Chapter2:Dreams and reality

25 世界で一番


 頭が柔らかさに沈んで、すべすべとした質感が肌を擦る。心地いい冷たさだ。宙にはお星様やお月様のモビールが、ゆらゆらと体を揺らしてる。どこか、退屈な靡きだ。

「久方ぶりだな」

 隣から声が聞こえた。それは気高く、凛とした音。

「そうですかね? ユーちゃん」

 ころりと横を向くと、可愛い女の子がそこにいる。はっきりとした黒色のドレスを我がものにして、大きな瞳に淡い暁色が選ばれた少女。いつも通りだ。彼女は期待を裏切ることなく、あたしをここで待ってくれてる。

「何かあったのか」
「特にありませんよ」

 生きてる限り何もないだなんてことはないけど、能天気を装って返してみる。今、この子に話したいことは浮かばなかった。それよりも、明日のことで頭がいっぱいだったから。
 あぁ、胸がドキドキする。この高鳴りは、あたしと彼のもの。出会った瞬間から、あたしと彼は恋の共犯者なのだ。部外者が明かせるものなんて一つもない。埃が入る余地だって、どこにもない。

「ミラージェン」

 ユーちゃんがあたしの名前を呼ぶ。彼女はあたしの手をきゅっと、おまじないを込めるみたいに握る。

「此処にもっといてほしい、と私が言ったら、お前はどうする?」

 だけど、少女の柔らかい唇が解き放ったのは、固く縛ったはずの結び目の綻びを告げる、血も凍るような呪文。

「あたしたちはいつでも会えるじゃないですかぁ」

 咄嗟に笑顔を装備する。表面は繕えた。問題は内側で繰り広げなくちゃいけない孤独な談義だ。
 実現できないお願いを、ユーちゃんがしてきた。生きる世界の違うあたしたちには、限られた時間を共にすることしか許されてない。ここは夢の中なんだから、あたしが目覚めれば必ずお別れはやってくる。あたしは全人類が認めるであろう寝坊助だけど、王子さまを待つお姫さまみたいにずっとは眠っていられない。……こんな簡単な仕組みを、賢いユーちゃんが見逃してるわけがないのに。

「……そうだな。じゃあ、こうしよう。貴方は私を、現実に連れていってくれる?」

 彼女の眼差しは依然として鋭利だった。突拍子もないことを言い出したんじゃない。この子はしっかりと自分の脳で考えた上で、あたしとの対話を求めてる。
 予想外の発言だった。でも取り乱しちゃ駄目。沈黙が忍び寄る前に、彼女を丸め込める台詞を読み上げないと。

「ユーちゃんはここにいるべきなんです。夢みたいな場所で二人きり、ずぅっと一緒にいられる。こんなに幸せなこと、他にないじゃないですか」

 ユーちゃんはあたしの番が終わるまで口を挟まなかった。冷静な態度は彼女をこれでもかと好いてる。あたし側に寝返ることはない。

「それは貴方の立場だから言えることだよね。私は待つだけじゃなくて、此処じゃないところでも、ミラージェンとずっと一緒にいたいよ」

 台詞に被せることなく、かといって間延びした雰囲気を引き連れることもなく。ユーちゃんは適した時の間に、まっすぐと答えを引いた。
 なんて素晴らしいタイミングなんだろう。この子は凡人には捕らえようのない空間ですら魅了してしまうのだ。

「貴方のことは何でも分かる。心配しなくていいの。だから、私に隠し事なんてしないで……」

 主人公の明朗な主張は瞬く間に霞んでいくだろう。だって、たとえ彼女が脇役であろうと、夢のように耽美な少女の囁き声の方が、誰だって熱烈に奪い合いたくなるじゃない。

 鬱陶しい。

「きみに何が分かるっていうの」

 あたしは上体を起こして、彼女を見下ろす。それからじっくりと、華奢な手を払いのけた。

「何も知らないくせに」

 お得意の笑みは張り付けたまま。でも、小細工を施す余裕はなかった。口角が少し上がったところを画鋲で固定されてる。彼女を捉えるために、真紅の眼だって着色した。そう、ただそれだけ。各パーツには、生命力や彩りが欠落してる。
 でも、もうそれでいいの。不器用をどれだけ覆ったって、塗りたくった糊が乾燥しても滑りははみ出ていくし、手についた絵の具が落とせるわけでもなければ、自分なりに頑張ったところで完成するのは、凡庸を知らしめる汚らしさなんだから。
 結局、醜悪は暴き出されるものだ。

「皆、貴方を誤解してる!」

 飛び跳ねるみたいに彼女は起き上がる。

「貴方は誰よりも優しい人なのに……」

 まるで救われることを前提として不幸に立ち向かうヒロインのように、彼女は憂いを帯びた表情で払われた手を見つめていた。

「でも、でもね、私だけは知っているの。ミラージェンがこの世界で一番、正しい存在だってことを。貴方はいつだって正しい。だから……この手を取ってくれるよね?」

 少女の伏せられていた長いまつ毛が持ち上がって、不覚にも目と目が合う。たった数秒の動作なのに、どっぷりと釘付けになる仕草だった。
 彼女はそれを理解してない。それ、どころか、何もかもを理解できてない。だからこう易々と、あたしに手を差し伸べられるのだ。

「きみはここにいるべきなの」

 あたしはその手を握らない。極めて心優しい音色を、目の前の少女に奏でてあげるだけ。

「外には怖い人がいーっぱいいるんです。ユーちゃんなんて、簡単に食べられちゃう」

 嘘はついてない。この世界は呆れるほど獣だらけだ。円滑に生きていく手順を覚えてなきゃ、慣れない苦痛や屈辱を幾度と味わわされる。
 だけどこの子は違った。真っ白なおくるみに抱きしめられたまま育った女の子。生まれ落ちた日のままの透明を濁らせたことのない少女。彼女を印象付けるのは夜風に揺蕩うヒヤシンスのような黒色だったけど、あたしにはその色こそが絶対的な正しさだった。白薔薇のような安らぎではない。視野を一本道に狭めるような、盲目的な支配に取り憑かれるのだ。

「でも、ここにいれば安全です。誰もきみを襲ったりしない」

 天使の魔性による初めの犠牲者はあたしだった。そしてあたしの他にも、まんまと心を奪われていく人々が大量に転がった。彼らは雲の上で微笑む少女を自分のものにしようと、地上から必死ごいて手を伸ばす。本当は自分自身が少女のものになってるだなんて気がつかずに。愚かな大衆は品がなく、小さな頭の中は彼女で埋め尽くされてる。彼らは小賢しい手段を選択してでも、この子を欲しがるだろう。

「あたしが絶対に守ってあげますから」

 彼女は、どんな存在からも愛される存在だった。

「外に怖い人がいるのなら、貴方だって危ないはずだよね」

 どんな存在、という括りの中には、あたしもいる。

「あたしは大丈夫ですよ。こんなへなちょこ、誰の目にも留まりませんし」

 あらゆる存在から愛されないあたしは、きみのことを世界で一番に愛した。

「ねぇ」

 そして。

「その自分を蔑ろにする発言、もうやめてよ」

 あらゆる存在から愛されるきみを、あたしは世界で一番に恨んだ。

「私だけ守られるだなんておかしい。私だって、ミラージェンを守りたいよ」

 そんなことありませんってば。きみはあたしが守ってあげなきゃ。ちょっと手を離しただけで泣くぐらい、あたしのことが大好きなんだから。あたしがいないと生きてけない、可哀想で愛おしくて憎たらしい子なんだから。守られることが当たり前なくせに、果敢な勇者の真似だなんてしないでよ?

「貴方がしてることを私がしてはいけないだなんて不平等じゃない」

 ううん、ちっとも不平等なんかじゃない。あたしたちは一つの水の中で身を寄せ合ってたときから、既に対となる生き物だった。傑作のきみと失敗作のあたし。同じ養分を貰って育ったのに変だよね? 本来、あたしにも与えられるべきだったものは、ぜーんぶきみが横取りしていったんだよ。これじゃ生者と死者を比べたときと変わらないじゃない。酷いよね。でも、どうこう言っても仕方がないみたいだね。

「貴方の隣にいさせてよ! どうして嘘をつくの? 黙っていないで教えてよミラージェン、貴方は何を恐れて——」

 手のひらが熱い。昼下がりのベランダを裸足で歩き回ったみたい。みるみるみるみる、赤く膨れていく。

「もうずっと、嫌になっちゃいそうなの」

 また、熱くなった。ピリピリとした痛みで指が震える。まるでマグマの刻印を全面に押したみたいだった。痺れが悪化する。良い状態じゃない。そう分かってたけど、この抑えることのできない熱情が快楽的な遊戯のようで、制御機能は急速にオーバーヒートしていった。
 故障した機械の正常さを信じる人なんていないよね? こんなあたしでも、多数決で勝てるよね?

「あんたのせいだよ、分かってる?」

 分かんないよね。
 じゃあもう一回手を上げて、思いっきり。

「これ以上、あたしから何も奪わないでって言ってんのよ!!」

 この子を引っ叩こう!

 ぱちん。三回目。左頬を打つのは二度目だから、片側よりも赤みが濃くなった。ぱちん。四回目。あーあ、色白だから悪目立ちしちゃうんだろうなぁ、羨ましい。あたしの色素も吸い取ってくれたらよかったのに。ぱちん。五回目。馬乗りになったあたしを跳ね除けられないのも、体に筋肉がつきにくいからだろうね。折れそうなくらい細くて心配になるけど、無駄な脂肪もないんだから妬ましいよ。ぱちん。六回目。辿々しい「やめて」が聞こえる。壊れちゃったんだから無理なお願いだ。それなら治るまで付き合ってもらわなくちゃ。ぱちん。七回目。生暖かい何かが、あたしの手にくっついた。不思議に思って、動きを止める。生まれたての赤ちゃんみたいに腫れ上がったそこには、びっちょりと水が滴ってる。それはダイヤモンドみたいに綺麗な輝きを放ってた。

「どうしてこんなことするの……?」

 か細い呟きに、あたしは視線を投げる。彼女の顔は、あたしの手とお揃いの赤で滲んでた。唇の端が切れて血も出てる。黄色のリボンは解かれて、さらさらの髪も台無しに乱れてた。でも、この子の瞳から溢れてたのは、目映いほどに澄んだ宝石だった。ぽろぽろと価値ある結晶を生み出す光景といったら、それはもう見事なもので。

 あぁ、そうだった。涙に溺れて瞳を潤ませる方が、羨ましいくらいに情けなくて可愛いって、他でもないきみが教えてくれたんだった。

「どうしてかな?」

 どんな顔色でこの子を殴ってたかだなんて、分かりきってる。彼女が泣いてるとき、あたしは必ず、破壊衝動の抑えられない怪獣になるの。でも、今は人間に戻って、この子に伝えてあげなくちゃ。あたしは彼女の耳元に、そっと近づいた。

「昔からずっと、あんたなんていなければよかったのにって、願ってたからだよ」
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