Chapter2:Dreams and reality

21 産声を上げてしまったあのときから


 ザレンダは何故、箱庭を壊したいのか。何故、悲しげな横顔で箱庭を眺めるのか。それは、きっと。

「シェイヴィに戻ってきてほしいから……彼の不自由を解き放ちたいから……」

 この名前は、塗り直すことのできない確信だった。視線。熱。言葉。想い。祈り。ザレンダの注ぐ全てはシェイヴィのものであり、その他の人々に分け与えられるものではなかった。
 隣にいなくとも。遠くかけ離れたとしても。この手で触れられなかったとしても。ザレンダはずっと、シェイヴィだけを想っていた。

「待て。今、私、戻ってきてほしいと言った?」

 可笑しい。矛盾している。
 あの壮麗なホワイトガーデンは、「現実」のはずだ。ミラージェンが私と別れたあとに辿り着くのは箱庭なのだから、間違いなく道理にかなっている。だがそれにもかかわらず、私の発言は世界の在り方を否んでいるも同然だった。一体、現実世界から何処に帰るというのか。

「ザレンダは、箱庭に戻らないのだろうか」

 私と彼が出会ったのは、ごく最近のように感じられるやもしれないが、実際のところは不明である。
 夢の世界と外の世界では時間の流れが異なっていた。此処には時計もなければ、朝日も顔を出すこともなく、月夜も漂ってはこない。ただ停滞する無を味わうのみ。ミラージェンと会った日だって、先日のことのようでもあれば、明日に起こりうる未来予想のようでもある。そんな無秩序な空間の一部であった私には、増加しては減少する数字の変化など縁もゆかりもなかった。
 ザレンダがいつから夢の中にいるのかは知らない。だが、私たちが邂逅してから、彼が現実世界に帰ったようには思えなかった。恰も己が化石となるのを待つように、芝居劇の前に置かれたソファに身を沈めるばかり。見えもしない足跡だって、一ミリたりとも動いていない。角度から重みまで、完全なる一致を継続させているのだった。

「ミラージェンや他の者も、ザレンダの話題を出したことはない。……誰一人として」

 ザレンダは自ら積極的に交友関係を持とうとする男ではない。箱庭内でも、ひっそりと本を読んでいたりしているのだろう。だけれど、そんな彼を放っておかなさそうな面々がいないと言えば嘘になる。ミラージェンなんて、まさにそうだろう。フレンドリーという単語は彼女のために用意されたようなものである。ヴィクターやヘレンも彼を城に招待するだろうし、サナシアも孤独な人間を無視はできなさそうだ。
 それに、ザレンダは彼らに対して、冷酷な対応だなんてしない。話しかけられれば、丁寧に応じるはずだ。うだつの上がらない男ではあるが、大衆に嫌われる性質は持ち合わせていない。

「彼のことを誰も知らないだなんて、ありえない」

 なら。

「ザレンダの元いた場所は、ホワイトガーデンではないというのか」

 もし仮にそうであるのならば、彼は戻らないのではなく、行けないのだ。目映い光に意識を委ねても、花園には招かれない。だから此処、つまりは夢の中で、遠回りにも観測をする他なかった。……だが、それでは。

「彼の実体は、彼にとっての現実世界は、何処にあるの?」

 彼らの現実は、世界は、ただ一つだけ。物事に答えが定められているのと同様、分岐することは断じてない。でもザレンダは、箱庭に足を運ぶことはおろか、存在することさえ不可能なのだと考えたとしたら。

「ホワイトガーデンは、現の世界ではない」

 ――本物の世界は別にある、ということになってしまうのではないのか。
 不自由と安堵が隣り合わせとなった箱庭。ザレンダの表現を鵜呑みにするのなら、それは、私の生きる夢と酷似している。
 もし、もしも。あの箱庭が現実世界でないのなら。夢から覚めたミラージェンの導かれる先が、同じく夢であるのなら。

「私を作り出した『夢』であるはずの此処は何処なの」

 私は誰なの?

「ユゼさん」

 背後から声がする。恐る恐る首を回すと、目先にいたのはザレンダだった。私は瞬時に落とした本を拾うと、アルバムと一緒に本棚へと突っ込む。命令するよりも早く身体が動いた。

「……何事だ?」

 後始末が終わったかのような倦怠感を背負いながら、彼に向き直る。三十センチメートル以上もの身長差から僅かでも不便を減らすため、私はぐいっと顔を見上げようとした。だが私が実行するよりも先に、ザレンダはその場に片足をつけて跪く。

「戻って、見てほしいものがある」

 私を仰ぐザレンダは如何にも真率な面持ちだった。

「どうかしたのか」
「悩んでいる。俺だけでは、判断し切れない」

 凛々しい眉は微動だにもしなかったが、彼は静かに目を伏せる。
 この男は恐らく、善良だ。誤った決断は下さない。思考の整序を乱さぬよう、繰り返し正しさを刷り込む。そしてこの工程を一人で完結させていくまでが彼だった。ザレンダは導き出した答えを、私が自分で見つけられるようにと助力はする。だが、肩を並べて正解を明かそうとはしなかった。
 そんな彼が、頼っている。他でもない、この私を。
 目を合わせているわけでもないのに、視線を他所に逸らしてしまう。
 悩んでいる。それは即ち、幾つかの選択肢のうちどれを選べばよいのか分からない、ということだ。ザレンダの力になってやりたい。逸るようなこの鼓動は容易に止まないだろう。
 でも、私は彼に手を差し伸べることはできない。私には選択権など、与えられたことがなかったから。

「私などでは、お前の望むような解は出せない」

 ぼそぼそと陰気に呟く。無力だ。無力が無力なりに旋律を奏でている。馬鹿馬鹿しい。口を閉ざしたままの方がよっぽどよかった。

「ユゼさん。今、触れても構わない?」

 不意に、ザレンダが小さく尋ねる。会話の前後に繋がりがなかったため、私は曖昧な反応を取ってしまったが、質問に流されるよう頷いた。彼は左手で私の右手を優しく握る。

「貴方と触れ合っていると、大きな安心感に包まれる。何故なのだろう。不思議で仕方がない」

 彼は微笑み方を知らない。もしくは、行方も知らぬ場所に置き去ってしまったのだろう。どれほど思いやりに満ちた言葉を発しても、停止した表情が崩れることは叶わなかった。

「貴方だけ。産声を上げてしまったあのときから、俺には貴方だけだった」

 厳粛な低音が、安らかに笑っている。そう感じたのは、きっと。

「……私もだよ」

 彼にはシェイヴィがいて、私にはミラージェンがいる。でも。暁色の瞳にはザレンダを映っていて、暗黒色の瞳もまた、私の姿を映している。そっと手を握り返すと、彼は指先の力をほんの少し強めたのだった。
 手を繋ぎ合ったままザレンダが立ち上がる。やがて歩み始めた彼の隣で私も歩む。互いの歩幅は穏やかに揃っていた。

「哲学に興味が?」

 見果てぬ書棚に挟まれた一本道を歩く中で、ザレンダが問いを投げる。所謂世間話を彼が持ちかけるのは珍しいと思ったが、先程私の落とした哲学書が偶然目に入ったのだろう。

「いや……たまたま手に取っただけだ。お前は?」
「父が専門的に学んでいた。その影響に過ぎない」

 偽ったわけではないが、はぐらかしたことも否定できないような返答を出す。そんな私とは対極に、彼ははっきりと端的に返事をよこした。良い機会だと、私は引き続き質問を重ねる。

「では絵本は」
「幼い頃に父が読み聞かせてくれた」
「好きなのか。その……哲学や絵本が」
「身近にあった、というだけだ」

 相変わらず情報量が少ない。繊細な秘密主義というよりも、個人的な話題に価値を見出せない傾向にあるのだろう。容易く想像がつく。質問の量を増やせば、なけなしにでもザレンダについて知れるかもしれない。

 じゃああのアルバムは?

 そんな私の問いかけは、本棚の中に無理矢理押し込めてしまった。

「図鑑を見かけたか」

 ふと思い出したように、ザレンダが私を見下ろす。記憶になかったため、私は首を振った。

「父は図鑑が好きだった。時折、俺にも見せてくれたんだ」
「どのような図鑑だ?」
「全般的な分野に関心のある人だったけれど、鳥や花についてまとめられたものが多かっただろうか」

 彼は掠れた文字をじっくりと解読するように語る。汚損を修繕するのではなく、歪みをそのまま読み上げるかの如く。

「ナイチンゲールと赤い薔薇」

 私を見つめる彼が囁く。真っ暗な双眼には、誰も描かれていない。そのとこしえの宇宙には、追憶の粒子だけが流れていた。

「父の好きな鳥の種類と花の品種だ。ユゼさんは知ってる?」
「薔薇は分かるが、ナイチンゲールとやらは知らん」

 呆れてそっぽを向く。ザレンダが父と言ったのはこれで四度目だ。私が聞きたいのは見ず知らずの父親などではなく、お前の話なのに。

「夜明け前に美しい声で鳴く小鳥だ。この鳥の表記されているページは、他よりもとりわけ開きやすかった」

 私の不満を察することなく、彼はありがた迷惑な解説を付け加える。鳥などに興味はない。花も同様だ。生体的な違いなら理解できるが、好悪で分別するとなると難しい。視点が変化しただけで、見分けがつかなくなる。

「お前も好きなのか」

 そろそろ会話の主導権を返してもらおう。私がしたいのは、ザレンダの話なのだから。

「俺は……特に。動植物の見分けなどつかなかったから」
「あのな」

 ガックリと肩を下ろす。繕っているわけでもなく至って真面目なのだから、すっかり困ってしまう。それに。

「また私と同じじゃないか」

 うんざりとした嘆息が漏れる。

「私たちには、何もないな」

 孤独を確かめ合うように、決して他者に侵害されないように、彼の手をきゅっと繋いだ。でも、ザレンダは先刻のように、私の手を包み返してはくれなかった。

「そうであればよかったのだけれど」

 代わりに引っ張る力が強まって、私はされるがまま彼についてゆく。

「うそ……」

 紙芝居劇を目の前にして、身動きもせず立ち尽くした。紙面に彩られた二人の男女に、意識を吸い取られる。バケツの水が頭上から降ってきたようだった。全身に張り付いた汗が垂れて、みるみる血の気が引いていく。

「どうして」

 ザレンダの手を引いて進もうとした。でも彼はそっと、私を離す。一人になった私は、朧げな足取りで画面に近寄った。
 其処にいたのは、私の存在証明をしてくれたあの子。そして――美しい彼。
 貴方を初めて見た日のことを、私は忘れられないだろう。けたたましいチャイムの音も、浮ついた少女たちの話し声も、この場を飾り立てる装飾品に過ぎない。

「どうして二人が一緒にいるの」

 透き通る横顔に添えられた白いまつ毛に潜む、青緑色の眼。世界の中心を宿したような光が胴中を射抜く。
 私はあのとき、何も知らない貴方の全てを知ったような感覚に酔いしれた。

 私の方が先だった。私の方が貴方たちのことを想っていた。
 なのに、どうして。
 どうして。

「どうしてなの!? ねぇ教えてよ、ザレンダ!!」
「彼が彼女を愛しているから」

 激しい嵐が木々を叩くように振り返った私に、ザレンダは間を置くこともなく答えた。
 こんな分かりきったことを聞くだなんて。とうとう気が狂ってしまったのかもしれない。
 土砂降りの雨は既に止んでいた。いや、端から降ってなどいなかった。私の元には雨粒どころか、太陽や雲がやってくることはない。顔を仰いでも、天空すら広がっていないのだから。

「ユゼさん。俺はこの箱庭を、壊すべきなのだろうか」

 ザレンダが問う。彼の声は、私の冷え切った脳内に恐ろしくこびりつく。

「壊さなくてはならないと、お前が言ったじゃないか」

 亡霊の吐息しか吐き出せなかった。震えるように瞠目する私から、ザレンダは目線をずらす。鋭い黒色と共に、大きな左手がコートの中を探った。

「話を聞いてくれる?」

 面を上げた彼の手には、手帳が乗せられている。それは私が隠したアルバムと同じように、強烈で深い真紅色に染められていたのだった。
12/18ページ