Chapter2:Dreams and reality

24 君の望みを叶えるために、僕はいる


 只今、あたしは俯いてる。ガーデンチェアの背もたれに寄りかかることなく、体はみしっと硬直してた。肩がぐっと顔に近づいて、握り締められた拳は太ももの上で土下座をしてる。
 丸まった肩甲骨に痛みが溜まってきた。怠そうに皺を作るルーズソックスにうんざりする。構ってちゃんが声を上げるみたいに爪が手のひらに食い込む。なんだか全部嫌になってきた。

「さっきはその……はしゃいじゃってごめん……」

 はしゃいじゃって、の詳細を探るのは勘弁してほしい。思い出すだけで、胸元のサングラスを叩き割りかねないから。
 だって、突然抱きついて。低予算な映画でもお目にかかれない台詞を吐いて。馬乗りになりながら幼稚にキレて。あぁもう、なんで思い出しちゃったんだろう。勝手に白状してて馬鹿みたい。本当に、恥ずかしい。

「よかったら丸ごとなかったことにして……」

 情けなく許しを乞う。無茶で傲慢なお願いだ。でも、滑稽なくらい卑怯だったとしても、これしかない。両手を組む代わりに、ぎゅっと眉に切願を込めた。

「しないよ」
「わーん!! してよ!!」

 シンプルな却下をぶつけられて、あたしは究極に打ちのめされる。鋭く明確な一撃がやってきて、防ぎようもなくおでこにぶつかった。これはあれだ、デコピンの威力とかなり近い。ユーちゃんのとはレベルが違う。
 急所を狙われたせいで、勢いよく顔を上げてしまった。あたしの視界には、机の向こう側に座る彼がいる。彼はあたしの懇願を聞き受ける気なんてさらさらないように、じっとこちらから瞳を離さない。

「僕は嬉しかった」

 絵画が動き出したのかと思って、びっくりしてしまう。静止する彼は、美しさを一から計算して作られた、高価な美術品みたいだったから。
 だけど、そんな彼は小さな唇を広げて、言葉を紡ぐ。そして――

「ミラージェンから抱きしめてくれるだなんて、まるで夢みたいだった」

 優しく、微笑んだ。
 この人は、生きてる。一人の人間として、儚く、一生懸命に。
 なんて綺麗な人なんだろうって、思った。不意に胸が、じわじわと熱くなって。でも、この感動の湧き上がる感覚は、初めてじゃなくて。未解決の想いを抱えるのは、どうにも気持ち悪くて耐え難い。
 それに、どんな反応を返せばいいのかも分からなかった。君がいたら、あたしはいつだって飛び込むよ。離れ離れになってしまったとしても、疑う余地なんてないはずなのに。
 彼はあたしの気持ちを信じてないわけじゃない。それは知ってる。なら、どうして?

「よかったら食べて。僕だけじゃ食べきれないから」

 尋ねる声が聞こえて、あたしの意識は猛スピードで戻ってくる。彼は手のひらでテーブルを指していた。矢印の先を目で追う。
 そこには、真っ白なお皿に飾られたクッキーと、同じ色のティーセットが並んでる。カップの中でゆらめく枯葉の色からは、上品な香りが漂った。多分、紅茶だ。さっきまでは冷めてたけど、ちゃんと湯気が立ってる。淹れ直してくれたのかも。親切な気遣いだ。
 ……でも、あたしは紅茶が苦手で、炭酸飲料が好き。ファンタオレンジだと、尚よし。
 これまでだったら、美味しいって嘘をついて飲んでた。人の好意を無碍にするなんて、悪い子がすることだから。避けたいときがあっても、なるべくバレないように上手くやってきた。
 だけど、今のあたしは十分悪い子だ。ここまできて、良い子でいなきゃ、だなんて暗示はかけない。

「あのね。あたしの気持ちの話なんだけど、聞いてくれる?」
「うん。聞きたい」

 あたしの問いかけに、彼はすぐ頷いた。だから、その期待に応えるだけ。大きく、大きく、息を吸い込む。そして、一気に放り出した。

「あたし、紅茶飲めない!」

 どーんと、ゴングが試合の始まりを知らせる。相手に優位は譲らせない。考える隙も与えない。先行をもぎ取って、そのまま突っ走る!

「嫌いとかじゃなくて、あの茶葉特有の渋さが駄目なの。種類を変えれば合うやつもあるかもだし、砂糖とかミルクを入れれば飲みやすくなるかも……なんだけど、そもそも無理をしてまで挑戦って心持ちが失礼なんじゃないのとか、付け加えても味が変になっていっちゃう気がしちゃうわけで……」

 前半は結構良い調子だった。脳に散りばめられたワードが、後悔するよりも前にぽんぽん口から転がっていく。支離滅裂だったとしても、言いたいことが伝わればあたしの大勝利だった。
 でも、試合のクライマックスに差し掛かるにつれて、燃え上がってた気力は段々と滅入ってきて。今の自分が何を話してるのかとか、分からなくなってきちゃって。だけどお喋りな唇は閉じてくれないから、続行せざるを得なくて。
 完全に着地点を見失った。続きを語ることができない。どうしよう、絶対に取り返しのつかないところまできてるのに。でも、ここで黙りこくるなんておかしいでしょ。
 頑張れあたし、勝て勝てあたし。そう何度も言い聞かせて、震える口元をぎこちなく開いた。

「だ、だから、凄く申し訳ないけど、その〜……この紅茶は飲めない、です……」
「そっか。僕、紅茶くらいしか分からなくて。こっちこそ申し訳ないことしちゃったね。じゃあ何がいい?」

 彼はそう言いながら、あたしのカップを下げようとする。特になんとも思っていないように、普段通り平然とした様子で。

「……? まって」

 試合は中断だ。はてなマークが頭上に出現して、戦うどころじゃない。

「なんでそんなにあっさりしてるの?」
「別のもの用意すればいいだけだから」

 淡々と彼は答える。あたしは呆気にとられて、見開いた目の中に彼だけを収めてた。けど、彼は動じない。放心状態のあたしを、不思議そうに眺めてる。疑問符は、ますます巨大化していった。

「でも、きみの優しさを否定しちゃったでしょ?」

 この紅茶はきっと、彼があたしのために用意してくれたものだ。だけど、あたしは彼の丁寧な善意を拒んだ。ごめんなさい、受け取れませんって。きみの親切心は必要ありませんって。たしかに、そう発した。あたしは悪い子だから。
 でも彼は、あたしを悪い子だって人差し指を指さない。出来損ないに失望するみたいにため息をつかない。ヴィランを咎めるような眼差しであたしを刺さない。

「優しさは正しさじゃない。嫌なものは嫌って、教えてあげなきゃ」

 揺らぐことない意思を守り通して、ただあたしのそばにいてくれるだけだった。

「それで、ミラージェンは何が好き?」

 カップを右手に持つと、彼は首を傾げる。楽しそうに、青緑のインナーカラーを揺らして。
 朗らかなステップが、あたしを誘った。涼やかに伸ばされた指先を、きゅっと掴む。優雅なワルツは踊らない。ありったけの喜びを、リズムに混ぜるだけ。

「ファンタオレンジ!」

 あたしは元気よく笑いかける。すると、彼はちょっとの間視線を斜め上に集中させてから、机を人差し指で二回ほどタップした。

「これ?」

 驚いたことに、あたしの左手には小さなアルミ缶が握られている。水滴を纏ったそれをじっと観察してみると、ポップなロゴがオレンジ色に囲まれてる。間違いなく、あたしが所望したファンタオレンジだ。

「わぁ! うそ、どこからきたの? 凄い!」

 くるくる手首を回してジュースの実在を実感しながら、興奮を隠し切れずに歓声を上げてしまう。だって彼は、紅茶を嗜みながらもう片方の手でテーブルを叩いただけ。

「きみってもしかして、魔術師だったりする?」

 サーカス団の人にでも見つかったら、有無を言わせず連れ去られてしまうだろう。ここにいたのがあたしでよかった、だなんてほっとしちゃう。そのくらい、幻想的な出来事だった。

「君の望みを叶えるために、僕はいるから」

 まっすぐに唱えられた呪文が無垢をなぞる。迷いない発音。宿命のように力強い響き。きらりとささやかな魔法は灯って、やがてその輝きはあたしの頬にキスをした。雪の国の妖精みたいにはにかんだ光が贈ったのは、あたたかいと表現するには抱えきれない熱で。分かりやすく、みるみると、あたしの顔面は真っ赤っかに染まっていった。
 相変わらず、彼は幸福そうな笑みを絶やさない。追加でおまじないを歌われてしまえば大変なことになる。そう、思いっきり爆発する。

「あっああああたしの好きな味!! きみにも、知ってほしい!」

 勢い任せにタブを引く。軽快なカシュっも味わわずに、あたしは大慌てな動作で缶を差し出した。顔を下げてたから定かじゃないけど、彼はちょっぴり戸惑ってたように思う。でも、嫌がる素振りもなく受け取ってくれた。おどおどと、面を持ち上げてみる。
 興味深そうに、だけど不安そうに、彼はファンタを両手で持ってた。自動販売機に売ってるコーンポタージュに、赤らんだ指を避難させるみたいに。子供以外でそんな持ち方する人、初めて見た。
 もしかして、怖がってる?

「あの、無理とかしなくていいからね」
「あぁ、違うよ。ジュース飲むの久々だから、変に緊張しちゃって」

 彼は左右に首を振る。それから数秒、穴の奥で揺蕩うオレンジ色の海を遠目に覗いてから、静かな所作で甘い海水を体内に注ぎ込んだ。

「うわっ」

 声量は大きくないけど、音の弾み方から彼が驚いてるってことは明白だった。彼は口元を押さえながら、顔色を怪訝に手渡す。
 彼の口に合わなかったのかもしれない。とんでもなく不味かったのかもしれない。……どうしよう。どうしようもないのに解決策を探しちゃう。でも、本当にどうしよう。
 あたしがうだうだ悩んでる間に、彼は裏側のラベルにじとっと目を凝らしてた。空洞から缶の底を凝視したと思えば、またラベルに戻って。その動作は三回程度行われた。満足いったのか、彼はやっとこちらに目線を送る。すると、疑わしい顔つきのまま、ファンタに指を向けた。

「……しゅわしゅわすぎない?」

 つんつん、と爪で缶を突く。彼の不満はか細かった。それはもう、炭酸が弾ける音色なんかと比べものにならないくらい!

「あははー! あはははは!」
「凄く笑うね……嬉しいけど」
「だってさぁ、炭酸飲んだだけでこんな弱ることある? ゲテモノ食べたあとみたいな反応だったし。あーおもしろ! ヘレンさんも同じ気持ちだったのかなぁ。そりゃ殴るか、やっぱヴィクターさんがいつも悪いや」
「ねぇ、今他の人の話しないでよ」
「きみは何と張り合ってんのよ……」

 馬鹿にしたように爆笑するあたしの態度には喜んだくせに、他人の話題を出した途端に不機嫌が眼光を尖らせた。ついでに唇も尖っていく。
 変な人。子供みたいな人。可愛い人。
 まぁ、あたしも二人きりで話してるときにされたら、なかなか腹立たしいけど。変で子供っぽいのはあたしも同じか。なら、相性はばっちりなんじゃないかって、僅かに口角が上がる。彼は再度ファンタと向き合ってたけど、もう嫌味を放つつもりはないみたいで。

「これがミラージェンの好きな味。うん、覚えた。忘れないよ」

 新鮮に刻まれていく体験とあたしの教えた好きの一欠片を、嬉しそうに、大切に、仕舞い込んでた。

「ありがとう。残りは君が飲んで」

 缶を片手に収めると、彼はあたしにジュースを渡す。彼の言動は、さながら飼い犬へおやつを与えるように素朴だった。

「エ!?」

 あたしは一文字と二つのマークで叫び声を作る。渾身の力を振り絞ったから、きっと素晴らしい出来栄えだろう。

「え?」

 だけど、彼には美的感覚が備わっていなかったのかもしれない。お手とおかわりの区別がつかない子犬みたいに小首を傾げられた。これじゃどっちが犬で飼い主かごちゃごちゃになる! いきなりどうしたっていうの。彼、若干デリカシーのなさは滲み出てるけど、察しが悪い人ってわけじゃないのに。
 お願いだから察してください、と無言で祈ってみたけど、そういえばあたしって神さま信じてなかった。いたとしても、願ったりしてやらないし。じゃあ誰に祈ったかって? そりゃもう……自分しかいないわけで。

「あ〜〜あげる!! 美味しいから全部飲んじゃって!!」

 はい、負け。流石に認める。頼れる人材がへなちょこしかいなかったんだから、仕方がないじゃん。それに、愛くるしいわんちゃんに見つめられて、勝てる人間なんている? 説明しなくても理解してくれるよね、愛犬家のみんな、そしてあたし。

「そう? じゃあ貰うね」
「うん! ごくごくいっちゃって!」

 また却下でもされたら折れるところだった。大いに安心したあたしだったけど、まだ胸の鼓動は鳴り止まない。この心臓、承認欲求の強いシンバル奏者でも住んでるの? だなんて質問してみても、演奏が終わってくれるはずもなく。このメロディが彼の耳にも届いちゃったらどうしてくれるの。

「あたしはクッキー食べてもいいですか!?」
「お好きにどうぞ。いっぱい食べてね」
「わーい!! いただきます!!」

 ならば、対抗するしかない。そう覚悟するよりも先に、あたしはクッキーを口の中に放り込んでいく。ぱくぱくぱく。胃袋へと無造作に糖質が発送されていく。プレーン? チョコチップ? ジャム入り? もう、どの味を咀嚼してるかなんて分からなかった。

「……ふ」

 息が溢れる。あたしじゃなくて、彼の口から。
 白い素肌が、砂糖菓子の詰め込まれた頬に触れた。出遅れてしまったクッキーの欠片を、彼は人差し指で優しく拾う。

「ついてるよ」

 ごくり。溜め込んだ養分を嚥下する。身体中に甘さが染み渡っていく。このお菓子の八割以上が砂糖で占められてるからじゃない。彼の囁き声と笑い声が、幸福な甘味だけで作られていた、から。
 食べかすを紙ナプキンで包むと、再度透明な指先はあたしのほっぺを摩る。両の手でふにふにと弾力を堪能するみたいに、何度も何度も柔らかに揉み込まれていく。

「ちょっ、やめてってばぁ」
「嫌って言ったら?」
「いいでしょう、我儘坊やって呼んでやる」
「じゃあ僕は頑固娘って呼んであげる」

 むにむにもみくちゃにされながら、あたしも彼のほっぺを引っ張る。薄い皮膚に肉なんてついてなかったけど、不恰好に伸びた口角にうっかりと息が漏れた。
 彼と目が合う。同時に、愉快を堪えきれずに吹き出した。清らかなフラワーアーチに、けらけらと子供じみた笑い声が響く。辺りの植物は、暗黙の了解を破らないようにと、皆が緘黙を守ってた。けど、あたしと彼には関係ない。お腹の中で暴れ回る至福を、発散しないでどうするの。
 あたしたちは生きてる。なら、いっぱいふざけ合って笑っていようよ。これからもずっと、二人きりで。
 彼は一頻り肩を揺らしたあと、落ち着きを取り戻すためにお腹を撫で付ける。はぁ、と満ち足りた呼吸を落とす。

「面白いくらいそっくりなんだから」

 どこか呆れたみたいに、彼は切なく呟いた。
 ……なんのことだろう? そう思って、あたしは声をかけようとした。でも彼が、こちらにふわりと笑むものだから、浮かんだ謎は粛々と身を潜めていく。

「ミラージェン。明日も君に会いたい。会って、伝えたいことがあるんだ」
「……! うん、うんっ。あたしも会いたい」

 頷く。あたしの好意が届くように。しつこく頷く。
 彼との明日が巡ってくることが、泣いちゃうくらい嬉しい。また今日みたいに、くだらないことで笑い合えるのかと想像するだけで、耳が熱くなっていく。今すぐにでもスニーカーを脱ぎ捨てて、靴下を放り投げて、走り出したい気分だった。
 彼があたしに伝えたいこと。妄想してみる? してもいいけど、あたしは鈍感すぎるヒロインなんかじゃない。だから簡単に予想できた。

 あたしはまだ彼に――「好き」って、一度も言ってもらってないんだから。

「君の家に行くよ。それまで待ってて」
「あ……ここ、でもいい?」
「ミラージェンがそう望むならいいけど……」

 あたしの家も悪くない。ずぅっと独りぼっちだった。でも、赤い糸の先を信じて駆け抜けてきた。そして、やっと、きみと出会えた。
 もう隣の特等席に座ってくれる彼がいるんだから、元いた場所に帰るのが自然なんだろうけど……。あたしはぐいっと、宙を見上げた。
 そこにはやっぱり、純粋無垢で、健気で、愛おしい白薔薇たちが、あたしを見守ってた。相変わらず、お日様の煌めきは差し込まない。それはちょっぴり寂しいし、必死に隠そうとしてる姿も見てるだけで辛くなる。でも。

「あたし、ここが好きなの。ここがいい」

 無理に止めることはないって、感じてる。こう、自分の感情を整理するのって、想像以上に大変で。誰かに急かされちゃったら、更に混乱しちゃう。早くしなきゃ、正しくあらなきゃって、視野が狭くなっていく。
 失敗はみんなが経験するものだけど、その行動が完全なる間違いだなんて、あたしは決めつけたくない。情けなく逃げちゃう瞬間だって、きっとひたむきな努力や覚悟を背負ってる。勇気と向き合う日は、自分が決断していい。幾ら遅くなったとしても、心臓に宿るこの温度を忘れない限りは、絶対に大丈夫。
 強引に手は引かない。彼が歩み出すそのときを、あたしは待ちたい。

「だから、待っててくれる?」

 きみの持つ痛みが癒える日まで、必ず隣に居続けるって、約束するよ。

「……うん。僕は君を、待ってる」

 彼の小指と、あたしの小指が、絡まる。赤い糸がきゅっと、結ばれる音がした。
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