Chapter2:Dreams and reality

20 あたしが死んじゃうくらい


「ここまでくれば大丈夫……なはず……!」

 長い一本道を走り続けて数十分もすると、あの人の姿は見えなくなってた。
 はじめは整ってた呼吸も、流石に乱れてくる。ちらりと後ろを見ても、あの人の姿はない。あたしは安心を握りしめた。

「って、何か大丈夫なんですか!?」

 ピピッーと、校則違反を見破った笛が鳴らされて、思わずブレーキを踏む。

「逃げちゃだめじゃないですかぁってうわっ!」

 でも、そのまま動き続ける気で満々だった体に、急ブレーキは効かなかった。バランスを崩して、前に倒れていく。頭とか顔とかを打ったら危ないと思って、咄嗟に腕を伸ばした。手で踏ん張れば、怪我は避けられるかもしれないから。

「……あれれ?」

 ぴたりとした感覚が手のひらに引っつく。それも、想像より早く。怖くて瞑った目を、そっと開いてみる。
 地面と平行になるはずだったあたしの全身は、斜めの体勢を取ってた。あたしが手をついたのは、赤色のレンガじゃなくて、白色の石階段。視線を下にずらすと、目先にあるのは三段目の踏面ってことが分かった。
 ちなみに今のあたしといえば、寝起きの猫がやるようなストレッチのポーズをしていることだろう。小動物がやるから可愛いのであって、人間は話が別だ。恥ずかしくなって、急いで起き上がる。人間らしさが戻ってほっとした。手についたゴミを払って、あたしは顔を上げる。

「わぁ……」

 その瞬間、感動が押し寄せた。
 ふわりと風が吹いて、あたしの頬を撫でていったけど、瞬きをする暇なんてない。物静かな青緑色の葉っぱが、沢山手を繋いでる。規則正しく、不正解を許さないように。それらに寄りかかるのは、純情な白薔薇たち。その姿は如何にも健気だった。

「こんなところあったんだ」

 上の方に半円形を描くしなやかなアーチが、あたしを見下ろしている。
 スニーカーの中で息を潜めるかかとが、くすぐったくなった。さっさと私を動かしてって急かすみたいに。あたしは一歩ずつ、慎重に階段を上っていく。踏み場の奥行きが広いから、できるだけ歩幅を大きめに。たんたんたん。縄跳びをするみたいに駆け上がった。

「お邪魔しまーす……」

 一応声を出してから、アーチの中に入る。なんだか森の中の秘密基地を発見したみたいで、胸がどきどきした。なるべく呼吸音を小さくして、あたしは周囲を見渡した。
 ティーテーブルに向かい合うように並べられた二席のガーデンチェアがある。机の上にはティーセットが置かれてて、カップに注がれた紅茶に湯気は立ってない。オシャレなお皿に飾られたクッキーは、プレーン、チョコチップ、ジャム入り、と個性豊かなラインナップだったけど、盛り付けられた当初のままで時が止まっているようだった。ついさっきまでここに誰かいたのかもしれない。

「よいしょ」

 椅子を引いて、ぽすんと座ってみる。そこで驚いた。この椅子、あちこちが硬い。長時間このままだと、筋肉や関節ががちごちになっちゃいそう。シアターの座席に慣れちゃってるから、尚のこと相性が悪く感じてしまった。けど、すぐに離れたいとも思わなくて。お茶とお菓子の香りに包まれながら、足をぶらぶらと揺らしてみる。どこを視界に収めようかと迷いながら、あたしは空を仰ぐ。
 天井は緑が満遍なく敷き詰められていた。葉の一枚一枚が、次第に人間の手のひらみたいに見えてくる。彼らの何かを隠すような手つき。必死になりすぎたのか、力の込められた指が広がって、隙間を作っちゃってる。あたしに向けられてるのは内側だけど、外側から見たらきっと、骨がぐっと浮き出ているのだろう。

「壊れちゃう……」

 心がきゅっと、悲しさで埋もれちゃうみたい。指先に念じられた気持ちは分からないけど、でもどうか、その纏わりついた恐れがなくなりますようにって、願いたくなってしまった。
 僅かな木漏れ日が、あたしを照らす。雪が頬にキスをするようなあたたかさが、あたしに降りてくる。咲き誇る白薔薇たちは、葉の合間を縫うみたいに、真っ白な花弁を開いていくようだった。

「お日様、見えなくなっちゃうな」

 あたしが呟いた直後、前から物の倒れる音が耳に入った。重心を横に傾けて、あたしは正面を覗く。すると、床に転がるものを見つける。更に姿勢を低くして、それに近づいていった。

「あ、傘だ」

 手の伸ばしても届かなかったから、椅子から下りて拾ってみる。この場に集められたインテリアと同じように、白で染められた傘だった。上品なレースがついてて、本体もちょっとだけ重たいから、もしかしたら日傘かも。前の席にかけられてたみたいだし、ここにいた誰かの所持品なのだろう。

「忘れ物かな」

 アーチの先の景色を見つめる。今日も変わらず、太陽が燦々と輝いてた。レンガ道の赤色がほんのりと橙色になってて、花壇に植えられた白薔薇たちも日光に負けないくらい、ホワイトをきらきらと発光させてる。遠目からでも眩しい空間が、籠の外には満ち溢れてた。

「一緒に行きましょうか」

 左手で掴んだ日傘に、明るく呼びかけてみる。返事なんて返ってくるわけないけど、何も言わないだなんて素気ないし、と一人でくすりと笑う。あたしは歩を進めて、アーチの中から抜け出す。
 キャスケットが良い具合に日差しをカバーしてくれてるけど、何だか少し勿体ない気もして。だからもう一度、宙を見上げた。
 立派な円形は、有り余ったようにエネルギーを放ってる。直視するには目が疲れてきちゃうけど、ぼーっと眺めるくらいなら支障はない。ギラギラと暴力的な夏らしさというよりも、穏やかで無邪気に微笑む春のようだった。
 でも、そう思うのは。今、あのお日様があたしに笑いかけてるわけじゃないから、かもしれない。彼の笑みを受け止めるのは、一体誰なのだろう。あたしは光に導かれるようにして、視線を下げていく。
 階段を下った先には変わらず、春めいた日の光が溢れているはずだった。でも、そこに舞い降りたのは、侘しい冬。赤レンガは真っ白に曇って、幾つもバラバラな傷跡が残されてる。白薔薇の花びらが、引きちぎられたみたいに。細長い一本のライトは、孤高の花を選ぶ。身ぐるみ剥がされて、茎だけしかない身体を、周りに晒し上げるように。

「どこにいるの」

 氷の上に、彼が座り込む。

「会いたいよ」

 俯く青年が、か細い声で呟く。

「君に会いたいよ、ミラージェン……」

 あの人が、あたしの名前を呼んだ。
 走り出す理由には、十分すぎるくらいだった。
 持ってた傘を投げ捨てて、階段から瞬く間に飛び降りる。着地に失敗したら、だなんて考えなかった。天使の羽が生えたみたいに体が軽い。もしあたしを邪魔したい人がいたとしても、やれるものならやってみろって蹴散らしてやる。こんな粗暴な言動を取る子なんて、天界から突き落とされちゃうだろうけど、勝手にすればいい。あたしが信じてるのは、神さまなんかじゃないから。

「逃げちゃってごめんなさい」

 たんと爪先が氷上に触れて、あたしは地上に降り立つ。項垂れてた彼が、ゆっくりと顔を上げた。

「あたしはここだよ」

 そう伝えると、彼は瞳を見開いて。それから、はら、はらと、大粒の涙を溢れさせた。放心して動く気配もないのに、柔い雫だけはとめどなく流れ出ていく。

 あぁ、もう。

「そんな顔しないで」

 飛びつくように、抱きついた。彼はあたしを受け止めきれずに倒れていく。それでもあたしを支えるように、そっと背中に手を添えてくれてた。繊細な指先は、悴むみたいに震えてる。
 彼の心音が、眠りから覚めたみたいに、どくどくと鳴り響く。あたしだって負けないくらい、これでもかと心臓を騒がせてたけど、彼も譲る気はないみたいで。

「抱きしめて」

 ぎゅっと、ぎゅうっと、包み込む。
 いっそのこと一つになったって構わない。あたしをきみの中に溶かしてほしい。

「あたしが死んじゃうくらい抱きしめて」

 もう二度と、赤い糸が解けないように。

「……嫌」

 ぼそりと、彼の我儘なくらいに甘い声が、あたしの頭上で囁かれる。

「君が死んじゃったら、僕も死んじゃうよ」

 彼は苦笑しながら、なめらかな心地で死を告げた。そして、華奢な手のひらがあたしの頭を包んで、ほんの少し強引に、ぐっと彼の元に引き寄せられる。彼は段々と生気の籠っていった腕の中に、あたしを閉じ込めた。力の限り、命懸けで。
 きっと彼は、あたしと同じことを歌ってる。「今なら死んでもいい」だなんて、そんな馬鹿みたいな恋歌を。

「きみが悪いんだよ。なんであたしのこと避けてたの?」

 わざと語気を強めて、彼の肩に顔を押し付けながら尋ねる。逃げたあたしにも非はあるけど、そもそも彼が姿を現さなかったことより始まったすれ違いだ。あたしは湧き上がる歓喜を悟られないように、面倒臭く拗ねた口調を見せつけた。

「……避けてなんかないよ。まだ、こうして会う必要はなかったから」
「そんなわけないでしょ!?」

 つい、大声を出してしまった。勢い任せに上体を起こしたあたしを、彼はちょっぴり驚いたように見上げる。何にも分かってないような表情だった。

「じゃあ、わざわざ毛布かけにきたりしないでよ。おやすみとか、優しく声をかけたりしないでよ」

 悲しい、というか、ムカつく。それはもう、滅茶苦茶に腹が立った。この再会ですら、まるで他人事みたいに彼は語る。自分の行動は最善だって疑わない眼差しの清廉さに、苛立ちがぐつぐつと煮込まれていった。

「目が覚めたとき隣にきみがいないことが、あたしにとってどれだけ辛いことなのか、知らないでしょ……」

 ずっしりと、首元が重くなる。あたしは逆らえなくて、徐々に項垂れていく。そしたら、嫌でも彼が視界に入って。でも、そっぽ向くこともできなくて。
 今のあたし、絶対に可愛くないのに。この人には、可愛いところだけ焼き付けてほしいのに。

「知ってるよ」

 弱々しく、青緑色が細まる。それは、優しい慰めのようで。だけどどこか、激しく刻みつけられた共感のようでもあった。

「嘘つけ。きみには絶対に分からない」

 首は振らない。その代わり、一直線に感情をぶつけるだけだった。なのに彼は、清らかな笑みを崩さない。

「ごめんね。だけど、嘘じゃないんだ」

 信じてもらえるかは、分からないけど。
 付け足された言葉に、深い意味はなかった。念の為と添えられた、予防線に過ぎない。そこに期待なんてものは含まれてなくて、でも、諦めというには慣れ親しんだフラットさが、彼のベースになってた。
 穏やかに話す彼の頬に、一筋の汗が垂れていく。透明な水滴に透けるのは、色づいた赤色。純白な彼には似合わない、熱の宿った恋の色。

「まって」

 咄嗟に彼の前髪を上げて、おでこに左手を重ねる。そこは白紙の表面のようにひんやりとしてた。

「熱、はない……っぽい」

 安心して息が漏れる。大事な書類にインクを落としちゃうみたいな危機感だった。
 彼のことで頭がいっぱいになってたけど、実際は自分のことで手一杯で。浅い呼吸も、汗ばんだ肌も、ほんのりと紅潮した頬も、ロマンス的な演出だと勘違いしちゃってた。
 あの燃えたぎる太陽が彼の身を炙って、ひしひしと一途に迫ってた。淡く白い煙しか吐き出せずにいるような彼は、逃げることもできず脆い結晶が消えていくのを待つしかなかった、だなんて。
 ここに座り込んでたときから、彼はずっと苦しかったんだ。なのに、あたしのことを探して、こうやって抱き返してくれて。
 あたしのために、どうしてここまでするのって、聞きたかった。でも、目の前にいる彼が、本当に死んでしまう気がして。彼はあたしに、また優しく微笑むだけなんだって、そういう予感がした。

「ちょっと待ってて、日傘取ってくるから……」

 一先ず、傘を持ってこよう。あれはこの人のものだろうから。投げ捨てちゃったことはあとで謝るとして、今は急ぐことにした。あたしは腰を上げて、踵を返そうとした。でも、脚は思った通りに進まなくて。背後を振り返ると、上半身を起き上がらせた彼があたしを見つめてる。色白な手に、あたしの健康的な肌色の手を掴みながら。

「いらない」
「え?」

 あまりにも淡白な返答に、あたしは疑問を浮かべてしまった。呆然とするあたしを置いて、彼は続きを紡ぐ。

「ミラージェン、もう寒くない? 君の頬や指先が凍えて、赤くなったりしてない? 吹雪が押し寄せて、君を攫おうとはしてこなかった?」

 握る手の力が微かに強まったと思えば、萎れるように弱まって。小さな子供が思い悩むような行為を、彼は何度も繰り返す。
 ぷつりと糸が切れたら、雪崩みたいに全てが壊れてしまう。せっかくこうして巡り会えたのに。なのにどうして、そんな不安で堪らないみたいに心を曇らせるの。

 あたしはきみの、運命の人のはずなのに。

 寒かったことなんて、花園にいる限り感じたことはない。思い当たるとしても、あの映画の内容くらいだ。でもあれは、たまたま画面の中に映っただけの、存在しない世界の物語。無駄に感情移入しやすいあたしが、錯覚を起こしただけ。だから。

「ここはずっと、あったかいよ」

 彼を覆う灰色を拭えるようにと、あたしはあるがまま飾らずに答えた。周りの白薔薇たちも、あたしに同調するみたいにゆらりと靡いてる。それらの創造主のように美しく気高い青年は、愛しき我が子から守られるみたいに囲まれてた。

「よかった」

 無垢な子供たちと共に、彼が綻ぶ。心の底から、無邪気に喜ぶみたいに。
 気がつけば、彼の手はあたしから離れてた。
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