Chapter2:Dreams and reality

23 夢でも現でもない此処は


 ソファに腰を下ろす。横にはザレンダがいる。すぐそばに貴方はいる。己にそう言い聞かせた。

「箱庭の創始者であるシェイヴィは、とある人を救うためにホワイトガーデンを生み出し、自身もその中に閉じこもっている」

 ザレンダが語り始めると、夢のような童話に命が吹き込まれてゆく。御伽話の幕が上がるきっかけには、いつだって準備万端な不幸が漂う。悲劇が起こらねば、物語は動くことができないのだから。
 この悲愴な舞台のヒロインに選ばれた、とある人。それは――

「ミラージェン……だな?」
「あぁ」

 彼と共に、目の前に映し出された画面へ目を凝らす。白薔薇の囲むフラワーアーチ。その中に、ミラージェンとシェイヴィがいた。二人は向かい合うようにして、ガーデンチェアに座っている。

「彼女のせいであの子が不自由になっているのだと思っていた」

 彼女という単語が強調されて、私の目線はミラージェンに向かってゆく。あの子は何故だか忙しない様子で、机に並んだクッキーを頬張っていた。緊張しているのだろうか。赤い風船みたいに丸く膨らむ頬が愛らしい。

「早く解き放ってやらねばと、そう思っていた」

 口元には菓子の欠片が付着していたが、本人は気が付かぬままだった。一枚食べてはまた一枚と、クッキーは次々と消費されてゆく。そんな少女の姿を、シェイヴィは不思議そうに眺めていた。
 でも、次第に。青年の端整すぎた相好が、ゆるりと崩れてゆく。スノーボールクッキーが、口内で噛み砕かれるみたいに。嬉しそうに伸ばされたシェイヴィの指先が、ミラージェンの頬に触れる。忘れ物の砂糖を拾ってやると、彼は再び莞爾と微笑んだ。

「彼があんなにも幸福に笑うのは、きっと、本当に、久方ぶりなんだ。俺は大きな勘違いをしていた。ミラージェンは彼の呪いではなく、何よりも救いの存在だったというのに」

 微かに俯いたザレンダが落とした音色は、首を縄で吊られたように酷く苦しげだった。恰も懺悔室で彼の告白に耳を傾けるようでもある。
 たった一人の少女を救うために創られたホワイトガーデン。ミラージェンを救済せねばならない理由は不明だが、明らかとなってゆくこともある。単純に考えてみればいい。誰か一人のために創造された世界が、現実なわけがないのだ。世界とは、そんな小規模な存在ではない。己の願いだけで世が循環するだなんて、考えが甘ったるい。現実というものは、広々としていて。自由に飛び立つことができて。

 ――泣き出したくなるほどに、苦々しい。

 あれだけ切望していた現実世界に、こんなにも悲観的になるだなんて。何故? 身に覚えはないはずなのに。私はあのベッドルームから出たいと、何度も枕を抱きしめたのに。

「結局のところ、箱庭とは何処なのだ」

 造花の咲き誇る薔薇園。その正体を問う。ザレンダはこちらに首を回して、その唇を解いた。

「シェイヴィの夢の中。彼の望んだ世界こそが、あのホワイトガーデンという夢の世界だ。あの子は、夢が現となることを望んでいる」

 無で固められた彼の面持ちと相反して、私の顔面は皮膚を後方から引っ張られるように、何もかもの部位が中身を剥き出しにされていった。顰めてばかりの眉がアーチを描いて精一杯背伸びをする。気怠く圧をかけていた瞼が目玉を落とそうと必死に開く。自発的に鍵を差し込まねば空気すら通らない口が広がった。
 憶測などではない。やはり箱庭は、現の世界ではなかったのだ。ガーデンに住まう人々は、其処とは別にある真実の世界からやってきている。夢……ということは、本物の彼らは眠っているはず。
 では、シェイヴィの夢の中に他人が入ることができるのはどうして? 深く思考する。
 シェイヴィはミラージェンを助けたくて、ホワイトガーデンという世界を誕生させた。だが、空っぽの箱では息をすることなどできない。人っ子一人の願望だけで世界は成り立たない。どれだけシェイヴィが望んだとて、彼の祈りだけでは到底足りない。

「……まさか、シェイヴィの他にも、望みを持つものが」

 ザレンダは無言を返した。利発な彼はとっくの前から理解していたのだろう。私は歪んだ眉頭を押さえる。
 己だけで足りないのなら、数を増やせばいい。その通りだ。夢を具体化させるため、彼は世界に「住民」を招待した。それも、自分と同じような願いを胸に抱きし者たちを。
 ……踏み込んだことを悔やむくらい、事態は深刻だ。何故かって? 私は直面しているのだ。偽物が本物になろうとする瞬間を。夢が確立するなど、あってはならない。必ず何処かで綻びが生じる。本来の世界はどうなっているのだ? もしかしたら、現実は崩壊しているやもしれない。それでは――

 存在証明が不可能になる。

「此処は。私たちが存在している此処は、何なの?」

 ひゅっと、喉が鳴った。途端に冷や汗が止まらなくなる。寒い。震えが終わらない。
 己で発掘した疑問が、悍ましいほどに煌めいたのだ。

「……分からない」

 答えを差し出せないことに負い目を感じたのか、彼は私から視線を外した。もう、どうしようもなくて、でもしがみつかないと、どうにかなってしまうから、リボンの紐をぎゅっと掴む。髪の結び目が、きつく縛り付けられる。私の心臓の叫びを、そっくりそのまま浴びているかのようだった。

「夢でも現でもない此処は、狭間とでも言うべきかもしれない」

 狭間。心の中で繰り返す。白でも黒でもない、曖昧な灰色に満ちた場所。生も悪も判断できず、生きているのか死んでいるのかも確かめられず、己で選択することの叶わない、狭間。

「この狭間に来たときは、自然と腑に落ちた。これは俺への罰なのだと、瞬時に理解できたから」

 考え抜いた末に流れた言葉ではなかった。彼は今、ありのままを私に聞かせている。妙に落ち着いており、やけに包容的な物言いだった。まるで、不自由に囚われた此処にくることができてよかったと、安堵するみたいに。

 そんな顔をしないで。
 貴方のように正しい人間が犯した罪とは、一体何なの。

「そのような顔をしないで」

 気づけば、ザレンダは私を見つめていた。目線を逸らしていたのは、私の方だったのかもしれない。

「それだけじゃなかったんだ。だって……」

 ユゼさんと出会えた。

「俺たちの邂逅がどんな意味を齎すのかは不明だ。だが、俺たちには何か特別な繋がりがある。そんな気がしているよ」

 ほんの少しだけ、彼の瞳が細まった。真実と正解を語るこの人には似合わない、夢を信じるように幼い台詞。
 ――嬉しかった。喜びの泉だなんて、もう枯渇しているはずなのに。ミラージェンが授けてくれるものが全てだったはずなのに。私はこの不明瞭な喜びを、手放そうとは思わなかった。
 上手く言語化できない。舌がむずむずとするのに、解決策が見当たらない。だから、ザレンダの肩に寄りかかってみた。私と違って、大きく逞しい彼の身体が、せっかく隣にいるのだから。

「ザレンダ、その手帳は?」

 それは、彼が話を聞いてほしいと持ちかけた際、私に見せたノートのことだ。これまでの会話に登場することなく、ザレンダの左手で黙していたままだったため、私は尋ねることにした。彼は私の頭に軽く体重を預ける。そして、細く息を吐いた。

「父の日記」

 さながら「秘密だよ」と微笑むように静謐な答えだった。ザレンダは私にも見やすい位置――丁度互いの間だ――に手帳を引き寄せる。

「俺に与えてくれたわけではないよ。置いていった、もしくは忘れていったんだ」

 彼は真紅に彩られた表紙を撫でた。だが、その日記とザレンダには、薄く透明な壁が隔たれているようだった。厚みは役に立たない。重要なのは、中にどのようなものが詰められているのか、である。それに察することができるか、できないのか。そこが些細な分かれ道なのだ。

「もう、あの人にとっては過去のものとなってしまった、ただの日記帳。でも俺はこの数十年間、一度も中身を開いたことはない」
「……どうして?」
「選択を恐れているから」

 もうザレンダは、日記と目を合わせてはいなかった。ただまっすぐと、紙芝居劇を眺める。

「箱庭はまだ未完成なんだ。完全する前に壊すべきだと確信していた。破壊は容易い。あの子の耳元で、夢から醒めろと囁くだけで事足りるだろう。現実から目を背けるなと、現実を突きつける。たったこれだけだった」

 花園にどれほどの望みが集められているのかは分からないが、あの場はまだ世界として確立してしまったわけではないらしい。束の間の安息を得る。だが、本当に束の間だ。
 なんせ、この物語の悪役は舞台から降りようとしている。このままでは、ホワイトガーデンは完成してしまうだろう。破壊者がいなくなれば、平穏は永久に保たれる。
 ここで今一度、ザレンダと初めて出会った記憶を呼び起こす。箱庭を壊すのだと告げた彼のうら寂しい調べを甦らせる。あのときから、彼は惑っていたのだ。
 シェイヴィは夢に閉じこもって、ミラージェンを守っている。それは恐らく、現実世界でその願いが実現しないからだ。詳細は分からない。私にとっても、いち早く把握しなければならないことではあるが、ザレンダでさえそこまでは知らないのだろう。こちらにいたっては、全く関係のない次元の話だ。未熟な想像が答えに近いと祈って思考するしかない。
 要因も掴めぬままであるザレンダからすれば、大切なシェイヴィの自由を奪ったミラージェンは、さぞ呪わしい女だったに違いない。だが、だからといって夢を壊すことが、シェイヴィのためになるのか。眠りの沼から手を引いたとて、目覚めたシェイヴィは幸福なのか。

「でも、お前はしなかった。いつでもできるはずだったのに。……いや、できなかったんだな」

 ミラージェンと共に過ごす彼を見て、ザレンダはこう思ったはずだ。

「シェイヴィが笑ってくれて嬉しかったから、でしょ」

 信者の懺悔に慰めは贈らない。私は神の代わりに魂を浄化する神父ではないのだから。

「貴方には、隠し事ができないね」

 俺の一番の望みだったんだ。

 困ったように、だけれど重い鎖から解放されたように、ザレンダは苦笑した。表情はさして変わらない。だが私には、掌を指すように、貴方のことが分かる。生々しく、嫌なほど、分かってしまうの。
 彼は箱庭の完成を求めた。迷いに迷い苦しんだ彼が、ようやく選べた道。人々は願いを叶え、私の愛するミラージェンは救われて、ザレンダの愛するシェイヴィも笑っていられる。そんな理想郷。現実世界は崩れてしまうかもしれない。でも、ザレンダが破壊を決断しないということは、私の杞憂である可能性が高い。そもそも現の世は彼の生きる故郷でもあるのだ。自ら死を選択するだなんて馬鹿な真似を、ザレンダがするはずがない。

「ではお前は、現実世界に戻るべきだ。もうやることなど残っていないだろう」

 ならば、別れのときだ。彼は彼の世界で、穏やかに、優しく、長く、生きていくべきなのだから。これが今の、私の望みだ。
 彼を見上げる。その大いなる暗黒色でこの身を包んでほしかった。だけれど、ザレンダがこちらを向くことはない。暗闇が照らす先は、彼の足元だった。だらしないコートの上には、長い黒髪が寝転がっている。それらはザレンダの足首に絡まっているようでもだった。

「蛇がいる」
「え?」
「これが消えることはない」

 彼がしめやかに呟く。そしてゆったりとした仕草で、私と目を見合わせる。

「箱庭が完成するまでは、可能な限り此処にいるつもりだ。ユゼさんとも、一緒にいたいから」

 あたたかな口調でそう言うと、ザレンダは私に委ねていた体を離した。肩からさらりと長髪が流れ落ちてゆく。私がその光景に気を取られているうちに、彼は日記帳をコートの内ポケットに仕舞い込んだ。
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