を吹きかけるのがこそばゆい。けれどそこに爽やかさが通り過ぎていくのを、わたしは満喫した。夜風は長いスカートを翻す。こちらを俯瞰する黄金色の姫君もまた、美しい微笑を湛えている。
 あぁ、生き生きと心が躍るよう。しみじみとした感動が全身に巡っていく。きっとここにいる誰もが、わたしのかけがえのない仲間なのだ。彼らの鮮やかで豊かな風体は、わたしをどのような場所にだって連れて行ってくれた。
 やがて、色とりどりの道案内は終わりを迎える。わたしは平常に彷徨していただけかもしれない。でも、目の前にはゴールがある。それを指し示してくれるのは、決まって初恋色の彼女の役目だった。金の注ぐ道を、わたしは追いかける。
 そこには、人がいた。たった一人の後ろ姿はひっそりと、だけれど切々と佇んでいる。わたしは初め、何故だか逃げ出したくなった。でも、そんな弱音に劣らないくらい、わたしに気づいてほしいと願った。
 足を、前に押し出す。野原が微かに潰されて、くしゃりと小さなくしゃみが鳴った。

「……サナシア?」

 人影が揺らめく。ささやかな期待の込められた呟きが零されたのち、その人物はこちらを振り返った。
 ヒヤシンスの髪がさらりと靡いて、長い前髪から垣間見えた真紅色の双眼が、大きく、じわじわと、見開いていく。

「あぁ、サナシア!」

 無上の歓喜に溢れ返った青年の声が、わたしの名前を叫んだ。
 彼がこちらへと、全速力で走り出す。距離はそう離れていないというのに、青年は我を忘れたかの如く大地を渡っていった。白く窶れた手が、花束を投げるように伸ばされる。その痩せ細った両手は、わたしの体を機嫌よく抱き上げた。それから視界がくるくると、さながら小人のワルツのように回転する。

「はははっ」

 回りゆく景色の中、あどけない笑い声が耳を擽った。彼は細めた瞳の奥底で、わたしだけを愛おしそうに捕まえる。人懐っこいターンが、次第に落ち着きを取り戻していく。その流れのまま、わたしは地面に爪先をつけようと気を配る。だけれど、彼はわたしを一人にはさせなかった。
 足の裏が地面に吸い付くよりも前。彼がわたしを抱き寄せた。柔らかな温度が、まっすぐに伝わってくる。どこか懐かしい香りがふわりと漂い、それは妙に黙りこくった胸の内側を酔わせていく。もう既に足先は草に横たわっているというのに、わたしはまるで幽体離脱してしまったかのような浮遊感を巧みに扱っていた。
 この人の形を、もっとそばで感じていたい。そう希って、わたしは腕を回そうとした。けれど、この腕はとっくに彼を包んでしまっている。なら、わたしが次に取る行動は決定的となった。ありったけの慈しみ、熱情、思慕、恋しさ。それらを一緒くたにして、彼をも更に巻き込むのだ。強引な想いだということは、承知の上だった。だが、わたしは躊躇わない。何故なら、この人が拒むことはないと知っていたから。和やかに笑みながら、わたしを一層強く縫い込むのだと、分かっていたから。

「……そんな。何故泣いているんだい、サナシア」

 気がつくと、悲しい声色で尋ねる彼が眼前にいた。わたしの頬からは、そろそろと水滴が落っこちていく。

「あなたが笑ってくれたから……」

 わたしの返答は、雨音のようだった。それは、容易に覆すことの叶わない、広大な自然の恵み。
 こちらのことなど構わず自由に歩みなさいと、目尻に溜まった慈悲深い代弁者に呼びかける。彼らと共存することによって、わたしは幼少に蓄えたであろう素直さを失わずにいられるのだ。

「当たり前じゃないか。俺の哀しみを拭ってくれたのは、貴方なのだから」
「え……わたしが?」
「そうだよ、忘れてしまったの?」

 青年はわたしの肩に両手を乗せて、如何にも不可思議そうな仕草に専心している。

「じゃあ、もうあなたは、泣いたりしない?」

 わたしは彼の泣き顔なんて、見たことがない。そのはずなのに、ずっと手放せなかったこの問いを、いち早く亡き者にしたくて堪らなかった。けれど、彼は左右に首を振り、わたしの元に訪れた死神を迎え入れなかった。

「それは……分からない。俺はこの先も、悲しみに首を締め付けられ、喜びと共に踊るだろう。だが、その傍らには……貴方が、サナシアがいる」

 青年の長いまつ毛は淑やかに瞬き、安心を解放した眼差しは、わたしをつくづくと熟視する。そして、薔薇のように鮮やかな唇の両端が、にこやかに吊り上がっていった。

「俺は誰もが認める臆病者さ。草木や小動物ですら嘲笑うほどにね。……だから、もしまた俺が泣いてしまったときは、貴方にもう一度この雫を拭ってほしい。そして俺も、貴方の全てを受け止めたい。この心臓に誓って、そう願っているよ」

 両頬に伝っていた涙が、忍びやかに拭われる。眦に住み着いた水溜まりも逃さず、彼は丁寧な手つきでそれらをなくしてみせた。ぼやけていた目の玉が、くっきりと晴れてゆく。
 あぁ、なんてこと。呆気なく破けてしまいそうなほどの熱が、波打つ核の部分に押し寄せてくる。眉目秀麗な彼の顔立ちが、陽射しの温もりに綻んでいるのだと、未熟な自分自身に教え込んでしまった。

「わたしも、わたしもよ……!」

 まともな返事などできなかった。感情が先走ってしまって、どうにか追いつくためにと発されたのが、この言葉だった。無鉄砲で、貧相極まりない。でも、どうしても、この人に届けたかった。

 貴方の隣で、生きていたいと。

「俺の想いを受け取ってくれてありがとう」

 再び彼はわたしを抱き寄せる。わたしも全く同じように、彼と心臓を繋ぎ合わせた。

「あなたの想いこそが、わたしそのものよ」
「ふふ。こんなに美しい形をしていただなんて、知らなかったな」
「もう、恥ずかしくなる冗談はやめて」

 少し叱るような口調を尖らせたつもりだったけれど、滲んだ笑いを堪えることは難しかった。生真面目に揶揄った彼もまた、くつくつと肩を震わせている。わたしたちの秘密めく笑い声は、夜のしじまへと深く浸透していった。

「幸せだ」
「わたしもよ、あなた」

 長い間、途方もない喪失感や己の存在証明に苦しんでいた。わたしはどうして生まれたのか。何のために生きているのか。生涯の終わりはわたしを納得させるものなのか。その全部を知りたかった。何度惑ったとしても、何度転けたとしても、挙げ句の果てに命が燃え尽きたとしても。あの光の先で輝く一筋を握られるのなら、不幸せだと歴史書に記されるかもしれない人生だって、わたしにとって最も価値あるものだった。分からない、だから知りもしないのだと、自ら思考放棄を選択することこそが、己を不幸へと落とし込む最初の手口なのだ。わたしはそれを、何よりも恐れていたというのに、立ち去ることのない喪失感がわたしを閉じ込めていた。
 だけれど、もう違う。わたしは、生まれた意味を、生きる理由を、生涯の終わり方を、ようやく見つけることができた。彼という名の、わたしの全てを。

「サナシア。俺の名を呼んでくれる?」
「あなたの名前?」

 ふと彼が囁いて、わたしは思わず聞き返してしまう。
 わたしはどうして、この人の名前を一回も呼ばなかったのだろう。絶対に、忘れるはずがないのに。
 彼はわたしの身から僅かに遠のき、互いの顔を見交わせられる位置に整った。そして、一際艶やかに、冷ややかな月光の如く、わたしに微笑んだ。

「――エセルバートと、貴方の純潔な囀りで呼んでおくれ」



「なん、でアイツが、こんなところに」


「これじゃ、まるで、悪夢じゃないか……」


「……たすけて」


「助けて、クエルクス!!」


◆◆◆


 辺りを暗闇が覆う。宵の目覚めた街は侘しい。だけれど、私を見下ろして、密やかに纏わりつこうとする黒は、夜と呼ばれる者ではない。この箱庭は、時間の法則性から逸脱している。私たちが肌身で感じた全てが、まやかしの命。それは此処に人の子として存在する私と、瓜二つだった。
 紛い物の私が、紛い物に真如を求めるなど、愚かしいにも程がある。しかし、だとしても。私は、優しい夜明けが繰り返されることを、望んだのだった。

「こんばんは、クエルクスさま」

 暗黒の中に、純白が浮かび上がる。悪目立ちしてしまうその色こそ、目先にいる青年を甚だしく結びつけている。日傘の内に潜んでいたシェイヴィは、私の姿を窺うように顔を覗かせた。普段との変化に衰えた、飄々とした表情が、こちらを見透かしている。

「私がくることを予知していましたね」
「まさか。僕は予知能力者じゃない」
「ご自分が思っているよりも、貴方は相当白々しいですよ」

 青年は、人の子にしては神経質で、繊細すぎた。その代償こそが、創始者という立場であったのだろう。願ってもいないというのに、哀れな子だった。
 彼は水盤の縁に、礼儀正しく腰を下ろしている。時々足を浮かせて、ゆらゆらと揺蕩う動作と共に、レースの飾り付けられた傘を片手で弄ぶ。その一連の活動は、私の影で休みながら親を待つ子供のようだった。

「クエルクスさまだって、待ってくれてたんでしょ」

 仄かな笑顔に込められた感謝が、私のそばに訪れる。
 果てしなく継承されゆく世界を私は生きた。その間にも生命は誕生し、日々を営み、暫しの眠りにつく。彼らの一生は短く儚い。だけれどそれは、私たちの存在よりも、絶対的に価値のあるものだった。
 終わりのときは、残酷にも平等に迫り来る。私もいつの日か邂逅するだろう。そして、こちらに笑いかける青年の背後にも、もう時期やってくる。彼が心の底から望んだ、死の始まりが。
 箱庭の完成を一刻も早く実現させたいのは、私だけではない。此処を作った彼が、一番に叶えたいはず。知っている。彼に手を貸したのは私なのだから。とはいえ私は、青年と少女の、安らかなるひとときを崩したくはなかった。
 それは、この子にも守りたい存在がいることを、私だけは大切にしてあげたかったから。シェイヴィの発言は、私の真意を汲み取ったゆえの選び方だろう。やはり、どう足掻いても彼は、繊細すぎる子だった。

「あの子に何を与えるおつもりですか」

 だけれど、飴ばかりを与えてはいられない。私は冷淡と彼に言い放つ。

「あの子って誰のこと? 分からないよ」

 青年はわざとらしく肩を竦めてみせる。試すような物言いだった。私にとっては可愛らしい揺さぶりにすぎない。

「虎の尾を踏みたいのでしょうけれど、その行為が如何に無駄であるかは、よくご存知のはずですよね」
「それはどうかな」

 立ち上がった——天空から吊り下げられた、と形容するべきかもしれない——シェイヴィは、私の横をふらりと通り過ぎてゆく。無音の足音はすぐに止んだ。

「たとえば、この世界に『彼』がいたとしたら、クエルクスさまはどうする?」

 背中越しに投げかけられた問いが、突如として私の身を、容赦なく、惨たらしく、突き刺した。執拗に抉られるような、耐え難い痛み。眼を伏せたくなるような、限りない絶望!

「サナシアがそう望んだんだ。だから僕は、彼女の望みを叶えてあげただけ。どう? 管理人っぽいでしょ」

 発作的に振り返った私に、青年は横目で、恰も嘯くように笑う。このとき、私は思い知った……いえ、思い出した。天使は悪魔の真似事が得意であり、むしろ天界に住まう無色な彼らこそが、本当の怨念を存分に理解して立派に操れる、ということを。尚且つ、その悪行をいたって純朴に、着実に遂行してゆくということを。

「あの青年が彼女にしたことを、お忘れですか」

 束の間、正常な意識を抜き取られた私は、彼の胸ぐらを掴んでいた。日傘ははらりと地に落ち、白光を遮るお守りを失った青年は、無気力に垂れ下がっている。私に突き放される可能性に対して、興味が湧き上がらない証拠だった。

「ちゃんと覚えてるよ」
「では何故、このようなことを」

 返答は安直で、透き通っている。私は冷静を保ちたい一心で、振り絞るように尋ねた。するとシェイヴィは、そこはかとなく楽しげに、端正な口元を緩める。

「彼女、どこかの誰かさんそっくりで、とても頑固者でね。そのせいで望みが揃わなくて、ここは未完成なままだった。でも、やっと完成する。ようやく夢が現になるんだ」

 ホワイトガーデンに招待された者は、皆がそれぞれの望みを抱えてやってくる。私やシェイヴィのように、手を引いた側は言うまでもない。一方で手を引かれた側は、この箱庭の意志と同化するように、記憶を幸福そのものに改竄される。夢のような世界が現であると信じ込み、隣り合う相手を「最愛の人」だと思い込ませるように。それは、絵空事の少女が恋人を演じ、傀儡の男が王子を偽り、自然物である私が家族のフリをする、などという浅薄な行為。
 神々は、あるべき姿を破壊した私たちを、永久に罰するだろう。けれど、構わない。たとえあの子を騙してでも、私はあの子に生きていてほしかった。彼女自身も、そう願っているに違いないのだから。
 ——そのはずなのに、あの子のせいで未完成なままだった、とは?
 ふざけたような言い振りで薄ら笑った、彼の本心を理解することができない。その言葉では恰も、彼女が生きてゆくことを、拒んでいるよう。私たちとの日々ではなく、あの、穢らわしい青年との、たった一夜を望んでいる。そのような意味に、なってしまう。
 猛々しい風が、肌身を削るように吹き荒れる。足元は既に、水浸しになっていた。はためく長いヴェールの暴動が、耳の奥にまで鳴り響く。顔面を雨粒に襲われ、白髪が暴風に巻き込まれ、空が墨色に蠢いてもなお、青年はびくともしなかった。彼にとっての宿敵は太陽であり、その目映さを攫う悪天候ほど、都合のよいものはなかったのだろう。

「彼と両想いになれて、サナシアも喜んでるはずだよ」

 愛を持つ全能な創造主のような微笑を、かくも無感動に浮かべられるのだから。

「あの子がそのようなことを、望むはずがないでしょう!」

 轟然たる雷鳴が、仰々しく叫んだ。曇天は青年の味方だが、我が眷属である稲妻は恐怖の体現に他ならない。闇を切り裂く雷の閃光が、私と彼を黄金色に照らす。そうして、青年の顔つきが、はっきりと映る。

「押し付けがましい」

 潔白は、無を孕んでいる。その虚しさが血を流して、とうとう産み落とされたとき。私の眼に焼き付いたのは、そう、明らかなる死相だった。

「私の手で彼を殺します。貴方は無垢で無知すぎた。私はいつでも、この箱庭を破壊することができるというのに」
「いいや、貴方にはできないよ」

 ぶら下がっていた青年の身体が、とろとろと、徐に起き上がる。まるで、墓場から死体が蘇ったようだった。彼は、胸ぐらを掴んでいた私の手首を、柔らかに握り締める。あまりに細すぎる指先は、ガラス片さながらの冷たさと刃先の鋭さを、私に奥深く染み込ませた。

「神や世界なんてものが、僕の想いに敵うはずがない」
「……貴方……」

 敵意など、端から渦巻いていない。この青年は、何も恐れてなどいない。彼は己が理の支配者であると、些かも疑っていなかった。万物からの愛情を、信じてなどいなかった。
 それは、許されざる認識。我々は人の子の善きも悪きも、丸ごと包み愛している。新たなる理想郷を創造するために、一切の手段を選ばぬ青年であったとしても、私たちの信念は変わらない。このことだけは、何としてでも伝えてやらなければならない。それが我々の、誇り高き存在意義なのだから。

『……たすけて。助けて、クエルクス!!』

「……!」

 泣き叫ぶ声が大地を伝い、私の元に届いた。あぁ、ラセルティリア! あの子が危機を訴えている。即ち、異常を察知したということ。
 ……いえ、もう始まってしまっている。私たちにとっての、最悪の事態が。

「さぁ。早く行って、その目で確かめてみて」

 力の抜けた私の手を解き、シェイヴィが言う。

「さよなら、クエルクスさま。もう二度と会えなくなっちゃうし、最後にこれだけ伝えさせて」

 ——貴方は嫌になるほど、優しい人だった。

 私の目の前に、あの青年の姿はなかった。吠えることに疲れ果てた空からは、しとしととうら寂しい雨滴が降り注ぐばかりだった。
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